平成18年11月20日
バトルギア4のお話。来週稼動予定の「バトルギア4Tuned」で、車の種類が追加される。それと同時に、既存車種(現行バトルギア4)にも新パーツが追加されるようだ。追加されるのは……全車共通でSuperHighというギア。ギア比を高速にシフトしたものである。高速にシフトするとどうなるか。最高速は上がるのだが、加速が遅くなる。このゲーム、ギア比を落として加速の効率を求めた方が速く走れると思うんですが……? Superの前のHighというギア比は、超初級で速いということになってるんだけど、それにしたってSuperHighにするのはやりすぎのような気が……。ひょっとしたら新しく追加されるコースで何かあるのかもしれないが。とりあえず、普段の上級以上のコースで使う余地はないだろう。つまらんパーツが増えた。で、他にもある。載せ換え用エンジンが登場したり、ギアボックスが交換できたり。でも、私の"愛車"であるRX-7にもその劣化コピーにもそれらの要素はナシ(涙) 仕方がないので、インプレッサを無駄にFR化して遊んだり、ぐらいかなぁ……。ああ、四駆の車には全て、FR化するためのギアボックスが追加されるんだけど、おそらくはドリフトモード用のパーツ??? まあ、あんまり縁がないね。
ここ2日ほどで、随分以前に買ったNゲージ完成品モデルのパーツ取り付けを行った。Nゲージの一部完成品は、買ったあとユーザーが取り付けるパーツがあるのだ。これについてはネットの海を漂っているといろいろな批判の意見を見ることが出来る。ユーザー取り付けパーツがあるのに"完成品"とはいかがなものか。出荷時に全て部品が取り付けられていて然るべき!なんてのが。この橘雪翼の意見としては……ユーザーが複数種類の中から選択して取り付ける部品については、むしろ別部品でいいじゃあないかと考えている。でも実際のところは、選択式じゃなくて選択の余地がない部品が多いわけでして。面倒といえば面倒。だから、買って来ても割と長いことほったらかしにしたりもする。2年越しでようやく付属パーツが取り付けられた、なんて"不幸な"車両だってある。だって面倒なんだもん。完成品の付属パーツを付けるよりももっと面倒な、グリーンマックスの組み立てキットを大量に作っているのにそれを面倒がるとはこれ如何なことか(笑) 私にすれば、キットの作成は、自分の作品を作ることを意味するので……何と言えばいいかな、面倒も楽しいうちなのかな。一方の完成品は、何をどうあがいても「メーカーの既製品」なわけで、それに対してパーツを取り付けるのは"面倒"なのだ。そういうわけで、いまだパーツの付いてない製品もごろごろしている(笑) だから数年前、後輩と大学祭前にこんな会話をしたりしたのだよ。 後輩「僕基本セット持ってくるんで、増結お願いします」 俺「おう、分かった。あ、でも、まだパーツ付けてないや」 後輩「それ、だめですよ。ちゃんと付けて持ってきてくださいよ」 俺「分かった分かった、今日の晩に付けとくよ」 〜当日〜 俺「おい、これ何や、お前人にパーツつけて来い言うといて自分のついてないやんか」 後輩「あ、いや……面倒だったから」 俺「今日から俺の3両が基本編成でお前の7両増結な!」 まあ、今となっては懐かしい話である。まあ確かに、付けるのが面倒なぐらいパーツ点数がある製品もあるんだよ。トミックスハイグレードシリーズとかトミックスハイグレードシリーズとかトミックスハイグレードシリーズとか。一方で付け始めると意外にこれが楽しかったりもするのだが、途中で嫌になることもあるのが真実。 昨日お見せしたEH10という電気機関車、これは買ってきたのがつい最近である。そして画像でお見せしたとき、ユーザー取り付け部品は既に全て取り付けた。そう、珍しく買って来て間もなく取り付けたのである。そういう気分のときもあるのだ。カトー製品の機関車はなかなか厄介である。パーツの点数が多いのはもちろん、パーツが取り付けにくいのだ。ホイッスル(警笛用……だと思う)がユーザー取り付け部品になっているのだが、穴が窮屈でおまけに小さいものだから、ユーザーにアンケートを取れば間違いなく取り付けにくい部品ワースト3に入るだろう。メーカーも取り付けにくいことは承知のようで、このホイッスルを取り付けるための小さな工具まで用意してくれている。ところがこの工具、どこをどうやったら使いやすいのかが全く分からない。メーカーの意図としては、工具の凹部分でホイッスルのパーツを保持して該当箇所まで持っていく……のだろうけど、まずその凹部分にパーツが入らない。多分これ使ってホイッスルを取り付けてる人は希少なんじゃないかな。私も一時期無理やり使っていたのだが、一昨日はプッツン切れた。結局ピンセットで精神張り巡らしてやる方がいい結果が訪れることが分かった。何事も説明書どおりにやることはないのだ。他、最近手すりまでが別パーツになり始めてこれがまた厄介。手すりというのは、Nゲージサイズにすると極細である。まあ、そこまで細くないのだが、ちょっと力を入れると「くにゃ」っと曲がってしまうパーツである。Nゲージの部品、至る所で力を入れると無残に折れ曲がってしまうパーツのオンパレードではあるが。しかしながら手すりのパーツも厄介。これまた嵌め合いがキツくて、同時にヘタには力を込められない。嵌め合いがキツいのなら緩めればいいようにも思えるが、そうすると今度は抜けやすくなる。だから、少し穴を広げて、接着剤を微量使用して取り付けたほうがいいかもしれない……と考えている。そうか、そこなんだ。キットを組み立てていると、接着剤でパーツを取り付けることが前提だから、そうした「穴が小さくてきつくて入らない」というストレスがないのだ。完成品は、パーツを取り付ける場合であっても極力接着剤を使わなくていいようにしてある。だから、抜け落ちないようなギリギリの穴のサイズが要求される。そうすると、ユーザーはパーツが取り付けにくい。何ともまぁ因果なことよ。この辺り、某マイクロなんたらというメーカーは評価を得ていて、基本的に別付けパーツがない。一切ない。オプションパーツ的なものは存在するのだが、買って来てそのまま並べても、パーツの取り付けようの穴がぱっくり開いているということはない。そこが偉いという人もいるのだが……一方で、取り付けが甘くてケースを開くとパーツが取れてた、なんてのも1度や2度ではない。すぐに取り付ければいいんだけど……稀にどうやって付いていたのか分からんパーツがあって困るのだよ(笑) メーカーにすれば「付けて出荷している」ので、説明書に記載があるわけでもないし。幸いそのときは、他の車両の同様の箇所があったのでなんとかなったんだっけな。ちょっとぐらいは別付けパーツがあっても、その分値段が下げられるのならマイクロはそうして欲しいと思うこともしばしば。ヘタに細かいパーツは、輸送時の振動衝撃で取れてしまいやすいのだから。トミックスやカトーがユーザー取り付け部品にしているのは、そうした理由もあるらしい。 ところで、このユーザー取り付け部品、カトーとかトミックスはまだいいのだが……メーカーによっては、未塗装でかつプラの成型そのままでは妙にツヤがあって情けないものもある。私は先日、そういうパーツに対してわざわざ塗装してから取り付ける、という作業を行った。どこが完成品なんだろう、と少々の疑問を抱きつつ……。
平成18年11月19日
守りの要 と阪神ファンが言うと矢野輝弘捕手だが、今日はその話ではない。ジェフ・ウィリアムスである(って、やっぱり阪神タイガースの話かよ!)。 現在、ウィリアムスと球団で来季の契約が難航しているらしい。それに関する今日のスポーツ報道による藤川のコメントがなかなか興味深い。「ジェフは将棋で例えると金。守りの要なんです。」と。おお、球児わかっとるやん。将棋での守りの要は、藤川球児のコメントの通り「金」なのである。金なし将棋に受け手なし、という格言があるぐらいである。逆に攻めるほうとしては、金を剥がすことを考えると上手く行くことが多い。もちろん、持ち駒に金じゃなく銀があれば受かっているのに……というシーンがないでもないが、金がなくて困ることの方が圧倒的に多いのだ。というわけで、実に的を射た発言……であるかどうかはまた少し話が違うのだが。ウィリアムスが金なら藤川球児も金。金が2枚必要とは、これはなんと贅沢な発言ではないだろうか(笑) まあ金は1枚より2枚、2枚よりは3枚あるに越したことはないけどね。阪神の3枚目の金は一体どうなるんだろう(久保田ね)。もっとも、そう考えるのはやはり意地悪だろう。JFKは三位一体、KはともかくJは大事な一枚。だから球児は将棋に例えて金と表現したのだ。もっとも、現在の一般的な日本人に、将棋の金と例えて守りの駒という印象がどの程度伝わるか疑問の余地が残るけど(笑) ちなみに、金(に限らず)は攻めにも使えますが、ジェフ・ウィリアムスがヒット打ってるシーンは見たことがありません(笑)←やっぱり今日はちょっと意地悪だな??? 阪神ナインで将棋を知っているといえば、今岡選手が初段を持っていると聞いたことがある。藤川も……試合前に今岡と一局指したりするのだろうか?
DiMAGE 5による侃侃諤諤2回目。残念ながら未公開の新作ではないが…… クリティカルヒット!
平成18年11月18日
ついに本当にレイアウトボードが出荷されたらしい。問屋に荷物が届いたという報せを店からいただいた。でもいろいろ都合があって発送されるのが来週……。今ある線路を一旦どけてレイアウトボードを置き、さらにその上に線路敷くという作業を一人でやるのが寂しい。だから後輩に協力を募ったら、その直後の祝日土曜日曜は皆用事があるらしい……。仕方がないので一人寂しく作業しますか。 先日トミックスから発売が告知された3線分岐線路。普通の分岐線路は2つにしか分かれないのだが、この線路は文字通り3方向に分かれる。直進、左折、右折の3方向だ(言われんでも分かるって?)。この線路、日本ではあまり見かけない。というよりは、私は実物を見たことがない。話に聞いたことがある程度だ。噂では貨物ヤード(ヤード=車両を留置するスペース)にあったとか……。まあ、そういうわけなのだが、こうしたものを製品化するあたりトミックスの意気込みというものが感じられよう。だから私は宣言した。「とりあえず買います」と。使うかどうかは別として、値段が無茶なものでなければ買う予定なのだ。いや、正確には使うアテはないけど面白そうなので買う予定なのだ。ところが、ちょっと事情が変わってしまった。それは、使うに相応しい場所を見つけてしまったのだ(笑) 今、線路の常設スペースには、線路が仮置きされている。レイアウトボードが届いたら、最終的に固定される配置にマイナーチェンジする予定である。そのマイナーチェンジの部分に使おうと、そういうことなのである。具体的には、ヤードの入り口に使えば、ヤードのスペースが稼げるのである。ただ、ヤードの長さにはプラスでもヤードの線数が1本減るという可能性も……。
平成18年11月17日
夜神月=キラは悪だったのか? という題名で、DEATH NOTE12巻(最終巻)を読み終わった後侃侃諤諤を書く予定だった。下書きもして、なかなか刺激的な内容になったんじゃないかとも思ったのだが……刺激的過ぎてお蔵入りにしたのじゃなくて、文章のまとまりに納得が行かなかったので「そのうち書き直そう」と思ってそのままになっていたのである。映画も見たのでいい機会、ということで復活させてみたい。 ――と昨日まで思っていたのだが 今日になって全てが覆ることを考え付いてしまって、また封印してしまいたい(笑) 前に書いたものの主旨は、「いくら正しくても、弱ければ何にもならない」というようなことだった。圧倒的強者が存在しそれが世の頂点に立ったとき、弱者がいくら文句を言ったところで強者の正義は否定できない。そういう感じだったのだが(ね? 刺激的でしょう?)、いまいち私らしくない部分が一箇所。正義の定義が曖昧なままであったことだ。いや、正確には「正義というのは人によって感じ方の変わるもので定義など不能」であったのだよ、私の暫定的結論は。でも、考え付いてしまったのだ。今日思いついたばっかりなのであくまでも暫定的なままなのだが、「正義」の定義は……「圧倒的多数の人が正しいと感じること」。むう、やはり曖昧か。圧倒的多数っていうのは、数学的によろしくないのでこうしよう。9割以上の人が、にしておくか。そうすると、実は「正義」は2つ以上あってもいいことになる。DEATH NOTEの世界観を借りて話をすると、現在の法による秩序、"キラ"による悪人の裁き、その双方を"正しい"と思う人が9割以上いればいいのだ。両者は実は共存できる。但し書きが必要だが。どういう但し書きかというと、定義のところに戻る。実はこれはかなり卑怯な定義なのだ。「圧倒的多数の人が正しいと感じること」、最後の「感じるところ」がミソ。法による秩序も正しいと思うし"キラ"の裁きも正しいと思うし……なんて優柔不断な人がたくさんいれば両者の正義が成立。DEATH NOTEの世界では、漫画の方ではかなり多くの人がキラを支持する方に回った。多分9割超えてるんじゃないかと。ということは、先ほどの定義ではキラ=正義ということになる。あれ、正義が負けちゃった?(笑) う〜ん、さっきの定義はマズかったのかなぁ……。 ただ、我々はデスノートの存在しない世の中に住んでいる(少なくとも存在しないとされている)。物語中ではデスノートが存在し、"キラ"という名前でその所有者の存在及び行為を認識している。もし我々がDEATH NOTEの世界に入れば、あるいはデスノートが現実世界に存在し、物語中の夜神月みたいな人物がそのノートを使えば我々の正義感というのは大きく違っているかもしれない。即ち、キラ=正義、と認知されるわけである。もちろんキラを追い詰めようとするニアその他もろもろは"悪"なわけである。よくある勧善懲悪もののストーリーと違うのは、それらの悪が決定的に悪い……と書くとまた曖昧になる。先ほどの正義の定義とは逆向きのベクトルを持つもの、という意味で"決定的に悪い"と表現した。ところが、DEATH NOTE世界でキラを追い詰めた悪=ニアは、世界の人々の平和のためにそうしたのである。きっとキラがいなくなったDEATH NOTEの世界では再び「法の秩序」が正義になっているに違いない(あんまりそのように描かれてなかったけど)。表現するなら、正義のベクトルが夜神月とニアで違っていた、ということになる。夜神月にとってニアは悪で、ニアにとっては夜神月が悪で、でも多くの人々からすればどちらにせよそれなりに平和な日々が待っていたのである。 ところで"13巻"によると、原作者はあまり正義論のようなものを語るつもりはない、というようなことを書いていた。だからDEATH NOTEで正義論を語るのはナンセンスである――というのは成立しない。原作者が正義論を語りたくないだけであって、それを読んだ読者が語りたければ思う存分語る自由がある。原作者の意図が汲めてない? 原作者の意図を汲む義務は読者にはない。意図が汲めてないと嘆くのであれば、その前に自分のメッセージを伝えられなかった力のなさを不甲斐ないと感じるべし。ま、原作者が13巻に書いたメッセージによると、「読者からよく正義について聞かれますが、私はこの作品を通じてそういうことは特に考えませんでした」ぐらいのものだと感じたけれど。 結局まとまりのないことを書いてしまった……現在、全部消して封印しようかどうか悩んでいるところ。これを読んでいる人がいたら、悩んだ結果消されなかったということになります(笑)
――30分経過 まあいいや、送信しちゃえ!
ネタバレになるのでどうしようかと思ったけど、ついでに書いておこう。夜神総一郎が最後の方で月に送ったメッセージ、あれを聞くとやっぱり法による秩序が正しいのかなぁと思える。原作ではなかったメッセージであり、「映画のストーリーで原作より優れている箇所を一つ選べ」と言われれば間違いなくコレにするでしょう。ネタバレになるのであまり詳しくは書きません(笑)
平成18年11月16日
ですのーとのかんそー を書こうとしてふと気付いた。ネタばれってまずいかな……。先日のアタゴオルはなーんも考えんと書いちゃったけど。よくよく考えたら、ゲド戦記も帰って来てすぐ酷評したし、ま、あんまり気にしなくていいかな? 極力ネタバレしないように感想を書いてみます。 まずは総評から。長いストーリーを上手くまとめあげました、ぐらいかな。正直なところ、原作を読んでいると話の展開が分かってしまうので、純粋には楽しめなかった。一応、配役が変わったりして工夫の跡は見られますが。「ふ〜ん、ま、こんなもんじゃないの?」ぐらいかな。映画では原作で言うところの前半でストーリーが終わってしまうので、ちょっと最後の締め方もいじってあるのだが、基本的には原作の後半の終わり方に近かった。まあ○が最後○○○いたのがちょっと面白いというか、○を○○して○○○○○に○○を○○○のがカッコ良かったかも。 う〜ん、あまり書けないや。明日あたり、気が向けば原作のラストを読んだ後に書いた"原稿"をチューンして侃侃諤諤にアップすることにしよう。あくまで気が向けば、だが。
平成18年11月15日
主に製作を開始したキットのためのパーツを買いに日本橋へ行ってきた。珍しく買い物リストにアップしたパーツがほとんど揃うという快挙。ついでにあれもこれもで買い過ぎて、パーツだけで約1万円にもなってしまった(苦笑) そんなわけでご機嫌なのだが、ちょっと予想外のこともあった。某鉄道模型雑誌に触発されてキット製作で新しいことに2点挑戦しようかと考えている。あくまでも考えているだけで、上手く行かなきゃまた前の通りに戻すのだが。そういえば昔、205系1000番台(阪和線)を「夜行鈍行」の模型コンテンツに仕立てたときに「常に新しいことにチャレンジするようにしている」ぐらいに書いたような記憶がある。我ながら何て傲慢なセリフだ(笑) 昔はキット製作数が少なかったので、毎回何かにチャレンジする余裕があったのかもしれないが、2年連続で100両も加工していればそんなことできっこないですよ(笑) もっとも、あまりにも勢いで量産しすぎているきらいもあるので、来年からはそれを改め、少しは"挑戦"する余地を作りたいのでその目標は止めにするけれど。って、今年の目標は「積み木を減らすこと」であって「年間100両作ること」ではなーい! ま、積み木を減らそうとすると年間100両作るハメになるのだが(増やしすぎ)。 ――ええと、閑話休題閑話休題 そういうわけで、挑戦することは2つ。ボディと下回りをネジ止めにより固定すること。これは(おそらく)簡単。エコーモデルという、主にHOゲージ?のパーツを生産しているメーカーが精密ビスを発売しており、某音速模型ぐらいじゃないと売ってないかと思っていたらなんと、日本橋のJ○shinの新しい店舗に置いていたのでオドロキホースケくん。種類がたくさんあったので、とりあえず使えそうな2種類を買って来たのだが、場合によってはこれまたあれこれ買いに行くことになりそうだ。で、次の目標。ライトの点灯化。今まで全く考慮してなかったのだが、某鉄道模型雑誌にグリーンマックスの113系キットをライト点灯化してあるのを見て、自分でもやりたくなった。それでそのためのパーツもリストアップして買ってきたのだが……まず、ライト点灯化のために何をしなくてはいけないかというと、集電部分の整備である。グリーンマックスのキットは基本的に、ライト類の点灯を考慮していないため、台車から集電する設計がない。というわけで、ライトを点灯させたくばまずは台車から。簡単なのはカトーかトミックスのパーツをくすねてきて装着する。私もその方向性で行くことにした。ただもちろん、カトーやトミックスの台車がグリーンマックスのキットにそのまま装着できるわけがない。だからあれこれ工夫しなきゃいけないのだが、某鉄道模型雑誌によると、エバーグリーンというメーカーのパイプ状のプラ棒を使えば比較的簡単にできそう。ということで、買ってきた。 ――径が合わないんですが そうか、雑誌に載っていたのはカトーの台車。どうやらトミックスの台車はまた取り付け部の穴の直径が違うらしい。それぐらい、きちんと調べてから買いに行けよ、俺! そういうわけで、いきなり中断。ライトの基盤からどうやって前面のヘッドライト及びテールライトに光を導くかもまだ思案中なので、気長に行こう。光ファイバーあたりを使おうかなと思っているのだが、どこへ行けば手に入る??? リハビリって大変だ ネタは温存すりゃいいのに今日は2本立て。 一昨年ぐらいに、「縄跳びやって体力磨いてます」みたいなことを書いてたと思う。ひょっとしたら書いてないかもしれないし、そんなこと読者はいちいち覚えていないかもしれないので、とりあえずここでは「2年前、橘雪翼はアホみたいに縄跳びしてた」というぐらいの認識をしてもらいたい。去年の9月か10月ぐらいに、とある理由で縄跳びができなくなった。絶対不可能ということではないのだが、生活リズムを変える必要があり、縄跳びをするタイミングを失ってしまったのだ。そして今年の春、改めて体力の作り直しをしようとした。けれども、長続きしなかった。それは何故かと言うと…… 2年前、どういう手法で縄跳びをしていたか。初期を除くと、300回跳んで1分半のインターバルを取る。これを1セットとして、5〜10セット、というのを週に2〜4回やっていたのだ。多いときでは12セット跳んだこともあったのだが、1日か2日ぐらいしかなかったと思う。大抵7セットぐらいで、調子のいい時期は10セットやっていた。今年の春、再開しようとしたとき、まず最初の300回がとても辛かった。体力的な問題よりも、手首が疲れるのだ。縄跳び、軽いようでいて回すのに結構手首の力と、回数をこなすためにはスタミナが必要。手首を回すしぐさなんて、日常生活ではあまりない。心肺機能そのものは至る所で鍛えるチャンスがあるのに。よって、体力に手首が付いてこないというまことにふがいない状況に陥った。仕方がないので250回を1セットとしてやることにしたのだが、やっぱり手首が辛い。辞める前には300回跳んでいたのが250回で手首のせいでせいぜいというのは非常にイライラした。それで再開第一回は気持ちが折れてしまったのだ。 リハビリ、というのはやったことはないけれど辛いものだろう。怪我の前の自分の動きというのは、自分が一番良く分かっている。そしげ怪我から立ち直って、怪我の前のように動けない自分を、自分が一番分かってしまう。前はあれだけ動けたのに、今はこれだけのことしかできない。とても自分の体が腹立たしく、もどかしいだろう。 昨日、縄跳びを再び開始した。理由は体力そのものが落ちてきていることに気付いたからだ。筋トレに属することは継続していたが、私の場合「十数回できる負荷を2〜3セット」の種類のトレーニングをする。これは実はあまり体力が付かない。それで一昨日、久々にDDRをやったら、たったの5曲で息が上がってしまった。これじゃいけない、と痛感して縄跳びを、今度こそ何としても再開してなおかつ続けるぞ、と心に決めたのである。昨日は1セット200回にした。ダメだった。手首の問題もあるし、今度こそ体力的にも200は厳しい。インターバルを前の1分半から1分に縮めたのも問題だったかもしれない。とりあえず、当面は体力がある程度戻るまで続けることを優先するため、150回を1セット、にすることにした。しかもインターバルは1分半のまま。昔、300回跳んで1分半休んでまた300回……を繰り返していた頃を思うと何と劣化したことか。実に悔しいことだけれども、DDRたった5曲で息を肩ですることを思えば安いものだ。今日は150回を6セット。徐々に増やして行って、10セットできるようになったあたりから1セットを200に増やそうか。目標、年内に300回1セットにできるようになること!
平成18年11月14日
新作(ウェブ上での)発表 というわけで(だからいつも何がどうというわけなんだ!)画像で侃侃諤諤が可能になりました。DiMAGE A1じゃなくてDiMAGE 5なので撮影がややうっとおしいので少しずつ小出しに気が向いたときに……。 "橘発の夜行鈍行"(仮) そういや、今月20日、「橘発の夜行鈍行」の7回目の誕生日なんだよねぇ……何も企画考えてないや。せめて写真でも更新するかな。覚えていれば、の話だけど。ちなみに「侃侃諤諤」は「徒然」時代から6年を迎えました。先日、10月27日をもって。完璧に忘れてましたがね。私に記念日を覚える趣味はありません! というか、サイト管理にそこまで執着しなくなったというべきですかねぇ……。
昨日言ってた「すべてがFになる」のコミックスを買って参りました。感想その1、「こんなの犀川先生じゃねぇ」、感想その2、「こんなの西之園萌絵じゃねぇ」、感想その3「喜多助教授だけ何でイメージと違ってないんだぁ!」(笑) いやぁ、漫画の犀川創平氏、何か目つきが悪いというか不良っぽいんですが(笑) 西之園萌絵は何だか"マダム"っぽいし。もうイメージ壊されまくりです(笑) でもまあ、あらためて小説読み直して漫画を読む前のイメージ復活! 先に小説を4冊片付けておいたのが幸いして、漫画のイメージを破壊して元に戻すことに成功した。こんな調子で「Q.E.D.」シリーズが漫画化されたらと思うと恐ろしいなぁ。あ、「Q.E.D.」ってのはもちろん小説の方だからね。
漫画「ギルドマ」の発掘に成功。先日観た映画の原作である。読んでいて私はかなり忘れていたことが分かった。ギルドマが何故ギルドマという題名になったのか。それは舞台がアタゴオルの森じゃなくてギルドマという地名だったからだ。よって、テンプラくんもツキミ姫も出てこない。同じようにヒデヨシが出てこない……わけはなく、ヒデヨシはきちんと出てくる。ヒデヨシがギルドマにやってきたときに起きる事件のお話なのだから。映画では、アタゴオルで起きた事件として描かれている。だから「アタゴオルは猫の森」でいいのだ。それでも若干題名と内容が噛み合ってないが。いずれにしろ、映画「アタゴオルは猫の森」の私の評価が変わることはない。
平成18年11月13日
再び「すべてがFになる」 本屋で「100人の森博嗣」という本を発見して買ってみた。エッセイや著書のあとがきが載っている本である(氏の作品には、あとがきがない)。残念ながら、私が現在読み進めている「S&M」シリーズのあとがきが載っていなかったので、別のページをぱらぱらとめくっていた。すると面白いものにぶち当たった。氏がメフィスト賞を受賞した「すべてがFになる」が漫画化されているという。これは是非読んでみなくては、と思うのと同時に、エッセイ中に挿入されていた漫画のワンシーンを見てイメージが食い違っている可能性に気付いた。これ、ひょっとして犀川先生? これ、ひょっとして西之園萌絵? 何か違うんですが。今、ウェブを検索していてまたまた衝撃的なものを発見。何と「すべてがFになる」はゲーム化までされているのである! ミステリーをゲーム化するなよ!と突っ込みを入れたいのだが、それはさておきさらにもっと衝撃的だったことがある。キャラクターが完全にイメージと食い違ってます!!!(笑) 皆さんも検索してページを見ながらこの侃侃諤諤をお読み下されば……。まず犀川創平(一応主人公)、こんなに若かったのか……。もうちょっと老けててもよかったような気がするんですが。これだと俺と同年齢ぐらい。27歳で助教授になれるんですか!?(笑) あと、精悍すぎます。小説読んでる限りもうちょっとトボけたキャラクターでもいいような……。犀川先生! もうちょっと自分に自信を持って萌絵ちゃんの愛を受け止めてもいいと思います!(笑) で、その西之園萌絵もかなり問題。もっとお嬢様パワー全開のイメージがあるんだけれど……。これだと普通の大人しい女性、のルックスですよ。他、悉く登場人物が「これ、誰?」状態。小説を漫画とかアニメとかゲームにすると大体にしてそういう問題が起きるのは当然なのだが……。ついでに、ゲーム「すべてがFになる」は4年前に発売されて、ハードがプレイステーション。何でやねん! 何でPS2じゃないんだよ! メモリーカード「2ブロック」とかいう表記が懐かしさと共に不可解な憤りを覚えさせてくれます。 明日、出かける用事があるので、ついでにコミックスの方は探し当てて読んでみよう。ゲームのほうは、何を間違えても今更初代プレステのソフトは買わないでしょう(笑)
ところで、冒頭の「100人の森博嗣」というのは、例の「もし世界が100人だったら……」というやつである。「もし世界が100人の森博嗣だったら」という具合に書かれていた。で、俺も真似する(笑) 「もし世界が100人の橘雪翼で出来ていたら……」 21人が鉄道模型を作っていて、11人が隣で鉄道模型を走らせています。4人がFD3S RX-7の模型を組み立てて、7人がテレビゲームに熱中し、そのうちの2人は「異議あり!」とか叫んでいます。野外では18人が野球をしていますが、審判がいないのでアウトセーフの判定でモメています。。16人が教育と数学について議論を交わし、9人が写真撮影するための旅に出て、3人がいかにすれば女の子にモテるのか頭を悩ませています。5人が今日の侃侃諤諤のネタ探しをして、残る8人が愛玩動物と戯れているでしょう。 ――はい、突っ込みどころはどこでしょう 全部足すと100人越えてます(笑) 102人になるかと。「あれ? 104人じゃないの?」って思った人は勘違いしてます。もう一度よく読みましょう。あ、この中に「○人が小説を読んでいます」ってのを入れ忘れたなぁ……。 森博嗣は私に似たところがある。エッセイにあった「歴史が苦手で、地理と公民はもっと苦手である」という一文を読んでそう感じた。まあ、理系人間なんて大概そうなんだろうけど。あと、氏も鉄道好きらしい。庭に"鉄道"を走らせているらしく、昨日買って来た本のうちの1冊がそれについての氏の著書だ。さらに共通点がある。「高田崇史」を「たかだたかし」と読んでいた点だ(笑) ふみたか、が正しいらしい。たかだたかふみ。何でも氏が考えた回文、「しかたないな崇史(しかたないなたかし)」というのがあったらしいのだが、編集者に「高田さんなら"たかし"じゃなくて"たかふみ"ですよ」と言われて仕方なく削除したらしい。そういう事の経緯が書かれていて、さらに面白かったのが「しかたないな崇史じゃ」。一人で馬鹿笑いしてしまいました。ついでに、先日私が「大学へ通う意味」という題で書いたこと、あれの主旨が「100人の森博嗣」に収録されたエッセイに載っていた。氏のアプローチはまた違うものであったが。一度ご本人と会って話がしてみたい。もっとも氏が煙草を吸わなければ、の話だが。犀川先生がヘビースモーカーであること、ヒロインの西之園萌絵までが吸い出したところをみると森博嗣もまたヘビィスモーカーであるに違いない。
平成18年11月12日
昨日、ギルドマの単行本を探していて"いいもの"を発見した。それはDiMAGE 5である。DiMAGE 5とは? DiMAGE A1を買うまで愛用していたデジタルカメラであり、A1の故障修理中に使おうとしたところ、行方不明になっていたものである。本を探していて何故デジタルカメラが見つかるかについての質問は却下! ということで、早速画像撮影! 私にしては手際が良かった。単三乾電池の用意はなかったが、A1と同じACアダプターが使えるので電源の心配はナシ。メディアも一発で見つけることが出来た。撮影で、操作を忘れていたためややもたついたが、問題なく完了! さぁ、パソコンに繋いで読み込むぞ! ――USB端子の形状が違います そうだった、DiMAGE 5のUSBの端子の形はヘンなんだった! ということで、USBケーブル発掘! あれこれ忘れているけど、全て滞りなく順調に進むぞ! ――それでも端子の形が違います ややこしすぎます、USBの端子の形状!
それでも私は画像で侃侃諤諤を敢行する。全く別のスタイルの新しい「画像で侃侃諤諤」である! 問題の詰め将棋 11月6日に話題に出した神戸新聞の懸賞詰め将棋の話である。どう考えても手順がおかしいというアレ。今日後輩に聞かれた。「結局どうだったんですか?」って。その回答が上記のもの。なお、どうして画像で侃侃諤諤かというと……本来はテキスト形態で盤面を表現したかったのだが、文字をひっくりかえして表示させる方法がどうしても思い浮かばず、仕方なしに画像にしたのである。画像でなら、文字の部分をトリミングして、180度回転させて、それを該当箇所に合成して……という方法で敵方の駒を表現することが可能。敵方の駒を表示する方法として、他にもいろいろ考えられたが一番スマートなのは結局これしかない、という結論に達した。
平成18年11月11日
映画「アタゴオルは猫の森」感想 う〜ん……あまりにも不本意だが、採点すると40点ぐらい……? 甘めの採点で40ぐらい。何がいけなかったのか、分析してみよう。
○ 原作の"間合い"が損なわれた 原作アタゴオルシリーズ、いや、おそらくますむらひろし作品のほとんどに共通することだが、基本的に1話完結スタイルだ。映画のストーリーは、アタゴオルの外伝的?な長編ではあるが、それでも確か1話ごとにきちんと"オチ"が付き、第N話のラストシーンがが第(N+1)話の最初のシーンにそのまま繋がるようなことはほとんどなかった、と記憶している。そして、その"オチ"の部分にますむら作品のある特徴がある。漫画で見ると、各話は右のページで終了するようになっている。左のページには次の話の扉絵があり、新しい話は右のページから始まる。全部を全部チェックしたわけではないが、印象としてこれ以外の終わり方をしているますむら作品は、初期〜中期の頃を除いてはなかったように思う。そしてその最後のページ、必ず1ページ丸々を使ったコマになっている。これはどういうことか。各話を読んでいって、ページをめくったところでその話のラストシーンが1ページでーんと描かれている。決してラストシーンのページが前のコマを読んでいる最中に目に入ることはない。そしてページをめくれば、次の話の扉絵以外の他の余分なものがない。だから最後の締めのコマが、何とも言えない「余韻」をもたらすのだ。それがますむら作品の「間合い」なのだ。そうした作品の特色は……残念ながら映画には向かないのかもしれない。かすかに覚えている「ギルドマ」(今回のストーリーの原作名。なお、私の手元のギルドマの単行本は現在行方不明)の単行本であった話ごとの区切り、それが映画では再現されていない。どうしても映画は時間に制約があって間延びさせることが出来ない。漫画のようなコマの大小という演出もほぼ不可能。漫画であれば、次のページをめくるまでの間に、たった1コマ、少ない字数のページとしては長い時間をかけて味わっているだろうシーンが映画では他と同じスピードで流れていく。このテンポの"悪さ"はこの映画作品の評価を大きく損ねることになってしまった。
○ 音楽? 敵方となる植物の女王、ピレアが歌を歌うシーンが何度かあるのだが……。このシーンがやや長い。途中でヒデヨシがぶち壊すのだが、もっと早くやろうよ(笑) そういやゲド戦記のときも思ったな、「テルーの唄」、きれいな曲なんだけど映画の途中で3番までぶち抜きで歌うな!(笑) アタゴオルに共通して音の調べは確かに一つの大きな要素なのだが(おそらくますむら氏が音楽好きであるのだろう)、物語序盤でいきなり延々聞かされてもなぁ。しかも、アタゴオル世界のバイオリンの名手、からあげ丸の演奏ならともかく、敵方の人間……じゃなかった、敵方の植物の歌だしなぁ。
○ 話の出だし 先ほども書いたが、この映画ではいきなりに近い形でボスキャラが登場する。普通そうじゃないだろ。日常の世界がちょっと描かれて、然る後に……じゃない? 一応オープニングがそういう役目を果たしているのかもしれないけれど、オープニングもまた音楽がメインだし……。この導入部分が、私のような長年のアタゴオルファンならともかく隣にいた一見さんの後輩セントレア一号車君あたりには唐突感を与えたのではないだろうか。初めて映画でアタゴオルに触れる人のためにも、ヒデヨシというキャラクターがどんなものか最初に見せておかなければいけない。
○ ツキミ姫 おそらく、映画だけを見た人にはテンプラ(一応ヒデヨシの親友の少年)と仲のいい女の子、ぐらいにしか映らなかっただろう。アタゴオルシリーズは題名を変えて4つあるが(ギルドマを合わせると5つ)、その2つめの「アタゴオル玉手箱」の最初の方で初登場したのがツキミ姫。ヒデヨシとテンプラが"三日月石"を探している途中で眠りから覚ませた、不思議な力を持つ女の子である。姫様らしく?気が強く、でもそれは決して傲慢とかいう意味ではない。敵に対しては一歩も引くところがない、それがツキミ姫の魅力……だったはずなのだが、映画ではごく普通の女の子である。総時間の都合でツキミ姫の見せ所を作っている時間がなかったのか、ギルドマではそこまで活躍してなかったのか(ええと、とにかく現在単行本が行方不明で捜索中……ツキミ姫自体登場してなかった可能性も??)。敵に捕まって弱気な表情と声で正論を語るツキミ姫には物語中最大の違和感を感じた。
○ そもそも話の選択が…… 今回の映画の原作となったのは「ギルドマ」という名前のストーリーである。「アタゴオル」と「アタゴオルは猫の森」(現在連載中)の間で短期連載されていたコミックス1冊分の話である。アタゴオル世界が舞台だけれど、作者が敢えて「アタゴオル」と名付けなかったように、ちと毛色の違う作品である。それにアタゴオルと銘打って映画化したのはどうなんだろう。確かにストーリーの長さとしては映画向きかもしれないが、アタゴオルらしいかといわれるとそうとは言えない。
そんなこんなで不満が多かった。わざわざ夜に出かけて遅くまで外出させられた割に……という気持ちが多少あるのでそのせいかもしれないが。
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