「誰が好きなの」
「ちょっとマイナーだけど、中井英夫の『虚無への供物』に出てくる奈々村久生。美人だし。粋だし。知ってますか?」
「知ってるよ。しかしあの女探偵は結局事件を解決できなかったんじゃなかったっけ」
「そこが問題なんですよねえ」(p.112)
奥泉光の旧作(1991年)。中井英夫の『虚無への供物』を踏まえたアンチ探偵小説的な構造に、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』みたいな「学生運動世代の総括」を織りまぜたような意欲作で、結構愉しんで読めた。「小説内小説」の挿入に地元の伝説、毒茸の幻覚といった多層構造を重ね合わせて、推理=妄想がさらに物語を捏造していく迷宮的な語りが独特。作者はアントニイ・バークリーの『毒入りチョコレート事件』に感銘を受けたことがあるそうだけれど、あの作品の多人数による「推理合戦/多重解決」の構成をもとにして、どの解釈も否定されないまま物語が捏造されて増殖していく、といった趣向の創作を試みているようだ。
ただし全体の構想はいささか破れ気味のように思えて、実質的な主人公格「式根」の三人称叙述の章と、局外の語り手「ぼく」の一人称叙述の章が混在しているのは、何らかの効果をあげていたのかちょっと疑問を感じる。さらに、終章の入れ子構造的なメタフィクション落としはどうみても余計な補足で、読後どうも釈然としない気分が残るのも確か。本書の中盤以降で顕在化する「記憶/歴史/物語」の捏造や不確定性といった流れと、この種の「何もかも虚構かもしれない」的なちゃぶ台返しというのは、似ているようでいて必ずしも合致しないのではないだろうか。これはたとえば竹本健治『匣の中の失楽』のつまらなさにも通じるのだけど、もともと小説のなかに書かれることなんてどれも虚構に決まっているのだから、それを小説内でことさら新機軸のごとく念押しされても興醒めなだけのように感じる。物語の多元化という意味では、必ずしも好みではないものの後の『グランド・ミステリー』あたりのほうが(リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』にも通じる趣向の平行歴史もの)、メタフィクション的な腰砕けに至らず、隙のない構成で達成されていたように思った。
それでも「青春の回顧」みたいな物語の流れは、この作家の意外に青くさいところもある文章によく合っていると感じるし、「毒茸の幻覚」がたぶんドラッグ・カルチャーを暗示しているようなところも結構巧いところ。「不在のヒロイン」にはたぶん、誰の心にもあるだろう「昔の恋人」像を思いおこしながら読めばいいのだろう。
文庫版は法月綸太郎が解説を寄せているらしいので、読んでおきたい。(知らずに単行本を手にとったので解説は未読)
大森望の狂乱西葛西日記(11/07)から、SFオンラインの『20世紀SF』全作品考課表。
たまたま読んでいる二篇が人気投票1位の「しあわせの理由」と2位の「接続された女」なのだけど(なんだか妙に高確率だ)、どちらも個人的にはさほど感心しなかった。どうもSFの短編は苦手なのかもしれない。ただし両作品ともに"3"点をつけている評者もいるようなので、その配点を参考にしながらもう少し他の作品を読んでみてもいいかなとは思った。
ジェイムズ・ティプトリーJr.の「接続された女」の感想は2001/07/20を参照。いま読まれても新鮮な作品とはちょっと思えなかった。
グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」は、秀作なのだろうとは思うものの、筆致がどうも綿密すぎて『祈りの海』後半収録の作品と似たような違和感をおぼえた。この作家の小説はどれもたいてい「"自分"とは何か?」をめぐる思弁的なたとえ話になっているけれど、この作品のように環境設定の描写を手厚く積み重ねると、主人公は匿名の「自分」ではなく具体的な「他人」の存在に近くなってしまう。結果として、読者を当事者として巻き込む「たとえ話」としての魅力が薄れてしまうように思えた。『祈りの海』の瀬名秀明解説のように、それを物語的な完成度が増したと評価するむきがあるのも理解できなくはないんだけど、この人の作風の場合、話をある程度抽象的なところでとどめておくのもまた大切なことだと思うんだよな。(『祈りの海』で最初の「貸金庫」がいちばん好き、という人は少なくないだろうと思う)
wad's映画メモの『リトル・ダンサー』評がなかなか痛烈で興味深かった。まあ、こういう切れ味の鋭い批評を読むと「とりあえず観なくてもいいかな」という気になってしまうのは良くないことなのかもしれないけど。
マイケル・マーシャル・スミス/嶋田洋一訳/ソニー・マガジンズ[amazon] [bk1]
Spares - by Michael Marshal Smith(1996)
★★★
『オンリー・フォワード』『ワン・オヴ・アス』の作者の第二作。例によって、結構まじめなハードボイルド路線の主人公像と、ディック風ディストピアSFの意匠、そしてファンタジー的な大風呂敷を混ぜ合わせた奇妙な作品になっている。独特の作風で好きな作家なんだけど、先の『オンリー・フォワード』と同じく主人公の「回想」部分の挿入がいささかぎこちなくて、プロット自体の進展もだいぶそこに依存する構成になってしまっているのがちょっと弱いだろうか。これまで読んだうちでは、最近作の『ワン・オヴ・アス』がいちばんまとまっていてお薦めできる。家電や時計が喋りまくるなどのコミック的なセンスも全開で愉快だし。とまあ、これはただ単に笑える話が好みというだけなのかもしれないけど。
「スペア」をめぐる話は一種の収容所ものみたいだなと思っていたら、後半の展開はヴェトナム帰還兵のトラウマものをなぞったような様相を呈していた(ただしこの作者は英国人)。そのあたりもさすがにちょっとありきたりで新味に欠けるんじゃないかと感じる。
『このミステリーがすごい!』と『本格ミステリ・ベスト10』の本年度版が出ていたのでざっと立ち読み。
「このミス」は、首位の『模倣犯』と『神は銃弾』がどちらも感心しなかった作品なので(両方ともここでは★★評価をつけた)、どうでもよさが増している。得票を確認してみたら海外は僅差で競っていたようなので、決定打のない不作の年だったということだろうか。実のところ、1位の作品だけでいえば「本格ベスト」の『ミステリ・オペラ』と『ジャンピング・ジェニイ』のほうが良心的な結果に思えてしまった。
ちなみに、僕の現時点でのベストはこんなところ。
【国内】
1.津原泰水『ペニス』
2.奥泉光『鳥類学者のファンタジア』
3.舞城王太郎『煙か土か食い物』
4.沙藤一樹『X雨』
5.小川勝巳『眩暈を愛して夢を見よ』
6.桐生祐狩『夏の滴』
【海外】
1.アントニイ・バークリー『ジャンピング・ジェニイ』
2.ダフネ・デュ・モーリア『鳥 デュ・モーリア傑作集』
3.ドナルド・E・ウェストレイク『斧』
4.パトリシア・ハイスミス『世界の終わりの物語』
5.チャック・パラニューク『サバイバー』
6.ドン・ウィンズロウ『カリフォルニアの炎』
特に国内はミステリ度をほとんど考慮していないので(そうでないと選べなかった)、実際に投票するとしたらこんな選出はしないかもしれないけれど。国産作品では『ミステリ・オペラ』と『邪魔』あたりをまだ読んでないので、もうちょっと補完したいところ。
翻訳作品ではこのほかにも、ティム・ドーシー『フロリダ殺人紀行』、ロバート・ドレイパー『ハドリアヌスの長城』、ジョン・リドリー『愛はいかがわしく』、 チャールズ・ウィリアムズ『絶海の訪問者』、ケント・ハリントン『死者の日』など、ここに入れてもかまわない秀作が結構出ているので、決して不作というわけじゃないと思うんだけどな。
戸梶圭太/角川書店(2001.6)[amazon] [bk1]
★★★★
いや遅ればせながら戸梶圭太、いいですねえ。
はじめに読んだ『the TWELVE FORCES』は荒唐無稽なだけの漫画小説に思えて乗れなかったのだけれど(どうも最初に読んではいけない異色作だったらしい)、この作品はきわめて快調に読めた。
田舎町に都会のやくざが乗りこんできてひと騒動を巻き起こす、という大筋はいわば『赤い収穫』系列の話なのだけど、筆致が明らかに「タランティーノ以降」の犯罪映画の流れを踏まえた悪ふざけ路線になっている。テンポの速い場面転換の連続で多人数の行動を交錯させていく筋さばきは、ジョン・ハーツフェルド監督の『トゥー・デイズ』とか、ガイ・リッチー監督の『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』あたりに近いだろうか。(この本の帯にも「和製ガイ・リッチー」なる、喜んでいいんだかよくわからない売り文句がうたわれていたらしい)
作者もこの種の構成の勘所をそれなりに押さえているようで、ある場面でおこなわれた暴力行為の鬱積が連鎖してまた別の場面で爆発していたり、ある人の持ち出した自転車が何人もの人物を介して移動していったり、といった脚本的にスリリングな趣向が試されていて退屈しなかった。読者はほとんどの連鎖を承知しているにもかかわらず、作中人物にはその一部分しか見えていない、ということ。僕は映画でもこの種の脚本の趣向が結構好きなので、小説でそのあたりを再現しようとしているらしいのは興味深かった。といってもそんなに周到な構成ではないので、終盤をまとめきれず説明的な挿話を入れてお茶を濁しているのは惜しいところだと思うけれど。また、おそらく映像的なイメージをそのまま書いているせいなのか、活劇場面の説明がいまひとつわかりにくいところもあった。
ちなみに翻訳された米国作品でタランティーノ映画以降の犯罪小説として印象に残っているのが、ジョン・リドリー『ネヴァダの犬たち』、ジェン・バンブリィ『ガール・クレイジー』、ティム・ドーシー『フロリダ殺人紀行』など。本書のような小説はこれらの日本版といえなくもないだろうか。
それにしてもこの作家は「頭の悪い若者」を書かせたら抜群の説得力だし、随所のくだらない小ネタなんかも絶妙だと思う(「すてきな奥さん」には爆笑した)。人物の内面だとかを少しも掘り下げたりしないまま話を進める書法で、結果的に従来の日本のハードボイルド/犯罪ものにありがちだった自己陶酔や格好つけの鬱陶しさとまったく無縁の作風を貫いているのがすばらしい。
カズオ・イシグロ/小野寺健訳/早川epi文庫[amazon] [bk1]
A Pale View of Hills - by Kazuo Ishiguro(1982)
★★★★
カズオ・イシグロの第一長編。『女たちの遠い夏』改題。イシグロらしい静かで技巧的な小説だった。作者の出生地である長崎の町が舞台になっている。日系の作家が日本を舞台にした小説を書く、といえばむこうではいやでも何らかの異国情趣を期待されるだろうと思うのだけど、作者は冒頭の章から「自殺した娘が日系だと知ると、さもありなんと皆納得したような反応をする」といったような主人公のつぶやきを紹介して、あっさりとその種の類型をかわしてみせる。それでいて日本風の奥ゆかしい情緒もきちんと押さえているようで、「幽玄」という評語がふさわしいかもしれない。
カズオ・イシグロの作風としてひとつ特徴的といえるのが、「何を描くか」よりもむしろ「何を描かないか」の引き算的な手法で小説を構築していることだろう。本書は初期作のせいもあるのか、その持ち味がかなりあからさまに出ている作品だった。例によって、語り手(A)が昔の思い出を回想する構成の話なのだけど、Aの周囲の「現在」の事情はまったくといっていいほど解説されず、「過去」の時制にしてもAではなくむしろ別の人物(B)をめぐる挿話が主軸になる(しかもBは実のところ「Aの現在」とは何のかかわりを持っていない)。それでいて読者はその「語られなかったこと」の間隙から、Aの「過去→現在」の心情を推察することができる。これを絶妙の離れ業ととるか、これ見よがしで嫌味な技巧と感じるかは評価が分かれるかもしれないけれど(個人的には少しだけ後者の感想を抱かないでもない)、まあ、これだけ見事に徹底されているとさすがに感心せざるをえないところ。
この「何を語らないか」を主軸にした小説の構成というのは、昔の自分では「見えなかった/わからなかった/認めなかった」ことを現在の回想のなかで浮き彫りにしていく、という内容的な主題とも呼応している。これは(僕の読んだかぎりでは)イシグロのどの作品にも共通した趣向のようだ。(ちなみに、似たような構想をミステリ小説の分野で実践しているのが、トマス・H・クックやロバート・ゴダードなどの一連の作品群ということになるかもしれない)
作家論のついでにもう一点だけ書きとめておくと、カズオ・イシグロの小説にはいつも「第二次世界大戦」が何らかの影を落としている。『日の名残り』の執事の主人だった貴族は対独宥和政策に加担して糾弾されたらしい人物だったし、『わたしたちが孤児だったころ』では日中戦争勃発後の上海がおもな舞台になっている。そして本書の舞台になっている長崎の町が、戦争でどんな被害を受けた場所かはいうまでもない(作中でその点にほとんど直接的な言及をしないのもイシグロらしい)。これは作家個人の問題意識としては、自分の生国(日本)と現在の母国(英国)とがただいちど殺し合いをした戦争であるゆえの特別な思い入れがあるのだろうし、作品の内容的な観点でも、個人を超えた力に対してそれぞれいかに折り合いをつけていくか、というような主題を描くさいに「戦争」というのは格好の題材なのだろう。(ちなみに、イシグロの小説でもうひとつ「個人を超えた力」として扱われているものが「時間」だと思う)
『日の名残り』の土屋政雄訳はすばらしい名訳だったけれど、本書の小野寺健の翻訳もなかなか良くて、途中でふと英語からの翻訳を読んでいることを忘れてしまう瞬間もあった。
Two Girls and a Guy(1997)
★★★
台詞主体の舞台劇映画。ロバート・ダウニーJr.の部屋を訪れた「恋人」のヘザー・グラハムとナターシャ・グレグソン・ワグナーが鉢合わせをする。僕はほとんどこの女優ふたりが目当てで観たんだけど、どちらも台詞の多い密室劇ではちょっときついかなという感じだった。対して「いいかげんな男」役のロバート・ダウニーJr.はこういう演劇ものが得意なようで、余裕に満ちた演技。結構歌も巧かった。先のふたりもロバート・ダウニーJr.と絡むところではそれなりに安心して観ていられる(ふたりしか出ていない場面ではちょっと苦しい)。
筋書きのほうは、この三人の立ち位置が結局最後までほとんど変わらないので、ちょっとひねりがないように感じた。ヘザー・グラハム(金髪・ロング・保守的・おっとり系)とナターシャ・グレグソン・ワグナー(黒髪・ショート・進歩的・勝ち気)の人物設定はきれいに対照的なのだけど、そのあたりの絡みを脚本上たいして活かせていない。
ナターシャ・グレグソン・ワグナーは『ハイ・フィデリティ』にちょい役で出ていたときにはすごく可愛く見えたんだけど、この作品では化粧の関係なのかそれほどでもなかった。
ジェリー・レイン/常田景子訳/扶桑社ミステリー文庫[amazon] [bk1]
Frankie Bosser Comes Home - by Jerry Raine(1999)
★★★
英国トットナムを舞台にした軽妙な犯罪小説。偶然を連鎖させながら複数の人物を絡ませていく「映画的」な構成の小説で、最近読んだものでは戸梶圭太の『なぎら☆ツイスター』なんかもそんなかんじだった。残虐場面を直接描かないで話を進めるところは、何度も引き合いに出して申し訳ないけど映画『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』のテイストに近いかもしれない。結局のところプロットの転がしかたがそれほど技巧的に卓越しているわけではなくて、たいしたことは起こらないんだけど(特に警官の絡めかたがあんまり意味なかったような)、英国らしい細部で微妙にひねくれた筆致が洒落ていて、とりあえず読んでいるあいだは結構心地よかった。作者の他の作品も訳されるのなら読んでみたい。
作中人物がエルモア・レナードの小説を読みふけっている描写がかなり繰り返されるので、このあたりが作者の嗜好を象徴しているのかな。ちなみに邦題の意味は最後までわからずじまい。
ニコラス・ブレイクの『死の殻』(大山誠一郎訳/創元推理文庫)を読もうとしてみたものの、翻訳の出来がどうもいまひとつで挫折。たとえばこんな文章が平然と出てくる。
スターリングが漂わせている誇張された率直さの雰囲気はひどく移りやすくて、三世代にわたる学生たちが私生活をすっかり打ち明けてしまうことになったのだ。(p.58)
一文だけを抜き出すのも適切でないかもしれないけれど、それにしてもこの文章って意味わかるだろうか? ただでさえ作者が文学趣味の濃いブレイクなのに、この翻訳ではちょっと信用して読む気になれそうもない。せっかく現代の翻訳で初紹介作を刊行できる機会なんだから、もうちょっとなんとかならなかったのかね。
奥田英朗/講談社(2001.4)[amazon] [bk1]
★★★★
評判になった前作『最悪』にひき続いて、「小市民に転がり込む不運」もの。閉塞感のあふれる日常描写と、どうにもならない都合の悪い展開をじわじわと積み重ねて、登場人物それぞれが一線を越えて後戻りできなくなっていく過程を綿密に描き出す筆力はさすがに秀逸だった。作中人物の徒労感や苛立ちを追体験させるようなあざとい構造なので、読んでいるほうは洒落にならないくらい気が重くなってしまうけれど。特に主役のひとりである主婦の意地悪な扱いは、フランシス・アイルズの『犯行以前』なんかにも近いかもれない。これだけなら『最悪』とあまり変わりばえしないなと思っていたら、後半にちょっと意外なほどニューロティックな趣向が仕込まれていて驚きもあった。
この作家の書く話は、前の『最悪』もそうだったけれど、ただ個人の犯罪行為をとりあげるというのではなく、社会には「金」と「権力」の力学があって、それらのもとでささやかな個人の運命がいかに翻弄されてしまうものなのか、あるいは普通の人のちょっとした失敗がいかに大きな波紋を広げてしまうものなのか、といった社会システム的な視座を感じさせて興味深い。
ただ読んでいて気になったのは、本で調べたような知識をそのまま挿入しているふしがいくらか見受けられるのと(前の『最悪』もそんなところがあった)、複数人物の視点でかわるがわる同じ場面を描写する構成がさしたる効果を挙げていない、といったところだろうか。ちなみに、これはどちらも宮部みゆきの『模倣犯』にも共通する欠点なのだけど、さすがにこの作品は『模倣犯』ほど致命的なまずいことにはなっていない。
また、こちらのほうがより重要な点かもしれないけれど、終盤のクライマックスになるだろう場面で、主役ふたりの行動の説明にどちらも相当な無理が生じている。そのため、物語の緊迫感が最後まで持続していない印象を受けた。前の『最悪』の燃え尽きたような終わりかたは結構好きだったので、今回はその点ちょっと弱かったんじゃないかという気がする。
リーダビリティの高さは間違いのないところだし、普段小説を読まない人にも薦められるような庶民性があるのは貴重だと思うけれど、どこか全面的な支持はしにくい作家という感想は否めなかった。
戸梶圭太/祥伝社(2001.7)[amazon] [bk1]
★★★
『なぎら☆ツイスター』の次の作品。亡き妻の復讐のため『頭文字D』みたいな「走り屋」の世界に潜り込む「潜入捜査もの」の筋書きと思わせながら、そのうち任務や復讐はどうでもよくなってしまい、主人公はひたすら「やりてえ!」と叫んで欲望をたぎらせる、という青年漫画を思わせるしょうもない展開がこの作家らしい。本作は自動車や映画などの図版の挿入が特徴的で、この人はただ文章を書くだけでなく、やはり視覚表現の欲求が強い作家なんだろうなと思った。(そのあたりも漫画に近い)
作品の出来としては、部分的に笑えるところはあるものの、端役にまで血が通っていた『なぎら☆ツイスター』に比べると、人物造形も筋さばきの興趣も格段に落ちていて、だいぶ書き飛ばした印象が強い(まあ、読むほうも相応に読み飛ばせるのはたしかだけど)。また、『the TWELVE FORCES』と同じように「謎の富豪」が出てきて話を進めるのだけど、この種の超人的なキャラを出すと結局「何でもあり」になってしまい、かえって話の興味が薄れていくように感じた。
「ジャーロ」冬季号の新刊レビュー欄をチェック。ここはきちんと小説の読める評者がそれなりに掘り下げた作品論を交わしているので、個人的には毎回結構たのしみにしている。
今回は新刊が弾不足だったせいか、座談会ではジェイムズ・エルロイの『アメリカン・デス・トリップ』を起点にして〈ノワール〉談義が盛り上がっていた。次のような話が出ていて、どれもだいたい同感。
ちなみに〈ノワール〉というと個人的にはどうもギャングもののイメージが強いので、かたぎの人物が主人公の話を〈ノワール〉と呼んでいるのを見かけると結構違和感をおぼえることが多い。近頃は、人によって意味づけがまちまちの〈ノワール〉という言葉を使うのが面倒になってきたので、たいてい〈犯罪小説〉などの呼称で通すことにしていたりする。
奥泉光/集英社(1994)[amazon] [bk1]
★★★
個人の歴史? 形容矛盾だな。個人に歴史はない。あるのは Geschichte 物語だけさ。失したからって狼狽ることはないよ。また作ればいいだけの話さ。前後関係? 因果関係? そんなの気にすることない。時間が直線だなんて誰が決めたの?(p.242)
奥泉光のこれも旧作。無駄に知的な諧謔が冴えわたる前半の軽やかさはとても良かったのだけど、後半は例によって現実と虚構の境界がわからなくなる袋小路メタフィクション趣向になってしまい、昔読んであまり良い印象を持たなかった『プラトン学園』(1997)に近い。主人公の名前がたしか同じ「木苺」だったので(職業がいちおう教師なのも共通)、姉妹篇ということなのだろうか。『葦と百合』や『鳥類学者のファンタジア』とは違い、直近の湾岸戦争を題材に選んでいるのが、物語世界の私小説的な「狭さ」にそのまま直結しているように思えた。構造的には、『虚無への供物』を踏まえていた『葦と百合』に続いて、こんどは夢野久作の『ドグラ・マグラ』を意識しているのかもしれない。
作中の対話を少し抜き書きすると、
そうです。人は虚構の中にしか生きられない。(p.220)
しかも凄いのはだ、改竄の痕跡が何も残らない点だね。そのことにどういう意味があるのかなんて訊かないだろうね? まさかあなたは日記には「本当のこと」が書かれているなんて思っていないだろうね?(p.262)
といった言及に見られるように、他の奥泉作品でも論じられる「物語の捏造」「歴史の不確定性」の主題がだいぶ前面に押し出されている。これを支えている作中の小道具がワープロ(しかもOASIS)なのはちょっと時代を感じさせるところ。
『葦と百合』でもそうだったけれど、奥泉光の小説では、いちど語られた事象がいつまでも残って、連想ゲームのようにいろんな場面で形をあらわすことが多い(本作では「鴉」の挿話など)。これは端的にいえば、「夢の論理」にもとづいた書法なのだと思う。本書では大学教育や夫婦生活などに関する結構身も蓋もない本音が語られるけれど(他の奥泉作品でもその種の記述は少なくない)、それは読者それぞれの深層にある「夢」の回路と接続するための手続きなのではないだろうか。
Amelie(2001)
★★★★
ジャン=ピエール・ジュネ監督の新作。『ロスト・ チルドレン』などの奇妙で自閉的なセンスと、少女漫画みたいなわかりやすいラブコメ路線の筋立てが適度に溶け合って、心地よく観られる佳作だった。主人公アメリ役のオドレイ・トトゥの容貌が現実味のない不思議な可愛さなので、結果的に「とてもいそうもない変なヒロイン」に絶妙の説得力を与えている。
作中のアメリの行動をみると「手紙」「電話」「写真」など、何かを媒介しないと他人に気持ちを伝えられない人物として描かれている。もちろんこれはだいぶ誇張された人物像ではあるのだけれど、このあたりのちょっと歪んでいるけれど共感を呼ぶ細部の積み重ねが好ましかった。逆に、これらの行動原理に少しも共感できない人にはあまり面白味のない話かもしれない。
ただし映画としては明らかにナレーションを入れすぎだし、台詞も説明的なものが多い。映像の動的な流れが乏しいので、どうしても映画というより「やたら凝った紙芝居」を見せられているような気分になってしまうのは否めなかった。
Kippur(2000)
★★
イスラエルのアモス・ギタイ監督作品。中東戦争を題材にした戦争映画で、戦車の轍の跡がなまなましいゴラン高原がおもな舞台になっている。
前線の白熱した戦闘場面ではなく、戦傷者をヘリコプターで回収してまわる救護部隊の視点から淡々と戦場の光景を描いているのが特徴的。この一種のドキュメンタリー的な撮影の意図はわからないでもないのだけど、たとえば『シン・レッド・ライン』のようにアンチ・ドラマ的な作劇の緊張感が生じているわけでもなく、映画としてはどうも退屈になっているだけのように思えた。たぶん技法的なこだわりなのだろう場面の「長廻し」も、何のひねりもないまま延々と同じようなことを繰り返し撮っているだけなので、結局ただ各場面とも必要以上に冗長としか感じられず、正直なところ眠気を誘う。劇場でも半分眠っている観客を多く見かけた。(というか僕もちょっとまどろんでしまった)
Mortel Transfert(2000)
★★★★
ジャン=ジャック・ベネックス監督の新作。
フィルム・ノワール的な映像のもとで舞台劇風のどたばたコメディを展開する、という確信犯的に肩の力を抜いた佳作で、結構おもしろかった。冒頭に頭のおかしい「ファム・ファタル」的な淫婦を登場させて、ウールリッチ=アイリッシュ風の巻き込まれ型サスペンスになっていく筋書きといい、思いきり青味がかった「夜の闇」の映像の風格といい、明らかにフィルム・ノワールの定式をなぞっている映画なのだけど、主人公の行動は「死体処理コメディ」の典型そのままだったりする。フィルム・ノワール的な意匠を軽妙なクライム・コメディに転化させる趣向は、コーエン兄弟の諸作とか、あるいはカーティス・ハンソン監督の『ワンダー・ボーイズ』に近いのではないかと思った。『ワンダー・ボーイズ』ほどあからさまではないにしても、軽度のミドルエイジ・クライシスものにもなっているだろうし。
俳優陣もわりと充実していて、主演のジャン・ユーグ・アングラードはふらふらした「若中年」を見事に演じているし、前半から「死にっぱなし」のエレーヌ・ド・フジュロールは変な役だけど妙に美しい。脇役ではクストリッツァ映画常連のミキ・マノイロヴィッチが奇妙な路上生活者の役でいい味を出していた。
ミステリ的な解決のつけかたは思いのほか親切で、カウンセリング屋の精神分析医を主人公にしているせいもあって、プロットの処理が説明的になりすぎているところがあるのはちょっと惜しかった。
映画史を変革する野心作だとかでは全然ないけれど、こういう洒落た味わいの佳作は結構好き。でもあまり流行らないんだろうなあ。
Sullivan's Travels(1942)
★★★
プレストン・スタージェス監督作品。コーエン兄弟の『オー・ブラザー!』で引用されていた興味から観てみた。
喜劇映画作家を主人公にした「自己言及」的な内幕もの映画だけれど、雰囲気はいわゆるスクリューボール・コメディの典型に近い。ヒロインのヴェロニカ・レイクはあの派手な髪型(『LAコンフィデンシャル』のキム・ベイシンガーは「ヴェロニカ・レイク似の娼婦」の役だったのでさすがにそのまま)だけでなく、物語上の必然から男装をしたりもして、かなり印象に残る。ただ、主人公の喜劇作家の遍歴とヴェロニカ・レイクの登場が必ずしも有機的に噛み合っていないように思えるし、「富裕な創作者/貧しい労働者」の格差を疑わない結末のつけかたはさすがに古くささを感じる。正直なところ、歴史的な意義以上のものはさほど見出せない作品じゃないだろうか。
大恐慌を舞台背景にしている、教会で囚人とともに映画を鑑賞する(かなり重要な場面)、などの点は『オー・ブラザー!』も同様で、これらの要素はコーエン兄弟が意識的に引用したのだろう。主人公が放浪の旅に出て、いろいろあったけど結局はじめのところへ戻ってくる、というような筋書きも似通っている。
Tirez Sur Le Pianiste(1960)
★★★
フランソワ・トリュフォー監督の長編第二作。一応デヴィッド・グーディス原作の犯罪映画なのだけど、犯罪劇よりも男女の恋愛のほうが主軸になっているところは、同時期のゴダール作品『勝手にしやがれ』(1959)とも共通しているだろうか。まるで少女漫画のような心情説明が入るところは、好みの人もいるかもしれないけれどさすがに説明過剰のように感じた。過去の時系列を交錯させる構成なのかと思いきや、あっさりと解説が入ってしまうのも、ちょっと親切すぎるような気がする。
魅力的な女がトラブルを招いてしまう筋書きはありきたりだけれど、ヒロインのマリー・デュボワとニコール・ベルジェはどちらも相当に綺麗で、それだけでもとりあえず見て損をした気にはならない。
アルフレッド・ベスター/沼沢洽治訳/創元SF文庫[amazon] [bk1]
The Domolished Man - by Alfred Bester(1953)
★★★
SFスリラーの古典的作品。狂った実業家(なにしろ殺人のために新兵器を開発させてしまうのだ)と「超感覚者」の警察官が対決する。構成は「倒叙」ミステリの形式に則っていて、パーティでのゲーム中に殺人が遂行される設定も、探偵小説の典型的な筋書きだろう(たとえばバークリーの『第二の銃声』もそんな話だった)。「超感覚」を視覚的に再現した書法と、パルプ・ノワール的な歪んだ世界観が特徴的で、いわゆるサイバーパンクの遠い源流はこのあたりなのかもしれないと思った。
ただ翻訳がだいぶ古びていて、特に主人公ベン・ライクの「ならず者」風の喋りかたが苦しい(まあ、早川と創元の昔のハードボイルド系翻訳にはありがちなことなのだけど)。ちょっとそのあたりもあって、いまとなっては「現役」の作品とはいいにくいのではないかと思う。
ポール・オースター/柴田元幸訳/新潮文庫[amazon] [bk1]
The Music of Chance - by Paul Auster(1990)
★★★
ポール・オースターは世評のわりにはどうもぴんとこない作家のひとりで、久しぶりに読んでみたこの作品もやはりぴんとこないままだった。この人の作品は「何かを探そうとするものの、何も見つからないまま終わる」というような話が多いのだけど(そのため初期の作品では私立探偵小説の枠組みを導入していた)、結局それが単なるはぐらかしと区別がつかないように感じられることが少なくない。この『偶然の音楽』もそんなところがあって、たとえば途中で主人公が富豪の「人形」を盗む思わせぶりな挿話があるのだけど、この伏線はほとんど意味を結ばないまま捨てられて終わる。
財産が転がり込んだものの何も使い途がない、という空虚さはアメリカン・ドリームの終焉を映した寓話ということなのだろうか。内容的には、前作の『ムーン・パレス』(未読)と対応する作品らしいので、合わせて読むと興味深いところがあるのかもしれない。
Eraserhead(1977)
★★★
デヴィッド・リンチ監督の第一作。この人のフリークス趣味と妄想めいた疎外感、そして「悪夢をそのまま映像化する」作風が端的にあらわれている作品だと思う。「夢で見た女」が出てくるのは『未来世紀ブラジル』にも通じるところがあるだろうか。もっとも個人的には、「夢=映画」のメタフィクション的な構造を導入している『ブルーベルベット』のほうが、洗練されたふてぶてしさや作品世界の相対化を感じられて好きなのだけれど。
戸梶圭太/新潮文庫(1999)[amazon] [bk1]
★★★
多人数の絡む映画的な構成と、もつれる犯罪計画。『なぎら☆ツイスター』とだいたい似たような話の進めかたで、失敗作とはいえないけれど、後で書かれた『なぎら』のほうがさすがに良い出来になっていると思う。新たな読者には『なぎら』のほうを薦める。
これを読んでから改めて逆算すると、『なぎら』が成功していたのは、物語の舞台として架空の「ださい田舎町」を捏造していたのが大きかったように思える。映画でも小説でも、この種のクライム・コメディで肝要になるのは、登場人物のそれぞれが「事態の全貌をつかみ損なっている」ということで、それは登場人物のほぼ全員が適度に「頭の悪い」人物でなければならない、ということにつながる。そして、その設定はこの『溺れる魚』のように実在の地名や組織(東京の各地や警視庁など)を使いまわすよりは、はじめから架空の異世界を囲い込んでしまったほうが説得力を持たせやすいのではないだろうか。
カズオ・イシグロ/飛田茂雄訳/中公文庫
An Artist of the Floating World(1986)
★★★★
カズオ・イシグロの第二長編(1986年)。前後の作品『遠い山なみの光』(1982)『日の名残り』(1989)と重なる点が多いので、発表順に続けて読んでいくとまたおもしろいかもしれない。主人公=語り手である「"戦後"にとり残された画家」の立場は、前作『遠い山なみの光』に出てきた主人公の義父の設定をそのまま受け継いでいるし、これで「特殊職業もの」の性格を前面に出すと『日の名残り』の執事の造形にもつながるだろう。特に『日の名残り』とはほとんど同型の話になっているのだけど、執事の職務を軸にしたパロディ趣向の強かった『日の名残り』とくらべると、こちらの『浮世の画家』は身近な描写も多くて筆致には意地の悪さも感じられる。
カズオ・イシグロの書いた作品を読むと、とても「小説らしい小説」を読んだなあ、という気にさせられる。それは小説の叙述そのもの、語り手がどんな順番で何を語り、何を語らないか、といった選択に物語的な意味を読み取れるからだと思う。イシグロの小説はいつも、語り手が恣意的に叙述を繰り広げ、しかも自分を完全に客観視しきれていない、という構造からなりたっている(でも、そうでない人がいるだろうか?)。だから読者はいわゆる「行間を読む」ことをしなければならない。たとえばこの作品では、主人公の一番弟子だった「黒田」にかかわる肝心の詳細がほとんど語られないまま終わるのだけど、それらはところどころ明かされる断片的な情報か、あるいは主人公が自分の師匠との訣別を語る別の場面などから想像して埋めるしかない。加えて、それらの詳細をまっすぐ語らない、という語り手の迂回そのものに、過去を直視しきれない現在の主人公の態度が反映されている。それは叙述が単なる事実や心情の「説明」になってしまっているような作品とは、およそ対極にあるといっていい創作態度だろう。
と、このように書いてしまうとどうも小難しい作品のように思われそうだけれど、カズオ・イシグロの小説はたいていとてもユーモラスで愉しい。なぜなら「自分を客観的に見られない人」というのは傍から眺めていると滑稽なものだから。ちなみに、その「笑える」度でいえば『遠い山なみの光』<『浮世の画家』<『日の名残り』と、書くたびに諧謔味が増しているように思える。
2001年に観た新作映画のなかで、個人的なベスト5を選んでみるとこんなところ。
1.『アンブレイカブル』(M・ナイト・シャマラン)
2.『トラフィック』(スティーヴン・ソダーバーグ)
3.『オー・ブラザー!』(ジョエル&イーサン・コーエン)
4.『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ)
5.『青い夢の女』(ジャン=ジャック・ベネックス)
結構劇場へ足を運んだ年なのだけど、文句なしの傑作と言いきれる映画には出会えなかった気がする。首位に推した『アンブレイカブル』は知的に構成された法螺話で、個人的にはとても好みの作品。ハリウッドでこんな不敵にひねくれた映画を撮っているM・ナイト・シャマランは、きっと筋金入りのバカミス作家じゃないかと思う。
未見の作品で気になっているのは、『ハリー、見知らぬ友人』『アメリカン・サイコ』『魚と寝る女』『スパイ・ゲーム』あたり。劇場へ観に行ったなかでワースト作品は『A.I.』かな。
ついでに旧作で良かったものを10作ほど挙げておきます。
2001年に読んだ新作小説から、「このミス」形式で国内・海外ともベスト6を選んでみます。このあいだ掲げたものとは微妙に違っている気もするけれど、まあいいか。
【国内】
1.津原泰水『ペニス』
2.奥泉光『鳥類学者のファンタジア』
3.舞城王太郎『煙か土か食い物』
4.戸梶圭太『なぎら☆ツイスター』
5.沙藤一樹『X雨』
6.小川勝巳『眩暈を愛して夢を見よ』
国内作品は昨年ほとんど収獲がなくて「京極以降」の空洞化を感じていたのだけど、新しい有望作家が出てきているようで愉しみ。
1-3の『ペニス』『鳥類学者のファンタジア』『煙か土か食い物』は、どれもまともなプロットがなくほとんど文章の力だけで推進していく小説で、文章が音楽的なリズムを備えているところが共通している。特に『ペニス』と『鳥類学者のファンタジア』は元々どちらも雑誌連載の小説で、それゆえの「行きあたりばったり」感がむしろ良い方向に出ているという、何か超絶的な書法の作品。3の舞城王太郎と4の戸梶圭太はよく比較されているけれど、舞城はあくまで現代文学路線の言語志向、戸梶は映画&漫画的な映像志向の強い作家で、方向性はだいぶ異なると思う。5と6はどちらもメタフィクション技法に冴えたひねりと悪意を感じる秀作。
【海外】
1.アントニイ・バークリー『ジャンピング・ジェニイ』
2.ダフネ・デュ・モーリア『鳥』
3.グレッグ・イーガン『祈りの海』
4.パトリシア・ハイスミス『世界の終わりの物語』
5.チャック・パラニューク『サバイバー』
6.ドナルド・E・ウェストレイク『斧』
1の『ジャンピング・ジェニイ』は「アンチ名探偵もの」の到達点といっていい別格の傑作。いま読んでも全然古びていない。これを読まずして今後ミステリは語れまい、といったかんじ。2-4はたまに読んだ短編集がどれも良かったので揃えて挙げてみた。5と6はどちらも現代におけるテロリズムを内面から描いた小説といえるかもしれない。特に『サバイバー』はハイジャックの話なので時節柄洒落にならない。(前作『ファイト・クラブ』ではビルに特攻していたし……)
新作以外では、カズオ・イシグロの作品群に手をつけたのが印象に残っている。