吉野仁氏の3/2付記述で批判されている"某本格ミステリ「トンデモ論」作家"の言説というのは、『本格ミステリこれがベストだ! 2002』掲載の笠井潔の書簡を指しているのだろう。
別段どちらの肩を持ちたいわけでもないけれど、以前(2002/06/02)書いたように、この笠井潔の突っ込みは結構おもしろい論法だと思った。引用を再掲する。
「だれもかれもとち狂っている」(中略)のですから、この陳述をしている主体もまた「とち狂っている」に違いありません。「とち狂っている」者の判断は当然のこと「とち狂っている」はずだから、「どいつもこいつもとち狂っている」という陳述は信用できないことになります。(中略)おそらく馳星周は、「とち狂っている」人間たちの世界のメタレヴェルに自分が位置し、世界や他者たちが「とち狂っている」かいないかを特権的に判断できることを、深いところでは疑っていないのでしょう。
で、例えば小川勝己や奥田英朗ならば「だれもかれもが狂っている」とは言わないだろう、馳星周の世界観は彼らに較べると古臭いのではないかと結論していたように記憶している。これは馳星周の煽り調子の「断言」におぼえる居心地の悪さを説明していて、共感のできる内容だった。
対して、今回の吉野氏は以下のように書いている。
「誰もがトチ狂っている」と判断する主体(個人)は、自分(だけ)は狂っていると思っていない。「自分自身はおかしくないが、周りのみんなが狂っている」。/だが、ときに自分自身も狂っているかもしれないことを(心のどこかで)自覚しているのかもしれない。あくまで「わたしだけはまともだ」と思いながら、自分がおかしくても不思議ではないことをうすうす感じている。
この後段を読むと、先の笠井書簡は馳星周の文章にその「自覚」が欠落しているので物足りない、と言っているわけで、吉野氏の文章はきちんとした反論になっていないように思える。(まして、ここで俎上にのぼっている馳星周の推薦文は、「だれもかれもがとち狂っている――それが現実(リアル)だ」といったような種類の断言で結ばれているのだから)
吉野仁氏の3/5付記述によると、先の文章は『本格ミステリこれがベストだ!2002』の該当文章を標的にしたものではなかったらしい。では何が出典なのかというのは明らかにされていないし、いずれにしても、元の発言の文脈が同じだとしたら主旨は変わらないだろうと思うのだけど。
某本格ミステリ「トンデモ論」作家が、某所で「これは矛盾している」と分かった風に指摘していた。
みたいな当てこすりをわざわざ書いておきながら、
こういう場所で微妙な問題を的確に伝えるように書くことの難しさをあらためて感じた。
なんていまさら嘆いてみる態度も理解に苦しむ。
そしてまた「某所で断定されていた」というのだから、「いや、君達を指して書いたわけじゃないよ」「こういう場所で微妙な問題を的確に伝えるのは難しいね」ということになるのだろうか。
結局、まじめに取り合うだけ無駄だったようで心底がっかりした。責任を持つ気のない書き捨てなら、2ちゃんねるにでも書き込めばいいのに。(もちろんそこでも、筋の通らない発言は批判に晒されるだろうけど)
フランク・アバネイル&スタン・レディング/佐々田雅子訳/新潮文庫
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Catch Me If You Can - by Frank Abanale with Stan Redding (1980)
★★★★
スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の原作。まだ10代の時分に、小切手詐欺で世界を渡り歩いた「稀代の詐欺師」が若い頃の冒険を振り返った半自伝本。まさに映画のような人生があったものだな、という月並みな感想くらいしか言うことがない(ほとんど「ルパン三世」の世界だ)。コンピュータ認証などが導入される以前、格好さえ立派なら人を信用させられた、最後の「古き良き時代」の犯罪物語。主人公の犯罪が軽やかで特定の個人を標的にしない種類のものなので、嫌な感じがなく気分良く読める。自分が他人の目に魅力的に映る人物であることを隠さない(ただしことさらに自慢はしない)のがいかにもアメリカ流の書き方だと思う。
スピルバーグ監督は前作『マイノリティ・リポート』が行き過ぎた犯罪予防システムの施行された近未来社会を描いた犯罪もので、今度は対照的に犯罪対策の緩かった過去の時代を舞台に選んだことになる。映画のほうは予告編を見たかぎりでは、亡きジョージ・ロイ・ヒル監督作品(『明日に向かって撃て!』『スティング』)を思わせるような、懐かしさと軽やかさを漂わせる娯楽作品になっているようで、結構愉しみにしている。この原作を読んだかぎりでは、トム・ハンクスのFBI捜査官とクリストファー・ウォーケン演じる父親はさほど大きな役割を担っていないのだけど、どんな改変が加えられているのだろうか。
小川勝己/新潮社(2002.10)
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★★★★
読みは「しおなだ」村。今度の内容は横溝パロディらしいと聞いて、あまり横溝作品に興味のない読者としてはいくぶん敬遠していたのだけれど、中学生を視点人物にして思春期の内面を描いている前半部がやたら丁寧で読ませる。いわゆるおたく世代以降の作者の感覚がここでも発揮されている、という気がする(主人公の卑屈で冴えない感じはほとんど『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公みたいだ。とても彼に明るい未来が待っているとは思えない)。パズラーの形式を借りながら、都会から離れた田舎の日常生活を綿密に描写している(結果的にわざと事件の見通しを悪くしている)ところは、倉知淳の『壷中の天国』と近い感触。
La Regle Du Jeu (1939)
★★★
『市民ケーン』や『フェリーニの8 1/2』などと並んで、映画史上の名作の人気投票を募るとたいてい上位に顔を出す作品のひとつ。実はその種の作品を面白いと思ったことがなくて、これもやはりそうだった(これは別にアンチ権威主義を気取っているわけではなくて、単なる素朴な感想にすぎない)。
もっと入り組んだ群像劇を期待していたのだけれど、基本的には二組の男女の三角関係のもつれを追っているだけの構造で、いま見ると小味な内容に思える。物語の底流に流れる、欧州の貴族階級と伝統的な社会秩序の終焉、といった主題もあまりぴんとこないものだった(この点はジャン・ルノワール監督の近い時期の作品『大いなる幻影』(1937)も似たような印象)。重要な役どころで出演もしているジャン・ルノワール監督は、身振りが演劇的で浮いている気がする。
作中の台詞のように「誰にも正しい言い分があり」、それぞれの主張する利益が両立し得ないとするなら、争いはやがて暴力的な破局を迎えるしかない。それが一面で第二次世界大戦を暗示している、という意味では確かに予言的な内容なのかもしれない。
貴族と使用人の二層を描いた群像劇ということで、ロバート・アルトマン監督の『ゴスフォード・パーク』が影響を受けているというのは納得。と同時に、滅びゆく貴族階級におそらく何の愛着も感じていないだろうアルトマンの乾いた視点のほうが、後世の異国人の立場から見ると比較的しっくりくるとも思った。
Scarlet Street (1945)
★★★
NHK-BSで放映されていたのを視聴。フリッツ・ラング監督、エドワード・G・ロビンソン&ジョーン・ベネット主演と、傑作『飾窓の女』(1944)の姉妹編といって良い顔ぶれの作品。『飾窓の女』と同じく平凡な小市民が綺麗な女につられて犯罪の世界に足を踏み入れてしまう話で、中盤までとても面白かった。少し物足りないのが、ジョーン・ベネットとヒモの男の状況認識が終始一致していてすれ違いを見せないこと、途中から登場してくる(死亡したと思われていた)警察官が使い捨てられてその後の展開に絡んでこないこと。この二点を補完できていれば、コーエン兄弟の傑作犯罪映画『ブラッド・シンプル』ばりの「登場人物の全員がそれぞれ互いを誤解し、事態の真相を把握し損ねている」という芸術的な人物相関図を達成できた可能性がある(それは「誰も信じられない」ノワール的な世界観を具現化したものにもなるはずだ)。惜しいと思うけれどもそんなことを期待する人は少ないか。
幕切れは『飾窓の女』よりも辛口で、ノワール的に徹底されていると評価することも可能だろうけど、これは「予定調和」ならぬ「予定破滅」といった感じで、『飾窓の女』の反則技と較べると意外性には欠ける。
接続プロバイダ変更の関係で今月末から従来のURLを使えなくなる見込みなので、このサイトは以下のところへ退避します。今後はこちらを中心に更新する予定。
本来は心機一転してサイトの改装などもできると良いのだけど、それはまたいずれ。
『乱視読者』の若島正氏が読書日記を開始している。飽きないで続けてくれると良いのだけど。
ところで個人的には、この人のミルハウザー評を読んでみたい。ミルハウザーはたぶんナボコフに多大な影響を受けている作家ではないかと思うので。(どこだったかで『エドウィン・マルハウス』に関してナボコフの自伝『記憶よ、語れ』を引き合いに出した批評を見かけたこともある)
今週NHK-BSで放映予定のアクターズ・スタジオ・インタビューは妙に充実した顔ぶれが揃っていて気になる(すべてNHK-BS2で22:10-23:00)。
いずれも「超大物」ではないものの現役ばりばりで一般に実力を認められている良い俳優。
『千と千尋の神隠し』に加えて、逃亡犯のため合衆国に入国できないロマン・ポランスキーの監督賞(すでに「生きる伝説」みたいな人だな……)とか、『ボウリング・フォー・コロンバイン』のマイケル・ムーアがブッシュ批判に吠えるとか、今回のアカデミー賞は結構ネタが多い。イラク攻撃で世界の人々から冷ややかな目で見られているので、ここはひとつアメリカの度量を見せておこうと考えた投票者が多かったのかもしれない(ただ、『ギャング・オブ・ニューヨーク』と『戦場のピアニスト』を観たかぎりでは、後者の監督賞は充分に納得できる。『ギャング〜』は監督が映画を統率できている感じがしなかったので)。クリス・クーパーの助演男優賞と、コンラッド・ホールの遺作になった『ロード・トゥ・パーディション』の撮影賞が嬉しい。
『神聖喜劇』は昨年(2002年)に復刊された全五巻の大作で、これはその一巻目。続きはまだ読み途中だけれど現時点での感想を記しておきたい。
第二次世界大戦に一兵卒として召集された博覧強記の青年、東堂太郎二等兵による日本陸軍の新兵教練の見聞記録。とにかく語り手・東堂太郎の強烈な個性が叙述の過剰さを決定づけている小説で、作中の場面は執拗なまでに詳細な描写がなされ、際限のない脱線と引用が繰り返される。遅々として時間の進まないところはほとんどニコルソン・ベイカーの『中二階』なみだけれど、この小説に『中二階』のような身軽さはなく、回想の挿入の仕方は多分にぎこちないし、偏執的な引用と脱線の集積はとても全部は読み通していられない。技術的な巧拙の基準でいえばいっそ「下手」と断じて良いかもしれないけれども、それらがすべて語り手、ひいては小説の人格と個性に由来した必然的なものなので、徐々に癖になって引き込まれていく。
第一巻の巻末に収録された埴谷雄高の書評に、この作品の過剰な文章について印象深い表現がある。
彼(大西巨人:引用者註)の文章は、もし目的地まで百歩の距離があるとすると、ただにそのすべての一歩一歩を熟視して踏みしめゆくばかりでなく、その一歩と一歩のあいだにあるところのまことに微細な、他のものなら決して見おろさぬ、長さも幅も僅か数ミリといった一種「隠れひそんでいる」小さな事物までも、まるごと見逃さぬほど「探索的」で、また「徹底的」に「論理的」である。つまり、この世の事象も人物も、いってみれば、強烈なサーチライトの光で照らされた上、レントゲンで透視されてしまうといった「全掃滅的」解明を受けることになるのである。(p.572-573)
他の者なら「まあいいか」とお茶を濁して妥協するような些細な点でも、東堂は見逃さずに徹底して追及する。例えば東堂は、軍隊での「『知りません』禁止・『忘れました』強制」の不文律に対して頑なに抵抗し、軍規を盾にとって自分の主張を押し通す(このあたりの議論は何度も繰り返されて、一種の法廷スリラーのような面白味もある)。
……あの不文法または慣習法を支えているのは、下級者にたいして上級者の責任は必ず常に阻却せられていなければならない、という論理ではないのか。……もしも上級者が下級者の「知りません」を容認するならば、下級者にたいする上級者の知らしめなかった責任がそこに姿を現すであろう。しかし、「忘れました」は、ひとえに下級者の非、下級者の責任であって、そこには下級者に対する上級者の責任(上級者の非)は出て来ないのである。(p.297)
かくて下級者にたいして上級者の責任が必ず常に阻却せられるべきことを根本性格とするこの長大な角錐状階段系統(中略)の絶頂には、「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。」の唯一者天皇が、見出される。/ここに考え至って、私は、ある空漠たる恐怖に捕えられたのであった(中略)−−この最上級者天皇には、下級者だけが存在して、上級者は全然存在しないから、その責任は、必ず常に完全無際限に阻却せられている。この頭首天皇は、絶対無責任である。軍事の一切は、この絶対無責任者、何者にも責任を負うことがなく何者からも責任を追及せられることがない一人物に発する。(中略)……それならば、「世世天皇の統率し給ふ所にぞある」「我が国の軍隊」とは、累々たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構ということになろう。(p.298-299)
そしてきっかけは些細な点でも、東堂の徹底した指弾はいずれ軍隊組織総体の矛盾、あるいは部落差別に代表される日本社会全体の不正や欺瞞を明るみに出さずにはいられない(ところで「必ず常に阻却せられる」「必ず常に完全無際限」といった執拗な言葉の積み重ねに、一点の曖昧さをも見逃すまいとする東堂の思考と叙述の厳密さを読み取れるだろう)。旧日本軍を舞台にしているけれども、我々は自分の学校生活なり何なりの集団・組織生活経験をそこに当てはめてみても良い。独自の「語り」を貫くことによって社会全体を問い直し、日常生活を振り返らせるという、とても小説らしい小説を読んだ気にさせてくれるパワフルな作品。
『神聖喜劇』はたしかに面白い小説で、特にこのきわめて特異な語り手・東堂太郎の人物造形は日本文学史に記憶されるべき伝説的なものだろう。ただ、部分的に本筋から離れる箇所ではいまひとつ興味の高まらないところがあるのも事実で、この第二巻の前半部で挿入される「安芸の彼女」をめぐる回想と、後半に挿入される村崎一等兵の兵の給料に関する長話は、正直なところ忠実に読み通すのが難しかった。そういうむらのある作品を素直に「傑作」と讃えて良いものか迷いが生じる。それ以外の部分は相変わらずきわめて刺激的で、不意に湧き上がる「普通名詞」問答などの漫才的な演出も冴えわたっている。