▼ Book Review 2001.1

『箱ちがい』 スティーヴンスン&オズボーン
『X雨』 沙藤一樹
『順列都市』 グレッグ・イーガン
『鳥』 ダフネ・デュ・モーリア
『愛の続き』 イアン・マキューアン
『レディに捧げる殺人物語』 フランシス・アイルズ
『騙し絵の檻』 ジル・マゴーン
『ネヴァダの犬たち』 ジョン・リドリー
『殺戮の天使』 ジャン=パトリック・マンシェット
『愛はいかがわしく』 ジョン・リドリー
『白の海へ』 ジェイムズ・ディッキー
『悪党パーカー/人狩り』 リチャード・スターク
『穢れしものに祝福を』 デニス・レヘイン
『祈りの海』 グレッグ・イーガン

※(ごく主観的な)評価は★5段階。

『箱ちがい』 ★★★
ロバート・ルイス・スティーヴンスン&ロイド・オズボーン/千葉康樹訳/国書刊行会
The Wrong Box/Robert Louis Stevenson & Lloyd Osbourne(1889)

■『宝島』『ジキル博士とハイド氏』の文豪スティーヴンスンとその義理の息子(『宝島』の宛先人)による共作。勘違いといたずらのために誤配されつづける死体をめぐって、お間抜けな関係者たちがロンドンの町をうろうろするさまをコミカルな筆致で描く。作者たちの態度も終始悪ふざけ調なら、人物たちの行動もどうみても悪ふざけの連続(無駄な変装にやたら手間をかけたりとか)。ユーモア物としては高踏的なシニカルさというよりはただ単にあほなだけという路線で、まるで酔っぱらいのようなその徹底ぶりはほとんど「モンティ・パイソン」なんかの世界に近い。これで人物配置が見事に効いてきたり伏線が決まったりするとすごい傑作になったのかもしれないけれど、そこまで巧妙なたくらみはなかった。でもまあ英国らしい愉快でチャーミングな佳作。翻訳もなかなか快調で良かった。

(2000.1.29)


『X雨』 ★★★★
沙藤一樹/角川ホラー文庫(2000)

■結構おもしろく読めた。いびつなメタフィクション趣向で、思いつくものではたとえば英国の作家ガイ・バートの『体験のあと』(矢野浩三郎訳/集英社)という小説にいくつか類似点を見出せる。そして『体験のあと』がワンアイディア気味でごくシンプルな構造だったのとくらべると、こちらは語り手や叙述レベルを最初から多重化しているのが巧妙。あらかじめそのことを明示したうえで話を進める戦略で、読者を行間読み推理合戦へとなかば巻き込みながら、「しょぼい小説」を読まされる苦痛をそこそこうまくごまかしている。この手のものではなかなか工夫されているといってよさそう。読んでいて不審を感じた点や推測をつけていた点のもやもやがあとでだいたい晴らされるような構成になっているので、ミステリ的な興趣があるといえなくもないだろうか。
■しかし中盤に挿入される「小説」の破壊的な下手さかげんはなんともすごいものがあり(まさに迫真だ)、いったいどの程度が計算でどこまでが天然なのかよくわからなかったりする。

(2000.1.27)


『順列都市』 ★★★
グレッグ・イーガン/山岸真訳/ハヤカワ文庫SF上下
Permutation City/Greg Egan(1994)

■ええと、要するについていけませんでした。さすがにこれは暴走しすぎじゃないかな。だいたい「塵理論」って何よ?
■というだけではいかにもあたま悪そうなのでもうちょっと書いておくと、前作『宇宙消失』もそうだったけれど、この作家は明らかに小説でないとできないような表現を試みているのが興味深い。世界を言葉で説明するというより、いわゆる「論理のアクロバット」そのものが物語世界そして宇宙を創造/構築/更新していく。特に本書の後半なんていったいどんな映像を思い浮かべればいいものやらさっぱり不明で、映像主義の読者には多分きついんじゃなかろうか。物語世界はほんとに思考や仮説だけをもとに成立していて、だから本書で描かれる「順列都市」がいかにして崩壊せざるをえなくなるのか、という事情はひじょうに象徴的なところだと思う。ただ『宇宙消失』では(作者お得意の)アイデンティティや自由意思などの哲学的な問題を一人称叙述に絡めて投げかけているところが興味深かったし考えさせられたのだけど、この『順列都市』は多人数の三人称叙述という形式もあって、そういった読者へダイレクトに響いてくるような展開はあまり多くなかった気がする。
■人格を電子的に複製した不死の「コピー」たちのあいだで貧富の階級差が生じる、という発想がおもしろかった。生体死亡の時点で裕福でないと充分なコンピュータ資源を確保できないため、仕事や資金集めの方策を満足に遂行することができない。つまり死後の世界でも貧乏人はいつまでたっても貧しいままで、金持ちは泰然としていられるということになる。

(2000.1.27)


『鳥』 ★★★★★
ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子訳/創元推理文庫
Birds and other stories/Daphne du Maurier(1952)

■『レベッカ』で有名な英国作家の短編集。収録作は「恋人」「鳥」「写真家」「モンテ・ヴェリタ」「林檎の木」「番」「裂けた時間」「動機」。初紹介作はないものの一冊での完訳は初めてになるらしい。筋書きはたいがい先が読めてしまうのだけれど、どっぷりと作品世界にひたって愉しむことができた。これが筆力ということなんだろう。とりわけ、ヒッチコック映画で知られる「鳥」の冷酷で凄惨な襲撃場面、「写真家」での異様な情事(フランス映画みたいな雰囲気)、「モンテ・ヴェリタ」の月光に照らされた異界の寺院、「林檎の木」の不吉な林檎の木の姿など、それぞれ独創的な映像が脳裏に刻み込まれる。
■作品的には「鳥」「写真家」「モンテ・ヴェリタ」の並びが強烈だった。ほかは比較するとやや落ちるかもしれない。「裂けた時間」は北村薫の『スキップ』の元ネタではないか、と某所で話題になったことのある作品。いちばんミステリ的な筋立ての「動機」はなぜか『氷点』みたいな話だった。あと、どれとは指摘しないけれどわざわざ原題と異なる邦題をつけたせいでネタの割れている作品があるのは意図不明。
■話の構造としては、退屈で平安な日常が理不尽な「死」や「暴力」によって脅かされあるいは崩壊する、という構図のものが目立つ。そのあたりの不安の根源はどのあたりにあるのかと考えてみるに、「戦争」という要素は無視できないんじゃないだろうか。実際「恋人」「モンテ・ヴェリタ」「裂けた時間」には何らかのかたちで世界大戦への直接的な言及があるし、さらに「恋人」での次のようなやりとり、

「あの連中がどうかしたの?」ぼくは訊ねた。「空軍に何かされたのかい?」
「連中は、わたしのうちをつぶしたのよ」彼女は言った。
「でもそれはドイツ軍だよ。イギリス空軍じゃないだろ」
「おんなじことよ。連中は殺し屋だわ。そうでしょ?」
(p.36)

これを読んだあとでは、「鳥」で閑静な農村を理由なく破壊・殺戮しつくす凶暴な野鳥の群れに、大戦中のドイツ軍戦闘機による爆撃の影を重ね合わせたとしても、決して牽強付会ではないだろう(鳥たちを何とかしようとした英国軍の飛行機はあっさり撃墜されてしまう)。この作家がどのような戦争を体験したのか(あるいはしていないのか)は全然知らないのだけれど、戦争のような不条理な暴力で「退屈で平安な日常」がいかに脆く破壊されてしまうものなのか、そのような日常生活がどんなにかけがえのないものなのかを、きっと身を持って知ったことのある人なんじゃないだろうか。ここに集められた物語たちの説得力は、そういったところからも生まれているように思える。
■「裂けた時間」で、主人公の婦人はみずからの人生をふりかえって穏やかに述懐する。

「すべては過ぎていく」ミセス・エリスは考える。「歓びも哀しみも、幸せも苦しみも。きっとわたしの友人たちは、こんな生活は退屈だ、変化がなさすぎると言うだろう。でもわたしは、この暮らしに感謝しているし、満足している」(p.393)

(2000.1.21)


『愛の続き』 ★★★★
イアン・マキューアン/小山太一訳/新潮社
Enduring Love/Ian McEwan(1997)

この文章でぼくが気に入ったのは、ストーリーを語ることが持っている力と魅惑とによって判断が曇らされているという点だ。いかに楽しいものであろうとも、科学の基準からすればこのストーリーは全くのナンセンスだ。理論は証明されず、用語は定義されず、全く意味のない一片の物語、嗤うべき擬人化の一例にすぎない。(p.54)

■次作『アムステルダム』よりもこちらのほうがブッカー賞にふさわしかった、との批評も出たらしいだけあってさすがに堪能できた。科学ライターとしてそれなりに成功していたインテリ男性の主人公(語り手)が、ひょんなことから年下のサイコ青年につきまとわれて平和な暮らしを脅かされていく。どことなくパトリシア・ハイスミスを思わせるような筋書き。主人公が徐々に平静な心を失っていき、美しい同居人(キーツが専門の文学研究者)との仲もこじれていく……といったあたりの、日常の静かな崩壊を描く繊細な筆致がとても良かった。主人公がまだ理性を保っているのかそれともやっぱりおかしくなりかけているのか、読んでいてもなかなか見極めきれないという高等技術。その主人公側の緊密な描写にくらべると、電波系ストーカー男の扱いのほうは結局サイコ的な「ネタ」の段階にとどまったような気もしないではないのがやや惜しまれるところだろうか。
■全編にわたって、世界から「物語」を読みとろうとする行為へのシニカルな態度が見え隠れしている。サイコ青年は身の周りの出来事ひとつひとつに自分への「メッセージ」の意味を妄想して「物語」を捏造していたし、科学読物を職業にしている主人公のほうも、他人の研究からむりやり「物語」を拾い上げてくるような仕事にいささか嫌気がさしている。気球事故の犠牲者の妻は些細な疑惑から生まれた「物語」が頭から離れない。そして主人公が銃を手に入れるために会ったならず者たちでさえ、「幼児期の抑圧」「星占い」「産業革命の害悪」など、さまざまな「物語」を披露してくれる。でも、たとえば実際に何かが自分の身に起きたとしたら、

けれども人間はそんな論理を持ちえない。この午後がそうした幸福のうちにクライマックスを迎えることができなかったのは、直接・間接の理由がある。ストーリーを語るという要約作業、特に映画のストーリーはぼくらをハッピーエンドで欺き、緊張の持続が感情を蝕むことを忘れさせる。恐怖から解放された瞬間に歓喜があふれたりすることは滅多にないのだ。(p.270)

■あと、この作家が母国語圏で評価されているのはその文章の端正さにあずかるところも大きいみたいだ。そのあたりはなかなか翻訳では判断しづらい要素なのでちょっと残念といえば残念。
(2000.1.20)


『レディに捧げる殺人物語』 ★★★★
フランシス・アイルズ/鮎川信夫訳/創元推理文庫
A Murder Story for Ledies/Francis Iles(1932)

彼女はもうずっと前から、田舎者のあいだではやっている知的批評なるものの芸術問題に関する厚かましい独断的主張なんかでは頭を悩まさなくなっていた。彼らはたまたま、ある本か絵か音楽が自分の気に入らないと、その本や絵や音楽は悪いに決まっていると思いこんでしまう。そして、それをいいものと考える人びとは、問題なくまちがっていることになる。ひょっとすると自分の知能では理解できない本なのかもしれないというような考えは、どんな女流批評家の頭にも浮かんだためしはなかった(もちろん、男たちのほうは推理小説しか読んでいなかった)。(p.69)

■フランシス・アイルズ名義の第二長編。別題『犯行以前』(Before the Fact)のほうが通りはいいのかな。まず冒頭の、

 世の中には殺人者を生む女もあれば、殺人者とベッドをともにする女もある。そしてまた、殺人者と結婚する女もある。リナ・アスガースは、八年近くも夫と暮らしてから、やっと自分が殺人者と結婚したことをさとった。(p.8)

という書き出しからして、「妻殺しをたくらむ夫」の視点から描かれた前作『殺意』(Malice Aforethought/1931)の裏返しをあらかじめ宣言しているようで、これは明らかに確信犯の実験作。全編にわたってほとんど嫌味のようないかにも裏のある文章が連ねられ、人物描写も例によって底意地の悪さを感じさせる。
■どうやら作者は、およそ深みのない人物たちの織りなす凡庸そうな筋書きをいかに興味深く書けるか、というひねくれた境地にあえて挑んでいるようなふしがあって、そのために本作で試みているのが「客観的な裏付けを行わない」という書法ではないかと思う。この小説はいちおう三人称の叙述形式で語られているのだけど、肝心なところは誰かの主観的心理で語られるだけだったり、あるいは直接描写されないまま終わることが多い。たとえば主人公リナの容貌が結局どんな程度のものなのか、読者は客観的な言葉で知ることができない。また遊び人の夫ジョニーの数々の不品行はあまりにもあからさまなので、誰でも妻のリナよりはるか先に推測できるだろうけれど、これもなかなか明るみには出ない(むしろ、いつどのようにばれるんだろうかという興味で話が進む)。そこで読者は、手がかりから何らかの推理なり想像なりをはたらかせなければならないことになる。
■結末に関してもその延長にあるようで、個人的な感想をいえば、これはいわゆるリドル・ストーリーと受け取ってかまわないのではないかと思う。〈リナが毒を飲んだ〉ことを明確に裏づける描写は結局なされていないようだし、〈謎の毒物〉とやらの存在もいちども確認されていない。そのように考えたほうが物語の流れとも合致するような気がする。なぜならこの小説の題名は、"Before the Fact"――「事実」の語られるまえの物語なのだから。
■手厚く描写されている不均衡な夫婦の関係や、主人公の社会的な位置などについては、若島正の批評(風俗小説家としてのバークリー)で詳しく解説されている。ちなみにこれらの点に関してあえていえば、興味を惹かれないわけではないけど、同時代の風潮を念頭に置いたような皮肉が多いみたいなので、時代を隔てて読むといまひとつ実感が湧きにくいかな、という感想も否めなかった。
(2000.1.14)


『騙し絵の檻』 ★★
ジル・マゴーン/中村有希訳/創元推理文庫
The Stalking Horse/Jill McGown(1987)

■解説の法月綸太郎は相当ほめちぎっているけれど、地味なパズラーで特に騒ぐほどではないという感想しか持てなかった。いわれなき罪で投獄されてようやく仮釈放、復讐を誓う「当事者」を探偵役に据えているのは、パトリック・クェンティンあたりの作風に近いかな。作者はややハードボイルドがかった筆致で話を進めようとしているけれど、いささか無理をしているかんじ。エリザベス・フェラーズのとぼけた会話で味を出している中村有希さんの翻訳も少し苦しげな印象だった。だいたい英国らしいユーモアがないし人物描写も薄いんで、読み手の興味をつなぐような魅力が生まれてこない。そのためのロマンスなんだろうけど、「無実を信じてけなげに手を尽くしてくれる善良で有能な元記者の女」なんて、心の汚れてしまった僕には不審すぎて何か裏がありそうにしか思えなかったよ。
■驚愕の真相とかミスディレクションの妙とかいうよりは、フラッシュバック構成で事件の紹介をかきまわして前後関係を把握しづらくしているだけじゃないのかな。

(2000.1.13)


『ネヴァダの犬たち』 ★★★★
ジョン・リドリー/渡辺佐智江訳/ハヤカワ文庫NV
Stray Dogs/John Ridley(1997)

『愛はいかがわしく』の作者の第一作。主人公が賭事の借金で追いたてられる発端は「ほかに思いつかんのか」と思わないでもないけれど、砂漠に囲まれた場末の田舎町、行く手をさえぎる曲者の住人たち、淫蕩な妻と金持ちで策謀家の夫、炎暑のもと徐々に高まる乾いた暴力衝動……と、これはもうケイン/トンプスン系の典型的なパルプ・ノワールの世界。といっても古くさいかんじはせず、それぞれキャラの立った脇役たちに、軽妙な会話、それにポップな翻訳も手伝って、現代風の味わいで読める。このあたりはタランティーノ登場以降の潮流ということもあるのか。おそらく『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』『残酷な夜』『ポップ1280』あたりは作者も意識しているはず。次作の『愛はいかがわしく』では(たぶん主人公の職業なんかから)ジム・トンプスンの『グリフターズ』を引き合いに出した批評が出ていたけれど、それもむべなるかなと思わせる(ところで『愛はいかがわしく』に顔を出すラスヴェガスの東洋系娼婦はこちらにも出演していた)。ちなみに、ダン・ゴードンの『死んだふり』はいくつかの点で本作を参考にしていたのではないかと思われる。
■もともとこれは映画の脚本として書かれた話らしい。オリヴァー・ストーン監督+ショーン・ペン主演の映画版は邦題『Uターン』。作者ジョン・リドリーも製作・脚本で本格的に参加しているようで、ちょっと観てみたい。
■舞台となる砂漠の田舎町「シエラ」は、まるで出口のない蟻地獄の巣みたいだ。人はそこで堕ちていくしかない。

(2000.1.13)


『殺戮の天使』 ★★★★
ジャン=パトリック・マンシェット/野崎歓訳/学習研究社
Fatale/Jean-Patrick Manchette(1977)

「その時の気分は、まるで本当に啓示を受けたみたいだった」と彼女は男爵に言った。「殺してかまわないんだ。大馬鹿どもは殺してもかまわないんだと分かったんだよ」(p.120)

■主人公は謎めいた女暗殺者。その非情なヒロインが田舎町に潜入して金持ちたちの愚かな争いに乗じようとする筋書きは、ダシール・ハメットの『赤い収穫』やジム・トンプスンの『残酷な夜』を思わせなくもないけれど、『残酷な夜』がそうだったように、終盤の暴走はほとんど破壊的で、どことなくシュールな絵画を暴力的に描いているような印象さえ与える。ちなみに「ブルジョワ」たちを成敗する構図にはたしかに左翼思想めいた哲学をかぎとれなくもないけれど、主人公が政治にまったく興味を示さないせいもあり、それは物語の遠景くらいにとどまっている。
■いささか奇異に感じたのは、文体がずいぶん映像を意識したものになっていること。登場人物の顔かたちや服装に、部屋のインテリアなど、それぞれ必要以上なほど詳細な描写がなされる。というより、こんなに書かれても小説の読者は把握しきれないのがふつうだろう。さらに台詞のあいまに挿入される括弧つきの注釈は、まるで台本のト書きのような印象。要するに作者は一編の映画を撮るような意識でこの小説を語っているのではないか。その「映像」が読者に伝わりきらないこともおそらく承知しているはずで、だからラストシーンが小説の文法を飛び越えてしまうのも当然のなりゆきなんだろうと思う。
■ところで訳者あとがきによると、晩年のマンシェットは第二次世界大戦以降の現代裏面史を描く壮大な連作にとりかかっていたらしい(1995年病没のため未完)。「悪い時代の人々」という趣旨だそうで、この企図が『ブラック・ダリア』(1987)以降のジェイムズ・エルロイの創作活動と呼応しているように感じるのは僕だけではないだろう。

(2000.1.8)


『愛はいかがわしく』 ★★★★
ジョン・リドリー/雨海弘美訳/角川書店
Love is a Racket/John Ridley(1998)

■よくできた「負け犬」小説。借金取りのギャングに追い立てられて起死回生の策を練る、というプロットはいまさら目新しくもないけれど、ハリウッドでの夢破れてうらぶれた、もう若くない主人公の行き場のなさが心にひびく。作者はさすがプロの脚本家だけあって会話は手慣れているし、「片腕のバーテン」「東洋で《禅ポーカー》を学んだ天才賭博師」「やたら早口の辣腕弁護士」など、コミック的な脇役たちの造形もそれぞれ印象に残る。乱雑に散りばめられたようなエピソードも意外に活きていて、なかなか隙のない職人ぶりだった。
■主人公がもと脚本家志望ということもあって、有名映画を下敷きにしたようなネタもいくつか効いている。『リービング・ラスベガス』(原作は読んでないけど)や『マイ・フェア・レディ』とか。ちなみに前者を引いているのは単にアル中破滅ネタの引用というだけでなく、本書の結末が一種のハッピーエンドといえなくもないことを留保しているんではないかと思った。
■『死んだふり』のダン・ゴードンなんかもそうだけど、映画業界で活躍しながらこういうポップな犯罪小説にも手を染める、といった立場の人は今後も増えてきそうな気がする。
(2000.1.7)


『白の海へ』 ★★★
ジェイムズ・ディッキー/高山恵訳/アーティストハウス
To the White Sea/James Dickey(1993)

■第二次世界大戦時、B29で来襲した米軍飛行士がひとり東京付近で墜落。なにしろそれがアラスカ出身のエスキモーだったものだから、とりあえず地図を見て惹かれていた北海道をめざしてひたすら北上していく、というなんだかよくわからない不思議なロード・ノヴェル。森と獣にしか興味のないマタギみたいな人物が主人公なので、話が政治性を帯びたりなんかはまったくせず、いくぶんファンタジー的な異郷サバイバル物語というおもむきになっている。
■無感動で淡々としながらも強靱な主人公の語りが独特で、ある種のハードボイルド小説のような味わいを感じさせる。とりわけ印象的だったのは、彼にとっては全身を流れる「血」の熱さこそが「生命」そのものらしい、ということ。食糧や水を得て体力が回復したりするたびに、新しく血を入れ換えたような気分だ、といったような言葉で表現される。凍えそうな北国の山中で、獣たちの貴重な「血の熱さ」を捕獲する暮らしをしていると、そんなふうに実感するものなんだろうなと思わせる説得力がある。
■コーエン兄弟監督+ブラッド・ピット主演で映画化が決まっているらしい。でも「黒髪で背の低いエスキモー」って、どう考えてもブラッド・ピットと合致する点がひとつもないんだけど……。
(2000.1.4)


『悪党パーカー/人狩り』 ★★★
リチャード・スターク/小鷹信光訳/ハヤカワ文庫HM
The Hunter/Richard Stark(1962)

「すると、本当はあんたは放浪者で、経歴とか、住所、職業を申したてられない、というんだな?」
「そのとおりです」
(p.240)

■もう少しゲーム的なひねりのある作風なのかなと思っていたのだけど、シリーズとっかかりのこの作品はかなり直線的な復讐譚。ちなみにこの時点のスターク=ウェストレイクは、多分にダシール・ハメットのファンライターという色が濃いように思った。
■この小説でかなり強調されているのは、主人公の職業犯罪者パーカーが経歴や出自、そして本名もまったく明かされない「透明」な超人的タフガイであること。「パーカー」というのも仮の名前。整形手術も少なからずしているようだから決まった「顔」さえも持たない。そりゃ捕まらないよなと思う。そして、この小説の筋書きは結果的に、みずからの過去を少しでも知る人物をパーカーが容赦なく抹殺していく構図にもなっている。
■小鷹信光の訳文がそういう調子のせいもあるかもしれないけれど、作者の筆致や登場人物の思考・行動がやたらマッチョ的なので、いま読むにはちょっときつかった。たとえばパーカー初登場のさいの紹介文はこんなかんじになっている;

 オフィス・ガールたちは、彼を見てゾクゾクッとした。彼が非情な男で、その手は人を殴るためにそなわり、その眼は女を見てもけっして微笑まないことを見抜いているのだ。彼がどんな男か、彼女たちにはよくわかっていたし、平凡な亭主をもらったことに感謝もしながら、やはりからだじゅうがゾクゾクしてくる。夜になると、どんなに勢いよくこの男が女のからだの上にのしかかってくるかも、よく知っていたからだ。巨木が倒れかかってくるような重みが、感じられさえするのだ。(p.8)

ううむ、やっぱりこれを読んで「かっこいい」とか「セクシー」とか感じるべきなんだろうかね。ちなみに僕は船戸与一の『山猫の夏』や『猛き箱船』なんかも似たようなくさみを感じて、素直には愉しめなかった。『ポップ1280』のジム・トンプスンがいまでも新鮮に読めるのは、この種のマッチョ臭をまるきり超越した地点で書かれているところもひとつ大きいんではなかろうか。
(2000.1.1)


『穢れしものに祝福を』 ★
デニス・レヘイン/鎌田三平訳/角川文庫
Sacred/Dennis Lehane(1997)

『スコッチに涙を託して』『闇よ、我が手を取りたまえ』でハードボイルド系の新鋭として期待を集めたデニス・レヘインだけど、この続編はぜんぜん駄目。「いんちきセミナーから秘密のフロッピーを盗み出す」「いきなり銀行口座を押さえられている」など、どこをとってもできそこないのハリウッド映画なみの安易さで、出てくる人物も「男なら誰も抵抗できない絶世の美女」「世界市場を牛耳る悪辣な大富豪」をはじめ(悪い意味で)漫画的としかいいようがない。主人公たちの行動も知性なくむやみに事を荒立てているだけ。前二作で見せたような、「社会」にも「個人」にも動機を還元しきれない、善悪の境界の混沌とした世界観は跡形もなくなっていた。軽薄な会話もいちいち鼻につく。どうにも弁護しようのない出来で、落ちるにしてもここまで急激とはさすがに思わなかった。慢心したのだろうか。
■探偵の技術を主人公に教え込んだ師匠が出てくる展開は少し『第八の地獄』や『ストリート・キッズ』みたいで、富豪の失踪した娘を探す筋書きはいくぶんロス・マクドナルド風かな。でもまあどうでもいい。前作の『闇よ、我が手を取りたまえ』ですでに、主人公の周りの「相棒の美女」にしても「無敵の暴れん坊」にしても、やや持て余し気味のきらいがあったけれど、今回はそのあたりのまずさが露骨に出てしまっている。

(2000.1.1)


『祈りの海』 ★★★★
グレッグ・イーガン/山岸真編訳/ハヤカワSF文庫
Oceanic and other stories/Greg Egan

大学の専攻は財政金融学だったが、哲学科の講義もひとつ受講した。けれども哲学科というところは、エンドーリ装置、一般にいう〈宝石〉のことにはぴたりと口を閉ざしていた。(中略)/ぼくは哲学に見切りをつけて、一般向けの光学結晶体工学の講座に登録した。(p.77)

■選集は日本独自らしい。なかなか粒揃いの好短編集だった。収録作は「貸金庫」「キューティ」「ぼくになることを」「繭」「百光年ダイアリー」「誘拐」「放浪者の惑星」「ミトコンドリア・イヴ」「無限の暗殺者」「イェユーカ」「祈りの海」。読みやすいし初めての人に薦めるのには適していると思う(おもにそういう趣旨で編まれているのかな)。印象に残っているのは「貸金庫」(これを冒頭に持ってきているのはとてもよくわかる)「ぼくになることを」「誘拐」「無限の暗殺者」あたり。たぶん「無限の暗殺者」は時系列的にみて『宇宙消失』の原型なんだろう。
■収録作がどれも一人称叙述の小説なのは、「自分」の認識をつねに疑う作風のひとらしい。作中の問題は必ずこの「語り手」を切実な当事者として巻き込みながら展開していく。基本的にどの作品もSFならではの切り口で、たえず「自分の認識」や「自由な意思決定」の臨界点を問いかけるような哲学的で普遍的なたとえ話になっているから、たとえ僕みたいな門外漢の読者でも充分に興味深く、自分にはねかえってくるような意識で読み進めることができる。
■ちなみに、解説の瀬名秀明は最近の作品「イェユーカ」「祈りの海」をずいぶん持ち上げているけれど、僕はそもそも『宇宙消失』を「長編小説としての基本的な作法に欠け」るとは思わなかったので、ちょっと立場が違う。たとえば『宇宙消失』では、「主人公=語り手」が途中でいきなり意識改造されてしまい、第一部と第二部では言うことが180度違っている(笑)なんていう、一人称小説の存立を危うくしかねないような冒険的試みが盛り込まれているのが刺激的だった。似たような趣旨の小説的実験は後半にもまた仕込まれていて、だからSF的な着想は単なる作中の小道具にとどまらず、小説の枠組みを揺るがしながら読者のもとまで強烈に伝わってくる。この『祈りの海』はたしかに好短編集なのだけど、あえていえば『宇宙消失』のそういった尖鋭さや、あるいはねじくれた論理世界の暴走する魅力なんかはさほど感じられなかった。あとはやはり短編のせいか、全般的に筋のひねりや思考実験の詰めがもうひとつ足りないような印象も受けないではない。
■とりあえず、未読の『順列都市』も読んでみるつもり。

(2001.1.1)


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