「サンデー毎日」連載の映画コラム(時期は1993年〜1995年)をまとめたもの。短い文章のためもあって『夢想の研究』ほど穿った感じの批評はないけれど、以下のような点が興味深かった。
といったところ。スリラー/サスペンス映画をきちんとミステリ的な視点から分析している文章が散見されるのはこの人らしい。また、さほど明言はされていないけれど、ヌーヴェルバーグ系の映画と蓮實重彦の批評の影響力に対して、冷淡を超えた嫌悪さえもちょっと感じられるのは、ひとつの態度表明として興味深い。(というか、僕個人はこの立場に近いので)
フランク・キャプラの映画を讃えた箇所が良かったので、少し引用。
これらの名作は、通常は「理想主義」とか「ヒューマニズム」とか「アメリカン・デモクラシー」といった言葉で評されているが、実はそれらとはあまり関係がない。(中略)本質はファンタジィなのである。それもファンタジィのなかのファンタジィ、神話やお伽噺に近い性格のものである。/キャプラの映画を映画芸術としての側面から批評しようとするとためらいを感じるのは、このためだ。神話やお伽噺を近代文学の枠組みで捉えようとするようなものだからだ。が、大衆娯楽として一蹴することもできない。構造は単純、人物は単細胞、映像的にも大したものとは思えないのに、キャプラ作品は観る者に強烈にグレートな印象を与えるからだ。純粋な夢想的物語のみが持つ強さ、つまり神話性を備えているからである。(p.180)
これはキャプラ映画の主人公が、いつも少しキリストに似た「神話的」人物のように思えることとも関係があるかもしれない。
ジム・トンプスン/三川基好訳/扶桑社[amazon] [bk1]
A Hell of a Woman - by Jim Thompson(1954)
★★★★
ジム・トンプスンの1954年の作品。邦訳された作品では『残酷な夜』(1953)の後、『アフター・ダーク』(1955)の前にあたる。
ジム・トンプスンの作品が死後に再評価されたとき、「安物雑貨店のドストエフスキー」という有名なキャッチコピーがつけられたけれど、それはこの作品からの連想が強かったのかもしれない。この小説は、自己正当化の誇大妄想に憑かれた駄目男が、小金を溜め込んだけちな老婆を殺そうとするという、そのまんま『罪と罰』を連想させる筋立ての話なのだ。「安物雑貨店」(ダイムストア)という言葉も作中に登場する(そもそも主人公が雑貨店の訪問販売員でもある)。主人公にとっては聖女に見える売春婦が出てきたり、あなどっていた人物にすべてを見透かされている(『ポップ1280』にも似たような趣向があった)などの展開も『罪と罰』と似ていなくもない。ただし、ジム・トンプスンの描くどうしようもない主人公に、『罪と罰』のラスコーリニコフのような啓示や救済の瞬間が訪れることはない。彼はただ希望のない「神なき世界」で、みじめにのたうちまわるだけだ。
この作品では、ジム・トンプスン流のきわめて客観性を欠いた一人称叙述の歪みが、主人公の捏造する作中の手記、および異なる字体の言葉の侵入という、いわばメタフィクション的な現象として文章上に顕在化しているのがひときわ異様で、彼の他の作品の構造を考えるうえでも興味深い(『内なる殺人者』でも、こうなりそうな気配は感じられたけれど)。また、主人公がとてもいそうもない嘘くさい設定の人物だった『残酷な夜』や『ポップ1280』に較べると、本書のフランク・ディロンはかなり等身大の人物として描かれていて、その言動や告白は作者が自身の気分をそのまま投影させた「私小説」のようでもある。父親とのねじれた関係や、女性はみんな同じでいつも母親の幻影を求めていることなど。このためトンプスン研究家にはいろいろと興味深そうなのだけど、フィクションとしては昇華されきっていない作品のようにも感じる。筆致も投げやりな部分が多くて、いかにもパルプ小説らしい荒れた感じだし。なので個人的には、もしジム・トンプスンをはじめて読むのなら本作でなく『ポップ1280』のほうを薦める。
ちなみに、犯罪者が自分に都合の良い歪んだ脳内世界を捏造している、という本書の構図をさらに先鋭化させた創作を実践しているのが、デヴィッド・リンチ監督の映画『ロスト・ハイウェイ』や『マルホランド・ドライブ』だろう。(だから『ロスト・ハイウェイ』の脚本に絡んでいるバリー・ギフォードが本書を特に褒めているらしいのは納得)
また、現代の小説家でこのジム・トンプスンに近い存在といえるのが、『トレインスポッティング』で有名なスコットランドの作家、アーヴィン・ウェルシュではないかと思う。ウェルシュの長編『マラボゥストーク』や『フィルス』を読むと、この『死ぬほどいい女』における「文字とテキストの侵入」によく似た破格の書法を試みている。
アーヴィン・ウェルシュ/早川敦子&アンナ・ピンスキー訳/スリーエーネットワーク[amazon] [bk1]
Marabou Stork Nightmares - by Irvine Welsh(1995)
★★★★★
読み残していたアーヴィン・ウェルシュの第二長編にいまさら目を通してみたら、これが傑作だった。
簡単に言えば、『グロテスク』(パトリック・マグラア作。植物状態の人物が歪んだ一人称叙述を繰り広げる)の構造で語られる『時計じかけのオレンジ』、といった趣向の小説で、主人公の現在時間(病室に見舞いの人などが訪れる)に、生い立ちから現在までの回想、そして現実逃避の妄想世界(怪鳥マラボゥ狩りの冒険旅行)と、都合三つのレベルの挿話が混在して交互に進展する。この奇妙な構成は、エピソードを連ねて物語を形成する(第一作の『トレインスポッティング』はまさにエピソード集のおもむきだった)ウェルシュ独特の作風と合致していて、適切な戦略だと思う。既成の要素を独自の感覚でミックスして新鮮なものを作る、という「クラブのDJ」的な手法を小説に応用した作品としても読めるかもしれない。主人公がどんな経緯で現在の植物状態に陥ってしまったのか、といった過去の事情が示唆されながらもなかなか語られないままになっていて、それが小説の推進力になっているとともに、嫌な記憶から目を逸らして空想に逃げ込みたいという主人公の精神的な弱さを反映して、物語的な意味を重ねられているのも巧みな設定。ただし全体的に、主人公の思考や感情がそのまま告白調で文章化されてしまっているところは、小説としての洗練に欠けるような気もしないではない。
妄想と現実が交互に語られる趣向は、ジャン・ヴォートランの『グルーム』に通じるものがあり、低所得者用の集合住宅の荒廃を背景にしていること、主人公が肉体的な劣等感を抱えているところなども、ヴォートランの小説を連想させる。また、本書の破格の書法はジム・トンプスンの『死ぬほどいい女』における痙攣した文章と類似しているし、荒涼とした(そして性的な含意の強い)結末もトンプスンの『残酷な夜』『死ぬほどいい女』『グリフターズ』などの「女嫌い」ものの系譜に連なるものだ。(次の長編『フィルス』は現代版『ポップ1280』みたいな品性最低の警官をめぐる話でもある)
それにしてもアーヴィン・ウェルシュは、『トレインスポッティング』に本書『マラボゥストーク』、そして『フィルス』と、訳されている長編どれもが傑作なのに、日本ではいまひとつ評価が高くないような気がする。この『マラボゥストーク』を読むだけでも、彼が単なる若者風俗を描く流行作家というだけでないことは了解されるのではないかと思うのだけど。(英国ではブッカー賞の候補にも挙げられたらしい)
Mr. Smith Goes to Washington(1939)
★★★
フランク・キャプラ監督の1939年の作品。少年団のヒーローだった正義漢の好青年ジェファソン・スミス(ジェイムズ・スチュアート)が、ひょんなことから上院議員に選ばれてしまい颯爽と登院するものの、そこには「大人のルール」が待っていて……という話。当然のように『群衆』(1941)や『素晴らしき哉、人生!』(1946)とはほとんど同じ構造の話で、主人公が成り行きで有名人になってしまうところ、有能なキャリアウーマンの秘書(ジーン・アーサー)の助言に従って行動するところは『群衆』と似ているし、主人公がいわれなき罪状で糾弾され、落ち込みながらも汚名を晴らそうとする展開は『素晴らしき哉、人生!』と共通する。まあ悪くはないんだけど、続けて似たような話を観るとちょっと飽きてきたというのが正直なところ(なので、次の作品は少し間を置いて観ようかと思う)。主人公を熱烈に支持するのが少年たちであるところがいささかあざといのと、主人公の説く「アメリカの理想」や「隣人愛」が言葉だけで空疎に感じられるのが気になった。(その意味で、主人公の社会的業績をきちんと描いている『素晴らしき哉、人生!』がいちばんまともな手続きを踏んでいる作品だろうか)
主人公の初登院の場面が、ほとんど宗教的なまでの高揚感に満ちていて、映画のなかでひときわ異彩を放っている。米国議会というのはギリシアの神殿を真似た外観の建築物なのだけど、要するにこれはまさに「神殿参拝」の場面なのだと感じた。アメリカは歴史の浅い国なので、建国の父ワシントンやジェファソン、さらに銅像の出てくるリンカーンあたりはまさに「神話」の領域の人物ということになるのだろう。そして議会で迫害されながらも懸命に独立宣言や合衆国憲法の理想を読みあげる主人公は、彼らの神聖な言葉の代弁者(=預言者?)でもあるはずだ。
キャプラ監督はお話の導入部が抜群に巧い人ではないかと思っていて、この作品でも主人公が「都へ行く」までの法螺話のような調子がとても軽妙で引き込まれる。また、ジェイムズ・スチュアートというのは明らかに整ったハンサムな外見の俳優なのだけど、そういう人が髪を振り乱してだらしない服装で動きまわっているところに懸命さが出ていて、好感をおぼえるようになっている(『素晴らしき哉、人生!』もそうだった)。でもこの人は、不動産屋の若旦那(『素晴らしき哉、人生!』の)には見えても、「自然に帰れ」と説くボーイスカウトの団長には似つかわしくないと思うんだけど、どうなんだろうな。
Swordfish(2001)
★★
ジョン・トラボルタ&ヒュー・ジャックマン主演の犯罪アクション映画。ほとんど期待しないで観たら、思ったより悪くなかった。
タランティーノ作品を思わせる映画おたく談義と時系列いじり、『マトリックス』風の爆破場面のストップ・モーション編集とハッカー描写、ソダーバーグの『トラフィック』のような場面ごとの過剰な色彩調節(ドン・チードルも刑事役で出ている)、そしてすべてをはったりで押し通す強引さは『ユージュアル・サスペクツ』みたいだったりなど、昨今の犯罪系ヒット映画の上澄みをすくいまくった節操のなさが徹底していて、これだけ開き直られるとさすがにほんの少しだけ感心しないでもない。ついでに、ヒュー・ジャックマンと別離の娘の交情を入れて「人情」話も押さえているし、ハル・ベリーが(この直後アカデミー賞に輝くとはとても想像のできない)必然性を欠いた「脱ぎ」を披露してお色気も添えている。そして、これほど軽薄な映画にもかかわらず、なぜか9.11の米国同時多発テロを先取りしてしまっているというまぐれ当たり的な慧眼さには、ちょっと驚かずにいられない。
もちろん、何か新たなものを生み出そうなどという清新な気概は微塵も感じられないのだけど。
高橋源一郎によるJ・G・バラード『コカイン・ナイト』[amazon] [bk1]書評(「波」2002年1月号)。なんだか相当噛み砕いた感じの文章だけど、次の一節は共感のできる良い表現だなと思った。
ただ「いい小説」というのは、ストーリイが面白かったり、文章が美しかったりして、わたしたち読者を楽しませてくれる小説であるのに対し、「素晴らしい小説」とは、その小説を読むことがまったく新しい経験であると感じさせてくれるような、そして、それを読み終わった後、自分はすっかり変化してしまったと感じさせてくれるような本のことをいいます。
そして『コカイン・ナイト』は、"ただ「いい小説」であるのではなく、「素晴らしい小説」"なのだそう。一応ミステリ的な筋立ての小説でもあるようだし(『殺す』みたいな路線だろうか?)読んでみようかな。
マイケル・シェイボン/菊地よしみ訳/早川書房[amazon] [bk1]
The Amazing Adventures of Kavalier & Clay - by Micheal Chabon(2000)
★★★★
この作家の小説を読むのははじめて。第二次大戦前後の草創期の漫画業界に参入した、従兄弟同士のユダヤ系の漫画家ふたり組、ジョー・カヴァリエとサミー・クレイを主人公にした物語。
マイケル・シェイボンはかつて1980年代の流行作家として、ブレット・イーストン・エリスらと同列に論じられていた記憶があるけれど、本書を読むかぎりではそんなに奇を衒った作家のような感じはしない。スティーヴン・ミルハウザー風の「創作者」の世界をめぐる話を(登場する「漫画・奇術・自動人形」などの小道具はどれもミルハウザーの作品を連想させる)、ジョン・アーヴィングのような波瀾万丈の大河ロマンの枠組みで描くとこんな感じになるのかなと思った。実際、本来の原作はこの三倍ほどの分量がある大作長編なのだそうで、邦訳は作者自身が海外向けに書き直した縮約版をもとにしているらしい。その「縮約版」を読んでいるというのは結局どうしてもひっかかるところで、作者の意向ならある程度しかたないとはいえ(省かれた部分にはそれだけの理由もあったのだろうし)、例えば『フリッカー、あるいは映画の魔』のような緻密な描写と奔放な奇想の入り混じった傑作だったのかもしれない、と考えるとちょっと惜しい気もする。邦訳版は決して退屈なわけではないものの、中盤以降の展開は唐突に感じられる点が多くて、だいぶ話を省いているんだろうなと思われた。
漫画の架空のヒーローをめぐる批評的な洞察が、当時のアメリカの社会背景や、登場人物それぞれの個人的な事情といろんな形で深く重なり合っていく構造になっていて(例えば彼らの創造した「エスケーピスト」はナチス・ドイツと闘うヒーローであり、それは欧州に残してきた家族との再会を願うジョー・カヴァリエの切実な思いを具現化したものだ)、そのあたりがとても興味深かった。戦後のコミック排撃の動きのなかで、バットマンの「疑似親子」「同性愛」性に関する心ない糾弾が、二重の意味で「父親」を演じていたサミー・クレイにつきつけられる場面なども、ちょっとすごいなと感心する。
全体的に、ジョー・カヴァリエが天才型の気まぐれな人物として描かれていて、サミー・クレイのほうはその補佐にまわることが多い。読者が共感できるのは、漫画を愛しながらも芸術家でなかったために補佐や渉外をこなし、本来の性向を隠して別の家庭を築いたりと、人生のなかでいつも少しだけ(しかし決定的に)希望と異なる役割を演じつづけるサミー・クレイのほうではないかと思う。
最近はこんなことばかり書いて、あまり小説の内容に論評をしていないような気もするけれど、本書を読みながら連想した映画の題名などを挙げておく。
まず、ケヴィン・スミス監督の『チェイシング・エイミー』。「コミケで始まり、コミケで終わる」という特殊な恋愛映画で、男の共作漫画家と女の漫画家が奇妙な三角関係になりかける人物配置が似ている。(さらに重要な類似点があるのだけど、ここではあえて明記しない)
また、ジョー・カヴァリエ再登場のさいに、ビルからの飛び降り自殺を予告する投書が新聞に掲載されて、騒ぎを巻き起こす展開があるけれど、この挿話はフランク・キャプラ監督の映画『群衆』を思い出させる。『群衆』はまさに「架空のヒーローが人々を動かしてしまう」話だから、本書の内容とも合致するはずだ。ちなみに、フランク・キャプラはもともとイタリア生まれの移民なのだそうで、だから「アメリカの良心」を描いたといわれるキャプラの作品群は、移民の見た「アメリカの夢」を具現化したものでもあるのだろう。
ところで、本書の主人公たちは漫画家だったけれど、小説の分野で反ナチス・ドイツ的なフィクションを創作していた亡命ユダヤ人の作家といえば、僕が思い浮かべるのは『ファウンデーション』連作などのアイザック・アシモフですね。
連城三紀彦/朝日新聞社(2002.3)[amazon] [bk1]
★★★
連城三紀彦の新作を読むのはひさしぶり。本書はいわば連城版「薮の中」のような構成で、ある一家に起きた殺人事件を、関係者それぞれの主観的な告白を錯綜させながら浮かび上がらせていく趣向。事実面での謎解きよりは、どちらかといえば登場人物たちの心理の綾に焦点が当てられている。というと、いわゆる「文学的」な傾向の作品と思われそうで、確かにそのような見方もできないではないけれど、これは明らかに【登場人物の全員が(主観的に)犯人である】という命題の達成を目論んだ実験作でもあって、作者の旧作でいえば「同一人物が繰り返し殺される」という事象を実現したトリッキーな秀作『私という名の変奏曲』[amazon] [bk1]などにも通じるようなパズル性がある(未読なのだけど桐野夏生の『柔らかな頬』と較べて読むと興味深いかもしれない)。ただし単体の小説として読むと、この命題が縛りになって登場人物の心情描写がだいぶ説明的になっているようで、どうも窮屈な印象を受けた。一人称と三人称の文章が恣意的に入り混じる叙述構成も、主観の位置を錯綜させようという狙いなのだろうけど、さほど巧くいっていないように感じる。
『シネマ古今集』の続きで、著者の雑誌連載の映画コラムをまとめたもの。まあ先の『シネマ古今集』でもそうだったけれど、「世間では○○(例えば"社会派"など)と評されているが、実は……」式の論評が多いので、まとめて読むとちょっとひっかかるようにも感じる。これはもっと個別の文章が長めの『夢想の研究』(創元ライブラリ)[amazon] [bk1]では気にならなかったことなので、この人一流のはったり的な論述を裏打ちするだけの文字数が足りていないのがおもな原因なのかもしれない。内容的には、ジェーン・オースティン原作の『いつか晴れた日に』など、文芸映画を積極的にとりあげているのが目を引いた。
瀬戸川猛資の評価の態度というのはだいたい一貫していて、おおざっぱにいえば、
といったところ。後者の結果として、映画の「小説」的な面を抜き出して語ることが多くなる。映画評論の立場としては偏っているかもしれないけれど、鬱陶しい「映画批評」の用語とは無縁の立場を貫いている文章は歯切れ良くて読みやすい。
ゴダールその他のヌーヴェルバーグ系の映画はよほど好きでないらしく、事あるごとに引き合いに出してけちをつけている。(ついでにいえば「ニューウェーヴ」SFの旗手J・G・バラードも、自伝的作品『太陽の帝国』を除くとどれも「死の観念をイメージ連鎖のみで綴った」小説でつまらない、とけなしている)
ちなみに、瀬戸川氏が存命であれば観てもらって感想を聞きたかった映画として、個人的にまず挙げたいのはM・ナイト・シャマラン監督の『シックス・センス』『アンブレイカブル』ですね。特に後者は絶賛するはずだと思うんだけど。
To Kill a Mockingbird(1962)
★★★★
1930年代の南部の田舎町での生活を子供の視点から回想する物語で、原作はピューリッツァー賞も受賞している作品らしい。グレゴリー・ペック主演、ロバート・マリガン監督作品。
まるで道徳の教科書みたいに折り目正しい話だったけれど、やはり良いものは良い。「南部幼少期もの」の古典的名作のような作品で、例えばジョー・R・ランズデールの『ボトムズ』(たぶん中編「狂犬の夏」も)などは明らかに本作の設定を下敷きにしているのがわかる。(大恐慌時代の田舎の農村という舞台背景、幼い兄妹を視点人物にすえていること、父親への畏敬の念、黒人差別の絡めかた、そして近隣に住む精神障害者の扱いなど、似ている点が多い)
映像はあえてモノクロ画面を採用しているのだけど(当時、大恐慌時代を回顧するにはもっとも適切な手法だったのだろう)、これがきわめて端正で魅力的。特にタイトルバックの「少年の宝箱」を映した画面は素晴らしかった。
前半は『ミツバチのささやき』などにも通じるような「子供の世界の神秘」と、モラルの理想像たる父親の姿が神話的に描かれて良かったのだけど、後半になると、黒人差別をめぐる裁判劇を描く社会正義的な面に力が入りすぎて、そこがちょっと浮いてしまったような感じもある。(映画の製作された時代が時代なので、ある程度仕方ないのだろうけど)
若きロバート・デュバル(これがデビュー作らしい)が良いところで登場。このころから「名脇役」という感じだ。(ちなみに、この人物を主人公にしたら『シザーハンズ』みたいな話になるのかなと思った)
ジョナサン・キャロル/浅羽莢子/創元推理文庫[amazon] [bk1]
Voice of Our Shadow - by Johnathan Caroll(1983)
★★★
『死者の書』に続く第二作。創作者の秘密をひねくれたかたちでとりあげていること、主人公が年上の女と若い恋人の板挟みになること、そして【死者がよみがえる】展開など、さすがに前作『死者の書』と似すぎてはいないだろうかと思った。また『死者の書』もそうだったけれど、作風の近いスティーヴン・ミルハウザーあたりの作品とくらべると、メタフィクション的な主題が小説の叙述そのものを揺るがすまでに至らないのが、ちょっと物足りないようにも感じる。
ダニエル・ペナック/平岡敦訳/白水社[amazon] [bk1]
Le Fee Carabine - by Daniel Pennac(1987)
★★★★
「つまりあなたは、この世のありとあらゆる面倒ごとを、自分に引き寄せてるってことよ。磁石みたいにね。たった今もこの街では、顔も知らない山ほどの人たちが、あなたがしていない山ほどのことを、あなたのせいだって言ってるに違いないわ」(p.240)
『人喰い鬼のお愉しみ』の続編。前作に続いて「職業的スケープゴート」の主人公バンジャマン・マロセーヌが怪事件に巻き込まれる。
続けて読んではっきりしてきたのだけど、これはフランス版のコージー・ミステリなのだな。主人公の周りには家族的な共同体ができていて、おなじみの特徴ある登場人物たちがそれぞれ良い味を出して活躍する。犯罪事件の解明部の見せかたは、登場人物の説明に頼るものでいささか弱めになっているものの、ただし真相そのものはダドリー・スミス(ジェイムズ・エルロイ作品の登場人物)先生さながらの遠大な陰謀が絡んでいて、なかなか素敵だ。
シリーズもののミステリ小説としては、主人公の位置付けがかなり特異といえる。この主人公バンジャマン・マロセーヌはまず探偵役ではないし(事件を解決しようとしていない)、なにしろ「職業的スケープゴート」なので警察からやたらと事件の容疑者としてつけ狙われるものの、彼自身はそのことを知らないまま話が進むので、主人公が濡れ衣を晴らそうとする系統の巻き込まれ型サスペンスともちょっと違う。事件は主人公の行動とほとんど因果関係のないところで解決されているし、そもそも彼は一応一人称の語り手にもかかわらず、この小説の半分は主人公不在の三人称叙述の形式で語られているのだ。これらの奇妙な(先鋭的といえなくもない)構成が、果たして意図的な選択なのか、成り行きでそうなっただけなのかは微妙なところだけど、とりあえず本作に関しては興味深かった。
前作『人喰い鬼のお愉しみ』でもそうだったけれど、戦時中の挿話が回想されたり、ユーゴ人・アラブ人・ヴェトナム人など移民の登場人物が次々と出てきたりと、さまざまの局面でフランスやパリの歴史や社会状況を切り取る趣向になっているのが独特でおもしろい。
2001
★★
先日TV放映されていたので視聴。
街から大人たちがいなくなってしまうという、つまり『ハメルンの笛吹き』を逆にした構図の話。結構評判になった作品のはずだけど、『あの頃ペニー・レインと』などと同じように、特定世代のノスタルジーをそのまま見せられてもなあ、としか感じられない出来だった。もはや年代を「昭和」で数えられてもぴんとこない我々のような世代には、はじめから居場所のない世界なのだということだろうか。(作中にも、「しんのすけ」らの子供世代とその両親の世代しか登場してこない)
同年公開の『千と千尋の神隠し』も、いわばノスタルジックなテーマパークを舞台にした作品だったのが共通する。あの作品は作者の宮崎駿が『クレヨンしんちゃん』の製作者たちよりもだいぶ年上なので、子供の両親に当たる世代は「豚」にされて退場するだけだったけれども。その『千と千尋の神隠し』と較べれば、本作のノスタルジー世界の構築は、その射程範囲も独創性も大幅に見劣りすると言わざるをえない。これは別に作画能力の優劣を論じているわけではなくて、本作のように「昔の懐かしい風景」をただ再現しようとするだけなら、そもそもアニメーション映画である必要はなく、実写でも良かったのではないかということだ(そのほうが魅力的かもしれない)。『千と千尋の神隠し』には、さすがにアニメーションならではの空想の飛翔があったように思う。
それにしても、未来に希望を抱くことのできた昔の日々に戻りたい、という「イェスタデイ・ワンス・モア」の主張はいかにも倒錯しているな。
殊能将之さんのmemo(2002.04)における「あのね、〈もっと引っぱる、いわくテンソル〉って、間違いなく、ああいう曲ですよ」という指摘はおもしろかった。
ちなみに、アルフレッド・ベスターの『分解された男』を知らない人のために解説しておくと、「♪もっと引っぱる、いわくテンソル」は、完全犯罪を目論んだ主人公ベン・ライクが、精神感応力を持つ「超感覚者」の捜査官に内心の思考を気取られまいと、遮蔽のために頭のなかで流しつづける意味なし広告ソングのこと。彼の心を覗こうとした超感覚者には「うわ、何か変な歌が聞こえる」と雑音になって、それ以上心を読めないことになる。
大場正明/東京書籍
1950年代以降の米国の映画や小説などの文化を、「サバービア(郊外生活)」というキーワードのもとで分析した評論集。重要な作家として論じられているのは、小説ではジョン・チーヴァー、ジョン・アップダイク、レイモンド・カーヴァー、スティーヴン・キング、映画ではジョン・ウォーターズ、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・リンチといったあたりの面々。(個人的には、デヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』がほとんど最重要作品の扱いを受けているのが嬉しかった。まあ、どう見ても典型例だから当然なんだけど)
著者の大場正明氏は自身のサイト「crisscross」を持っていて、現在絶版の本書もその内容が順次公開されている(→サバービアの憂鬱)。そこを読めばわかるように、この著者の評論はどれもたいてい、その作品の社会背景に着目したものになっている。例えば、あの軽快なクライム・コメディ『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』でさえも、サッチャー政権以降の英国の社会状況を反映して「金をめぐる実にひねりのきいたドラマを通して、現代のイギリス社会を浮き彫りにする」ということになるのだ。この種の社会派的な読みかたは、当然ながら作品のひとつの側面にすぎないので、そこだけを特別に抽出して論じることに抵抗をおぼえるむきもあるかもしれない。でもやはり、これらの社会背景を念頭に置くのとそうでないのとでは、作品に対する理解のしかたが違ってくるはずだし、知らないと充分に愉しめない作品というのも確実に存在する。本書についても、米国産の映画や小説を好きな人なら参考程度にでも目を通して損はないのではないかと思う。
ところで本書は、創元ライブラリから文庫で再刊の予定があるらしいけれど、著者の大場氏は大幅な手直しを加えるつもりのようだ。これは本書の刊行された1993年以降、「郊外」生活の虚実を題材にした映画が目立って製作されているためもあるのだろう。僕の知っているかぎりでも、『ショート・カッツ』(1993)、『アイス・ストーム』(1997)、『ハピネス』(1998)、『アメリカン・ビューティー』(1999)など。なかでも『アメリカン・ビューティー』は世間的な認知度も高かったし、この種の映画の集大成(なので内容的にはマイルド化しているきらいもあるけれど)といえるかもしれない。(参照:閉塞する90年代のサバービア)
ちなみに著者の守備範囲外なのか、ミステリ小説に関する言及はなかった。この文脈で論じられそうな作家や作品というと、マーガレット・ミラーの『殺す風』『心憑かれて』、パトリシア・ハイスミスの『ふくろうの叫び』などがとっさに思い浮かんだけれど、どうかな。一見平穏な日常生活の裏にある秘密を暴く、みたいな展開はミステリのひとつの常套手段なので、他にもいろいろあるかもしれない。
Phenomenon(1996)
★★★
ジョン・トラボルタ主演の人情ファンタジーもの。ジョン・タートルトープ監督作品。
主人公がある日突然、驚異的な頭脳の持ち主になってしまうという設定から、ある有名なSF小説の筋書きを連想していたところ、最後までやはりそういう話だった。オカルト・ファンタジー(もしくは「奇蹟」についての神話)とSFの境界線を行くような話の進めかたはそれなりに興味深かったので、もうちょっと何とかならなかったのかなと感じる。
Lone Star(1996)
★★★★
ジョン・セイルズ監督・脚本作品。冒頭に白骨死体が発見されて、それにまつわる昔の事件の解明が主軸になる、というまさにミステリ的な構成で話が進む。ただし事件の真相そのものがさほど重要なわけではなくて、舞台となるテキサス州の町(メキシコ国境に近い)の歴史と時代の流れ、黒人・ヒスパニック系など民族間の立場の違い、保安官の主人公とかつて「伝説の保安官」だった亡き父親とのかかわりなど、社会背景から個人のドラマ要素まで、さまざまの問題を有機的に絡めた筋さばきが見事だった。「現在」と「40年前」の時制を自在に行き来する特徴的な構成は、『夜が終わる場所』や『ハドリアヌスの長城』などのような文学志向のミステリ小説を読んでいるときの感じに近い。それを考えるとミステリ読者としては興味深かったのだけど、逆に言えば、小説的な題材を映画で再現しているような違和感は、最後まで拭えなかったような気もしないではない。
ジョン・セイルズはもともと脚本が本業の人らしく、さすがにかなり凝った話を書いている。地味ながら知的な映画を作る人のようなので、他の作品もチェックしてみようと思った。
Heathers(1989)
★★★
マイケル・レーマン監督。ウィノナ・ライダーとクリスチャン・スレーター主演の学園ブラック・コメディ。大場正明『サバービアの憂鬱』で、冒頭の場面の『ブルー・ベルベット』との照応が語られていたのに興味を持って観てみた。
1980年代に流行した学園青春ものの枠組みをねじまげて、これだけ変なことをやった作品は他にほとんどないだろう、という意味ではおもしろかったけれど、クリスチャン・スレーター(『アメリカン・ビューティー』のウェス・ベントリーなどにも通じる「スーパー高校生」の役)の行動に何らかの背景が用意されていないようなのは、同時代ならともかくいま観るとちょっと物足りない。そのせいで、幕切れも弱くなっているように感じた。
『ビバリーヒルズ高校白書』のシャナン・ドハーティがいかにも性格の悪そうな役で出ていて、なかなか似合っていた。
蓮實重彦と山田宏一のハリウッド映画に関する対談集。副題は「ウーファからハリウッドまで」。元はビデオ選集「リュミエール・シネマテーク」の付録の冊子に収録されていたものらしい。最初はハリウッドの裏話談義が延々と続くのかと思って気が重くなりかけたものの、読み進むときちんとした作品論になっている内容のものが多く、また興味深い論点もいくつか提示されていた。蓮實重彦は文章を書かせると独特のまわりくどい文飾が肌に合わないのだけど(あれを真似る人がいるのにも失笑する)、これは相手のいる対談集なのでそのあたりの鬱陶しさは少ない。紹介されているフリッツ・ラング監督『暗黒街の弾痕』とエルンスト・ルビッチ監督『生きるべきか死ぬべきか』あたりは、とりあえず観ておこうかと思った。
以下のような指摘が興味深かった。
フィルム・ノワールについて……
蓮實 たしか四〇年にハリウッドで、財政を縮小しなければ映画撮っちゃいけないという法律ができるんですね。それで(中略)撮影のための電気代がかなり厳しく制限されて、カラーが撮りにくくなるんですね。
山田 そうすると、つくり方も決まってきちゃって、主題も限られてきちゃいますね。ライトをあまり使わない暗い画面でというと、フィルム・ノワールなんかつくりやすかったんですね。(p.33)
スクリューボール・コメディについて……
蓮實 結婚式の前日に、花嫁が逃げるとか、婚約者たちの間に不意に別の女が介入してきたりして、いずれにしても結婚式が予定通りに行われないというシチュエーションが多いでしょ。(中略)あれは、検閲のヘイズ法と関係があって、なんとか夫婦を同じベッドで眠らせないために、結婚式をさせないっていうシチュエーションをみんながつくったんじゃないかと思います。花嫁が逃げるか、男が逃げるか……。それが才能ある監督たちの抵抗であるような気がします。(中略)つまり、結婚式の初夜の到来をいかにして遅らせるかってことで(笑)(p.201-202)
とのこと。このふたつの論点に共通しているのは、上からの制約を課せられた映画製作者たちが、いかにしてそれらを逆手に取ったかたちで創造力を発揮したか、ということだろう。実際、外部的な制約が結果として別方向の工夫や発展を生み出す、というのは他の分野でもみられることのような気がする。
J・G・バラード/山田和子訳/新潮社[amazon] [bk1]
Cocaine Nights - by J. G. Ballard(1996)
★★★
バラードとはどうも相性が良くないようなのでさほど期待したわけでもないのだけど、これもいまひとつぴんとこない感想だった。
トラベル・ライターである語り手は、放火殺人の罪に問われた弟の無実を証明しようと、地中海の観光地コスタ・デル・ソルを訪れるが……という話。前半部はただ謎が深まるだけでほとんど話の進まないミステリ的な展開が淡々と語られるのだけど、後半になるといきなり退屈に満ちた管理社会的な集合住宅が登場してきて、住人たちに犯罪と刺激を提供してやるのだと息巻く「悪のカリスマ」的人物の活動に巻き込まれるという、いわばバラード版『ファイト・クラブ』のような展開に突入する。作中の犯罪哲学をめぐる対話は、チェスタトンさながらの逆説に支えられていてそれなりに興味深かったものの、それはほとんど言葉で説明されるだけの話に終始してしまうし、管理社会の退屈を打破しようとする実際の活動内容(健康的にスポーツクラブを組織したり、ヌーヴェルバーグ風の映画撮影のサークルをはじめたり)がいかにも「1960年代の人」らしい感覚で、『ファイト・クラブ』のチャック・パラニュークなどと較べるとさすがに古くさいと感じざるをえなかった。
次作の"Super-Cannes"(2000)は 山形浩生による梗概をざっと読んだかぎりだと、ほとんど同じ話みたいだな……。
ちなみに本作のプロット構造は、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』を下敷きにしているのかもしれない。
crisscrossにカズオ・イシグロのインタビュー記事が掲載されている。
などのことを語っているのが興味深かった。
カズオ・イシグロの小説を読んだことのない人には、土屋政雄の翻訳が秀逸な『日の名残り』[amazon] [bk1]を入門編としてお薦めする。「小説独自の体験を生みだす方法を発見するために努力した」という言葉の意味を、実感できるのではないかと思う(日本の作家で通じるところがあるのは、奥泉光あたりだろうか)。新作『わたしたちが孤児だったころ』[amazon] [bk1]は、一読したときには必ずしも成功していないように思ったのだけど、ちょっと読みかたを誤ったのかもしれないという気もしている。
You Only Live Once(1937)
★★★
フリッツ・ラング監督による「前科者は出所しても社会復帰できません」型式の陰鬱なスリラー/ノワール映画。ヘンリー・フォンダとシルヴィア・シドニー主演。「ボニー&クライドもの」の最初期の映画化という文脈での歴史的意義は認められるんだろうけど(最近でいえば『赤ちゃん泥棒』や『ワイルド・アット・ハート』もこの部類に入るだろうか)、お話は深刻な一本調子でそれほどおもしろいと感じなかった。映画でも小説でも、ユーモア感覚のない犯罪ものにはどうも魅力を感じない。
ただ、いきなり全画面に霧がたちこめたりする映像表現は鮮烈で印象に残る。
ひさしぶりにe-NOVELSを覗いてみて、興味深かった記事をいくつか。
北川歩実の『猿の証言』[amazon] [bk1]を褒めていたので嬉しい。この作品、秀作なんだけどあまり話題にならないのだ。「目撃者はチンパンジー」な話なので、お猿ミステリ愛好家も必読。
法月綸太郎による書評。『さらば、愛しき鉤爪』は、ジョナサン・レセムの『銃、ときどき音楽』みたいな奇想ハードボイルドなのかと思って期待したんだけど、個人的には翻訳の文体と「恐竜」の擬人化の度合いがどうも肌に合わなくて、まだ読めていない。冒頭から、まったく種の異なる恐竜同士がまぐわっている場面があって、その時点で「恐竜」を単なるぬいぐるみ的な道具立て(この文章に即していえば「テーマパーク的」だろうか)として使いまわすつもりなのが見えて興醒めになってしまった。
映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を読み解こうとする試みみたいなんだけど……書評の名目で映画評を書いているらしい齟齬はともかくとして、あの幕切れを「劇中劇」ものと解釈するのはさすがに特殊な見解なのではないかなあ。それでは「妄想ミュージカル」を挿入してきた意味が薄れてしまうのではないだろうか。
The Man Who Wasn't There(2001)
★★★★
ジョエル&イーサン・コーエン兄弟の新作映画。流麗な白黒映像で精巧に再現された、きわめて端正なフィルム・ノワールの秀作なのだけど、あまりにも手堅く模範的なので逸脱の面白味には欠ける気もしないではない。物語の語り手が【死刑囚】なのは、『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』や『彼らは廃馬を撃つ』などのノワール小説の古典的な型式を忠実に踏襲したもの。ただしその意味でははじめから結末の決まっている話なので、ちょっと終盤のまとめかたが窮屈になっているようにも感じられた(脚本でいえば、かつての『ブラッド・シンプル』(1984)や『ミラーズ・クロッシング』(1990)のほうが冴えていたのではないかと思う)。後半以降の裁判の展開には、こころなしかフランシス・アイルズ風味の皮肉もあり。
コーエン兄弟の描く犯罪劇の構図は、基本的に「勘違い」によって成り立っている。ビリー・ボブ・ソーントンの演じる主人公の床屋は無口な男なので(でも語り手としては意外に饒舌)、必要以上の発言をせず、たぶん最後まで他人に積極的な嘘もついていないはずだ。なのに主人公の下した犯罪行為の結果、いつも誰か別の人物が犯人として疑われるという「勘違い」が生じる。そこで「まあいいか」と居直ったために事態がずるずると悪化してしまう、という誰にでもありそうな感覚が本作ではよく出ていた。
ノワール小説/映画が、明るいアメリカン・ドリームやありふれた日常生活の裏側を描くものだとすれば、この映画の展開はほとんど教科書的なまでにその構図をなぞっている。主人公はいわばアメリカン・ドリームの敗残者で、彼が日常生活を踏み外してしまったところから物語が転がりはじめる。殺人の場面で「ガラスに亀裂が入る」のは、その「日常を踏み外した」ことの象徴なのだろう。
コーエン兄弟の「でぶ偏愛」は周知の事実で(第一作の『ブラッド・シンプル』でも、事態を錯綜させている元凶は「肥った探偵」だった)、今回はおなじみのジョン・グッドマンが出ていないものの、肥った俳優が三人ほど登場して、また暑苦しさを添えている。あと、個人的に注目していたスカーレット・ヨハンソン(ピアノの美少女)は、古風な容貌がこういう雰囲気の話に合っているようで、結構良い感じの使われかたをされていたのでわりと満足。
クラシック映画の感想がたまってきたので、少しまとめて記載。
It Happened One Night(1934)
★★★★
フランク・キャプラ監督による、ロマンティック・コメディの古典的名作。
特に意識して作品を選んだわけではないのだけど、『傷だらけの映画史』で指摘されていた「男女がダブルベッドで寝る場面を描いてはいけない」という当時のヘイズ法の規制を頭に入れてみると、これはとても興味深い映画だった。この映画では、主人公の男女が同じ部屋に泊まっても別々のベッドで眠らなければならない、という外部的な制約が物語内にそのまま取り込まれて、有機的に活用されているのだ(観た人ならわかる「ジェリコの壁」!)。まさに制約を逆手に取った創意工夫を実践しているわけで、本作が内容的には単なるラブコメにもかかわらず、アカデミー賞の作品・監督・主演男優・主演女優賞を総なめにしているのは、そのあたりの功績を称賛された背景もあったのだろう。
主演のクラーク・ゲーブルの、ダンディだけどうさんくさい演技が素晴らしい(現代の俳優でこれに近いのが『オー・ブラザー!』のジョージ・クルーニーだろうか)。主人公ふたりがバスから降りるまでは、これは奇跡的な傑作ではないかと思ったんだけど(バス内の合唱も良かったなあ)、ヒッチハイクで自動車に乗って以降はちょっと弱くなり、終盤にはいささか強引なすれ違いサスペンスになりかけてしまうのが少し惜しまれる。相方が良すぎるだけに、ヒロインの金持娘が「惚れっぽい気まぐれ娘」の類型を出ないのも気になった(もともとこのヒロインは役まわりに少し無理があるように感じるし、演じたクローデット・コルベールはこの映画に乗り気でなかったらしいとも聞く)。フランク・キャプラ監督は、他の映画を見ても男優の魅力を引き出すのには長けているんだけど、女優に関してはそれほどでもないのかもしれない、などと思った。
The Lady Eve(1941)
★★★★
プレストン・スタージェス監督・脚本の、スクリューボール・コメディの有名作。バーバラ・スタンウィック(これが代表作になるのかな)の演じるヒロインの造形が最高で、前半場面での彼女の魅力はほとんど神話的な領域に達しているのではないかと思った(そういえばこの映画には「蛇」と「林檎」が登場していて、ヒロインの名は「イヴ」だから、旧約聖書を連想させるようにもなっている。もしかすると、あの女は蛇の化身なんじゃないかな?などと考えさせる)。後半は英国貴族の女に変身する設定なのだけど、そこで鍵になるのは「英国なまり」の発音らしいので、ちょっとその面白味が伝わりにくかった。たぶん見事なんだろうと思うことにはするけど。
本作で、脚をひっかけて転ばせ、脚を見せながら靴を履かせるなど、「脚で男を絡めとる」女として活躍したバーバラ・スタンウィックは、その印象がよほど強かったのか、『深夜の告白』でも「脚を見せる」ことで主人公を誘惑する役柄を割り当てられていた。
ヘンリー・フォンダは、この映画ではとりあえず「転んでいるだけ」という気もする。
To Be or Not to Be(1942)
★★★★
エルンスト・ルビッチ監督作品。『傷だらけの映画史』の言う「艶笑コメディ」というよりは、『スティング』系の洒落たいかさまコン・ゲームものの古典という感じがした。「演技」が作中の主要な位置を占めていること、観客を主人公側の謀議に巻き込んだふりをしながら、実は蚊帳の外に置いているところなども共通する。とにかく、演劇俳優たちがナチスを相手に自分なりの「演技」で戦うという構想をよく考えついたものだなと素直に感心(原案は監督のルビッチ自身らしい)。味方も敵も、登場人物が阿呆ばかりなのが良いね。
The Big Sleep(1946)
★★★
NHK-BSで放映されたのを視聴。ハワード・ホークス監督、ハンフリー・ボガート主演作。レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』の映画化。もともと原作の内容が破綻しているので、謎解きをきちんとまとめるのを放棄して製作されたという、いわくつきの作品で、これは要するにハンフリー・ボガートの丁々発止の会話を愉しむ映画なのかな。原語をきちんと聞き取れない身にはちょっと厳しかった。
原作『大いなる眠り』の冒頭では、主人公フィリップ・マーロウが、
「背が高いのね」
「僕のせいじゃない」
と受け答えする有名な場面があるのだけど、ハンフリー・ボガートはどうみても長身ではないので、この映画ではそのくだりが、
「背が低いのね」
「残念ながら」
といったような内容に改変されていて、微笑を誘った。
ちなみにマーロウ役といえば、個人的には『ロング・グッドバイ』(ロバート・アルトマン監督)のエリオット・グールドが良かったような記憶がある。(彼は長身だったはず)
ジェレミー・ドロンフィールド/越前敏弥訳/創元推理文庫[amazon] [bk1]
The Locust Farm - by Jeremy Dronfield(1998)
★★★
「飛蝗」は(昆虫の)「ばった」と読む。英国の新人作家による変化球ミステリ。時系列を錯綜させた挿話が次々と提示される前半部は、デヴィッド・リンチばりの謎のふりまきかたでちょっと驚いたのだけど、後半に展開があらかた見えてしまってからはわりと陳腐で物足りない。この結末はミステリの落しかたとしては反則技の部類に属する荒業だし(これに納得できる人は少数だろう)、場面ごとの描写が映像的な三人称叙述なのに、小説でしかできない仕掛けを盛り込んでいるので、結果的に叙述の視点がぶれている感じを受ける。まあ、何をするかわからない興味深い作家ではあるようなので、他の作品に期待してみても良いかなとは思ったけれど。