鉄家さん(id:BaddieBeagle)が紹介していたので気付いたのだけど、ケム・ナンの『源にふれろ』が7月にハヤカワ文庫から出るそうだ。姉を探しに海辺の町へやってきたシスコン少年がサーファーとして目覚めるまでを描いた、お手本のような青春小説だったはず。
ケム・ナンはこのあと名前を聞かないので一発屋だったのだろうか。
Bonnie and Clyde (1967)
監督:アーサー・ペン
★★★★
先頃BSで放送されていた『俺たちに明日はない』を何となく見る。映画史の基本を全然押さえていないので、いまさら初見。
社会の秩序からはみ出した犯罪者を共感のできる主人公として描き、映画内に直接セックスと暴力の表現を持ち込んだことで、アメリカン・ニューシネマの皮切りとなった作品、というのが歴史的な評価だろう。いま見ても話半分にそうなんだろうなとは感じる。(後半の銃撃シーンは映画内のスプラッタ表現にも道を開いたかもしれない)
クライド(ウォーレン・ベイティ)の取り出した銃をボニー(フェイ・ダナウェイ)が物欲しげに見つめ、しかしその後にいざ性交しようとするとクライドが不能だと判明する(銃が男根の象徴になるのは定番だけど巧く使われていると思う)。気持ちよい、達成感のある場面はほとんど用意されておらず、どこかに後味の悪い感じが残る。世界に絵空事のヒーローなんていないと主張しているようでもある。
大恐慌時代の1931年を舞台にしていることもあって、ジェイムズ・M・ケインやホレス・マッコイが1930年代に描いていた犯罪者の肖像に通じるものを感じる。特に性欲と犯罪が不可分に、しかし歪んだかたちで結びついているところがそれらしい。1930年代のパルプマガジン的な扇情性を(フランス人による再評価を経由して)30年後に蘇らせたのがこの作品ではないかという気もする。
21 Grams (2003)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
★★
イニャリトゥ監督をはじめとする『アモーレス・ペロス』製作陣がメキシコからアメリカへ乗り込んで作った映画。ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニシオ・デル・トロなど俳優陣は豪華になっているけれど、内容は期待外れだった。
『アモーレス・ペロス』は三つのエピソードと人生が自動車事故を軸にして交錯する『パルプ・フィクション』的な構成の映画だったけれど、今度の『21グラム』はそこに『ブラッド・ワーク』みたいな話を導入して一本の物語に縒り合わせてきた。ただし時間軸を解体して、物語の流れに沿って進まずに過去と未来の場面が次々と入れ替わる、パズル的な構成になっている。
作中でベニシオ・デル・トロ演じる前科者が「神はすべてを見ているんだろ?」ということをしきりに口にする。それに即して言うなら、この映画の観客は登場人物同士の横のつながりを見通すだけでなく、後に起こるはずの出来事を知っていることにより、物語内の時間経過や因果関係に対しても超越的な視点に立つことができる。つまりそれだけ「神の視点」に近づく、ということになるかもしれない。
ただしこの趣向が成功しているかというと疑問で、ただでさえ人工的なプロットなのにわざとらしい時間操作を入れて物語の流れをぶつ切りにしたことで、俳優があらかじめ定められた劇を演じているという虚構性が強調されてしまったように思える。同じく時系列を錯綜させることが多いアトム・エゴヤン監督の『エキゾチカ』『スウィート・ヒアアフター』なんかだと、核となる「悲劇」の瞬間に向かって徐々に外堀を埋めていくという統一感があって、そういった不自然さは感じなかったのだけれど。
登場人物がどれも、生きていても楽しくなさそうな表情をして荒んだ暮らしをしている人物ばかりで魅力を感じられず、そんな人たちが映画の中でどうなろうが興味を抱けない。メキシコ人の製作者たちは「アメリカ人は病んでいるからこんなもんだろ」みたいな他人事の感覚で描いているのではないだろうか。
見どころというと、『アモーレス・ペロス』に続いてロドリゴ・プリエト撮影のざらついた画面が素晴らしいのと、ナオミ・ワッツの乳首が露わになっていたことくらいか。
本国で評判を取ったクライム・フィクション系の映画監督が米国進出して似た趣向の映画を撮ったらいまひとつだったというパターンは、『ロック、ストック〜』のガイ・リッチーを思い出させる。イニャリトゥがガイ・リッチーの轍を踏まないと良いのだけれど。
S1m0ne (2002)
監督:アンドリュー・ニコル
★★
ハリウッドの名女優たちのパーツを合成して作られた究極の美女、シモーヌ……よりも、アル・パチーノの娘役のエヴァン・レイチェル・ウッド(15歳)のほうが可愛く見える。映画が間違っているのか、自分の趣味が偏っているのか判断がつかないという困った作品だ。
と思ったら、製作・監督・脚本のアンドリュー・ニコルはこの「シモーヌ」を演じた女優レイチェル・ロバーツと2002年に結婚しているのだそうだ。金をかけたプライベート・フィルムだったということか……。『ガタカ』でのユマ・サーマンも綺麗に撮られていたし、アンドリュー・ニコル氏はちょっと人工的でアンドロイドっぽい外見の女性が好みなのかもしれない。
話の内容は、過去のアンドリュー・ニコル脚本作『ガタカ』『トゥルーマン・ショー』と同じく、ディック風の短篇を人情話でまとめたという感じ。「シモーヌ」を空虚な装置にしておくのか(フランク・キャプラの『群衆』における「ジョン・ドゥ」のような)、物語上の意味を持たせたいのかが定まっていなくて、中途半端な話になっていると思う。
やけに画面が綺麗だと思ったら、撮影監督が『ヴァージン・スーサイズ』『エデンより彼方に』などのエドワード・ラックマンだった。
下妻物語 (2004)
監督:中島哲也
★★★
というわけで見てきました。予期していない面白さと、見る前の危惧がある程度当たっていたところもあって、半々の感想。
漫画的な表現とキャラクターの世界でストレートな青春ものを展開する話で、はじめに主人公の生い立ちや世界観を紹介して、後半になってから話が動き出す構成は『アメリ』に似ている。
良いところを書くと、まず主演の深田恭子がはまり役。深田恭子は僕の乏しい芸能界知識からすると、(1)普段の日常生活を想像できない、(2)本当に人気があるのかどうかよくわからない、という意味できわめてフィクション的なアイドルと認識していたのだけれど、この映画ではその虚構性が漫画的なキャラクターに調和していて説得力がある。映画を見た後に振り返ってみると、この役には深田恭子以外考えられないという気になる。
前半で単なる趣味的な世界の紹介に見えたものが、後半になるとだんだん物語を駆動する装置として機能していく。特にクライマックスの場面は、深田恭子が単独でレディースの集会に乗り込んで行ってどう事態を収拾するのか、という事前の興味をきちんと回収していて小気味良かった(ヨハン・シュトラウスの音楽までもが『2001年宇宙の旅』の記憶と共鳴して有機的に使われている……と思う)。というか正直、このクライマックスの場面がなかったら「映画といえるのか微妙」という感想に終わっていたかもしれない。
物足りなかった点も書いておくと、この話をはじめに聞いて興味を惹かれなかった理由として、主人公たちが「ロリータ」と「ヤンキー」だというのは、他人の決めた既成の価値観に自分をあてはめて満足するだけのことになるんじゃないか、それだと面白くないな、というのがあった。最後まで見てもその点に関する突っ込みはなかったと思う。漫画が映画になるのかと思ったら「やっぱり漫画でいいや」ということになった、みたいな拍子抜け感がある。あと、この話は最終的にモラトリアムを肯定する方向へ行くのだけれど、その背後に才能があるので仕事をやろうと思えばいつでも歓迎される、という安全弁が用意されているのも多少ひっかかる。
こういう漫画的な表現の作品をこれからもたくさん見たいとは思わないけれど、少なくとも主演女優とクライマックスの場面は成功しているので佳作だろうと思う。
富塚由美訳 / 晶文社 [amazon] [bk1]
The Silk Stocking Murders (1928)
★★★
バークリー名義の長篇4作目。前作『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』と対になって「素人探偵 vs 警察」の構図を扱っている作品で、これで前期ロジャー・シェリンガム・シリーズは終了という感じかな。次の『毒入りチョコレート事件』以降のシェリンガムは脇役に追いやられたり全然出てこなかったりしながら、1931年の『最上階の殺人』で主役の座に返り咲くことになる。
バークリーは「名探偵が特権的に真実を探り当てる」という探偵小説の定型に突っ込みを入れていった作家で(後期の『ジャンピング・ジェニイ』になるとその鉾先はほとんどミステリの原理を破壊するまでに至る)、その結果として「誰が真実を探り当てるのかわからない」話を書くことになる。それがわかりやすく実現されたのは主人公のいない推理合戦が展開される『毒入りチョコレート事件』だろうけど、この作品にもその「素人探偵の推理合戦」的な展開がシェリンガムの地位を脅かしそうになる気配があって面白い。
バークリーの作品ではいつも、犯罪を娯楽として愉しむことのいかがわしさと、それでもやはり面白い、ということの両面が描かれていて、その距離感はいま読んでいても心地良い。
佐々田雅子訳 / ハヤカワepi文庫 [amazon] [bk1]
The Virgin Suicides (1993)
★★★★
『ミドルセックス』が良かったので、映画『ヴァージン・スーサイズ』の原作になった第一作を読んでみた。
叙述の構造が変わっている。現在は中年の坂にさしかかった「ぼくら」が、思春期の頃(1970年代)に近隣で起きた姉妹の連続自殺事件の顛末を回顧する(ノンフィクション的に再構成する)という、一人称複数の語り手による叙述。語り手の「ぼくら」を構成するそれぞれの個人はたまに姿を現すことがあるけれども、語りの主体となる「ぼくら」そのものは名指されることがなく、実体のない集合意識としてひたすら観察と描写を繰り広げる。
その視線の執拗さは、ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』の異常な緻密さで対象を観察する語り手とか、ナボコフの小説(そういえば「目」という題の中篇もあった)を思い出させる、観察と描写そのものが目的化したような奇怪さがあって面白い。少なくとも題材からしてナボコフの『ロリータ』とはつながりがあるのだろう。また、作品世界に浮遊しながら決して名指されることのない視点というのは、映画のカメラのようでもある。
この奇妙な語りのフィルターを通すことで、デトロイト近郊の郊外住宅地の真ん中に滅びと頽廃の空気に満ちた館、つまりポーの『アッシャー家の崩壊』のような世界を描き出すことが可能になっている。
ということで、1970年代を描いた風俗小説というよりは、そこにポーやナボコフの小説と通じる人工的な要素を持ち込んでいる印象が強かった。『ミドルセックス』を読んでミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』を思い出すところがあったのも無理はないと個人的に納得する。難を言うと、少女たちの連続自殺という題材がどうしても面白いとは思えないのだけれど。
ブックハンティング特集。古本蒐集ではなくて「ブックハンティング」なのでよろしく。「本好き必読!」とのことなので読んでみたのだけれど、よく考えたら僕は、本なんて中身を読めれば充分なのでハードカバーより文庫本のほうが合理的で有り難いというような、物体としての本に愛着の薄い人間なのであまり関係のない世界だった気もする。『BRUTUS』なので「濃い」とかではなくあくまで「オシャレ」な古本道を紹介しなければならない、という縛りがあるのは興味深い。
大森望と柳下毅一郎のSF古本談義が掲載されていて、写真の柳下毅一郎がさりげなく「AJAX CATALUNYA」と書かれたシャツを着ているのがおかしかった。たぶんこちらで作っていたやつなんでしょうね。
Glengarry Glen Ross (1992)
監督:ジェイムズ・フォーリー
★★★
デヴィッド・マメット脚本の舞台劇を映画化した作品。評判の良い作品なのだけど、いかにも舞台劇らしいところが残っているのが気になった。例えば、登場人物たちが即興で演技をするシーンがそれぞれ時間的に長い。これは演劇なら良いのだろうけど、映画だと時間を編集できるので、何だかこれだけ時間を取ったわりに結局話はその程度の内容なのかと感じてしまう。
不動産セールスマンたちの一夜を描いた話で、登場人物がそれぞれ作中で「演技」をしているということがつねに意識されているのが面白かった。
実績のあがらないセールスマンが売れる顧客リストを会社から盗み出そうとする、という興味が主筋になるのだけれど、現代ではそういう情報はコンピュータで管理されるだろうから、似たような話をこの作品のまま古典的な道具立てでやるのは難しくなっているだろうと思う(時代劇という設定にすれば可能だろうけど)。その意味で1990年代前半はいまから見るとずいぶん遠い時代に見えたりする。
アル・パチーノ、ジャック・レモンといった貫禄のある俳優に混じって、たぶんまだ名前の売れていなかった頃のケヴィン・スペイシーが冷徹な管理者の役で出演している。ケヴィン・スペイシーは声がすごく格好良いと思う。
ジェフリー・ユージェニデス『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』を読んでナボコフやミルハウザーの小説を連想したのは、徹底して細かい観察と描写によって、ありふれたものを「特別なもの」に変えようとする、というような思想が流れているところだ。
例えば、ナボコフの『ロリータ』で描かれる題名の少女は、ドロレス・ヘイズという名の単なる普通の女の子だったかもしれない。彼女はハンバート・ハンバートによって見出され、その視線に観察され描写されることではじめて、特別な少女「ロリータ」として存在することになる。ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』でも、エドウィンは「天才作家」というよりもごく普通の少年に近かったかもしれず、それを特別なものとして観察し描写しようとする「伝記作家」ジェフリーの異様な視線こそ、むしろ突出して感じられるものだろう。
こうした「観察と描写」そのものが目的となったような語り手の視線は、しばしば語り手の肉体から離れて、名指されることのない「純粋視線」として作中に偏在することになる。ジェフリー・ユージェニデスが『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』で採用した一人称複数の叙述視点も、これに近いものではないだろうか。
手元にある『サロン・ドット・コム 現代英語作家ガイド』[amazon] [bk1]でジェフリー・ユージェニデスに関する記述を探してみたら、リック・ムーディ、ドナルド・アントリムという作家とともに次世代のアメリカ文学を担う作家として語られることが多く、この三人は大学の同世代で親交もあるのだそうだ。(アンジェラ・カーターの指導を受けていたらしい)
リック・ムーディは映画化もされた『アイス・ストーム』の原作者で、原作は読んでいないけれど映画はたしか1970年代を舞台にして郊外住宅地の閉塞感と滅びの予感を描く、みたいな話だったから、ユージェニデスの『ヘビトンボ〜』と重なる部分が多い。
もうひとりのドナルド・アントリムはまた違った作風で、『サロン・ドット・コム』の紹介文を読むかぎりではスウィフト系のブラック・ユーモア作家のようだ。第二作"The Hundred Brothers"は文字通り「百人の兄弟」が激しい兄弟喧嘩を繰り広げるという、訳されたらそれなりに一部で受けそうな粗筋の話。(ついラファティの「九百人のお祖母さん」を思い出すのだけれど)
EURO 2004が開幕したので一応見ているんですが、今日のチェコ×オランダはすごかったですね。チェコがオランダにノーガードの打ち合いを挑んで勝ったという試合。前から期待を集めていた対戦だけれど、ここまで盛り上がるとは思っていなかった。
オランダはチェコの右サイドを突いて攻撃の起点になっていた左ウイングのロッベン(2アシストの活躍)を後半途中で下げるという、素人目に見ても疑問の選手交代が裏目に出て、やはり慣れないことをしてはいけないということか。これで後顧の憂いが薄れたチェコ攻撃陣はオランダゴールに集中砲火を浴びせる。
チェコの2点目、コラーが落としてバロシュが決めたシュートは何度見ても格好良い。ネドヴェドのミサイルのようなロングシュートの精度も驚異的だった。
この試合は攻め合いになりながらも、両チームのGK(チェコのチェフ、オランダのファンデルサール)がどちらも当たっていたのも良かった。そうでなければ何点入っていたかわからない。
チェコはこれで勢いに乗るだろうけど、ディフェンスが良いとは思えないので(特にセンターバックがしょぼく見えた)どこまで勝ち進めるんだろうか。
昨日のイタリア×スウェーデンも面白い試合だったし(イブラヒモヴィッチによる「『キャプテン翼』の若島津君」ばりの奇跡の後方回し蹴りシュートが決まった)、連夜の盛り上がりで、明日のポルトガル×スペインにも期待が高まる。
EUROに言及しはじめると「EURO日記」になってしまうのでほどほどにしたほうがいいかもしれない。
似たもの同士の隣国対戦はスペインがポルトガルに気合い負けといった感じで、勝たないと国民に顔向けできない開催国と、そこまででもないところの違いということか。
実を言うと今大会はスペイン代表に肩入れして見ていたのだけど(リーガで馴染みのある顔ぶれが揃っているのと、予選プレイオフのノルウェー戦を勝ってまとまりが出てきたように感じたので)、ギリシャ躍進の割を食ってたいした見せ場もなくグループリーグ敗退ということになってしまった。まあ、大会を盛り上げるためには開催国が残ったほうがいいんだけれど、……とみんな言っているから勝てないんだろうな。
スペインのサエス監督には批判が出るだろうけど、フェルナンド・トーレスとシャビ・アロンソを先発させた狙いは理解できるしそんなに間違っていない気がした。実際、シャビ・アロンソ→トーレスでシュートがポストに当たった場面もあったので、あれが決まっていれば「サエスやるじゃん」ということになっていたのではないかと思う。ただ、後半に左利きのルケを右ウイングに投入して、本人も戸惑っていたような動きだったのは何だったのかよくわからないけれど。
チェコのベンチワークを詳細に分析していて面白い。
本国でも編まれていない幻の傑作選、とのこと。
前半の「黒い小猫」「虎よ!虎よ!」「誰でもない男の裁判」の三作は、誰でも犯罪や暴力の加害者の立場になり得るかもしれない、という感じを描いているのが共通する。聖職者や詩人といった、通常は犯罪や暴力と縁が薄いと考えられる職業の人物を主人公にしているのはそのためだろう。
個人的にはこのテーマがわかりやすく示される「黒い小猫」がこの短篇集のベストだと思った。表題作の「誰でもない男の裁判」は、キリスト教の色が濃いのと回想場面の多い時間構成にいまひとつ乗れず。
4作目の「猫探し」からライトなミステリ短篇に転調して、「市庁舎の殺人」「姓名判断殺人事件」も似た路線。犯人捜しよりも、冒頭に示されるはったり的な設定とそれに対応するホワイダニットが面白い。特に「市庁舎の殺人」の、市に雇われて毎週雨を降らせていた博士が殺されたのはなぜか、というトンデモ設定が愉しい。
「ジメルマンのソース」はマーク・トウェイン風法螺話、「ティモシー・マークルの選択」はラストの趣向を除くと、真面目で損をする主人公と金持ちの道楽息子が対比される話で、イーサン・ケイニンの小説みたいだと思った。つまりアメリカのわりと王道の青春小説の感じがあって、これが二番目に好み。
全体を通して見ると、正直それぞれの題材は他の作家がもっと突き詰めて書いていそうに思うものもあり(例えば「黒い小猫」路線ならパトリシア・ハイスミスとか)、古風な良さはあるけれどいまとりたてて騒ぐほどの作品群でもないような感想。
シアター・イメージ・フォーラムにて7月17日から。渋谷界隈では定期的にやっているような気もする。
ミルハウザーを愛読する者としては好みの作風に違いないと思っているのだけど、実はきちんと作品を見たことがない。今回あたり見といたほうがいいのかも。
「緻密さのあまり1年に15分ほどしか作れない」って、リアル版「J・フランクリン・ペインの小さな王国」みたいな話だ。