伊坂幸太郎/新潮社(2003.4)
[amazon] [bk1]
★★★
探偵小説的なパズルの意匠を、現代の都市を舞台にした人情話と組み合わせる趣向。軽快な文章と会話は、ローレンス・ブロックの泥棒バーニイものに近い味わいを感じる。日本ではたぶん他に似たものを書く人のいない貴重な存在。
今回は登場人物が少なめで、パズルのピースとして使われるだろう特殊な設定がはっきりしているので、事前に裏の連鎖を見通せてしまうのがいささか弱い。登場人物の多い『ラッシュライフ』のほうが、どこがどう繋がっていくのか予測できないという意味での面白味があった。
地方都市(仙台)を舞台にしていて、暗号的に連鎖する犯罪事件が物語を主導し、家族の絆が描かれるという意味で、舞城王太郎の『煙か土か食い物』を連想する。見た目はまったく異なるけれど、ミステリ的なガジェットを現代小説のなかでいかに活用するかという問題意識にはどこか通じるものがある気がする。
ローラ・ミラー+アダム・ベグリー編/柴田元幸監訳/研究社(2003.5)
[amazon] [bk1]
The salon.com Reader's Guide to Contemporary Authors (2000)
★★★★
1960年代以降に活躍した英語圏の現代作家のガイド本。トマス・ピンチョンからスティーヴン・キングまで、日本でいえば風間賢二あたりの紹介してきたような系統の作家が取り上げられている。価格は高め(3800円)だけど、この種の評論本はなかなか翻訳されにくいので、海外の論調を知るリファレンスとしては貴重だろうか。その作家で最初に読んでほしい推薦作品に印を付ける、類似する面白さを持った作家を必ず挙げる、評者の気に入らない作品は遠慮なくこきおろすなど、読書案内としての実用性を重視しているのは好印象。米国の有名なウェブサイトsalon.comの企画なので、"See Also"の項で他の作家の名前を挙げられると、HTMLならリンクですぐその作家の紹介文を辿れるのになと思ってしまったりする。
当サイトで積極的に推薦してきた作家では、カズオ・イシグロ、アーヴィン・ウェルシュ、イアン・マキューアン、パトリック・マグラア、スティーヴン・ミルハウザー、ニコルソン・ベイカーといった名前が見える。SFを除いてジャンル・フィクションを書く作家には概して厳しめで、ミステリ分野の作家はほとんど登場しない(ウォルター・モズリイくらいか)。ロス・マクドナルド、ジョン・ル・カレ、トマス・ハリス、スコット・トゥロー、ジェイムズ・エルロイあたりは、一時代を築いた大家として論じられてもおかしくないと思うのだけど(ただしジェイムズ・エルロイの『ブラック・ダリア』は複数の評者が賞賛している。ちなみにその評者はスティーヴ・エリクソンと、『ぼくがミステリを書くまえ』のデイヴィッド・ボウマン)。まあ、そんなことを言っているときりがないか。
作家の項目数が多くてとても全部は読みきれないので、拾い読みして印象に残っている箇所など。
イーサン・ケイニン/柴田元幸訳/文春文庫
[amazon] [bk1]
The Palace Thief (1994)
★★★★
イーサン・ケイニンの作品を読むのはこれがはじめて。「会計士」「バートルシャーグとセレレム」「傷心の街」「宮殿泥棒」の四篇を収録した中篇集。最初の「会計士」がおそらく典型的な内容で、堅実に努力して人生を積み重ねてきた男が、別の生き方をする他人と出会って自分のこれまでの人生を振り返る(そして前に一歩を踏み出していく)、というような人生の機微を描いている。とても良かったし、アメリカの郊外生活を端正に描いた小説を読んだなあという気にさせられる。柴田元幸の淡々とした訳文も内容とよく合っている。
この作品集を読んでいて連想したのは、『推定無罪』『立証責任』などのスコット・トゥローの小説。トゥローもほとんどの作品で、堅実な職業に就いて努力型の人生を送ってきた男が、何かの挫折に直面して「自分のこれまでの人生は何だったんだろう」と迷うところを描いている。(ちなみに、イーサン・ケイニンは名前からするとユダヤ系の人ではないかと思うけれど、スコット・トゥローも『われらが父たちの掟』などを読むかぎりではたぶんユダヤ系の人だろう。それが作品の主題に影響しているのかどうかは判断がつかないけれど)
歌野晶午/文芸春秋(2003.3)
[amazon] [bk1]
★★
『世界の終わり、あるいは始まり』に続き、真面目な社会派ものと思わせた枠組みに無茶なトリックをぶち込んで悪い冗談すれすれの小説にしてしまう不敵な趣向。これは『世界の終わり〜』ではぎりぎり成功していたけれど、今回は企画倒れ的で残念ながら失敗していると思う。物語レベルの真相暴露と読者に対するメタ・レベルの真相暴露とが別個に仕掛けられていて必ずしも噛み合っていないため、終盤の謎解きがどうにも釈然としないものになっているし、この話法を採った物語的な必然性も見出せない(殊能将之『ハサミ男』の釈然としない感じもこれと似ている)。短篇で済む着想を長篇のかたちに引っ張って、結果として制約付きの面白味に欠ける物語を長々と読まされることになったという印象も拭えない。
この作品の趣向に感心する読者もいるのだろうとは思う。どうしてこれが成功していないように見えるのかを考えるうえでは典型的なサンプルとして充分に興味深いテキストだし、読後つい他人と感想を確認し合いたくなってしまうという意味でも妙に気になる作品ではある。