▼ Book Review 2001.2

『生者たちのゲーム』 パトリシア・ハイスミス
『病める巨犬たちの夜』 A・D・G
『人魚とビスケット』 J・M・スコット
『絶海の訪問者』 チャールズ・ウィリアムズ
『夜の記憶』 トマス・H・クック
『心憑かれて』 マーガレット・ミラー
『処刑の方程式』 ヴァル・マクダーミド
『冬の少年』 エマニュエル・カレール
『サバイバー』 チャック・パラニューク
『クリムゾン・リバー』 ジャン=クリストフ・グランジェ

※(ごく主観的な)評価は★5段階。

『生者たちのゲーム』 ★★★
パトリシア・ハイスミス/松本剛史訳/扶桑社ミステリー文庫
A Game for the Living/Patricia Highsmith(1958)

■冒頭に殺人事件が起こり、いちおう最終的にはその犯人が判明するという、ハイスミスにはめずらしくまともな謎解き形式の小説。終盤の謎解き的な展開はあまりたいしたことがないけれども、主人公の捜査をしなさかげんとか、ハイスミスが謎解きを書くとこうなるのね、というような変な興味深さがあった。「女ひとり・男ふたり」の関係でなぜか充足していた主人公たちの関係がやたら世間の悪意ある嘲笑を浴びせられるところなんかは、「普通/異常」の境界があいまいになる、いかにもハイスミス的な世界観という気がする。あとはメキシコが舞台になっているのも印象的。
■この作品とは直接関係ないけれども、ハイスミス作品全般に関して少し書いておきたい。サスペンス小説の形式は、「過去に何が起きたのか」を究明していく謎解きものと対比するかたちで、「これから何が起こるのか」を興味の対象とする物語形式だと説明されることがある。それは基本的に正論だとは思うけれども、実は本来の意味で「これから何が起こるのか」が問題になることはそれほど多くない、という気がする。たいていのサスペンス小説では、「刻限に間に合うのか/間に合わないのか」とか、「この人物は助かるのか/助からないのか」「ふたりは結ばれるのか/結ばれないのか」とか、かぎられた選択肢のなかからどれが最終的な結論になるのかが興味をひっぱることになる。ところがハイスミスの書くサスペンス小説は、ほんとに「何が起こるのかわからない」というのに近い。それは物語の枠組みがはじめに規定されているのではなく、登場人物たちが勝手な行動でストーリーを創っていく、というような小説作法で書かれているからではないかと思う。
■で、この作品に関しては、そうはいっても結局話が謎解きの文脈におさまってしまうので、探偵小説の形式もなかなか強固なものなんだな、とか思いなおしたのでした。

(2001.2.26)


『病める巨犬たちの夜』 ★★★
A・D・G/日影丈吉訳/ハヤカワ・ミステリ
La Nuit des Grands Chiens Malades/A. D. G.(1972)

■話はまあおもしろいと思うのだけれど、翻訳があまり読みやすくなかった。これにかぎらずセリ・ノワール系の古めの邦訳は、わざとらしい口語調のものが多いので(岡村孝一のべらんめえ調をはじめ)個人的にはどうも苦手。『ライ麦畑でつかまえて』の有名な野崎孝訳みたいなかんじ、といえば通じやすいだろうか。とりあえず本書の訳文に関しては、所有格の代名詞をいちいち逐語訳しているのと、関係代名詞を直訳しているのは勘弁してほしいと思う。
■内容のほうは、ダシール・ハメットとアガサ・クリスティがフランスのど田舎農村で出会う、といったかんじのものすごい荒業。謎の密室殺人と白骨死体の発掘、そしてなぜか悪党たちの血なまぐさい抗争がくり広げられるなかを、一人称複数の「おれたち」で語る村の田吾作たちがうろついてかきまわしていく。ノワール的な暴力もパズラー的な意匠も、村人たちの過剰な田舎弁まるだし会話とおらが村自治主義のまえに、どちらもいわばパロディとして無力化される。とても独創的な探偵小説で好感の持てる作風だけれども、ただし〈『アクロイド殺し』〉のセリ・ノワール版ともいうべき趣向は、たいてい誰でも見当がついてしまうんじゃないかな。
■これがA・D・Gの第四作。政治的には極右みたいに扱われている作家らしいけど、この作品を読むかぎりではむしろ無政府主義の立場に近いような印象を受けた。「おれは税金を払わねえ」とか公言しているみたいだし(作者本人がハードボイルドだ……)。映画『夜の大捜査線』の感想で少しふれてみたけれども、旧弊な田舎町に敏腕の刑事/探偵がやってきてあざやかに事件を解決していく、といったよくある探偵小説の図式は、近代的な啓蒙主義や統一国家思想の体現とはいわないまでも、ある程度そういった観念を背負ったものになりがちなのは否めない。作者と本書の村人たちはそのような態度に対して明瞭な反旗をひるがえしている。あくまでもユーモラスに。

(2001.2.25)


『人魚とビスケット』 ★★★
J・M・スコット/清水ふみ訳/創元推理文庫
Sea-Wyf and Biscuit/J. M. Scott(1955)

■実在した(らしい)新聞紙上の奇妙な個人広告が、やがて第二次大戦中の難破漂流譚へとつながっていく、という構成の小説。解説でも指摘されていたけれどこの趣向はケメルマンの「九マイルは遠すぎる」に通じるところがある。この謎めいた導入部から、個人的には、虚実が入りまじって何が真相なのかよくわからなくなる展開とか、あるいは登場人物が全員ニックネームで呼び合っている設定からある種の仕掛けみたいなものを予期していたのだけど、この作者はそういった方面に凝る人ではなかったらしく、だいたい正統派の書法で進んでいた。終盤に多少ひねろうとしているもののさほど成功しているとは思えない。まあそれでも、たとえば「船の乗務員だった片足で異人種の男」が乗り込んでくる設定は、『宝島』や『十五少年漂流記』みたいな伝統的な冒険小説の風格を感じさせたりもして、懐かしい雰囲気の佳作だった。
■しかしこの調子だと『ハマースミスのうじ虫』あたりも復刊されそうだな。

(2001.2.25)


『絶海の訪問者』 ★★★★
チャールズ・ウィリアムズ/矢口誠訳/扶桑社ミステリー文庫
Dead Calm/Charles Willams(1963)

■舞台は孤絶した外洋と二艘のヨットだけ、描写される登場人物は五人だけ、というシンプルな限定状況スリラーなんだけど、かなり緻密に練られた筋書きで退屈しなかった。この作家は一人称の巻き込まれ型サスペンスを多く書いているらしいのだけどそれもうなずける。登場人物が何かを「知らない/見えない」ことが物語を緊迫させる、ということを巧妙に利用した作風だと思う。とりわけ序盤の(これは訳者あとがきもふれているけど)「これまでに何が起きたのか/これから何が起こるのか」のどちらもが謎になってサスペンスを生んでいく、というあたりの吸引力は抜群。(たとえばタランティーノの犯罪映画『レザボア・ドッグス』なんかにもそんな魅力があった)
■その強烈な「引き」にくらべると後半の展開がややひねりに欠ける気もするけれど、「圧倒的に不利な条件」のもと合理的な思考で試行錯誤をくりかえす、という過程を丹念な筆致で描いているのはなかなか好感を持てた。派手な小道具や格闘やらを使わずとにかく理知的な演出をむねとする作家のようで、他の作品も読んでみたいなと思う。

(2001.2.17)


『夜の記憶』 ★★★★
トマス・H・クック/村松潔訳/文春文庫
Instruments of Night/Thomas H. Cook(1998)

なぜなら、それが実際にわが身にふりかかるまでは、それを自分の目で見、その息を嗅ぐはめになるまでは、人は想像できないからである。恐怖がどんなにあっという間にふりかかり、どんなに凄惨な傷痕を残していくかを。たとえ死を免れたとしても、残された犠牲者はどこかが死んでしまうのだ。(p.20)

■この作家のいわゆる「記憶」ものは『死の記憶』『緋色の記憶』と読んでいるけれど、交錯して語られる「過去」と「現在」の挿話を切実に結びつける動機が弱いように思えることが多かった(出来は『死の記憶』のほうが良くて、世評の高い『緋色の記憶』にはあまり感心しなかったおぼえがある)。けれどもこの作品は、「主人公の過去の事件」だけでなくもうひとつ別の「過去の事件」のほうをむしろ話の主軸にすえて、ふたつの「過去」が呼応しながら「現在」の主人公の身のうえで交わる、といった構成を採ることでそのあたりの難点をかなり巧妙に克服している。もしかすると上記のような批評をなにくそと封殺する意図があったのかもしれない。謎解きの形式も、真相を見つけだすのではなく納得できる「物語」を想像するのが目的という、モース警部的な「推論のひとり歩き」を奨励するような変わった筋書きでなかなか興味深かった(その設定を充分に活かしきっているとは思わないけど)。また「過去に逃避する犯罪小説作家」を主人公にすえた三人称叙述は、作家自身が昔の作品の一節を、

ひどくもったいぶった文章だった。大げさで、メロドラマ的で、いかにもまだ青臭い作家の文章だった。(p.237)

なんて自嘲する場面があったりもして、みずからの作風をあえて相対化しているふうでもある。(ちなみに、この主人公はスティーヴン・キングの『ミザリー』で監禁される流行作家を思い出させた。「ポール」というファーストネームが同じだし、シリーズキャラクターを生還させるための方策を思いつかない、という状況も似ている)
■ただし主人公の相手役となる「女性脚本家」が、これといった性格づけをされていないにもかかわらず物語上の重要な役割を担わされているせいか、結果として「現在」の進展への興味がもうひとつ盛りあがらないのは否めない。この作家は「想い出のなかで美化された女性」を浮かびあがらせるのはたしかに達者なんだけど、そこから離れたときの女性描写にはあんまり関心がないのかな。あと「主人公の過去」の真相はともかくとしても、主軸の「娘の死の謎」のほうも〈ナチス人体実験〉のネタが語られた時点で落としどころの見当がつく。全体の多重的な構想はたしかにこちらのほうがよく考えられていると思うけれど、解決のあたえる衝撃では『死の記憶』のほうがだいぶ上だったかな、というのが感想でした。
■ところで、あまり指摘されていないようなのでこれは特殊な見解なのかもしれないけれど、クックの一連の「記憶」ものの構想をおおざっぱにいえば、ジャック・ケッチャムの青春虐待小説『隣の家の少女』から残虐描写を抜いて謎解き回想形式で物語る、ということなのじゃないかと考えている。主人公がいつもあこがれの「年上の女性」を救えなかった悔悟の念にさいなまれているのは、だから偶然ではないはずだ。
(2001.2.17)

精神的に疲労する小説(wad's 読書メモ)


『心憑かれて』 ★★★★
マーガレット・ミラー/汀一弘訳/創元推理文庫
The Fient/Margaret Millar(1964)

「わたしたちは特別に勇敢だとか力があるとかいうわけじゃないのよ。わたしもあなたもね。でもここまで来たら、戦わずに逃げだすことはできないわ」
「戦うったって、相手がいない」
「人生よ。人生そのものよ」
(p.396)

■『見知らぬ者の墓』(1960)『まるで天使のような』(1962)に続く、ミラー/マクドナルド夫妻のいわば黄金期の作品のひとつ(註)。これはさすがに良かった。複数の夫婦の交わりや郊外の日常生活を淡々と描写している点で、本書の筆致は作者の小説のなかでは『殺す風』(1957)に近い。ただし『殺す風』には本書の「チャーリー」のような社会に適応しきれない人物は描かれなかった。加えて『殺す風』の世界がほぼ一貫した策謀によって周到に組みあげられていた(だからパズラー的ともいえる)のとくらべると、こちらはむしろ登場人物たちが偶発的に出会うことで事件が生じてしまう、というような流れになっている。だから終盤に至るまでこの小説ではほとんど何も起こらないまま進むのだけど、それだけに終盤の緊迫感は格別。
■ただ「本書には魔人はひとりも登場しません」(p.5)と語る作者の意図はわかるのだけど、結局のところ神経症的な女のもとに動機が集まってしまうようなのは、もうそろそろいいだろという気もしないではない。この前作にあたる『まるで天使のような』は、そのあたりの嫌味がないのも好きなんだけど。

(註)参考までに、同時期のロス・マクドナルドは『ウィチャリー家の女』(1961)『縞模様の霊柩車』(1962)『さむけ』(1964)を書いている。ちなみに余談ながら『縞模様の霊柩車』と『さむけ』は基本的に似たような話なのだけど、ふたつのあいだの決定的な差(というか後者の圧倒的な迫力)はミラーの傑作『まるで天使のような』からの影響も大きいのではないだろうか?

(2001.2.11)


『処刑の方程式』 ★★★
ヴァル・マクダーミド/森沢麻里訳/集英社文庫
A Place of Execution/Val McDermid(1999)

■やたら閉鎖的な田舎の小村で起きた少女の失踪事件を、英国作家らしい重厚な筆致で描く。長い年月を経た「過去」と「現在」とを結びつける発想には、ロバート・ゴダードあたりの作風を思い浮かべるむきもあるだろう。たしかに読ませるしまじめな力作だとは思うけれども、分厚い描写を積み重ねているわりには小説的な感興に乏しかったのも否めない。たとえば『ジグザグ・ガール』のマーティン・ベッドフォ−ドのような、洗練された語り口や印象的な人物造形といった小説的技巧が備わっていればまた違ったろうと思う。終盤で明かされる真相も想像のとおりで(というか、この舞台設定ならこれしかないだろう)、まったく意外な点はなかった。ちなみにこの真相はアガサ・クリスティのいくつかの作品(具体的には〈『ゼロ時間へ』と『オリエント急行の殺人』〉)を想起させる。そういう古典的な話を現代英国風の重層的な物語に組み入れているのが売り、ということになるでしょうか。

(2001.2.11)


『冬の少年』 ★★★
エマニュエル・カレール/田中千春訳/河出書房新社
La Classe de neige/Emmanuel Carrere(1995)

ニコラはこの物語を貪り読んだが、ほんとうに恐ろしいとは思わなかった。自分には関係のない話だった。(p.76)

■いじめられっ子的なネクラ少年の陰気な心理を活写した傑作、なのかと思いきや案外まじめで良心的な話だった。いささか拍子抜けしたもののたしかによく書けているとは思う。主人公の少年ニコラが日常のささいなことから陰惨な空想をふくらませて、その夢想と現実とがほとんど等価のようにさりげなく放置されている筆致が独特でおもしろかった。それでいて、誰にでもこういう面はあるんじゃないだろうかと思わせるような普遍性もある。ただ全体的に作者の意図しているほどの深刻さは(不意に挿入される「未来の場面」なんかにそれは反映されているようだ)結局感じとれず、その点でこの小説は果たして成功しているんだろうかという疑問も残らないではなかった。
■フランス産の小説で、映画化もされている。邦題は『ニコラ』。

(2001.2.11)


『サバイバー』 ★★★★
チャック・パラニューク/池田真紀子訳/早川書房
Surviver/Chuck Palaniuk(1999)

自殺と殉教を区別するたったひとつの要素は、マスコミの注目度だ。(中略)睡眠薬の過量摂取でバスルームの床に転がって独り淋しく息絶えたと仮定したら、キリストはいまごろ天国にいただろうか。(p.155)

■『ファイト・クラブ』の作者の第二作。集団自殺したカルト教団の生き残りとして有名人になった男が、ハイジャックした旅客機のボイスレコーダーから語る。またこれもずいぶん変な形式の叙述で、さらにページ数がp.324からはじまって逆にカウントダウンされていく、というある意味革新的な造本になっている。『ファイト・クラブ』もたしかクライマックスの場面をいきなり冒頭に提示していたはずだから、だいたい似たような構成。そして文体はあいかわらず睡眠不足みたいに病んでいる。まるで強迫神経症のように語られる「繰り返し」の波や、無意味なディテイルの洪水が印象的。
■筋書きのほうも大量消費時代の自分探し、というような前作の流れをひきずっていて、教団のマニュアル通りにしか生きられなかった主人公は、そこから逃れたつもりでもやはり何かを模倣しているだけにすぎない(前作に描かれた「ファイト・クラブ」が、やがてただのネオナチ風過激集団になってしまったように)。〈自作自演〉の奇妙な三角関係やドッペルゲンガー・テーマ、破滅に突き進む行動といった構図もだいたい共通している。ただセックスの主題に関しては前作よりもかなり前面に押し出されていただろうか。全体としては前と似たような話だし主題がいささか露骨ぎみに思えるので衝撃が薄れるのは否めないけれども、わりと愉しめた。やはりこの人にしか書けない話なのだろうし。

(2001.2.4)


『クリムゾン・リバー』 ★★
ジャン=クリストフ・グランジェ/平岡敦訳/創元推理文庫
Les Rivieres Pourpres/Jean-Cristophe Grange(1998)

■フランス産だけどハリウッド風といってもよさそうなジャンルミックス娯楽物。風変わりな田舎町で起きる連続猟奇殺人という横溝正史的な筋書きのもと、正義漢ではない刑事たち(少しだけエルロイ風)、科学捜査の薀蓄、パズラー風の意匠に狂気の陰謀など、いろいろと盛りだくさん。ただしどの要素もどこかから薄く借用してきただけみたいでたいした出来じゃないし、プロットがいかにも大味でそれぞれの断片を結びつけるような物語に欠ける。だいたい主人公のいかにも頭の悪そうな捜査は少しも「伝説の名捜査官」になんて見えない(「ニエマンス警視正、あなたはまったくすごい警察官だ」(p.460)との台詞には吹き出してしまった)。それに女といえば「美女」しか出てこないような娯楽小説はさいきん苦手なのだ。
■思いきり突き抜けた真相にしても、こういうお馬鹿系をけなすのは心が狭いと思われそうだけども、似たようなネタの話を読んだことがあるし、それとくらべてしまうと扱いの独創性も必然性も大幅に見劣りする。法螺を吹くのにはそれなりの堅実な手続きが要るということ。どうせなら中途半端な警察小説部分は要らないから、破れかぶれのカルト路線で貫き通してみたほうが良かったんじゃないかと思う。
■こういうのがベストセラーになるフランスって、つまりお馬鹿ミステリーを好んで読む人がわんさかいるということなんだろうか。よくわからない国だ。でも京極夏彦が売れっ子作家になる日本も大差ないのかもしれないけど。

(2001.2.4)


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