東野圭吾/文藝春秋(2001)[amazon] [bk1]
★★★
題名から想起されるふつうの恋愛ものではなく、性同一性障害を軸にしたジェンダーの話題を〈宮部みゆきの『火車』〉の題材に絡めてみたような筋書き。それなりに組み立てられてはいるけれど、どうも題材が題材なのであまり下手なことは書けないせいなのか、結局「お勉強」小説に終始してしまった印象を受ける。物語ならではの独自の洞察みたいなものは特に見られなかった。あと東野圭吾といえば「何も考えずにすらすら読める作家」の代表格と思っているのだけど(悪い意味ではなく)、この新作は作中人物の心情をやたら地の文で解説しているのが目について、ひっかかる箇所が少なくなかった。
加えて「謎解き人間ドラマ」指向の良くないところがだいぶ出てしまっているように思える。どこを読んでも「これは伏線だろ」とか疑ってしまう不自然な書かれかたなので、人物の動きを素直に受けとめるのが難しい。
鈴木清順監督の1980年作品。リバイバル上映に行ってみたのだけど、基本的に話のないカルト系の耽美文芸ホラーといったかんじで、こういうのはどうも苦手な分野。実は途中ひととき睡魔に負けてしまった。序盤のあたりは文系男とワイルド系男の微妙な関係を軸にした構図で、それなりの興味で観られたのだけど。(★★)
女ふたり組の無軌道セックス&ヴァイオレンス的ロード・ノヴェル『バカなヤツらは皆殺し』の映画化で、原作者ヴィルジニ・デパントみずから監督・脚本(共同名義)。主演のふたりはどちらも元ポルノ女優らしい。さすがにあの原作の映像化としてはそれなりの出来だった。全編がハンドカメラ風の粗い映像で、ほとんど実録スナッフ・フィルムみたいな雰囲気。「殺される人物」の視点から撮られる殺戮場面がえらい後味悪くて、これはやはり映像ならではの演出だなと思った。
原作のほうの細部はもうあまり憶えていないので比較はできないけれど、行き場のなくなったふたりが出奔するまでの導入部の手続きが意外と緻密。後半はいくぶんあっけなくて、特に原作で名場面だった富豪殺しの挿話は、もう少し何らかの工夫を見せてほしかった気もする。最後のほうで襲撃される〈"Fuck Club"〉は、〈"Fight Club"〉のもじりかも。字幕の台詞も適度の(いわゆる)コギャル調で良かった。「警察って基本的にバカだし」とか。(★★★)
いままで観てなくてすいません、の1970年代犯罪映画を二本。
ジョージ・ロイ・ヒル監督の小粋なコンゲーム映画の名作。さすがに感心はしたのだけど、個人的には禁酒法時代の「古き良き」雰囲気に思い入れがないのと、話の都合が良すぎてひっかかりがないのとで、良くも悪くもそれ以上の愛着は感じなかった。競馬を軸にした犯罪計画ものといえば、スタンリー・キューブリック監督の初期の犯罪映画『現金に体を張れ』(1957)を連想させる。時系列を前後させながら計画の全貌を徐々に明かしていく中盤あたりの構成も、おそらく『現金に体を張れ』からの換骨奪胎。加えて、観客に何を知らせて何を隠したままにしておくか、の選択から生じるミスディレクションの妙についても、それなりに考えさせられる構成だった。
主演の若きロバート・レッドフォードは、現在のブラッド・ピットを思わせる(逆か)金髪碧眼の美男。(★★★)
サム・ペキンパー監督。ダスティン・ホフマン演じる弱腰の数学者が野蛮な田舎者たちと闘う話なのだけど、すべての挿話が主人公を苛立たせるために仕組まれているようで、いまみるとやや強引な構成に思えてしまう。ホフマンの役柄は『卒業』の主人公像もかぶらせているのかな。
まず感じたのは、これは典型的ないわゆるゾンビホラーの構図ではないか、ということ。わらわらと家に侵入してくる凶暴な敵を撃退していく場面は、対象が生身の人間というのを除けば、ゾンビものとほとんど変わりない。
あと、コーエン兄弟の第一作『ブラッドシンプル』はこの『わらの犬』をだいぶ意識していたのではないかと思う。窓枠を使った攻防の場面が似ているし、最後に「女が撃つ」構成も通じる。それに『ブラッドシンプル』もずいぶんゾンビホラー風味が濃厚だった。(★★★)
★怒涛の3ポイント攻勢
NBAプレイオフ1回戦はダラス・マーベリックスが常連のユタ・ジャズを破ってカンファレンス・セミファイナル進出。これは結構驚いた。スコアを見たところでは、敵地の最終戦第4Qで14点負けをひっくりかえしての1点差勝利と、なんだかすごいことになっている。リーグ屈指のアウトサイド攻撃力(スティーヴ・ナッシュ&マイケル・フィンリー&ダーク・ノヴィツキー)を擁するダラスは、インサイドの攻防をほとんど捨てて怒涛の3P攻勢で押しまくる、という開き直った極端な作戦が持ち味のチームで、僕はわりと好き。非米国籍の選手が少なからず活躍しているのもあって、なんともNBAらしからぬ布陣ともいえる。これが実際どこまで通用するのかは個人的に注目。
次の相手は優勝候補のサンアントニオ・スパーズ。ティム・ダンカン&デヴィッド・ロビンソンの「ツインタワー」を軸にしたインサイド支配力が売りのところなので、アウトサイド一本槍のダラスなら意外にいい勝負できるかも、なんて思うのだけどいかがなものか。西地区はもうひとつのLAレイカーズ対サクラメント・キングスのほうも、優勝候補と新興の攻撃型チームの対決という構図で、こちらもおもしろくなりそう。
吉野仁氏の日記(5/4)で、瀬戸川猛資と法月綸太郎の文章にいささか批判的な言及。
奇説・異説を繰り出すのが前提になった批評は本末転倒になりかねないよね、というような主旨。この種の論議に関しては、基本的に作品本位の批評だったら構わないんじゃないかと考えている。作品そのものに(独自の角度から)光を当てる意図で書かれた批評はたいていそれなりの興味を持って読めるし、そういう作品論の段階を踏み越えて、作品をだしに持論を開陳するだけだったり、批評家の自己顕示に終始するような文章は概してつまらない。まあ、そのあたりの線引きは人によってだいぶ違うかもしれないけれど。
あと、上記の文章で例に挙げられている法月綸太郎の『ビッグ・ノーウェア』解説は、馳星周の『ホワイト・ジャズ』解説でも猛烈に反発されていたけど、なんでそんなに反感を買うのかはどうもよくわからない。別に「暴力・狂気・情念」の迫力を否定しているわけでも、エルロイ作品の本質がスパイ物としての緻密な構成にこそあると主張しているわけでもないだろうと思うのだけれど。逆に、ただ純粋に暴力や狂気のあふれる話が良ければ、『キラー・オン・ザ・ロード』みたいにストレートな異常犯罪ものでもいいような気もする。(あ、でも『キラー・オン・ザ・ロード』は充分おもしろいんですけどね)
ジョゼ・サラマーゴ/雨沢泰訳/NHK出版[amazon] [bk1]
Ensaio sobre a Cegueira by Jose Saramago, 1995
★★★
作者はポルトガルの作家で、1998年にノーベル文学賞を贈られているらしい。本書は、突然視覚を失う原因不明の奇病が蔓延する、という仮想設定のもとで、文明を喪失して原始状況に陥る社会のさまを描いた寓話的な物語。感染を防ぐための隔離収容所で食糧をめぐる醜い争いや権力関係の生じるところなんかは、さすがに迫真の筆致で興味深かったけれど(全体主義下の強制収容所を思いださせる)、全般に宗教色が濃すぎてどうもひっかかった。そもそも黙示録的な世界設定からしてだいぶ宗教がかっているし、何といっても盲者の群れをただひとり眼の見える人物が導いていく構図は、どう考えてもイエス・キリストを連想させる。また、たとえば終盤の教会の場面で作中人物たちの受ける衝撃の意味あい、なんてのはあまりよく伝わってこない。どうしてこんなに宗教くさいんだろうと思ったら、作者サラマーゴはこれまでにも『修道院回想録』(1982)『イエス・キリストによる福音書』(1991)といった、いかにもな題名の書物を著しているようで、まあ無理もないところか。
作中の人物や場所に固有名詞がまったく与えられないのは、誰がこのなかにいてもおかしくないという匿名ゆえの寓話性を高めたいのと同時に、極限状況におけるモラルの問題を扱っているからだと思う。モラルの問題を扱うときに、エゴイズムや自他の交換可能性といった論題はだいたい避けて通れないところなので。
形式的には三人称叙述なのだけど、唐突に「われわれは」などといって読者にむけて語りかけてきたり、作中人物の行動に価値判断を加えたりと、ずいぶんぶれのある文体になっている。これに何らかのひねりがつくのかと思ったらたいした展開はなかったので、ただ不用意なだけという可能性も捨てきれない。あるいは小説の叙述に関してすごく古風な哲学を持っているとか。(なぜだか英語版をもとにしているらしい)訳文は流れの良くない直訳調で、あまり読みやすくなかった。
沖縄を舞台にした日本映画。三味線で米国国歌を奏でる爺さんの飄々とした存在感が抜群で、少なくともこの人物造形のためだけでも観て損はないと思う。ただ主筋の恋物語はいかにもむりやりつくったふうで、この爺さんの魅力と釣り合いのとれるだけの説得力はなかった。素人をそのまま出演させていたり、演奏家がそこらをうろついていたりする作風は、ユーゴスラヴィアの映画作家エミール・クストリッツァ(特に『黒猫・白猫』)を思い出させる。さすがにこの映画にあれほどの濃密さはないけれど。(★★★)
そのユーゴスラヴィアの俊英エミール・クストリッツァが、米国を舞台に米国人の俳優を使い、フランス製作で撮った映画(ややこしい)。舞台がアメリカに移っても、変わらずクストリッツァ的な物語がくりひろげられる。主演のジョニー・デップはまるきり『ジプシーのとき』『黒猫・白猫』の純朴な青年になっているし、純真な「飛翔する」夢想が現実と交錯する不思議な瞬間や、高らかに鳴り響くジプシー音楽、先行作品(『レイジング・ブル』『北北西に進路を取れ』など)からの引用を散りばめているのも同じ。筋書きのほうは、車のセールスをしていたと思ったらいつのまにか飛行機を作る話になり、さらに『卒業』みたいな親子どんぶり系メロドラマになり、といった唐突な構成で好みが分かれそうだけど、個々のファンタジックな場面が魅力的で心地よかった。(★★★★)
これでエミール・クストリッツァ監督の映画は『ジプシーのとき』(1989)、『アリゾナ・ドリーム』(1992)、『アンダーグラウンド』(1995)、『黒猫・白猫』(1998)と、初期作の『パパは出張中!』を除けばひととおり目を通したことになる。これまでのところやはり『アンダーグラウンド』が構想・映像とも突出した文句なしの大傑作だけれど、ただしそれ以外の作品もどれも悪いわけではない。この人のいちばんの魅力は、物語と映画の力、現実を超えた絵空事の力を本気で信じさせてくれるところだと思う。繰り返される「飛翔」の夢想はその象徴といえるだろうし、たとえば『アリゾナ・ドリーム』でも映画狂の青年(ヴィンセント・ギャロ)が登場して、滑稽に描かれはするものの根底には愛情を感じさせる。
津原泰水/双葉社(2001.4)[amazon] [bk1]
★★★★★
「なんでちんぽこが立たないかわかるよ。もう死んでるわけだ」(p.41)
これはホラーとかミステリというより現代文学の収穫。中年の「公園管理人」による奇妙な語りのもと、虚実・時制の境目なしで陰惨な妄想や追憶の挿話が入り混じる。連作集『蘆屋家の崩壊』でもその神経症めいた文章の達者さには感じ入ったものだけど、本作はさらにシナリオ形式や句読点の省略、メタフィクション風味などさまざまの趣向を自在に織り込んで、さながら実験文体の博覧会みたいな趣きもあり。それにしてもこの作家は、へたれ駄目男の一人称叙述を書かせたら抜群の腕前だ。物語よりも技巧がいくぶん先走っているような気もしなくはないけれど、同時代の国産作家による充実作をタイムリーに読めた喜びも加味して上記の評点。
たぶん過去の有名作家を参照する論評も出るのだろうけれど、いちおう僕なりのことを書いておくと、この長編を読んでいて連想したのは、イアン・マキューアン(『最初の恋、最後の儀式』『セメント・ガーデン』『愛の続き』)、アーヴィン・ウェルシュ(『トレインスポッティング』『フィルス』)、チャック・パラニューク(『ファイト・クラブ』『サバイバー』)といった英米の作家だったりする。過剰な悪趣味描写やひねりのある一人称叙述は通じるものがあるし、筋書きがなく挿話を連ねて長編を構成していく手法も似ている。(それは特にアーヴィン・ウェルシュが近いかな。ついでにいえば、先頃邦訳の出たウェルシュの中編「スマートカント」も公園管理人が語り手。ただし中年じゃなくて若者だけど)
さらに上で挙げた作家たちにおおむね共通しているのが、世界に自分の居場所を見出せない男性の不安や孤独を意識的に描いているところ。いわば男根主義の敗退・終焉といった構図を物語の底流にすえている、ということになると思うのだけど、そのまま『ペニス』と題されたこの小説の語り手が、男根の機能しない性的不能者として設定されているのは、そういった流れからみても象徴的なことに思える。
津原泰水『ペニス』の感想で少しふれた、「男根主義」の敗退・終焉を描く物語というのは近頃わりと注目している流れで、そういった構図の小説/映画を見かけることが多い。たとえば原作/映画とも『ファイト・クラブ』なんかはその典型例といえるだろう。宮台真司流の表現でいえば、「まったり」できない男たち、てなところだろうか。いわゆるタフガイ小説があまり流行らなくなってきたのも、このあたりの潮流と対応しているような気がする。
映画界でこの主題を意識的にとりあげている代表格といえそうなのが、『ブギーナイツ』『マグノリア』の監督、ポール・トーマス・アンダーソンではないかと思う。そう考えるようになったのは、以下の丁寧な『マグノリア』評を読んでからなのだけど。
ただし『マグノリア』自体はやたらと賛否両論の感想に分かれる映画で、たとえば僕は演出が冗漫で感情過多としか感じられずあまり好きではない、というよりはっきりと嫌いだ。
Todo sobre mi madre, 1998
★★
ペドロ・アルモドバル監督のスペイン映画。
「母親」についての物語かと思っていたら、なぜかゲイ&オカマ続々登場のマイノリティ集合映画だった。
筋書きはどうも散漫。基本的には生命賛歌の物語なのだろうけれど、劇中に描かれる「死」がいかにも安易な「交通事故」と「難病」では、せっかくの生命の輝きも安っぽいものにしかならない。あと個人的には、HIV感染者があえて出産するという選択をいかに映画として擁護するのだろうかと興味を持っていたら、そのあたりはあっさりと流されてしまった。それにしてもこの映画にかぎらず、話を進めるために「交通事故」を起こすしか思いつかない無能な脚本には、そろそろ何らかの罰則を設けてほしいものだ。
いくらか興味深い構造に思えたのは、この映画の視点は主人公(=母親)ではなく、冒頭でいきなり退場する「不在の人物」に一貫して合わせられているのではないかということ。これは僕がその登場人物と性別・年齢が近くて、ほかにそういう人物が出てこないせいかもしれないけれど、ずっとそんな気分で観ることになった。だから最終的には、育まれる新しい生命に「自分」を託しながら、安らかに映画の世界をあとにすることができる(しかも実の母親は美しいペネロペ・クルスなのだから!)。まあ、特に女性の観客なら違う見方をするのかもしれないけれど。
ぐいぐい引き込まれて、とても面白かった。/現在に盛んに行われている探偵論議の論点は、「1・探偵に人を裁く権利があるのか?(探偵の非人間性)」と、「2・神の如き名探偵の推理能力は誰が保障するのか?(探偵の全知的能力の欺瞞)」という二つの論点に集約されると思うのだが、この二つの視点が既にこの時点で示されている、というのはやはりなかなかすごいことだと思う。
UNDERGROUND(5/20)の『トレント最後の事件』評。
『トレント最後の事件』は1913年の作にもかかわらず、いま読んでも充分に興味深い先鋭的な探偵小説なので、古典ミステリで読みやすく面白いのを探しているかたは、とりあえずこれを選んでおくといいんじゃないかと思う。
この作品については以前書いた『トレント最後の事件』現代的解説と題した文章で、「名探偵」を皮肉ったアンチ探偵小説になっていることを強調したけれど、もうひとつ付け加えておくとすれば、これはいわば〈犯人のいない〉探偵小説でもある。作者はその試みをきわめて技巧的で洗練された(そしてまさしくミステリ的な)やりくちで達成している。それは結局、複数の人物がそれぞれ別々の意図のもとで事件の構成にかかわっていた、ということだ。これはたとえば、のちのエラリー・クイーンが似たような「探偵の敗北」を描いた『十日間の不思議』で、ひとりの超越的な犯人を設定していたのとは対照的な態度といえるのではないかと思う。
伝統的な探偵小説では、ひとりの「犯人」が仕掛けを凝らして探偵の(そして読者の)目を欺こうとすることが多い。そんななかで『トレント最後の事件』のような解決はだいぶ型破りのものになるだろうし、反則技ととるむきもあるかもしれない。けれども、与えられたピース(人物)をパズル的に組み上げて活かしきるという意味では、正しくミステリ的な作法ともいえるはずだ。実際のところ「犯人当てゲーム」を志向した旧来型の探偵小説において、犯人を除いた登場人物は結局ただ誰が犯人かを隠蔽するためのダミーの駒になってしまいやすい。
そんな意味で『トレント最後の事件』の解決は探偵小説の新たな境地を示唆しているとも考えられるのだけれど、この路線を受け継いで明確に実践している作家・作品というのはあまり思いつかない。『トレント』以降の探偵小説「黄金時代」というのは、いわゆる「犯人当て」の全盛期でもあるようだし。個人的には、トビー&ジョージ連作のエリザベス・フェラーズがそれに近いのかなとも思っているのだけれど。
チャンピオンズリーグ決勝。組み合わせからだいたい想像もつくけど、結局PKでしか点数の入らなかった試合。しかしレアル・マドリー戦でもそうだったけど、オリヴァー・カーンの反応はやばすぎると思う。彼に勝てるGKはいるのか?
トニーノ・ベナキスタ/藤田真利子訳/ハヤカワ文庫HM[amazon] [bk1]
Les Morsures de L'aube, 1992
★★★
フランス産の推理小説。売り文句のうたうロマン・ノワールというよりは、『ストリート・キッズ』や『池袋ウエストゲートパーク』みたいな青春ミステリに近い。無職のホームレスなのに毎晩豪勢なパーティに入り浸る、「寄生虫」の主人公たちのモラトリアム生活描写が抜群にユニークだった(失業保険を掠めているところは『トレインスポッティング』みたい)。その主人公の成長物語が縦糸になっているだけでなく、ほかにも吸血鬼と呼ばれる奇妙な男女、怪しげな精神科医など、おいしそうな(あるいは漫画的な)ネタは盛り込んであるのだけれど、プロットに絡めきれておらず浮いているように思える。
ウィリアム・ゴールディング/平井正穂訳/集英社文庫
Lord of the Flies, 1954
★★★
いまさら初読。いわゆる人間の底に秘められた獣性を活写する話なのだろうけど、「文明/野蛮」の対比が図式的なところに終始して感銘を受けなかった。これだったら正直なところ、ねじくれた逆説を連発するジム・トンプスンのほうが断然おもしろい。どこでもない場所を舞台にして「寓話的」に文明の崩壊を描くところは、ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』にも通じるところがある(実際『白の闇』には『蝿の王』の題名を挙げる批評も出たらしい)。『蝿の王』は『白の闇』ほど宗教がかってはいないけれど、図式的で意外性のないところはあまり変わりがない。筋立てにしても、登場人物が「こいつそろそろ死にそうだな」とか思ったところでほんとに落命してしまうひねりのないものだし、「眼鏡」「火」「ほら貝」などの小道具が文明を象徴しているのもなんだかありがちな落としどころ。ああ、また文明と野蛮ね、といった感じだ。少年たちが主役なので、子供の頃に読んでおくと深い衝撃を刻み込まれる話なのかもしれない。
この話の大人版をやってみると『わらの犬』になるのかな。
Beresina oder die letzten Tage der Schweiz, 1999
★★★
ダニエル・シュミット監督。ひとりのロシア娘の天然素朴な行動のせいでスイスの政府高官たちが右往左往するという筋書き。政治風刺の入ったお馬鹿コメディで愉快そうだったのだけど、じっさい観てみるとさほどの切れ味はない。これは風刺の対象なのだろう政治情勢に全然なじみがないのと、脚本があんまり緻密に組み立てられていないせいだと思う。主人公の顧客たちはほんの数人を除けばいてもいてなくても同じようなものだし、終盤に効いてくる「仕掛け」も、伏線というよりは最初からいかにも結末の見えすいたしろもので、どうも意外な展開にはならない。こういった話ならたとえば『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』くらい、パズル的に複数人物の意図が交錯するさまを見たかったのだけど。演劇調の大げさな雰囲気を愉しむべき映画なのかな。
主演女優のエレナ・パノーヴァでかなり持っている。別にすごい官能シーンなんかは全然ないのだけど、無邪気な精神の宿る豊満な肉体、という天然エロス女性造形のひとつの完成型。無防備に露出される豊かな胸元には「もうたまらん」という人もいそう。映画がまるきり確信犯なので嫌らしいかんじはしない。「目隠し」で富豪と戯れる場面は象徴的だろう。
ブレット・イーストン・エリス/小川高義訳/角川文庫(上下)
American Phyco by Bret Easton Ellis, 1991
★★★
有名ブランドとレストラン。見栄と知ったかぶりの嵐、そして虚無的な殺戮。空虚な1980年代を切り取っているのはわかるけれど、結局のところ風俗小説の趣きが濃いので、どうもいまひとつ実感が湧かなかった。それなりに興味深くは読めたのだけど。
翻訳はあまり良くない。というかもともと翻訳に向いていない小説なのかもしれないけれど。主人公の「もったいぶった話しかた」をそれらしく訳出しようとしているものの、それがただ妙におやじくさくなっているだけで、どうみても「気取ったヤンエグ」らしくは感じられない。
それにしても、ビデオレンタルをこれくらい前面に押し出した小説ってあまり読んだことがない気がする。