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▼ 2001.09



2001-09-03

『最上階の殺人』

アントニイ・バークリー/大澤晶訳/新樹社[amazon] [bk1]
Top Storey Murder, 1931
★★★★

「言いたいことはおわかりのはずです。どこから見ても単純明快な事件を、わざわざややこしくしたがっていらっしゃるのではないかという意味です」(p.142)

『毒入りチョコレート事件』の多元推理を、シリーズ探偵役のロジャー・シェリンガムひとりにやらせてみたような趣向の「迷走する探偵」もの。妄想のような推論をたれ流す探偵シェリンガムは、コリン・デクスターの「モース警部」の祖型にあたるのかもしれないと思った。ただし探偵の役割が事後的な解釈の段階にとどまるため、探偵自身の行動が事件の新たな解釈を捏造してしまう『ジャンピング・ジェニイ』(1933)ほど型破りではない。個人的にはそのあたりがいくぶん物足りなく感じられたのだけれど、結末は『ジェニイ』みたいに収拾がつかなくなってはおらず、結構きれいにまとまっているので、あるいはこちらを推す人のほうが多いかもしれない。まだどちらも読んでいない人はたぶん、年代順に『最上階』→『ジェニイ』と読み進んでみるのがいいんじゃないだろうか。

ロマンス的な興味と推理の試行錯誤の重ね合わせかたも巧妙で、たとえば「洋服屋で買物」の場面なんかは、洒落たコメディ映画みたいな風味もある。そういえばフランシス・アイルズ名義の『犯行以前』も、「意地悪なロマンス小説」と読んで間違いではないような内容だった。

『ジャンピング・ジェニイ』と同じく、死者の人格を徹底しておとしめてまったく悲劇的な展開にならないようにしているところも、この作家らしいところ。

『翼のない天使』

Wide Awake, 1998
★★★

『シックス・センス』『アンブレイカブル』のM・ナイト・シャマランの初期作品(脚本&監督)。日本では劇場未公開。カトリック系の学校に通う少年が、祖父の死をきっかけにひとまわり成長していくさまを描写する「少年時代」もの。『シックス・センス』以降のような超常能力の話ではなく、NHKで喜ばれそうなかんじの教育的で地味な映画だった。悪くはないけれど少年のナレーションが多くて説明的すぎるし、主人公が学校の授業で作文を読み上げて内面の成長を示す、なんて場面がまじめに扱われてしまうのは少し厳しいものがある。

こういった系統の物語では、少年が未知の「性」もしくは「死」をいかにして受けとめるか、というのがきまって問題になる(例えば『スタンド・バイ・ミー』は少年たちが「死体」を探しに行く話だった)。この映画の筋書きもその鉄則を踏んで、「祖父の死」「初恋」などを盛り込んでいるけれど、逆にいえばそれらの扱いにはさほど新味を感じられない。

ところで、この種の子供を視点人物にした話は個人的に、小説で読むときは特に抵抗なく愉しめるのだけど(ロバート・R・マキャモンの『少年時代』などが思い浮かぶ)、映像化されたものを観ると、少なくともその作品の世間的な人気ほどには熱中できないことが多い(例を挙げれば『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』)。たぶん生身の子役に、製作者の恣意的な「子供像」を押しつけているようなところにいくらかひっかかりを感じてしまうせいかもしれない。

2001-09-04

低空飛行

このところ、自宅の現役PCが修理中で著しくマシン環境に制限があるため、更新はだいぶ間遠になっています。

2001-09-06

『おれの血は他人の血』

筒井康隆/新潮文庫
★★★

筒井康隆の1974年作品。凶暴性を内に秘めた一介の会社員が、ある日突然「町ぐるみのやくざ抗争」のパルプ・ノワール的な世界に巻き込まれる。作者自身がダシール・ハメットの『赤い収穫』を下敷きにしたと公言しているだけあり、意外なほどパルプ・ノワールの典型に忠実な筋書きだった。たとえば「片方勢力のボスの用心棒に雇われる」「流れ者を成敗したのが事件の発端になる」といった展開は、デヴィッド・グーディスの『深夜特捜隊』とほとんど変わらない。まあ、そのあたりはパロディ的な含みも強いので、いちばんの独自性は、「平凡な会社世界」と「パルプ・ノワール的世界」とをあっさり地続きでつなげてしまう豪腕ぶりにあるだろうと思う。別世界どうしをかけ合わせるこの種の発想は、さすがSF的といえなくもない。

自分が何をするかわからない、という二重人格的な主人公像はジム・トンプスンを思わせなくもないけれど、結局のところ思いきり暴れてヒーロー化するだけだったりするので、平凡な会社員の「変身願望」充足ものに近くなっている。いま読むとそのあたりの不穏さが描かれていないのは少し物足りなかった。

2001-09-07

『娼年』

石田衣良/集英社(2001.7)[amazon] [bk1]
★★★

退屈な日常を過ごしていた大学生の青年が、女に性を買われる「娼夫」の道に誘われて成長していく、一風変わった青春小説。主人公が何もせずに周囲から好意を持たれるところには、村上春樹風の都合の良さを感じて気にならないでもなかったけれど(それに結局嫌な顧客と出会わないし)、難しそうな題材をさらりと書いているのには好感を持てる。先輩格のホストに特徴的なキャラを配置して、やおい的な読みどころ(?)を用意しているあたりもこの作家らしい。

この題材にはモデルになった実際の事件があるんだろうか。その点はよく知らないのだけど、ワイドショウ的な事件報道の裏側を、当事者の視点から青春小説として語りなおす、というようなこの作家の持ち味が出ている作品だと思う。『うつくしい子ども』がちょうどそういう趣向の話だったし、有名になった『池袋ウエストゲートパーク』でもいくらかそんなところがあった。

2001-09-08

『オンリー・フォワード』

マイケル・マーシャル・スミス/嶋田洋一訳/ソニー・マガジンズ[amazon] [bk1]
Only Forward - by Michael Marshal Smith, 1994
★★★

彼はいつだっておれよりもすばやく、つねに一歩先にいた。今回もそうだったわけだ。おれはといえば、相変わらず〈都市〉の中をあわれな依頼人相手のフィリップ・マーローのようにうろついて、ヒップでファニーな何者かになろうと悪戦苦闘しつづけている。(p.389)

『スペアーズ』『ワン・オヴ・アス』の作者の第一作。この作家はSFとファンタジーとハードボイルドの枠組みを奇妙に混ぜ合わせた作風が独特で興味深いのだけど、逆にいえばそのためどの分野の読者からも「本物」とみなされにくいところがあるかもしれない。

この作品に関しては、やはり初期作のせいかまだ書法が洗練されていないように思えた。ハードボイルド風の皮肉な語り口は、たとえば序盤の、

「そうだな。まずどういう仕事なのか教えてもらわないと、あんたがいい点を突いてるのか、それともただの間抜けなのか、判断のしようがないな」(p.22)

といった減らず口の応答に顔を出してはいるものの、後の『ワン・オヴ・アス』ほど全体的に貫徹されているわけでもなく、したがってハードボイルド探偵が奇妙な世界に投げ込まれているミスマッチの妙味はさほど感じられない。「近隣区」などのSF的な意匠がいつのまにか『ピーターパン』や『不思議の国のアリス』みたいなファンタジーの文法に転じて大風呂敷化していくところはこの作家らしいけれども。

また、

おれはほとんどのことについて、話を省くことで嘘をついてきた。(p.340)

と主人公=語り手も認めているように、探索の終着点が結局のところ叙述者の恣意的な操作で隠蔽されていたにすぎない、という謎解きの構成は読者にとって徒労みたいなものであまり美しくない。(その叙述上の「隠蔽」に物語的な必然性があればかまわないわけだけれども)

ちなみに『スペアーズ』では、巻頭の引用にジム・トンプスンの『内なる殺人者』の最終節(「おれたちみんな」というやつ)が掲げられていたりもして、この作家はただ話を進めやすいからというのではなく、かなり本気でハードボイルド/ノワールの書法を信奉しているのではないかと思える。現在では、かつてレイモンド・チャンドラーの確立した「卑しい街を行く孤高の騎士」の物語構図を無邪気に踏襲するのは難しくなっており、そのため多くの作家は、歴史的な過去を時代背景に設定する(フィリップ・カー『偽りの街』やテレンス・ファハティ『キル・ミー・アゲイン』など)、未熟な若者を主人公にする(ドン・ウィンズロウ『ストリート・キッズ』やジョナサン・レセム『マザーレス・ブルックリン』など)、といったさまざまな設定上のひねりを加えて話を成立させている。このマイケル・マーシャル・スミスの「奇妙な近未来社会に投げ込まれたハードボイルド探偵」という書式も、そういった系譜のひとつとして位置づけられてよいだろう。

2001-09-10

『ニッポニアニッポン』

阿部和重/新潮社(2001.8)[amazon] [bk1]
★★

阿部和重の新作。誇大妄想に駆られたひきこもり青年の犯罪計画を描く、といういつもながらの筋書きだけど、何の変哲もない三人称の叙述形式で語られるため、この人の持ち味といえそうな「歪んだ一人称叙述」のおもしろさは出ていない。語り手の独り善がりで客観性を欠いた叙述が世界と乖離して続いていくのがこれまでの阿部作品の魅力だったのに、そこを地の文で「幼稚」「妄想」などとあっさり断じてしまっては話にならんでしょう。まあ、あえて好意的に見れば、従来の作風に満足せず新たな手法を模索しているところということになるだろうか。

標的の「トキ」は〈天皇〉の連想を読ませたいところなのだろうけど、「バスジャック事件」との照応と同じく、さほどたいした意味はなさそうにも思える。

ちなみに阿部和重の「歪んだ一人称叙述」を好きな読者は、ジム・トンプスンの『残酷な夜』や『ポップ1280』を読んでみてもおもしろいのではないかと思っている。国産の新作なら、津原泰水の『ペニス』あたりも「駄目男の妄想」小説という意味では近いかもしれない。いずれにしてもこの作品は、それらのような出来にはぜんぜん達していないのだけど。

2001-09-16

『暗闇の中で子供』

舞城王太郎/講談社ノベルス(2001.9)[amazon] [bk1]
★★★

ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。

(中略)本物の作家なら皆これを知っている。ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。(p.34-35)

『煙か土か食い物』の続編。こんどは奈津川家の三男で「三文ミステリ作家」の三郎が語り手をつとめる。前作同様、ハイテンションな語り口のもとでやたら烈しい血族の因縁話が展開され、そして落書きみたいなミステリ的ガジェットがばらまかれる。終盤のほとんどアンチ・ミステリ的な壊れかたは、ジム・トンプスンの『残酷な夜』を連想した。いわゆる「信頼できない語り手」小説でもあるし。

あいかわらず何を出してくるのか読めない作家だけれど、へたれな人物を語り手にして話がどんどん壊れていく構造の小説という意味では、今年は何といっても津原泰水の『ペニス』が突出していたので、個人的にはさほどの驚きや感動はなかったかな。いずれにしても、僕は森博嗣も殊能将之もあんまり評価していないので、「メフィスト賞」出身作家ではいまのところこの人がいちばん好きということになるかもしれない。

ところで、この作家に「少年ジャンプ」的な感性を見ているのはたぶん僕だけではないだろう。「舞城王太郎」という筆名(だよね?)は『ジョジョの奇妙な冒険』第三部の主人公「空条承太郎」を連想させるし、一族がみんなやたら背が高くて強いのは「ジョースター家」の設定と似ている。それに、ときおり挿入される意味なしの図版は、ギャグ漫画『すごいよ! マサルさん』あたりのナンセンス図解みたいだ。

2001-09-19

『心の砕ける音』

トマス・H・クック/村松潔訳/文春文庫[amazon] [bk1]
Places in the Dark - by Thomas H. Cook, 2000
★★★

『夜の記憶』に続くトマス・H・クックの新作。今回は「少年時代の惨劇」の回想が探究の対象になるわけではなく、比較的近い過去の事件と現在の時制が混在しながら語られる構成になっているので、いわゆる「記憶」シリーズで感じた、「過去」と「現在」を結びつける動機が弱いのではないかという違和感はそれほどない。ただしやっぱり、謎解きの提示が語り手の恣意的な「もったいぶり」に依存していて、しかもそこにさほど物語的な必然性を感じられない、という問題は残ったままになっている。前の『夜の記憶』は三人称叙述とメタフィクション化でそのあたりの限界をある程度克服していたように思うのだけどな。このトマス・H・クックに限らず、謎解きと文学性を有機的に絡み合わせたいという創作の方向性は期待が持てるし歓迎したいところなのだけど、そこで概して「過去の探索」に重きを置きすぎてしまうのは、どうしても話として無理が出やすいのではないだろうか。

主人公=語り手がまったく好感の持てないひねくれた人物なのはなかなか良かったけれども、この語り手と弟の兄弟関係が【旧約聖書の「カインとアベル」】をなぞっているのに気づくと、かなり早い段階から作者の落としどころが読めてしまう。ちょっと効果の疑わしい重ねあわせだった。

2001-09-22

『JSA 共同警備区域』

朴商延/金重明訳/文春文庫[amazon] [bk1]
DMZ - by Sang-Yeon Park, 1997
★★

今年日本でも公開された韓国映画『JSA』の原作で、作者は新人作家らしい。「JSA」は "Joint Security Area" の略。国境の板門店で起きた銃撃事件の真相を、韓国系スイス人の捜査官が究明していく。

『ジャーロ』誌の書評欄で絶賛されていたのを見て読んでみたのだけど、そんなに騒ぐほどの出来とは思えなかったな。全般に小説的な叙述の処理が甘くて、主人公の家族の来歴は平板に説明されるだけだし、「供述者の視点」や「他人の手記」が安易に入り込んでくるのは一人称叙述の興趣を削ぐ。メインプロットと照応される挿話のそれぞれも、そのまんますぎてわざとらしく感じた。半島の南北分断に関する問題意識をひとつの殺人事件に凝縮して描く実直さは、それなりに評価されてよいのだろうとは思うけれども。

この小説に描かれているような事態が実際にありうるのだろうか、というのは誰しも思うところだろうけれど、解説によればさすがに本国でもその点が槍玉に挙げられ、その後本当に似たような事件が発覚して驚かれた経緯があるらしい。まあそのあたりも含めて話題になった作品なのかな。

2001-09-23

『惑星ソラリス』

Solaris, 1972
★★★★

言わずと知れたアンドレイ・タルコフスキー監督作品。

いま観るとSF映画の名作というより、静謐で美しいゴースト・ストーリーのように思えた。人のように見えて人でない存在(もしくはその逆)、というのはホラーの代表的な主題のひとつだろう。

途中、未来都市と思われる情景になぜか日本の首都高らしき映像が借用されていて、とりあえず未来世界にわけのわからない東洋系の風景をまぎれこませておくのは、『ブレードランナー』や『ニューロマンサー』あたりのさきがけといえなくもない。

『ブルーベルベット』

Blue Velvet (1986)
★★★★★

この映画はデヴィッド・リンチ流のフィルム・ノワール論なのだと思う。白々しいほどにまばゆい「郊外」と「学園」の平和な世界のすぐ隣に、禍々しく謎めいた闇の世界が口を開けている。監督の分身なのだろう主人公のカイル・マクラクランを導くのは、ノワールの定型をなぞったような「謎めいた淫蕩な女」だ。

この監督にとって、映画の体験は「夢を見ること」に似ているのではないだろうか。だからこの映画のなかでは「光の世界」も「闇の世界」も同じく夢のように現実感がなく、犯罪の謎は解明されるそぶりさえも示されないまま、ただアンチ・ミステリ的な不条理のなかに放置される。

『初体験/リッジモント・ハイ』

Fast Times at Ridgemont High, 1982
★★★

キャメロン・クロウ脚本のハイスクール青春もの。恋愛とセックスにしか興味のないあほ高校生たちの生態を描いているという点で、後代の『ビバリーヒルズ高校白書』あたりの祖型といえそうな作品ではある。それ以上の発見は特になかったけれども。

ショーン・ペンが頭からっぽのサーファー役で出演している。

『シャロウ・グレイブ』

Shallow Grave, 1994
★★

『トレインスポッティング』で有名になったダニー・ボイル監督の初期作。同じくユアン・マグレガーを出演させている。

『シンプル・プラン』みたいな「大金が人を狂わす」筋書きのブラックなクライム・サスペンス。主人公三人組が会計士・医師・新聞記者のどれもインテリ職業の人物で、金に踊らされる彼らの空虚さを皮肉な眼差しで描いている。(そういう意味では『アメリカン・サイコ』あたりに通じるものがあるかもしれない)

コーエン兄弟あたりの作風を思わせる偏執的な画面構図なんかは悪くなかったけれど、サスペンスとしては底抜けの筋書きでだいぶ興ざめだった。どうせ金の奪い合いになるのは決まっているんだから、その前に山分けくらいしておけということだ。

『普通じゃない』

A Life Less Ordinary, 1997
★★

ダニー・ボイル監督作品。ユアン・マグレガーとキャメロン・ディアス主演の変なラブコメディ。

コーエン兄弟の『赤ちゃん泥棒』あたりの線を狙ったオフビートなラブコメ・サスペンスという意図なんだろうけど(ホリー・ハンターも出ているし)、それらの「ちょっと変」な狙いがどれも上滑りしている映画だった。そもそもホリー・ハンターの「天使」をどんな役割で絡ませたかったのかよくわからない。

結局のところこの監督の『トレインスポッティング』はどうやらまぐれ当たりだったようだ。たまたま出来も相性も良い原作を引き当てたという点で、デヴィッド・フィンチャーにおける『ファイト・クラブ』と似ているかもしれない。(ということで、ダニー・ボイルはまたアーヴィン・ウェルシュの小説を映画化するべきなのか?)

『13F』

The Thirteenth Floor, 1999
★★★

ジョゼフ・ラスナック監督のSF映画。ドイツの精鋭をハリウッドに招いて製作した作品らしい。『マトリックス』や『トゥルーマン・ショー』など、この時期やたらと連発された「仮想現実」もののひとつなのだけど、その仮想世界を「1937年のLA」に設定してセピア色の映像で精巧に再現しているのが独特。これはたとえばコーエン兄弟が『ミラーズ・クロッシング』や『未来は今』で「古き良き米国映画」の世界を再現しているのと通じるところがあるのではないかと思う。

それが結局は単なる追いかけっこの話になってしまい、尻つぼみなのが残念だけれど、映像的な自意識が感じられて好ましい作品だった。青く翳った映像の雰囲気や「謎の女」の出しかたなどには、SF映画の枠のなかでフィルム・ノワールの意匠を再現しようとする意志が見て取れる。「米国映画とフィルム・ノワールを好きなドイツ人」の心情というのは、日本の観客からすればわりと共感・理解しやすいところかもしれないな。

2001-09-29

『神は銃弾』

ボストン・テラン/田口俊樹訳/文春文庫[amazon] [bk1]
God is a Bullet - by Boston Teran, 1999
★★

過剰な卑語や残虐描写の連発される小説で、いわゆる「卑俗な描写をきわめることで神聖な地点へ到達する」といった系統の物語。解説によると本国の批評ではドン・デリーロやチャールズ・ブコウスキー、そしてトマス・ハリスの名前なんかが挙げられたそうだけれど、その文脈ならジェイムズ・エルロイの名前が指摘されても良さそうな気がする。実際、執拗なまでの卑語や暴力描写、そしてセンテンスを切り詰めた特徴的な文体はエルロイを思い出させた。

これはまず「普通の市民」がこれまで無縁だったノワール的(もしくはウェスタン的だろうか)な非文明世界に入門する構造の話になっている。刺青を彫られる挿話はその通過儀礼なのだろう。ただし登場人物の造形が案外と薄くて、「元薬物中毒者の野蛮な聖女」のヒロインも、やたら残虐で極悪非道のカルト教祖も、作中でその特徴が喧伝されるわりに描写が一面的で、物語の進展につれて新たな側面が見えてきたりしないため(要するに初登場時からずっと人物像が変わらない)あまり実在感が伝わってこない。「凡庸な中年」の主人公像も、年配の読者なら自分と重ねて読めるのかもしれないけれど、そこに普遍性を主張するにはどうもキリスト教の文化背景に依存しすぎているような気がしてならなかった。職業が警官でなければならない理由もさほど感じられなかったし。

それにしても、馳星周やデヴィッド・ピースなど「エルロイ以降」の犯罪小説作家が、いずれも決まって深刻ぶるばかりで、ユーモアや諧謔の感覚をまるで欠いているのはどうしてなんだろうか。

2001-09-30

『夜の終り』

ジョン・D・マクドナルド/吉田誠一訳/創元推理文庫
The End of Night - by John D. McDonald, 1960
★★★

ジョン・D・マクドナルドの単発作で、米国犯罪小説の名作といわれる作品。スティーヴン・キングやディーン・クーンツも絶賛しているらしい。「死刑囚の手記」が小説の中軸になる趣向は、(一応題名は伏せておくけれど)ジェイムズ・M・ケインやホレス・マッコイなどの先行する犯罪小説の書法を思いおこさせる。当然のごとくフランスでも評価されているようで、ジャン=パトリック・マンシェットの『地下組織ナーダ』の「ナーダ」という言葉は、この作品中で死刑囚の主人公がヘミングウェイの文章を引用する箇所からとられているそうだ。(「ナーダ」は"nothing"を意味するスペイン語らしい)

全体としては、ウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』を踏まえた構成なのかなと感じた。良家の娘がひどい目に遭ったらしいことが示唆され、しかし具体的に何が起こったのかはなかなか明かされないまま話が進む。そして内容的にも『サンクチュアリ』と同じく、まあ当時の倫理観ではこれが衝撃的だったんだろうけどねえ、というような感想を否めなかった。何の目的もない殺戮行の話というのは、いまとなってはそんなに目新しいものじゃないし、我々はもはや、作家にならなかったらサイコ犯罪者になっていただろうと冗談でなく語るジェイムズ・エルロイの『キラー・オン・ザ・ロード』などを読むことができる。

とはいっても、米国犯罪小説の里程標として押さえておいて損はない作品だと思う。ちなみに、ケント・ハリントンの『転落の道標』で描かれていた大学出のろくでなし主人公像は、この『夜の終り』の犯罪者を下敷きにしていたのかもしれない。

『変身の恐怖』

パトリシア・ハイスミス/吉田健一訳/ちくま文庫[amazon] [bk1]
The Tremor of Forgery - by Patricia Highsmith, 1969
★★★

「――その筋よりもその主人公の行為を人がどう見るかっていうことに興味があってね」(p.260)

グレアム・グリーンやH・R・F・キーティングも絶賛する、ハイスミスの代表作のひとつ、……のはずなのだけど、正直それほどぴんとこなかった。ひとつには翻訳のせいもあるかもしれない。吉田健一は著名な文人なのだろうけど文体の癖がやたら強くて、少なくとも翻訳には向いていると思えない。チェスタトンの『木曜の男』の翻訳なんて、異様なまでに「その」「それ」といった指示語を濫発する奇怪な文章で、とても読めたしろものではなかったもんね。この『変身の恐怖』の訳文はそこまでひどくはなかったけれど、やはり文章に独特の癖があって意味をとりにくい。

それはともかく内容的には、めずらしく「作家」を主人公にしているのが興味深い。しかもこの作家が「二重生活を送る犯罪常習者」といういかにもハイスミス的な人物(ご存じトム・リプリーや、『愛しすぎた男』の主人公などが思い浮かぶ)を主人公にした小説を書きつづっていて、随所でハイスミス作品の主題といえそうな文句が語られる。ハイスミスの創作活動を考察するうえでは外せない「自己言及的」な作品といえるだろう。

たとえばこんなかんじ;

「要するに人間というものが自分の個性や行動の基準を自分で作るのか、それともその人間もその人間が行動する基準も廻りの社会が作ったものかっていうことなんだ。これは私が書いている本にも幾らかは関係のあることだけど、テュニジアに来てからよくそういうことを考えるんだ。(中略)デニソンという私の本の主人公は自分でそういう基準を作るんだけど、これは頭が少し変でもある」(p.307-308)

今年訳された『生者たちのゲーム』では、食人族の国では人を食わないのが「異常」とされるのではないか、というような挿話が語られていたけれども、この作家が描きたいのもそういうことなのだろう。ハイスミスは世間的には「サスペンス」「犯罪小説」の作家として扱われることになったわけだけれど、それはこの社会でたまたま「殺人」がもっともわかりやすい倫理的な禁忌とされているから好んでとりあげた、ということの結果にすぎないのかもしれない。

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