新・サイコドクターあばれ旅の読冊日記が今月から再開されているようで嬉しい。これは全くお世辞でなく書くのだけれど、Webで本や映画の感想を書き散らす者にとって、ここは語り口の明快さ・視野の確かさ・更新の頻度など、ひとつの模範でありつづけてきたところだと思う。
4/4の『アメリ』に関しては他でも、オシャレ流行映画かと思って敬遠していたら意外にとても良かったという感想を見かける。公開当時のフィーバーが結果的にネガティブな宣伝になってしまい、本来映画を気に入るだろう観客のもとに届かないという、不幸な経緯をたどった作品のひとつかもしれない。(自分の経験でいえば『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がこれに近い)
Being There (1979)
★★★★
ピーター・セラーズの最後の出演作になったらしい作品。ハル・アシュビー監督。
謎の庭師(?)、チャンス(ピーター・セラーズ)の言動が周囲の人物に次々と勘違いされていく風刺劇。主人公の言葉がことごとく誤解されるものの、それぞれ「主人公の世界」と「周囲の人々の世界」では首尾一貫して矛盾を来さない、という課題を達成しようと試みる脚本の実験を見守る趣向になっている。それだけでは単なるすれ違いコメディになってしまいそうな内容なのだけど、このコメディ調の話をやたら格調の高いシリアス・ドラマ的な映像(撮影:カレブ・デシャネル)で見せているのが独特。こういう、筋書きと映像表現に意図的なギャップがあるために奇妙な奥行きの出ている作品は好みで、映画でないと達成できないものを見せられている気がする。例えば『アンブレイカブル』などもそれに近いだろうか(『アンブレイカブル』もこのくらいわかりやすい風刺劇になっていれば、あんなに賛否両論を呼ばなかったのかもしれないけど)。
原作・脚本はイェールジ・コジンスキー。もともと映像化のために構想されたかのような話で、原作の存在を感じさせないところはたぶん見事な脚色なのだろう。
東堂 事件解明、真犯人追及の手がかりも、そこにあるかもしれない。おれも、シャーロック・ホームズになったつもりで傾聴するから。
冬木 わかった。そげんするごと努力する。
橋本 あんなぁ、東堂二等兵。いまの、そん……外国語のごたぁるは、なんな?
東堂 う? ……あぁ、「シャーロック・ホームズ」。探偵の名前だよ。探偵小説の中の……名探偵の名前。(p.115)
『神聖喜劇』は類例のないヒーロー小説として読むことができるだろう。この物語の主人公・東堂太郎の人物像と存在感は、圧倒的な知識量と鋭い弁論で犯罪者を糾弾する名探偵、例えば笠井潔の矢吹駆や京極夏彦の京極堂などに通じるところがある。物語の構造も、伏線を張りめぐらせて徐々に事件の全貌を明るみに出していくという探偵小説的な手法を採っている(ちなみに該博な読書家である東堂は、少なくともアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』やダシール・ハメットの『赤い収穫』を原書で読んでいることが作中に示される)。探偵小説の常道では、「名探偵」の存在は平凡な「ワトソン役」の人物の語りを介して読者に伝えられ、その内面を直接覗き見ることはできない。そうした一般人の智力を超えた虚構のヒーロー的な人物を、あえて一人称の語り手にすえて読者の前面に出してみるとどうなるか。『神聖喜劇』の特異な語りには、そんな趣向の実験作としての興味を持つこともできる。
五巻を通して読むと、クライマックスの「模擬死刑の午後」を経た後は何か熱が冷めたように伏線を回収するだけになってしまい、必ずしも手放しで褒められる傑作とは言い切れないように思う。全編を通した評価を付けるとしたら★★★★かな。
ジム・トンプスン/三川基好訳/扶桑社
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A Swell-looking Babe - by Jim Thompson (1954)
★★★
発表時期の近い『死ぬほどいい女』(1954)や『アフター・ダーク』(1955)に近い感じで、一見ファム・ファタルものの典型を踏襲しているようでいて、その実トンプスン流のねじくれた病的なモチーフに支配された犯罪小説。特に今回はトンプスン作品ではおなじみの要素、母子相姦と父親殺しの願望が露骨に仕込まれていて印象深い。『死ぬほどいい女』ほどあからさまに異様な書法を貫いているわけではないので、その点はちょっと平凡な感じもするけれど。
ジム・トンプスンが訳されて彼の作品群の全貌が見えてくるのはもちろん嬉しいけれど、そろそろチャールズ・ウィルフォードも訳されないものかなと、個人的にはそちらのほうに期待している。
森川嘉一郎著/幻冬舎
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★★★★
家電の街から、オタク趣味の美少女キャラが公然と陳列される特異な空間へ変貌した秋葉原に注目した都市論/オタク論。ここ数年の秋葉原の変貌は、従来の官主導の開発(1960年代)でも、民間企業の事業展開(1980年代の渋谷・池袋)でもない、個人の趣味の集積が公共空間の風景を変えてしまった新しい流れだと論じる。
以前に東浩紀『動物化するポストモダン』を読んだとき、「動物化」という呼称に違和感を感じて次のように書いたことがある。
例えば「○○萌え〜」なる発言をする心理の裏には、(何でも良いのだけれど)その「○○」に対する嗜好を支持する風潮があって、その共同体との接続を確認する安心感があるんじゃないだろうか。
この背景にはパソコン通信/インターネットの存在があるだろう。一般社会では同好の士を見つけるのが難しい趣味でも、Web上であれば堂々と名乗り、仲間を集めて情報交換をしたりすることもできる(これは別に狭義のオタク趣味に限った話ではなく、例えば僕が自分以外のスティーヴン・ミルハウザーの愛読者を一般社会で見つけるのは至難の業だろうけど、Webで少し検索をすればすぐに何人も探し当てられる)。オタク趣味なり「萌え」なりを表明すれば、ほとんど必ず世界のどこかにその支持者、同好の士を見つけることができるような地盤のあることが、結果として「萌え」の公然化、そして秋葉原の街並みの変貌につながっているのではないかと思う。そういう意味で『動物化するポストモダン』の論じていた、最近の若い者は「動物化」(短絡化?)しているという主張よりも、この本の論点のほうに実地に即した説得力を感じた。
全体的にオタク寄りの視点で書かれているけれど、秋葉原を変えたのは新時代の個人革命だ、というような無茶な賛美の立場を採らずに、ある程度中立的な態度で済ませているところに好感をおぼえる。オウム真理教がある意味でオタク文化の鬼っ子のような存在だという、多くの人が言い淀んでいた(と思う)点を、オタク側の観点から実感的に認めているのも興味深い。
移転したらミステリ系更新されてますリンク(登録変更どうもです)で更新時刻を拾えなくなってしまったらしい。はてなアンテナでは大丈夫そうなので安心していたのだけど、何だか残念。まあ、労せずして常に上位に居座る特権階級みたいで良いかもしれない、と思うことにする。
4/6時点の参加希望者は2名なのだそうで、意外に少ない。ちなみにその2名のうち1人は僕なので、顔を見てみたいという奇特なかたがいたら参加してみるのも良いかもしれません。>まったりCafeオフ会
小説・映画・音楽の話題をアフォリズム的な短文で切り取る、一風変わったスタイルの文章サイト。さりげない書き方だけれど結構喚起力があって参考になる(最近では2003/03/06の津原泰水『ペニス』に関する記述を読んで、ちょっと作品を読み返してみようかと思った)。スターバックス風(?)の小綺麗なデザインも格好良い。
ウラジミール・ナボコフ/大久保康雄訳/新潮文庫
Lolita - by Vladimir Nabokov (1955)
★★★
言わずと知れた「ロリータ・コンプレックス」の語源にして、ナボコフのたぶんもっとも有名な小説。
内容的には言葉遊びの部分がやたら多く(作者自身もこの小説は「英語との愛の記録」だと韜晦気味に語っている)、これは翻訳で読んでも真価のわからない作品のような感想を否めなかった。主人公とロリータの位置関係が作品を通じてほとんど変わらないので、サスペンス的な興趣なども生じていない。個人的には、谷崎潤一郎の『痴人の愛』(文句なしの傑作)のような娯楽性抜群の小説をいくらか期待していたので拍子抜けだった。
犯罪者の獄中手記、という語りの形式は犯罪小説の読者にはおなじみのもので、カミュの『異邦人』あたりにも通じるだろうか。
The Straight Story (1999)
★★★★
デヴィッド・リンチ監督。なんでリンチがこんな心暖まる渋い話を撮ったのかと思ったら、リンチの「公私にわたるパートナー」のメアリー・スウィーニー(普段は編集担当。本作では製作・脚本にも名を連ねている)の企画を映画化したものらしい。
田舎の爺さん、リチャード・ファーンズワースが喧嘩別れした兄に会うためトラクターで旅をするロード・ムービー。その主人公の娘で、少し言語障害のある女性を演じているシシー・スペイセクの凄さに改めて感心した。この映画でのシシー・スペイセクの演技の完成度と独創性は、それだけで優に一本の映画を支えられそうな基準に達している。ところが彼女は主人公の道行きには有機的に絡まない、単なる背景の登場人物の役割に甘んじている。これは一見ミスマッチなんだけど、存在感のある人物が筋書きの進行に寄与しないことで逆に作品世界の奥行きが生まれる(映画の本筋以外の豊かな物語を予感させる)という、面白い効果を上げていると思う。
はてなダイアリーを試しに使いはじめてみました。いつまで続けるかわからないけれど、こちらに混ぜて載せていたニュース的な記事を拾っていく場にする予定。(もともと掲示板をそういう用途に使おうかと考えていたのだけど、いまひとつ軌道に乗らなかった)
生垣真太郎/講談社ノベルス(2003.1)
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★★★
幻のスナッフ・フィルムのルーツを探索する。映画の知識に架空の映画人名を混ぜているところはちょっと『フリッカー、あるいは映画の魔』(傑作)みたいな感じもあって期待させたのだけど、語り手の認識能力に不安があるために話が錯綜する、という手口に頼るのはいかにも安易だし、京極夏彦の作品で見慣れたような手法なので新鮮味に欠ける。
作中の映画の話題は講談社ノベルスの平均的な読者層を念頭に置いて親切に噛み砕いてあるようで、「NY在住の映画編集者」の語り手がどうしてそこまで配慮して語らなければならないのか、という意味での不自然さが多少生じているのは否めない。まあ、商品としてのバランスも求められるだろうから難しいところだろうか。
『フレームアウト』の作中で展開される、映画『ロング・グッドバイ』(ロバート・アルトマン監督)をめぐる論議はなかなか面白かった(これは小説というより、作者がそのまま喋っているような内容だったけれども)。
『ロング・グッドバイ』でフィリップ・マーロウを演じたエリオット・グールドは、ニューヨーク出身のユダヤ系の俳優。ロサンジェルスでは二重の意味で場違いな「アウトサイダー」にあたる。公開当時は本来のタフガイ探偵像を裏切ったとして批判されたけれども、むしろそれが原作の探偵像(現実に適応できない「負け犬」)を忠実に体現しているといえる、というような内容。この観点は法月綸太郎の「チャンドラー=英国育ちの異邦人」論(パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』解説)にも通じるだろう。
舞城王太郎/新潮社(2003.1)
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★★★
女子高生の一人称語りによる舞城王太郎の新作。新機軸の女性の口語一人称文体に挑戦しているのは好感を持てるけれども(一定の成果を上げた作品として記憶されると思う)、中盤以降の村上春樹/デヴィッド・リンチ的な「夢の話」を展開する手つきが見え透いていて、残念ながらこのままの路線だと底が見えてきたような感じがする。以前に短篇「バット男」をいまひとつに感じたときにも思ったけれど、この作家特有のジャンク的な犯罪描写が前面に出てこないと何か独自性がなくて物足りない(この作品にその要素は皆無ではないものの、この程度だと京極夏彦の『魍魎の匣』の亜流に見える)。
「天の声」掲示板こと舞城世界の「2ちゃんねる」の描写に関しては、創作というよりは現実を模倣しているように見えてしまい、扱いが難しい。これは似た趣向の小川勝巳『まどろむベイビーキッス』にも感じたところ。
大場正明・編集部編/フィルムアート社
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★★★
"Cine Lesson"シリーズの15巻め。『キッスで殺せ』(1955)から『ドニー・ダーコ』(2001)や『プレッジ』(2001)までのアメリカン・インディーズ系映画を中心に、ハリウッド主流から少し外れた作品・トピックを拾っていく特集。これはちょっとこじつけじゃないか、と思える箇所もあるけれど、比較的興味を持っている分野の話なのである程度参考になった。編集担当が『サバービアの憂鬱』の大場正明なので「郊外」関連の論題が多い。
大場正明の「アメリカン・インディーズ」論で、ジョン・セイルズ(『希望の街』『パッション・フィッシュ』)が取り上げられていたので嬉しい。ただ、並列されているジム・ジャームッシュとスパイク・リーの作家論(このふたりと対比されるのは納得できる。「非WASPのアメリカ」を描く映画作家という文脈だろう)に較べるとそこだけ文章の歯切れが良くないようなのが気になる。最近の作品が輸入されていないせいもあるだろうか。
アントニイ・バークリー/武藤崇恵訳/ 晶文社
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Roger Sheringham and the Vane Mystery - by Anthony Berkeley (1927)
★★★
シェリンガムもの第三作。例によって「名探偵」を皮肉った展開が盛り込まれている。警察との絡みは『最上階の殺人』の原型といえるかもしれない。
後の作品に目を通しているせいもあって、この程度の単発的な突っ込みではまだ物足りなく感じる。バークリーが念頭に置いているだろうアンチ名探偵小説の里程標的名作『トレント最後の事件』がいまも充分面白く読めるのは、単に名探偵や類型的な探偵小説を批判しているだけでなく、それに代わる新たな探偵小説の魅力的な書き方を提示できているからだと思う。バークリーの作品がその領域にまで達するのはたぶん『毒入りチョコレート事件』以降ということになるのではないか、というのが、これまでに訳された範囲の作品を眺めての感想。
Chicago (2002)
★★
印象は『ベティ・サイズモア』+『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。刑務所の殺人犯の女たちが「あたしは悪くないもんね!」と自己正当化の舞いを踊り、主要人物の三人はいずれも富と名声しか眼中にない利己的な人物なのでまったく感情移入の余地がない。ほとんど『マルホランド・ドライブ』なみにダークな世界観が清々しい映画なのだけど(よくこれでアカデミー賞を取れたな……と思ってしまう)、いまひとつ乗りきれなかったのは元来ミュージカルに愛着がないせいか、ヒロインのレニー・ゼルウィガーがミスキャストに思えるせいだろうか(外見は綺麗だけど内面は空虚な「魔性の女」という感じの役柄なので、この人のイメージと真逆ではないか?)。それにしても、主要人物の三人ともがほとんど同一の価値観の持ち主で、観客から見ても終始それが変わろうとしない(もちろん葛藤も生じない)のは、ミュージカル劇とはいえ興味の高まらない作劇のように感じる。
リチャード・ギアが実利主義的な辣腕弁護士を演じるといえば、『真実の行方』を思い出す。『真実の行方』の映画版はエドワード・ノートンの出世作になったことを除けばたいした出来ではなかった記憶があるけれど、ウィリアム・ディールの原作は興味深い作品で、弁護士の人物造形も面白かった。
ところでキャサリン・ゼタ=ジョーンズの役名は「ヴェルマ」。ヴェルマといえばレイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よ』に登場する、悪女というかファム・ファタルの代名詞的存在を連想する。