Freaks, 1932
★★★★
トッド・ブラウニング監督。本物の奇形の人たちを集めてきて作ったという見世物的な経緯から、伝説的な悪趣味映画として語られがちのようだけれど、これはいわゆるヒューマニズムさえもあふれる真摯な映画。悪役のはっきりした勧善懲悪めいた構図を少し物足りなく感じないでもないくらい。ほんとうの「醜さ」とは何だろうか? そんなことを問いかける「残酷な寓話」だった。いま観ても全然古びていない強靭な普遍性がまちがいなくあると思う。
ちなみにこの作品を観る気になったのは、柳下毅一郎の著書『愛は死より冷たい』[amazon] [bk1]で熱く語られていたため。その記事によると、ブラウニング監督はこのあとホレス・マッコイの小説『彼らは廃馬を撃つ』の映画化を構想していたらしい。結局この呪われた映画『フリークス』の興行的失敗により映画界から干されて実現しなかったそうなのだけど、たしかにそれは観てみたかったかもしれない。
Training Day, 2001
★★★
デンゼル・ワシントン主演の刑事もの。イーサン・ホーク演じる若手警官の麻薬課勤務初日が大変なことになってしまう話。
筋書きは1950年代あたりの「悪徳警官もの」小説に近くて(エド・レイシイの『さらばその歩むところに心せよ』とか)、青みがかった映像の雰囲気やクライマックスの夜の場面なんかは、フィルム・ノワールの手法をかなり意識的になぞっているように思えた。デンゼル・ワシントン演じる堕落した警官の役柄もだいぶノワール色が濃い。
脚本のデビッド・エアーと監督のアントワーン・フークアはどちらもスラム地域の出身なのだそうで、彼らの意図のもとでスラム街を紹介していく前半部の進行はそれなりに興味深い。ただし後半は結局とってつけたような活劇になってしまうのが惜しいところ。シナリオとしては、もともとイーサン・ホークの役柄を終始「善意の巻き込まれ役」として絡ませるのは無理があったのではないかと思える。彼をなるべく生き残らせるためにだいぶご都合主義の展開が目立った。まあ、ハリウッド映画だからしょうがないといえばそうなんだろうけど。前半で淡々と街や人々を紹介して、後半にいきなり犯罪劇が持ち上がる構成は、今年訳されたスコット・フィリップスの『氷の収獲』に似ているかな。
デンゼル・ワシントンは近頃どうも演技賞狙いというか「俺はこんなのもできるんだぜ」的なあざとい役柄の選びかたが鼻につかないでもない。邪推しておくと今回の役柄は、サミュエル・L・ジャクソンあたりに対抗意識を燃やして「ストリート系の悪漢ヒーロー」を演じておきたかったんじゃないかなと。
「なにごともいったん自分のなかで相対化する、それはわれわれが八〇年代にさんざん学んできたことではないですか」(p.119)
この作家の小説を読むのははじめて。やたら雑多で節操のない引用の数々に幻惑される小説だった。例えば、刑務所から出所した人物の行動を描くパートでは、
視界が暗転した。脳味噌が爆発した。とち狂った。(p.142)
という、そのまんま馳星周みたいな文章表現が繰り広げられたかと思えば、
「人間は、脳が恣意的に構成した幻覚しか見ることができないのだ」(p.275)
などと、まるで京極夏彦の探偵役のような演説をぶちはじめる人物も登場する。他にも島田荘司の某作を思わせる趣向や、竹本健治みたいなメタフィクション構成など、いろいろと指摘はできるはず。これだけ広範囲の引用を盛り込めるとそれはそれで感心してしまい、加えて沙藤一樹の『X雨』のような行間読み推理合戦の興趣もある。また最後まで読めば、安易なパロディの羅列のように思えたそれらの書法に、相応の物語的な意味が込められていたことが判明するようにもなっている。
さらには『うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー』などの題名も明示され、全般に80年代風俗の総括のような趣きを感じられる(ついでにいえば、ヒロインの名前「柏木美南」はたぶん『タッチ』からの拝借だろう)。そのあたりは世代の差もあるのでさほど実感が湧かないのだけれど、例えば「80年代」育ちの法月綸太郎がこの作品を熱心に論じているようなのはよくわかる(法月は基本的に他からの引用をもとに創作をする作家でもあるし)。ちなみにこの作品は、法月綸太郎でいえば『パズル崩壊』に近い路線だろうか。
Memento (2000)
★★
クリストファー・ノーラン監督・脚本のスリラー映画。記憶障害の人物を主人公にした設定と「過去に遡行する」特異な時系列構成は、ミステリ読みとしてとても興味を惹かれるものだったのだけど、実際に観てみるとほとんどその二点の着想だけに頼った単調な内容で、期待外れ。これはたぶん『ユージュアル・サスペクツ』みたいなもので、ミステリ的な手管に疎い観客だとびっくりできる種類の映画ではないだろうか。それにしてもこの映画の主筋の時系列構成は順々に巻き戻されるだけだから新たな驚きに乏しいし、謎解き的な解明の提示も手際が良いとはいえない。はじめから構成の枠組みありきでむりやりこしらえた話という印象が強かった。時系列を錯綜させた犯罪映画なら『レザボア・ドッグス』なんかのほうが、趣向は違うにしても数段良かったな。
El Sur, 1983
★★★
『ミツバチのささやき』のビクトル・エリセ監督作品。未完成作とは聞いていたけれど、これはほんとに未完じゃん!という終わりかただった。たしかに闇の多い映像や風景は独特で美しいものの、手放しで褒められるような作品とは思えない。主人公の少女のモノローグがやたら多いのもあまり語り口の工夫を感じられなくて、映画としての「未完成」感を強めている。また、これはこの監督の個性でもあるだろうけれど、少女の感性を神聖視したような描きかたはどうも肌に合わなかった。(少女を温かく見守る父親の役を、監督自身も演じているかのようだ)
Searching for Bobby Fischer, 1993
★★★★
チェスの天才少年をとりあげた実話もの。監督・脚本のスティーヴン・ザイリアンは他にも『シンドラーのリスト』の脚本、『シビル・アクション』の監督・脚本などを手がけていて、実話をもとにした映画を撮るのにこだわりのある人のようだ。
本作はこの種の「競技」を通した少年の成長物語の典型として非常によくできた映画で、少年の周りに「厳格なコーチ」「葛藤する父親」「庶民派の理解者」などの人物を手堅く配した構図は安定しているし、映像の質感にも隙がない。いかにも盛りあげられそうな場面をあっさりと省略する潔い編集にも知的なセンスを感じた。「チェスの天才少年」だけでは別世界の話になってしまうからか、ときおり野球に興じる場面を平行して挿入しているのも巧妙なところ。
のみならずこの作品は、映画のなかで子役の演技をいかにして活用するか、という問題にひとつの模範解答を提示している稀有な達成といえるのではないかと思う。主人公の少年はチェスの才能ゆえに大人たちのさまざまの期待を背負って試合に臨むのだけど、それは映画の撮影現場で「子役」が置かれるだろう立場ととてもよく似ている。この映画はそこですかさず(父親を中心とする)大人の期待に子供を従わせてしまうのはいかがなものだろうか、というような問題を提起しながら、「天才少年」の問題を「子役の演技」の問題にそこはかとなく重ね合わせる(これはたぶん意図的にやっていると思う)。もともと子役にわざとらしい感情表現を強いていないというのもあるけれど、主人公の少年の「自然な」演技を少しも抵抗なく受けとめられるのは、劇中でそれらの配慮があらかじめきちんと行われているからだろう。終盤、少年が自分の足で歩きはじめる場面で感じられる絶妙のさわやかさは、そうした緻密な計算に支えられたものでもある。
Double Indeminity, 1944
★★★★
ビリー・ワイルダー監督・脚本の犯罪映画。ジェイムズ・M・ケインの原作は未読。
いわゆる「フィルム・ノワール」の形式を確立したとされる名作で、そのぶん意外性に乏しいのは否めないにしても、さすがに周到で見どころの多い映画だった。たとえば冒頭で主人公フレッド・マクマレーの語る台詞、
「金と女のために殺した/でも金も女も手に入らなかった」
というのは、まさに「ノワール」の物語構図を端的に要約したものだろう。バーバラ・スタンウィックの演じる「冷感症の悪女」は個人的にはさほど惹かれなかったものの(まあ当時は衝撃的だったんだろうけど)、後半のほうで明かされる展開にちょっと予想していなかったところがあって、それなりに驚いた。
レイモンド・チャンドラーが脚本に参加していたせいか、クライマックスの場面は『さらば愛しき女よ』に似ている気がした。最後になぜか男の友情(を超えた何か?)が描かれるところも。
Esther Kahn, 2000
★★★
うーん結局、痴話喧嘩の力で女優は本物になる、というだけの話だったような。絶賛する声も少なくない作品のようだけど、これだからフランス映画の評判はあてにならないんだよなあ。
貧乏階級出身の陰気な演劇少女の成功物語という概要は、まるで『ガラスの仮面』みたいなのだけど、演劇手法の実践を堅実に積み重ねて疑似体験させるような映画ではない。むしろ主人公エスター・カーンが晴れの舞台でようやく演技を披露する、といったような達成感のある場面は、意図的にほとんど省略されている。安易なカタルシスを抑制した態度は、たとえば『ボビー・フィッシャーを探して』なんかの構成と共通しているようでそれなりに興味深かった。
ただし無作法なナレーションがやたら挿入されるのは、文芸小説を映画化するさいの駄目なパターンの典型としか思えない。特に序盤で主人公の容貌を「卵型をした顔の輪郭、黒い神秘的な瞳……」などと紹介しているところは、すでにその姿が映写されている人物の容貌を言葉で説明して何の意味があるのか、まったくわからなかった。そのほかにもほとんどの場面で解説者の必然性は感じられず、ほんとにこれはきちんと作劇の構成を意識して撮ったものなんだろうかと疑いすら抱いてしまう。
ジム・トンプスン/三川基好訳/扶桑社[amazon] [bk1]
After Dark, My Sweet - by Jim Thompson, 1955
★★★
ジム・トンプスンにしてはさほど突出してねじくれた要素のない作品で、水準作といったところかな。ジェイムズ・M・ケインの作品に近いようないわゆる「ファム・ファタル」ものの破滅型犯罪小説なんだけど、主人公が精神的な障害を抱えて世間から疎外されているらしい人物なのがトンプスンらしい設定。「キッド」と呼ばれて周囲から子供扱いされがちなのは、『残酷な夜』における短躯の殺し屋の人物像を思い出させる。加えていえば、ジム・トンプスンの描く男女関係というのは、対等な恋愛ではなくたいてい「支配/被支配」の関係になっていると思うのだけれど、主人公がやたら「子供扱い」される人物配置の底には、後の『グリフターズ』であからさまに提示される母子相姦の構図が透けて見えるような気がする。(ちなみにトンプスンはフロイトの著作を愛読していたらしいので、このあたりはたぶん意図的なものだろう)
三川基好の翻訳は『ポップ1280』と同じような「えーと」調のとぼけた台詞まわしなのだけど、どうも作品の雰囲気と合っているのか疑問をおぼえないでもなかった。
ところで主人公を元ボクサーに設定しているのは、同時期のスタンリー・キューブリック監督の初期作品『非情の罠』(1955)と類似している。ジム・トンプスンはご存じのようにそのあと『現金に体を張れ』(1956)および『突撃』(1957)の脚本に参加しているので、何か関係があるのだろうか。
ちなみに本書の情報によると、ジム・トンプスン作品のなかでも評価の高い未訳作品 "Hell of a Woman" の翻訳は来年刊行になるらしい。ちょっと楽しみ。(映画版の『セリ・ノワール』は観ているけれど、ジム・トンプスンはやはり言語的な作家だから結局原作がどんなものなのか判断できなかった)
Exotica, 1994
★★★
『スウィート・ヒアアフター』『フェリシアの旅』のアトム・エゴヤン監督作品。「少女」と「喪失」を軸にした物語展開、および序盤のうちは何の話なのか少しも見えてこないひねった構成の組みかたは、『スウィート・ヒアアフター』ほど洗練されてはいないにしても、充分にその原型をうかがうことができる。この監督は『スウィート・ヒアアフター』では近隣の不倫や父娘相姦、『フェリシアの旅』では女性連続殺人犯、そしてこの『エキゾチカ』では少女の踊るナイトクラブと、いかにも扇情的な題材をとりあげながら、むしろそれらの性的な要素の背後にあるやるせない喪失感や寂しさなどに焦点をあてて、静謐で美しい映像空間を構築しているのが独特で興味深い。文芸小説を映画化するさいにも、余計なナレーションを挿入して不格好な構成にしてしまうような愚をおかさないし、個人的にはかなり好きな映画監督だ。
『スウィート・ヒアアフター』で活躍するサラ・ポーリーが脇役で出演している。
謀略ネタを絡めて少し仕掛けを盛り込んだミステリで、逢坂剛や多島斗志之など、なぜか広告業界出身の人はこういった系統の話を書いていることが多い(この作者も広告業界勤務の人らしい)。軽妙な筆致で悪くなかったけれど、たださすがに風呂敷を広げすぎているのと、作者の手つきからある種の叙述トリックを仕込んでいることはだいたい見当がついてしまうのが弱いかな。
作者は映画好きの人らしく、映画談義を作中に盛り込んでいるだけでなく、会話のリズムにも独特のセンスを感じさせた(「タクシー運転手との不条理な会話」の場面なんて結構好き)。やたら風呂敷を広げながらも話を空中分解させないでいるのは、そのあたりの力のためだろうか。
The Tailor of Panama, 2001
★★★
ジョン・ブアマン監督作品、原作『パナマの仕立屋』のジョン・ル・カレ先生がみずから脚本にも参加しているせいか、英国風味の少しひねくれたスパイ映画のパロディ趣向になっている。現役ジェイムズ・ボンドのピアース・ブロスナンを起用しているのが何といってもいちばんの皮肉で、この人が女たらしでいんちき連発の思いきりいいかげんな諜報員の役を好演(パナマに来たのもスキャンダルで左遷されたから)。「ひょうたんから駒」の陰謀劇は皮肉が利いていて悪くないのだけど、ピアース・ブロスナン側がさして緻密な行動をとっているわけでもないのに全然つまづきがないのは、いささか偶発的な興味に欠ける。『博士の異常な愛情』的なブラック・コメディに徹しているわけでもないしで、ちょっと映画の進行が中途半端気味に感じられた。
ということで、まあ、英国風味の佳作という程度ではないかなと。
ジョー・R・ランズデール/大槻寿美枝訳/早川書房[amazon] [bk1]
The Bottoms - by Joe R. Lansdale, 2000
★★★
死体を見つけた少年が大人への一歩を踏み出す、という「少年の通過儀礼」の回想を南部ゴシック風味の味付けで描いたランズデール版『スタンド・バイ・ミー』もしくは『少年時代』。特に『少年時代』は「南部の田舎町」ものなので類似している。他には『グリーン・マイル』(老人ホームで昔の日々を回想。これも南部もの)や『警察署長』(南部の田舎で連続殺人をローテク捜査)などを思い出した。人種差別の色濃い南部の時代背景を少年の視点で描いているところは、もとをたどればマーク・トウェインあたりに行き着くのかな。
もともと中編の「狂犬の夏」(未読)を下敷きにしている経緯があるせいか、ハップ&レナード連作の軽快な語り口を期待していると、本作の筋運びはちょっと緩慢に思えてしまった。物語の形式が「老人の回想」だからしょうがないのかもしれないけど。謎解き的な結末もだいぶ早い段階から想像がついてしまったので、トマス・H・クックの「記憶もの」を思わせるようなもったいぶった語り口にいささか違和感をおぼえなくもない。
ランズデールをスティーヴン・キングなどの作家とくらべたとき、ひときわ独特なのが「絶対的な他者」を躊躇なく描いているところではないだろうか。キングは代表作のひとつ『IT』で精神分析の構図を取り入れていることからも明らかなように、恐怖や悪意は我々自身の内なる心から生まれるものだ、ということをおよそ一貫して語ってきた作家だ(と僕は思うんだけど)。ところがランズデールの小説で主人公たちに脅威を与えるのは、たいてい同情の余地のない殺人者や人種差別主義者といったわかり合えない「他者」で、それらの要素はあくまで外部からもたらされる。現代作家としては自然描写の密度が突出しているように思えるのも、そのあたりの意図にもとづいているのだろう(ハップ&レナード連作では、クライマックスで毎度何かしらの天変地異が起きているような気がする)。西部劇の伝統を感じさせるようなこのあたりの直截な力強さと行動力に、キング以降の分厚い内面主義を突き破るような可能性を見ることもできるのではないか。
ところで以前、コーエン兄弟の新作『オー・ブラザー!』のクライマックスの着想がランズデールの『罪深き誘惑のマンボ』とかぶっていることを指摘したけれど、この『ボトムズ』は大恐慌時代の1930年代が舞台設定なので『オー・ブラザー!』と近い。さらに冒頭で「悪魔に魂を売ったバイオリン奏者」の挿話というのも出てきて、そういえば『オー・ブラザー!』には「悪魔に魂を売った黒人ギタリスト」がそのまま登場する。確認してみたら『罪深き誘惑のマンボ』でも似たような話が紹介されていて、これはどうやらランズデールお気に入りの挿話らしい(元ネタは伝説のブルーズ・ギタリスト、ロバート・ジョンソンの有名な逸話なのだそう)。こうなると絶対、コーエン兄弟はランズデールの小説を読んで気に入っていると思うんだよなあ。誰か確認してくれないものかしら。
ふと思い立って、なんとなく掲示板を借りてみることにしました。
当サイトへの感想や文句、および誤記の発見などありましたら(そういった内容でなくてもいっこうにかまいませんが)、お気軽に書き込んでください。
Sweet and Lowdown, 1999
★★
ウディ・アレン監督&脚本作品。無難な小品かと思いきや、これだけあからさまに失敗している映画は久しぶりに観たような気がする、というくらいのひどい外しぶりで、途中で観るのをやめてしまった。架空の「天才ジャズ・ギタリスト」を主人公にした映画なのだけど、擬似ドキュメンタリー趣向の構成が「レトロな駄目男もの」風の本編と全然結びついておらず、主演のショーン・ペンは似合わないコスプレをやらされているようにしか見えない(ショーン・ペン自体は結構好きなんだけど)。内容的にも、演奏する音楽がどれほどのものなのか伝えるような切り口はほとんどなくて、安易に理想化した白痴少女との恋愛をだらだら描いているばかり(その意味では『バッファロー'66』あたりのほうが、開き直っているぶんだけまだましだったような)。このあたりの時代の音楽に予備知識のある人なら、それなりの興味を持って観られるんだろうか。
大恐慌時代を舞台にした音楽もの映画ということで比較すれば、コーエン兄弟の『オー、ブラザー!』がいかにきちんと製作されていたかよくわかる作品だった。
Pierrot Le Fou, 1965
★★★
いわずと知れたジャン=リュック・ゴダール監督作品。筋書きはとりあえず『深夜の告白』みたいなファム・ファタルものの定型に則っていて、最後にほんの少しだけ冷酷な女のまごころが垣間見える展開も『深夜の告白』と似ている(レイモンド・チャンドラーなどの名前も作中で明示されている)。といっても結局これは、アンナ・カリーナとのすれ違い生活をそのまま反映した私小説的な映画という側面が強いように思えた。もちろんそこに確信犯的な自己演出が含まれているとしても。「既存の文法にとらわれない」らしい映画製作が、つまるところこういった「私映画」みたいな文脈に帰着してしまうのはどうなんだろう。それも一種の袋小路じゃないだろうか、などといまさら言ってみてもしょうがないのかな。
Le Jardin Des Plantes, 1995
★★★★
『まぼろしの市街戦』のフィリップ・ド・ブロカ監督作品。第二次世界大戦中のナチス占領下のフランスを舞台背景に、何か途方もない冗談のような寓話が展開される変な話だった。要するに、爺さんがあまりに美少女な孫娘に「萌え」まくっていちゃつこうと画策するロリータ趣味の話のように思えるんだけど、あくまで「戦時下のちょっといい話」的な文法をきちんと踏んでいるのが巧妙。しかも後半になるとほとんど悪い冗談のような展開に突入して、いずれともつかない奇妙な味わいの話になっている。『まぼろしの市街戦』をそのまま想起させるような美しい場面と、ブラック・コメディのような人を食った風刺が同居した、フランス人らしいひねくれた諧謔の利いた映画。終わりかたも後味がいいんだか悪いんだかわからない。さすがに文句なしの大傑作とはいいがたいし、万人にお薦めできるような映画ではないものの、個人的にはこういった底意のあるひねくれた話はすごく好み。この監督の作品は全作観ておいたほうがいいかも、という気になってきた。
「美少女の孫娘」役のサロメ・ステブナンはほとんど空恐ろしいほど可愛く、ある意味ではこの少女を主軸にした「ファム・ファタル」ものといっても過言ではないかもしれない。
部分的に似ている点があって思い出した他の映画を挙げておくと、『禁じられた遊び』『ミツバチのささやき』『レオン』『ライフ・イズ・ビューティフル』など。もちろん本作はこれらのどれとも違った、一筋縄ではいかない戦争寓話になっている。特に『ライフ・イズ・ビューティフル』(戦時下で子供に「美しい嘘」をつく点が共通)の無邪気さがぬるかった人は、これを観るといいのではなかろうか。
アントニイ・バークリー/西崎憲訳/国書刊行会[amazon] [bk1]
The Second Shot - by Anthony Berkeley, 1930
★★★★
「真相って何だ?」シェリンガムは面白がっているように言った。「それは起こったかもしれないことか? 予定されていたことか? 起こるべきだったことか? それともただ単に起こった事実の無味乾燥な寄せ集めか? それ自体今夜我々がはっきりさせなければならない問題だ」(p.276)
バークリーはこの作品を未読だったのでいまさら読んでみた。これは以降に書かれる『ジャンピング・ジェニイ』(1933)および『試行錯誤』(1937)の雛型のような話で、さらにフランシス・アイルズ名義の犯罪小説の源流さえもうかがうことのできる(人物造形もいくつか重なっている)、バークリーの作家史的な分岐点ともいえそうな興味深い作品。もちろん内容的にもかなりの傑作だと思う。とりわけ、めずらしく一人称の叙述形式を採っていることで(しかもあからさまな「信頼できない語り手」だ)、いわば「主観と客観の落差」を軸にした英国的な皮肉が冴えているのが魅力的。全体がひねくれたロマンス小説としても読めるようになっているのは、『最上階の殺人』(1931)あたりにも通じる趣向だろうか。「被害者をやたら悪者扱いする」「事件の展開に恋愛的興味を絡める」「探偵が失敗するもののハッピーエンドになる」などの点で、バークリーの作風がE・C・ベントリーの『トレント最後の事件』の試みを継ぐものであることを明確に打ち出した作品ともいえると思う。
いくらか気になった点も挙げておくと、まず犯行手段が予想の範囲内におさまっているわりにちょっと実行に難がありそうで、だいぶ説明が苦しくなっている。また『毒入りチョコレート事件』などと同じく、探偵役の証拠の提示が恣意的に見える(一部その言い訳も用意されているのだけれど)。さらにいえば犯行人物および全体の構想については、バークリーのその後の作品を読んでいるとだいたい想像がついてしまうのだけど、まあこれはいいがかりに近いだろうか。解説の真田啓介氏も指摘しているように、某有名作の問題点を穴埋めした作品としても読めると思う。
個人的には、名作の誉れ高い『毒入りチョコレート事件』(1929)はもちろん歴史的な実験作とは認めるものの、読み物としてはそれほど興奮しなかった。それはあの作品の趣向が結局のところ、各自が順番に推理を披露していく連作短編の構成におさまっているからだと思う。だからバークリーの真価はむしろ、この『第二の銃声』以降の、「多重解決」「迷走する推理」を有機的なかたちで長編のプロットに絡めて、先の読めない筋さばきを連発した作品群によってはかられるべきではないだろうか。
最後に、いかにもバークリーらしい英国的な皮肉を象徴するような、ロジャー・シェリンガムの発言の紹介文を引用。
「責任を負うことはこわくない。知性と常識という点では、僕には優秀な構成員を擁する陪審団と同等の能力があるからな」 実に、シェリンガムの性格に欠けているのが何にせよ、それは自信ではなかった。(p.178)
Go, 1999
★
ダグ・ライマン監督。どうもタランティーノ映画のティーンズ版を目指したらしき犯罪もので、こんな無内容の映画をわざわざ輸入することもないだろうに、としか言いようのないしろものだった。というか、そもそも本家の『パルプ・フィクション』も何がおもしろいのかわからなかったくちなので、その亜流を愉しめるわけもなかったのだけど。三本のオムニバス形式の挿話が最終的にひとつにつながる構成なのだけど、その手段には「またかよ」とうんざりさせられる。『ラン・ローラ・ラン』に関しても述べたように、こういう方法でしかアクシデントを起こせないのは、ただ脚本の無能ぶりを露呈させているだけだろう。
『スウィート・ヒアアフター』のサラ・ポリーが出ていたけれど、役柄のせいかすっかりやつれたような外見だった。
Sunset Blvd, 1950
★★★
ビリー・ワイルダー監督のハリウッド内幕もの。フィルム・ノワール的な回想形式や暗闇の多用はたしかに興味深かったけれど、人間関係にひねりのない筋書きとグロリア・スワンソンの露悪的な扱いにはどうもあまり好感を抱けなかった。脚本家を語り手にすえている設定もさほど活かせていないような気がする。セシル・B・デミル(本物)が出てるよ!とかそういう意味での驚きはあるけれど。(ちなみにセシル・B・デミル監督でグロリア・スワンソン主演の映画というのは『男性と女性』(Male and Female, 1919)という作品らしい。未見)
まあもちろん、古典なので観て損はないと思うけれども。最近の作品でも、たとえば『アメリカン・ビューティー』や『レクイエム・フォー・ドリーム』あたりはこの映画のフォーマットを部分的に踏まえていたようだし、個人的にはロス・マクドナルドの小説『さむけ』なんかも連想させられた。『ガラスの仮面』に出てくる「往年の大女優」もたぶんこの映画が出典元なのかな。
たまには、読了をあきらめた本の感想など。
ジェイムズ・エルロイ/田村義進訳/文芸春秋(上下)
『アメリカン・タブロイド』に続く新作。これは決してつまらなかったわけではないけれど、なかなか読み進めないままだいぶ時間がたってしまったので、上巻の途中でいったん挫折(図書館の返却期限を過ぎてしまったし)。また機会があれば続きを読むかもしれない。
前作『アメリカン・タブロイド』はまさに「タブロイド」風の饒舌で言葉遊びの多い文体でさくさく読めたのだけど、本作では『ホワイト・ジャズ』的な短文の連打されるそっけない文体が復活している。人物の内面をほとんど説明せずにただ「行動」だけを描写していく三人称叙述を読むと、エルロイはやはりダシール・ハメットの後継者なんだろうなと思えた。ただ前半はこの簡潔な文体のまま「これまでのあらすじ」的な背景説明が挿入されるので、かなり読みづらかった。また、前作の直後からはじまって話も人物もほとんど連続しているので、もはや忘れぎみの読者としては作品世界に入り込みにくい。以前の連作『ビッグ・ノーウェア』『LAコンフィデンシャル』『ホワイト・ジャズ』のときは、少なくとも主人公格の人物は入れ替わるからもうちょっと独立して読めたと思うんだけどな。それに、登場するのがLA時代にも増して「歴史上の有名人」ばかりなので、物語や人物の動かしかたに制約が多くなってしまっているように感じた。
しまいまで読まずにこんなことを言うのもなんだけれど、正直なところ、ジェイムズ・エルロイの熱心な愛読者か、もしくは1960年代の米国裏面史に特別な関心を有する人以外には、だいぶ敷居の高い作品になってしまっているのは否めないのではないだろうか。
L'homme De Rio, 1963
★★★
フィリップ・ド・ブロカ監督、ジャン・ポール・ベルモンド主演の冒険もの。ベルモンドは恋人を追い、悪党たちは先住文明の貴重な「小像」を追ってブラジルへ飛びたつ。「小像」を探すどたばた劇なので、『マルタの鷹』に近いといえば近い話かもしれない。基本的な筋書きは単なる追いかけっこものだから(演出はヒッチコック系のような気もする)、いま観たかぎりでは小粋な佳作という以上の特別な興趣は感じられなかった。
余談ながら、『気狂いピエロ』なんかもそうだったけれど、このあたりの時代の映画の格闘場面ってあからさまにパンチが当たっていない。なのでまじめに観るのは結構きついような気もする。
ラッセル・バンクス/大谷豪見訳/早川書房[amazon] [bk1]
The Sweet Hereafter - by Russell Banks, 1991
★★★
アトム・エゴヤン監督の映画『スウィート・ヒアアフター』の原作小説。たぶん良作なんだろうけれど、映画版のほうの出来ばえがすばらしかったので、つい原作との異同を探す読書に終始してしまった。ちょっともったいない読みかただったかもしれない。
この原作のほうは、ドロレス・ドリスコル(バスの女性運転手)、ビリー・アンセル(バスの後尾につけていた修理工)、ミッチェル・スティーヴンズ(よそ者の弁護士:映画版のイアン・ホルム)、ニコル・バーネル(生き残りの少女:映画版のサラ・ポーリー)と、四人の人物をかわるがわる語り手にした構成を採っている。この多視点的な構成のもとで、それぞれの人物が解答のない「喪失」といかに折り合いをつけていくか、といった問題を丁寧な筆致で描いている小説だった。
エゴヤンの映画版はそうした原作の意図をよく汲んで、「ハメルンの笛吹き」の引用を加えたほかは原作の挿話をほとんどそのまま忠実に再現しており、さらに登場人物たちの微妙な心情がきちんと映像で伝わるようになっている。視点をおもに町のよそ者の弁護士に合わせる、原作では序盤に描写される「バス事故」の場面を後半に持ってくる、などの映画的な演出にもとづいた構成の改変も成功していて、とても周到な映画化だったことがわかる。
というわけで、これは特に小説的な叙述のおもしろさで読ませる話でもないようだから、まあ、映画だけでも充分だったかなという感想。もちろん映画が描写を省いている箇所もあるので(弁護士の戦略的な思惑など)、そのあたりの説明を補完できる面白味などもあったけれど。
アンソニー・ボーデイン/野中邦子訳/新潮社[amazon] [bk1]
Kitchen Confidential - by Anthony Bourdain, 2000
★★★
NYのレストランで料理長を務めるシェフの体験談をつづったノンフィクション作品。「自伝」というほどまとまった構成ではないので、エッセイ集といったところだろうか。パルプ的な装丁やジェイムズ・エルロイ風(なのだろうか)の題名から想起される作風を裏切らず、饒舌で卑語も織り混ぜた小気味良い語り口がなかなか魅力的だった。料理学校時代の思い出話を語るところで、映画『フルメタル・ジャケット』のような罵倒語を連発する鬼教官が登場してくるあたりが(他の場面でも、調理場が軍隊的な世界であることをにおわせる描写は多い)、この本の路線を象徴しているような気がした。
米国では相当なベストセラーになった本らしいけれど、そんなに騒ぐほどの内容はなかったかな。社会的に成功した人物が語っているわりに「私はこうやって成功した」という自慢話を全然出していないのが嫌みでなくて良かったのと、特に前半のほうで、料理・外食・経営マニュアルとして読める挿話を盛り込んでいたあたりが、米国的な実利主義の観点から好評だったのかもしれない。
東京を訪問する巻の"Mission to Tokyo"というのがあって興味深かった(飛行機を降りながらウィリアム・ギブスンの小説を思い浮かべていた、なんてことが率直に書いてある)。ちなみに、この作者の書いた小説『シェフの災難』『容赦なき銃火』は「日本の一流出版社である早川書房から翻訳出版されていた」(p.345)らしく(どちらも未読)、本人が早川書房の社屋を訪問して歓待される挿話まで紹介されている。(……というわけで、関係者などは一応チェックしておいてもいいのでは)
デヴィッド・フィンチャー監督&ブラッド・ピット主演(『セブン』『ファイト・クラブ』)で映画化の企画が出ているらしいけれど、ほとんど筋書きのないエッセイ集みたいな本なので、どんな映画にするつもりなんだろうか。(それにしてもブラッド・"タイラー"・ピット演じる料理長って、スープに小便とかを混ぜてくれそうで怖いんだけど)
終わりにちょっと、料理学校時代の「東洋料理」講座をめぐる挿話がおもしろかったので引用。やっぱりそうなのか、という話。
講師は有能な中国人シェフで、中国料理および日本料理の基本を教えることになっていた。中国料理の課程はすばらしかった。ところが日本料理の時間になると、先生はもっぱら南京大虐殺についての大演説をはじめるのだ。日本人への恨みは骨髄に徹しているようだった。第二次世界大戦中に女子供や赤ん坊まで銃剣で刺し殺されたという話をしながら、その合間に寿司や刺身の写真が印刷された壁のポスターを指差し、訛りのきついブロークンな英語でこういう。「あれはなまの魚だ。あんなものを食いたいか? へん! 日本人なんかクソ食らえ!」。それから、強制労働や大量虐殺や人権無視についてさらに熱弁をふるい、遅かれ早かれ日本はその悪行の報いを受けるだろうと陰気につぶやくのだった。(p.56)
北野勇作/徳間デュアル文庫[amazon] [bk1]
★★★
散乱した記憶をめぐる小説。作中人物の意識とともに読者も、浮遊する物語の断片を拾い集めていくような構造になっている。似たような趣向をミステリ的な手法でやると、たとえば映画『メメント』のようになるかもしれない。
先に読んでいた『かめくん』のような内輪受けめいた呼称がそれほど目立たないのも好感で、結構凝った構想の意欲作とは思うけれど、それを支えるだけの文章の強度を備えてはいないように感じた。というのも、この小説はほとんどの箇所で叙述が単なる設定の「説明」に終始してしまっている。作者が意図的に「これまでのあらすじ」を挿入しているところがあるにしても、それ以外の箇所でも、あらすじ紹介をしているだけのようで小説的な語りになりきれていない文章が目立った。主観視点の叙述を徹底すればよさそうなところに客観描写が混ざって、文章がひどく説明的になってしまっている、というような意味での違和感は、牧野修の『MOUSE』を読んだときにも感じたことなので、もしかするとこのあたりの分野の作家は話法や叙述の意識が薄めの傾向があるのだろうか。
この作品に関しては、香雪雑記帳の論評が、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』との照応を指摘していて興味深かった。ついでにいえば、意識や記憶が錯綜して飛びまくる構成の小説で、そのことに一応のSF的な説明が用意されている、という点では、カート・ヴォネガットJr.の『スローターハウス5』[amazon] [bk1]あたりに似ていなくもないのかな、と個人的には感じる。(そういえばヴォネガットは村上春樹の敬愛する作家でもあるだろうし)