第76回アカデミー賞受賞者一覧。『指輪』が11部門獲得の圧勝。撮影賞は『シービスケット』かと思っていたら『マスター・アンド・コマンダー』に行きましたね。
excite Books : 柳下毅一郎インタビュー「オリジナリティなんて大したことない」。仲間内の頷き合いではつまらないので、ジャンルを超えて読者を振り向かせるようなことを書きたい、というような発言をしていたのに好感をおぼえた。
池田真紀子訳/早川書房 [amazon] [bk1]
Choke (2001)
★★★
例によって病んだ語り手が起承転結の順序を無視してエピソードを語っていく形式の小説なのだけど、さすがにここまで時系列が錯綜して見通しが悪いと話についていけず、個々の奇怪な設定や人物造形に突っ込みを入れながら愉しむ、という程度の読み方になってしまった。
パラニュークの小説では第二作の『サバイバー』がこれまでのところ一番読みやすく、また冒頭にはったり的な場面を提示してそこまでの来歴を(時間を飛ばしながら)語っていくという形式にも必然性を持たせられていたと思う。(ハイジャック犯がボイスレコーダーに録音しているという設定)
カバー装丁は常盤響。そういえば『ファイト・クラブ』が出たとき阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』に似ているのではないかという指摘があったので、そこからの連想だろうか。
The Life of David Gale (2003)
監督:アラン・パーカー
★★
雑誌記者のケイト・ウィンスレットが無実を訴える死刑囚のケヴィン・スペイシーの話を聞きに行く。
人物描写が薄っぺらいという批判は意に介さない、謎解きとどんでん返し優先のミステリ映画。とてもありえない狂った殺人動機が出てくるのは悪くないけれど、これは2時間もかけて語る話ではないだろう。連続ドラマの1エピソードだったら切れ味良く1時間で済ませられたのじゃないかな。
視点人物のはずのケイト・ウィンスレットをはじめ、誰がやってもいいような役が並んでいるなか、ローラ・リニー(『ミスティック・リバー』にも出ていた)は存在感があって印象に残る。
ミステリ映画におけるケヴィン・スペイシーは「あまりにも怪しすぎて逆に怪しくない」というか、もう犯人であろうとなかろうと物語上の興味を抱けない存在になっている気がする。
獄門島漫画祭り 90年代編。90年代最高の漫画を決める催しとのこと。投票結果を見ると少年誌・バトル漫画寄りなのかな。
僕の場合は「スピリッツ」読者だった時期があるので、投票するとしたらたぶん江川達也『東京大学物語』と山本直樹『ありがとう』は入れてしまうだろう。どちらも最近読み返したら面白かった。(『東京大学物語』は、明らかに途中から無理やり連載を続けて質ががた落ちしているけれど)
イノセンス (2004)
監督:押井守
★★★
東洋風味の汚濁した近未来世界で、自分の肉体を部品交換する人たちが登場する、『ブレードランナー』や『ニューロマンサー』に連なる世界観。導入部の「空撮」場面をはじめ、はっとする素晴らしい場面がいくつかあってさすがに映像には気合いが入っている。(そういえば『ブレードランナー』を意識していたという『ファイナルファンタジーVII』もたしか都市の空撮場面から幕を開ける)
筋書きはロボットによる殺人事件をサイボーグと人間の捜査官コンビが調査するという、アイザック・アシモフの『鋼鉄都市』のようなSFミステリの形式になっていて、一応「ロボット三原則」みたいな話も言及される。ミステリ仕立てのSFには、なぜそういう設定になっているのかという「世界設定の謎」を解明するような展開を期待するのだけれど、この話はそこまで至らないので、事件と世界設定があまり有機的に結びついていない、世界設定が箱庭的に披露されているだけという印象を受ける。
相棒の捜査官で「生身の人間」のトグサがこの世界の入門者(あるいは突っ込み役)のような役割を果たしていて、僕みたいな素人にもそれなりに入りやすかった。逆に言うとトグサ以外の登場人物がほとんど全員同じような重々しい喋り方なので、彼が退場している場面は単調で面白味に欠ける。
何度か「人はなぜ人形を作るのか?」という論議が出てきて、これは作者の「俺たちはなぜアニメを作るのか?」みたいな自分語りとして読み替えれば良いのかもしれないけれど、特にアニメという媒体に執着があるわけではないので興味が湧かなかった。
こういうサイバーパンク系SFの根本にある、肉体の部品交換とか機械との接続といったモチーフにどうも魅力を感じられないので、たぶんもともと苦手な分野なのだろうけど。
m@stervisionで絶賛の『恋する幼虫』、テアトル新宿でのレイトショー上映は3月12日までのようですね。
[追記]また行けずに終わった……。
津原泰水『ペニス』[amazon] [bk1]の双葉文庫版が発売。これは傑作なので、読み逃していた人はぜひ。
僕は初読のときは図書館で借りて読んでいたので、こんどは購入することにした。笠井潔の解説は、「ジョルジュ・バタイユの神秘主義的観念小説に似ている」というような筋の文章。
津原泰水ウェブサイトの掲示板に、作者本人によるコメントが書かれていて興味深いので、そのうち読み直してみようかと思う。(ここで言及されている石堂藍氏の『ペニス』感想は2001年8月6日に取り上げたことがあるので、気になる人は参照してください。元の文書はたしか公開停止しているはず)
ついでに掲示板の書き込みから、原書房ミステリー・リーグの『ルピナス探偵団の当惑』は3月20日発売とのこと。
The Naked City (1948)
監督:ジュールズ・ダッシン
★★★
冒頭にプロデューサーのマーク・ヘリンジャーによる語りが入って、この映画は他の作品とは一味違う、セットではなく本物のニューヨークの街頭や室内で撮影をしているのだ、というような宣言がなされる。実際どこまで徹底されているのかは知らないけれども、それだけ当時は珍しい趣向だったのだろう(イタリアのネオリアリスモの影響もあるんだろうか)。ベテランと新米の刑事が組んで捜査をするという形式も含めて、刑事ドラマの先駆として知られる映画らしい。(ドキュメンタリー風の刑事ドラマという点では、この延長上にある到達点が『フレンチ・コネクション』か)
三面記事のような街角の犯罪を警察が捜査する過程を描いて娯楽映画に仕立てられる、ということを発見した功績はたしかに大きいかもしれない。その歴史的な価値を抜きにすると、内容は特に変哲のない刑事ドラマ。窃盗団がどうやって標的を狙い定めていたかという解決がちょっと面白い。
ところでニューヨーク市街の空撮から始まる映画ってどのくらいあるんだろう。もっとも有名なのは『ウェスト・サイド物語』じゃないかと思うけれど。
Matinee (1993)
監督:ジョー・ダンテ
★★★
キューバ危機とウィリアム・キャッスル映画と初デート、の三題噺。こんな時代にはまだ生まれていないにもかかわらず、うっかり「懐かしいなあ」と思い込んでしまいそうになる佳作。
ロバート・R・マキャモンの『少年時代』の一篇にこんな話があっても良さそうだ。(時代設定は1960年代前半だから同じくらいのはず)
劇場の椅子に仕掛けを施して観客を驚かせる、などのギミック映画で知られるウィリアム・キャッスル(柳下毅一郎『興行師たちの映画史』参照)をモデルにしたと思われるいかがわしい映画監督をジョン・グッドマンが演じていて、実際こんなことをやっていたのかとわかる。そのあたりの興味で見ても面白い。これを見ると、ウィリアム・キャッスルのギミック映画というのは、各家庭にTVが普及しているなかでどうやって映画館でしかできない特別な体験を提供する(ように思わせる)か、ということを考えた結果編み出された側面もあるのだろうなと思う。
The Butcher Boy (1997)
監督:ニール・ジョーダン
★★★
冒頭、全身包帯姿で病院のベッドに横たわる主人公が自分の悪ガキ時代を回想して語り始める。
この形式で思い出したのはアーヴィン・ウェルシュの小説『マラボゥストーク』で、主人公がどうしてこんな姿になっているのか、という興味がひとつの推進力になる点も似ている。実際、原作の小説があるようで、この映画の語りの形式も主人公のナレーションが随所に挿入されて、いかにも「小説の映画化」らしい。(加えて、どちらも『時計じかけのオレンジ』を思わせるところがある)
社会不適応者の主人公が次々と面倒を起こしていくので筋書きは面白いけれど、これは小説でやるなら「信用できない語り手」みたいになるんだろうな……とか、小説の形式だったらどうかというのが気になってしまい、映画にいまひとつ入り込めなかった。小説の映画化だから必ずこうなるというものでもないと思う。
ティム・バートン監督の新作映画『ビッグ・フィッシュ』の評判が良いみたいで、5月予定の公開をたのしみにしている。『ビッグ・フィッシュ』公式サイトに掲載されているティム・バートンの発言によると、『シザーハンズ』、『エド・ウッド』、それにこの作品と、自分はこれまで「エドワード」という名前の主人公に縁があり、この3本は特に思い入れのある作品だ、とのこと。
『濁った激流にかかる橋』で描かれたのと同じ町が舞台で、何人か重なって出てくる登場人物もいる(一部、場面が共通しているところもあった)。よく知らないけどフォークナーが似たようなことをやっているんだったか。
語り手が自分の生まれる前の「お母さん」とその相手の男について、見てきたかのように超然と語るという構造が面白い。こういう「お前、なんでそんなことを知っているんだ」という根拠の怪しい語り手は好き。それでも語り口は『トリストラム・シャンディ』みたいな脱線文学ではなくあくまでも実直で、高校生の男女の他人との距離の取り方、気の遣い方みたいなものが丁寧に描かれていて共感できる。子供(語り手)が生まれるのだから終着点は決まっているのだけれど、そこまでの過程がわからない、という興味でも読ませる。
エキサイトブックスの放談企画「文学賞メッタ斬り!」を増強して書籍にしたもの。面白く読んだけれど、二人の論調をだいたい知っているせいかさほど目新しい指摘はなかった気がする。それが多くの人に読まれるかたちにまとめられたことに意味はあると思うけれど。以下、印象に残った点。
受賞作を読み続けていきたいのは「メフィスト賞と日本ファンタジーノベル大賞、谷崎潤一郎賞、泉鏡花賞くらい」(p.334)という結論になっていた。
この本の主旨として、文学賞に突っ込みを入れながらイベントとして愉しむという話と、文学賞について語ることで日本の小説について考える(あるいはお薦めの本を語る)、というのがあると思う。後者の話をもうちょっと聞いてみたかった。
巻末では最近の受賞作を『作家の値打ち』方式で採点する付録があって、二人の評価に対談ではわからないずれが出ているのが面白い。
Punch-Drunk Love (2002)
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
★★★★
アダム・サンドラーの演じる変わり者の恋愛劇。主人公の変わった性格や境遇をほとんど説明せずに進んで、特に前半は話がどこへ転がっていくのかわからず面白い。後半になると、「七人の姉がいる」とか「プリンを買い込んでキャンペーンのマイルを貯める」などの奇妙な設定があまり有機的に絡んでこなくて、何か変わり種の話を思いつきで投入しているだけじゃないのか、という気もしてくるのだけど。主筋のはずの恋愛劇にも途中で葛藤や障害が発生しないのでいまひとつ何なのかよくわからない。
それでも個別の場面の見せ方はそれぞれひねっていて緊張感があり(例えば、ヒロインの初登場する場面で顔を画面に映さないとか)、画面も色彩豊かで心地良い。主人公がプリンを買い込むスーパーマーケットをはじめ、アメリカ郊外のちょっと空虚な風景が綺麗に撮られていた。前作『マグノリア』みたいな登場人物を泣き喚かせる演出がないので普通に観られる。
何をやらかすかわからない不穏な男を主人公にして、どこまで本気に取って良いのかはっきりしない「恋愛劇が描かれるところは、デイヴィッド・リンチ監督の『ワイルド・アット・ハート』みたいだ。(と思ったら、リンチが審査委員長だった年のカンヌ映画祭で監督賞を受賞しているらしい)
ミステリ小説において、事件を解決する「探偵」の役割は欠かせないものだけれど、探偵を論じる文章というのはどちらかといえば、探偵と同じ物語世界に立って人物としての魅力を記す、いわば「友人」の視点から語られるものが多い。もちろん探偵に惹かれてまた会いたいと思うからシリーズを読み続ける、という面はあるけれども、肝心の「謎を解く」「事件を解決する」という役割でその探偵がどんな特色を持っているのかを明らかにする論評がもっとあってもいいだろう。この本に寄せられた文章はおもにそのような角度から(編者前書きの言葉を借りるなら「探偵性」に注目して)ミステリ小説にどんな探偵が創造されてきたかを論じる試みだ。
この本で取り上げられた探偵は、シャーロック・ホームズ以降の時代を対象とした、いわゆる本格ミステリ寄りの顔ぶれ。もとから存在自体が探偵批評をはらんでいる、ブラウン神父、ロジャー・シェリンガム、モース警部といった面々も当然出てくるけれど、意外なところでカッレ・ブルムクヴィスト(懐かしい「名探偵カッレ君」)とか「検察審査会」(佐野洋『検察審査会の午後』)といった盲点のような選出もあって面白い。
執筆者では、特に杉江松恋の文章スタイル(冒頭で「この探偵は〜だ」と断定したうえで論証を積み重ねていく)が明快で目立っていたと思う。特にドナルド・ラムと中禅寺秋彦の項目が興味深かった。
他には、イシドロ・パロディ(執筆者:小池啓介)、神戸大介(霜月蒼)の項目なども印象深く、取り上げられた本を読んでみたくなった。
津原泰水『ペニス』(双葉文庫)[amazon] [bk1]の文庫化を機に、いくつかウェブ上に感想が出ているのを見つけて面白く読んでいる。Loveless(愛無き世界)(id:gosyuさん)の「非モテ系『ねじまき鳥クロニクル』?」という感想は、読んだとき思いつかなかったので興味深かった。再読組のそれはただの気分さ(上山達郎さん)は初読時の感想を、
『ペニス』を読み進めていて他の小説にはごく稀しか感じることのない、とにかく文章を読んでいるその状態自体が恍惚でありいずれにせよその作品が終わるということ自体が信じられなくなるとでもいうような体験を私はずっと感じた。
と記していて、僕も読みながらこれとまったく同じような感覚を味わったので共感できる。
上記のid:gosyuさんのリンク集からたどって2ちゃんねるSF板の津原泰水スレッドを覗いてみたら、なぜかニコルソン・ベイカー、スティーヴン・ミルハウザー、アーヴィン・ウェルシュ、チャック・パラニュークといった作家名が引き合いに出されていて、ひょっとして僕自身が書き込んでいるんじゃないかと錯覚してしまった。(一応、書いてません)
……などと他人の感想にあれこれ言う前に、自分が再読しておいたほうがいいかもしれない。
Elephant (2003)
監督:ガス・ヴァン・サント
★★★
米国の高校で起きた有名な事件をもとにした映画。これはどういう趣向なのか全然知らないほうが愉しめるのかもしれない。僕はカンヌで賞を獲った頃にある程度情報を耳にしてしまっていたのだけれど。
無名の若者たちを集めて(エンドロールを見るとほとんど本人の名前が役名に使われていた模様)、高校のありふれた一日の描写を淡々と視点を変えて積み重ね、それらが一瞬の惨劇で破壊されるまでを描く。いかにもインディーズ映画の方法論という感じで、きちんと作られていると思うけれど予想外の点は少ない。ダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』みたいな、人物の背後を延々と追っていく(疑似)一人称視点が多用されていた。
最後まで「公権力」につながる存在、警察や報道関係者が姿を現さないのが印象的。
画面の縦横比がたぶんほとんど等しくて正方形のようなサイズだった。このままTVで映したら上下ではなく左右が切れてしまうのだろうか。蛇足ながらちょっと興味ある。(3月29日追記:新宿泥棒日記によると、スクリーンサイズはテレビとほぼ同じ「1:1.33」のスタンダードサイズだったようです)
Memories of Murder (2003)
監督:ポン・ジュノ
★★★
韓国で起きた未解決の連続殺人事件をもとにした映画。同じ監督の『ほえる犬は噛まない』での、生活感のある日常描写にへんてこなギャグを織り交ぜる(しかもさりげなく社会風刺にもなる)作風は好きだったのだけれど、この映画ではそれが実話ベースの重苦しい筋書きとあまり合っていないところもあった気がする。地元の警察がどうしようもなく無能に描かれているので、前半は解決につながらない展開を延々と見せられているようで気が滅入った。ひと昔まえの韓国はこんなにひどくて殺人事件の捜査もまともにできなかった、という話なのかもしれないけれど。
口笛とともに現れる殺人犯……というのは『M』なんですかね。
Underworld (1927)
監督:ジョゼフ・フォン・スタンバーグ
★★★
禁酒法時代のマフィアを描いた犯罪ものかと思ったら、この映画の作り手の興味はそんなところにはなかったようで、男と女のメロドラマが主軸だった。「女」への執着がつねに争いや犯罪を引き起こすところは、後のフィルム・ノワールの先駆という見方もできるのかもしれない。
映画『まぼろしの市街戦』について詳しい情報を載せているページをたまたま見つけた。ポーリン・ケイルなどの評論家のあいだでは、フィリップ・ド・ブロカ監督は『リオの男』や『まぼろしの市街戦』よりも1960年前後の初期作品のほうが軽やかなコメディとして評価が高いらしい。
映画『エレファント』について追記。先日、「正方形のような」スクリーンサイズと書いたけれども、実際は1:1.33のスタンダード・サイズで上映されていたようです。何とも基礎知識がないので恐縮。スタンダード・サイズはテレビの4:3の画面とほぼ同じサイズで、最近の映画では使われることが少ないらしい。(参考:スクリーン・サイズについて)
いずれにしても、上映がはじまるとすぐに「画面の幅が狭い」ことが気になる映画だったのは間違いない。視界が限られて画面の外枠が意識されることによって、映画のために場面を作っているのではなくて、元から続いている日常世界の一部をフレームごしに覗き込んでいる感じが出ていたように思う。
監督のガス・ヴァン・サントは『エレファント』という題名の由来を、「群盲象を撫でる」という言葉、目の見えない人たちがそれぞれ象の一部に触れてばらばらの解釈を言い、誰も事物の全体像を把握できていない、という逸話から取ったと説明しているらしい。視界が限られているのは、その「全体像が見えない」ということを画面に表現するためかもしれない。
余談ながら、人物の背中を律儀に追っていく画面構図は『バイオハザード』などのTVゲームを連想させるとも思った。
以下は、この映画のスクリーンサイズに言及していた論評。