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▼ 2003.08



2003-08-01

スティーヴン・ミルハウザー特集

ミルハウザーの第一作にしてたぶん最高傑作、『エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死』が復刊される(白水社より2003年8月刊行予定)のを記念して、スティーヴン・ミルハウザー特集ページを作成しました。今後も適宜情報を追加していく予定ですが、暫定的に公開しておきます。

題名は『三つの小さな王国』(というか 「J・フランクリン・ペインの小さな王国」)にちなんで「スティーヴン・ミルハウザーの小さな王国」とするつもりだったのだけど、探してみたらすでに同名英語題のページを作成しているかたがいたので遠慮して、未訳の第二長篇『ある浪漫主義者の肖像』の翻訳刊行を願ってそのまま借用。

2003-08-02

ウェブ時代のミルハウザー読者

スティーヴン・ミルハウザー: Portrait of a Romanticを少し更新。著作リストとリンク記事の補完など。昨日の朝、突発的に思いついて作りはじめたので結構不備が多い。

青山南のアメリカ文学をめぐるエッセイ集『小説はゴシップが楽しい』(晶文社)を拾い読みしていたら、「スティーヴン・ミルハウザーの不思議な本」という文章で『エドウィン・マルハウス』の話題が取り上げられていて(絶賛されている)、デイヴィッド・リーヴィットという作家の次のような発言が紹介されていた。

「ミルハウザーのファンは大勢いて、ひとつのカルトを形成しているといってもいいほどだが、あいにく本人たちはそのカルトの存在を知らない。だから、誰かに、もしかしたらの話だけど『エドウィン・マルハウス』って小説、知ってたりする? と訊くと、相手はぽっと顔を赤くして、ギェッと叫び、知ってるどころじゃないよ、大好きな本さ、俺以外は誰も読んでないのかと思ってた、という返事がくる」(p.69-70)

これは一部でひそかに(しかし熱狂的に)愛される作家、というミルハウザーの作家像を象徴するような受け入れられかただと思う。でもこれだけウェブが普及すると、我々はおそるおそる尋ねて回らなくても、ウェブ上を少し検索するだけで自分以外のミルハウザー愛読者を探し当てることができる。便利な時代になったものだと思う一方で、上の発言のように前時代的で奥ゆかしい読まれかたがミルハウザーには相応しい気もして、良いのか悪いのかはわからないけれど。

『エドウィン・マルハウス』の岸本佐知子訳

ミルハウザーの翻訳といえば柴田元幸ということになっているけれど、『エドウィン・マルハウス』の岸本佐知子の翻訳も素晴らしい。「すみ&にえ」さんでは「神業の域」とまで評されていて、これとさほど感想は変わらない。幼児が言語を獲得していく過程を細かく描いた小説なので、非常に言葉遊びや語呂合わせの多い内容にもかかわらず、日本語訳であれだけ感心させてくれるのは相当難しいことなんだろうと思う。『ハイ・フィデリティ』流に、これまで読んだ「訳文に感心した小説ベスト5」を挙げていくとしたらたぶん入れてしまうかもしれない。ちなみにそれ以外には何を挙げるだろうかと訊かれてもいないのに考えてみると、

  • 土屋政雄訳『日の名残り』(カズオ・イシグロ)
  • 東江一紀訳『ストリート・キッズ』(ドン・ウィンズロウ)
  • 田村義進訳『アメリカン・タブロイド』(ジェイムズ・エルロイ)

あたりで、あとひとつ適当なのがとっさに思いつかない。

2003-08-03

アイザック・アダムスン『東京サッカーパンチ』(扶桑社ミステリー)

[amazon] [bk1]
★★★

芸者好きの米国人記者、ビリー・チャカが日本で事件に巻き込まれる変調ハードボイルド探偵もの。外国人による「不思議の国:ニッポン」の勘違い日本描写を愉しむ作品で、日本人作家の例でいえば、小林信彦『ちはやぶる奥の細道』、山口雅也『日本殺人事件』、清水義範『スシとニンジャ』(これはちょっと違うか)みたいな系譜に属するだろうか。一応、作者のアイザック・アダムスン氏は実在する米国人作家らしい。運転手の名前が「神道裕人」、トヨタでなく「ヨタヨ自動車」、などの奇怪なネーミングが真顔で次々と飛び出してくるのが格好良い。日本について実は結構調べている様子があるのだけれど、どこまで「わざと」やっているのかはよくわからない。

後半になると突如、マイケル・マーシャル・スミスばりの「マジですか?」という大風呂敷な設定が語られる。それはいいんだけど、正直言って謎解き的な展開はぎこちなくて、本筋よりも主人公が取材する予定だった「身体障害者武術大会」をまざまざと描写しはじめる部分のほうが面白く読めた。

本間有の翻訳は軽快で良い。

本国ではビリー・チャカ公式サイトbillychaka.comが作られている。続編の "Hokkaido Popsicle"、"Dreaming Pachinko" がすでに発表されているようだ。

2003-08-09

『エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死』発売開始

スティーヴン・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死』(岸本佐知子訳/白水社)[amazon] [bk1]は各地で絶賛発売中、のはずなので、興味のあるかたはこの夏の一冊としてぜひ読んでみてください。

漫画の感想

今年に入ってから小説に乗れないときにはたまに漫画を読むようになってきたので、ぼちぼち感想を書いてみることにします。

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』35-47巻(集英社)

「第4部」東方仗助編の読み残しを拾い読み。

『ジョジョの奇妙な冒険』は特に第2部が好きで、強大な敵に対して軽口とトリック仕掛けで渡り合い相手の裏をかく主人公、ジョナサン・ジョースターのヒーロー造形がとても新鮮だった。第3部以降のスタンド戦闘も面白いけれど、主人公と敵側の双方が同等の能力者という立場になるので、第2部にあった「圧倒的に不利な状況から機転を利かせて逆転する」という痛快さは薄れてきたようにも感じる。まあそれはそれで別の魅力があるのだけれど。

第4部は後でまとめて読もうと思いながら延ばし延ばしになっていて、今回読んでみたらさすがに面白かった。架空の町「杜王町」に舞台を限定した趣向になっていて、一応日本という設定になっているものの、これはスティーヴン・キングの得意とするメイン州の田舎の閉鎖的なスモールタウンもの(一連の「キャッスル・ロック」ものや『IT』など)を思わせる雰囲気がある(荒木飛呂彦は仙台出身らしいので「仙台」+「キング」で「杜王町」だろうか?)。ちなみにスティーヴン・キングは「作家」を主人公にすることが多いけれど、この第4部にも漫画家・岸辺露伴という人物が途中で登場して、ほとんど東方仗助以上の主人公格となる。

それと同時に、隣の家にサイコ殺人者が住んでいるかもしれない、といった身近な恐怖を描く方向性は、『羊たちの沈黙』の映画版が1991年に公開されて以降、サイコ・ブームが吹き荒れた時勢を反映してもいるのだろう。(例えば、吉良吉影が「女性の腕」を連れているという描写は、サイコスリラー小説『嘘、そして沈黙』の強烈な冒頭場面と類似している)

第3部ではラスボス(ディオ)への旅路を次々と敵が阻んでいくという、いわば『ドラゴンクエスト』的な一本道の物語進行を採用していたのに対して、第4部は主人公の住む町で偶発的に事件が起こる趣向なので、どこに敵が待ち受けているのかわからず、普段の日常生活と非日常の戦闘が地続きに描かれることになる。この設定が格闘漫画としてはあまり読んだことのない感じで非常に面白く、日常生活を送る本体と戦闘能力が別の実体を持つ「スタンド」設定の特徴を巧く活用した物語形態だと思う。

結果的にラスボスとなる「吉良吉影」の設定も工夫されていて、彼は第3部までの敵、あるいは一般的な漫画の悪役のような「世界征服」だとかの大それた野望を抱いた典型的な悪役ではない。単に平穏な暮らしを送りたい個人主義者なのだけれど、サイコキラーなので社会の秩序とは調和できず、そこで自分の生活の安全を守るため、カウンター的に戦闘能力を発揮することになる。これは「ある敵を倒すと、もっと強い敵が現れる……」という展開の連続で話が宇宙規模にまで膨らんでしまい、際限のない強さの「インフレ化」を招いていった『ドラゴンボール』的な手法に対する明確なアンチテーゼと見ることができるだろう。

この第4部で気になった点を挙げるとすれば、主人公の東方仗助の能力「クレイジー・ダイヤモンド」の「物をなおす」というルールが曖昧で、作者にとって都合の良いブラックボックス的なものになっている(話が詰まると何でも「物をなおした」ことにすれば解決できる)ということ。まあ「波紋」の時代から、主人公の能力はある程度曖昧で便利に使えるように設定されていたところはあるのだけれど。

第4部は一見地味で「通好み」の内容になった感もあるけれど、格闘漫画の従来の約束事を意図的に外していって、日常生活と戦闘場面を隣り合わせに描いた先の読めない展開は、『ジョジョ』連作中でももっとも先鋭的なものになっているかもしれない。

2003-08-10

『ミリイ 少年は空を飛んだ』DVD版

[Amazon.co.jp]

購入したら付録に音声解説が付いていたのでつい全編観てしまった。音声解説に参加していたのは、監督・脚本のニック・キャッスル、出演者のルーシー・ディーキンズ(ミリィ)、ジェイ・アンダーウッド(空を飛ぶ少年エリック)、フレッド・サヴェージ(ミリィの弟ルイス)。子役のフレッド・サヴェージは別として、他の三人は(監督のニック・キャッスルも含めて)たぶんこれが代表作という人たちだろうから、本人たちの雰囲気は良かったけれど内心は複雑なのではないかと想像してしまう。

以下、音声解説の内容で興味深かったところ。

  • ニック・キャッスルが「映画の魔術を見なさい」と身を乗り出して解説した、同一ショット内でエリックがミリィの家から隣家の窓へ「瞬間移動」する場面は確かに面白い。
  • この作品のプロダクション・デザイン(および第二班撮影)を担当したジム・ビッセルは『E.T.』にも携わった人物。納得。
  • キャッスルは当時のルーシー・ディーキンズについて「彼女を起用した理由は演技力だけじゃない。とても綺麗でしかも親しみやすい、誰もが恋するような少女だったんだ」と本人の前で絶賛していた。他の出演者も「僕が会ったなかで間違いなく最高に可愛い女の子だ」と同意。

この映画のルーシー・ディーキンズは改めて見たけど本当に可愛い。永遠の「隣の家の少女」という感じがする。

作品の感想を少し探してみたところ、以下のところの文章がほとんど同感だった(2002/01/21日付)。休日の午後にでもゆったりと見たい作品、というのはよくわかる。

『エドウィン・マルハウス』到着

bk1に注文していた『エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死』(岸本佐知子訳/白水社)[amazon] [bk1]が本日到着。復刊してくれた方々、どうもありがとう。そのうちまたじっくり再読しようかと思います。(ちなみに贅沢を言うと、新たな解説等の文章が追加されていないのが少しだけ残念。まあ復刊されただけで充分有り難いんだけど)

改めて序文(「復刻版に寄せて」)を読んでみると、この小説の本編(ジェフリー・カートライトによる「伝記」)を「東西の伝記史上に残る一大傑作」「アメリカ伝記文学を代表する傑作」と大変に持ち上げていて、この種の「自画自賛」は入れ子形式の小説のお約束とはいえ(例えば『アラビアの夜の種族』とか)、ミルハウザー氏も相当自信満々というか人を食っていますね。

2003-08-11

イーサン・ケイニン『エンペラー・オブ・ジ・エア』(文藝春秋)

Emperor of the Air (1988)
★★★★

アメリカ現代文学翻訳のエース格、柴田元幸が推薦して訳してもさほど売れない/話題にならない作家も何人かいるようで、現時点では『シカゴ育ち』のスチュアート・ダイベックとこのイーサン・ケイニンがそれに該当するのではないかと思う。

『宮殿泥棒』(文春文庫)[amazon] [bk1]に続いて、この第一作の短篇集『エンペラー・オブ・ジ・エア』を読んでみたらこれも端正な出来で良かった。各作品の主人公=語り手はそれぞれ年齢・職業ともにばらばらで、作者もそのたびに「演じる」ように語り口を変えているようだし、訳者の柴田元幸も合わせて器用に文章のタッチを変えているのに感心する。けれども語り手が思春期を回想する形式の「アメリカン・ビューティー」(また『宮殿泥棒』収録作でいえば「バートルシャーグとセレレム」も同様)だけはその「演じている」感じがせず、これが作者の本道なんだろうなという気がする。「演じている」ほうの作品の出来が比較して悪いわけではないけれど。柴田氏の訳者あとがきは「イーサン・ケイニンの小説では、人はみな十六歳の夏を生きている」と表現している。

未読の長篇『あの夏、ブルーリヴァーで』(文藝春秋)は、その「アメリカン・ビューティー」を元にした長篇化なのだそうで、「さもありなん」と思うとともに、これから読むのがたのしみ。

付記その1:短篇「アメリカン・ビューティー」は同題名の映画の原作ではないけれど(この作品で題名の「薔薇」はハンマーに付いている工具店の商標を指す)、映画の作者が「郊外生活」の亀裂を端正に描く作家としてイーサン・ケイニンの小説を念頭に置いていた可能性はある。

付記その2:現時点で読んだイーサン・ケイニンのベスト作を選ぶとすると、「バートルシャーグとセレレム」(『宮殿泥棒』収録)を挙げる。

2003-08-12

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』54-63巻(集英社)

「第5部」ジョルノ・ジョヴァーナ編の読み残していた分を補完。53巻までは読んだはずなのだけどどうしてその先を読んでいなかったのか記憶が定かでない。箇条書きで感想を書くだけにする。

  • 第3部と同じくRPG風の筋立て。第3部が『ドラゴンクエスト』形式だとすると、第5部は『ファイナルファンタジー』に近い気がする。
  • 個々の戦闘で面白いのはあるんだけど、戦闘を発生させるためにプロットを組んでいるようでたまに徒労感が漂う。(第4部の手法のほうがスリリングではあった)
  • そのためか、主人公たちと視点が離れる「ぼくの名はドッピオ」編が妙に面白い。
  • 結局、「スタンド」能力もインフレを起こしてしまって収拾がつかなくなってきた感じがする。「キング・クリムゾン」なんて、「予知能力」だけにしておけば良さそうなのに。
  • 敵のボスを倒すために主人公が次のステージに「変身」するという「超サイヤ人方式」を採ってしまったのは、従来の『ジョジョ』的な解決から外れているようで残念。
  • 吉良吉影の「バイツァ・ダスト」→『七回死んだ男』(同じ日が繰り返される)だとすると、『人格転移の殺人』→「チャリオッツ・レクイエム」(人格交換)だろうか。
  • キング・クリムゾン戦では何度も、第3部のディオの「ザ・ワールド」戦を思い出させる展開が頻出するので、これは何かの伏線なのかと思った。(少なくとも第5部の範囲では特に関連がなかったようなので、単なる作者の手癖なのだろうか?)

2003-08-13

宮崎駿『風の谷のナウシカ』全7巻(徳間書店)

言わずと知れた『風の谷のナウシカ』の漫画版。全7巻セット[amazon] [bk1]が2,600円程度で購入できることに気づいたのでいまさら読んでみた。

もちろんアニメ映画版は観ているので、この漫画版はある程度アニメ版と重ねて(というか脳内でアニメ映像に変換して)読まざるを得ない。どちらも作者は同じわけで、漫画単独で評価するのは難しい微妙な作品だと思う。宮崎駿得意の飛翔する乗り物や今回特有の「腐海」の生物描写には、やはり動くアニメでないと表現しきれない魅力もあるだろうし。

読んでみると意外にアイザック・アシモフの『ファウンデーション』連作と通じる部分が多い。『ファウンデーション』の「セルダン計画」は、銀河帝国の崩壊と来たるべき暗黒時代に備え、選ばれた者が文明再興(ルネサンス?)の礎となる「ファウンデーション」を創設する、というようなものだった。SFの古典ということになっている作品だけれど(作者がアシモフなので章の終わりに必ず何か逆転があり、ミステリ色も強い)、いま読むと「これだからユダヤの人は」みたいに感じる人も多いかもしれない。それはともかく、『風の谷のナウシカ』に描かれる世界浄化システムや「ノアの方舟」的な生物保存機構は、環境問題を軸にした「セルダン計画」的なものを「暗黒時代」の住人から見たらどうなるだろうかと考えると近い。そんな古典的な進歩思想にいまさら与する理由はないだろうから、その意味でこの話の結論は少なくとも意外なものではなかった。

「腐海」が世界を浄化するシステムの一環らしいのは、たしかアニメ版の段階ですでに明らかにされていた。精巧な世界構築に感心しても、この漫画版に「名作巡礼」という以上の衝撃を受けなかったのは、その設定から予期できる範囲内に話が収束して、主人公のナウシカたちが個人の選択で話を進めている感じがしなかったからかもしれない。

【追記】『ナウシカ』の筋立てが古めかしく見えてしまうのは、この話が1980年代の「最後の冷戦時代」に発表されていて、当時の世相や不安感を色濃く反映しているせいもあるだろう(暴走する二大国の戦争、頻出する核兵器の影……など)。それはいま真剣な(個人が国家の大義に殉じる)スパイ・フィクションを作るのが難しいのと似ているかもしれない。(2003-08-15)

2003-08-14

佐々木倫子『Heaven?』1-4巻(小学館)

シリーズものの漫画を大別すると「登場人物が成長する/人間関係が変動する」ものとそうでないものとに分けられる、とよく指摘される。佐々木倫子は『動物のお医者さん』を読んだかぎりでは、この後者の「登場人物が成長しない/人間関係が変動しない」作品世界を強固に構築していく作家の代表格だろう。例えば主要人物同士の「恋愛」のような、人物の関係を変動させてしまう要素はその作品世界から徹底して排除されることになる。

フランス料理店を舞台にしたこの『Heaven?』でもその作風は変わらず、さらにその「人間関係が変動しない」という作劇法そのものを題材にしたような話がいくつかあって興味深かった。従業員を馘にしようとしたり、誰かが店を辞めるべきか迷ったりすると、そのたびに強固な反発力がはたらいて結局元の鞘に戻ることになる、といった感じの。

この作家の書く話は「終わらない日常」を描くせいか、日常生活のなかの違和感のもとをたどっていくとやがて……という「日常の謎」的な展開をとることが少なくない。今回はそのミステリ的な手法を意識的に取り入れていることを窺わせる要素があって(要するにオーナーの「本職」のこと)この点も興味を惹かれた。

2003-08-15

木尾士目『げんしけん』(1-2巻)

題名の「げんしけん」は大学サークル「現代視覚文化研究会」の略。大学の新入生が「ある種のサークル」でオタク文化に入門する話。(「動物公園」駅が近いという記述から、舞台は中央大学多摩キャンパスか?)

僕はいまアニメとゲームに縁がないので、狭義の「オタク」的な観点でいえばほとんど門外漢にあたるだろうけど、これはオタク文化を覗き見る入門書として結構面白く読めた。単なる内輪受けではなくて、非オタクの読者にも理解可能な程度に客観的な配慮がなされているのがわかる(なので知識的には「浅い」のかもしれない)。絵柄も比較的無難で読みやすい。『新世紀エヴァンゲリオン』が普段アニメを観ない層にも受け容れられやすかったのは、絵柄が無難で癖がなかったところも大きいと思うのだけど、これは比較的その系統に近い。ちなみに主人公の外見はちょっと「碇シンジ」君に似ていて、僕は同じ声を当てて読んでいた。

オタク入門者の主人公はまず「欲望のままに生きる覚悟」を教え込まれる。これはいわゆる「動物化」というやつだろうか? 初出は『アフタヌーン』2002年6月号らしいので、時期的に見て『動物化するポストモダン』(2001.11)を踏まえていた可能性はある。

2巻に入ると主人公の「オタク入門」の構造は薄れてきて脇役にまわることが多くなり、別の強烈なキャラクターに話を主導させる色合いが強くなる。一応読めるけれどそろそろ新たな展開が必要かもしれない。

ところで「妹萌え」のオタクの人はリアル妹を持つ男を羨ましがるのだろうか、ということは常々疑問に思っていたのだけど、この漫画の登場人物の発言、「血のつながった妹なんて要らん」という答えを見て「なるほど」と納得した。

2003-08-16

掲示板変更

新掲示板を開設しました。そのうち掲示板のデザイン等を調整し直したいと思っていたのですが、どうせ変えるならレンタル掲示板でなく新たに独自で設置したほうが広告も出なくてすっきりするので。このサイトへのご意見や関連する話題など、気軽に書き込んでください。

旧掲示板は一応書き込み停止で残しておきます。そんなに書き込みの多い掲示板ではないですが、なかには貴重な発言もあるでしょうから。(後でログを別に保存して、レンタル掲示板のアカウントは削除する予定)

高橋しん『最終兵器彼女』(1巻)

「BSマンガ夜話」の特集で、岡田斗司夫が「この作品の世界観をそのまま受け容れるには、たぶん何か前提条件が要るんじゃないか」というような違和感を述べていたけれど、それとまったく同じような感想を持った。少なくとも周りで戦争が起こっていて、自分たちがそれに巻き込まれているらしいのに、主人公がその理由を少しも知ろうとしない、というのは個人的な理解の範疇の外にある。別に登場人物に共感できなくても愉しめる話もあるけれど、この話は作者も登場人物の世界観に同調している気がする。これに付き合って読み続けるのはどうにも困難で、途中でリタイアした。(なので、この先になると話が劇的に転回しないとも限らないのだけど)

「セカイ系」

そういえば一時、『新世紀エヴァンゲリオン』以降の「個人の内面」と「世界の危機」が直結する傾向にあるフィクションの隆盛を「セカイ系」と揶揄する言い方が流行っていたようですね。『最終兵器彼女』がその槍玉に上げられた代表的な作品らしい。以下のところなどを参照。

最近の映画だと『ドニー・ダーコ』なんかはまさにこの「セカイ系」に該当する内容だった気がします。(作品としてはお薦めしないけど)

僕がこの文脈で一番しっくりきた説明は、読冊日記の風野春樹さんが上遠野浩平『あなたは虚人と星に舞う』の感想で、

家族だとか社会だとかという中景をすっとばして、ものすごく個人的な問題と世界の破滅をダイレクトに結びつけてしまう作風(まあ最近のライトノベルはみんなそんな感じだし、M・ナイト・シャマラン作品にも似たようなところがあるから、これは全世界的傾向なのかもしれないけれど)にはちょっと辟易ぎみなことも確か。

と書いて「家庭や社会の描写をすっとばす」ことへの違和感を指摘しているところ。ちなみにM・ナイト・シャマランの名前が出ているのは主に『サイン』を念頭に置いているのでしょう。(これも「主人公たちの内面の問題」と「世界中が襲撃されて大変なことになる」という事象の対比が非常にアンバランスな印象を与える怪作)

ところで「セカイ系」の元祖をあえて探すとなると、やっぱりJ・G・バラードになるんでしょうかね? なにしろ『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』の「破滅三部作」で、個人の内面と(理由のない)世界の破滅を描いたことで有名な作家なので。(といっても僕はそのうち『結晶世界』しか読んでないのでよく知らないけど)

2003-08-17

「セカイ系」の続き

「自分の身の回り」と「世界の破滅」が直結している(途中にある社会や家庭を描くことに関心を払わない)という意味で「セカイ系」的な好例のように思える作品をひとつ挙げると、黒沢清監督のホラー映画『回路』ですかね。この映画でも、身の回りの怪異を描いていたと思ったら、いつのまにかもう世界が破滅していて人々が姿を消しているという、どう考えても何か過程が欠落している「飛躍」の奇妙さが印象に残った。

もっとも、ウェブ上で「セカイ系」に言及している文章にいくつか目を通してみたところ、単に自閉的で青臭いという意味で使われている(『ライ麦畑で捕まえて』とか村上春樹の小説に近い文脈で)ことも多いようで、上に書いたような認識が適当かどうかわからないけれど。

スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』(白水uブックス)

[amazon] [bk1]
The Coast of Chicago (1990)
★★★★

柴田元幸訳の短篇集。シカゴの街に交錯する人生を切り取ったリアリズム作品だけでなく、ショート・ショートの小品、あるいは架空の映画を淡々と描写するミルハウザー風の短篇「珠玉の一作」、エドワード・ホッパーの有名な絵画をもとに想像を広げた「夜鷹」まで、結構バラエティに富んだ作品が収められている。

作者の本道はたぶんシカゴの街のくすんだ青春群像を描いた「荒廃地域」あたりか。個人的には近所に住む訳ありのお姉さんのピアノの音色に耳を澄ます「冬のショパン」が、それぞれ秘密の過去を背負った人々が来てはまた去っていくシカゴの街の生活感を反映しているようで印象に残っている。短めの作品では「右翼手の死」が奇妙な後味で良かった。

「ダイベック」というのが何系の名前か知らないけれど、いわゆるアングロ・サクソン系ではないはずで、この作品集ではポーランド、ウクライナなどの東欧系をはじめ、英語以外のさまざまな言語が往来する街としてのシカゴの空気がとらえられている。(なので日本語翻訳で読むのが適切なのかどうか微妙なところかもしれない)

2003-08-18

はてなアンテナ

なぜか頻繁に捕捉されているようで気になる。まともな更新情報を知りたいかたはnDiary Antennaなどを見ると良いかも。

"Intolerable Cruelty"予告編

コーエン兄弟の新作。ジョージ・クル−ニー&キャサリン・ゼタ・ジョーンズ主演のロマンティック・コメディだとか。『未来は今』の捲土重来を期したメジャー向け作品なのかな。オリジナル脚本じゃないみたいなのは珍しい(これまでも「原作:ホメロス」なんてのはあったけど)。(IMDb

荒木飛呂彦『ゴージャス☆アイリン』(集英社)

荒木飛呂彦の短篇集。というか単行本になっていない初期の作品を集めたもの。

表題の「ゴージャス☆アイリン」は2編の戦闘もの。ヒロインが化粧で変身する。これを何話も続けるとしたらつらそうだ。描いた時期が近いのか、絵のタッチは『ジョジョ』第1部とほとんど同じで懐かしい。

「魔少年ビーティ」は単行本未収録作らしい。トリック好きの萌芽が見られる。わりと普通のミステリ短篇で、単行本収録作のほうが面白かったと思う。描画がシンプルで、これだけ見たら荒木飛呂彦の漫画だとわからないかもしれない。

「武装ポーカー」はデビュー作らしい。デビュー作がポーカー勝負か……第3部の「ダービー兄弟」は満を持しての登場だったんでしょうね。

初期作なので全体的にまだ絵が粗く、荒木ファン以外には強くお薦めしない。

荒木飛呂彦『死刑執行中 脱獄進行中』(集英社)

[amazon] [bk1]

荒木飛呂彦の短篇集、第2弾。刊行は1999年。箱入りの立派な装丁で、昔の『ゴージャス☆アイリン』と並べると、作家としての地位が大幅に上がったんだろうなと感慨をおぼえる。

収録作は、ノンシリーズ作品の「死刑執行中 脱獄進行中」「ドルチ」、『ジョジョ』第4部の登場人物が出演する「岸辺露伴は動かない」「デッドマンズQ」の4編。(後半の2編も『ジョジョ』本編とは無関係な独立した内容)

絵は綺麗だけど筋立ては長篇作品(というか『ジョジョ』)と較べるといささか平板な印象。この人は短篇的な構成の切れ味やアイディアの妙で読ませる作家ではなく、あくまで強烈なキャラクターを造形したうえで話を動かす、つまりある程度語り起こしの助走期間を必要とする長篇型の作家なのだろうと思う。

2003-08-19

『コンフェッション』

Confessions of a Dangerous Mind (2002)
★★★

ジョージ・クルーニー初監督作で、脚本はチャーリー・カウフマン。米国TV界の伝説的なプロデューサー、チャック・バリスの自伝をもとにした映画。

前半はクルーニー&カウフマン版の「『ビューティフル・マインド』、俺ならこうするね」みたいな話なのかと思ったのだけど、「裏の顔」のCIA任務が必ずしも妄想として完結しているわけでもないような場面も出てきたりする。いずれにしても、無理して人間賛歌みたいに演出した『ビューティフル・マインド』よりは、この『コンフェッション』の「世界はいんちき」という地平から出発する世界観のほうが肌に合う。

チャック・バリスの発案するTV番組はどれも「素人参加型」のようで、その先駆者ということで記憶されているのだろうか。正直言って登場する有名なTV番組(らしい)になじみがないので、そのあたりの歴史的な面白味はよくわからなかった。そこを知らなくても興味深い普遍的な作劇がなされているかというとそうでもない気がする。

とはいえ、随所で適度にひねりの利いた映像の見せ方が出てきてそれなりに退屈しない。主演のサム・ロックウェルは徹底していんちきくさい(でも童顔なので少年の心を残しているようにも見える)TVプロデューサーを好演している。この人はよく知らなかったけど注目したい。さすが俳優出身の監督だけに巧い人を抜擢してきたなと思う。パートナー役のドリュー・バリモアも良い。ジョージ・クルーニー監督の次の作品も観てもいいかなと思う。

『泳ぐひと』

The Swimmer (1968)
★★★★

NHK-BSで視聴。

ジョン・チーヴァーの短篇小説をもとにした映画。これは面白かった。原作は『ミステリマガジン』1984年6月号に訳出されているらしく(翻訳作品集成より)、映画を観たかぎりではたしかにちょっとミステリ的な構成になっている。(なので、観る予定のあるかたは以下の文章を読まないほうが良いかもしれない)

各家庭にプールが設置されている郊外の高級住宅地が舞台。水着姿で颯爽と登場した主人公バート・ランカスターは、ここから自分の家までの帰途にある各家庭のプールを順々に泳いでいけば「泳いで帰る」ことになると言い出して、水着姿で各家庭を訪問する。これが「郊外生活の断面を覗き見る」趣向になるのは最初の段階で想像がつく(実際にもそう展開する)のだけれど、他の住人たちと会話をしていくにつれて、次第に主人公を取り巻く現状がどうやら本人の申告する通りの「幸福な家庭」とはほど遠いらしいこと、彼がそれらの現実から徹底して目を逸らそうとしている人物らしいことがわかってくる。これは例えばカズオ・イシグロの傑作『日の名残り』みたいな手法で、イシグロの小説と同じく核となる事実を直接描写しない(伝聞でのみ語らせる)ところが面白い。途中の布石が図式的なので早い段階から結末を読めてしまうのは否めないけれど、それを見越したうえでも細部が興味深かった。何を言われても森田健作ばりのさわやかな笑顔と白い歯で見返す、でも常に海パン姿のバート・ランカスターが最高。

「真実」と「自宅」に近づいていくにつれて、最初は健康的に見えたバート・ランカスターの体調が次第にすぐれなくなり、晴れていた天気が次第に悪くなっていく。これは主人公の内面を暗示(明示?)しているだろう。

主人公の家は「丘の上」にあるという。「丘の上」という言葉に何を思い出すかというと、かつてメイフラワー号で新大陸に移住した清教徒たちの築こうとした理想郷が「丘の上の町」と呼ばれていたこと。つまりこの話は、そんなアメリカ建国者たちの理想郷、その延長にある「郊外の幸福な家庭」が幻想にすぎないことを示している。と、図式的に読めてしまうところが面白くも、また物足りなくもあるかもしれない。

2003-08-20

ゆうきまさみ『機動警察パトレイバー』(1-3巻)

小学館文庫版で序盤の3巻まで読む(全11巻)。初出は1988-1989年。

新米警官が成り行きから最新型ロボットのパイロットを任されるという、『機動戦士ガンダム』のパターンを踏襲した話。宇宙空間とかではなく、ほとんど現代の東京を舞台にしているのがいまと地続きで目新しいのかな。このシリーズはもちろんアニメ化されていて有名だけれど、この種のロボット戦闘ものは元々アニメで映像化するのが相応しい内容をしかたなく漫画で描いている、という感じがしてしまうので、漫画単独で評価するのがちょっと難しい気がする。

読んだ範囲だと、敵の設定が面白くないのが気になった。主人公たち警視庁の特殊部隊の敵役になるのはレイバー(ロボット)を開発する企業の人間で、この人物は他に何か目的があってレイバーを動かすのではなく、「レイバー同士を戦わせる」ために警察へ勝負を仕掛ける。要するに戦闘自体が手段でなく目的になっている。これは作者の都合による「自作自演」で戦闘が発生しているようなもので、詰まらない展開だと思う。続きを読むと新たな展開が出てくるのかもしれないけれど、そこまで追いかけなくてもいいかなという感想。

2003-08-21

『トーク・トゥ・ハー』

Hable con ella (2002)
★★★

ペドロ・アルモドバル監督・脚本。この監督の映画とはどうも相性が良くないみたいで、前作『オール・アバウト・マイ・マザー』もそうだったけれど、劇中で「生と死」に関する出来事を扱いながらそれが偶然や奇跡に頼ったものになるところに抵抗を感じてしまう。子供が生まれようと生まれまいと、昏睡状態の患者が息を引き取ろうと意識を取り戻そうと、どうせ作者の「奇跡」によって決定されるのならどちらでも構わない気がしてくる。この作品では、看護士のベニグノが「行為」に及ぶ過程を非常に説得力をもって描けていたので(ユニークな短篇映画まで創作して)、他のところでもそういう面白いつなぎがあれば良いのにと思った。

昏睡状態にあるヒロイン役のレオノール・ワトリングが綺麗。この人は劇中でほとんど昏睡状態にあるという設定で裸の胸を画面にさらしたりしているのだけど、そのときは全然色っぽく感じられず(まあ当然だろうけど)、元気なときの姿が映るとたしかにはっとするほど美しい。だから映像のレベルでも、観客はもういちど元気な彼女の姿を観たいと心から願えるようになっていると思う。

2003-08-22

羽海野チカ『ハチミツとクローバー』1-5巻(集英社)

ウェブを眺めているとあちこちで評判になっている作品で、乗り遅れまいと読んでみた。面白い。

美術大学に通う男女の学生たちを主人公にした青春ラブコメ群像劇で、「片想い」の関係をいかにして当人たちが解決しようとするのかが丁寧に描かれているけれど(ちなみに開始から現在の5巻まで、関係はほとんど進展していない)、日常描写に挿入されるギャグが効いているのも印象的。この作品のギャグの傾向として、他の作家の漫画の絵や演出を突然引用してきて「決め」を作るというのがあるのだけど、それが器用で嫌味になっていない。主たるギャグ発生源になっているのが、主要人物のなかで内面描写をされない(というか、内面描写がたぶん不可能な)ブラックボックス的存在の「森田」で、このキャラクターはその外見と謎の行動からして、一世を風靡したギャグ漫画『すごいよ!!マサルさん』の「マサルさん」が元になっているだろう(5巻になると彼の登場シーンで『マサルさん』を模した効果音の出るコマがある)。その「マサルさん」的な人物を、途中で退場させながらも一応恋愛劇の駒として機能させられているのも、考えてみると結構な離れ業かもしれない。

というわけで、この作品はラブコメ少女漫画に少年誌のギャグ文法を巧く取り入れるセンスにも感心する。ただ、5巻で帰還した森田はより一層「マサルさん」的な変人化が進んでいるようで、これが今後の進行の妨げにならないか心配な気もする。

『ハチミツとクローバー』と『スラムダンク』

少し調べてみたところ、『ハチミツとクローバー』の作者、羽海野チカは元々『スラムダンク』ネタの同人誌で知られている人だったらしい。『ハチミツとクローバー』のシリアスな場面とギャグの場面の絵柄の切り替え(等身も別々になる)は『スラムダンク』に似ている気がしていたので、納得した。そういえば「森田」のキャラ造形は「マサルさん」と『スラムダンク』の「流川」を足して2で割ると比較的近いかもしれない。

2003-08-26

マーク・トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』(ちくま文庫)

Adventures of Huckleberry Finn (1884)
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★★★

ご存じ、アメリカ文学の基本中の基本とされる古典ながら実は今回はじめて読んだ。実際に読んだのは村岡花子訳の新潮文庫版。翻訳が古いせいもあるのかあまり愉しめなかった。

ハックルベリ・フィンは自分の死を偽造して窮屈な生活から脱出し、行く先々で偽の名前を騙る。つまり彼は自分の名前を隠した状態で旅をするのだけど、それと呼応するようにほとんどの場面で主体的な行動をせず、事態に介入しない傍観者として振る舞う。そのハックの「傍観者」ぶりと対照的なのが後半に登場するトム・ソーヤーで、彼は単純な事態を「自作自演」で大袈裟な物語に仕立て上げようと、事態に「介入しすぎる」困った人物として描かれる。

この主人公ハックの傍観者的なスタンスがいまひとつ物語中で機能している気がしなくて、彼は巻き込まれた出来事とほとんど動的な関わりを持たないし、彼の独自の語り口が世界を解体するわけでもない(例えば『神聖喜劇』みたいに)ので、ハックがそこに登場しなければならない強い必然性を感じられない場面が多い。主人公の語りが単にエピソードをつなぐ三人称的な「視点の装置」になりがちで、長篇小説としての一貫性に乏しいように感じる。私立探偵小説の祖型といえばそうなのかもしれないけれど。(そういえば『赤い収穫』の主人公=語り手も「名無し」の探偵だった)

歴史的な価値は別として、いま読む作品としては、この『ハックルベリ・フィンの冒険』よりも「百万ポンド紙幣」「ハドリバーグの町を腐敗させた男」などの短篇のほうが面白い。マーク・トウェインはどちらかというと短篇向きの作家なんじゃないかと思った。

『ハックルベリ・フィンの冒険』と「ドルリー・レーン」

ところで、『ハックルベリ・フィンの冒険』に登場する詐欺師「王様」と「公爵」はシェイクスピアの演劇を上演するのだけれど、そのときの告知に「ロンドン、ドルリー・レーン座所属」と書いてある。エラリイ・クイーン(バーナビー・ロス)の『Xの悲劇』などに登場する探偵「ドルリー・レーン」(シェイクスピア演劇で知られる、引退した舞台俳優という設定)の名前はこれが元になっているのだろうか。

2003-08-30

『アダプテーション』

Adaptation. (2002)
★★★

「ネタがない」ということをネタにする自己言及フィクション。小説読みからするとこの種の発想はわりとありふれているし、映画でないと表現できない何かがここにあるようにも感じられなかった。

スパイク・ジョーンズ監督&チャーリー・カウフマン脚本の前作『マルコヴィッチの穴』が「なぜかマルコヴィッチだよ、ワハハ」で一本を押し通そうとする話だったとすれば、今回は「なぜかニコラス・ケイジが双子だよ、ガハハ」で乗り切ろうとする話ということだろうか。

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