小川勝己/角川書店(2002.09)
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★★★
〈わたしたちって、名前があってないようなもんじゃないかって、たまに思うんですよ。氏名はもちろん、本名も記号みたいなもんで、実はAとかBとか、その一その二とあんまり変わらないんじゃないかって。それは名前だけじゃなくて、なんて言うかな、わたしたちの存在そのものが、ただの記号なのかもしれない、とか〉(p.109)
『彼岸の奴隷』『眩暈を愛して夢を見よ』の作者の新作。あの強烈にひねくれた『眩暈を愛して夢を見よ』の次に何を出してくるのかと思ったら、これはたぶん史上初の本格的な「2ちゃんねるスリラー」だった。「(:´Д`)ハァハァ」「小一時間ばかり問い詰めたい」「〜と思われ」といった、みんなの大好きな2ちゃんねる用語が公然と乱れ飛ぶ。(でも「逝ってよし」は出てこなかったか)
単純に電脳空間と現実世界を対置するのではなく、Webと似たように皆が「仮名」を用いて、どこまでが嘘なのかわからない刹那的な役柄を演じる(だろう)キャバクラを舞台に選んでいるのがおもしろい。『眩暈を愛して夢を見よ』に続いて「寂しい女が周りに迷惑をかけまくる」(あるいは2ch流に言うなら「駄目な奴は何をやっても駄目」だろうかね)という突き放した話なのはこの作者らしいけれど、小道具としてのWebの利用法は結局、現実をなぞった模倣の範囲にとどまった感じがするのがいくぶん物足りなかった。前作『眩暈〜』では、作中の描写に何かの模倣のような既視感をおぼえること自体に必然性があって、それが作品の主題と緊密に結びついていたので、あちらのほうがより切実な深みがあったように感じる。
ところで、これだけWeb掲示板の書き込みが溢れる趣向の小説だと、『青猫の街』のように表記を横書きにしたほうが適切かもしれない。
Road to Perdition (2002)
★★★
サム・メンデス監督(『アメリカン・ビューティー』)がトム・ハンクスを主演に迎えた新作。大恐慌時代の父親との思い出を回想する……という『アラバマ物語』的な形式に、禁酒法時代を舞台にしたギャング映画の筋立てを乗せたような話。ただし『ミラーズ・クロッシング』のような策謀の渦巻く凝った脚本だとか、あるいは「親子の絆」だとかの物語を本気で期待してしまうと肩透かしで、これはあくまで人の死ぬ場面をいかに格好良く撮るかという「様式美」に焦点を絞った映像志向の映画だろう。その意味で、ジュード・ロウ(頭髪がやばいことになっている)の演じる殺し屋が死体撮影専門の写真家でもあるのは、この映画の方向性を象徴していると思った。撮影は大御所のコンラッド・ホール(『明日に向かって撃て!』『マラソンマン』『アメリカン・ビューティー』)なので当然良い。ただ、期待を超えるほどの特別な出来ではなかったかな。
犯罪ものをスタイリッシュな映像で撮るという方向性には好感を持てるのだけど、そこに例えばコーエン兄弟の奇妙なユーモアのような独自の味付けがないのは物足りない。主役の「父さんは殺し屋」の役柄にトム・ハンクスを持ってくる必然性を感じられないのも気になった。(デンゼル・ワシントンの『トレーニング・デイ』のようなイメージ・チェンジ狙いなのかもしれないけれど、不発に終わった感じがする)
そういえば、これは「恩人の馬鹿息子の策略で妻子を殺害された男が復讐に燃える」筋書きなので、『グラディエーター』とほとんど同じ話のような。
アントニイ・バークリー/巴妙子訳/国書刊行会
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The Layton Court Mystery - by Anthony Berkeley (1925)
★★★
ようやく訳されたアントニイ・バークリーの第一作で、素人探偵ロジャー・シェリンガムの初登場作。やはりバークリーは最初からバークリーだったということで、すでにこの時期から探偵小説の枠組みを逆手に取った皮肉な展開が織り込まれている。主人公が友人を巻き込んで「ホームズとワトスン」気取りで捜査に首を突っ込むパロディ的な趣向が、単に勘違いコメディの演出に結びついているばかりでなく、そのまま事件解決の提示とも皮肉に対応しているのが綺麗な構図で感心した。後の『第二の銃声』と合わせて、アガサ・クリスティの某有名作と比較してみても良い内容だろう。(ついでにいえば、エリザベス・フェラーズのトビー&ジョージ連作にはこの作品の影響が流れているのではないかと思う)
探偵小説の筋道から脱線しそうなほどのどたばた喜劇が随所に盛り込まれているのは愉しいけれども、前半から探偵役以上に事情を知っているらしい人物の存在が示されている、つまり探偵が道化役にならざるをえないことが判明してしまうので、中盤の試行錯誤への興味が弱まっているように感じた。これは作者の後の作品ですでに手の内をだいたい知っているせいもあるだろうけど。個人的には、探偵が観測者の領分を踏み越えて事件を恣意的に歪めてしまう『ジャンピング・ジェニイ』には興奮するものの、そこまで型破りでない事後的な推理の試行錯誤そのものには、実をいえばさほどの興味をおぼえない。(あと、贅沢を承知で言えば、コミカルな内容に対して訳文がいくぶん硬いかな)
「我が父へ捧げる」と題された批評的な序文がいつもにも増して興味深い内容だった。バークリーはこの文章で、自分の探偵小説では、
このふたつの達成を目指すと宣言している。前者はアンチ名探偵小説として構想された名作『トレント最後の事件』のE・C・ベントリーの主張(「探偵が人間らしく描かれている探偵小説を書くこともできるのでないかと考えた」)を受け継いだものだろう。実際、バークリー作品に見られる「探偵がお喋りで神秘性を欠いている」「探偵が誤った結論を導き出す」そして「結局、被害者が悪者にされる」などの展開は、明らかに『トレント最後の事件』の延長上にあるように見える。ただ、この作品は複数人物の意図が交錯する『トレント』に較べてしまうと真相の組み立てが単純なので、分が悪いような気もするけれど。
僕が、最終的に事件を解決することになる紳士に、現実の生活ではこうするだろうという行動を取らせようと努めたのを、お父さんならわかっていただけるでしょう。言い替えれば、彼はスフィンクスからはほど遠く、時には一つ二つ間違いをしでかすということです。例の鷹のような目をして、唇をきつく結び、静かに容赦なく物事の核心をずばりと突いて、一度たりともぐらついたり、偽のゴールを追ってわき道にそれることもないような輩を、僕はあまり信用していません。それになぜ探偵小説でも、他のもっと軽い小説と同じように、自然な雰囲気を作り出すことを目指してはいけないのでしょう。(p.5)
バークリーといえば「意地悪な皮肉屋」の印象が強いけれど、この文章を読むかぎりでは、むしろ理の通ったフェアな探偵小説の実現を目指して創作をはじめた、という面もあるように思える。彼は読者(と自分自身)に対して誠実であるために、「名探偵が特権的に真実を探り当てる」という絵空事の物語を書く気になれなかった作家なのではないだろうか。
Resident Evil (2002)
★★
TVゲームの『バイオハザード』をもとにした映画化作品。ポール・W・S・アンダーソン監督・脚本。元々の『バイオハザード』自体がアメリカ娯楽映画の引用の集積(ゾンビ映画や『エイリアン』など)から成り立っていたような作品なので、それをまた「逆輸入」で映画に戻されても、観客が操作できないだけの凡庸な内容に終始するばかりだった(どうせなら『レフトハンド』の映画化なんてのを観てみたい気もする)。しかも、主人公(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が単独行動をする場面がほとんどないうえ、いざとなればゾンビを素手でばきばき倒せてしまうほどの戦闘能力の持ち主なので、全然心細い不安感や怖さがない。薄着のミラ・ジョヴォヴィッチの姿を眺めるくらいしか見る甲斐のない映画だった。ミシェル・ロドリゲスの役柄は悪くない造型だと思うのに勿体ない使われかた。
Donnie Darko (2001)
★★★
新人のリチャード・ケリー監督・脚本。1980年代の郊外住宅地を舞台にティーンエイジャーの疎外感を描いた陰鬱な青春もので、画面もえらく暗い。主人公の母親がスティーヴン・キングのペイパーバックを読んでいる描写などもあって、監督がスピルバーグとキング(の両スティーヴン)に影響を受けているらしいというのは納得だった。具体的な小道具やエピソードの積み重ねで共感を呼ぶ日常世界を構築していくのはキング流の手法だけれど、それはキングの最良の小説のように、文化背景の違いを超えて普遍的な意味を伝えるほどの描写にはなっていなかった気がする。良くも悪くも、自殺願望のある陰気な高校生の妄想日記をそのまま映像化した話という印象を出なかった。(でも構造的には『ブルーベルベット』に近いかもしれない)
似たような系統の『ゴーストワールド』(高校にやたら勘違いな授業があるのも同じ)よりは、主人公の描写が類型的になっておらず、共感できる余地があるだけ好感を持てる。
主人公の母親役のメアリー・マクドネルがさすがに巧いと思った。
マイケル・スレイド/夏来健次訳/文春文庫
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Ripper - by Michael Slade (1994)
★★★
『グール』などのカナダの合作ホラー作家、マイケル・スレイドの作品。前半はいつもの露悪的サイコ・ホラー路線かと思っていたら、中盤以降、物語の舞台は「髑髏島」なる孤島の屋敷へと移り、推理ゲ−ムに招待された怪しい作家たちのあいだで次々と派手な殺戮劇が繰り広げられる……という『そして誰もいなくなった』風の展開に突入する。作中にはジョン・ディクスン・カー『三つの棺』の「密室講義」の話を得々と語りはじめる探偵小説おたくが登場するなど、作者(たち)は結構まじめに古典ミステリの世界を再現しようとしているようだ。
後半はともかく、前半部で語られる殺人鬼やオカルトに関する薀蓄の部分は、正直なところ叙述が資料を書き写しているかのような平板な調子になっていて読みにくい。それを除くとおもしろい登場人物や小ネタの遊びも用意されているだけに、惜しいと思う。そのあたりで筆致に明らかなむらが見られるのは、やはり複数人の合作作家のためだろうか。マイケル・スレイド作品の評価はたぶん、このあたりの不器用さ加減を愛せるかどうかに左右されるだろう。後半の派手な殺戮場面は「映像を文章で説明する」書法で描写されているので、個人的にはちょっと苦手な部類。ただし、原典の『そして誰もいなくなった』には意外なほどきちんと則っている(ように思える)など、古典ミステリに対する勘違いのようで真摯な愛情表現を覗くことができるのがおもしろい。犯人側の目的が結局オカルト儀式なので、その点は何でもありに近くなってしまって弱いかな。
書名の「髑髏島の惨劇」を期待すると、本の分量にして半分くらいある前半部が「長い前振り」になってしまうかもしれないけれど、日本ならぬ現代のカナダで「孤島の屋敷で連続殺人が!」なんて時代錯誤な内容の小説を出版するには、これくらいの下地固めが必要だったという事情もあるのではないかと思う。
推薦人に綾辻行人を持ってきているのは申し分のない選択だと思う。綾辻はデビュー作『十角館の殺人』で過去の有名な探偵小説作家の名前を冠した人物たちにおたく論議をさせながら『そして誰もいなくなった』の本歌取り趣向をやっている作家であり、またスプラッタ・ホラーとフーダニット・パズラーを融合させた第一人者(?)のダリオ・アルジェントのファンとしても知られている人なので。(自身も『殺人鬼』みたいな作品を書いているし)
ミステリ関係の小説で選出されているのは、
あたりか。『ドグラ・マグラ』は是非デヴィッド・リンチなんかに読んでほしいなあ。
ところで、
が選ばれているのは、どう見ても選考委員に福田和也が入っているからでしょうね。
エドワード・ケアリー/古屋美登里訳/文芸春秋
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Observatory Mansions - by Edward Carey (2001)
★★★★
英国の新人作家の小説。「望楼館」というおんぼろの集合住宅を舞台に、「他人の愛する物品を盗んで蒐集する」のが趣味の主人公をはじめとする奇妙な住民たちの群像を描いた作品。小説の分類でどこにあてはめるのが適当なのかよくわからないけれど(ダーク・ファンタジーの部類に入るのだろうか)、映画でいえば『シザーハンズ』とか『アメリ』などのような、内気なひきこもり者の恋愛劇に近い感じがする。
思いきり大雑把に要約すると、これは肌身離さず白い手袋をはめて暮らしていた主人公フランシス・オームが、その手袋を外す決意をするまでの物語。手袋は彼の内面の「心の壁」、他者と関わり合って傷つくことを怖れる繊細さを象徴している。といっても、この主人公は他人のことにまったく興味を抱かないわけではない。ただしその関心は面と向かっての対話でなく、何らかの「物品」を間に介した歪んだかたちでしか表に出てこないのだ(このあたりは特に『アメリ』との親和性を感じる)。そして他人の思い入れのある物をこっそりかすめ取る主人公の習慣は、物そのものを集めるというよりそれにまつわる「物語」を蒐集する行為にあたるだろう。
主人公をはじめ「家庭教師」「門番」など登場人物それぞれの心理の暗い面が物語に影を落としていて、この種の話にありがちな「繊細」さを賛美する嫌味な方向に話が向かわないのは好感を持てる。
あえて難癖をつければ、登場人物の内面の動きが論理的に説明されすぎていて、ちょっと文章的な濃密さに欠ける気もした。そこは小説専業の人でない(イラストや彫塑もこなすらしく、本書にも挿絵を寄せている)弱みが出ているのかもしれない。スティーヴン・ミルハウザーの諸作品(大人になりきれない主人公、幻想の博物館への偏愛、過剰に緻密な世界描写)とか、津原泰水の『ペニス』(ひきこもり中年の陰惨で幻想的な日常)などにも通じるところがあって、志向としてはとても好きな作品なのだけど、愛するところまでには至らなかったというのが正直な感想。
とはいえ、ゴシック的な感性を作者ならではの独創的な道具立てで表現している小説で、感心する内容だった(「ニュー・ゴシック」の旗手、パトリック・マグラアが賞賛しているというのも納得)。現実世界の法則からほとんど逸脱せずに、これだけの幻想味を演出できるのは素晴らしい。次の作品も訳されたら読んでみたいと思う。
グラディス・ミッチェル/宮脇孝雄訳/国書刊行会
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The Soltmarsh Murders - by Gladys Mitchell (1932)
★★★★
日本ではほとんど作品の紹介されていない黄金期の作家、グラディス・ミッチェルのミセス・ブラッドリー・シリーズのひとつ。これはなかなか知的でおもしろい作品だった。
作者のひねくれた語り口については、宮脇孝雄による訳者あとがきの、
グラディス・ミッチェルの面白さとは、盛り上がるべきところで盛り上がらず、本来なら盛り上がるはずのないところで、突如、盛り上がったりする面白さなのである。(p.319)
という解説が秀逸で付け加えることがない。
この作品の主眼はたぶん謎解きや犯人当てではない(その出来が悪いという意味ではなく)。巻末に付けられた「ミセス・ブラッドリーの手帳」の記録を読むと、この探偵がほとんど会ったとたんに「こいつが犯人」と決めてかかっていることがわかる。その内容の通り、謎解きのために事件を不自然に錯綜させている感じはしない。それよりも興味深かったのが、黒人蔑視・猥褻本・近親相姦などの当時の社会的なタブーと思われる要素を事件に巧く絡めているところ。この作品で起こる殺人行為は、どれもその種の性的なタブー要素が原因になっている。そして探偵役のミセス・ブラッドリー(と作者)の超然とした視線は、それらの通俗的なタブーを目にしても安易な裁きを下すことはせず、道徳的な判断を読者に委ねている。このあたりのバランス感覚が驚くほど現代的で、作者の知性を感じさせる(まあ、作者が教師だという事情もあるのかもしれない)。「手帳」の最終行の冷徹さには、同年に発表されたエラリイ・クイーンのドルリイ・レーンものを思い出した。
ドーヴァー警部シリーズのジョイス・ポーターなどは、このグラディス・ミッチェルの後継者なのかもしれない。ミセス・ブラッドリーはドーヴァー警部のような「迷探偵」ではないけれど、閉鎖的で奇怪な田舎の村を訪れてその秘密を暴く基本構想、謎解きの過程で必要以上に性的な要素(要するに下ネタ)が掘り返されるところなどは似ている。
乙一/角川書店(2002.07)
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★★
高校生の「僕」がサイコ殺人者たちと邂逅する、青春ミステリ風の連作短篇集。主人公がむしろ殺人者たちの感性に近い虚無的な性格の人物で、これはシリアル・キラーが探偵役のような立場に置かれる殊能将之の『ハサミ男』に似ている。
同じ作者の『暗いところで待ち合わせ』(途中で挫折)の印象と同じく、語り手の内面描写がいかにも説明的でひっかかる。無愛想な性格なのだったら、『悪童日記』ばりのそっけないハードボイルドな文章でも良いのではないだろうか。何か他人に興味がないというより、誤解されるのを極端に怖れているような感じがしてしまう。
フレンチ・ミステリ風の叙述トリック(というか人物誤認トリック)が連発されているものの、そこにほとんど物語的な必然性がないので、単に作者の腹を探る読みかたに終始せざるをえないのも物足りない(その点も『ハサミ男』と共通している気がする)。あと、一冊の連作短篇集のなかで「手帳」が重要な小道具になる話が重なっているなど、展開の引き出しが少ないように見えるのも気になった。
1940-50年代米国のフィルム・ノワール作品群を語りなおすオールド・ファンの映画談義本。「フィルム・ノワール」という用語そのものは誰でも知っているけれど、その実体となる作品をまとめて語った文章は案外少ない気がするので、これはなかなか興味深い内容だった。未見の「傑作」が次々と紹介されて、ちょっと観ておきたい気になる。
著者は1940年代の米国でフィルム・ノワールが隆盛した背景として、次のような要因を指摘している。
あと、本書には書かれていないけれど物理的な制約として、『傷だらけの映画史』で指摘されていたように、大戦期間は映画の製作予算が制限されて、モノクロの犯罪映画を作りやすい状況にあった、という事情もあるのだろうと思う。
上に挙げた三つの要因のなかでもっとも重要なのは、最後の「世界大戦の影」だろう。実際、フィルム・ノワールとはおよそ対極にあるといっていい性善説論者のフランク・キャプラの映画でさえ、1941年の『群衆』になると戦争の重苦しい影が忍び寄っているように見える。
そして、フィルム・ノワールの隆盛が日米戦争と時期的に重なっていたために、日本にはフィルム・ノワールの全貌が正しく伝えられず、いまだに黙殺もしくは未公開の傑作が多い、ということを著者は力説している。これは納得のできる指摘。映画論だからもっと技術面や物語構造の分析をしても良いのかもしれないけれど、その前に作品が観られていないのだからまず紹介する必要がある、というのが本書の主旨なのだろう。
ノワールを規定するのはジャンル(犯罪スリラー)や技法(不安な画面構図)、ガジェット(拳銃やファム・ファタル)よりも、ペシミスティックな人間観だ、という指摘は筋が通っている。これについては、ヒッチコックを論じた箇所でもう少し詳しく説明されている。
しかも彼(ヒッチコック:引用者註)の興味の対象である人間は、普段は普通の人に見える人間だが、実はその裏に異常性を隠し持っている人物である。もっと言うなら、ヒッチコックは人間の多くは社会の中でバランスを保って生きてはいるが、それは必要があってそうしているのであり、もしその必要がなくなったり、なにかのきっかけでバランスを失うようなことがあれば、誰もが仮面の下の異常性を剥き出しにするものだという人間観の持ち主なのだ。この人間観こそ、フィルムノワ−ルを形成する大きな要素である。(p.168)
つまり大雑把にいえば、誰もが共感のできる普通の人が犯罪に手を染めるところを描くのが(フィルム)ノワールだ、ということになると思う。
観ておきたいと思った未見の映画をメモ。(日本未公開もしくはビデオ・DVD化されておらず、観るのは難しそうな作品が多いけれど)
町山智浩、柳下毅一郎/洋泉社
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★★★
町山智浩と柳下毅一郎の新作映画突っ込み対談をまとめたもの。収録文章の一部は柳下毅一郎サイト内の「月刊(?)バーカー・ボーイズ」で読める。リアルタイムの時評としては良いけれど、改めて読みふけるほどのものでもないかな……と思っていたものの、それなりに愉しんで読めた。
特に町山智浩の映画評の態度はだいたい一貫していて、それは「映画と私生活の区別が全然ついていない(笑)」(p.136)という突っ込みに象徴される。要するに、映画に製作者の人生や精神が濃厚に反映されているところを読み込むというもの。『〈映画の見方〉がわかる本』で『ロッキー』を賞賛している文脈がその典型的な例だろう。これは確かにひとつの切り口として有効な場面が少なくないとは思う。便利なので使いすぎるのも考えものだけれど。
ところで、本書で語られている小説版『ハンニバル』評は、この小説を「自分がレクター博士のつもりになったトマス・ハリスが、ジョディ・フォスターとの擬似恋愛を書きつづった"変態のファンレター"」と断じていて、僕の知るかぎり他のどこで読んだものよりも的確な論評だと思った。
ちなみに、この本の『千と千尋の神隠し』評をさらに先鋭化させると、「大人なんてみんな豚だ!〜千と千尋の神隠し」になるのかな。
エリザベス・フェラーズ/中村有希訳/創元推理文庫
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Give a Corpse a Bad Name - by Elizabeth Ferrars (1940)
★★★
エリザベス・フェラーズの第一作で、トビー&ジョージのコンビも初登場作。ふたりの独特の役割分担はこのときから確立されているのを確認できたけれど、すでにそれを承知している読者にとって、それ以上のひねりはなかった気がする。トビー&ジョージの顔見せ作といったところだろうか。邦訳を年代順に出さなかったため、結果的にこの作品は割を食うことになった気もするけれど、強烈な伏線が冴えわたる『猿来たりなば』を最初に持ってきたのは賢い選択だったと思う。(この『その死者の名は』から出ていたら、果たして他の作品を読みたくなったかどうかわからない)
この作品はアントニイ・バークリーの『レイトン・コートの謎』よりも先に読んでいたのだけど、頼まれもしないのにやたら事件に首を突っ込む「勘違い名探偵」の主人公の印象が似ている(ワトスン役の扱いにひねりがあるところも)。フェラーズは「バークリー派」の作家なんじゃないだろうか、と個人的には思っている。
村上春樹/新潮社(上下巻)(2002.09)
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★★★
村上春樹の新作長篇。内容はおもに、15歳の少年「田村カフカ」の家出行(a.)、字を読めない不思議な老人「ナカタさん」の探索行(b.)、のふたつの物語の流れが交互に語られる構成になっている。a.は村上春樹らしい「僕」の一人称語りで、b.は三人称叙述。
前半の段階では、a.の物語は目が醒めたら自分の手に返り血を浴びていたという「巻き込まれ型スリラー」的な展開、b.の物語は「猫探し」の仕事を果たすために対話を繰り返して手がかりを追う私立探偵小説的な趣向になっていて、どちらもミステリ的な構造を効果的に応用している印象が強い。さらに、ふたつの物語が並行して語られるので、当然それらがいかにして交わるのかが興味の対象になっていく。このあたりの導入の巧さはとても期待させる感じだったけれど、話が後半に進むにつれて、登場人物それぞれが物語の進行を承知しているかのような言動を取り続けるのがちょっときつくなってきた。登場人物が自発的に物語を動かしているというより、作者の手のうちで都合の良い「思いつき」を連発しているように感じられてしまう。これなら『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』みたいな入れ子構造(脳内=夢の出来事が語られる)を用意したほうが良かったのではないだろうか。音楽や文学などの引用に、直後の場面でわかりやすく対応する意味が示される展開が散見されたのも気になった。
奥泉光の『鳥類学者のファンタジア』とは似ていなくもない内容(なので、較べてしまうといささか物足りなかった)。夢のなかを漂うような筆致も通じるものを感じる。
「ナカタさん」の過去の挿話には、『ピクニック・アット・ハンギングロック』を連想。個人的には、いくつかの点でファースト・コンタクトSFの可能性も示唆されているのかなと思う。
村上春樹がミステリ的な構造を好んで使うのは、レイモンド・チャンドラーの影響もあるのだろうけれど(村上春樹の作品は「長いお別れ」的な精神のものが多い気がする)、例えばデヴィッド・リンチの映画がたいてい謎解きかロード・ムービーの枠組みを採用しているのと同根の事情もあるのではないかと思う。つまり、「夢の文法」で物語をつづる作家は放っておくととりとめのない話を書きがちなので、かえって「何かを探し求める」「ある目的地を目指して移動する」などの単純で強固なプロットの枠組みが必要になるのではないか、ということ。
本に使用されている紙が独特で印象的だった。薄手で、縞模様の透けて見える紙。本全体の厚さを抑えてかさばらないようにする狙いだろうか。