Ararat (2002)
★★★
アトム・エゴヤン監督・脚本。全然駄目とは言わないけれど成功している作品ではないと思う。
エゴヤンといえば時系列を錯綜させたモザイク構造の作風が特徴的で、それはある「悲劇」を軸にして(最初はそれが何であるかを伏せて)その出来事に影響される周囲の人々の挿話を積み重ねるというものが多い。『エキゾチカ』(1994)ではその「悲劇」が個人の狭い範囲のものだったけれど、『スウィート・ヒアアフター』(1997)では「町全体の悲劇」になり、この『アララトの聖母』では「民族全体の悲劇」という規模に広がってしまった(『フェリシアの旅』(1999)は、僕の見方だとちょっと毛色の違う話)。でも「民族の悲劇」はやはり個人の物語でもあるわけで、そのために登場人物とアルメニア人の歴史を結びつけようとしてかなり無理が出てしまった感じがある。
話の基本は、作中のアルメニア系の映画監督(シャルル・アズナブール)が第一次世界大戦中のトルコによるアルメニア人虐殺を再現した映画"Ararat"を撮る過程を描く、というメタ映画の趣向になっている(シャルル・アズナブール→『ピアニストを撃て』→フランソワ・トリュフォー→『アメリカの夜』という連想をした)。実際に映される「アルメニア人虐殺」の場面は作中作のサロヤン映画で再現されたもの、つまり本物ではないという前提になっていて、撮影過程の場面では「映画的な嘘は許される」というような関係者の台詞も出てくる。映画は「歴史の真実」を主観的にしか再現することはできない、ということなんだろうけど、インテリ的な逃げの布石のようにも見える。実際、監督のエゴヤン自身(1960年生まれ)はこの作中の「映画監督」ほど歳を取っていないし、もちろん主人公格の青年ほど若いわけでもない。
作中作で取り上げられ、この映画の中心的なモチーフにもなっているアルメニア出身の画家アーシル・ゴーキー、その関係で映画の撮影にアドバイザーとして招かれる美術史の大学教授、その息子と義理の娘、さらに美術館のスタッフや税関の役人、といった人物が絡んでくる。このあたりの人物の設定や重ね合わせ方がいかにも、アルメニア人虐殺とゴーキーの絵画という「題材」が先にある作為的な感じに見えて面白くなかった。群像劇なので登場人物それぞれの抱えていた内面的な問題に明るい兆しを示して終わるのだけど、これも型通りに取ってつけたようで、エゴヤン監督の目的はあくまでアルメニア人の悲劇を多層的に描くことにあって、この登場人物たちの人生にはたぶん本当は興味ないんだろうなと感じた。エゴヤンの技巧的なところが裏目に出た作品ではないかと思う。
なんとなく、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』みたいなのをやりたかったのかな、という気もする。歴史的虐殺と時系列モザイク構造とメタフィクションということで。
主人公の義理の妹、マリ・ジョゼ・クローズは『渦』に続いて、体を張ったあばずれ風の演技が印象的。この人はこういう路線の役者なのかな。
「粉川哲夫のシネマノート」の『アララトの聖母』評。群像劇の構造が効果的でないというのは同感。
Matchstick Men (2003)
★★★
撮影当時23歳くらいで「14歳の娘」を演じているアリソン・ローマンの童顔ぶりを堪能する映画。というのはともかく、詐欺師を主人公にしたコン・ゲームもの。エピソードのほとんどがある一点の仕掛けに奉仕している話で、しかも結構割れやすいものなのがちょっとつらいところ。後で考えるとだいぶ不自然な箇所もいくつかある。この種の話を映画で見せることの難しさを感じた。
最後まで観ると、詐欺の話というよりはミドルエイジ・クライシスものだったのかなという気もする。主人公がこれまで執着していた何かを失い、その結果何かを得る。『ワンダー・ボーイズ』や『アバウト・ア・ボーイ』なんかわりと印象が近い。
「アメリカTV/映画ノーツ」の"Lost in Translation"評。
舞台が東京なのはともかく、スカーレット・ヨハンソンが良いらしいのでそれなりに期待。監督がソフィア・コッポラなのはいささか不安だけど。日本では来年公開予定らしい。
Bend It Like Beckham (2002)
★★★
サッカー大好きで「ベッカムのようにボールを曲げる」、英国在住のインド系の少女が女子サッカーのチームに誘われる。でもインドの伝統を重んじる両親は大反対で……という青春スポーツ映画。
監督のグリンダ・チャーダはインド系の女性らしい。女子サッカーとインド移民の伝統文化、どちらかというと焦点が当てられていたのは後者のほうで、インド系の伝統的な移民社会と、そこで現代の女性の感じる窮屈さみたいなものが丁寧に描かれている。主人公の友達になる女子選手(キーラ・ナイトレイ)の家庭もきちんと描写されていて、単なる民族的マイノリティの話になっていないのは巧い(英国で女子サッカー選手を志望する者なんて、インド系の家庭でなくてもやはり「変わり者」扱いされることになる)。サッカーをプレイする場面そのものはかなり適当に撮られていて、あくまで添え物という感じ。さすがにもう少しきちんとサッカーの場面を見せてほしかった気もする。
『カリブの海賊』などで売り出し中の若手女優、キーラ・ナイトレイのボーイッシュな姿を見られるので、その意味でも注目かも。
Porno (2002)
[amazon] [bk1]
★★★★
あれから9年、ついに奴らが帰ってきた……。というわけで、現実世界の時間経過とともに作中人物も歳を重ねる『北の国から』『白線流し』方式で描かれる、『トレインスポッティング』(1993)から9年後の続編。これまでも一部の登場人物が重なる「外伝」めいた作品は書かれていたので、作者の頭の中に続編の構想はある程度あったのかもしれない。
どうも安易な企画のような気がして半信半疑で読みはじめたのだけど、ちゃんと面白かったので安心した。
前作の主要人物、マーク・レントン、サイモン(シック・ボーイ)、フランク・ベグビー、スパッド、そして今回の新顔、女子大生のニッキーを加えた5人がかわるがわる一人称の語り手になる群像劇風の構成。地元エディンバラへ「都落ち」してきたサイモンの企画するポルノ映画製作とその「資金計画」の進展、そしてエディンバラへ戻ってきたレントンが刑務所帰りのベグビーと鉢合わせしたところで何か衝突が起きるに違いない、という予感が物語の興味を引っ張る。この両方の話の起点になっているのが結局サイモンで、今回は彼が実質上の主役になっている。(構成的に見ても「サイモンに始まり、サイモンに終わる」構成)
このサイモンの超エゴイストな人物造型がさすがに強烈で面白く、周りの人を利用することしか考えていない悪辣さと空虚さは前の長篇『フィルス』の最低警官、ブルース・ロバートソンにも通じる。ウェルシュはやはりこういう自分勝手で迷惑な人物を描かせたら抜群に巧い。サイモンを中心としたコン・ゲーム的な展開が今回の『ポルノ』の軸になっている。ただ前作『トレインスポッティング』のようなエピソード集ではなく、プロットを組んだ群像劇/コン・ゲームになっているので、終盤のまとめの甘さがいくらか気にならないでもなかったけれど。
殊能将之のReading Diary(10月11日-12日)で、マイケル・イネス『ストップ・プレス』を褒めている。邦訳は国書刊行会の世界探偵小説全集 第4期で刊行予定。「全編が壮大な冗談」のようなファルス大作らしいので、読めるようになるのが愉しみだ。
はてなアンテナで「おとなりページ」機能が開始。(id:hatenadiary:20031013)
はてなアンテナの登録状況をもとに、併読されている率の高いページを割り出す機能。(だと思われる)
"http://www.saiin.net/~ogiso/"の結果。さすがに半分以上は僕自身もいつも読んでいるページだった。
面白いけれど、アンテナ登録されている割合だけを基準にすると単純に知名度の高いページが上位に来てしまいやすいのが難だろうか。
Nothing More Than Murder (1949)
[amazon] [bk1]
★★★★
ジム・トンプスン初期の作品。たしかこれ以前に純文学系の小説をいくつか発表したものの売れず、この作品が犯罪小説作家としての第一歩という位置付けになるはず。
有名な『内なる殺人者』や『ポップ1280』などのような、サイコ犯罪者が場当たり的に悪事を重ねていく話ではなく、ある「犯罪計画」の顛末を犯行人物の視点から描いた内容。フランシス・アイルズの『殺意』みたいな「倒叙」犯罪小説に近いといえば近い。事件はそれなりの解決を迎えてしまうし(しかも、その落としどころはたいていの人なら見当のつく範囲だろう)、『残酷な夜』や『死ぬほどいい女』ほど突出してねじくれた趣向はないけれど、こういうきちんとプロットを組んだ感じの作品も書いていたんだなと興味深く読めた。田舎町で次々といんちきと小細工に手を染める主人公の人物像は、『ポップ1280』の保安官ニック・コーリーの原型といえるかもしれない。(これまでに読んだトンプスン作品の主人公ではいちばん近いと思う)
その主人公=語り手のジョー・ウィルモッツは、この小説での語り口を次のように表現する。
あらゆることについて、いっぺんに語ろうとしていたのだ。もちろん、特にあるひとつの事柄について語ってはいるのだけれど、それに少しでも関係のあることを片っ端から混ぜ込んでしまっているのだ。(中略)/おれも同じようにしようと思う。(p.31)
語り手はどの時点から語りはじめるのが良いか迷い、その話は必ずしも時系列順でなく未整理な順序で語られることになる(後半になると普通の流れになるけれど)。この趣向は例えば、後にジム・トンプスン自身が脚本に参加することになる、スタンリー・キューブリック監督の初期の犯罪映画『現金に体を張れ』(1956)を思い出させる(キューブリックは脚本作りにトンプスンを招くにあたって、この『取るに足りない殺人』も参考にしたのかもしれない)。ただしこの小説の場合は、『現金に体を張れ』みたいにパズル的な統制によって時系列が前後するというよりは、むしろ「語り手の心の整理がついていない」ためにこうなっているのだろう。
主人公が「映画館の経営者」という設定のせいか、読みながら映像を思い浮かべることが多かった。(僕はおもにコーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』や『バーバー』みたいな映像を思い浮かべながら読んでいた)
『週刊SPA!』連載の映画感想コラム集。
新作映画と、それに関連して思い出した旧作を語るという趣向。誰でもそれぞれ自分の見てきた映画の記憶を蓄積した「映画データベース」みたいなものを持っていて、ある映画を見るとそのどこかの回路がつながって別の映画を思い出すものだろうと思うけれど、この本の趣向はそういった個人のデータベースを覗き見させるようなところがあって面白い。中原昌也は長年継続して映画を見てきた人らしく、さすがに独自の「映画データベース」を持っているようで、挙げられる「旧作」のほうでは知らなくて興味を惹かれる作品も多かった。
ただし本人の姿勢なのか編集側の問題もあるのか、何か作品をきちんと紹介せずに出し惜しみしているような文章が多くてちょっと物足りない。追加されている「座談会」の垂れ流しぶりを見ても、どうも編集側と馴れ合っているところがあるような感じを受けるのだけど。
この本を読んだかぎりの中原昌也の好き/嫌いを抜き出して見るとこんな感じだろうか。
M・ナイト・シャマラン監督の『アンブレイカブル』を公開当初から躊躇せずに褒めているのは好印象。
紹介文を読んでそのうち見ておこうと思った作品は、『マジック・クリスチャン』『ミスター・グッドバーを探して』『ベロニカ・フォスのあこがれ』『素敵な歌と舟はゆく』あたり。
河出書房新社の該当ページによると、パトリック・マグラア『愛という名の病』(宮脇孝雄訳)[amazon] [bk1]が知らぬ間に本日(10月17日)発売になっていた。
パトリック・マグラアの第三長篇"Dr. Haggard's Disease"の翻訳らしい。これは愉しみ。
柴田元幸・宮脇孝雄・若島正「ぼくらは30年間こんな風に小説を読んできた」でも冒頭で話題に出ている作品。
今月の作家は『シンセミア』が発売の阿部和重。
村上春樹と村上龍、大江健三郎と三島由紀夫、みたいに「つねに二者がいて、その間に立って作品を考える」、先行の作家や作品を接続・媒介するところから何かを「更新」しようとするのが自分の作風、という話が目を惹いた。
柳下毅一郎の『エスクァイア』連載映画評のページが更新されていたので覗いてみる。さすがに面白い。特に、『マイノリティ・リポート』、『戦場のピアニスト』、『エデンより彼方に』評が好み。
映画≠日誌の『ロボコン』評。『ロボコン』を長澤まさみのファム・ファタル映画として論じきる文章。
Junk Landで映画『アイデンティティー』評が出ている(10月21日)。10月25日公開予定。設定は『そして誰もいなくなった』みたいだし、ミステリ読みには必見の作品?でしょうか。
CinemaScapeが復活していた。
Dr. Haggard's Disease (1993)
[amazon] [bk1]
★★★★
『スパイダー』の次、『閉鎖病棟』の前にあたるパトリック・マグラアの第三長篇。意外と律儀な語り口や、語り手が自分の脚の痛みをしきりに「スパイク」と呼ぶところは『スパイダー』に近く、病院を舞台にして不倫劇が進んでいくのは『閉鎖病棟』のようで、マグラアの作風の軌跡を読み取れる。
マグラアの造形する「信用できない」語り手は、たいてい物語の幕開けから何か肉体的・精神的な奇怪さを抱えていて、その興味が読者を引っ張ることになる。この小説の場合は、語り手は自身で「スパイク」と名付ける脚の怪我(らしいもの)をいかなる経緯で負ったのか、そして語り手はなぜ「おまえ」なる人物に向かって延々と語りかける奇怪な話法を続けるのか(語り手と「おまえ」はどのような関係なのか)、という点。前者は比較的よくある話法だろうけど、後者のように語りの構造や意味をほとんど最後まで明かさずに引っ張る趣向の小説は珍しいのではないかと思う。
個人的には、「お前、なんでそんなことを知っているんだ」という突っ込みどころ満載の恣意的で怪しい語りが平然と連ねられる『グロテスク』『閉鎖病棟』のほうが好みなのだけど、これもマグラアらしい奇怪な語りの構造が貫かれた小説で充分面白かった。
この本と通じるところがあるらしい『情事の終わり』(グレアム・グリーン)は再読しようかな。(読んでいるはずだけどあまりよく憶えていないので)
『小説現代』掲載の連作集。
全然面白くなかった。これまでに読んで良かった『パレード』『パーク・ライフ』とは、一人称でなく三人称叙述を採っていること、主人公が自分の過去を隠さずにむしろ好んで語りたがるところが異なるけれど、そのどちらも悪い方にしか出ていないと思う。文章が単なる心情の「説明」になっているし、登場人物がそれぞれ他の人から(あるいは自分からも)見えない面を持っている、というような奥行きを感じられない。それに過去の回想が多すぎて「日曜日」でなくてはならない要素が薄いように思う。
各短篇を緩くつなげる「九州から母親を探して上京してきた兄弟」の存在も、何の興味も抱けないものだった。
e-NOVELSの週刊書評第195回 - 戦闘美少女と「イリヤ」を覗いてみたら、笠井潔まで「セカイ系」がどうの、とか言いはじめていたんですね……。
Kill Bill: Volume 1 (2003)
★★★
『ロード・オブ・ザ・リング』のときもそうだけど、完結編でないことを表記上隠した邦題っていかがなものなんでしょうね。商売上の事情はわからなくもないけれど。
というのはともかく、元ネタをほとんど知らないなりに見世物としては愉しめて退屈しなかった。今回がニッポン編で、続編がウェスタン編になるとも聞くけれどどうなんだろう。フィクションの断片から作り上げられた虚構の「パラレル・ニッポン」世界を捏造する試みとして、歴史的な達成といえるのかもしれない。でも正直言うと、予告編で聞けるルーシー・リュウの「ヤッチマイナ!」でだいたいどんな性格の映画か想像がついていたので、なかばそれを確認しに行っただけのような気もする。何も事前情報を仕入れていなかったらもっと素直に驚いて愉しめたかも。
花嫁が復讐のために次々と人を殺していく設定はコーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』(映画化もされている)、内面のないヒロインがひたすら純粋な殺戮を繰り広げるところはジャン=パトリック・マンシェットの『殺戮の天使』を連想した。
これまでのタランティーノ作品の個人的な評価は、「アメリカTV/映画ノーツ」の感想と同じで、『レザボア・ドッグス』は良かったけれど人気の高い『パルプ・フィクション』は冗漫なだけで面白くなかった。あと『レザボア・ドッグス』の頃から盛り込まれていた過剰なスプラッタ趣味は、この『キル・ビル』で全開になっているけれどどうも肌に合わないものを感じる。(モラル的に反感を覚えるとかではなく、ただ単に何が面白いのかわからない)
「オレン・イシイ」(ルーシー・リュウ)の生い立ちを語るのに結構長めのアニメーション映像が挿入されていて、タランティーノの映画はその他の実写の部分でも、フラットで内面を持たないコミック的なキャラクターを生身の俳優に演じさせるところに面白味を見出していたんだなと改めて気づく。(その意味では『マトリックス』なんかもそうかもしれないけれど、タランティーノ作品に較べると相対化が足りないように思える)
山田宏一の対談集『映画とは何か』(草思社)を読んでいたら、ヒッチコック監督の『めまい』についてとても面白い指摘があった。フランソワ・トリュフォーの発言なので、知っている人には常識の話かもしれないけれど。
「ヒッチコックの最大の不幸は、いうまでもなく、彼の永遠のヒロインともいうべきグレース・ケリーを失ったことでしたが、彼女がモナコのレーニエ三世と結婚して引退したことをヒッチコックは惜しみつつも恨んではいませんでした。(中略)それだけに、じつは絶望も深かったのでしょう。『泥棒成金』以後のヒッチコック映画のヒロインを演じた女優たちは、ティッピ・ヘドレンもキム・ノヴァクもエヴァ・マリー・セイントもヴェラ・マイルズも、すべてグレース・ケリーの代用品だったと言ってもいいくらいです。『めまい』はグレース・ケリーのために企画された映画でしたが、彼女がいなくなったために、もう一人のグレース・ケリーをつくりだそうとするヒッチコック自身の悲痛な物語とみなすこともできます」(p.13-14)
『めまい』を再見するとしたら、この視点は思い出さずにいられないだろうと思う。
Election (1999)
★★★
何とも投げやりな邦題だけど、一応『アバウト・シュミット』(2002)で脚光を浴びた新鋭、アレクサンダー・ペイン監督・脚本の前作。次期生徒会長の座を狙う優等生(リーズ・ウィザースプーン)を快く思わない顧問の教師(マシュー・ブロデリック)が、彼女の会長当選を阻止すべく画策しはじめるという、風刺コメディみたいな学園もの。
リーズ・ウィザースプーンの演じる野心家でエゴイストの「優等生」は、かなり誇張された漫画的な人物造形なのだけど、こんな感じの人がクラスにひとりくらいはいたよね、とも思う。
全編を通じて展開の予想がつかない風変わりな学園ものではあるけれど、それ以上のところで何をやりたいのかは見えてこなかった。
★★★
韓国の映画。団地に住む一見普通の、でもよく見るとちょっと変わった人たちの人生の交錯と、彼らに訪れるささやかな非日常的瞬間をコミカルに描く。地味ながら気の利いた話で面白かった。忘れたころに「切り干し大根」を出してくるタイミングなんて巧いなあと思う。
昨年のワールドカップの時期にたぶん世界で脚光を浴びた、「韓国人は犬を食べる」「韓国では賄賂が横行している」という民族的ステロタイプをネタとしてさりげなく取り入れている。
ポーリン・ケイルの映画評論集、『明かりが消えて映画がはじまる』(草思社)[amazon] [bk1]という本が新刊で発売されているらしい。(id:zeroes:20031027#p4より)
ポーリン・ケイルといえば、『フリッカー、あるいは映画の魔』で主人公に映画と性の手ほどきをする映画評論家のモデルがポーリン・ケイルじゃないかと聞いたことがあったな。
Catch Me If You Can (2002)
★★★
スティーヴン・スピルバーグ監督。
原作(『世界をだました男』)を読んでいたのでどんな感じにアレンジしたのかと注目して観たのだけど、全体の流れを「帰りの飛行機での告白」にまとめた構成はなかなか慧眼だと思う(『スウィート・ヒアアフター』『イギリスから来た男』と同じ?)。詐欺師のみずから語る半生記なのでどこまで信じて良いのかよくわからない、という感じも活かされている。「ルイジアナ州での司法試験」を落ちに取っておくのも巧い選択。ただし終盤で主人公の「その後」を説明する付け足しはあまり要らなかったように思う。
この主人公が財産を騙し取る相手は個人でなくあくまで銀行や航空会社なので、犯罪者の一代記といえども軽やかで気分良く見られる……という印象があったのだけど、ルイジアナでは結婚詐欺みたいなこともやっていたようで、これは微妙なところか。
1960年代前半の雰囲気を再現した画面はさすがに綺麗で、ぼうっと観ているのが心地良い。
『A.I.』と同じく「親に捨てられた子供」みたいな面がやけに強調されるのは、スピルバーグの「作家性」ということで仕方ないのかな。
毎日インターナショナルの記事。(EVERYTHINGCOOLより)
類型的な「ハリウッド的日本」から離れた日本像を提示した最近の二作、絵空事を究めた『キル・ビル』と、ドキュメンタリー志向の"Lost in Translation"を比較する文章。
The Food Chain (1992)
★★★
作者は『美しい足に踏まれて』の人。訳者(宮脇孝雄)あとがきによるとこれが5作目の長篇にあたるらしい。
英国を訪れたアメリカのレストラン経営者が、謎の美食団体「永遠倶楽部」に招かれて歓待を受けるが……という話とともに、「永遠倶楽部」の長い歴史を記した書物の断片が挿入される。この「永遠倶楽部」が結局「人肉食」をやっているのかどうなのか、というしょうもない点が興味の焦点になる、何とも変な話。
英国の映画『ホテル・スプレンティッド』と雰囲気が少し近いかもしれない。
好感を持てる登場人物が誰ひとり出てこないまま、ストーリーのあるようでない挿話が連ねられ、面白いんだかよくわからない微妙なブラック・ジョークや蘊蓄が語られる。この作品は肝心の「永遠倶楽部」に魅力が感じられなくてそれほどたいした出来には思えないけれど、毎回取り上げるフィールドを変えているようで、他の作品も読んでみたい作家のひとりだ。(今回は「食」で、他に「探偵小説」や「映画」を取り上げた作品も書いているとのこと)