『カオス』(未見)の原作って、歌野晶午の『さらわれたい女』だよね。ということはこれ、結果的に歌野晶午の原作がハリウッドで映画化ということになるのかな。(師匠格の島田荘司に先んじて!)
Passion Fish(1992)
★★★★
ジョン・セイルズ監督・脚本作品。交通事故で下半身不随になったもと昼メロの人気女優が、世話係としてやってきた黒人の看護婦やルイジアナ州の自然と触れ合いながら、しだいに心を癒されていくという、いかにも「癒し系」の話なのだけど、なかなか良かった。主役のふたりの断片的な過去が徐々に(しかも自然なかたちで)明かされていく構成が秀逸で、要するに脚本が巧いのだろうと思う。「過去に何があったのか」と「これから何が起こるのか」が並行してサスペンスを生んでいくというのは、ジャンルにかかわらず、おもしろい映画/小説のひとつの定式なのかもしれない。
作中では『何がジェーンに起こったか?』の設定を下敷きにしているのも示されているけれど(下半身不随になったもと女優の話なのが同じらしい)、この人物配置は『奇跡の人』(ヘレン・ケラーとサリヴァン先生の)にも通じると思った。障害を持つ主人公が必ずしも聖人ではなく、人間的で嫌な面も描かれているのが魅力になっているのも似ている。(と、いかにも知ったふうに書きながら、僕は『奇跡の人』の内容を漫画『ガラスの仮面』の劇中劇として知っているだけなんだけど)
wad's 映画メモの批評が的確なので、あまり付け加えることがないなあ。『スウィート・ヒアアフター』を連想したというのは共感できる。交通事故で半身不随になった女性を主役にしていること(あの作品ではサラ・ポーリーの役柄)、風景の美しい田舎町を舞台にしていること、よそ者の訪問者の側が麻薬中毒と娘についての秘密を抱えていること、喪失と再生が物語の主題になっているところなど、どことなく似ている点が多い。(外部からのオファーを断る、という結末のつけかたも共通している)
撮影はコーエン兄弟御用達のロジャー・ディーキンスで(最近では『ビューティフル・マインド』もこの人)、ルイジアナ州の風景を撮った映像がさすがに美しかった。
ダニエル・ペナック/平岡敦訳/白水社[amazon] [bk1]
La petie marchande de prose - by Daniel Pennac(1989)
★★★★
「つまりそれは、あなたには窮地に立たされるという特異な才能があるということですよ」(p.92)
『人喰い鬼のお愉しみ』と『カービン銃の妖精』に続くマロセーヌ・シリーズの第三弾(邦訳は今年の新刊)。妹クララと結婚したばかりの刑務所長の惨殺事件と、マロセーヌが謎のベストセラー作家 "J. L. B." の身代わりをさせられる仕事の線とが、やがて結びつく……という展開の話。シリーズ三作のなかでは、謎解きの整合性でいえばたぶん本作がいちばんまとまっていて(相変わらず真相の提示が説明的になってはいるけれども)、創作と書物を題材にしているのもこの作家らしくて良かった。まあ、おもしろく読めはしたのだけど、娯楽小説らしい作為的な活劇が増えたために、展開がいささか安っぽくなってしまったようにも感じる。それに主人公マロセーヌのこの扱いは、話を進めるうえでマロセーヌが邪魔になってきたせいもあるんじゃないだろうか。(前作『カービン銃の妖精』でも、マロセーヌの一人称部分になると話が進まないので読者は読み飛ばすことができた)
「受刑者に芸術を奨励する実験的な刑務所」「資本主義を象徴する超ベストセラー作家」など、現実社会からちょっとずれた法螺話的な設定を次々と繰り出すこの作者の発想力は卓越していて、個人的には、アキフ・ピリンチの『猫たちの聖夜』『猫たちの森』や、京極夏彦の「妖怪シリーズ」などに通じるものを感じる。
City of Hope(1991)
★★★★★
ジョン・セイルズの監督・脚本作品を観るのはこれで三作め。架空の都市を舞台にした社会派群像劇で、これは先の『パッション・フィッシュ』や『真実の囁き』をしのぐ傑作だった。
人種間の対立、貧富の格差、若者の犯罪、政治の腐敗など、米国の都市の抱えるさまざまな問題を、立体的に盛り込んだ筋さばきが素晴らしい。個人の問題と社会の問題は地続きにつながっていること、登場人物を安易に断罪しないこと、誰もが信じられる正義などはどこにもなく、解答はそれぞれが手探りで模索していくしかないこと。この種の話を進行させるうえで望まれる適切さを、ほとんど申し分なく備えている。「社会派群像劇」というジャンルがあるとしたら、そのひとつのお手本といっても差し支えない作品だと思う。
ジョン・セイルズの映画ではたいてい「過去」と「現在」の対比が大きな軸になっていて、それは多くの場合、伝統的な価値観と新しい価値観のぶつかり合い、といったかたちで表現される。そして作中では、人種や偏見の壁を超えて新たな交流が生まれる場面が描かれて、何らかの意味で将来の希望を予感させるようになっている。「希望の街」という題名にもかかわらず、深刻で苦い「現実的」な挿話ばかりの描かれる本作が(この「希望の街」という言葉自体も、劇中では白人市長の政治演説のなかに登場する台詞で、空疎なお題目にすぎないものだ)、ただ皮肉で悲観的なだけの話に終わっていないのは、そのあたりの視野がきちんと示されているからだろう。ここには、移民を受け入れ、異なる文化を背負った者同士が対話することによってアメリカの歴史は進歩してきたのだ、という作者の強固な信念が込められているように思う。
どちらかといえば下層階級の登場人物が多いので、作中の会話では卑語が頻繁に飛び交う。四文字言葉の発せられる回数を数えたらタランティーノ映画にも負けないだろうけど、「クール」だから好んで汚い言葉を使っているわけではなく、それが作劇の必然だからだ。
映像面では、場面ごとに異なる色彩や鋭角的な構図が印象的。撮影のロバート・リチャードソンはオリヴァー・ストーン監督作品の常連で(『JFK』でアカデミー撮影賞)、その他の作品で彼の参加した『ヒマラヤ杉に降る雪』(未見)などは、内容的には賛否両論ながら映像だけは多くの人が褒めている。ジョン・セイルズ監督作品は毎回撮影監督が違う人のことが多いのに、どの作品も映像が良いので感心する。
エンドロールで流れる The Neville Brothers の曲も良い。(思わずCDを購入してしまった)
Matewan(1987)
★★★★
ひとりジョン・セイルズ祭りを続行中のため、これもセイルズ監督・脚本作品。1920年前後の炭坑町で起きた労働争議を題材にした話で、この時代背景は、ミステリ読者的にはダシール・ハメットの伝記的逸話や、コナン・ドイルの『恐怖の谷』の後半部などでおなじみ。
ウェスト・ヴァージニア州の炭坑町メイトワンに、「組合」から派遣された非暴力主義の運動家(『真実の囁き』などのクリス・クーパーで、これがデビュー作らしい)と、炭鉱会社にスト破りのため雇われたギャングまがいの仕事人たちがやってきて、対立と緊張が高まる。運動家の理想主義的な言動が、もとの住人と黒人やイタリア系の移民との溝を埋めて融和をもたらすところ、それが必ずしも単純な解決策につながらないところなどは、いかにもジョン・セイルズらしい展開。終盤にはカタストロフ的な活劇場面が待ち構えているものの、これは『ミラーズ・クロッシング』などを想起するとあっさり気味のように感じた(まあ、それが主眼の映画ではないのだろうけれど)。いくつかナレーションの挿入される場面もあったし、実話的な背景を映画として昇華しきれなかった面もあるのかなという気もする。
まじめに撮られた作品なので、時代背景などの勉強にはなる(この話をふまじめにやると『赤い収穫』みたいな法螺話になるんだろうか)。陰影の濃い映像(撮影:ハスケル・ウェクスラー)も印象的。
The Secret of Roan Inish(1994)
★★★
ジョン・セイルズ監督・脚本。少女が田舎の祖父母のもとに預けられて不思議な体験をする、というわりと古典的な話。これまで米国の社会を描いてきたジョン・セイルズが、アイルランドの田舎に舞台を移して撮った作品ということになる。ケルトの妖精伝説(でも日本の民話と同じような内容なんだけど)なども重ねられていて、ちょっとファンタジー路線。
それなりに美しい佳作なんだけど、原作の小説があるせいか、前半部で回想/伝聞形式の続く構成は少しまとまりが悪いように感じた。まあ、ケルト音楽と金髪少女とアザラシが好きな人なら必見。(それにしても、アザラシの動きはどうやって撮ったんだろう)
劇中の台詞で、「西は過去の方角、東は未来の方角」というような言葉が語られる。ジョン・セイルズの映画ではいつも、断片的な挿話の積み重ねから、「現在」は過去や未来に地続きの通過点であることが示され、時間的な広がりを感じさせるようになっている。また、これも作中の台詞で「過去は見えるけれども、未来は見えない」といった意味の言葉が語られる。その「見えない」未来を映画で見せるためにどうすれば良いかを考えたときに、ジョン・セイルズ作品のなかでは(他でも指摘したように)人種や偏見を超えた心の交流が描かれて、将来の希望を予感させることにつながる展開が多い。本作でもそれは変わっていなかったと思う。(それは例えば「アザラシと心が通じ合う」ことを指すわけだが……)
SFセミナー2002の参加者の感想を少し覗いてみると、奥泉光のインタビュー企画が好評だったらしい。奥泉光は現代の日本では稀有な書き手だと思うし、個人的にもいま興味を持っている作家のひとりなので、それはちょっと聞いてみたかったかも。
ちなみに、知らない人もいるだろうと思うので、奥泉光本人のサイトを紹介しておく。
奥泉光の小説をまだ読んだことがない人には、昨年の話題作『鳥類学者のファンタジア』が個人的にはいちばんお薦め。メタミステリに抵抗のない人なら『葦と百合』も良いかな。(あと、上記のサイトで確認してみたら『バナールな現象』は5/22に集英社文庫版が発売らしい)
参考までに、当サイト内の奥泉光関連の記述を抜粋。
The Brother from Another Planet(1984)
★★★★
ジョン・セイルズ監督・脚本作品。黒人の姿をした異星人という設定の主人公が、ニューヨークのスラム街に降り立って、住人たちと交流していくという話。ジョン・セイルズ作品ではおなじみの題材、WASP中心ではない多民族のアメリカ社会を描くこと、そして人種や偏見を超えた対話と交流を描くことなどを、さりげないやりかたで前面に押し出している。会話を中心にして「移民の日常」や異文化の交わりを淡々と描いているのは、ジム・ジャームッシュの作品(『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は同じ1984年)などにも通じる感じで、いかにも1980年代のインディーズ映画らしい雰囲気。
主人公が「異星人」であるという、多少ファンタジックな設定を導入することで、社会提起めいた主張を抑えているのが巧い。この主人公の無感情な視点と、言葉を喋れないため他人とのやりとりが受け身になりやすいという設定が、カメラの視点でスラム街の日常を観察する、というこの映画の構造と合致しているのも、よく考えられた構想だと思った。
映像はカラーの発色が鮮やかで良い(撮影のアーネスト・R・ディッカーソンはスパイク・リーの同志みたい。地元育ちなのだろうか)。後半に多少ミュージック・ビデオ的な演出も入っているのは、この手のものの元祖のひとつなのだろうかと思った。
Baby, It's You(1983)
★★★
ジョン・セイルズ(監督・脚本)のメジャー進出作ながら、編集権をめぐって制作会社と揉めたのと、興行的に振るわなかったとかで、この後はインディーズ道を突き進むことになるらしい。
ロザンナ・アークェット主演のハイスクール青春恋愛もの。前半は高校時代の出会いと恋愛、後半は主人公が大学に進学した後の話が語られる。演劇少女で優等生の主人公(郊外の高級住宅地に住む)と、イタリア系の不良青年(労働者階級)との間の社会階級の違いなどのために、だんだんとふたりの距離が離れていく……という感じを丁寧に描いている。ちなみに、ジョン・セイルズ自身は本作について「高校時代は民主主義の最後の砦なのだ」というような発言をしているそうだ。1960年代後半の話なので、たぶんその時代あたりと思われる楽曲が結構流れていた。
ふたりの距離感をさりげなく表現する会話が繊細で良い。しみじみとした味わいの佳作なんだけれども、ジョン・セイルズらしい淡々とした演出の映画なので、興行的に振るわなかったらしいのは仕方ないだろうか。
相手役のヴィンセント・スパーノは『希望の街』(1991)でも似たような役柄だった。将来のなさそうな感じの伊達男が似合う。
The Breakfast Club(1985)
★★★★
ジョン・ヒューズ監督・脚本。これは鋭い着想の作品で、まじめに感心した。ジョン・ヒューズの代表作というだけでなく、おそらくハイスクール青春映画の歴史に残る傑作なのではないだろうか。(現在の視点でいえば「古典的名作」という位置づけになるかもしれない)
学校で何らかの問題行動をとった五人の生徒が、罰として休日の土曜日に学校へ呼び出され、図書室で作文を書かされる。この五人が、「不良」「運動部員」「ガリ勉」「お嬢様」そして「ゴス娘」という、普段の学校生活ではおよそ接点のない顔ぶれの面々で、彼らがだんだんとお互いの悩みや本音を打ち明けて、ひととき心を通わせ合うところを描くという趣向。それぞれの人物造形や抱える問題はいかにも類型的なものなんだけど、彼らは学校生活におけるある種の階級を代表する存在だから、むしろこのくらいの描写のほうが良いのだ。(話がどれも両親との関係不全に回収されてしまうのは、いささか物足りない気もするけれど)
この作劇の手法が何に近いかといえば、劇の性格は異なるけれども『そして誰もいなくなった』や『十二人の怒れる男』、あるいは『レザボア・ドッグス』などに通じるものがあるのではないだろうか。見知らぬ人物同士をむりやり一箇所に集めることで、非日常的な演劇空間ができあがる、というような意味で。本作では「学校の図書室」という、いかにも日常的な舞台の範囲内で、そのような非日常空間を作りあげているのがおもしろい。
ジョン・ヒューズの映画では、『フェリスはある朝突然に』(1986)にしても、時間的・空間的な制約が大きな魅力になっている。本作で描写される時間は一日だけで、舞台は図書室をはじめ学校の構内に限られ、図書室から抜け出すにしても教師にばれない範囲内でなくてはならない。考えてみれば学校生活というのも、制約があるからこそそこからの逸脱が楽しく張りのあるものになる、という側面があったのではないだろうか。ジョン・ヒューズの学園映画はそんなことも思い出させてくれる。
本作の弱点、というか1980年代的な思考の限界を感じさせるのは、根暗の少女を明るく「変身」させるのが何のためらいもなく正当化されてしまうところだろう(また、これは個人的な好みの問題かもしれないけれど、この少女は「変身前」のほうが魅力的に見えた)。1990年代以降のリベラル志向の映画、例えば『アメリカン・ビューティー』(1999)などになると、他人の基準に迎合して自分の価値観を見失う必要はないから「根暗な奴は暗いままで良いんだ」というような結論が導かれる。
風野春樹さんの読冊日記(2002/05/08)などで映画『ブラックホーク・ダウン』関連の論議が持ち上がっているのだけど、ここだけ読むと『ブラックホーク・ダウン』は相当な予備知識がないとまったくわけのわからない、困った映画だと思われてしまいそうだ。少なくとも僕は、ソマリア情勢にも軍事的知識にも疎い観客ながら(もちろん原作も未読)、そこまで状況設定を把握できない話だとは感じなかったのだけどな。たしかに作戦が破綻してからは、あえて俯瞰的な状況説明を省いて戦場の混乱を追体験させるような趣向になっていたものの、戦闘の前には基本設定も任務の内容も一応きちんと紹介されていたと思う。個人的には、例えば『ロード・オブ・ザ・リング』のほうがはるかに、背景事情や任務についての説明が足りないように思える映画だった。(しかも、それが映画の手法として意味を持っているわけでもなさそう)
ところで、起承転結の作劇を排除した構成と、「誰が誰だかわからない」匿名的な兵士の描写というのは、テレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』(1998)で試された手法と通じる(よく比較される『プライベート・ライアン』のほうは未見)。『シン・レッド・ライン』は刺激的でおもしろかったのだけど、『ブラックホーク・ダウン』はおもしろいと感じるまでには至らなかった。これは監督の手腕の違いなのか、具体的な近過去を題材にした「再現映像」的な趣向と合っていなかったのか、その他に理由があるのかはよくわからないけど。
本日のGoogleはダリ化しているのね……。
サイモン・クーパー/柳下毅一郎訳/白水社[amazon] [bk1]
Football Against the Enemy - by Simon Kuper(1994)
★★★
ワールドカップ開幕もそろそろ間近ということで、少しサッカー関連本を読んでみる。
本書は技術/戦術評論ではなく、サッカーと政治のかかわりを世界各地で取材したノンフィクション作品。対象地域はおもに東欧・アフリカ・南米などで、実際に現地へ出向いていろんな人物の声を拾っているのが興味深い。いわゆる「政治とスポーツは別に考えるべき」というような紋切り型ではなくて、それぞれの地域の複雑な状況を紹介しているのが良かった。それに結局、我々の多くは、例えばカメルーンの国家元首の名前も顔も知らないけれど、パトリック・エムボマなら名前も顔も知っているのだよね。
ワールドカップ米国大会(1994年)前後に書かれた本なので、いかんせん話題が最新のものではないのがちょっと難だろうか。
著者は英国の人。「ウガンダ生まれ」と記してあったのでアフリカ系の人なのかと思ったものの、本文中では「白人」と書いてあった。文体はやけに軽妙で、柳下毅一郎の翻訳はニック・ホーンビィ(『ぼくのプレミア・ライフ』、『ハイ・フィデリティ』)の森田義信訳の感じを意識しているのかなと思った。
The Woman in the Window(1944)
★★★★
フリッツ・ラング監督の犯罪映画。いわゆるフィルム・ノワールというよりは、原作小説がそういう感じの話なのか、洒脱でちょっとひねくれた味わい。やたら陰鬱だった『暗黒街の弾痕』(1937)とはだいぶ違った路線で、個人的にはこちらのほうが好み。小市民の悪夢として「犯罪」の世界を描くという文脈をみると、『ブルー・ベルベット』とか『青い夢の女』などはこの映画の系譜に連なるのかもしれないなと思った。
『深夜の告白』(1944)で主人公の同僚を演じていたエドワード・G・ロビンソンが、行く先々で次々と証拠をまき散らす間抜けな大学教授の役で、とぼけた良い味を出していた。ファム・ファタル的な役まわりのジョーン・ベネットがとても綺麗。
The Third Man(1949)
★★★★
実はいまさら初見。キャロル・リード監督、グレアム・グリーン原作(脚本にも参加)のスリラー映画。
冒頭に不審な死亡事故が起きていて、その謎を追ってウィーン(戦後の連合軍による分割統治中)をうろうろして人に話を聞いてまわるという、意外なほど典型的なミステリの構成になっている。「過去を探る」だけでは映画にサスペンスが生まれないので、途中から現在進行形のドラマが絡んでくるのは、さすがにきちんと考えられているところ。
題名に示されているような謎解きものとしてはだいぶ弱い。これはトリックとかミスディレクションには全然なっていなくて、普通に考えれば誰でも真相がわかるのではないかと思う。「斜め構図」をはじめとする映像・音楽の雰囲気と、オーソン・ウェルズの不敵な演技を鑑賞する映画なのだろう。(「幻の男」を実際に見せてしまうのがいかに難しいかは、『地獄の黙示録』を見ればわかるような気がする)
言葉が通じないために事件の見通しが悪くなって、そのために謎が構成されるという趣向がおもしろい。
Panic Room(2002)
★
ううむ、こんなにつまらないスリラー映画はひさしぶりに見たような気がするな。現代を舞台にむりやりヒッチコック風の閉鎖空間スリラーをやる趣向は、ウォシャウスキー兄弟の『バウンド』(1996)みたいなのだけど、『バウンド』などと較べると脚本の出来が悪すぎて話にならない(脚本:デヴィッド・コープ)。作劇はもう最初から「パニック・ルーム」を使って攻防戦をやりたいがためだけに組み立てられているのが見え見えだし、頭の悪い強盗犯三人組の(少しタランティーノ風の)内輪もめの会話はセンスのかけらもない。娘に持病があるなどの設定も、ただ状況に不自由さをもたらすためだけに持ち込まれているようだった。主演のジョディ・フォスターも特に見せ場なし。(あえて言えば薄着の乱れだろうか……)
あと、この映画で襲撃されるのは金持ちの白人の家で、押し入る強盗犯は低所得層の黒人とヒスパニックなのだよね。別に娯楽映画がいわゆる「政治的な正しさ」に縛られるべきだとは思わないけれど、有色人種は貧乏で知能が低く、手癖も悪い(でもちょっとだけ善人もいる)、とでも言いだけなこの映画の類型的な描写は、とても後味が悪かった。
前半の長回し(と言うんだろうか)のこれ見よがしなカメラワークは、それなりに期待させるものがあったのだけど……この種の限定状況スリラーは、脚本がきちんと練られていないと悲惨なものになるという、悪い見本のような作品だった。監督のデヴィッド・フィンチャーは、どうも映像を撮りたいだけの人のようだから、たぶん話のよしあしはわからない人なんじゃないかなと想像する。前作『ファイト・クラブ』(1999)が良かったのは、たまたま原作が良くて相性も合っていただけなのかもしれない。
Spider-Man(2002)
★★★★
サム・ライミ監督による有名コミックの映画化。前年に超変化球の『アンブレイカブル』(2000)を観てしまったので、正統派の作品も押さえておこうと思って鑑賞してみた。おたく監督が歴史的有名作の実写化に挑むという意味では、『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)と並ぶ作品ということになるのかな。(ちなみに、主演のトビー・マグワイアがかつて『アイス・ストーム』でイライジャ・ウッドと共演しているのは何かの縁だろうか)
これは青春ものとしてもアメリカン・ヒーローものとしても手堅い出来の作品で、意外な驚きはないものの結構良かった。正統派のヒーロー覚醒ものでありながら、完璧でないヒーローの行為が誤解を招いたり、ヒーローの存在そのものが周囲に災厄をもたらす、といった視点も盛り込まれているのが好感。台詞もそれなりに洒落ていて、とても『パニック・ルーム』と同じ脚本家(デヴィッド・コープ)の仕事とは思えない。これで格闘場面に『ジョジョの奇妙な冒険』のような知的ひっかけがあれば文句なしなのだけど、そこまで望むのは難しいだろうか。(戦闘はちょっと単調だった)
どうしていまさら「スパイダーマン」なのかと思ったんだけど、NYが舞台で「火事場の人命救助」をする場面もあるんですね。(完成が遅れたというのは、このあたりの改変をしていたんだろうか)
トビー・マグワイアは「好きな女の子を見てるだけ」(『アイス・ストーム』)の「謎のおたく青年」(『ワンダー・ボーイズ』)という得意の役なので安心して観ていられる。「隣の家の少女」のキルスティン・ダンストは、諸兄も指摘しているようにちょっと見るのがつらい。この人は金髪が売りなのに、赤く染めちゃったら意味ないのでは。(あんなに無理して赤毛にしているということは、たぶん原作がそういう設定なんだろうけど)
[追記]eiga.com の特集記事「長かった映画化への道のり」によると、やはり9.11のテロ事件を受けての再編集で公開が遅れたらしい。
副題は「オタクから見た日本社会」。これは以前に読んでいたのだけど、感想を書きそびれていたのでざっと記しておく。
まず個人的な立場をいえば、僕自身は年代的に本書の「オタク第三世代」にぎりぎり属するはずだけれど、アニメやゲームからは遠ざかっているので、狭義の「オタク」の定義からはたぶん外れるだろうと思う。ちなみに『新世紀エヴァンゲリオン』は当時視聴していたけれど、あれは型破りのロボット・アニメとして(つまり本書の論じるような二次創作の契機としてではなく、独立した物語として)愉しんでいた記憶がある。なので、これはおもに異文化の紹介本として読まざるをえなかった。
実はこの種の「時代を論じる」趣向の本に求められている第一の役割は、ある種のわかりやすいキャッチフレーズ作りではないかと考えている。その点では「データベース型消費」と「動物化」という言葉が提示されていて、前者の「データベース型消費」は例証も明瞭で良いのだけど、後者の「動物化」は論証抜きに出された感じで、内容的にもいまひとつ適当でないように思った。なぜかというと、例えば「○○萌え〜」なる発言をする心理の裏には、(何でも良いのだけれど)その「○○」に対する嗜好を支持する風潮があって、その共同体との接続を確認する安心感があるんじゃないだろうか。「動物化」というと自分の独立した内在的な欲望に忠実という感じで、そのあたりの視点が抜けてしまいそうな気がする。(「データベース型消費」ならそれも視野に入るのではないかと思うんだけど)
(狭義の)オタクでない人による本書の論評としては、wad's読書メモの書評など。
総じていえば、これは内容の精度よりも、教養新書の枠組みでゲームやアニメなどをもっともらしく論じる、という既成事実を作っておくのが目的だったのかなという感じがする。まあ、それも「ポストモダン」的な態度のひとつなのかもしれない。
ニック・ホーンビィ/森田義信訳/新潮文庫[amazon] [bk1]
Fever Pitch - by Nick Hornby(1992)
★★★
これも一応サッカー関連本になるのかな。『ハイ・フィデリティ』の作者のデビュー作で、英国の有名なフットボール・クラブ、アーセナルの熱狂的なファンとして送ってきた半生を振り返る自伝的エッセイ。
『ハイ・フィデリティ』もそうだったけれど、この人の文章は「趣味を第一に優先する」ライフスタイルそのものを語る感じなので、その対象(サッカーや音楽)をよく知らなくても愉しめるようになっているのが巧い。
批判能力というのは恐ろしいものだ。ぼくが十一歳のときには、ひどい映画なんて存在しなかった。(中略)ひどい本もなかった。読んだものはすべて最高だった。ところがある朝目覚めてみると、すべてが一変していた。どうして妹は、デヴィッド・キャシディとブラック・サバスの格の違いがわからないのだろう。いったいどうして学校の英語教師は、H・G・ウェルズの『ポリー氏の経歴』がアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』より上だなんて思うのだろう。そのときからぼくは、物事を素直に楽しめなくなってしまった。(p.38)
まあ、こんな感じで、誰でもどこか思いあたる箇所を見つけられるのではないだろうか。
主人公(作者)が、もし妻の出産とフットボールの重要な試合が重なってしまったらどうしよう、などと真剣に思い悩みはじめる人なので、ときおりある種の「信頼できない語り手」小説のような感じになるのがおもしろい。
ただ、主人公がセラピーに通っているところなんかを読むと、これって要するにウディ・アレン映画のエッセイ版なんじゃないかという気もしないではない。(だから『ハイ・フィデリティ』の映画版がウディ・アレン風になっているのも当然のことなのか)
ちなみに、今季のアーセナルはプレミアリーグとFAカップを制して、二冠を達成した。ニック・ホーンビィは喜んでいるんだろうな。
ウラジミール・ナボコフ/小笠原豊樹訳/白水社
Nabokov's Quartet & The Eye - by Vladimir Nabokov(1965,1966)
★★★
ナボコフの中短篇集。もとはベルリンでの亡命生活時代の1930年前後に書かれた作品群のようで、そのためにロシアがらみの追憶や異郷での根無し草的な立場を記した、いかにも「亡命文学」的な色が濃い。このあたりは作者の伝記的事実と重ね合わせると興味深いのだろうけど、逆にいえばフィクションとしては昇華されきっていない作品のような気もした。
ただし後半の中篇作品「目」は、ちょっと異様な高揚感に満ちていて印象深い。これはナボコフ自身が「探偵小説の構造を借用した」と明言している作品で(どのような意味で探偵小説的なのかは、読めばわかると思う)、僕の知っている他のナボコフ作品では『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』と感触が似ている。一人称の語り手が「自分が誰であるか」を認めないことによって話が成立しているのは、故国と自分の存在が分断されているという、これも亡命者の立場を反映したものなのだろう。現在の視点から見ると小説的な手法には隙があるのだけど、当時でないと書けないような切実さがあるように思った。
他のヴァン・ダイン批判では、森英俊・山口雅也編『名探偵の世紀』に収録されていた、ダシール・ハメットによる『ベンスン殺人事件』評が、徹底した罵倒書評で笑える(むかし書いた紹介記事。この本には上記のバウチャーの文章も収録されていた)。日本でヴァン・ダイン嫌いの論者といえば、瀬戸川猛資(『夜明けの睡魔』)が有名だろうか。
連城三紀彦/双葉社(2002.04)[amazon] [bk1]
★★★
『白光』に続いて、連城三紀彦の新作が出ている(ただし雑誌連載での発表は1995年らしい)。TVの二時間サスペンス的な話の枠組みを使っているのは『白光』と共通しているけれども、こちらはわりと映像的な描写の誘拐スリラー。盗聴器の存在が登場人物の行動を限定して、動きの少ない室内劇をスリリングに盛り上げている趣向が、なかなか巧妙で感心させられた。(これは低予算スリラー映画などの脚本としても使えそうな着想だと思う)
ただし、三人称叙述で誰の内面をどのくらい描写できるのかが一定していないのは、恣意的で都合の良い書法という印象を与えるし、犯人側の詭弁めいた論理を言葉で説明せざるをえなくなっているのも格好良くない。文章ももう少し練られていても良いんじゃないかと思える箇所が散見された。まあ、ベテラン作家なので点が厳しくなるせいもあるだろうけど。
戸梶圭太/新潮社(2001.10)[amazon] [bk1]
★★★
「なんか違うんだよ。(中略)俺がやりたい復讐はもっと陰惨で……もっと鬼気迫る、ハードなリベンジなんだ。西村寿行とか、勝目梓が書くような、ストイックな復讐の鬼なんだ」(p.151)
日常生活に倦んだ登場人物たちの群像を交錯させて、彼らの行動がしだいに集合する地点で爆発が生まれる……という、いかにも戸梶圭太らしい映画的な構成の小説。実はこの内容、ジャン・ヴォートランの『鏡の中のブラッディ・マリー』あたりの感じに似ていると思った。
平凡に見えながらすでに崩壊している家庭と、新たに生まれつつある奇妙な家族の対比を軸にして進む前半の展開は良い(このあたり、天童荒太『家族狩り』の戸梶版という感じもしないではない)。ただこの作家は、『なぎら☆ツイスター』を読んだときにも思ったのだけど、群像劇の部分は結構読ませるのに、集結してからのアクション場面にさほど魅力がないような気がする。特に、とりあえず自動車をぶつけてアクシデントを起こすのは、タランティーノ以降の犯罪映画の常套手段で、さすがにちょっと見飽きた。
とはいえ、短絡的で薄っぺらい登場人物を描写する筆致はあいかわらず素敵。この作家は人物の物語的な「内面」なんて信じていないんだろうな。
The Others(2001)
★★
アレハンドロ・アメナバール監督・脚本作品。古い洋館を舞台にした怪奇譚。この人の映画は『テシス/次に私が殺される』(1996)と『オープン・ユア・アイズ』(1997)のどちらも、構想にどこか根本的な勘違いがあるとしか思えない話で、どうして評判になっているのかわからない。この作品もあまり進歩していない感じだった。
前半で割れている趣向を終盤まで伏せているのは『オープン・ユア・アイズ』と変わらないし、「子供が光に弱い」「ひと部屋ごとに鍵を閉めねばならない」などの怪しい設定がただ雰囲気づくりのための思いつきで盛り込まれているだけで、作劇上効果的に活かされていないのは散漫な印象を与える。それに、この話は謎解き的な構造を採りながら、作中世界の全貌を知っている人物が意図的に情報を伏せており、しかもそこに物語的な必然性が与えられていない。要するに、物語的な現象は何も起きておらず、作者が観客に対して恣意的に情報を隠しているだけの構造になっているのだ(その「隠している」情報そのものも大した内容ではないんだけど)。やはり、この人は謎解きの作劇法をわかっていないんじゃないかと思うしかない。
脚本に欠陥のあるスリラー映画がどんなものか確認したい人は、『パニック・ルーム』 と二本立てで観るといいんじゃないでしょうか。
ただ、主演のニコール・キッドマンを美しく撮っているのは一応認めざるをえないだろうとは思うけれど。この人はこういう古色蒼然とした舞台が似合う人なのかもしれない。(役名が「グレース」で、髪型もグレース・ケリーに似せているようだった)
アメナバール監督は、その年齢的な若さと毎度の無茶な設定、ヒッチコック的な職人スリラー作家を志向しているらしいところなど、M・ナイト・シャマラン(『シックス・センス』『アンブレイカブル』)と比較されそうな位置の人だけれど、シャマランのほうが謎解き的な手続きのまっとうさも含めて、はるかに信頼の置ける映画作家だと思う。
ところでこの題名は、トマス・トライオンの小説『悪を呼ぶ少年』(原題は"The Other"。映画化もされている)と関係があるのだろうか。
Birdy(1984)
★★★
アラン・パーカー監督作品。ヴェトナム傷病兵の話を、ファンタジックな青春ドラマの味付けで描いた佳作。『スローターハウス5』+『ミリイ/少年は空を飛んだ』みたいな感じ、といえば近いだろうか。
「バーディ」役のマシュー・モディンは、高校の同級生の女子に誘われても無反応だし、クライマックスは「親友」のニコラス・ケイジに抱かれる場面だしで、これはつまり「隠れゲイ映画」なのじゃないかな。それが映画に奇妙な緊張感をもたらしていたような気がする。(若干、ついていけないものを感じないでもなかったけれど)
バーディの家に飛び込んだ野球のボールはどこへ消えたのか、という「日常の謎」的な伏線が前半から示されていて、それが後で効いてくるのかと思ったら期待したほどでもなかったので、ちょっと拍子抜けした。人を食ったような幕切れは格好良い。
マシュー・モディンはこの直前に、ロバート・アルトマン監督の『ストリーマーズ/若き兵士たちの物語』(1983)に出演している(未見)。これはヴェトナム戦争ものらしいので、本作の役柄との関連性もあるのかもしれない。(ちなみにこの後、『フルメタル・ジャケット』(1987)や『メンフィス・ベル』(1990)にも出ているんですね……)
Limbo(1999)
★★
ジョン・セイルズ監督・脚本作品。現時点ではこれが日本で見られる最新作ということになる。セイルズ久々のメジャー製作の作品らしいのだけど、ほとんど怪作といっても良い変な話で驚いた。まじめに撮ってこんなに迷走してしまったのか、それともメジャー映画の機構に対する挑戦ということなんだろうか。
アラスカを舞台にした映画で、過去の遭難事故以来海を離れていたもと漁師の男と、巡業の子連れ女性歌手が出会って恋に落ちる。このまま『パッション・フィッシュ』などのような「田舎で人生をやりなおす」路線の話になるのかと思いきや、中盤以降の話は突如として予測不能の奇怪な方向へ暗転し、幕切れは「カンヌを騒然とさせた」らしいのも無理はないかなと思える挑戦的なもの。でもこういう悪い冗談のような話をやるのなら、例えばフィリップ・ド・ブロカ監督の『陽だまりの庭で』くらい華麗に決めてほしいよなあ、と思った。
主演のデヴィッド・ストラザーンは、ジョン・セイルズ初監督作の『セコーカス・セブン』(1980)から出演している古い縁の人で、年格好もジョン・セイルズと近い。だからこれは自分が出演しても良かったような「私小説」的な話ではないだろうかと思えて(「再び漁船に乗る=再びメジャー作品を撮る」みたいな感じ)、そのあたりもちょっと気が重くなった。
世評的には、やはり主人公のライフスタイルとか、フェミニズム的な側面が語られることが多いのだろうか。個人的には初期の、とてもありえない裁判を通して人生の真実を語る、みたいな不条理法廷劇の部分が好きだったのだけど。(男性視聴者ではそういう感想の人が多いような気がする)
Fearless(1993)
★★★★★
ピーター・ウィアー監督。これは変な映画だった。航空機事故で生き残った男(ジェフ・ブリッジズ)が事故後の「恐怖を超越した」状態から日常生活に復帰するまでの話を、周囲に英雄扱いされたり、同じ生き残り仲間の女性とロマンスが生じたり、といった挿話を絡めながら淡々と描いた映画。主人公がのっけから不可解な言動をとり続けて、そこにほとんど解説の入らない不親切な描写のため、観客が最初から最後まで少しも感情移入できないようになっているのがすごい。このため大勢の観客に支持を得られるとは思えない作品なのだけど、個人的にはとてもスリリングで興味の持続する映画だった。
いわゆる「PTSD」からの回復を描いた話とも解釈できるけれど、その種の話に予期される「感動」的な類型からは相当に逸脱している。(でも、症例というのはそのようなものなのかもしれない)
また、M・ナイト・シャマラン監督の『アンブレイカブル』(2000)は間違いなく、この映画の筋書きを下敷きにしていると思う。(ただ、この設定からあんな奇怪な話をつむぎ出す着想には感心するけれど)
撮影のアレン・ダビューは、スピルバーグ監督の『E.T.』や『太陽の帝国』を撮っている人。映像は安定していて、イザベラ・ロッセリーニやロージー・ペレスなど、女優を綺麗に撮れているのも良い。
『アラビアの夜の種族』は文章的にどうにも読めなくて挫折したのだけど(2002/01/17)、いまのところ他ではそういう感想を見かけていない。僕の許容範囲が特殊なのだろうか。
話のついでに、最近読むのに挫折した国産の小説など。
ビル・プロンジーニ&バリー・N・マルツバーグ/内田昌之訳/文春文庫[amazon] [bk1]
The Running of Beats - by Bill Pronzini & Barry N. Malzberg(1976)
★★★
田舎町を舞台にしたサイコ・サスペンス。解説の折原一は「狂気」という形容を連発しているけれど、そんなに奇怪なところはなく、まあ標準的な内容という感じだった。謎の探索が新たな物語を掘り起こすような構造になっていないため、犯人探しの興味が薄い。落ちぶれて馬券師を生業にしているもと舞台俳優や、役立たずの作家志望者など、うらぶれた登場人物たちの描写に妙な説得力があったのは良かった。
精神科医がほとんどエクソシストのような役回りで登場していて、いかにもトマス・ハリス以前のサイコ・サスペンスという感じがした。
これはちょっとおもしろそう。精神分裂症の妄想ホームレス探偵が主人公らしい(原作は未読)。首都圏での劇場公開は終了しているようなので、ビデオを心待ちにしようかな。でもサミュエル・L・ジャクソンが妄想野郎を熱演……といえば、某作品を連想させるんだけど。
No Man's Land(2001)
★★★
ダニス・タノヴィッチ監督・脚本。旧ユーゴスラヴィアのボスニア紛争を題材にした映画で、セルヴィア軍とボスニア軍の中間地帯(ノー・マンズ・ランド)で両軍の兵士が鉢合わせしてしまったことから起きる珍事件を、舞台劇ブラック・コメディ調の演出で描いている。
近親憎悪のボスニア軍とセルヴィア軍、右往左往する国連軍、功名心にはやる報道陣などを一挙に集結させて、ボスニア紛争の縮図を見せる着想には、よく考えたなと感心した。特に国連軍の上層部の動きが『キャッチ22』的で良い。各登場人物の造形も、「ドイツ人は時間に厳密」などのお約束ジョークを踏まえながら、ただの紋切り型に回収されない個性もある。普通なら映画の冒頭で見せるだろう「ボスニア紛争:これまでのあらすじ」的なニュース映像を、後半になってから不意に挿入する、などのちょっとひねくれたセンスも好ましかった。
ただしこの幕の引きかたはどうなんだろう。これだと「地雷」に関する作者の恣意的な説明しだいでどうにでも展開できてしまったように思えるし、せっかくの法螺話的な逸話が「いや、ボスニア紛争は複雑で根が深いから」みたいな教訓に回収されてしまいかねないのもちょっと惜しいような気がした。あとは基本構想が、映画化もされた韓国の小説『JSA 共同警備区域』(1997)と似通っているのが気にならないでもない。影響関係の有無ではなく、まあこういう話ってあるよな、と思ってしまったので。
とはいえ、舞台を揃えるまでの軽快ながら辛辣な筋さばきは秀逸。この監督が非凡な才能を感じさせるのは確かだと思う。
Witness(1985)
★★★
ピーター・ウィアー監督作品。ハリソン・フォード演じる硬派な刑事が悪党どもと対決する正統派スリラー……かと思いきや、負傷した彼は、現代文明に背を向けた生活を送るアーミッシュの村落で保護され、なぜか牧歌的な生活になじんで乳搾りや大工仕事に精を出す。どこまでが本気なのかよくわからない風変わりな映画だった。「刑事スリラー」と「アーミッシュ生活入門」という、本来どう考えても噛み合いそうもない要素をむりやり組み合わせる奇怪な構想には、いったいどうするつもりなのかと手に汗を握ってしまった。観客の期待をあっさりと裏切るそのあたりの格好良さにはしびれたものの、ちょっと敵の側が弱くて、追いかけっこが陳腐になってしまったのが難だろうか。幕切れの場面などを見ると、これって西部劇にありそうな人物配置だなと思えて、わざわざ前近代的なアーミッシュの村落を舞台に選んでいるのは、それを意識しているのかもしれない。
ピーター・ウィアー監督はなかなか奇妙な映画を撮る人のようなので、もうちょっと観ておこうと思う。
Le Trou(1960)
★★★
ジャック・ベッケル監督作品。ジョゼ・ジョヴァンニ原作(脚本にも参加)の刑務所もの。舞台が明かりの乏しい刑務所で、しかもひたすら穴を掘って脱走を試みる話のため、画面はほとんどが暗がりになっている。「セリ・ノワール」の本の黒い装丁を連想させるような映画だった。
以下はちょっと結末に触れるので、隠し文字にする。
ロバート・R・マキャモン/二宮磬訳/文春文庫[amazon] [bk1]
Gone South - by Robert R. McCammon(1992)
★★★
ヴェトナム後遺症の中年男を主人公にしたロード・ノヴェル。途中まではわりと典型的な犯罪者の逃避行ものみたいなのだけど、中盤以降は主人公と出会う、それぞれの事情で社会から弾き出された奇妙な登場人物たちの自分探しの旅がむしろ前面に押し出されて、物語は徐々に神話やファンタジーの領域に近づいていく。(例えば、何らかの欠落を抱えた人物が「奇跡」を起こす女性を探し求めて旅をするという形式は、『オズの魔法使い』を思い出させる)
よくできた物語なのだろうとは思うけれど、個人的にはこういった(おそらくスティーヴン・キング以降の)映像的に構築された娯楽小説を、素直に愉しめなくなってしまったことを実感した。この小説では、作者が各場面を完全に映像として思い浮かべながら書いているのがわかる。登場する印象的な人物たち、顔半分に痣のある女性、「三本めの腕」を持つ賞金稼ぎ、エルヴィス・プレスリーを真似るミュージシャン、といった彼らの属性は、どれも言葉で書かれるより、どちらかといえば映像で描写されるのにふさわしいものだろう。近頃それなりに映画を観るようになった反動かもしれないけれど、個人的には、映像を文章化して再現する小説よりも、文章でしか達成できない何かを表現しようとする小説を読みたいと思っている。(後者の例として、当サイトでとりあげている作家の名前を挙げておくと、カズオ・イシグロ、スティーヴン・ミルハウザー、そして奥泉光など)
あとは三人称叙述の技術的な点で、主人公視点の描写と思われた場面で急に別の人物の主観描写が入るなど、視点に結構ぶれが生じているのも、読んでいてちょっとひっかかった。
ポール・アルテ/平岡敦訳/早川書房[amazon] [bk1]
La Quatrieme Porte - by Paul Halter(1987)
★★★
「謎と驚異の代わりに暴力とセックスが跋扈するこの時代に背を向け、謎解きの名に値する小説を書き続けている唯一の作家。あなたこそ、本格ミステリを守る最後の砦なのだと申し上げましょう」(p.158)
上記の台詞は作中の「ジョン・カーター」なる、明らかにジョン・ディクスン・カー(別名カーター・ディクスン)をもじったミステリ作家に捧げられる賛辞。このポール・アルテの作風を象徴する言葉として、今後も引き合いに出されることになるだろう。
これが初紹介作のポール・アルテは、フランスにおいて独り、日本で言う「新本格」のような古典的ミステリ小説を書き続けている孤高の作家らしい。(ちなみに、本作の発表年は綾辻行人の『十角館の殺人』と同じだ)
密室殺人や怪奇趣味といった道具立てには全然執着がないため、途中まではちょっと平坦に感じていたのだけど、後半に明かされるメタ・テキスト的な趣向が無類におもしろく、これだけでも読んで損はないと思った(少しでも「合作」的な創作をやったことのある人なら、きっとにやりとできるだろう)。それとともに、現代においては例えば本作のようなかたちでしか、この種の古典的な道具立ての探偵小説は書きえないのではないか、というような問題意識を感じないでもない。
それにしても、昔から気になっていたのだけど、
その点をうまく解明できたら、犯人のおそるべき策略も見破れたのだと、ぼくにはまだ知る由もなかった。そしてもうひとつの忌まわしい事件も、起こりはしなかったのだとは。(p.95)
いくらすぐれた奇術師とはいえ、予知能力まであるわけじゃない。このあと起きた恐ろしい悲劇を、どうして彼に予測出来たろう?(p.124)
といったお決まりの、後の展開を予告する思わせぶりな記述というのは、どうにかならないものなのだろうか。もともとミステリという小説形式は、何らかの事実を読者から隠蔽することで成り立っているわけだけれども、それを語り手が恣意的に操作しているだけなのを示してしまうのは、興醒めにしかならないように思える。まあ、この作品の場合は、そのあたりに突っ込んでもあまり意味のない趣向の話であることが途中でわかりはするのだけど。
ジョージ・ドーズ・グリーン/岩瀬孝雄訳/ハヤカワ文庫
The Caveman's Valentine - by George Daws Green(1994)
★★★
精神分裂病のホームレスを探偵役にすえた、変則設定のミステリ小説。主人公が公園の洞窟に住んでいる危ない人なので、「ケイヴマン」と呼ばれている。
系譜としては、探偵がアル中だったり片腕だったりと何らかのハンディキャップを抱えている、いわゆるネオ・ハードボイルドの私立探偵小説の延長にあたるだろう。これをさらに先鋭化させたのが、例えばジョナサン・レセムの『マザーレス・ブルックリン』かなという気がする。
主人公の「探偵」行為の動機が、「悪の組織」や「怪光線」が自分を狙っているというパラノイアの妄想に端を発しているのが興味深い。フィクションの探偵は一歩間違えればこのような存在にもなりうるのかもしれない、という危うさを暴露した批評的な作品としても読める。
ただし事件の内容そのものは、性的虐待の場面を撮影したビデオテープが鍵になるという、『倒錯の舞踏』をはじめ、この時期の私立探偵小説ではよくある傾向の話だった。主人公の設定は特異でおもしろいのだから、事件のほうでも相応の独自色を出せていても良かったのかなという気がする。