フジテレビ深夜枠で一挙放送の『24 -TWENTY FOUR-』、4月1日の24:35から放送開始。ありがたいけれどHDDレコーダーを所持していないと苦しそうな放送スケジュールだ。
デタッチメントからコミットメントへ、という(村上春樹的な?)文脈に置いたMr.Childrenの新作『シフクノオト』評。
第1回配本のジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』(柳下毅一郎:訳)は6月刊行予定とのこと。 → 国書刊行会:最新ニュース
ハヤカワSF「Jコレクション」シリーズで刊行のコミック単行本。
『遊星からの物体X』や『プリズナーNo.6』とか、引用を散りばめたサンプリング的手法で、閉塞した狭い日常と世界の終わりが同時に進行するという(「セカイ系」に通じる?)物語世界のモデルを提示する。何か批評を読んでいるみたいだった。元になった小説や映画がそのまま言及されることが多くて、なるほどこれを持ってきたかという感じで愉しむのだろう。(M・ナイト・シャマランの『サイン』が出てきたときは笑った)
山本直樹のいくつかの短篇に「何もない田舎」での閉塞した思春期を描いたものがあって、それにちょっと近いものも感じる。
One Hour Photo (2002)
監督:マーク・ロマネク
★★★
邦題は平凡で良くないのだけど、原題は"One Hour Photo"、スーパーマーケットの写真現像コーナーに勤める孤独な店員(ロビン・ウィリアムズ)が、いつも写真を現像しに訪れる幸福な家族に憧れて……という話。寂しい男が幸せな家庭に憧れるという話をそのまま展開されても芸がないような気もするけれど(特に『ハピネス』とか『アメリカン・ビューティ』なんかが公開された後で)、そのあたりはあまり重点ではなくて、ロビン・ウィリアムズの生活する殺風景な世界と、暖色系でカラフルに描かれる家族の暮らしとを映像面で対比するところに力が入っていたようだった。そのふたつの世界を媒介するのが写真という窓であり、無機質さとカラフルさを併せ持つスーパーマーケットだったということだろう。
無間道 (2002)
監督:アンドリュー・ラウ、アラン・マック
★★★★
警察とマフィアの抗争劇。香港映画はほとんど観ないのでこれが何か新しいことをやっているのかどうかは知らないけれど、潜入捜査官ものとして多少ひねりのある筋書きが速い展開で語られて、主演俳優のトニー・レオンとアンディ・ラウも格好良く、2時間ほとんど退屈しなかった。
警察とマフィアの双方にそれぞれ内通者が潜んでいるという趣向が面白い(観客には誰が内通者なのか知らされる)。前半に警察とマフィアの面々が並んで対峙する、ゲームの勝負のような場面があってその構図が印象的に示される。この場面を見てそれなりに頭を使った話だとわかる。携帯電話を単なる通信手段としてではなく演出に活用した場面があるのも良かった。
いくつか事実関係の説明が抜けていて辻褄の怪しい箇所もあるのだけれど、次々と劇的な出来事が起きるので、突っ込みを入れる暇がないまま勢いで押し切られた。
これはなかなか壮観。いわゆる「テキストサイト」(狭義の)界隈はほとんど見ていなかったので、全然知らないところのほうが多いけれど。「こだまのあとだま」関連は当時見ていたので、年表の記述をいま読み返すと味わい深い。
Intolerable Cruelty (2003)
監督:ジョエル・コーエン
★★★
コーエン兄弟の新作はジョージ・クルーニーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズ主演。個性の強い男女が突飛な行動を取り、反発しながらくっついていくという、スクリューボール・コメディの現代版をやっている。主人公の男女をはじめ、浮世離れした設定の登場人物ばかりが出てくるのはこのジャンルの基本をなぞっているように見える。離婚訴訟での騙し合いや、殺し屋を雇ったりといった展開に犯罪ものの味があって、ラブコメにもかかわらずある程度先読みの出来ないスリルがあるのはコーエン兄弟らしい。(一応、オリジナル脚本ではないようだけれど)
ひねりがあって面白い筋立てだったけれど、ラブコメディではやはり、主人公たちがふたりでいればきっと良いことがあるだろうと予感させるような幸せな瞬間を、何らかのかたちで描いておく必要があるのではないか。この映画の脚本はプロットのひねりを優先してそこを飛ばしているので、どこか物足りなかった。(少なくとも『赤ちゃん泥棒』あたりにはそれがあったと思うのだけれど)
ジョージ・クルーニーは前回の『オー・ブラザー!』のときはちょっとクラーク・ゲイブルみたいだったけれど、今回はケイリー・グラントを思わせる雰囲気を漂わせている。
サイモン&ガーファンクルの音楽がいくつか重要な場面で使われていた。
川本三郎・柴田元幸・岸本佐知子訳/新潮文庫(上下巻)
The Water-Method Man (1972)
★★★★
ジョン・アーヴィングの第二作。一読して、妙な固有名詞を次々と繰り出してくるところがヴォネガット風だなと思ったら、アーヴィングはもともとヴォネガットの弟子筋の人らしい(大学の創作科の生徒)ので当然か。
尿道の詰まりを水療法(Water-Method)でごまかして手術を避ける。博士論文の研究をいつまでも完成させずうやむやにする。そして何より、夫として、父親として責任を負うことから逃げる。主人公のフレッド・トランパーはこれまで自分の問題を直視することを避けてきた人物、周囲から「何ひとつ最後までやり遂げたことがない」と評される人物だ。
章が変わるたびに、一人称叙述、三人称叙述、書簡形式、シナリオ形式……とせわしなく語りの形式が切り替わり、時間も直列でなく昔の話と最近の話が飛び飛びに入り混じる(このあたりもヴォネガット風)。これは主人公が自分の問題と向き合わずに迂回してきた人物であることを反映しているのとともに、作者アーヴィング自身もまだ自分の語り口を模索して試しているということもあるのだろう。
すべての要素が無駄なく絡み合うという緊密な小説ではないけれど、錯綜した語りのすえにたどり着く終章の場面は、良くできた群像劇映画の終幕近くのような落ち着いた雰囲気が出ていてとても良い。(その前の章がトランパーを主人公にした映画の話なので、余計に映画を観ているような感覚で読むことになった)
この本の翻訳刊行時には村上春樹が推薦文を寄せていたそうで、『風の歌を聴け』あたりに通じる点もある。というか抜き出して村上春樹の小説だと言われたらわからないんじゃないかと思える箇所がいくつかあった。(翻訳に柴田元幸が入っているので、わざと春樹っぽく訳したところもあるのかもしれないけれど)
トム・ハンクス主演の次作『レディ・キラーズ』は日本公開予定が5月22日と、最近ハイペース。
阿部和重特集の記事は『シンセミア』をめぐる対談、全作品レビューなど。
目を通した範囲では桐野夏生との対談が面白かった。阿部和重の小説に関する批評はどうも仲間内の褒め合いみたいに見えてしまうものが多いのだけど、桐野夏生はもともと出身分野の違う作家なので、そういう含みのない率直な感想を聞くことができる。それでいてふたりの問題意識に重なるところがあるのも見えてきて(実際の事件をもとに小説を組み上げるときの扱い、あとどちらも批評家からの読まれ方をかなり意識しているように思えることなど)、よくこの組み合わせを思いついたなと思う。
阿部和重は純文学系の群像新人文学賞出身で、桐野夏生は娯楽小説系の江戸川乱歩賞出身。純文学/エンターテイメントを区別して考えることにさほど意味があるとは思わないけれど、誰にも誤解の余地がないような書き方をするのが娯楽小説的、そうではなく読者に解釈の余地を残すのが純文学的だとするなら、阿部和重の『シンセミア』での客観的な書法は娯楽小説寄り、桐野夏生の『グロテスク』は(この対談の内容によると)主観的な描写を連ねているので純文学寄りと、ふたりの作風は逆方向にクロスしているということになるかもしれない。
桐野夏生が『シンセミア』の視点を「ヘリコプターのような」俯瞰視点と評しているのを読んで、ロバート・アルトマンの映画『ショート・カッツ』がたしか農薬散布のヘリコプターの場面からはじまったことを連想した。阿部和重が、桐野夏生の小説にはいつも「水」が不吉なものとして描かれる、と指摘しているのも映画評論の人らしい着眼点で面白い。
日本のポップカルチャー関連商品のオンラインショップを経営しているというピーター・ペイン氏のインタビュー記事。最初はJポップのCDを売っていたのが、今ではポルノアニメが売り上げの半分を占めるらしい。
WN:世界中のポップカルチャーのトレンドにおいて、日本がこれほど大きな影響力を持っているのはなぜでしょう?
ペイン:それこそ最大の謎だ。日本の面積はベトナムと同じくらいだが、世界的に通用するようになった日本語を考えてみてほしい――ニンジャ、アニメ、ポケモン、シュリケン、ヘンタイ、ブッカケ。
何か語句の選択が偏っているような気もするけれど、こういう記事を読むと、日本は結構なポルノ大国であるような気がしてくる。そういえば、映画『アンブレイカブル』に描かれたコミック書店で「日本のマンガでマスかいてんじゃねえぜ」みたいな会話が出てきたのを思い出す。
他にも、アダルトビデオの「モザイク」の父はダグラス・マッカーサー元帥だった!(ほんとかよ)など、ためになる情報が満載。
Bullets Over Broadway (1994)
監督:ウディ・アレン
★★★★
ウディ・アレンは出ていないかわりにジョン・キューザック主演。ジョン・キューザックは肩をすくめる仕草や眼鏡をさわる癖など、ウディ・アレンの行動を研究して頑張っている感じがする。
演劇の脚本家を主人公にした内幕話(コーエン兄弟の『バートン・フィンク』とかすかな共鳴を感じる)。本物と偽物、現実と虚構をめぐる話がコンパクトにまとまっていて愉しかった。
1920年代のジャズ・エイジと思われる舞台設定が、カラーで鮮明に(人工的な感じを残しながら)再現されているのも面白い。
Arsenic and the Old Lace (1944)
監督:フランク・キャプラ
★★★
フランク・キャプラ作品の中ではこれまであまり視聴できる機会のなかった作品で、最近ビデオ・DVD化されて観られるようになった。
内容を見るとそのあたりの事情もちょっと想像できて、たぶん精神障害の扱いがきつかったのではないかと思う。主人公のケイリー・グラントが結婚を渋る理由として、殺人者(=精神異常者)である近親者たちと血縁のある子供を作りたくないという考え方があったり、最終的に彼らと血のつながりがないことが判明してハッピーエンドに至ったりする。当時からしても、わざと世間の良識を逆撫でするようなブラック・コメディだったのだろうけど、このあたりの前提が古臭くなっていて、いま素直に笑うには微妙なところだと思う。
主演のケイリー・グラントの立ち位置を再確認できた。仮に清廉潔白なジェイムズ・スチュアートがこの映画の主役だったら、殺人行為に手を染める叔母たちをかばうようなことはしないかもしれない。ケイリー・グラントはもっとモラル的におおらか、逆にいえばいいかげんな立場を体現しているように見える。
『群像』5月号に掲載の作品。さいたま市・大宮に建設中のスパイラル型の高層ビルを軸に、工事にたずさわる地方出身の建設労働者の視点と、建築設計者のエピソードが交互に提示される。
ふたつの視点が交わりそうで交わらないまま進む(スパイラル的な?)構造がスリリングで、『パレード』にあったような、視点を転換していくことで薄っぺらい登場人物たちに不気味な影を与える感じも出ていた。また、社会階層に格差のある登場人物たち(昔風の言葉でいえばブルジョワとプロレタリアートか)を切り取って社会の断面を描く、そして複数のエピソードが最終的に視覚モチーフ(高層建築)に統合される、というところは映像の群像劇みたいだなと思う。結末はひねってあって『パレード』より良い。
ただ最後のほうで人工的な文体が浮いていて気になる箇所があった。具体的には、
ということは、この円形のインナーチューブの構造がイッてしまえば、O-miyaスパイラルという建物は、自分の重みによるねじれに耐えられなくなり、崩壊する可能性がある。そう、崩壊する可能性がある。(p.96)
この「そう、〜〜する。」という言い回しが繰り返されるところ。このくだりは非常にわざとらしくて興醒めだった。
「ミカド」として天皇制を名指しする作法、前半に登場する「井上」という名前(おそらく戦前の「血盟団事件」をもとにしているのだろう)の主人公。読み進めていくうち、これは阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』と『ニッポニアニッポン』への返歌なのだろうと思えてくる。(と思ったら仲俣暁生氏がすでに同じような指摘をしていたので、この言及を念頭に置いた読み方をしてしまったかもしれない。まあ、重なる点が多いことは確か)
大胆な設定でどうなることかと期待したのだけれど、この話の核になる「心中の蔓延」という現象が、いきなりみんな死にたがるようになる、というような唐突かつ説得力を欠いたものなので(その意味で黒沢清の映画『回路』を連想した)、どうも作品世界に巻き込まれないで終わった。似た設定ならチャック・パラニュークの『サバイバー』のほうが面白い。
ところどころ現代の日本と照応させて読まざるをえないところがあって、特に(この本が書かれたあとに起きた)イラク人質事件での当事者へのバッシングを連想することが多かった。
The School of Rock (2003)
監督:リチャード・リンクレイター
★★★★
思えば『ハイ・フィデリティ』映画版はジョン・キューザック主演でありながらジャック・ブラックのバンド演奏がクライマックスに配置されるという奇妙な映画だったけれど、そのジャック・ブラックが今度は主役として、小学校で生徒たちにロックを教え込む偽教師になって帰ってきた。
まずジャック・ブラックありきの企画で、驚きはないけれど期待には応えている。「ボンクラ映画」としても、生徒たちがそれぞれの特技を活かす「文化祭もの」としても基本は押さえていて、スタンダードな娯楽映画として愉しめた。
あの暑苦しいジャック・ブラックがひととき包容力のあるヒーローに見えてしまう展開には映画のマジックを感じられるだろうし、バラエティに富んだクラスの生徒たち(アフリカ系やアジア系の生徒を混ぜるなどの配慮も含めて)も、よくこれだけ揃えたなというアメリカらしい顔ぶれで面白い。
この話は、バンド演奏がジャック・ブラックの押し付ける独演会になってしまっては駄目で、生徒たちがそれぞれの意思と創意工夫でバンド演奏を作り上げていくところを描かなければいけない。そういった「バトンを渡す」瞬間がある程度きちんと用意されていたので満足した。(ベースの女の子はどうしたとか、いくつか気になる点はあったけれど)
ロックの知識は全然ないので、ジャック・ブラックが劇中で「ロック史」を講義する授業はちょっとまじめに聞いてみたいと思った。知識のある人なら作品の端々にネタを探して愉しめるのだろう。
見に行った日比谷映画ではクライマックスの場面と映画の終わりで客席から拍手が湧き起こっていた。これはたしか『少林サッカー』以来の久しぶりの体験。
サラ・ウォーターズのインタビュー記事をたまたま見つけた。評判になった『半身』がそれほどとも思えなかったので新刊の『荊の城』はいまのところ後回しにしているけれど、パトリック・マグラアを敬愛しているというのは少し納得。
と、m@stervision氏いわく。昨日、日比谷映画の盛り上がりに良い気分を味わった者としては同感。あと、ロックファン向けのくすぐりが多いようなので、自分が知らなくても周りの反応で面白いネタが仕込んであることを確認できるのも大人数のときの利点ですね。