スティーヴン・グリーンリーフ/黒原敏行訳/早川書房[amazon] [bk1]
Past Tense - by Stephen Greenleaf(1997)
★★★
私立探偵ジョン・タナーもの。このシリーズは近頃読んでいなかったのだけど、最近の作品も良い内容だという話を聞いてひさしぶりに読んでみた。
探偵に必要な情報を流してくれる警察官の友人、という私立探偵小説にお決まりのシリーズ登場人物が、この作品では事件の渦中の人になる。私立探偵小説シリーズの既成の枠組みを充分に踏まえて、自覚的なひねりを加える作者のスタンスをうかがえる設定だ。
このシリーズは、主人公のジョン・タナーがいわゆるタフガイ探偵ではなく(作者の経歴を反映して)元弁護士のリベラルなインテリで、社会的な問題の組み入れかたが結構興味深い。例えば『匿名原稿』では出版と著作権、『偽りの契り』では代理母、そして本作では家庭内虐待と「記憶の捏造」をめぐる問題など、どれも唯一の正答を見極めるのが難しい論争的な題材を選んで、プロットに巧く取り込んでいる。
終盤には、探偵が法の裁きを超えた実力行使を迫られるという、1990年代の多くの私立探偵小説が直面したのと共通の展開を扱っている。ただ個人的には、渦中の警官が【死病を抱えている】展開は途中でだいたい想像がついてしまい、この種の通俗的な(現実にはあまりないだろうけど、物語の設定としてはよく見かける事例という意味で)設定を謎解きの構成で引っ張るのはいかがなものだろうかと思った。(もっとも、この感想は【『遙か南へ』】を読んだばかりだったからかもしれないけれど)
『偽りの契り』の終わりかたも結構すごかったおぼえがあるけれど(次回はどうなってしまうんだろう、という意味で)、本作の幕切れはさらに冒険的なものだった。
それにしても「ジム・トンプスンの小説を愛読する警察官」って、どう考えても怖すぎるよなあ。これが一種の伏線になっていたような気もする。
探偵小説研究会『本格ミステリこれがベストだ! 2002』(創元推理文庫)[amazon] [bk1]を拾い読み。本格ミステリ(という用語が何を指すかはともかく)を中心に、昨年のミステリ界を回顧する評論集。全体的に、何か統一的なテーマを想定して各作品をあてはめていく方法の文章が多く、その種の趣向のものはあまり成功していないように感じた。そうでない並木士郎「殊能将之のスタイル」や田中博「バカミスは理論か?」あたりは普通に読める。
巻末の笠井潔×巽昌章の「往復書簡」は部分的に興味深い指摘があった。(しかし笠井潔はよほど「往復書簡」が好きなのだろうか?)
以下の引用は巽昌章の文章。
そこには、本格推理小説と犯罪小説やサスペンス小説をともに包む、大きな気分ないし世界イメージを感じ取ることができます。(中略)キーワードは「複数」です。特権的な犯人や探偵ではなく、好き勝手に動き回る複数の人間を扱いながら、そうしたいくつもの流れの予期せぬ遭遇が、なぜか一つの「事件」を作ってしまうような小説。(p.120)
上記の筆者は、これを特に1990年代後半以降に顕著な現代的潮流として指摘しているのだけど、実のところこれは以前、『トレント最後の事件』追記で書いた構図と似ている。昔から、とりわけ英国の作家が「名探偵」を否定した先鋭的な探偵小説を書くと、たいてい「複数人の意図が偶然に連鎖する」構図に行き着くのがむしろ通例のような気がする。(『トレント最後の事件』や『ジャンピング・ジェニイ』などが好例)
あと、笠井潔の馳星周への突っ込みが独特でおもしろい。
これを読んだとき、僕は少しひっかかるものを感じたのです。ここにはクレタ人のパラドックスが再現されているにすぎないのに、そのことに書き手は無自覚ではないだろうか……。/「だれもかれもとち狂っている」(中略)のですから、この陳述をしている主体もまた「とち狂っている」に違いありません。「とち狂っている」者の判断は当然のこと「とち狂っている」はずだから、「どいつもこいつもとち狂っている」という陳述は信用できないことになります。(中略)おそらく馳星周は、「とち狂っている」人間たちの世界のメタレヴェルに自分が位置し、世界や他者たちが「とち狂っている」かいないかを特権的に判断できることを、深いところでは疑っていないのでしょう。(p.123-124)
この指摘は、馳星周の言説におぼえる違和感の一端を明快に説明してくれたような気がする。
ちなみに、「だれもかれも狂っている」ゆえに語り手の陳述が信頼できない、という構造の犯罪小説といえば、代表格としてやはりジム・トンプスンの作品群を挙げないわけにはいかないだろう。
「見下げ果てた日々の企て」のmhk antennaが発端なのか、サイトの更新時刻チェック用ツール、はてなアンテナの利用が広まっているようだ。
僕自身は作成しないつもりなんだけど、どこと併読される傾向にあるのかちょっと気になったので、このサイトの登録されているアンテナで捕捉できたもの4本をサンプルとして、一緒に登録されていることが多いのはどこなのかを調べてみた。(公開を前提としているのか不明なアンテナもあったので、ソースは示さないでおく)
4本全部に登録されていたサイト;
4本中、3本に登録されていたサイト;
だそうです。まあ、そんなに意外性はないのかな。母集団が小さいので調査結果としては弱いけど。
I Married a Witch(1944)
★★★
ルネ・クレール監督。ヴェロニカ・レイクが「魔女」を演じるラブ・コメディの古典的作品。愛嬌のある「魔女」が人間の世界へやってきて騒動を起こすというのは、現在でも多くの少女漫画やラブコメものに応用されている定型的フォーマットで、本作は(後のTVドラマ化も含めて)その重要な祖型といえそうだ。(個人的には、特に高橋留美子の漫画を思い出した)
古典的名作という意味で観て損はないと思うけれども、主人公ふたりの行動の動機が結局「魔法」によるもので、それを覆す挿話が用意されていないため、恋愛ものの脚本としてはちょっと弱いように感じた。
マーティン・ミラー/村井智之訳/青山出版社[amazon] [bk1]
Milk, Sulphate and Alby Starvation - by Martin Miller(1987)
★★★
これはちょっと分類しにくいな……。奇怪な登場人物たちが入り乱れるコミック・ノヴェルで、あえていえばジャン・ヴォートランや戸梶圭太の小説などに通じるものがあると思う。コミックおたくでやたら不健康な生活を送る主人公の描写が独特でおもしろい。彼はしじゅう「俺のコレクションが狙われている!」との被害妄想にとらわれて他人にいちいち疑いをかける変人で、その主人公のパラノイア的な妄想と、「全英牛乳販売促進委員会」に命を狙われるという元々の荒唐無稽な筋書きとが混交して、奇妙な読書感覚を醸し出していた。前半部の何気なくひねった時系列提示も独特。
作者マーティン・ミラーはスコットランド出身の人。イアン・バンクスやアーヴィン・ウェルシュなど、スコットランド系の作家はなぜか、駄目な人物、病的な人物を描くのが妙に巧いような気がする。
読んでいる最中はおもしろかったけれど、群像劇としては人を集合させただけの「寸止め」的な構成でごまかした感じなので、さほど褒める気にはなれない。
グループリーグ一試合目で印象に残った試合の感想を書いておきます。
【フランス 0-1 セネガル】
用事があって開幕戦をリアルタイムで見られず、ちょっと残念。フランスはジダン欠場となると、ピレスが怪我で不参加なのが痛いところですかね。
【ドイツ 8-0 サウジアラビア】
ドイツの攻撃練習を見ているような虐殺ショー。前半で勘弁してあげてくださいという感じ。W杯でこんな試合を目にするとは思わなかった。サウジは体格が段違いなのに、技術でも走りでも負けているのだから勝負にならない。でもさすがにここまで弱いはずはないんだけどなあ。
【アルゼンチン 1-0 ナイジェリア】
今大会のアルゼンチンは評判が高い。攻撃は確かに迫力あるけれど、ちょっと攻め口が単調な感じもした。
【イングランド 1-1 スウェーデン】
イングランドは覇気を感じられず。中盤のジェラードの不在が苦しいのかなあ。結局ベッカムのキック頼みなのは変わらなそうだ。
【スペイン 3-1 スロベニア】
ファインゴールの応酬で意外な好試合。デ・ペドロ→バレロンの2点目は美しかった。スペイン代表はジダンやリバウドなどの「怪物」外国人を抜いたリーガ・エスパニョーラ選抜という感じ。個人的にバレロンのブレイスタイルは小気味良くて好み。
【イタリア 2-0 エクアドル】
一試合めを軒並み見たかぎりでは、イタリアが一番安定して強そうに見えた。ヴィエリも例によってディフェンダーをはじき飛ばして調子良さそうだ。
【日本 2-2 ベルギー】
日本は作戦なのか結果的にそうなったのか、上田さんの暫定日記(2002/06/03)で指摘されているような、今大会よく見られる「前半抑え目で後半攻勢に出る」型に近かった。後半、稲本の逆転ゴールが入ったときには本気で興奮。
【韓国 2-0 ポーランド】
内容的にも完勝。会場の盛り上がりもすごいなあ、とちょっとうらやましい気分で見てしまった。
【ドイツ 1-1 アイルランド】
アイルランドが終了間際に劇的な同点弾。さすがにしぶといなと感心するけれど、ロングボールを長身のクインに当ててロビー・キーンが押し込む、というのはアイルランドの常套戦法なわけで、ドイツをしても防げないものなのだろうか。GKの鬼、カーン先生の活躍が見られたので良いけど。
【フランス 0-0 ウルグアイ】
アンリ退場で一人減ったフランスの背水の猛攻で、試合はノーガードの壮絶な死闘に突入。これが90分続くのは見ているだけで疲れる。すでに決勝トーナメントに入ったかのような試合だった。こういう土壇場で点を獲るのが得意なトレゼゲを下げてしまったのはどうなのだろうか。フランスがこれでもし勝ち抜けるとしたら盛り上げすぎだなあ。
【アルゼンチン 0-1 イングランド】
ベッカムの遺恨試合に燃えるイングランドは、ハーグリーヴズの負傷退場で投入された左MFシンクレアが活躍、中央に回ったスコールズとバットのマンチェスター・ユナイテッド組も機能するという、まさに怪我の功名のような布陣。CBのファーディナンドとキャンベルは力攻めに強いし、前線ではひたすらオーウェンがかきまわす(なぜか3対1でも勝負できるのが脅威)シンプルな攻撃。現有戦力での選択肢としては悪くない。
対照的にアルゼンチンのビエルサ監督は強固なフォーメーション信者なのか、選手交代はすべて同じポジション同士。この試合に関しては、選手の役割分担がはっきりしすぎて、いまひとつ攻撃に決め手がない感じがした。あと、いいかげんオルテガは下げても良いのでは。
【イタリア 1-2 クロアチア】
イタリア陥落でG組もまさかの混戦。もう誰を信じればいいのか。
試合は内容的にもクロアチアのほうが優勢に見えた。日本の観客にもおなじみのラパイッチが活躍していたのでちょっと嬉しい。でも、終了間際のマテラッツィのロングフィードの得点が認められていれば、ある意味「伝説のゴール」を見届けた気分になれたのにな、と思わなくもない。
イタリアは意外に中盤でペースを握れる人材がいないらしい。イタリア代表で僕の好きな選手はMFのアルベルティーニなんだけど、彼の不参加が効いてきているのかな。
【日本 1-0 ロシア】
いや素晴らしい。これは内容的にも勝ちに値するゲームだったと思う。得点の判定は微妙な気もするけど。
先発は前回の市川に代わって明神が右MF。中田・小野・稲本・戸田・明神と、中盤に全員ボランチ経験者が揃ったためなのか、選手同士が有機的なポジションチェンジを繰り返す、トルシエ日本代表らしいフットボールを展開できていた。松田と中田浩二が機を見て上がれるのも、そのあたりの良いパターン。この試合は別に突然変異でなく、何年間も積み上げてきた戦術を実践した成果ということだろう。対外的に有名な中田英寿と小野伸二の体調が必ずしも万全でないにもかかわらず、良い試合を披露できたのも、チーム全体が機能しているからだと思う。
ロシアはパス回しが巧みとの前評判だったけれど、攻めは単発のミドルシュートが多い(前のチュニジア戦の印象もそうだった)。ゴール付近で複数の選手が絡んでパスがつながればチャンス(日本のピンチ)になっていたものの、その数は少なかった。まあ、モストヴォイが出ればまた違うのかもしれない。
スポーツ中継歴代2位らしい。1位は東京五輪の女子バレー決勝、対ソ連戦……て、やっぱりロシアとは因縁あるんだなあ。
【メキシコ 1-1 イタリア】
イタリアのペースで進んでいた前半、不意にブランコ→ボルヘッティのバックヘッド・ループシュートが決まる。これはファイン・ゴールだった(GKブッフォンも動けず)。メキシコのCBマルケスは、レアル・マドリーの獲得候補者とも噂された有望株。決して不調でないヴィエリをほとんど抑え込み、途中出場のモンテッラのドリブルを何度も読みきるなど、さすがに良い選手だなと思った。
【日本 2-0 チュニジア】
まあ、前のロシア戦でGL突破はほぼ決まっていた感じなので、そんなに深い感慨はなかった。トルシエの選手交替も当たっているなあ。
一回戦に当たるトルコは、世界的な評価の位置づけも(近年注目されはじめた新興国)、プレイスタイルも比較的似たような相手で、充分に勝機はあるのでは。そのまた次のスウェーデンorセネガルは、苦手とされる北欧とアフリカなのでわからないけれど。
【韓国 1-0 ボルトガル】
というわけで、「開催国は必ず1次リーグを突破する」との伝統は今回も守られた。ポルトガルの敗退を惜しむ声も多いようだけれど、今大会のポルトガルはさほど良くなかったので(4-0で勝った前の試合もポーランドのDFが緩すぎただけに見えた)、もともと現時点で「優勝候補」と持ち上げられるほどの内実はなかったということだろう。フランスやアルゼンチンと一緒にするほどではないと思う。韓国の得点は非情というか、引き分けで潔しとするようなお国柄でないのを察知できなかったポルトガルが甘すぎたというべきか。
今大会の優勝候補として前評判の高かったフランスとアルゼンチンの二国が、相次いでグループリーグ敗退。どちらも「死の組」に入れられた結果とはいえ、この両国の代表チームには共通点が多い。
まず、チームの主力選手が国外の有名クラブチームに散らばって活躍している。このため一見すると「オールスター」的な顔ぶれながら、実際には欧州リーグの過密日程と大会の早期開催の影響をもろに被って、疲労や怪我でコンディション不良の選手が揃うことになった。監督も事前に選手を集めて意思を浸透させにくいし、各選手の試合を直接見られる機会も少ないので、柔軟なチーム構築をはかるのが難しかったのかもしれない。
戦術的にも共通点が多い。どちらもいわゆる「指令塔」型の選手を中軸に据えて(ジダンとヴェロン)、前線はワントップ+左右ウィング型の布陣を採用していた。中軸の選手が欠場または不調で、ツートップを張らせても良さそうな人材がいるにもかかわらず(アンリとトレゼゲ、バティストゥータとクレスポ)、監督がこの(相手も研究済みの)布陣にこだわりつづけたのも似ている。準備期間の不足のためと、これまで輝かしい実績を残してきただけに(欧州選手権優勝と南米予選圧勝)、別のやりかたに変えるだけの身軽さがなかったということだろうか。
ちなみに、今大会で同様に「期待外れ」敗退組のポルトガルやロシアあたりも似たような布陣なので、この戦術はいまのところ分が悪いようだ。
鬼子來了(2000)
★★★
姜文(チャン・ウェン)監督・製作・共同脚本・主演作品。
日中戦争末期、日本軍占領下の中国の農村を舞台にした映画。これは極東版の『アンダーグラウンド』だ、との批評につられてだいぶ期待してしまったせいか、真摯な力作とは思うもののちょっと乗りきれない感じが残った。
前半の「戦争の不条理」をコメディ風味の演出で描く構想は、まあこういうの珍しくないよなと感じてしまうものだし(とりわけカンヌ映画祭絡みの作品ではよく見かける。最近では『ノー・マンズ・ランド』など)、人物のアップと興奮した会話ばかりで「引き」の少ない映画は、見ていて疲れるのであまり好みではない。
物語の契機になるのは、主人公が謎の人物から「麻袋」に入ったふたりの人物を預かる挿話。この発端の預け主の正体は誰なのかが示されないまま、宙吊りの「謎」となって少なからず話を引っ張る構成になっている。結局、観客にとってこの「謎の人物」は、映画を外部から支配している「映画の作者」とほとんど等しい存在になるわけで(これがないと話がはじまらないのだから)、その実体が隠蔽されているのなら、作者の都合でどうとでも話の展開を転がせるだろうと思えてしまい、後半まで斜に構えた気分で映画を眺めることになった。終盤になると、その「謎の人物」の実体は作中で問わないことにするらしいのに見当がつくものの、それなら早いうちにそのことを示しておくほうが適切な処理だったのではないかと思う。
「麻袋」に入っているうちの片方は中国人の日本語通訳で、彼が村人と日本兵の間ででたらめの通訳をする(『ライフ・イズ・ビューティフル』的な?)構図が前半の軸になっている。そこに象徴されるように、言語やコミュニケーションの要素を強く意識させられる映画だった。後半の「虐殺」の場面でも、言葉と意思がきちんと通じていれば、そのような不信や疑心暗鬼は生じなかったのかもしれない、という視点を感じることができる。それが戦争の一側面の本質なのかもしれない、と。(逆にいえば、言葉の通じる相手を虐殺できるだろうか?ということか)
ちなみに、(自分にとって母国語である)日本語を喋る日本軍兵士が理不尽な侵略者として振る舞っている場面を見ると、ドイツ人がナチスものの映画を見るのはこんな気分なのかもしれないなと思った。その意味でも、言語的な要素を意識させられる映画。
出演者では、硬派の将校を演じた澤田謙也の迫力が印象に残っている。(香港で活躍している人らしい)
【ドイツ 1-0 パラグアイ】
まあ、予想通りの決め手を欠いた守り合い。パラグアイは延長もしくはPK戦狙いだったのかな。
【デンマーク 0-3 イングランド】
序盤で2点を先制したイングランドが、相手に攻めさせて跳ね返すイタリア的な試合運びで余裕の勝利。ファーディナンドとキャンベルを中心にしたイングランドの4バックはおそらく今大会随一の堅さなので(サイドのミルズとアシュリー・コールも良い)、ここは先制されないとおもしろくなりそうにない。次のブラジル戦(たぶん)に期待する。
【スウェーデン 1-2x セネガル】
北欧の組織力とアフリカの個人技の対決。こういう普段見られない顔合わせの真剣勝負が見られるのは、やはりワールドカップならではの魅力だと思う。この試合も期待通りおもしろかった。セネガルの11番、左ウィングのディウフの無茶なドリブルの切れ味は凄い。
セネガルの次の相手はトルコか日本。どこがベスト4に勝ち進んでも「ダークホース」と驚かれることになるのだろうな。
【スペイン 1-1(PK3-2) アイルランド】
アイルランドの敢闘で盛り上がったものの、内容的にはスペインが墓穴を掘って勝ちを取りこぼしかけた試合。
今大会のスペインは(CB以外なら)駒が揃っているのでまともに配置すれば結構強いはずなのだけど、いまひとつ選手を有効に使いきれている感じがしない。ラウルとバレロンを無理に併用しているせいで、本業がトップ下のバレロンは低い位置に追いやられて持ち味を発揮できていないし、左サイドに回されたメンディエタはいかにも苦しそう。この試合のカマーチョ監督の交代策はことごとく裏目に出て、怪我人が連発したせいもあるにしても、延長戦では万策尽きる事態に陥った(結果的に役立ったのは「PK職人」メンディエタの投入くらいか)。「怪我の功名」でも良いので、次はもうちょっと有効な布陣を見出してもらいたい。
【メキシコ 0-2 アメリカ】
試合は未見。メキシコは強くも速くもなく、まったりとボールを回しながらなんとなくファインゴールを決めて勝っている、という感じの変なチームで結構好きなところなので、敗退はいささか残念。
【ブラジル 2-0 ベルギー】
一歩も退かず敢闘したベルギーを、ブラジルが前線のタレントの個人技だけで撃破。守備だけはやたら堅いイングランドとはいい勝負かもしれない。(どちらも支持する気にはなれないけど)
【日本 0-1 トルコ】
試合は未見。急造の西澤&アレックスの起用を見たかぎりでは、トルシエ監督が戦前に発言していた「決勝トーナメント進出が目標で、以降はボーナス」という趣旨の通りになってしまったように思える。最後まで鈴木と柳沢を先発させて、ポジション流動的な「全員ボランチ」体制でどれだけ行けるのか見せてほしかった気もするけれど、あの戦いかたを徹底させたのも当然トルシエの功績だからなあ。(追記:試合後の情報によると、柳沢は怪我、鈴木も体調が良くなかったらしい)
韓国の試合を見るにつけ、やはり何度も出場して(負け続けて)きた国とは、ワールドカップに賭けるものの深さが違ったのかなと思った。
【韓国 2x-1 イタリア】
真っ赤なキムチ色のスタジアムが「歴史的勝利」で熱狂の渦へ。フットボールというよりは、何か国家的な行事を目にしているような気分だった。イタリアは1点リードの後、守りに入った交代策で終盤に追いつかれるという、二日前のスペインと同様の展開。ネスタとカンナヴァーロを欠いたのが苦しすぎたとはいえ、やはり極東には魔物が潜んでいるのだろうか。(まあ、審判も含めて……)
少林足球(2001)
★★
周星馳(チャウ・シンチー)製作・監督・脚本・主演作品。
少林寺拳法とサッカーを「無理は承知」で組み合わせた漫画的なコメディ活劇。構想は悪くないと思うものの、熱烈に支持されている理由はよくわからなかった。映画の呼び物となる「超人」たちによるサッカーは、どこかの漫画で見たような場面(「燃えさかるボール」「ネットを突き破るシュート」など)をなぞった範囲で視覚化されているだけで、案外アイディアとスリルに乏しい。正直なところ「予告編で充分」という感想だった。
無責任な予想を書いておくと、『アンブレイカブル』よりも『ギャラクシー・クエスト』を好きという人は、この『少林サッカー』も愉しめる可能性が高いのではないかと思う。この作品には、ある種のコミュニティを肯定して「みんなで仲良く楽しもう」というお祭り的な雰囲気があるからだ。僕はどうもこういう種類の映画には違和感をおぼえてしまい、『アンブレイカブル』のように「判る奴だけ判れば良い」という無愛想な態度の作品のほうが、どちらかといえば好感を持てるのだけど。
【ブラジル 2-1 イングランド】
「事実上の決勝戦」と注目を集めたものの、暑い昼間の試合のせいか両軍とも低調気味の動き。ブラジルはロナウジーニョが中央突破からのアシストとFKの決勝点、そして赤紙退場と、独りで試合の主役に躍り出た。イングランドはアルゼンチン戦で機能したシンクレア、スコールズ、バットの中盤がいまひとつ。元々ジェラードの不参加、ベッカムも負傷明けで、交代の選手層も薄いから攻め手が少ない。ここまで勝ち進めたのが出来過ぎだったということになるだろう。
【ドイツ 1-0 アメリカ】
ドイツはGKカーン先生が例によって鉄壁の守りを見せ、得点はツィーゲ→バラックのセットプレーのみ。誰が見ても褒められる内容ではないけれど、一応勝てることに変わりはない。米国代表は終盤、CBを前線に上げてMFレイナが最後尾からロングボールを上げ続ける捨て身の布陣で格好良かった。ただしドイツ相手にパワープレイを挑むのは、アイルランドのFWクインのような「電柱職人」でもいないと厳しいか。
【スペイン 0-0(PK3-5) 韓国】
ラウル負傷のスペインは、中央バレロン、左にクロス職人のデ・ペドロ(→フラン)、右に縦突破のホアキン(→ビクトル)を配した疑似デポルティボ・ラコルーニャ型4-2-3-1の布陣を採択。それでもいまひとつ攻めきれない(ホアキンの単独突破頼みになった)のは、トップがトリスタンでなくモリエンテスだったからか、後方にマウロ・シルバがいないためか、あるいは別の要因が効いていたせいなのか。結局、各クラブで活躍している選手を集めたのは良くても、代表チームならではの戦いかたは確立できなかった気がする。試合中に一番活躍したホアキンがPK戦で外したのは、残念ながらよくある展開(なんで彼に蹴らせたんだろう……)。GKカシージャスのPK運もアイルランド戦で尽きていたようだ。
韓国のほうもさすがに疲れ気味なのか、スタジアムの応援も含めて前のイタリア戦ほどの異様な熱気は感じられなかった。
【セネガル 0-1x トルコ】
これは今大会屈指の好試合。両軍とも攻めが速いので休む暇がない。特にトルコの中盤からの高速パス展開、ダイナミックな波状攻撃は素晴らしかった。絶不調のFWハカン・シュキュルが仮にヴィエリだったとしたら、前半で2-0くらいにはなっていただろう。セネガルは多少食い下がったものの、得意の個人突破もほとんど封じられて後半以降は押されっぱなし。さすがにそろそろ研究されてきたのと、疲労で精彩を欠いたのもあったのかもしれない。でもセネガルが絡んだ試合はどれも面白く、今大会を盛り上げてくれた功労者なのは間違いない。
次のブラジル戦は難しいかもしれないけど、個人的にはすっかりトルコに肩入れしたい気分になっている。
「見下げ果てた日々の企て」の2002/06/23で好意的に取り上げてもらったので、だいぶアクセス数が増えているようだ。
ちょっと誤解を招くかもしれない点に関して補足しておくと、『遙か南へ』と『少林サッカー』を個人的に高く評価していないのは、「作品自体の出来とは別の部分で評価されている」ことへの違和感というよりは、そのメディア(小説や映画)でしか達成できないものに挑んでいるかどうか、という観点を重視していることに理由がある。『遙か南へ』は小説のなかに映画的な表現手法を取り入れ、『少林サッカー』は実写映画のなかに漫画の表現を導入している作品。どちらも他のメディアの表現技法を借りてきている作品なのだけど、それを「小説/映画でないと表現できない」かたちに昇華できているわけではないのが物足りなく感じられた。
例えば、『少林サッカー』の感想で少し引き合いに出した映画『アンブレイカブル』は、必ずしも完璧な作品とは思わないけれども、漫画のストーリーをリアリズム映画の枠組みで撮ったらどうなるだろうか、という綱渡り的な作劇に挑んでいて、実にスリリングな映画だった。
また小説でいえば、いわゆる「文学的」な分野の作品でなくても、例えばグレッグ・イーガンの「貸金庫」や『宇宙消失』などは、明らかに小説という形式でしか実現できない領域に踏み込んで好感を持てる。
こういった評価軸は、やはり一定のイデオロギー的な価値判断にもとづいたものなので、それが作品自体の評価に限定されたものと断言して良いのかといえば、必ずしもそうは言えないとする見方もあるかもしれない。
【ドイツ 1-0 韓国】
世界大会でこれほど審判の動向に注目の集まった試合も珍しいかもしれない。結果的には普通の笛でえらく慎重な試合運び。列強の敗退でブラジルともども漁夫の利を得ているドイツは、GKが神の領域に達してさえいれば決して敗戦することはない(失点しないから)、という原理を証明する途上にあるのだろうか。
「ドイツのサッカーは退屈」というのはいまや決まり文句となっているけれど、この日のドイツは、韓国のカウンター相手なら人数が少なくても何とかなると踏んだのか、DFが入れ替わり上がって意外と攻勢に出ていた(特に右DFのラメロウあたりの動きが興味深い)。たしかに華麗な個人技だとかはないけれど、チェスの盤面を眺めているかのような整然とした戦略性は、それなりに心地良いような気もしてきた。
【ブラジル 1-0 トルコ】
トルコは中盤で軽妙なショートパスをつなぎ続けるも、例によってゴールは遠い。あれが日本代表の目指すべきひとつの形だ、と共感をおぼえる人も多いだろうけど、トルコが攻撃に人数をかけられるのは、守備陣の個人能力に相当の信頼を置いているためなのを忘れてはいけない。前のセネガル戦では出番の少なかったGKリュシュトゥ(通称:偽シーマン)も、ファインセーブを連発して当たっていた。ハサン・シャシュは抜群に巧いけど(ボールを奪われそうな感じがしない)、あの個人技をゴール近くで発揮できればと思わなくもない。あとはCFがどうにかなれば、トルコ代表は次の欧州選手権でも楽しみだ。
最初の20分以降はほとんどブラジルのペース。トルコの攻めは、前回有効だった右MFウミト・ダバラのサイド突破が見られず(ロベルトカルロス対策だろうか)広い展開が少なかった。ワンツーでの中央突破にこだわる相手はアルゼンチンなどで慣れているだろうから、ブラジルとしては結構やりやすかったのかもしれない。終了間際のデニウソンの「時間稼ぎ職人」ぶりは笑えた。
積読にしていたマイケル・イネス『ある詩人への挽歌』でも読むか……
キャサリン・ダン/柳下毅一郎訳/ペヨトル工房[amazon] [bk1]
Geek Love - by Katherine Dunn (1983)
★★★
「じゃ、おまえ怪物や悪魔やらってなんだかわかってるか? ぼくらのことだよ、そうさ。ぼくやおまえ。フウツの夢に出てくるのはぼくらなんだよ。鐘塔にあらわれて、聖歌隊少年の喉を食い破る奴――それがおまえだ、オリー。そしてクローゼットに隠れて、暗闇で泣き叫ぶ赤ん坊の最後の息をすする奴――それがぼくだ。そして草むらをざわざわ揺らし、荒れはてた道路で黄昏になるとどこからともなく聞こえてくる背骨も凍る悲鳴――それはイチゴつみに出かけて、歌の練習をする双子さ」(p.64)
これは語りの技法や構成というよりも、純粋に「語られる内容」がとんでもないことになっている小説。傾きかけたサーカス、ビネウスキ一座の団長がひねり出した起死回生の客寄せの策とは、妻にさまざまの毒物を飲ませて奇形の子供を孕ませ、見世物用のフリークスたちを自家生産することだった……。ということで、「アザラシ少年」のアルチューロ、シャム双子の美少女エレクトラとイフィゲニア、白子の小人オリンピア(語り手)、そして異能の末っ子チックの兄弟姉妹がこの世に生を享ける。これだけでも充分すごい筋書きだけれど、実のところここまではまだ本書の序章にすぎない。この設定を前提として、ビネウスキ一座とフリークス兄弟たちの壮絶なドラマが展開されることになる。
物語の語り手は、「平凡な奇形」で客を集めるだけの能力がないため、家族内では軽く扱われている小人のオリンピア。現在の地点から過去の悲劇を徐々に回想していくという、例えばトマス・H・クックの「記憶」ものなどのような叙述形式で語られる。物語を牽引する実質的な主人公といえるのは、長男の「アザラシ少年」アルチューロで、彼の強烈な個性は数々の名言とカルト的な信者集団を生み出し、その一方で周りの者にはやたら烈しい嫉妬や敵意を向け、報われない愛は結果的に「憎悪」のかたちでしか表現されない。(それが題名の"Geek Love"だろうか)
フリークスの登場人物たちの外見描写に関しては、明らかに映画『フリークス』をはじめとする映像作品の記憶を踏まえているようで、それだけにやはり「実物」を見ることの衝撃を文章だけで再現するのは原理的に難しいだろうなと感じる。それが気になるのはなぜかといえば、この手のフリーク・ショーの話で肝要なのは、作中の見世物小屋の観客の視点と、物語外の観客/読者の立場が重ならざるをえないところにあると思うからだ。もちろん本書にもアルチューロの演説など、映像的な要素抜きのところでそういった構図を感じさせる場面は多少あるのだけれど、これで充分とはいえないだろう。そんなわけで、これはちょっと映像化を前提とした脚本案を読んでいるような気分になってしまう小説だった。その限りではよく書けているとも思うけれど。
映画作家では、まさに適格といえそうなティム・バートンが映像化に名乗りを上げていたらしい(その後の話は聞かないけれど)。バートン以外にも、デヴィッド・リンチ、ラース・フォン・トリアー、ジャン=ピエール・ジュネなど、この手の話を好きな映像作家は結構いるだろうな。
フランシス・アイルズ/白須清美訳/晶文社[amazon] [bk1]
As for the Woman: A Love Story - by Francis Iles (1939)
★★★
「アラン、とっても素敵よ。本当に。彼、素敵じゃありません、ミセス・ポール?」
「女性でないなんて、とても思えないわ」
「とっても可愛い!」
「アラン、まるであなたの妹のようじゃないこと」(p.158)
『殺意』(1931)と『犯行以前』(1932)に続くフランシス・アイルズ名義の第三作。アイルズ=バークリーの実質的な最後の作品になるらしい。
社会的な地位のある夫と魅惑的なその妻、そして情事に惹かれる若い青年……という構図は、『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』などの「ファム・ファタル」もの犯罪小説の類型を思い出させる(ジム・トンプスンの『残酷な夜』や『死ぬほどいい女』あたりにも似ているだろうか)。『犯行以前』における主人公の夫ジョニーの扱いと同じく、本作のヒロインである人妻のイヴリンも、その実像がどんな人物なのか、善良な被害者なのか、あるいは腹黒い悪女なのか、客観的に裏付けられないまま話が進む。
この話を例えばカズオ・イシグロのような現代の英国作家が書いていれば、主人公による主観的な一人称叙述を採ることになるだろうと思うのだけど、アイルズ=バークリーの書法はこれまで作品と同様、完全に主人公の視点に寄るのではなく、作者の介入(突っ込み)の余地を残した三人称叙述になっている。このあたりは19世紀小説の手法をうかかがえるような感じで、結構興味深いところだと思う。
これまでの作品にもそんな気配はあったけれど、本作に関しては特に、男性優位主義、いわゆるマチズモへの皮肉が物語の前面に出ているという感想を抱いた。主人公の青年アランは、優秀な家族に囲まれているために劣等感を抱えたまま生きてきた人物として描かれている。そんな彼がようやく自分に自信を持てるようになったのは、ひとりの女性を屈服させて支配したという体験からだった。ところが、そのアランの「男性としての自信」は、ある事情から女装をしながら行動する羽目に陥る場面で、完膚なきまでに打ち砕かれることになる。(この伏線をあらかじめ張ってあるあたりもおもしろい)
だがアランの男らしさは、自分の服装の表面的な意味に対抗できるほど強くはなかった。その衣装は、服というものが常にそうであるように、服が着るものに合わせるのではなく、着る者がその性格を服に合わせるように仕向けていた。(中略)アランにはどうしようもなかった。もし自分のズボンがあったら、何とかして自分を救おうとするか、少なくとも何かしようと思っただろう。ところが、自発性はすべて麻痺してしまった。彼の衣服は、意味をも持たずにただ体をくるんでいるのではなく、肉体そのものと合体して、彼の個性に絹の怠惰さを植えつけた。彼はもはやアランではなく、新たな混成物だった。それは女としてのアラン、精神的な両性具有者だった。(p.337-338)
このあたりはジェンダー論の構図が露骨すぎるようにも見えるのだけれど、男性読者としては何とも言えない居心地の悪さを感じてしまうのもたしか。この作品が従来あまり評価されてこなかったらしいのも、そのあたりで嫌悪感を抱かれたためなのかもしれない。(それは作品の意図からすれば、皮肉な成功といえるだろうか)