『少年計数機』
★★★★
石田衣良(文藝春秋/2000)
「おまえは汚いものを美しく書きすぎるくせがあるな」(p.104)
■TVドラマ化で全国区に出世した観のある、ストリート系青春ハードボイルド
『池袋ウエストゲートパーク』の続編。息切れの心配は無用だった。確かに一話目あたりはまた「元同級生」の依頼からはじまるし表現センスもどこか外し気味で(とりわけ、こんなふうに括弧つきで挿入している箇所はちょっといただけない)どうなることかと思ったけれども、個性的な人物像とスピード感抜群の文章には磨きがかかって快調に読ませる。まあ、特殊系のゲストキャラに頼っているところはなきにしもあらずなんだけど。定番の「子供と老人」も出してきたし、人情話的な側面はより強調された、といえるかもしれない。ただし書き下ろしの最終話「水のなかの目」は結構ハードな展開。シリーズ的にはそろそろ潮時なのかな、という気もした。
■現代的でシリアスな問題を扱いながら、「甘さ」や都合の良さも少なからず見られるのは、ACやスラム街やカルト宗教といった深刻な問題を一応描きつつも重苦しさを感じさせない、ドン・ウィンズロウの青年探偵ニール・ケアリー連作(『ストリート・キッズ』など)と似ている。どちらもいわば青春ハードボイルドの路線だし。ニール・ケアリーの活躍する世界が一種のファンタジーなのと同じように、このシリーズの活写する池袋の街もある程度のファンタジー的世界なんだと思う。
■しかし出てくる固有名詞をどうしてもしらじらしく感じてしまうのは僕だけなんだろうか。しょうがないのかもしれないけど。
(2000.8.30)
『黒い犬』
★★★
イアン・マキューアン(宮脇孝雄訳/早川書房)
The Black Dogs/Ian McEwan(1992)
私には愛着や信念が欠けているのだ。(中略)要するに、自分が一体感を持てる立派な主義や、永遠の原則、基本的な思想、情熱的に、あるいは静かに、心の底から肯定できる超越的な存在をどこにも見つけられないだけの話だった。(p.21)
■かつて意気投合して共産主義の門戸をたたきながら、戦後は現実路線と宗教的神秘主義とに袂を分かった夫婦。その経緯を夫婦の娘婿にあたる語り手がたどっていく、というような話。終始個人的な観点で進みながらそこはかとなく戦後史を照射する、というような意味では『朗読者』あたりを思い出さないでもない。両親を早くに亡くして美しく奔放な姉と同居していた、という語り手の(冒頭で示される)境遇は、先頃訳出された第一長篇『セメント・ガーデン』で主人公の少年が置かれる状況とよく似ている。そんなわけでこれは『セメント・ガーデン』の後日談的な物語のように読めた。頼るべき親や思想を見つけられないまま大人になったかつての透明な少年が、ふたつの確固たる「主義」のあいだをふらふらとさまよう、というような。学生運動世代(作者は1948年生まれ)の精神的後始末の延長にあるようにも思える。
■深読みはいろいろとできそうなのだけれども、構成的にはわりと無造作なかんじで『セメント・ガーデン』ほどの興趣はなかったかなあ、というのが正直なところ。しかしかなり抑え気味の筆致とはいえ、いずれにしても結局セックスの話(しかもまた倒錯系)に至るのがやっぱりマキューアンらしい。それ以外のところでもなにげなく必要以上の下ネタを披露していたりもするし。要するにこの作家、なんだかんだ言って世の中みんなセックスで動いてるんだ!という主題を一貫して描きたいんじゃないだろうか。
(2000.8.29)
『完璧な絵画』
★★★★
レジナルド・ヒル(秋津知子訳/ハヤカワポケットミステリ)
Pictures of Perfection/Reginald Hill(1994)
「完璧とは、不自然なものだよ、部長刑事さん。というのは、完璧とは、それ以上の発展も衰退もないという意味だからだ。(中略)そうなったら、われわれ二人は失業者だよ。完璧な社会に犯罪はないし、不完全な過去の話を読みたがる者もいないからね!」(p.227)
■ダルジール警視シリーズの一作で、実はこれが読むのはじめて。警視たち三人組がヨークシャーの片田舎の村を訪れる、やや番外編的なにおいの設定だった。
■はじめからおわりまで、なんとも英国的な話。舞台は伝統や階級の残る古風でのどかな農村で(パブの描写が妙に印象的)、ウィットに富んだ会話やとぼけたユーモアが随所で冴え、それぞれユニークに描かれる住人たちはおのおのの事情から複雑かつ有機的に絡みあって真相に参与する。そして、ぬけぬけとした「牧歌的」な結末。これは以前『トレント最後の事件』評で述べた「英国的」な物語の締めかたを、確信犯的につきつめてみたような趣向で、題名の示すとおりの「完璧」な絵空事。ひとことで表現できるという点では、作中わざとらしく引っぱり出されてくるアガサ・クリスティの某作品なんかにもちょっと対応しているだろうか。地味な佳作かと思いきや、すべてがやたら手の込んだ冗談だったような異色作。不敵なアンチ・ミステリといえないこともない。
■ダルジール警視はようやく本書のまんなかあたりで登場してくるのだけど、それまで村の聞き込みをおこなう部下のパスコーとウィールドが、どちらも間抜けな時間稼ぎ役でなくそれなりに有能で、けれどユーモラスに描かれているのも巧さを感じさせるところ。
■なおここの指摘によると、本書の導入部はJ・G・バラードの『殺す』とおなじ事件を下敷きにしていると思われるらしい。なるほど、そのへんを考えるとヒルの発想は相当にぶっとんでますな。
(2000.8.28)
『Mr.クイン』
★★★★
シェイマス・スミス(黒原敏行訳/ミステリアス・プレス文庫)
Quinn/Seamus Smith(1999)
■ダブリンの麻薬王の裏で犯罪計画を練りあげる冷徹なブレーンを主人公にした、なかなか珍しげな設定のアイリッシュ・ノワール。なにしろひとでなしの職業的犯罪者なので(当然のごとく躊躇も弁解もまるでなし。妙にさわやか)、えらいえげつない犯行計画を実行したりするのだけど(女をノイローゼにするため延々と精神攻撃を仕掛けたりとか)、主人公ジャード・クインがあくまで手を汚さない陰のプランナーの立場にとどまるせいもあってか、わりと軽快な読み物になっている。ダークな風味のコン・ゲームみたいな興趣もあり。遠隔操作系の語り手なので、『死んだふり』みたいな恣意的叙述になりかけたりもするけど、一応その弁解はしてくれる。(『死んだふり』みたいにとぼけ通しても良かったかもしれないけど)
■クインたちがのしあがる契機となった過去の挿話は、まるきり『赤い収穫』。少しも悪びれないとぼけた語り口や、私生活で浮気がばれたりして女たちの介入で計画にちょっと狂いが生じてくる展開は、ジム・トンプスンを思わせなくもない。ただし語り手の連発するブラック・ジョークとやらは、なんだかただ下品にたれ流してるだけみたいで、いまひとつ野暮ったい。結果的に、ジム・トンプスンの天才的なセンスを再認識させられてしまった。『ポップ1280』なみの洗練や深淵までは、さすがにこちらも求めていないけどさ。そのあたりをむやみに期待しすぎなければ、舞台設定もわりと新鮮だしプロットも意外に緻密で、まずまず愉しめる犯罪小説じゃないかと思う。まあ、ちょっと狙いすぎの気もするけど。
■作者は新人で、経歴だけみるとなんだかエルロイ風。
(2000.8.26)
『まるで天使のような』
★★★★★
マーガレット・ミラー(菊池光訳/ハヤカワ文庫)
How Like an Angel/Margaret Millar(1961)
「まるで、平和部隊の人間が狂人国の報告をしているような口ぶりだな」
「その狂人国は、あんたが考えているほど狂っていないかもしれない」(p.300)
■マーガレット・ミラーの代表作のひとつで、たしかにこれはすばらしい傑作。
■山奥でひっそりと質素な共同生活を営んでいた新興宗教団体と、田舎町の古い事件。ふとしたことから迷い込んできた私立探偵が、ふたつの謎めいたつながりをたどっていく。この時期から新興宗教を取り上げている先見性だけでも特筆に値するけれども(ただし現代の目からすると、扱いは多少あっさりめかも)、これがきちんと謎解きの展開にも結びついてくるので感心する。謎の提示も魅力的のうえ、フィニッシュの一撃はすさまじく衝撃的で、そしてなんともミラー的(例の、誰にでもありそうな心の弱さゆえに、いつのまにか「怪物領域」へと踏み込んで帰れなくなった人というやつですね)。驚くというよりうちのめされる。圧巻。謎解きと物語の衝撃とがきっちりかみ合った作品、とはこういう作品をいうのだろう。
■物語の大半は私立探偵の視点から語られるため、いわゆるニューロティックな風味は薄めで語り口は比較的安定している。きちんとへらず口もかますこの私立探偵ジョウ・クインは、けれども彼の介入が結果的に事件を目覚めさせて新たな悲劇の引金となっていたりもして、ただ局外から観察するだけの純粋な「探偵役」にはとどまらない。クインの持つ探偵免許はネヴァダ州のもので、(私立探偵の本場?の)カリフォルニア州より格が落ちるんじゃないか、なんて作中で揶揄されたりもするのだけど、そのあたりは(夫のロス・マクドナルドも含めた)従来の私立探偵小説の作法にとらわれるつもりはない、といった意識もあるのかもしれない。
■探偵が女性に好意を抱いていく展開をやや唐突に感じなくもないけれど、これは女の台詞とあらば無条件に「〜だわ」「〜のよ」を連打する菊池光の素敵な訳文のせいかもしれない。母性的なシスターも妙齢の夫人も十代の少女もみんな同じ口調なのはほんとに勘弁してほしい。男の「〜なのだ」もつらいけど。宮脇孝雄に解説を頼むのなら、早川書房はついでに翻訳も依頼してほしいものだと思うところ。
■ミラーも夫のロスマクも、身近な「家族」や「夫婦」、そして「愛」や「幸せ」を疑うところから物語をはじめる作家だと思う。だからふたりの小説には、誰にしても他人事ではすまされないような怖さや悲痛さを感じられる。この小説には、ひどくアンバランスで対等の関係を結べていない二組の夫婦の話が出てきて、どちらも物語のなかで重要な役割を果たすのだけど、それとは逆にこの時期のミラー夫妻の作風はお互いにかなり接近していたように思える、というのも興味深い。(もちろん手法は違う。例えば『さむけ』の結び方に顕著だけれど、ロスマクはミラーみたいに「彼岸」の心情に憑依して書いたりはしないだろう)
■ところでミラーといえば『狙った獣』(創元推理文庫)の、華麗な比喩をこれでもかと駆使した震えるように美しい、そして残酷な文章もすごく好きなのだけど、あれはさすがに例外的な文体なのだろうか。
(2000.8.24)
・圧倒的迫力の「コーダ」と衝撃の「フィニッシュ」
『キャッチ=22』 ★★★★★
ジョーゼフ・ヘラー(飛田茂雄訳/ハヤカワ文庫NV上下)
Catch-22/Joseph Heller(1961)
「オアは狂っているか」
「ああもちろんだとも」とダニーカ軍医は言った。
「あんたは彼の飛行勤務を免除できるか」
「できるとも。しかし、まず本人がおれに願い出なければならない。それも規則のうちなんだ」
「じゃ、なぜあいつはあんたに願い出ないんだ」
「それは、あの男が狂っているからさ」
(中略)
「それだけで飛行勤務を免除してもらえるのか」
「それだけだよ。あいつに免除願を出させろよ」
「そうしたら、あんたはオアの飛行勤務を免除できるのか」とヨッサリアンは問いただした。
「ちがうね。そうしたらあいつの飛行勤務を免除できなくなるんだ」
「つまり落とし穴があるってわけか」
「そう、落とし穴がある」とダニーカ軍医は答えた。「キャッチ=22だ」(p.77/vol.1)
■ブラック・ユーモア戦争文学の金字塔。第二次世界大戦を一応の舞台にはしているものの、軍隊的「組織」を徹底的に茶化した書法には寓話めいた普遍性があって、いま読んでも古びていない。とりわけ物語前半の、悪夢的ブラック・コメディ世界に迷い込んでしまったような感覚は秀逸。混沌とした時間軸に加えて、やたら反復の多い会話と出口のない循環論法が、独特の強烈な閉塞感を醸し出している。
■決して誰も面会することのできない少佐、多国籍企業を興して利益追求に邁進する給仕将校、文書の流通を気ままにせき止める野心的な郵便係など、「モンティ・パイソン」ばりの強烈にコミカルで奇怪な人物が次々と登場してくる。そういえば、もう済んだようなネタを思わぬところでまたひっぱり出してくるリズムなんかも(偽名のサイン「ワシントン・アーヴィング」など)、どことなく「モンティ・パイソン」風。そんなわけで、思わず吹き出してしまう場面はたくさんあるのだけれども、ただ笑い飛ばしてしまうことに気まずさがつきまとうのは、この物語世界が「戦争」だけでなく現代社会の悪しきカリカチュアになっているからだろう。そのあたりにはアンチ・ユートピア文学のような精神を感じられる。
■最終的には主人公ヨッサリアンが覚醒を果たしていく正統派の物語になるのだけど、そこでひとつ啓示的な役割を担うのが、出撃のたびに撃墜される操縦士の「奇妙な行動」の真意を明らかにする挿話。これが少し「伏線→真相」のミステリ的といえなくもない趣向になっていて、なかなかの効果をあげている。しかも、前半であれだけ変な登場人物を次々と繰り出しておいたことが、結果として見事なカモフラージュにもなっているし。
(2000.8.16)
『キラー・オン・ザ・ロード』
★★★★
ジェイムズ・エルロイ(小林宏明訳/扶桑社ミステリー文庫)
Killer on the Road/James Ellroy(1986)
だから、私がどうしてこんな人間になったかは、読者おのおので考えるがいい。私のみごとな記憶力と虚心坦懐な姿勢を共有して、自分なりの結論を出すがいい。いままで述べてきた真実を解釈して、論理の飛躍や省略からいろいろな山を築くといい。(p.433)
■連続殺人犯マーティン・プランケットの獄中回想録、という書式で語られるシリアル・キラーの一人称小説。ロイド・ホプキンズ連作の三作目『自殺の丘』(1986)の直後に出されている。追いつめる警察がわの視点を介してではなく、真正面からサイコキラーを描いてみたくなったというかんじだろうか。
■さすがに迫真の筆致で、とりわけ前半で語られる殺人者の孤独で歪んだ視野には惹き込まれる。その生い立ちや青春時代の疎外感は、エルロイ自身の心の遍歴をいわば身を削って投影させたような趣きもあり。シリアル・キラーの回想記をこうして切実な青春小説として書くことのできる作家なんて、彼くらいのものではないだろうか。殺人者が少なくともレクター博士みたいな超人的存在ではなくて、覗きや窃盗を繰り返したりと結構卑しい行動からはじまるのも妙に説得力がある(まあ、彼の描くサイコはだいたいそんなかんじなんだけど)。最初の殺人場面なんて、読んでいて思わず顔を歪めてしまった。たとえばジム・トンプスンとくらべると、エルロイの描く殺人場面はほんとに血の匂いがたちこめていると思う。しかしなんだか、妙に「透明な存在」という言葉を強調するので、ついあの事件を思い出してしまった。
■そのまま進むのかと思いきや後半はやけに意外な展開で、ある意味びっくりした。いきなりそっちの方向へ行ってしまうとは。それから終盤になって事件に介入してくるFBI捜査官の視点は、この異様な物語をひもとく「読者」の立場にほぼ重ね合わせてあるようで、皮肉な結末と合わせてなかなか興味深い。ただ、捜査官の手記が何度も挿入されてくる書法は、どうも一人称では構成を支えきれなくなったのかな、とも思えたけど。
■ちなみに、エルロイといえば殺伐とした作風とばかり思われがちかもしれないけど、実は随所に毒気たっぷりの独特のユーモアが仕込まれていて、そのあたりを結構好きだったりする。ついでに、実在の有名人を登場させたうえ思いきり小馬鹿にする、というお得意の手法も健在。誰が出てくるかは書かないけど。
■総じてLAカルテットのような緻密さは感じないけれども、これはこれで魅力的。もうエルロイはこういう路線では書かないのだろうな。
(2000.8.14)
『事件当夜は雨』 ★★★★
ヒラリー・ウォー(吉田誠一訳/創元推理文庫)
That Night It Rained/Hillary Waugh(1961)
■米国の田舎町で起きた農夫殺しを、地元の署長が地道に捜査していく。舞台も人物も事件もやたら地味なミステリなのだけど、書法がなかなか独特。物語はおもに、主人公フェローズ署長と部下のウィルクス刑事との事件をめぐるディスカッションを軸にして展開する。もちろん家捜しなど実際の捜査活動も描かれるのだけど、それは「捜査」のさまを写しとりたいというよりも、ああでもないこうでもないと討議していく流れのなかで生じる手続き的な色合いが濃いような気がする。
■フェローズ署長らの推論はいつもそういった討議のなかで示されるので、作中で誰にも突っ込まれない特権的な「名探偵」の推理みたいな飛躍したあざやかさはないかわり、地に足のついた堅実で妥当な論理が展開されている。その仮説をいちいち実験で検証してみたりする過程もなかなか興味深い。で、この手法を対話形式でなくぜんぶひとりでやってみせたのが、コリン・デクスターのモース警部ということになるのだろうか(モース警部の推理はけっこう名探偵系かもしれないけど)。モース警部を絶賛した瀬戸川猛資がヒラリー・ウォーと本書を褒めているのも(『夜明けの睡魔』)むべなるかな、といったかんじ。
■その瀬戸川氏も指摘しているけれども、地味な道具立てながら「謎」のつくりかたが実に巧妙。冒頭で紹介される殺人場面のつかみどころのなさもそうだし、調べが進むほど逆にわからないことが増えてしまったりもする(当初は自明に思われた「声の主」の性別とか)。さらにこの作品では、犯人が結構あっさり判明してしまうにもかかわらず、さらに新たな謎が生まれてしまいまだ真相が見えてこない、という重層的な展開も用意されている。このあたりの緊迫感はさすが。ただし残念ながら、解決じたいはやや腰砕け気味。せめてもうひとひねりくらいあるのじゃないかと思っていた。
■吉田誠一の翻訳はところどころ意味不明の箇所があるのを除けば、いまでもふつうに読めるくらいじゃないかと思う。
■ちなみに、杉江松恋氏の丁寧な解説は一読の価値ありです。「あくまでも生の「セックス」が動機自体にあるからこそ、ウォーは新しい」と、必要以上に熱弁をふるっているのも素敵。
(2000.8.8)
Book Review 2000
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