The Boy Who Could Fly, 1986
★★★★
結論から言うと、これは『ピーター・パン』を思春期ホームドラマの文脈から語りなおした映画だと思う。「ネヴァーランド」ならぬ日常的な世界のもとで、ピーター・パンは隣家の自閉症の少年として不自由な生活を送っている。でも彼はきっとまぎれもない本物のピーター・パンなのだ、ということをこの映画は否定しない。ファンタジーの広がりを打ち消さないまま、地に足のついたホームドラマとしても手堅くまとまっている作品で、ちなみに最近の人でいえばM・ナイト・シャマラン(『シックス・センス』『アンブレイカブル』)がまさにこういう趣向の話を撮りそうな映画作家だろう。
ほとんどの場面で二、三歩先の展開が読めてしまうのは物足りないとか、宮崎駿のアニメーションを見慣れた目からすれば実写の飛翔場面は少々見劣りする、といったところは否めないけれど、「ウェンディ」役の少女ミリィ(エミリアの愛称)を演じているルーシー・ディーキンズが神々しいまでに可愛く(いやほんと)、思春期映画のヒロインとして文句のつけようがない。本作に出演のあと特に活躍していないようなのは残念だけど、正直なところこの少女を見られただけでも得をした気分だ。
Lost Highway, 1997
★★★
デヴィッド・リンチ監督。脚本にバリー・ギフォードが参加している。『ブルー・ベルベット』の作風を突き進めて支離滅裂にしたような内容の映画だった。
『ブルー・ベルベット』の感想でも少し書いたけれど、この監督は自身の「悪夢」をダイレクトに映像化しようとする映画作家だと考えればわりと理解しやすいと思う。唐突に殺人犯として告発される導入部はカフカ的な悪夢の典型そのままだし、夢のなかでは自分が別の姿をしていたり、同じ人物が別の役柄で出てくるのなんてあたりまえのことだ。そして犯罪の謎はまた解明されることなく、アンチ・ミステリ的な不条理のなかに放置される。「ギャングの親玉」「ファム・ファタル」といったフィルム・ノワール的な意匠をふたたび前面に押し出しているのは(「暗闇の映像」も多用されている)、この監督特有の「悪夢」とフィルム・ノワール的な不安や陰鬱さが共鳴したということなのだろう。
いちおう『ブルー・ベルベット』の十年以上後の作品なのだけど、主人公が若い恋人を足蹴にして年増のファム・ファタルにいれあげる展開なんかもほとんど同じ。ただこの作品はいかにも陳腐なホラー映画めいた効果音や演出が多くて、『ブルー・ベルベット』のように映像ではっとさせる説得力はそれほど感じられなかった。主演のビル・プルマンとパトリシア・アークェットも、『ブルー・ベルベット』のカイル・マクラクランとイザベラ・ロッセリーニに較べるとちょっと弱かったような気がする。
ちなみに、これと似ている映画だと思うのがコーエン兄弟の『バートン・フィンク』で、どちらも「悪夢」をそのまま映像化したような作品なのが共通しているところ。
終盤に不気味なホテルが出てくるのは、ハイウェイの運転に疲れて怪しげなホテルに泊まってしまう「ホテル・カリフォルニア」の引用なのだろうか。(そういえば『バートン・フィンク』も、カリフォルニアのホテルに泊まる話だったけれど)
ドン・ウィンズロウ/東江一紀訳/角川文庫[amazon] [bk1]
California Fire and Life (1999)
★★★★
ニール・ケアリー連作でおなじみのドン・ウィンズロウの新作。軽快でリズミカルな語り口と東江一紀の例によってこなれた翻訳で気持ち良く読ませる。
主人公のジャック・ウェイドは保険会社の火災査定人。この設定がなかなか面白くて、行きすぎた捜査から警察をくびになり民間の調査人として雇われているという、ひと昔前の私立探偵小説(ローレンス・ブロックの前期マット・スカダー連作とか)を思わせる定式に則りながら、火災の調査や保険業界をめぐる専門知識を織りまぜた一種の「業界内幕もの」みたいな構造にもなっている。この作家はニール・ケアリー連作でも、ロンドンの暗黒街や文革中国といったジャーナリズム的な題材をとりあげながら、それらを元来のファンタジー的な探偵物語の枠組みに還元するのが結構達者だった。この作品はドン・ウィンズロウのそのあたりの独特の資質を改めて感じさせる。(評判の良かった『ボビーZの気怠く優雅な人生』は、そういった社会派的な足場が全然なくて個人的には少し物足りなかった)
また、主人公の立場が企業に雇われている調査人で、さらに上司のビリー・ヘイズという父親的な保護者がついているのは、『ストリート・キッズ』などのニール・ケアリー連作の人物配置と近い(ついでにいえば、主人公が火災調査官の実習教育を受けるくだりは『ストリート・キッズ』での探偵術訓練の挿話を思い出させる)。『ボビーZ』も疑似親子の話が入っていたけれど、この作家の話でたいてい父子の関係が物語の縦糸になっているようなのは興味を惹かれるところだ。
とはいえ正直なところ、話が安易に陰謀化したり、出てくる女が美女ばかりなのは、娯楽小説の定型とはいえいささか物足りなくもないのだけれど、まあそこは東江一紀の訳業に免じてということで。ここを読んでいる人の多くにはいわずもがなのことだろうけど、「翻訳ものは読みにくくて苦手」と思っている人は、とりあえず東江訳のドン・ウィンズロウを読んでみるといいんじゃないかと思う。
Ghost World, 2001
★★★
これはたしか夏に劇場で観た作品なのだけど、ちょっと感想を書きそびれていた。テリー・ツヴァイコフ監督、ソーラ・バーチ主演の陰気な青春もの。人気コミックスの映画化らしい。
ブルース・リーおたくや勘違い現代美術講座など、随所の小ネタは軽妙でそれなりに良かったけれど、病的なまでに社会に適応できない主人公像にはどこも共感のしようがなかった。この主人公の立ち位置が最初から最後まで少しも変わらないので、映画としての筋書きは単調で起伏がない。誰だったかが『ライ麦畑でつかまえて』の少女版だと書いていたのが適切な評言のような気がする(『ライ麦畑』をいま読んでぴったりくると感じる人がどれだけいるだろうか?)。自分にどこか思いあたるふしのある人なら、心に残る「痛い」話になるのかもしれないけど。
親友役のスカーレット・ヨハンソンが北欧系のなかなか美少女で、また別の映画でも観てみたい。ブラッド・レンフロがすっかり三枚目になっていた。
1979
★★★★
長谷川和彦監督。ようやく観ました。
さすがに愉しめたけれど、やはり「おおこんな場面を実写で」「しかも東京のあそこで」といったゲリラ的な驚きが大きい映画なので、同時代に予備知識なしで観てなんぼの作品なのかなという感想も否めない。沢田研二のテロリスト教師は『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンを意識した配役なのかも。戦争の陰気な影をひきずって資本社会を呪ったような世界観は監督が学生運動系の人だからか。池上季実子の役はラジオ番組を離れたら機能させられなくなって、とりあえず退場させた疑いが濃厚。
ところで、この映画の作風にもっとも近い小説を書く作家といえば高村薫ではないかと思う。高村の描く犯罪者たちは、とりあえずなんかでかい計画をもくろむものの、結局のところその動機や目的の核心が空虚なままに終始する。女はたとえ登場してもまるで興味なさそうに扱われ、熱いドラマは男と男のあいだにしか生じない(そして「熱い」文脈も似ているような……)。犯罪者が刑事に「ひとめぼれ」する展開はたしか『レディ・ジョーカー』でもあったはずだし、『神の火』なんかはまさに原発を襲撃する話だった。
Luna Papa, 1999
★★★
タジキスタンの監督の映画。村娘の妊娠騒動を軸にしたどたばた劇で、獣や鳥がそこらを歩きまわる風景からはじまって、ジプシー系の音楽が響きわたり(当然アコーディオンも入る)、飛行機きちがいが登場するところまで、あからさまにクストリッツァの作風をなぞった田舎ファンタジック・コメディが展開される。この映画はタジキスタンの風景が美しかったからそれなりに観られたけれど、戦乱で荒れた貧乏国の映画作家がみんなこういうのを撮りはじめたら正直いやだなあ。
しかしタジキスタンがいかに田舎の後進国とはいえ、未婚の母というだけでこれほど「魔女」扱いの迫害をされるものなのだろうか。映画の落しどころも含めて、そのあたりに製作者の何か根深い現世否定の精神を感じさせる映画だった。
Bedazzled, 2000
★★★
ハロルド・ライミス監督。1967年作品のリメイクらしい。ブレンダン・フレイザーとエリザベス・ハーレイの絡む、古典的な「悪魔へのお願い」コメディ。
もう少し脚本のかっちり組み立てられた伝統的なコメディを期待していたのだけど、伏線の妙もゲーム的興趣も何もあったものじゃなく、ただひたすらブレンダン・フレイザーとエリザベス・ハーレイの着せ替えを愉しむ趣向の映画だった。主人公が「片想いの女性に振り向いてもらう」という直接的なお願いをあえて避けることによって、どうにか話が成立しているのは、ちょっと苦しいところに思える。ビデオで観たからいいけど、映画館で観ていたらだいぶ脱力したかもしれない。
ブレンダン・フレイザーは芸風の広さを見せて、喋りの物真似らしきものも結構きっちりこなしていた。(ちなみに「NBA選手」の扮装で下敷きにしているのは、たぶんレイカーズのシャキール・オニールだろう)
L'appartement, 1995
★★★
フランスの恋愛サスペンス映画。ヴァンサン・カッセル主演。お洒落映画かと思いきや「女の取り違え」や「螺旋階段」など、どうやらヒッチコックの『めまい』を意識したらしき作品だった。フラッシュバック挿入の多用や、向かいの部屋を覗き見する構図なんかも、そういえばヒッチコックの演出を連想させなくもない。また、僕はたいして予備知識がないので的確な指摘になるかわからないけれど、ヒッチコック映画のひとつの特徴として、「階段」や「窓」などを用いて建物の立体的な構造を映画のなかに活かす、というのがあるのではないかと思う。この映画はそのあたりも結構意識されているように感じられた。というわけで、特にヒッチコック愛好家にはお薦め。
全体的には、どうも映画の目的と手段が逆転してしまっているというか、「時系列の錯綜」や「一人二役」といった仕掛けを必要以上に盛り込みすぎたがために、だいぶ筋書きのほころびが出ているようなふしもあるのも否めなかった。でもそれなりに好感の持てる映画で、女優陣も良い。特に前半で多めに登場するモニカ・ベルッチは、赤い服装の似合う正統派の美人で抜群に綺麗だった。
デニス・レヘイン/鎌田三平訳/角川文庫[amazon] [bk1]
Gone, Baby, Gone - by Dennis Lehane, 1998
★★★
シリーズ第四作。前作『穢れし者に祝福を』はどうしようもない軽薄な駄作だったけれど、さすがに本作ではそれなりに持ち直している。ただやはりこの作家の限界を感じさせる作品ではあった。(それにしても、いいかげんこの邦題はどうにかならんのかね)
デニス・レヘインの第一作『スコッチに涙を託して』を読んだときに興味深かったのは、「何が正しいのかわからない」というきわめて1990年代的(?)な価値観の揺らぎを、伝統的な私立探偵小説の文脈できちんと受け止めているように思えたところだった。「悪」の根源は社会にも個人にも単純に還元することはできず、誰もが賛同できるようなわかりやすい解決も与えられない。だから探偵たちは何らかの主体的な「選択」を迫られ、自分たちの手を汚しながらも事件にけりをつけていかなければならない。
この「何が正しいのかわからない」「絶対的な正義などありえない」といった立場は、近年の娯楽小説/映画などのひとつの潮流ではないかと僕は考えていて、たとえばスコット・トゥローの『推定無罪』などの米国の法曹界ものは、法廷が真実を明らかにする場所だとは限らない、ということを前提にしたうえで現実主義者の弁護士を活躍させることが多かった。ジェイムズ・エルロイなどに代表される犯罪小説/ノワールの興隆というのも、裏を返せば楽天的な正義の物語への疑念を反映したものではないだろうか。最近でいえば、社会派の連続TVドラマ『ザ・プラクティス』や、スティーヴン・ソダーバーグ監督の映画『トラフィック』なんかにもそのような精神を感じる。
本作はそんな「わかりやすい解決が与えられない」「探偵が何らかの選択をつきつけられる」といった意味での初心に返ったところを感じられる。その点は認めるのだけど、やはりこの作家の軽薄な人物造形や会話はそういった厳しい世界観を支えられていないと思う。物語に登場するギャングや犯罪者の描写はタランティーノあたりの悪影響なのかやたらと漫画的だし、さして有効に機能していない「凶暴な用心棒」と「美人の相棒」がいつも主人公のそばに控えているのは、この探偵を特権的な立場に置いて他者への優越感をもたらすための小道具としか思えず、読んでいてどことなく気分が悪い(それにしても作中で女性がただ「美人」と賛美されるばかりなのは、小説としてひどく怠慢ではないだろうか?)。構想は評価できなくもないだけに、そのあたりの露骨な趣味の悪さがどうしてもひっかかる作家だ。
Felicia's Journey, 1999
★★★
『スウィート・ヒアアフター』が秀作だったアトム・エゴヤン監督作品。あいかわらず映像は色鮮やかで美しかったけれど、登場人物がほとんどふたりに限られていて他の人物はまるで興味なさそうな描かれかたなので、ちょっと作品世界が平板で狭く感じられた。『スウィート・ヒアアフター』のように、何気ない脇役の人物がそれぞれ特別な輝きを放って見えたりする場面はなかった気がする。それに、枯れかけた中年と田舎の少女という組み合わせは、『スウィート・ヒアアフター』のイアン・ホルムとサラ・ポリーの人物配置と似ていて新味はない。
そういえば『スウィート・ヒアアフター』の感想をそこらで探してみたところ、「時系列が複雑で筋書きを理解しにくい」というような言及を多く見かけた。たしかに時制をだいぶ錯綜させた構成ではあったけれども、「バス事故」の記憶を軸にして時間を前後しながらじわじわと進む話の組み立ては、個人的にはとても自然な見せかたに思えて何の違和感もおぼえなかったのだけどな。この『フェリシアの旅』のほうは、前述したように登場人物が少なくて『スウィート・ヒアアフター』ほど時制をいじってもいないので、そのあたりに抵抗のあった人もなじみやすいかもしれない。
それにしてもこの監督の映像はとても好きで、たとえばスティーヴン・ソダーバーグのようにこれ見よがしの凝った角度のショットを挿入することなく、地道な見せかたながら充分な個性と、そして息を呑むような美しさを感じさせるところがたいへん心地よい。
O Brother, Where Art Thou?, 2000
★★★★
コーエン兄弟の新作。銀座や渋谷は混みそうなので、あえて誰も知るまいと思われる「千葉劇場」なるところへ初見参してみた。期待通りすいていたのは良かったけれど、さすがにすごく狭い劇場で映像はちらつき気味、外の音も漏れていた。いずれにしろ、カントリー系のおおらかな風景と音楽が売りの映画なんだから、単館系でなく普通のシネコンとかで観たかったなあ。
今回の舞台は、大恐慌時代の南部ミシシッピ州。三人組の脱獄犯たちが巻き起こすどたばた劇が、マーク・トウェイン風の南部ほら話の調子で語られる。最近の米国作家でいえばドン・ウィンズロウあたりの書きそうな話じゃないかと思った。綿花農場はもちろん、聖書売りやKKKなどのいかにも南部を感じさせる社会風俗の描写も盛りだくさんで、例によってというか、南部の訛りも再現されているらしい。
秋らしく美しい風景は良かったけれども、前作『ビッグ・リボウスキ』に続いて小味の佳作で、出来はこの兄弟の映画としては安定路線の水準作だろう。セピア系の映像で「懐かしいアメリカの風景」を再現する趣向は『ミラーズ・クロッシング』の時点から完成されていたものだし、憎めない小悪党を主役にしたどたばた劇の筋書きは『赤ちゃん泥棒』の路線に近い(ホリー・ハンターも久しぶりに出演しているし)。新たな挑戦分野といえばミュージカル趣向くらいだろうか。少し邪推を書いておくと「黒人をほとんど出さない」という批判に対するアリバイ作りの意図もあったんじゃないかと思えなくもない。
主演のジョージ・クルーニーはとても良かった。ある種のアメリカ的な良心を屈託なく体現できるところは、いまどき貴重な存在といえるのかもしれない。コーエン映画おなじみの脇役ジョン・タトゥーロとジョン・グッドマンは、「常連だからとりあえず出した」といったかんじで、特にタトゥーロは今回さしたる見せ場はなし。この監督にはめずらしく「変な人物」を有効に使いきれていない印象が残った。
クライマックスで【洪水】が起こるのは、ジョー・R・ランズデールの『罪深き誘惑のマンボ』のいただきじゃないかと疑っているんだけど、どうだろうか。あれも南部ものだったし。(そのためにご丁寧な「バカ伏線」を張ってあるのがコーエン兄弟らしい)
ちなみに、プレストン・スタージェス監督の『サリヴァンの旅』(1941)からの引用を指摘している論評をいくつか見かけたので、たぶんそうなのだろう。未見なのでそのうち観ておきたい。
シリル・ヘアー/宇野利泰訳/ハヤカワ文庫
Tragedy at Law - by Cyril Hare, 1954
★★★
名作といわれることの多い作品だけどさほど感心せず。この作品の趣向は結局のところ、犯行人物の意外性に負うところが大きいのではいだろうか。これは実のところアガサ・クリスティあたりのよく使いそうな手法で、個人的にはそのあたりの意図がだいぶ早い段階から読めてしまったし、おそらくこれが盲点になるというのは多分に当時の価値観に依存したもののような気がする。終盤でもう少し説明がつくけれども、それもあざやかな読み替えというよりは、後付けでひねりだした理屈のようであまり格好良くなかった。
「英国風の皮肉」というのも、翻訳が古いせいもあるのかそれほど縦横に利いているとは思えなかった。たとえば探偵小説の形式を逆手に取るという点では近い作風といえるだろうアントニイ・バークリーとくらべれば、だいぶきまじめな作家のような印象を受ける。
ケント・ハリントン/田村義進訳/扶桑社[amazon] [bk1]
Dia de los Muertos - by Kent Harrington, 1997
★★★★
『転落の道標』の作者の第二紹介作。本の帯には「絶望」「破滅」といった言葉が踊り、またかよと思わせる堕落した男の破滅型ノワール小説なのだけど、これは結構悪くない出来だった。少なくとも『転落の道標』で辟易させられた陳腐な文章表現はだいぶ削ぎ落とされ、場面の意図的な省略がいくつか効果を挙げているなど、格段に書法が洗練されているように思える。欲望にひきずられて堕落した主人公の白人警官の肖像は、類型的といえば類型的だけれど、これだけ徹底しているとそれなりの迫力を感じる。ただし『転落の道標』もそうだったけれど、後半になっていきなり出てくる人物のせいで話の方向が変わってしまうのは、物語の構成上まずいような気もしなくはない。
メキシコ、ティファナ、麻薬捜査官……とくれば、すぐに連想するのはスティーヴン・ソダーバーグ監督の映画『トラフィック』のメキシコ・パート(ベニシオ・デル・トロ主演の)で、あの粒子の粗い赤茶けた映像を思い浮かべながら読むことになった。だからというわけではないけれど、本作を読むとこの作者はかなり映画の手法を意識した創作をしているように思える。熱病に冒された主人公の視界が歪んでいく箇所が何度も挿入されるのは、あからさまに映画を連想させる表現だし、作中の時間は二日間に限定されて、バスで町から逃げる『暁の死線』的なタイムリミットものにもなっている。とりわけ本作の後半ではそのまま映画の題名が会話の中にいくつも飛び出してきて、そのような感を強くした。主人公の独白をつづる一人称小説でなく、あくまで三人称の叙述をとっているのも、そのあたりに要因があるのだろう。ジム・トンプスンやジェイムズ・エルロイといった作家は明らかに「言語」の人だと思うのだけど、この人はかれらとは少し資質が違うのかもしれない。
1999
★★★
黒沢清監督作品。交通事故で長らく昏睡状態にあった青年が、十年ぶりに意識を取り戻して……というのは、超能力の出てこない『デッド・ゾーン』みたいな筋書き。そこに、離散していた家族をふたたび集結させようとする人情ホームドラマ風味が加えられている。
異論が出るかもしれないけれど、これは【主人公が実は幽霊だった】という系統に属する話だと思う。途中、主人公の西島秀俊の顔が暗がりに隠れる場面が目立ったのもその感を強めた。黒沢清はこの作品の前作『CURE』で、記憶を持たない殺人者というのを描いていたけれど、この監督の映画のなかで「記憶」と「死」というのは重要な主題になっているようだ。
ただこの人は、少なくとも自分で脚本を書かないほうがいいんじゃないだろうか。この作品も『回路』ほどひどくはないにしても、クライマックスの場面も含めて、わざとらしい台詞と御都合主義の展開で興醒めになるところがあるのは否めなかった。
The Whole Nine Yards, 2000
★★
ゆるい調子のどたばたクライム・コメディ。クレジット上はブルース・ウィリスが筆頭になっているものの、実質的な主役はマシュー・ペリーで、この人はTVドラマの「フレンズ」で人気のある俳優らしい。そのせいなのか、笑いどころがこの人の文字通りの「ずっこけ」に集約されてしまう生ぬるい構成で、映画ではなく米国のTVファミリー・ドラマを観せられているようだった。筋書きのほうも、恣意的に作られた「契約」を使いまわしてむりやり話を成り立たせているのが苦しい。
Nurse Betty, 2000
★★
結構期待して観たんだけどいまひとつの出来。主演のレニー・ゼルウィガーの良さで評価されているみたいだけど、彼女の魅力は映画の意図とあまり関係のないところで発揮されているような気がした。もともとブラック・コメディ風の筋書きなんだから、こういうまともな女優を使ってはいかんのではないだろうか。笑うに笑えない場面の連続で困惑してしまった。モーガン・フリーマンとクリス・ロック(ラップ風の喋りがじゃまくさい)の二人組の道中の行動を、主人公の挿話とほとんど絡められていない脚本の構成もしまりがない。平凡な市民がひょんなことからTVの有名人になってしまい云々、といった話でいえば『エドTV』なんかのほうが、それなりの皮肉が利いて良くできていたな。
それにしても『アンブレイカブル』と『ギャラクシー・クエスト』に続いてこの作品と、今年はなぜか「虚構と現実を混同する」設定の映画がやけに多いね。
「小さな殺人ばかりじゃない。戦争というものがそうなんです。戦争という言葉、行為に人間がかんじる壮快さは、誰もが持つ殺人遺伝子のせいなんです。だから、人間が人間を殺すなんて、特別のものじゃない、それほど興奮しなくてもいいんです」(p.222)
現代ものの連作短編ミステリで、例のごとく「連鎖型」の多重構成になっている。謎解きというより犯罪小説風に進む序盤は相当に期待させてくれたものの、結局『明治断頭台』ほど物語全体の意味を読みかえる仕掛けが張られているわけでもなく、鍵になる人物が誰なのかも早いうちに判明してしまっているので、全体の構想にさほどの驚きはなかった。
それにしても「戦争」の影があちこちに見え隠れして、不穏な空気をふりまいているのがやはり印象深い。
マイケル・フレイン/山本やよい訳/創元推理文庫[amazon] [bk1]
Headlong - by Micheal Frayn, 1999
★★★
ひとくちでいえば「幻の名画」もの。特に騒ぎたてるほどでもないと思うけれど、絵画の探究に図像学などの知識を絡めて、そこはかとない諧謔も漂わせた英国らしい佳作だった。実際には大した事件が起こらないにもかからわず、そこをほとんど語り口の妙味だけで読ませていく態度が好ましい。たとえばカズオ・イシグロの小説なんかにも顕著なのだけど、語り手の自己認識と周りから客観視した像にずれが生じている、というこの種の英国的な小説の基本構図を、この作品もしっかりと実践している。ただ、先の読めるネタを少し引っ張りすぎている(査定が遅延される別の絵画の値段など)のと、計画の崩しかたが性急で大味なのは、やはり作者の本領でないためなのか、いささか気にならないでもなかった。
Le Roi Du Coeur, 1967
★★★★★
フィリップ・ド・ブロカ監督。隠れた名作として定評のある作品をようやく観られた。ビデオが英語の吹替え版だったのは少し残念だけれど。
第一次世界大戦のさなか、前線の小さな町で精神病棟の人々が築き上げたささやかなユートピアを描いた映画で、これはもうほとんど奇跡のような傑作。現実を超えた何かを見せてくれるのが映画の素晴らしさなんだと、改めて実感させられる。映画を観てこんなまじめに感動したのは、たぶんエミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』以来かもしれない。
ちなみに、パトリシア・ハイスミスの短編「自由万歳! ホワイトハウスでピクニック」(『世界の終わりの物語』収録)は、この『まぼろしの市街戦』と似たような発想ではじまりながら、こうも違う方向へ持っていけるものかと感心するほど、ハイスミスらしい底意地の悪さが冴えわたるブラックな諧謔小説。というか、絶対にこの映画を下敷きにして書かれていると思う。