明けましておめでとうございます。
2002年1月刊行予定の新刊書で気になるものを挙げてみた。綿密に調べているわけではないので、他にもあるかもしれないけれど。
なかではジャン・ヴォートランの『グルーム』が愉しみかな。
Comment je me suis disput?.. (ma vie sexuelle) (1996)
★★★
アルノー・デプレシャン監督作品。たぶんこれが出世作なのかな。大学教員を主人公にしたインテリ階級の群像恋愛映画で、あえていえば「青春の終わり」もの。三時間近い長尺の映画だけれど、何かものすごい濃密な物語が詰め込まれているわけではなく、要するに主人公が決断力のないモラトリアム野郎なので、自分と向き合うためにそれだけのぐだぐだした迂回が必要だった、ということなのだと思う。路線としては『ハイ・フィデリティ』に近いかもしれない。
新作の『エスター・カーン』(2000)と似たような感じで、肝心のところをわざと避けて話を進めるような構成(たとえば旧友と仲たがいした事情など)が興味を惹いてとりあえず退屈はしないのだけれど、いわゆる「シネフィル系」の批評でやたら持ち上げられている理由はよくわからない。トリュフォーなどの先達の影響が色濃いからなのか、あるいはインテリ男が根拠なく結構もてまくる話だからだろうか。
また『エスター・カーン』と同様、この作品も解説的なナレーションが多い。これは主人公の知識偏重の性格に合っているといえなくもないのだけれど(その意味で『エスター・カーン』よりは不自然さが少ない)、やはり映画のラストを心情説明のナレーションで締めてしまうのはちょっとなあ、と感じてしまった。
Touch of Evil(1958)
★★★★
オーソン・ウェルズ脚本・監督および出演の悪徳警官もの。冒頭の長回しなどの技法面が有名らしいけど、やはりオーソン・ウェルズ演じる警官のアンチ・ヒーロー的な存在感が圧巻。彼が善でもあり悪でもある、というような逆説が映画の大きな幹になっている。最近の映画だとデンゼル・ワシントン主演の『トレーニング・デイ』がこれに近い筋書きだったけれど、こちらの本家に比較するとさすがに力不足は否めないところ。ジャネット・リーの容赦ない扱いは『サイコ』(1960)の前哨戦ということだろうか。
ちなみに、ケント・ハリントンの『死者の日』に登場する「やたら肥えた大富豪」はこの映画のオーソン・ウェルズ(相当太ってます)をモデルにしていたみたいだ。(そもそも舞台が同じメキシコのティファナだし、作中にも明示的な言及がある)
新作『Dr.Tと女たち』にまつわるインタビュー記事より、ロバート・アルトマン監督の発言。
私は常に自分の映画に、1回見ただけではすべては気がつかないような要素を入れようとしている。もし私の映画が本当に好きならば、最低でも2回は見なければならない。できれば3回でもね。映画の隅っこの部分まで、すべてに内容を詰め込んでいる。だから何かをおもしろいと思ったら、好きな映画だと思ったら、もう1度見に行くべきだと私は勧めたい。だがほとんどの人は「もう見たから」という。だが、彼らはそれを見ていないんだ。2回目に見るときには、別の映画を見ているんだよ。
まあ、映画監督ならたいていそう言うだろうけど、なかなかねえ。
リチャード・パワーズの『ガラテイア2.2』(若島正訳/みすず書房
[amazon] [bk1]に手をつけていたのだけれど、どうも合わなくて挫折しそうになっている。序盤を読んだかぎりでは、作中の主人公「作家リチャード・パワーズ」がうだうだと悩みを抱えている、というポール・オースターあたりの書きそうな擬似「私小説」の叙述になっていて、何だか作家の個人的リハビリにつき合わされているような感想だった。読み進めるとまた違う展開になるんだろうか。個人的には、順番どおり第二作の『囚人のジレンマ』を先に訳出してもらいたかったような気もする。
ところで、作者のリチャード・パワーズと翻訳者の若島正は、どちらも理系で大学に入ってその後「文転」した経歴の人なんですね。(作中でもその「文転」について触れられている)
サイコドクターあばれ旅の読冊日記(2002/01/05)によると、古川日出男の新作『アラビアの夜の種族』(角川書店)[amazon] [bk1]がなかなかすごそう。この作家は前から少し気になっていたので、そろそろ読んでおいたほうがいいかな。
風間賢二/自由国民社(1993)[amazon] [bk1]
★★★★
英米ポストモダン小説を軸に、ラテンアメリカ文学、モダンホラー、ファンタジーなどの作品群を手広く紹介する評論集。初出がほとんど雑誌記事なのでさほど深く突っ込んだ論考はないけれど、現代文学の案内書としてとても刺激的だった。読書の蓄積に裏打ちされた視野の広さと、何げなく提示される情報量には感心するばかり。普段読んでいない分野のせいもあって、だいぶ読みたい本が増えてしまった。
著者は「ポストモダン」文学のひとつの重要な志向として、いわゆるハイ・カルチャーとポップ・カルチャーをないまぜにして扱い、旧来の枠組みを解体すること、というのを挙げている。これは文芸評論の分野でいえば、「純文学と大衆文学」といった垣根を取り払って小説を読むこと、になるだろうか。そして、トマス・ピンチョンやボルヘスとスティーヴン・キングを同列に語る本書の態度も、まさにそれを地で行っているように思えた。(というか、現在ではこちらのほうが標準的になりつつあるかもしれないけど)
「文学は遊びだ」と公言してはばからない姿勢は、ミステリ関係の論者でいえば「小林信彦−瀬戸川猛資」のラインと近いだろうか。……などと考えていたら、案の定、本書の最終節では小林信彦の『小説世界のロビンソン』が絶賛されていた。いかに文学的な趣向が盛り込まれていても、まず読み物としておもしろくなければ賞賛には値しない、という態度には共感をおぼえる。
本書の記述を目にして、読んでおこうと思った本を五冊ほど。他にもあるんだけど、きりがないので数を絞った。
斎藤美奈子の第一作(1994年)。『舞姫』から『風の歌を聴け』まで、日本の有名な小説を「妊娠」という切り口で総括した、パロディ論文調のエッセイ文芸批評。
斎藤美奈子の著作は、近頃『紅一点論』(ちくま文庫)[amazon] [bk1]と『読者は踊る』(文春文庫)[amazon] [bk1]が相次いで文庫化されたようで、どちらもおもしろい読み物だったのでお薦めできる。この人の文章の魅力は、端的にいえば「これって結局××だよね」的な「類型化つっこみ」の歯切れの良さにあると思う。本書でもそのまま「妊娠小説の類型学」と題した章があり、それ以外の章でも小説内のパターン化した妊娠描写をこきおろしていて痛快。もちろんこの種の図式化というのは、ものごとを単純に切り分けすぎることの弊害と隣り合わせにあるわけだけれど、この人の明快で切れ味の良い文章は、少なくとも読んでいるあいだはほとんどそのあたりの不満を感じさせない。
ただ読んだ順番のせいもあるのか、個人的には『紅一点論』や『読者は踊る』ほど素直に愉しめなかったのは否めない。本書は「わたしたち」なんてあいまいな一人称を都合よく使いまわしているのがどうも好きになれないし、もともと論じられている対象にさほどの親近感を持っていない読者には、いまひとつ興味が薄かった。その意味では、『風の谷のナウシカ』や『新世紀エヴァンゲリオン』をも題材にしていた『紅一点論』のほうが一般的な訴求力は高いんじゃないかなと思う。
この人は基本的に「つっこみ役」が得意な人で、誰もが知っている有名なものに鋭いつっこみを浴びせる場面で持ち味を発揮する型の批評家のようだ。それを豊かな言説でない、と感じる人もいるかもしれないけれど。路線としては、ナンシー関のTVつっこみコラムに近いものがあるんじゃないかとも思う。(と考えていたら、いつのまにか「噂の真相」にも進出していたのだけれど)
昨年読んだ「小説について語った文章」で、意外な場所で見つけて興味深かったのが、第五回新潮ミステリー倶楽部賞(受賞作『オーデュボンの祈り』)で審査員に名を連ねている奥泉光の選評だった。新人賞の選評というのは結構とおりいっぺんでつまらないことも多いのだけど、この人は別格。短いスペースながら「小説の理想」を語り、物語にふさわしい「スタイルの選択」の観点から的確な論評を加えている。
少し引用してみるとこんなかんじ。(引用元は『オーデュボンの祈り』(新潮社)の巻末)
そもそも小説とは、それが何であるかを名指しできない何かなのであり、「これは一体何なんだろう?」と思わせるものこそが最も小説の理想に近いといえる。『オーデュボンの祈り』が小説らしいとは、簡潔にいえば、そのような意味である。(p.341)
主題は大切だけれど、小説というジャンルでは、細部は主題と等しく重要なのだ。いや、むしろ細部のほうが重要だとさえいえる。主題のない小説はありえるが、細部のない小説はないのだ。(p.342)
これらの発言(特に上のほう)は一種の韜晦のように見えるかもしれないけれど、奥泉光の小説(とりわけ『鳥類学者のファンタジア』)を読んだことのある人なら、この人がきわめて真摯に「小説」そのものの魅力を探究している作家で、その結果としてこういう主旨の文章を記しているのがわかると思う。内容的には『鳥類学者のファンタジア』の自作解説としても読むことのできる文章かもしれない。
若島正/みすず書房(2001)[amazon] [bk1]
★★★★
『乱視読者の冒険』に続く若島正の評論集。ナボコフ関連の論考(「はめこまれた歯」が秀逸)を軸にして、そのほか「ミステリマガジン」や「朝日新聞」連載の書評なども集められている。文章の的確さにはいまさら驚かないけれど、やはり参考になるところが多かった。
ミステリがらみでは、著者自身「わたしが書いたすべての文章の中で最も影響力の大きかったものかもしれない」(p.226)と認める名評論「明るい館の秘密」も収録。ちなみにその「明るい館の秘密」の冒頭では、こんな批評宣言がなされていた。
作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない。丸い卵も切りようで四角というのは、わたしの趣味ではない。むしろ、丸い卵は丸いということを言うつもりだ。わたしは小説の勘所にしか興味がないのである。
これは圧倒的に正しい論述の態度だと思う。そして、「丸い卵は丸い」ことを周到に論じているだけにもかかわらず、その小説をかつてとは違ったものに思わせてしまうところがこの人の文章のすごいところだ。
あと、個人的に気になっているチャールズ・ウィルフォードの未訳の作品がいくつか好意的に紹介されているのも興味深かった。特に代表作といわれる "The Burnt Orange Heresy" はそろそろ訳されないものかなあ、と思うのだけど。
若島正の『乱視読者の帰還』がチャールズ・ウィルフォードの未訳作品に言及していることはすでに述べたけれど、そのうちのひとつ、初期作品の "High Priest of California" は次のような文脈で紹介されていた。
悪辣なセールスマンが趣味でジョイスやカフカやT・S・エリオットを読んでいるというその落差、……(p.118)
この小説で最も印象的な文章はこうだ。「この女は本当に謎めいているのか、それともただの間抜けなのか、どっちだろうと俺は思った」。(p.118)
実物を読まないで言うのも何だけど、ここには作中人物が「間抜けなのか賢いのかよくわからない」という構図が読みとれるのではないかと思う。そしてこれは、同じくカルト的なパルプ・ノワール作家として再評価されているジム・トンプスンの多くの作品にも共通するところだ。たとえばジム・トンプスンの出世作『内なる殺人者』の主人公ルー・フォードは、田舎町の保安官補でありながらなぜか自宅では外国語の書物を読み、趣味で高等数学の問題を解く、という現実離れした教養レベルの人物として描かれていた。
トンプスンやウィルフォードのような作家がどうしてこのような二重性をおびた人物を好んで描くのかというと、そこには彼ら自身がかつて別の道(純文学や絵画)を志したものの果たせず、しかたなく(かどうかは知らないけど)パルプ・ノワール作家の道を選んでいるらしい、という背景が重なって見えるような気がする。それらの主人公の人物造形は、見かけは安手の扇情的ペイパーバックにもかかわらず、奥には意外なほどの教養や知性を感じさせる、という彼らの作品や作家性そのものへの自己言及とみてもいいかもしれない。
特にジム・トンプスンの作品を読むと、主人公はいつも「間抜けなのか賢いのかよくわからない」人物として描かれている。たとえば、ほとんど白痴的な人物を主人公にしている『アフター・ダーク』でさえ、そういう読みかたのできる余地がある。僕は個人的にジム・トンプスンの最高傑作は『ポップ1280』だろうと考えているけれど(今後未訳作品の紹介が進んでもたぶんそれは揺るがないと思う)、そのひとつの理由は、先行作品の『内なる殺人者』ではおもに小道具の提示で表現されるだけだった「主人公が間抜けなのか賢いのかよくわからない」という構図が、『ポップ1280』では直接プロットを動かす主軸として有機的に機能しているからだ。(最初と最後のくだりは、まさにそれを集約して語ったものだろう)
ジャン・ヴォートラン/高野優訳/文春文庫[amazon] [bk1]
Groom - by Jean Vautrin(1980)
★★★★
ジャン・ヴォートランの第四長編。前の作品『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』『鏡の中のブラッディ・マリー』でシュールに活写された郊外の団地の荒廃と閉塞感は背景に後退して、孤独なひきこもり青年の妄想世界と現実が交錯する、一種のメタフィクション的な構成が前面に出てきている。訳者解説によれば「団地での戦いに敗れたヴォートランの主人公は、ついに戦うことをあきらめ、まだ都市化(非人間化)されていない場所まで撤退したのだ」(p.475)ということで、先の二作では群像劇的な構成のもとで相応に描かれていた人間どうしのかかわりあいさえもが、本作になるとほとんど否定されている感じを受けた。現実と折り合いをつけられなかった人の悲劇を描くという点でいえば、マーガレット・ミラーの諸作品と近いところがあるのではないかと思う。おもしろく読んだけれど、全編を通じてだいぶ悲観的な色彩が濃いので、個人的には奇矯な人物たちがはじけている『ビリー・ズ・キック』あたりのほうが好きだったかな。
それにしても20年以上前に書かれた話なのに全然古びているかんじはしない。本書の趣旨からはだいぶ外れてしまうのだけれど、我々はこの小説を読みながら、かの宮崎勤氏が身体的な障害を有していたことや、例の神戸の連続殺人事件の少年が近所の猫を殺して妄想日記をつけていたことを想起しないわけにはいかないだろう。
作中で引用されている映画は『黒い罠』(この映画のオーソン・ウェルズは『死者の日』でも言及されていた。それだけインパクトが強かったんだろうな)『地獄の黙示録』(クライマックスで上映される)など。また題名は明示されていないけれど、全体的に『サイコ』は設定の下敷きにしているんじゃないかなと思った。(一応モーテルの話でもあるし)
Kandahar(2000)
★★★
イランのモフセン・マフマルバフ監督作品。一応、時事ネタなので早めに観てきました。
もう少し劇的な映画なのかなと思っていたのだけど、なんだかアンチ・クライマックス的なロード・ムービーといったかんじの話だった。「カンダハールはどこよ?」と戸惑う人もいるかもしれない。擬似ドキュメンタリー調で作為の少ない映画だけれど、カメラを通して覗き見られる日常描写にはちょっと『フリークス』みたいなシュールさも感じられる。最近の中東がらみの映画でいえば、イスラエルの戦争映画『キプールの記憶』も実体験をもとにしたノンフィクション的な作品だったけれど、こちらの『カンダハール』のほうが記録媒体の「テープレコーダー」の扱いなど、映画の枠組みに意識的なように思えて興味深かった。目的地のカンダハールに重ねられる「日蝕」は、視線の届かないこと、無視されてきたことの象徴なのかな。
Spy Game(2001)
★★★
トニー・スコット監督作品。スパイ映画というよりは一種のコン・ゲームものに近くて、CIA本部に居ながらいかにして一日以内で海のかなたの中国に捕らわれた弟子を救出するか、というちょっと不可能興味を盛り込んだ限定状況サスペンスになっている。その解決はいくらか裏技気味だったような感じもするけれど、映画全体をひっぱる趣向としては悪くないと思った。構成的には、精緻な伏線を張りめぐらすというよりは、徹底して必要以上の情報量を画面に流しまくることで物語の進行を押しきる系統の映画で、それなりに見事な腕前なんだけど何か騙されたような後味も残らなくはない。
『スティング』(1973)を観たとき、若い頃のロバート・レッドフォードの風貌は現在のブラッド・ピットに似ているなと思ったけれど、この映画ではそれを裏書きするように「ふたりは師弟関係」という設定になっている。で、『スティング』におけるポール・ニューマンの「若僧に手を差し伸べる古強者」の役まわりを、こんどはロバート・レッドフォードがやっているわけですな。その意味でこれは『スティング』の遠い続編のような趣向の映画であり、ヒーローの世代交代を描いた映画でもあるだろう。そして『スティング』で格好良い(といわれる)のがポール・ニューマンだった以上に、この『スパイ・ゲーム』は完全にロバート・レッドフォードを主役にすえた映画になっている。
映像もやたら豪華で結構愉しめたのだけど(湯水のように金を遣っている感じが爽快)、ただ東洋人の端くれとしては、この映画の「中東と中国=危険で野蛮」の類型的な描写、あるいは白人を救うためなら何をしても良いといわんばかりの倫理感覚にはどうも抵抗を感じてしまった。ハリウッドの娯楽映画に堅いこと言うなと思われそうだけれども。
それにしても『テイラー・オブ・パナマ』(2001)もそうだったけれど、現代のスパイ映画がどちらかといえばスパイ作戦をパロディにしたコン・ゲームもののようになってしまうのは、時節柄致し方のないところなのかな。
ついでに小説で連想した作品を書いておくと、ブライアン・フリーマントル『消されかけた男』(『スティング』的な趣向のスパイ小説の最高峰だろうか)、それにドン・ウィンズロウ『ストリート・キッズ』(老練な探偵と若者の師弟関係)『仏陀の鏡への道』(その続編。女を追って中国で虜囚になる)あたり。
A Civil Action(1998)
★★★★
ジョン・トラボルタ主演、スティーヴン・ザイリアン監督の弁護士もの。チェスの天才少年を描いた『ボビー・フィッシャーを探して』(1993)もそうだったけれど、この監督は時間と空間をざくざくとすっとばす編集のリズムが非凡で、次に何を繰り出してくるかと妙に惹きつけられるものがある。弁護士の話をこんなふうに撮る人は他になかなかいないだろう。法廷をはじめ室内場面の撮影に独特の質感の美しさがあるのも快い。(まあ結局、『ボビー・フィッシャー』のチェス対局場と同じような撮りかたではあるんだけれど)
ただし、「実利主義の弁護士」だったはずの主人公がリスクの高い公害訴訟に入れ込んでいく事情が展開上描かれていないので、映画がどうも芯を欠いているような感じを受ける。これは脚本の手続きが抜けているせいもあるだろうだけど、そもそも題材の選択がこの監督の資質と必ずしも合っていなかったのではないかと思った。この人はたぶん『ボビー・フィッシャーを探して』の「盤上の駒をざっと床にふり払う」場面のように、映像的な瞬間の説得力で話を進めていく系統の人なので(本作でも似たような「食卓で水をこぼす」場面が重要な鍵になっている)、それはどちらかといえば抽象的な言葉のせめぎあいになる法廷闘争を説明するにはあまり適していないような気がする。さらにいえば、この監督得意の時間・空間の「省略」技法が、地道な証明を積み重ねる法廷世界の描写では裏目に出ているところもあるのかもしれない。
それでも映像と編集が秀逸で、二時間を充分退屈せずに観られる映画だった。この監督(本業は脚本家のようだけど)には今後も注目したい。
パトリック・マグラア/宮脇孝雄訳/河出書房新社
The Grotesque - by Patrick McGrath(1989)
★★★★
おもにホラーの文脈で紹介されている作品のようだけれど、超自然的な要素はいっさいなく、「奇妙な語り手」を軸にした文芸小説の性格が濃い。もうはじめの数頁を読んだだけでそれとわかる、恣意的で歪んだ一人称叙述がとても良かった。他人の心理を独善的に断言し、見たはずのない場面までも妄想を織りまぜて語る。このどこまでも「信頼できない」話者のせいで、語られるはずの殺人事件の真相は当然ながらどんどん曖昧になっていき、そもそも全身麻痺で植物状態の人物がどうしてこんな語りを繰り広げられるのか、と叙述の根拠さえもが疑わしくなってくる。英国の田舎の沼沢地にある古屋敷を舞台にした殺人事件の謎、というのはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズものなどでもよく語られるひとつの定式だけれど、作者はそれらを踏まえたアンチ・ミステリ的な展開を試みているのかもしれない。
作者パトリック・マグラアは英国出身の作家で、このひねくれた書法も英国文学の伝統を感じさせる(作者自身はイヴリン・ウォーを敬愛しているらしい)。作風として近いのは、初期のイアン・マキューアン(翻訳も同じ宮脇孝雄)とか、『奇妙な人生』『死せる少女たちの家』のスティーヴン・ドビンズあたりだろうか。
古川日出男『アラビアの夜の種族』(角川書店)[amazon] [bk1]を読みかけていたのだけど、残念ながらどうも合わなくて途中で挫折。漢字の熟語に恣意的な読み仮名をあてている箇所が頻発して(最初のページから抜き出すと「待遇(あつかい)」「境遇(みのうえ)」など)、それらが出てくるたびにひっかかってとても読みにくい。漢字の読みなんて読者の勝手にさせてくれと思う。とりわけ、「架空の書物の日本語訳」という趣向のもとで語られる小説なのに、どうしてそんな日本語限定の特異な語法を盛り込まなければならないのか腑に落ちなかった。口述筆記の設定とも調和していないと思う。類似した趣向(架空書物の翻訳)の小説といえば、たとえば皆川博子の『死の泉』があるけれど、あの作品は「翻訳にしては文章が端正すぎる」ことを除けばほとんど文章作法上の突っ込みどころは感じなかったおぼえがある。
語りの設定から避けられないところもあるのだけれど、叙述がほとんど筋書きの超越的な「説明」に終始してしまっているのも物足りなかった。
Dr. T & the Women(2000)
★★
ロバート・アルトマン監督(75歳)の新作。閉塞した日常描写の積み重ねとそれらを押し流す終盤の天災、という『ショート・カッツ』を思わせる構成なのだけど、何か煮え切らないブラック・コメディに終始したような印象だった。リチャード・ギアを「セクシーな婦人科医」の役柄で起用して、この種のジェンダー話を主導させる発想は悪くないと思うものの、いかんせん「やかましい女たち/情けない男たち」の人間模様が図式的すぎて興味をつなげられていない。前作『クッキー・フォーチュン』には少なくとも感じられた、独特の世界構築の魅力も薄かった。好意的に描かれる人物がほとんどいない(人気の若手、ケイト・ハドソンさえも見苦しく撮られる)のは、怜悧な皮肉というより老人の厭世感がにじみ出ているような感じを受ける。ダラスの「陰謀博物館」や車のナンバーの遊びなんかは悪くなかったけれども。
Annie Hall(1977)
★★★★
ウディ・アレン監督・脚本・主演の、たぶん代表作になるのかな。これはたしかに良かった。冒頭で紹介されるグルーチョ・マルクスの「私を会員にするようなクラブには入りたくない」とのひねくれた台詞が作品全体の態度を象徴していると思う。誰も聞いてないのにユダヤねたを披露しまくる、といった自意識過剰の語り口がなかなか軽妙。ときおり映画の文法を逸脱するほどの「自分語り」がなされるものの、実は作中人物のウディ・アレン自身もどうやら「自分語り」しかできない芸人として描写されているように見える、といったあたりの微妙な自分との距離のとりかたが、単なる自己愛的な「僕映画」とは一線を画しているように思った。
Dancer in the Dark(2000)
★★★★
ビョーク主演、ラース・フォン・トリアー監督作品。公開当時は相当な悪評を見かけたのでちょっと敬遠していたのだけど、これは思いのほか興味深く観られるひねくれた映画だった。主人公がいきなり現実逃避して没入する「脳内ミュージカル」を入れ子にした構造がスリリングで(いつ発動するか?と気を抜けない)、『アンブレイカブル』や『ベティ・サイズモア』なんかにも通じる妄想メタフィクション映画として秀逸。この前作にあたる『イディオッツ』も「白痴のふりをする」人たちを演じる俳優を撮る、というメタ映画的な趣向の作品だったけれど、それを継承した路線なのだろうな。ヒロインが「虚構」の物語に救いを見出して現実を捏造していくような展開も似かよっている。
劇中では、ビョーク演じる主人公に「ミュージカルってさ、いきなり人が歌いだしたりして不自然だよね」との台詞があっさりと投げかけられ、彼女はしかたなく「ええ……そうね」と返すやりとりが用意されている。本作はこのお約束の突っ込みを「だって白昼夢だから」との説明で裏返した、いわばアンチ・ミュージカル趣向の映画になっている。普通ならそぐわない深刻な場面で平然とミュージカル趣向が発動される展開も、この監督のミュージカル映画に対する徹底した悪意を感じさせるところ。後半はほとんど「【死刑執行】ミュージカル」の一点にむかって、かなり強引なメロドラマ的展開が積み重ねられる。
それらの筋書きが稚拙で説得力に乏しい、との批判をよく見かけたけれど、これは幼稚で独善的な人物として描かれる主人公セルマにあくまで焦点を絞った映画なので、このくらいの話の進めかたでちょうど良いのではないかと思った。そもそもこの映画の文法は、いわゆるリアリズムに則ったものではない(「手持ちカメラ撮影=擬似ドキュメンタリー」と決まっているわけではないはず)。たとえばカトリーヌ・ドヌーヴがそこらの町工場で働いている時点で「なんだそりゃ」と感じざるをえないわけで、この映画の舞台は仮に「アメリカ」と呼ばれている、どこか別の世界の話だと思ったほうが精神衛生上よろしいのではないかと思う。まるでやる気のない法廷場面の扱いからして、この映画に「社会」を写生する気が少しもないのは明白だろう。リアリズムの観点からいえば、この主人公セルマのような「危ない」人は、とりあえずどこかの福祉施設でも紹介してあげるのが親切な対応のような気がする。でもそれでは話がはじまらないのだから、ヒロインの存在が成り立っている時点で、この映画は一種のファンタジーというか「残酷な童話」のような相貌をまとわざるをえないのだと思う。
この監督特有といえそうな粗い褐色の映像、手ぶれの激しい不安定な撮影が、本作では「主人公の眼が悪い」「精神が不安定」「外界に興味がない」設定と調和して、ある程度の物語的な必然性をそなえているのにも結構感心した。
最後まで観ていささか弱いかなと感じたのが、ただ「子供を抱きたかった」と語るヒロインの行動原理に、無条件の母性が前提とされているようなところ。このあたりはどうもキリスト教圏の聖母信仰が根底にあるように思えて(実際、このトリアー監督は熱心なクリスチャンらしい)、個人的には創作の基盤に宗教的な要素を感じさせる作家ってどこかひっかかるものを感じてしまうことが多いのだよな。
それにしてもこの映画は、
と、一般的に流行りそうもない映画の条件をそろえているにもかかわらず(監督はもともとカルト路線の映画作家だし)、よくヒットしたもんだなと思う。そのぶん賛否両論が分かれているみたいだけれども。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の感想をそこらで探してみたのだけど、「メロドラマ的な展開が稚拙」「ミュージカルをわかってない」といった部分でひっかかっている文章が大半で、全体の構想を踏まえた批評がほとんど見つからないように思った。そのなかで興味深かった、もしくはだいたい同感なのは、大場正明氏の「ファンタジーのなかに実体化されるアメリカ」および、「『エレファント・マン』に似ている」という記述があるホラー狂日記の感想あたり。デヴィッド・リンチとラース・フォン・トリアーには相通じるものを感じる。どちらもきっと、トッド・ブラウニング監督の『フリークス』を好きだろうな。
ところで、これはあとから考えたのだけど、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の「現実と妄想」で画面の色調を別にした二重構造は、「モノクロからカラーに変わる」趣向が有名なミュージカル映画版『オズの魔法使い』を下敷きにしているんじゃないかと思った。
という動きがあるらしい。個人的には、自分の興味のある分野(小説や映画など)に言及している以外のいわゆる「テキストサイト」はあまりおもしろいものを読んだことがなくて、現在定期的に覗いているところもないのだけど。そのあたりの偏見を覆すような動きが出てくるんだろうか。
Breaking the Waves(1996)
★★★
ラース・フォン・トリアー監督の少し前の作品。エミリー・ワトソン演じる精神障害の女性がいろいろとひどいめに遭う話。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の感想で、「創作の根底にキリスト教の精神を感じる」というような意味のことを書いたけれど、こちらはもうそのままキリスト教の話だった。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』における「ミュージカル」のかわりに「キリスト教」が出てきている、といったかんじ(主人公は脳内で神と対話しつづける)。主人公にもたらされる「悲劇」は、愛と信仰の深さを問う宗教的な「試練」のように思えた。他者の倫理観を逆なでするような作風でキリスト教的な問いを投げかける、というような意味では、フラナリー・オコナーの小説なんかに通じるものがあるかもしれない。
褒める人がいるのはわかる作品なのだけど、個人的には誰も救われない『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のほうが歪んでいて好きかな。ただ主人公を取り巻く人物配置がほとんど同じなので、逆の順番で観ていたら評価はまた違ったかもしれない。
ちなみに『アメリ』の主演に当初エミリー・ワトソンが予定されていたらしいのは有名な話。今回それも念頭に置きながら観たのだけれど、やはり「それじゃ洒落にならんな」と思ったことだった。
Abre Los Ojos(1997)
★★
現在公開されているトム・クルーズ主演『バニラ・スカイ』のリメイク元。アレハンドロ・アメナバール監督のスペイン映画。
同じ監督の『テシス』(『ミツバチのささやき』のアナ・トレントが成長して出ている)が凡庸な学園スラッシャーものみたいな話だったので、さしたる期待はしていなかったけれど、これも少しはましとはいえ似たようなものだった。夢と現実が入り混じる展開ながら、前半のうちに趣向が読めてしまうので物足りない。それに【冷凍睡眠】と【仮想現実】はいわば発想が逆なので、両方を組み合わせるのは根本的に相性が悪くないだろうか。似た趣向ならたとえば『13F』のような米国産作品のほうが、映像も洗練されているしはるかにきちんとした出来だと思う。
そんなわけで、この程度の話をわざわざリメイクしなくても……としか思えないのだけれど、ただ、どのあたりがトム・クルーズの琴線に触れたのかを想像するとちょっとおもしろいかもしれない。彼にとってこれはほんとに「悪夢」なのだろうなあ。
それにしてもこの種の「夢か現か」ものは一時期あちこちで量産されていたけれど、結局のところSF的な設定の「説明」に終わってしまうのなら、あまり映画には向いていない題材なんじゃないかなという気もする(謎解きものが映画化しにくいのと似たような意味で)。どちらかといえば、デヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』みたいにすべて曖昧な夢のままで終わらせたほうが、映画の手法としては適切な戦略のようにも思える。
殊能将之/講談社ノベルス(2001)[amazon] [bk1]
★★★
「フェミニスト・サイコスリラーで人間の心の闇を鋭く描ききった俊英が、あんな俗物でいいのかね」
「その方、確か、謎の覆面作家と言われている人ですね。いっさい顔写真を出さないことで有名な……」(p.108)
先の『美濃牛』『黒い仏』で離れかけたミステリ読みを再びつなぎとめる意向なのか、今回はどちらかといえば最初の『ハサミ男』に近い路線。作中ではこれまでになくまともに探偵小説談義が交わされ、既成作品を引用して突っ込みを入れる趣向も効いている。綾辻行人の「館もの」はもちろんだけど、それ以外にもたとえば作中作の「寡黙な叙述者」はヴァン・ダインを思わせるし、幕切れでむりやり若い男女をくっつけるところは明らかにジョン・ディクスン・カーの作風を連想させる。他にも、探偵の「最後の事件」と言われて読者が想起する既知の展開をどれも裏切っていたり(作中で石動の指摘する推論はそれらを踏まえたもの)、などなど。
個人的には、これまでの作品のなかでいちばん好意的に読めた作品で、特にメタフィクション構造が結構良く考えられていてどう決着をつけるかと興味深かった。ただ『ハサミ男』もそうだったように、解決部が説明的になってしまうのでどうも弱いように感じる。この作品では序盤の書きかたから、どんな種類の趣向が仕込んであるのかあらかた想像がついてしまうせいもあるだろうけど。叙述者のいかがわしさへの突っ込みも、現代文学でもっと徹底した趣向のものが読めるだろうことを考えれば、もう少しひねってくれても良いのではないかと思った。今後もこのまま、ほどほどの皮肉と洗練どまりの「まだ本気じゃないもんね」路線で行くのだろうか。まあ読みやすいからいいけど、なんだかなあ。
スティーヴン・ミルハウザー/岸本佐知子訳/福武書店
Edwin Mullhouse - by Steven Millhauser(1972)
★★★★★
このことは是非とも心に留めておいていただきたいのだが、僕ら一人一人がみんなエドウィンだったのだ。彼が持っていた才能とは、夢想する力の一途さ、そして何ひとつ手放すまいとする執拗さだった。晩年、同時代の子供たちが退屈な責任と、さらに退屈な快楽とで徐々に希釈されていく中で、一人エドウィンだけは水で薄められることを拒み、一人彼だけは遊び続けた。(p.91)
これは名作だなあ。世界が驚きに満ちていたころの感覚をよみがえらせてくれる「少年時代」ものの金字塔でありながら、物語がいかにして生まれるかを描いた「物語についての物語」でもあり、さらには伝記文学の枠組みをパロディ的に借用して「語り」の歪曲、叙述することのいかがわしさを浮き彫りにする現代文学らしいひねくれた趣向も決まっている。この小説をけなす本読みってたぶんほとんどいないんじゃないだろうか。
簡単にいえば「子供の伝記」小説。原題をそのまま書くと "Edwin Mullhouse: The Life and Death of an American Writer 1943-1954 by Jeffrey Cartwright" で、傑作『まんが』を残して11歳で夭逝したという「天才作家」エドウィン・マルハウスの短い生涯を、同じく11歳の親友ジェフリー・カートライトが記録した「伝記」(の復刻版)というやたら変な趣向で語られる。架空の人物の伝記、存在しない書物の批評、といった内容の小説はめずらしくないにしても(ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』などが思い浮かぶ)、書くほうも書かれるほうも小学生の子供、なんて人を食った設定の作品はたぶんこれくらいのものだろう。伝記作者のジェフリーは「抜群の記憶力」を駆使して平然と「生後六ヶ月のときの出会い」から話をおこし、とてもお子様とは思えない堂々たる筆さばきで、一緒に過ごしたエドウィンの見たもの、感じたものを克明に記していく。
まずは、緻密な描写の積み重ねで「子供の世界」を再現した筆致がすばらしい。夢中になった遊びや玩具のこと。文字の形に妙なこだわりを感じたこと。語呂合わせに惹かれたこと。「家族新聞」を製作したこと。詰め込まれたさまざまな挿話が、かつて誰もが通り抜けてきただろう幼年期の遠い記憶、目に映るものすべてが新鮮だったころの感覚を呼びさましてくれる。それでいて登場する子供たちは少しも類型的でなく、どれもみんな奇矯で特異な人物だ。『トム・ソーヤーの冒険』から『スタンド・バイ・ミー』『少年時代』まで、米国文学の伝統といえそうなこの種の少年時代小説の系譜のなかでも、本作は特筆に値する達成ではないかと思う。とりわけ、作家のなりたちを描く小説でもあるため、言葉やフィクションに対する幼少時の独特の感覚を丁寧になぞっているのが目新しい。
ただしこの小説は、子供時代を単なる郷愁や感傷とともに回顧するような物語ではない。作中に登場する子供たちは思春期を迎えないまま姿を消す人物ばかりで、彼らは大人の世界から断絶され、永遠の子供時代に閉じ込められた幽霊のような不吉さを漂わせてもいる。さらには語り手の「伝記作家」ジェフリーがとんでもない曲者で、彼はいつも観察対象のエドウィンを凌駕する知性を誇示しながら冷静な分析と批評を加え、ときには「伝記」の形式から逸脱してこんなことも語りはじめる。
伝記作家の果たす役割は、芸術家のそれとほとんど同じくらい、あるいは全く同じくらい、ことによると比べ物にならないくらい大きいのではないだろうか? なぜなら、芸術家は芸術を生み出すが、伝記作家は、言ってみれば、芸術家そのものを生み出すのだから。つまり、こういうことだ――僕がいなければ、エドウィン、君は果たして存在していただろうか? (p.118-119)
それらの言葉に示されているように、ジェフリーの一人称叙述はつねに事物の恣意的な歪曲をはらんでいて、その精妙な筆致が冴えれば冴えるほど、この「伝記」のどこまでが真実で、どこまでが彼の誇張もしくは捏造なのかがわからなくなってくる。伝記も結局「創作」ではないだろうか、との虚実が逆転する臨界点に踏み込んでいく終盤の展開も、ちょっと呆然とするくらい皮肉で感心させられる。(ただ、これは本書がもともと「公開を目的とした伝記」として書かれている前提からすると、どうもそぐわない記述になっていると思う。物語の流れからすれば必然の落としどころなのは確かなので、大きな不満はないのだけれど)
本書は1943年生まれの作者ミルハウザーがまだ20代のころに発表した第一長編で、そのせいか作者の創作意図をそのまま代弁したような記述も散見される(例えばリチャード・パワーズの第一作『舞踏会へ向かう三人の農夫』にもそんなところがあった。そこを物足りないと感じる人もいるかもしれない)。とりわけ、語り手のジェフリーがエドウィンの小説『まんが』への批評を書き連ねた箇所は、ほとんどこの小説『エドウィン・マルハウス』と作者自身の創作態度を論じた文章として読むこともできるだろう。(ついでにいえば "Mullhouse" と "Millhauser" は語感が似ている)
仮に『まんが』の第一印象が、わくわくするような(あるいは場合によっては退屈な)非現実の世界だったとしても、我々はしだいに、自分たちが体験している世界はまぎれもない現実そのもの、日々の習慣と無関心のなかで失われてしまったこの世界に他ならないということに気づいていく。そして、我々はエドウィンの言葉に導かれるようにして、その世界をふたたび獲得する旅に出るのだ。(p.289)
しかしながら、とジェフリーは続ける。
ここまでは単純かつ明快である。たいていの読者は、自分がかつて失ったことすら忘れていた世界を取り戻したことに満足して、それ以上先へは進もうとしない。しかし、より大胆な冒険家たちは、この明るい世界のさらに奥の、霧に包まれた暗黒の領域に踏み込んで行くことだろう。そこでは、事物を隔てる明確な境界線は消滅し、「現実世界」という概念そのものが入念な歪曲に見え、もやもやとした霧や影に与えられた見せかけの形と手触りに過ぎなくなる――あたかも事物を照らす日光それ自体が、一つの仮装ででもあるかのように。(p.289-290)
幼少期の鋭敏な感受性は創造力と神秘の源泉であるが、大人になってそれらを失った者にとっては、決してたやすく手につかみとることのできないものでもある。その距離感は、我々読者がこの小説で結局、エドウィンと『まんが』の実像を、ジェフリーの精妙ながら恣意的で偏った叙述を通してしか知ることができないのと似ている。
ちなみに、『エドウィン・マルハウス』はミステリ読者的な意味でも、次のような文脈で興味深く読める小説ではないかと思う。
個人的には、アゴタ・クリストフの『悪童日記』などとともに、ミステリ読みも必読といえる現代文学の傑作のひとつだと断言しておきたい。
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In the Penny Arcade - by Steven Millhauser(1985)
★★★★
ミルハウザーの短編集。三部構成になっていて、それぞれ趣向の違う作品が収められている。
第一部の中篇「アウグスト・エッシェンブルク」は、本書の白眉といえる秀作。『エドウィン・マルハウス』と同様に人名を題に冠した小説で、同じように創作(自動人形の製作)に憑かれた芸術家を主人公にすえている。また、『エドウィン・マルハウス』のひとつの縦糸だった「天才と秀才」の関係のねじれをふたたび描いた寓話のような話にもなっている。
第二部の「太陽に抗議する」「橇滑りパーティー」「湖畔の一日」は、どれも日常ものの短編。いわゆるミニマリズムの小説に近いかもしれない。いずれにしてもこの作家の本領とはいえないように感じる。
対して第三部の「雪人間」「イン・ザ・ペニー・アーケード」「東方の国」は、この作家のトレードマークのようになっている「子供の世界」と「夢想の力」が前面に出ている幻想的な作品群。特に表題作の「イン・ザ・ペニー・アーケード」での、子供時代の思い出の場所を再び訪れたのだけど、何か違う……といった感覚は、この作家の「子供の世界」ものの創作の構造を端的にあらわしているように思った。
総評としては、「アウグスト・エッシェンブルク」以外は正直それほどの内容でもないかなという感想。