年も替わるので、画面レイアウトを少し変更してみました。IEとOperaでCSSの解釈が微妙に異なるようで意外と手間取った。(僕が普段使っているのはOpera)
今月公開で楽しみにしている映画。
奇しくも全部原作付きの映画。
京都在住のオタク青年が語り手の「青春妄想小説」(荒俣宏)。2003年は村上春樹の新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が出版されたのをはじめ、『ライ麦畑でつかまえて』の題名を目にする機会が多かった気がするけれど、それにふさわしく年の締めくくりにも『ライ麦』を意識した新作が出てきた。
すらすら読めて愉しめたけれど、面白い卒業文集という以上のものではないと思う。ひねくれた視点の度合いが自分の身の回りにいそうな感じというか(実際、読み物に仕立てるのは易しくないだろうけど)。日常の風景に過剰な意味を見出すということでは、同じく日本ファンタジーノベル大賞受賞の銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』(新潮文庫)のほうが異様な驚きがあった。
Ten Minutes Older: The Trumpet (2002)
★★★
「上映時間10分」という縛りのもとで世界の映画監督が参加したオムニバス企画。
以下は各作品の感想。
アキ・カウリスマキ「結婚は10分で決める」
いつもの俳優の顔ぶれで、10分間に男女の旅立ちとバンド演奏を詰め込む。驚きはないけれどまあ手堅い。(★★★)
ビクトル・エリセ「ライフライン」
10年ぶりの新作が10分だけ!ということでこれを目当てに来る客も多いはず。スペインの田舎のスケッチを静謐に描き、内戦の影が仄めかされる。美しい佳品。(★★★★)
ヴェルナー・ヘルツォーク「失われた一万年」
なぜかアマゾンの奥地の未開の部族を取材したドキュメンタリー(本物かどうかは知らない)。いまさら「モンド映画」というわけでもないだろうけど興味を持てないし、奇を衒いすぎに見える。(★)
ジム・ジャームッシュ「女優のブレイクタイム」
映画撮影中の女優(クロエ・セヴィニー)のひとときの休憩時間。劇中で「映画(の撮影)が始まる」ことによってこの映画に幕が下りる、という逆転の着想が面白い。あと劇中に流れるゴルトベルク変奏曲を好きなので。ちなみに全7編のうち、「劇中時間も10分」の趣向なのはこのジャームッシュとカウリスマキ、そしてエリセだけ。(★★★★)
ヴィム・ヴェンダース「トローナからの12マイル」
『パリ、テキサス』みたいな何もない片田舎のロード・トリップ。主観ドラッグ描写が目立つけれど、これを斬新だと思っているのなら相当遅れていると思う。(★★)
スパイク・リー「ゴアvsブッシュ」
2000年の大統領選挙、フロリダの接戦の末に敗れたゴア陣営のインタビュー。フロリダ州知事はブッシュの実弟で、投票用紙をわかりにくいものにされたとか、再集計をめぐる報道が偏っていてイメージを落としたとか。スパイク・リー、マイケル・ムーアには負けないぜってことだろうか。興味深いけれど10分程度のイメージ操作ではなく丁寧な検証を知りたい内容。その意味でこの企画には必ずしも適していなかったのではないか。(★★★)
チェン・カイコー(陳凱歌)「夢幻百花」
アジア代表。北京の風景を見せるとともに、単なるオリエンタリズムではない、次々と開発が進み変化していく都市の様子を描いてみせる。手堅く期待に応えた作品。小噺としてはひねりに欠けるけれど、コメディ調のものが他にないので好印象。(★★★)
と、すごく面白かったわけでもないので、もう片方の「イデアの森」は観なくてもいいかな……。
「若島正の読書日記」(1月1日)に今年の仕事予定。リチャード・パワーズは『黄金虫変奏曲』より先に第2作『囚人のジレンマ』の翻訳が出る予定らしい。今年かどうか知らないけれど楽しみ。
「YAMDAS現更新履歴」(12月30日)を見て、コーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング』DVD版[amazon]が値引きになっているのを知る。かのマキシム・ジャクボヴスキー氏も「最高のハメット映画」と太鼓判を押す傑作。
「密室系」(12月16日)で紹介されていて気がついたのだけれど、『ミステリマガジン』2004年2月号はウェスタン特集。面白そうな特集なので購入してみた。エルモア・レナードやジョー・R・ランズデールはいかにもな顔ぶれだけれど、フレドリック・ブラウンやシオドア・スタージョンのウェスタン小説なんてのも収録されている。収録短篇の感想は読んだらそのうちに書くとして、とりあえず松坂健+小山正のウェスタン映画紹介記事は参考になりそう。近々NHK-BS2で『リバティ・バランスを射った男』(1月6日 16:50-18:54)や『真昼の決闘』(2月11日 17:00-18:26)の放送があるようなので観てみようかと思う。
新刊書評に目を通して、ジョン・フランクリン・バーディン『殺意のシナリオ』[amazon] [bk1]とデイヴィッド・アンブローズ『幻のハリウッド』[amazon] [bk1]、あとT・R・ピアソン『甘美なる来世へ』[amazon] [bk1]が気になった。
Unforgiven (1992)
監督:クリント・イーストウッド
[amazon]
★★★★
『ミスティック・リバー』の予習でもしようかといまさら観たら面白かった。
西部劇が終焉を迎えた地点で演じられる西部劇、あるいは「西部劇の墓標」。ウェスタン版「ドン・キホーテ」みたいな感じもある。(伝記作家も出てくるし)
西部劇からヒロイズムと神話性を剥ぎ取ったら何が残るだろうか。そこにあるのは薄汚い殺しでしかないだろう。引退したよぼよぼのガンマン、クリント・イーストウッドはそれを暴露しながら、すべての罪悪を引き受けて去っていく。
老いたヒーローの花道として、これ以上の舞台を考えつくのは難しいと思う。
画竜点睛を欠くとすれば、イーストウッドがその後も平然と『マディソン郡の橋』とかに出演していることかもしれないけれど。
The Man Who Shot Liberty Valance (1962)
監督:ジョン・フォード
[amazon]
★★★★
『スミス都へ行く』 meets ウェスタン。クレジット上はジョン・ウェインが筆頭だけれど、物語の主役になるのは西部へやって来た理想主義の弁護士、ジェイムズ・スチュアート。彼が民主主義の理想を熱く語りはじめると、一気に「アメリカの神話」を見ているような気がしてくる。
法と秩序を奉じる弁護士が、無法者が幅をきかせる未開の地を訪れるといえば、フォークナーの『サンクチュアリ』もそんな感じの話だった。結末は全然違うけれど。
リー・マーヴィンの演じる「リバティ・バランス」の行動がいかにも絵に描いたような「無法者」で、ほとんどパロディのように見えたりと、まじめに観るには乗り切れない部分もあるけれど、俳優の貫禄だけでも愉しめる。ジョン・ウェインやリー・マーヴィンがほんの時折見せる「早撃ち」もやはり格好良い。
『許されざる者』とはまた違った角度で、西部劇の終焉を静かに受け止めるような映画。全体が回想形式で、西部の「伝説」は実をいうと……と突っ込みを入れる視点も用意されている。
『ミスティック・リバー』関連記事総まとめ(MALPASO WORK) 映画は明日公開。
文庫発売一覧によると、津原泰水『ペニス』が文庫化(双葉文庫:2月10日発売予定)。駄目男小説の金字塔!だと思うので未読の人はぜひ。
あと早川書房2月の刊行予定によると、チャック・パラニューク『チョーク!』が2月上旬に発売。
『キネマ旬報』2003年度ベストテン作品決まる 洋画はベストテン作品をほとんど観ていることに気づく。
映画に関するコラム集、注目の撮影監督、脚本家など。執筆量が多いのは樋口泰人と長谷川町蔵あたりかな。比較的ウェブで文章を見かけるライターが多いせいか、さほど目新しい視点のコラムはなかったけれど、長谷川町蔵が指摘している、IMDbの整備によって、監督や主演俳優以外のスタッフのフィルモグラフィーを把握して作風に注目できるようになった、というのは確かにそうかもしれない。
撮影監督を紹介した記事では知らない名前が挙がっていて興味を惹かれた。エド・ラックマン(『ヴァージン・スーサイズ』『エデンより彼方に』)、ロドリゴ・プリエト(『アモーレス・ペロス』『8 Mile』)あたりは注目したい。以前、eiga.comで撮影監督特集の記事があったけれど、それとはかぶらない顔ぶれが紹介されている。
中原昌也のコラム「映画にオチは要らない!」(ネタばらしの嵐なんだけど大丈夫だろうか)は、シャマランの『アンブレイカブル』『サイン』を、『シックス・センス』での「オチ」至上主義からの脱却として評価している。僕の感想では、『アンブレイカブル』はきちんと「オチ」が決まった作品で、『サイン』は決めようとして外した作品じゃないかと思っている。外したのか全部シュールなギャグなのか、よくわからないのがシャマランなんだけど。
Mystic River (2003)
監督:クリント・イーストウッド
★★★
前作『ブラッド・ワーク』(原作『わが心臓の痛み』)に続いて、イーストウッドと脚本のブライアン・ヘルゲランドのコンビによるベストセラー・ミステリー小説の映画化。
良心的な映画なんだろうけど、物語を台詞で説明している部分が多い。デニス・レヘインの原作小説を尊重したということなんだろうか。原作は出た当時、たしか天童荒太『永遠の仔』やロレンゾ・カルカテラ『スリーパーズ』(映画版はケヴィン・ベーコンつながり)など、少年時代の虐待が現在の殺人劇を呼び起こす……というトラウマものの隆盛に辟易していたので、結局読んでいないのだけれど。
主演扱いのショーン・ペンとともに、実際にはケヴィン・ベーコンの演じる刑事も同格の主人公になっている。警察官のケヴィン・ベーコンはあくまでも法の枠内で正義を遂行しようとする人物で、一方、実の娘を殺された元アウトローのショーン・ペンは、法を踏み越えた自警団的な行動で殺人者を突き止めようとする。クリント・イーストウッドの当たり役、『ダーティハリー』のハリー・キャラハン刑事は、警察官でありながらその立場を踏み越えた「私的制裁」によって正義を実現するヒーローだった。このふたりはその「ダーティハリー」の二面性、「法の遂行」と「私的制裁」を代表しているように見える。(この作品中の場面と同じく、ハリー刑事が「さそり」を射殺するのも川辺だった)
脚本にはクレジットされていないものの、インタビュー記事によると元々イーストウッドがレヘインの原作を気に入り、脚色にもかなり意見を出しているとのこと。『許されざる者』もそうだったけれど、物語においてヒーローが正義を遂行するというのはどういうことだろうか、またそれは果たして可能なのだろうか、ということを問い直している作品だと思う。
アイデン&ティティ (2003)
監督:田口トモロヲ
★★★
いわゆる「バンドブーム」の片隅で浮き沈みした主人公を描いた青春映画。
映画の冒頭に、「バンドブーム」の渦中にいた人物たちが当時を振り返るインタビューが挿入されるのだけど、名前の紹介が出ないので顔を見ても半分程度しか誰なのかわからなかった(エンドロールでは名前が表示される)。まずそこでつまづく。これが全部わかる客層をターゲットにしているんだろうか。
バンドブームの話なら1990年前後が舞台なのだろうと思うけれど(一番売れた記憶のある「たま」のシングル「さよなら人類」の発売が1990年らしいので)、予備知識がないこともあって画面を見ても時代設定がわからず、劇中でどのくらい年月が経過しているのかも把握できない。主人公たちのバンド「スピードウェイ」が事務所で雑誌記者のインタビューを受ける場面では、雑誌『Hanako』の2003年発売の号が背後に見えたけれど(たまたま自分で購入したことのある号なのでわかった)、まさか2003年になっているとも思えない。特定の時代を振り返ったり、時代の移り変わりを描いたりしたいのなら、もっと時代背景や時間の経過をはっきりと示す必要があるように思う。
映画の語り口は野暮ったいモノローグが多いし、ヒロインを演じる麻生久美子の台詞の棒読みぶりにも驚いた。(これは皮肉でなく、ヒロインの実在感を薄れさせるためにわざとそうする戦略だったのかもしれない)
主人公にだけ見える「ボブ・ディラン」が登場して、ハーモニカに歌詞を乗せて励ます。これはウディ・アレン脚本・主演の『ボギー!俺も男だ』で、映画おたくの主人公の視界にハンフリー・ボガートのトレンチコート姿がちらつくのと似ている。でもボガートの『カサブランカ』なら誰でも知っているけれど、ボブ・ディランの歌詞を隅々まで憶えて、この趣向ににやりとできる観客はどのくらいいるんだろうか。などと思いながらも、そんなマニアックな趣向を平然と貫き通されて、エンドロールの時にはつい「ボブ・ディランって良いかも」という気になってしまった。(その意味では成功しているのかもしれない)
脚本は売れっ子の宮藤官九郎。……なんだけど『ピンポン』の時といい、原作付き映画のときにはあまり魅力が出ていない気がする。
Zelig (1983)
監督:ウディ・アレン
★★★
ウディ・アレン自作自演の偽ドキュメンタリー法螺話。何だかオーソン・ウェルズの『フェイク』みたいだ。基本的にワンアイディアもので、歴史映像の中に紛れ込むという手法は後の『フォレスト・ガンプ』などで派手に使われていたから、さほど新鮮味はない。
Laura (1944)
監督:オットー・プレミンジャー
★★★
なかなか映像の見られない幻のフィルム・ノワールのひとつ、かと思っていたら、いつのまにかビデオが出ていたので視聴。
内容はロマンス要素の入ったミステリで、特にすごいものではないと思う。クライマックスの場面では刑事がわざわざ不自然な行動を取って「危機」を招いていたりとか、全体に脚本がぎこちない。
「ローラの死」から幕を開けるという語りの形式が可能になったのは、やはり『市民ケーン』(1941)の影響があるんだろうか。
「ローラ」という女性の死で幕を開けるドラマといえば、デイヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』がある。それ以外にもこの作品は『マルホランド・ドライブ』にも通じるところがあるかもしれない。
「たまとわ(映画とアニメのよしなしごと)」に、長谷川町蔵氏の『ミスティック・リバー』評への反論が出ていた。
僕は『ミスティック・リバー』をイラク戦争と結びつけて論じるのは特殊な「裏目読み」とは思わないのだけど(実際、僕自身も似たようなことを考えながら観ていた)、長谷川氏の記事を読んだとき、ショーン・ペンはむしろティム・ロビンス以上にイラク反戦運動で目立っていた俳優なんだけど……と突っ込みを入れたくはなった。映画を観た限りでも、ショーン・ペンの「私刑」よりも警官役のケヴィン・ベーコンのほうに肩入れしていたように思える。「映画≠日誌」の『ミスティック・リバー』評が、
この映画や『許されざる者』に目撃された甚だしくも歪んだ「正義」に拍手を送るものなど何処にもいないはずです。
と指摘しているのに同感。(ここの文章は「星条旗のありか」に着眼点を置いていて面白い)
もっとも、上の長谷川氏の記事は映画製作者の意図よりも、どうしてこれがアメリカ国内で評価を集めているのかに注目した文章で、アメリカ国内の賞レースでショーン・ペンが躊躇なく「主演」として賞賛されているようなのを見ると、それほど的外れではないのかもしれない。(ちなみに、『ミスティック・リバー』はフランスのカンヌ映画祭に出品されたものの無冠に終わった)
アメリカの映画はまずアメリカ国内向けに作られるものだろうから、9.11やイラク戦争と結びついて見えてしまう作品も多い。そういう論評は誰もが書くからそろそろ飽きてきたので(なにしろ『ブルース・オールマイティ』のようなぬるいファミリー・コメディにさえ政治風刺を読み取ることが可能だ)、僕自身は最近なるべく書かないようにしている。
といえば、外せないのは『パットン大戦車軍団』(1970年)ですかね。見直してみようかな。
Cafe OPAL の『ミスティック・リバー』評がよくまとまっている。
Pleasantville (1998)
監督:ゲイリー・ロス
[amazon]
★★★
公開間近の『シービスケット』の予習でもしようかと視聴。ゲイリー・ロスが製作(共同名義)・監督・脚本を兼ねているので、かなり彼の作風が出ている作品だと思われる。
トビー・マグワイア(『スパイダーマン』)とリーズ・ウィザースプーン(『キューティ・ブロンド』)の姉妹が、TVの白黒ファミリー・ドラマ"Pleasantville"の世界へ入り込む。ふたりともその後ヒット作の看板を背負うスターに出世している俳優なので、いま見ると鋭い人選。
カラーの世界からモノクロの世界へ入り込むのは、『オズの魔法使』の逆バージョンだろうか。色のない世界は、「赤狩り」に象徴される、1950年代の郊外住宅地における均一で窮屈な価値観を反映している。そこに現代の姉妹が入り込んで、価値観の解放と「色」をもたらしていくという趣向。図式的といえばそうだけれど、映像には一発アイディアの面白さがあって感心する。主人公たちが『ハックルベリ・フィンの冒険』や『ライ麦畑でつかまえて』といった名作文学を口承で伝えたり、迫害者たちによって本や絵が燃やされるところは『華氏451度』を連想させる。
現実世界では役立たずだった主人公が、架空の世界へ入り込んで英雄になるという設定は、『ドラえもん』の劇場版を思い出してしまう(トビー・マグワイアは「のび太君」。『スパイダーマン』でも似たような役柄だった)。こういう話は幼い頃からの刷り込みもあって懐かしい。監督のゲイリー・ロスをはじめとする製作陣は、良質のファミリー映画を目指している人たちなんだろう。(音楽のランディ・ニューマンという人選もそんな感じがする)
主演のトビー・マグワイアは『スパイダーマン』へと続く「持ち役」なので危なげない。他では、トビー・マグワイアと恋仲になるマーリー・シェルトンが良いと思った。この人は「ロマンティック・オ・ゴー!ゴー!」の特集ページによると、典型的なブロンド美女のせいか現代の青春映画では悪役チアガールの役を振られることが多いらしい。確かにこういう外見の人をヒロインにするのは、『カラー・オブ・ハート』のクラシック世界においてようやく「あり」になるのかもしれない。
The Night of the Hunter (1955)
監督:チャールズ・ロートン
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★★★
ロバート・ミッチャムが不気味な伝道師を演じるスリラー映画。南部の悪夢。伝道師が実は人殺しという、善悪の裏返る構図が面白いのかな。筋書きは鬼ごっこなので、どちらかといえば雰囲気勝負の作品。街灯に照らされた人影が部屋の壁に差し込んでくるところなど、印象的な場面がいくつもあった。
Duel (1971)
監督:スティーヴン・スピルバーグ
★★★★
スピルバーグ初期のTV映画。低予算映画のお手本のような一本道スリラーの傑作。
たぶん初見だと思うのだけど、車を運転できるようになってから観たのはより感じがわかって良かったかもしれない。
日常世界の狭間に悪夢を映像化してみせる手腕(原作・脚本は『ミステリー・ゾーン』などで知られるリチャード・マシスン)、最初の停車場面でそれとわかる、「敵」のトラック運転手の顔を最後まで見せない趣向、警察の助けを呼ぶ可能性を潰していく手続き、どれも素晴らしい。二度目の停車場面で安易に主人公の独白で心理を説明しているところさえなければ、文句なしの出来。
まったく内容のないスリラーを技巧的に撮るということではヒッチコックの映画、人格化した機械と死闘を繰り広げ、家に電話をかけても「コミュニケーションの失敗」に終わる孤独感は、スケールは全然違うけれどキューブリックの『2001年宇宙の旅』をどこか連想させる。
荒木飛呂彦の新連載『スティール・ボール・ラン』感想(インターネット殺人事件) いまさら気づいて『少年ジャンプ』買おうと思ったら、近くのコンビニではとっくに売り切れていた。
マルティン・シュリーク 不思議の扉:アンコール上映 銀座シネ・ラ・セットで1月17日〜1月23日。今日まで気づかないでいたらもう明日で終了だった。最終回の『ガーデン』くらい見に行けるかなあ……。(その銀座シネ・ラ・セットは1月31日で閉館になるらしい)
追記:結局、見に行けなかった。
Seabiscuit (2003)
監督:ゲイリー・ロス
★★★★
大恐慌時代の伝説的な競走馬の実話を、フランク・キャプラ風の王道アメリカ映画にアレンジした作品。これといった強烈なフックはないけれど、こういう堅実な佳作が作られるのも悪くないんじゃないだろうか。成功の積み上げ→不運な挫折→再び立ち上がる、という『素晴らしき哉、人生!』の物語形式を踏襲している(時代背景も重なっている)。
これをひねくれたセンスの法螺話にするとコーエン兄弟の『オー・ブラザー!』みたいになるのだろうけど、ゲイリー・ロス(製作・監督・脚本)の作風はもっとまじめなので、「わかる人にだけわかればいい」という作り方はしていない。そのためか上映時間は多少長めで、2時間にまとめてほしかった気もするけれど、レトロな映像や小道具もきわめて端正で隙がなく、退屈はしない。心地よい気分で劇場を後にすることができた。
ゲイリー・ロスは脚本家出身。前の監督作『カラー・オブ・ハート』に続いて良質のファミリー映画を志向しているようで、時代の先端を行く映画作家だとかでは全然ないけれど、信頼できる気がする。スティーヴン・ザイリアンとか、本業は脚本の人がたまに監督作を撮らせてもらえると結構良い映画を作る印象がある。
恒例の年間総括特集号。「私のベスト3」アンケートを拾い読みしたら、若島正氏がジェフ・ニコルスン『美しい足に踏まれて』とパトリック・マグラア『愛という名の病』を挙げていて嬉しい。どちらも他では黙殺されたかのように話題にならないので……。もう一冊の『殺意のシナリオ』も読もう。
それから池上冬樹氏が『このミス』掲載の矢口誠氏によるノワール総括に厳しい論評を寄せていた。「ノワール」という標語が市民権を得たのはやはりエルロイと、日本では馳星周の活躍によるところが大きかったはずだ、というような論旨。これは矢口氏が(たぶん意図的に)エルロイと馳星周に言及していないことへの反論なのだろうけれど、あの矢口原稿で面白かったのは「ノワール」は後付けで発見されたジャンルだからと断ってそれ以前と以降で区別して個別作品を論じていることで、前座の歴史的経緯、「ノワール」という標語を誰が流行らせたかという点は、無意味ではないにしても根幹ではないように思う。(池上氏の批判が妥当かどうかは、当時の状況をよく知らないので判定できないけれど)
追記:杉江松恋は反省しる!の1月25日付でも言及あり。
年間ベスト投票など。ここの人気投票は僕みたいな部外者からすると「何が『秘宝』っぽいか」の確認に終わっていてあまり興味が湧かない(と言いながらも拾い読みをする)。当然『キル・ビル』が人気。
町山智浩の名作巡礼は『ヘザース/ベロニカの熱い日』。『ブレックファスト・クラブ』(これはいま見ても面白い傑作)に代表されるジョン・ヒューズの健全なハイスクール映画を葬り去り、後のコロンバイン高校銃撃事件への補助線にもなるブラックな作品という位置付け。もともとキューブリックに監督してもらいたくて書いた話だというのが面白い。キューブリックは『シャイニング』(ホラー)『フルメタル・ジャケット』(ヴェトナム戦争もの)と、あるジャンルの流行に終止符を打つような傑作を作ってきた監督だから、とのこと。
いまさらながら芥川賞の絡みで、「cake@小説」で紹介されていた「純文学という名のギルドの死」という文章を読む。
津原泰水の『ペニス』(『小説推理』に連載された)のような堂々たる文芸小説を黙殺した「純文学」文壇は閉鎖的(ギルド的?)ではないかという話。
どこだったかで、「結局"純文学"は何を指すんだろう」「文芸誌に掲載された作品(作家)じゃないの」みたいな談義があったのを思い出した。それなら文芸誌に掲載してしまえばどうなるか、というのが舞城王太郎の『群像』掲載→三島賞への道だったのだろうけど。
これと関連して、評論家筋で『ペニス』や『アラビアの夜の種族』を絶賛していた大森望と豊崎由美の「文学賞メッタ斬り!」(Excite Books)でも、文芸誌に書いていないと純文学系の賞では認知してもらえないという話が出ていた。(ちなみに僕は『ペニス』は素晴らしいと思うけれど『アラビアの夜の種族』は文章が合わずに読めなかった)
もともと、自分の評価する作品が賞や売上で報われるとは限らない、むしろ報われたら運が良いと考えているので(映画でいえば、アカデミー賞受賞作が本当に面白いことなんて珍しいでしょう?)、例えば『ペニス』が黙殺されたからといってそれほど騒ぐ気にはなれない。
ただし、文学賞の話でいえば芥川賞みたいな「新人賞」じゃなくて、単純にその年で一番優れた小説を選出する賞(英国のブッカー賞みたいなの)が注目されたほうが筋が通っているはずなのにと思う。その位置に近そうなのは谷崎潤一郎文学賞(参考:受賞作紹介)あたりかと思われるのだけど、いまひとつ知名度に乏しい。
「ヘルシー女子大生日記」(1月18日)で紹介されていた、いまの男の子オタク文化は一人称の「俺」と「僕」で分類できるのではないか、という話が面白かった。「俺」派は『映画秘宝』系で「僕」派は『ファウスト』系で、さかのぼれば村上龍と村上春樹に行き着くのではないかとか。「俺」派のミステリ系作家の名前が出ていないのでひとり挙げると、戸梶圭太はぴったり該当するだろう。アメリカ映画界でいうと「俺」派がタランティーノ、「僕」派がティム・バートンになるのかなあ。
そういえば阿部和重が『インディヴィジュアル・プロジェクション』について、「村上春樹と村上龍の間でどういう作品が書けるかということで構想したもの」と自分で解説していたのを思い出す。
Dave (1993)
監督:アイヴァン・ライトマン
★★★★
大統領の影武者として招かれたはずの男が、成り行きで政務を代わることに……という、素朴な善人が政治家になる『スミス都へ行く』の現代版コメディ。主人公(ケヴィン・クライン)の推進するのが失業者の雇用を拡大するニューディール政策なのもフランク・キャプラ的で、ちゃんと議会で演説をする場面がクライマックスになってもいる。
そういえばロバート・A・ハインラインの『ダブル・スター』も、代役が政府首脳を務める話だった(SF小説なので合衆国ではなく太陽系連合政府だとかなのだけれど)。まあ、それ自体はよくある話かもしれないけれど、この映画は主人公が政務を執る場面、あるいはファーストレディ(シガーニー・ウィーヴァー)とロマンスが生まれるところなど、具体的なエピソードがきちんと示されていて、お伽噺を投げ出すのではなく細部まで丁寧に作り込まれているのがわかる。ありえない設定の政治風刺コメディを落ち着いた綺麗な画面で撮るという、『チャンス』みたいな感じもある。
大統領のファーストネームは「ビル」なのだけど、この映画は1992年末のビル・クリントン大統領当選より前から製作に入っていたとのこと。大統領が不倫中に「腹上死」するという設定も何か「不適切な関係」事件を連想させて、脚本のゲイリー・ロスはただ者ではないと思わせる。
劇中のTVニュース番組には実際のキャスターやゲストが出演して「本物」感を高める趣向になっているようで、特に「オリヴァー・ストーン」が出てくる場面には爆笑した。これは必見。
第61回ゴールデン・グローブ賞発表。『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』と『ロスト・イン・トランスレーション』が人気。対抗馬の『ミスティック・リバー』が陰鬱な内容で広く受ける作品でもなさそうなので、『王の帰還』のオスカー受賞もありうるかも。
NHK衛星第二で「〜自らを語る」と題して放送されている映画俳優・監督のインタビュー番組。
1月12日放送のニコラス・ケイジは、フランシス・フォード・コッポラの甥ということで一族の話なども出ていた。あまり印象に残っていない。1997年の『フェイス/オフ』以降、アクション映画に率先して出演してきたのはどういう事情なのか尋ねてほしかった気もする。(追記:『リービング・ラスベガス』(1995年)でオスカーを獲って以降、これまでとは違うことをやりたくなった、というような発言があった)
1月13日放送。親が米軍関係者なので引越しを繰り返し、読書と演劇に目覚めた。たぶん正統派の演劇少女パターン。ロバート・アルトマン監督の『ショート・カッツ』、それからトッド・ヘインズ監督の『SAFE』に出演したのがキャリアの転機になったとのこと。
昔の(たぶん髪を染めていない)写真を見たら、本当に人参のような色の赤毛で驚いた。
1月14日放送。デビュー作『真実の行方』でのサイコ青年の演技でいきなり大評判を取ったシンデレラ・ボーイ(アカデミー助演男優賞候補にも選出)。そのときのオーディション・ビデオが伝説となって業界中に出回ったらしい。
イェール大学で東洋史専攻、一時期仕事で大阪に住んでいたこともあり、日本語の会話ができる。司会者にせがまれて、日本語で数字を一から十まで数えてみせていた。
『ファイト・クラブ』の話が出たときは会場の拍手がひときわ熱かった。「俺達の時代の映画だ」という認識が共有されているのだろうか。
『フリーダ』の脚本はほとんど俺の書いたものだ、と主張していた。脚本家組合に入っていないのでクレジットされなかったらしい。
受け答えの喋り方はかなり気障な感じ。
1月15日と16日の2日にわたって放送。1日目は『サタデー・ナイト・フィーバー』の70年代から低迷期の80年代、2日目は『パルプ・フィクション』での復活以降。
タランティーノの自宅に招かれ、「いまのあなたはキャリアを無駄にしている。70年代のあなたは素晴らしかったのに。俺が何とかしますから」と熱く説かれて出演を決意。スターとして返り咲くことになる。何か良い話だ。
この翌週も番組の放送があったけれど、そちらは未見。
『シティ・オブ・ゴッド』(監督・脚色・撮影・編集)の選出が意外。あと『イン・アメリカ 三つの小さな願いごと』の主演女優はサマンサ・モートンではなくサラ・ボルジャーではないかと主張したい。