8 Mile (2002)
★★
ご存知「いまや最強のゴルファーは黒人で、最高のラッパーは白人だ」とも言われる白人ラッパー、エミネム主演・音楽の企画をカーティス・ハンソンが監督した映画。
僕はラップの入った曲はみんな同じように聞こえるので興味がない、という程度の薄い認識しかないのだけれど、この映画の「ラップ勝負」は単に相手を激しく罵倒して人格をおとしめたほうが勝者になる、というふうに描かれていて、そんな足の引っ張り合いみたいなものが魅力的とはとても思えない。少なくともこういう企画では「まあ、ラップもたまには悪くないかもな」くらいに一瞬でも思わせてくれないと失敗ではないだろうか。主人公が勝ちをつかむ過程も「そうさ、俺はホワイトトラッシュだ」と「ありのままの自分」をさらけ出すことがきっかけになる、という凡庸なもの。
登場人物も魅力に乏しい。特に主人公といつもつるんでいる仲間のうちのもうひとりの白人、「間抜けなチビデブ」の設定の人物は、ただ主人公を安全地帯に置いてかわりにトラブルを招くためにいるような人物で、こういう物語の都合のためのつまらない人物造形を見るのは気分が良くない。
エミネムのミュージック・ビデオでも眺めていたほうが良さそうだ。
今年一番のblogを決めてみようという企画らしい。投票期間は11月30日まで。
ノミネートを募りながら、「blog」がどこまでの範囲を指す用語なのか(便宜的にでも)定義されていないのが気になる。あと、初めて見るサイトがほとんどなので何か一言紹介文でも付いていると良いなと思った。
……と思ったら、すでにひと通り閲覧してコメントを付けているかたがいた。労作。
パラマウント・ピクチャーズより、11月21日発売予定。[amazon]
1993年の作品。ハリウッドの「脚本直し屋」として知られるスティーヴン・ザイリアンの初監督作。子役を主人公にした映画のお手本のような秀作だと思う。撮影は名匠コンラッド・L・ホールなので画面の質感も素晴らしい。(アカデミー撮影賞候補)
Przypadek (1981)
★★★
DVDで発売された「キェシロフスキ・コレクション」より。1981年の作品。
人生のある時点に「列車に乗れたか、乗り遅れたか」でその後の運命がどんなふうに枝分かれするか。Cafe OPAL Reviewsの『偶然』評がよくまとまっているのであまり付け加えることがない。
この映画ではその「列車に乗る」場面以外にも随所で、多くの選択肢のなかからたまたまこの出来事が選ばれた、という「可能世界」が示唆されて、世界は些細な偶然の連鎖で動いているという視点を感じることができる。そのあたりはたしかに他の監督の映画にはない独特の感じ。
当時のポーランドでは公開禁止になった過激な作品らしい。ポーランド現代史に詳しいと面白いのかもしれないけれど、知らない者からすると「政治的な立場や思想の違いなんて、偶然の巡り合わせ程度のものにすぎないんだよ」という教訓を超える内容ではなかったように思えた。
まだ読めていない。粗筋を眺めるかぎりではミステリー風味+アルトマン的群像劇、みたいな感じ?
『毎日新聞』掲載の沼野充義氏の書評も出ていた。(後半の展開も書いているので注意)
blog of the Yeah!にノミネートされているウェブサイトを少し拾い読みしたうちでは、
というところが内容・デザインともに良かった。世界の変なニュース記事を収集・翻訳して載せているところらしい。「サタニック・ウェブデザイン概論」とか、よくわからないけど笑える記事がたくさん。
他にいくつか読んでみた印象では、いわゆるblogツールを使ったウェブサイトの傾向として、文字が小さい・背景色が濃い・リンクが多くて構成がわかりにくい、というところが多いみたいで、個人的にはどうも読みにくい感じがする。僕は読みにくいレイアウトだとすぐブラウザでスタイルシートを無効にするのだけれど、よほど気に入っているところでないとそこまでして継続的に読む気にはなれない(0-0 empateとか)。
ある小説や映画の作品を賞賛するときに、「この良さがわからないやつは馬鹿だ」と煽りをかける文章と、その作品のどんなところが良いのかを具体的に論証して伝えようとする文章があったとする。そのどちらが情報として参考になり、また読者はどちらの言葉を素直に受け止める気になるだろうか。
ということを、映画批評家の大寺眞輔という人が書いているウェブサイト「Dravidian Drugstore」を読んで思った。ここの例えば11月9日付では「ダルデンヌ兄弟」の映画が賞賛されているけれど、この良さがわからない観客は「映画に対する本質的な冷感症を疑われて然るべき」だとか、ドライヤー特集に日参しながらダルデンヌ兄弟の特集を見逃すような者は「単に有名作品をグルメとして鑑賞しているだけ」だとかの脅し文句が並ぶわりに、作品そのものに言及した部分は「これだけの形式的な高みに達した作品は、他にちょっと見あたらない」という程度で、何とも具体性に乏しい。(これで興味を持てと言われてもちょっと難しいと言わざるを得ない)
こういう書き方が良くないと思うのは、読者に無用の反感を抱かせる(その結果、メッセージを伝えるのに失敗する)というだけでなく、批評書きとしてその作品の良さを言葉にする努力を放棄している(=怠けている)ように見えるからだ。仲間内では通じる文章なのかもしれないけど。
同様に「シネフィル的」(?)な価値観を共有しているように見えても、古谷利裕氏の「偽日記」はそういう嫌味な書き方をしていた記憶はない。
『スウィート・ヒアアフター』公開当時のインタビュー記事。アトム・エゴヤンは例えば『スローターハウス5』や『レザボア・ドッグス』などのような時間軸を解体した映画を撮る監督なのだけど、この記事では、ストーリーのアウトラインを後から分解して構成する方法は採っていない、と発言していてちょっと意外だった。(でも『スウィート・ヒアアフター』の場合はラッセル・バンクスの原作があるのだけど)
タランティーノの盟友、ロジャー・エイバリー監督のインタビュー記事。
Spider (2002)
★★★
パトリック・マグラア原作・脚本の『スパイダー』をデヴィッド・クローネンバーグが監督。クローネンバーグは『裸のランチ』などを見ても、「狂人の主観を映像にする」ことに興味のある人のようで、マグラアの例によって「信用できない語り手」の原作と共鳴したのは納得できる。
原作小説の『スパイダー』もそうなのだけど、パトリック・マグラアは父親が精神科医で少年時代から本物の精神科患者たちと触れ合って育ったという経歴の作家なので、精神病者を主人公にするとあまり荒唐無稽な作り事は書けないのか、きわめて真面目な内容になってしまう。なのでこの映画版もそんな真面目な内容。
Ordet (1955)
★★★
渋谷ユーロスペースの「カール・ドライヤー特集上映」にて。何となくサイレント映画かと思い込んでいたのだけど、普通に台詞と音楽の入った白黒映画だった。
神学にのめり込んで自分を預言者だと言い張る青年、宗派の異なる家同士の反目、そして生と死の「奇跡」。これはさすがに無神論者かつキリスト教に興味のない僕にはぴんとこない内容だった。
宗教画のように端正な画面と、デンマークでは客にとりあえずコーヒーを勧めるのが習慣らしくコーヒーを飲む回数が多かったのが印象に残っている。
端正な白黒映像で過去の「神話」を回顧することでは『アラバマ物語』、「奇跡」を映画内で本当に実現してみせることでは『まぼろしの市街戦』のほうが好きかな。
先日言及した「Dravidian Drugstore」の11月17日(11月16日も?)で反応と思われる文章が書かれていた。論旨のはっきりしない文章なので対応のしようがないけれど。それにしてもウェブサイトを開設して以来「幼稚」なんて書かれたのははじめてだな。
一点だけ書いておくと、自分が映画や映画批評に通じているとは全然思わないし、今回書いたことはそうではなくてもっと一般的な文章の書き方の問題なんですよね。
もともと、他人の煽り論法をそのまま批判するのはそれ自体が「煽り」になるという根本の矛盾をはらんでいることもあり、これ以上引っ張るつもりはないです。
【追記】この件は後で大寺氏からフォローがあり、同時期に別の場所で書かれた悪口に対する反応を誤解してしまっていただけと判明しました。(11月20日も参照)
Kes (1969)
★★★
英国の映画といえば辛気臭い炭鉱の町、という図式を定着させたケン・ローチ監督の代表作(この作品での表記はケネス・ローチ)。いじめられっ子の少年が鷹の雛を飼育する。
この映画で印象的なのは、クライマックスが「少年が鷹を育てる」行為そのものではなく、主人公の少年が鷹を育てたことを学校の教室で発表する場面に置かれているところ。いつも人に軽んじられている貧相な顔の少年が、教室の誰もがその話に耳を傾けるような何かを達成した、その主人公のひとときの内的な達成に焦点が当てられている。
最近の作品『SWEET SIXTEEN』と同じく、出口のない苦い結末を迎える話だけれど、決して「残酷」という感じがしないのは、少年の夢の象徴である「鷹」が最初から獲得し得ないもの、触れることはできても飼い馴らすことはできないものとして描かれている(つまり破局が予感される)からだろうか。
そういえば「不思議ちゃん」という表現はいつごろから誰もが使うようになったんだろう。何となくナンシー関が使いはじめた用語のように認識していたけれど、手元に文献がなくて実際にそうなのかいまひとつ確証がない。(一応、香山リカも『エミリ−・ザ・ストレンジ』書評で「故ナンシー関氏言うところの“不思議ちゃん”」と書いているので、合っているんだろうか)
仮に「不思議ちゃん」の命名者がナンシー関で良いのだとしたら、テレビに映る人物の自意識と客観像のずれに突っ込みを入れる、あるいはテレビを見ていてもやもやと感じる違和感に適切な「命名」をしてすっきりさせてくれるという、ナンシー関の芸風にぴったりと合った功績だと思う。いつだか忘れたけれど、はじめてこの言葉を目にしたときは「うまいこと言うなあ」と心底感心した。
関連するかどうか、
という文章を見つけた。戸川純、椎名林檎などを「不思議ちゃん」系の女性歌手として位置付ける文章。個人的にはナンシー関の印象が強いせいか、「不思議ちゃん」というとテレビタレントに適用するもの(固有名詞を挙げると「山瀬まみ」)という感じがして、そこから外れるといまひとつ実像がわからない。
「Dravidian Drugstore」の大寺眞輔さんから丁寧なメールをいただき、僕の読んだ文章は別の場所で書かれた悪口に対してのものだったそうで、つまりこちらの単なる誤解だったようです。お騒がせして失礼しました。(詳細は大寺さんの11月20日を参照)
僕が批判の対象にした文章についても補足の説明があり、あえて「偏狭なシネフィル」の典型をなぞってみせる、仲間内に向けた目配せの表現だったと受け止めました(要するに「ネタだった」ということか)。そこまで見抜くのは部外者には難しいだろう、という点は措くとしても、二度書いた文章がいずれも空振りだったというのはあまり格好の良いものではないですね。
Amazon.co.jpに予約注文していた『まぼろしの市街戦』DVDが到着。
フランス語(+英語・ドイツ語)のオリジナル版に加えて、定評のある日本語吹替え版も収録。作品や監督に関する解説文も付いていて、なかなか充実した内容だと思う。
『リオの男』などの娯楽活劇の監督として知られていたフィリップ・ド・ブロカが不意にこういう風刺的な作品を撮ったせいか、公開当時のフランスでは評判にならず、ヴェトナム反戦運動のさかんだったアメリカの学生たちによってカルト傑作として祭り上げられることになったらしい。『キャッチ=22』とか『カッコーの巣の上で』と似たような文脈なんだろうか。
Phone Booth (2002)
★★★
コリン・ファレルが街角の電話ボックスに閉じ込められるサスペンス映画。
ニューヨークの一角を舞台にした限定状況スリラーといえば、『パニック・ルーム』もそうだった(ちなみにどちらもフォレスト・ウィテカーが出演している)。『パニック・ルーム』の失敗ぶりに較べるとこの『フォーン・ブース』が成功とはいえないまでもそれほど悪くないのは、「電話ボックス」という着想が良かったということだろうか。
犯人がコリン・ファレルを狙う動機が特に用意されていないので、単にそういう映画にしたかったからという製作側の都合に近い。この映画に関してはもともと人工的な趣向なのでさほど気にならなかった。(例えば『そして誰もいなくなった』のような古典も似たようなものだし)
劇中の時間に切れ目がなく、実際の時間経過と一致する設定。出ずっぱりでほとんど独り舞台をしのぎきったコリン・ファレルはお疲れ様という感じ。
2003年の書籍を振り返る。有名人の選ぶ「今年の3冊」アンケートや各分野のコラムなど。
以前に斎藤美奈子『趣味は読書。』感想で書いたように、岡野宏文と豊崎由美のベストセラー本をめぐる対談が良かったので今年の分も読んでみる。今回は取り上げる本が片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』(未読)とかのせいか、単なる罵倒に終わっていて内容を論じるまでに至っていないところが多い。まあしかたないか。横山秀夫『半落ち』の話題も出ていたけれど例の考証問題と直木賞落選の話が主で特に新しい視点はなかった。もうちょっと他の話題作、『グロテスク』『カンバセーション・ピース』あたりの評価も読んでみたい。
その岡野宏文が今年の収穫として『エドウィン・マルハウス』[amazon] [bk1]を挙げてくれているのが嬉しい。あと、岡野宏文と豊崎由美が一致して、ダン・ローズ『ティモレオン センチメンタル・ジャーニー』[amazon] [bk1]という本を推薦していて気になる。風間賢二と豊崎由美が共通して挙げているのは『紙葉の家』『コレクションズ』『驚異の発明家の形見函』。
後半に宮台真司と速水由紀子の、主に最近の映画の情勢をめぐる対談。単なる頷き合いに終始しているところもあるけれど、最近のハリウッド映画は過去を回顧する話ばかり、1990年代は濃密なムーブメントがなかったので回顧の対象にすらなりそうもない、という観点は確かに気になる。
池上冬樹が紹介している『アメリカミステリ傑作選 2003』[amazon] [bk1]も読んでおきたい。
総じて、値段(1500円)ほどの情報量はなかったかな? メインコンテンツのはずの「今年の3冊」アンケートに、興味を惹かれる回答者が少ない&内容が薄く見えるのが気になる。
ルイ・ノゲイラ『サムライ ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』[amazon] [bk1]はフランスの映画監督、メルヴィルのインタビュー本とのこと。何となく日本で「ノワール」というと、この人の犯罪映画あたりを指すことが多かったような。 「勝どきCINEMA」の書評が丁寧で参考になる。
コメントも丁寧で参考になりそう。福田栄一『ア・ハッピー・ラッキー・マン』(光文社)、キャロル・オコンネル『天使の帰郷』(創元推理文庫)あたりが気になった。あと、怖いもの見たさで島田荘司『ネジ式ザゼツキー』(講談社ノベルス)とか。
歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文藝春秋)は騒ぐほどの作品とも思えないんだけど、ずいぶん話題になっているみたいだ。
桂島氏は『謎宮会』1997年のバックナンバーに寄稿しているのを見つけた。
『マトリックス』三部作は9.11以降、テロリストを格好良く描くことができなくなったために迷走したのではないかという考察。ついでに『キューティ・ブロンド/ハッピーMAX』評も面白い。映画を観なくても面白く読めてしまうような文章を書けるのはすごいなと素直に感心します。
The Eyre Affair (2001)
[amazon] [bk1]
★★★
書物が禁止されたレイ・ブラッドベリの『華氏四五一度』の世界とは逆に、文芸小説が唯一の大衆娯楽文化として尊重されている「パラレル英国」を舞台にしたコミック風の小説。筋書きの基本は主人公の捜査官が伝説の犯罪者と対決する「鬼ごっこ」的なもので、それよりも奇想天外な設定やガジェットを矢継ぎ早に繰り出すことに重点が置かれているという点では、同じくソニーマガジンズから紹介されているマイケル・マーシャル・スミスの小説と通じるかもしれない。
19世紀を舞台にしているわけではないけれど、「クリミア戦争がまだ終焉していない」という設定でヴィクトリア朝の文化が保存されているように見えるところは、いわゆる「スチームパンク」の変種と見てもいいだろう。実際に名前の登場する作家はブロンテ姉妹やディケンズなど19世紀の作家ばかりだし、小説が第一の大衆娯楽文化だったのもたぶんヴィクトリア朝の頃の話だ。
敵役がどちらかといえば物語を進行させるための駒に近くて魅力に欠けるなど、いくらか物足りない点もあるけれど、ここまで突き抜けた物語設定を平然と貫かれるとちょっと感心する。続編が出るのなら読んでみてもいいかな。
Identity (2003)
★★
豪雨の中、田舎のモーテルに集まった怪しげな面々。そこで『そして誰もいなくなった』風(実際に言及もされる)の殺人劇の幕が上がる。
とりあえず意外といえば意外な展開もあり、今年を代表する「バカミス映画」なのは間違いないけれど、この落とし方は結局単なるちゃぶ台返しなので特に持ち上げるようなものではないなあ。
連城三紀彦に似た趣向の作品があるけれど、こういうのが許容されるのはその連城三紀彦の小説とか、あるいはデヴィッド・リンチ(世界に名高い夢オチ映画作家)の映画みたいにエレガントな場合くらいなんじゃないだろうか。
The Rules of Attraction (2002)
★★★
ブレット・イーストン・エリスの1987年発表の小説を映画化。ドラッグとパーティーとセックス、虚ろな大学キャンパス生活を描いた青春群像ロマンス劇。
TV雑誌で連続ドラマの紹介をするのに使われるような「人物相関図」を思い浮かべながら観ていた。AはBのことを好き、BはCのことを好き……。誰とでも「やれる」はずなのに、本当に好きなただひとりの相手には振り向いてもらえない。それならどうすればいいのか。じゃあ「耐えろ」、というのがこの映画でたぶんもっとも多く聞かれる台詞だ。
監督・脚本のロジャー・エイヴァリーは『パルプ・フィクション』の脚本共同執筆者らしく、この映画でも逆回転をはじめとする時系列を操作する技巧が目立つ。そういえば同じ劇場(渋谷シネクイント)で『メメント』を観たのだったと思い出す。この映画は『メメント』ほど時間操作が自己目的化していなくて、小説的な語りの構造(「語る自分」と「行為する自分」に距離がある)とある程度合致していると思う。