A.I. Artificial Intelligence, 2001
★
スティーヴン・スピルバーグ監督のSFファンタジー映画。あんまり期待していなかったのだけれど、料金割引の日だったので観てしまった。
『ピノキオ』『オズの魔法使い』そして『2001年宇宙の旅』など、いろんなところからの引用を散りばめているものの、寄せ集めた要素をどれもまとめきれていない散漫な映画だった。「完璧な子役」のハーレイ・ジョエル・オスメントと「端正な美貌」のジュード・ロウを人造人間に仕立てた配役は悪くなさそうなのだけど、話が底抜けなのでいくら役者が頑張っても空回りになっているだけ。
おもに気になった点を書いておく。
もとはスタンリー・キューブリックの企画で、最終的にスティーヴン・スピルバーグのところへお鉢がまわってきたものらしい。ほかにもいろんな人物が参加しているようだから、その過程でだんだん話が迷走してきたということなんだろうか。
こんどはAmazon.co.jp のアソシエイト・プログラムにも参加してみることにした。ID入りのリンクを自動的に生成してくれる機能もあって、なかなか便利だ。
「ミステリマガジン」臨時増刊号の『ノワールの時代』を読む。全般的に早川書房の宣伝色が強いみたいで、『ユリイカ』別冊のほうが内容は充実していたかな。参考になった記事もあるけれど。
軽く感想を:
J・J・マリック/井上一夫訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
Gideon's Fire by J. J. Maric, 1961
★★
スコットランド・ヤードのジョージ・ギデオン犯罪捜査部長を主人公にしたシリーズの一作。ロンドンの連続「放火魔」事件を主軸にしながら、その他いくつかの事件の進展を同時並行させる、典型的ないわゆる「モジュラー型」警察小説の構成になっている。最近この系統の構成を採っているものでは、フロスト警部のシリーズなんかが有名だけれど、それらの元祖にあたるひとつがこれだろう(実際フロスト警部は作品中で「ギデオンくそ警視が」なんて発言をしていたと思う)。
この種の構成を選ぶ意図というのはいろいろありそうだけど、本書ではやはりリアルな犯罪捜査のありかたを再現するのに重きを置いているようだ。実際、多発する事件のなかには、物語のなかで解決されないまま終わるようなものもある。ひとつの事件が解決しても、街の犯罪は終わらないし世界の秩序は必ずしも回復しない。そんな現実的な世界観を反映した書法といえるだろう。
そんなわけで歴史的な古典として興味深い点はあるにしても、作品自体は正直なところいまあえて読むべきほどの出来とは思えなかった。エド・マクベインの『警官嫌い』も、いま読むとだいぶ粗雑な筋書きだなと思ったけれど、それに近いようなかんじだ。「放火犯」をはじめとする犯罪者造形はおざなりだし、警察捜査の描写もどちらかといえば単調。これは主人公のギデオンがだいぶ階級の高い警察官のため、捜査現場へ出向くよりも、本部で部下に指示を下す場面が描写の中心を占めがちなことも関係している(こういう設定は「謎解き」でなく「捜査」を主眼にした警察小説では結構珍しいのではないか)。このため作者は「犯罪者の視点」で語られる章をたまに挿入して変化をつけようとしているけれど、それが「こんなやつが野放しになっている→警察頑張れ!」という短絡的な思考を誘発しようとしているように思えて、どうも好感を持てなかった。
あと、並行して進展するのは犯罪事件だけでなく、主人公の家庭内の問題なんてのも発生して話に絡んでくる。これは読者に主人公を身近に感じさせる効果を狙っているのだろうけど、その家庭内の問題意識が古くさくて、いま読むにはだいぶ苦しい。
本年上半期の記述でとりあげた新作本のうち、★★★★以上をつけているのは次の通り。(新作とみなす基準は、だいたい発売から半年以内の本ということで)
このうち『鳥』と『絶海の訪問者』はだいぶ古い作品の翻訳なので、新作と呼ぶのはいささか語弊ありかな。全体の傾向としては、世界から突き放される不安感を描いていたり、語りに歪みが生じていたりする小説が多い。だから居心地の良い作品はあまり挙げていないはず。
近頃どうも読書意欲が減退気味で、あまりきちんと新刊本を読めなかった。『ミステリ・オペラ』や『鳥類学者のファンタジア』みたいな国産の大作はまだ全然消化できていない。そのほかの取りこぼしも少なくなさそうだ。
あと、『転落の道標』『氷の収穫』などパルプ・ノワール系新人作家の紹介なんかも進んでいるようだけれど、いまのところぴんとくるものがない。僕は「残虐」「裏切り」「破滅」といった「ノワール」のお題目そのものには、どうもあまり魅力を感じないみたいだ。たとえばジム・トンプスンの『ポップ1280』は、そんな定型をはるかに突き破った独自の物語世界を現出させていたから、おもしろく読めたのだと思う。
映画のほうは、劇場へ観に行った新作で★★★★以上をつけているのは次の二本だけ。
ちょっと寂しい現状で、正直なところ、劇場へ足を運ぶ気力がかなり薄れてしまっている。ついでにビデオ等で観た旧作も挙げてみると、以下のようなかんじ。
独特の創作意図が貫かれているものの、いわゆる文芸映画の方向には行かない、というような作品が好きだ。考えてみればこれは小説の好みとほとんど同じなのだろうけど。
マーガレット・ミラー/山本俊子訳/ハヤカワ・ミステリ
Beyond This Point Are Monsters by Margaret Millar, 1970
★★★
「もうひとつの地図には、ただ、”これよりさき怪物領域”とだけ書いてあってね、ロバートはその文句が気に入っていました。(中略)ほかの人間はみんな、心に怪物を持っているんです。ただ別の名前で呼んだり、怪物なんかいないと信じているふりをしたり……。ロバートの地図の世界はきれいで、平たくて、単純でした。人の住む場所と、怪物の住む場所をきちんと区別していました。その世界はほんとうはまるくて、場所はみんなつながっており、怪物とわたしたちをへだてる何ものもない、と知ることはたいへんなショックなのよ」(p.138-139)
よく指摘されるように、マーガレット・ミラーの作風を象徴したような題名。物語はおなじみの「失踪」を軸にして進むものの、この作家にはめずらしく法廷劇を前面に押し出して、おもに裁判の証言でだんだんと事件の全貌を紹介していくような構成になっている。
「母親」の不気味な行動の描写はさすがにミラーらしい筆致だけれど、結末の展開は特に意外なものではなくて、ちょっと弱め。作品自体の出来は、少なくともこの作家を代表するほどではないだろう。
上に掲げた引用は、マーガレット・ミラーの物語世界の魅力を端的に解説した台詞だと思う(翻訳がぎこちないけれど)。ミラーの小説には精神の平衡を失った人物がよく登場するけれど、それはただ物語の平和を脅かす「怪物」(=他者)として突き放されるわけではない。むしろ読者はその人物の「狂気」のなかに、みずからの心の弱さを映した「鏡」のような一面を見出すことができるはずだ。ミラーの傑作『狙った獣』や『まるで天使のような』を読んだときの衝撃は、まさに「怪物とわたしたちをへだてる何ものもない」のを知らされることでもある。
作品論をすっとばしたジャンル論議(もしくは「読者」論)にはどうも興味を持ちにくいのだけど、論点には比較的共感できるものもあった。特に「センス・オブ・ワンダー」といった批評用語がなかば仲間内の符牒みたいになっていて、部外者にまで届く言葉が少ないのではないか、というようなところ。たとえば、グレッグ・イーガンのように普遍的な主題を小説ならではの手法で表現している作家が、ジャンルの枠にとらわれた紹介しかされないのだとしたら、ちょっともったいないことだと思う。
ちなみに、僕もむかし『ニューロマンサー』を読んで、おれSFに向いてないのかな……と諦めの境地に至ったことがあるのだけど。
奥泉光/集英社(2001.04)[amazon] [bk1]
★★★★★
だけど、こうなったら、出たとこ勝負。ジャズ・プレイヤーは、いつだって、どこだって、万事出たとこ勝負なのだから。(p.405)
『グランド・ミステリー』と同じく時空のねじれを扱った物語で、第二次世界大戦と日本人のかかわりも盛り込まれている。けれども、ジャズ・ピアニストの女性を語り手にすえたこちらの文章は、お気楽でいいかげん(わざとらしく "?" や "♪" などの記号も連発されている)、『グランド・ミステリー』みたいに緻密な構成はあえて避けているようだ。どちらかといえば、あえて肩の力を抜いたようなこちらの作風のほうが僕は好み。
この作品では「音楽」が「小説」の比喩に、そして「小説」が「音楽」の比喩になっている。
ジャズ・ピアニストといえばとりあえず「即興」だろうけど、この小説もそんな創作態度を思わせて、悪くいえば隙の多い行きあたりばったりの筋書きで展開する。でもそんな軽やかな書法が作品の世界とよく合っている。それに、たとえば宮部みゆきの『模倣犯』や東野圭吾の『白夜行』『片想い』みたいに、連載小説を単行本の長編にまとめてぎこちない出来になっているものよりは、はるかに抵抗なく読めた(本作は「すばる」に連載)。これは賢い手法じゃないかと思う。
また逆に、ピアノを弾きながら主人公が「柱の陰の聴き手」を思い浮かべるところには、いうまでもなく「柱の陰の誰か」にむけて小説を書く(のかもしれない)作者の姿を重ね合わせることもできる。
難をいえば、そんな「小説」と「音楽」の相互の呼吸がだいぶ主軸になっているため、作中に並べられる曲名からたいがいメロディを思い浮かべられるような素養の人じゃないと、実のところこの小説のリズムは充分に伝わらないのかな、というのが気になった。僕はもちろん全然わからないほうの部類なのだけど。
デイヴィッド・ピース/酒井武志訳/ハヤカワ文庫HM[amazon] [bk1]
Nineteen Seventy-Four - by David Peace, 1999
★★
鳴り物入りで登場の「英国ノワール」作家だけど、この第一作を読んだかぎりではまだあまりぴんとこない。
これは「ヨークシャー四部作」のひとつめにあたるそうで、師匠筋のジェイムズ・エルロイを参照するなら『ブラック・ダリア』に対応する位置づけになるだろうか。「意識の流れ」的な文体はのちの『ホワイト・ジャズ』を踏まえているみたいだけれど、歴史上の猟奇殺人を題材にしているのは『ブラック・ダリア』と類似している。主人公が事件の焦点に近い「汚れた家族」の娘と関係を持って、深入りしていく展開も同じだ。
まあ、そんな作風だとどうしてもエルロイと比較してしまうのは避けられないわけで、その意味ではやはり物真似の域を出てはいないように感じられた。というか、これは馳星周の作品にも感じることなのだけど、エルロイの「残虐」「破滅」といった一側面だけにやたら感化されているようで、どこかいびつな作風に思えてしまう。
たとえば、エルロイも警察の悪徳をだいぶ誇張して書く作家だけれど、そのあたりは「うひょ、先生またやってるよ」的な文脈で愉しむこともできる。でもこの作品の後半に出てくる執拗な暴力描写を読んでも、どうも悪意に満ちた誇張しか感じられないのだよな。余裕がないというべきか。エルロイがいくらか遠い過去の時代を舞台に選んで、好き勝手に書きまくる態度を明確にしているせいもあるかもしれないけれど。
たまにはSFでも、と思って、『20世紀SF(4) 1970年代』(中村融・山岸真編/ 河出文庫)[amazon] [bk1]の表題作、ジェイムズ・ティプトリーJr.の「接続された女」を読んでみる。
「サイバーパンクの先駆け」と評されるのは理解できる設定だけれど、それらの装飾を除いてみれば、意地悪な「シンデレラ」といったかんじの古典的なロマンスが主軸。悪くはないにしてもさほど斬新な話とは思えなかった。そういえばこの作家は、人気のある「たったひとつの冴えたやりかた」もえらくベタな泣かせ話だったような記憶がある。こういう話ならべつに、SF的な設定を持ち込む必然性はあまりないんじゃないかというのが正直な感想。語り手がやたら読者を「オタク」(と訳されている)呼ばわりしながら語りかけるのも、なんだか内輪話めいた印象を強めているだけのように思えた。
だいたい我々はすでに、裏で誰が動かしているとも知れない「美少女」の登場するアニメやゲームを経験しているわけで、それを考えればこの話の提起するような状況は、ほとんど日常茶飯事みたいなものじゃないだろうか。
有名な歴史的傑作がこの程度なら……と思えてしまい、とりあえず後続の作品を読むかどうかは保留。
The Limey, 1999
★★★
スティーヴン・ソダーバーグ監督。めまぐるしいカットバック構成や場面ごとの色調変更など、例によって映像手法がやたら凝っている。『トラフィック』では舞台ごとに映像の色調を変えたのを妙に喧伝されて、だいぶ賛否両論を呼んでいたけれど、この人はもともとその種の映像の遊びを第一に優先させている映画作家なのだよな。
でもまあこれは、テレンス・スタンプの「時代遅れの英国人」演技を愉しむ映画なのだろう。彼はあからさまに変な喋りかたをしてくれていて、おまけに劇中のほとんどの人物とはまともに会話が成立しない(周りでは「言っていることわかったか?」「いいえ、でも気持ちは伝わるわ」なんて反応)。そんなわけで、原語をきちんと解さない身にはどうも勘所がわかりにくかった。たとえば『ファーゴ』における「ミネソタなまりの面白味」と同種というか。(ちなみにm@stervisionを覗いてみたら、似たような感想を記してあったのでちょっと安心した)
「娘を喪った初老の男が、旅客機で隣の女と会話する」場面が挿入されるのは『スウィート・ヒアアフター』とそっくりで、これはさすがにいかがなものかと思った。
☆フェイエノールト特集
小野伸二の移籍先、フェイエノールト・ロッテルダムの紹介記事。かなり丁寧にまとめてあるので参考になる。どうも昨季(2000-2001)は「センターフォワード不在」+「10番=シャドウ・ストライカー」の布陣でシーズンを乗り切ったらしくて、それはまるでレアル・マドリーみたいだなと思ってしまった。だからいわゆる「トップ下」のポジションは置いていないはずなのだけど、そこで小野みたいな選手がどう活かされるのかは興味深い。(そういえば全然レベルは違うけど、レアル・マドリーもトップ下のジダンを獲得しているな)
といちおう愉しみにしていたら、自宅のケーブルTV局で(オランダリーグの放映権を持っている) GAORA が映らないことが判明。それじゃ結局チャンピオンズリーグの試合くらいしか観られなそうだ……
森下一仁『思考する物語』(東京創元社)[amazon] [bk1]を読む。SFの魅力、「センス・オブ・ワンダー」とは何かをていねいに分析した、エッセイ風の評論。真摯かつ明晰な語り口で好感を持てる。後半のSF史講釈も、適度の図式化がほどこされていて結構参考になった。以下は著者のウェブサイト。
ただし、SFへの深い愛情が思考基盤になっているのはもちろん本書の美点ではあるのだけど、少なくともジャンル外の読者としては、同時にそれゆえの議論の限界もまた感じざるをえない。例えば著者の森下氏は、「科学」の要素を抜きにしてもSFは成立するのではないか、という論議のなかで、フレドリック・ブラウンの短編「ミミズ天使」を例に挙げてこのように述べている。
だが、得体の知れない混沌とした状況が、(中略)ただそれだけの原因によるということでみごとに解明されていく、その秩序回復の過程はセンス・オブ・ワンダーそのものといっていいのではないか。(p.57)
だから私にとってこれはSFだ、と著者は論じるのだけれど、この文章だけを抜き出してみると、だからこれはミステリだ……と続けてしまったとしてもほとんど違和感は生じないように思える。それから、このあとの部分でさらに著者は、SFは人間の感情のなかでも「驚き」の感情を喚起する物語形式だろうと論じている(p.117)けれど、ミステリというのも基本的には「驚き」を演出するための物語装置といえるはずだ。
だからこの本は「センス・オブ・ワンダー」の魅力を解説することでは一定の成果をおさめているものの、じゃあなぜそこでSFなのか、という点については必ずしも説得力のある回答を見出せなかった。はじめからそれが前提になっているから、ということなんだろうな。
ついでにいえば、優れたミステリを読んだときの衝撃というのは、「世界の見方が変わる」ことだと僕は考えている。いままで築かれた世界観が一点の解明であざやかに覆されること。それはこの本で再三論じられている「センス・オブ・ワンダー」とたぶん同種の感覚なのだろう。
Requiem for a Dream, 2000
★★★
ダーレン・アロノフスキー監督。陰惨で救いのない『トレインスポッティング』、といったかんじの露悪系映画。登場人物たちはどれもドラッグに溺れたせいでひどいめに遭い、終盤には『時計じかけのオレンジ』の後半みたいな拷問場面が執拗に繰り返される。そういう意味ではかなり徹底した作品だけれども、さほど新鮮な映画体験に感じられなかったのは、登場人物それぞれの苦難の挿話がどれも直線的でまったくひねりがないせいか。ドラッグの描きかたも一面的。
初老の母親を演じるエレン・バースティンをはじめ俳優陣は熱演しているみたいだけれど、重要な場面で人物の顔のアップをただ延々と流すだけなのは単調で芸がない。母親と息子の時系列が並列されるのみで特に連携しないままなのも物足りなかった。
Snowtreeの瀬名秀明SFセミナー関連リンク集からご来場の読者が多いみたいなので、だいぶ乗り遅れたけど少し書いておきます。
この騒動自体はどうも瀬名氏の独り相撲ぎみのようで、実をいえば現時点ではさほど興味が湧いていない(以前にも似たような文脈で梅原克文の「サイファイ宣言」が波紋を呼んでいたような)。僕は自分の好きなものを「これはSFじゃない」なんてけなされた経験もないし。ただし、野尻ボードの発言群の絵に描いたような偏狭ぶりをみるかぎりでは、こりゃたしかに脱力もするだろうなと思えてしまった。少し引用。
SFを楽しむにはそれなりの素質が必要である。素質には「好み」の要素があるので、理解するしないの問題ではない。素質がない人には何も与えられない。本物のSFが持つ醍醐味が誰にでもわかるようなら苦労しない。SFはかれこれ一世紀近く異端児扱いされてきた。
なのだそうで。「迫害された歴史」→「自分たちを特別と思い込む」みたいな発想の流れは、まるでユダヤ教の選民思想さながらで目眩すらおぼえてしまった。これで「心の自由」がどうのと言われてもねえ。まあ、こういう態度は別にSF界の話に限ったことでもなくて、どの分野でもある程度見られる話ではあるのだろうけど。(ミステリの分野でも「本格原理主義」を標榜するかたがいるみたいだし)
しかしこの種の発言をする人たちは、自分の好きなものを広くみんなに知らしめたいという気持ちはないんだろうかね。仲間内で話が盛りあがれば満足なのだろうか。
むろんそんなのは個人の勝手なのだけれど、少なくとも僕はそういう発想になじめそうもない。僕はたとえばジム・トンプスンの『ポップ1280』をおもしろいと感じたら、普段ノワールとか犯罪小説に興味を持たないような他の読者にもぜひ読んでほしいなと思うのだけど。魅力ある創作というのはまずその作品自体に魅力があるので、「SF」「ミステリ」といったジャンルの枠はそれらを探すための指標のひとつにすぎないはずだ。
そして実のところ、多くのSF読みが金科玉条のように掲げる「センス・オブ・ワンダー」の魅力は、先日【『思考する物語』と物語の驚き】の項でも述べたように、(少なくとも『思考する物語』の解説を読むかぎりでは)ある種のミステリにおける「世界の意味を読みかえる」衝撃と通じるものがあるように思える。
伊坂幸太郎/新潮社(2000)[amazon] [bk1]
★★★
優午はきっと、高さを持った直線だろう。二次元の世界の中でカカシだけが三次元にいる。そんな気がした。つまり例の小説内の探偵役と同じだ。(p.253)
「新潮ミステリー倶楽部賞」の昨年の受賞作。書法はだいぶ甘いのだけど、エラリー・クイーンの『第八の日』みたいな「奇妙な異世界」を舞台にした探偵小説で興味を惹く。
主人公の訪れる「忘れられた孤島」では、未来を予知する(『ファウンデーション』のハリ・セルダンのような)案山子や、嘘しか言わない(クレタ人のような)画家、罪人をことごとく銃殺する仕置人など、奇妙な人物たちが次々と登場してファンタジー風の異世界をかたちづくる。事件の解決ではこれらの人物の行動をパズル的に組み合わせる意図が見られ、ついでに後期クイーン風の「名探偵」の役割を相対化するような視点も示される。
そのあたりは意欲的で好感を持てるものの、新人作家とはいえどうも構成に隙が多すぎる。この小説では『十角館の殺人』みたいにときおり「島の外」の場面が挿入されるのだけど、そちらの場面で主軸になる悪徳刑事と主人公の元恋人の造形はいずれも底が浅くて興醒め。そもそも一人称叙述の小説で平然と三人称の場面転換が入るのは、どうみても不自然だろう。無理にサスペンスを盛りあげねばならない話でもないのだし、この「島の外」の挿話は要らなかったんじゃないのかな。まあ、今後に期待ということで。
ちなみにこの小説を読む気になったのは、著者略歴に「映画監督のコーエン兄弟、ジャン・ジャック・ベネックス、エミール・クストリッツァなどに影響を受ける」と記してあったため。コーエン兄弟とクストリッツァはどちらも好きな映画作家で、ほとんど全作品を観ている。そんなわけで、もうひとり名前を挙げられているジャン・ジャック・ベネックスの映画も(未見のため)今後押さえておこうと思った。
小林泰三/角川書店(2001.05)[amazon] [bk1]
★★★
「そう、論理学だ。それも最も基礎のね」隼人は話を続けた。「で、西川君は『死者が復活したから、キリストも復活する』と主張したわけだが、もしこの主張が正しいのなら、『英語を喋る日本人がいたから、小野妹子も英語を喋る』という結論も正しいことになってしまう」
「屁理屈よ」沙織は冷たく言い放つ。
「屁理屈はあいつらのほうだよ。君は自然科学系の学科出身なのに、どうしてそんなに論理が苦手なんだ?」(p.86-87)
この作家では『玩具修理者』と『肉食屋敷』を読んでいるけれど、どちらもあまりぴんとこなかった(特に『肉食屋敷』は出来の良くない作品集だったと思う)。それらにくらべると、こんどの長編はわりとふつうに愉しめる。
「超人」ネタには造詣の薄い世代なので、その点にはさほど実感が湧かず、むしろ最近の映画『アンブレイカブル』の趣向を思い浮かべながら読んだ。交通機関の大惨事からただひとり生還した人物を主役にすえる導入部の流れはやけに似ているし、漫画的な「ヒーロー」の物語を日常的・科学的な視野から語りなおそうとする試みも共通している。だから漫画を連想させる場面は多くて、主人公が異生命体と共生しながら闘う設定は『寄生獣』を思わせるし、怪物化した人間と血みどろの抗争をくりひろげる後半の展開は『ベルセルク』みたいでもある(源流はほかにあるんだろうけど)。細かいところでは『ジョジョの奇妙な冒険』の名台詞なんかも引用されていたようだ。
惜しむらくは、それらが「にやりとさせる」おたく的な趣向にとどまって、この作家独自の物語を感じられないところだろうか。それは似たようなことをやっている殊能将之もそうなんだけど。個人的には、あのねちねちした会話の才能を縦横に発揮すれば、カフカ的な異空間を創出できなくもないような気もするのだけど、いかがなものか。
ちなみに、「雑誌にいちど載っただけでは作家になれない」「熱力学の第二法則うんぬん」「論理学の初歩をわかってない」といった言及には、この作家の介入していたweb上の論争(?)を観察していた読者なら思いあたるふしがあるだろう。あれもいちおう創作のネタ集めの一環だったみたいね。
Dogma 95 - Idioterne, 1998
★★★
ラース・フォン・トリアー監督の「ドグマ95」公認作。評判の良い作品なのでだいぶ期待してしまったせいか、さすがに野心作とは思うもののどうも乗りきれない気分が残った。
「ドグマ95」関連ではほかに『キング・イズ・アライヴ』くらいしか観ていないのだけど、どちらの作品も小劇団ふうの共同体を撮影対象にして、俳優たちは劇中で何らかの「演技」をする役割を割り振られる。つまり「演技をする演技」を要求されるわけで、その俳優たちの二重の「演技」の果てに「真実」が垣間見える瞬間をとらえたい、てなところなのだろう。まあ何というか、いかにも既成の映画づくりに飽きちゃった理論家が思いつきそうな話ではある。
「劇中で演技をさせる」映画を撮る動機という点で、この『イディオッツ』の「知的障害者のふりをする」という着想は、なかなか反道徳的でたしかに興味深い。ただし、俳優の即興的反応を優先してほとんど脚本を練っていないせいか、この趣向が必ずしも作品全体を通して活かされていないように思えた。たとえば映画の終盤でヒロインがいきなり「食べ物をこぼす」ふるまいを見せるのだけど、この人はその直前までごくふつうの正常人(という表現もなんだけど)の応対をしているわけで、それだと結局、知的障害者を装うことにはなっていないような気がする。