海で触手(3)
Original text:なーぐる
ゴムボートは荒々しく波に揉まれながらも、どうにか前へと進んでいた。
漁船に備え付けの救命ボートは三歩進んで二歩下がる、そんな遅々とした歩みだったが着実に目的の場所…黒い岩礁に近づいていた。
なるほど、悪魔の住む黒い岩礁とはよく言ったものだ。
小さな岩島の周囲には、波に沈んでよく見えないがいくつも黒い物が見える。
鋭くとがった暗礁だ。
それも一つ二つではなく、いくつもいくつも悪魔の牙のように無数にある。
「ゴムボートでも、注意しないと危ないな」
流れる汗を拭いながらシンジはそう呟いた。
喫水が漁船より浅いゴムボートとはいえ、ちょっと擦っただけで穴があいてしまう。
ほんのちょっとミスが命取りだ。ここはアスカやマユミとデートした公園の池とは違うのだ。
ただでさえ水が渦を巻く波の荒い場所である。
落ちればよほど泳ぎが達者でなくては岸に…この場合、黒い岩礁へだが…たどり着くことはできないだろう。
そしてシンジは泳ぎが達者どころか泳げない。
それでよくここまでこれたものだ、と感心したいところだが、当のシンジはボートの宋銭でそれどころではなかった。
ただ一心にオールを漕ぎ、暗礁に気を払い、マユミのことを案じていた。
故にこそ気づけなかった。
大きく迂回するように暗礁の林の隙間を縫って泳ぐ黒い影があったことを。
だが気づいたからといってそれが何になるだろうか?
シンジがボートに持ち込んでいる武器らしい物と言えば、グラスファイバーの柄を持つ一本の銛だけ。そしてシンジは銛なんて扱ったことはない。
ドスン
「うわっ!?」
突き上げられ、ボートが大きく跳ね上がった。
転げ落ちそうになりながらも必死にボートにしがみつくが、更に、二度、三度と衝撃が走る。逆巻く海水に目をふさがれそうになりながらも、シンジは必死になって目を見開く。
「な、なにが…アレか!」
ぐるぐるとボートを中心に円を描くように泳ぐ黒い影。
本能的にシンジはそれが鮫などの魚でないことを悟った。
恐怖しながらも待ち望んでいた。
アレだ。アレこそがマユミをさらった海神だ。
這い蹲りながらもシンジは銛を手元に引き寄せた。頼り無くとも、これだけが唯一の武器なのだ。
一方、黒い影…海神は獲物ですらない不埒者に激怒していた。
不遜にもハネムーン中の彼を邪魔しただけでなく、明らかに敵意を抱いている。直接目にしなくとも感じる禍々しい臭いに彼は水中で歯をむき出した。
怒りに燃えた海神を相手にしては、ゴムボートは1秒と持たない。
「うわぁぁぁっ」
猛然と叩きつける海水に押し倒されるように、シンジは海中に没した。
天地が逆転する現象にパニックに陥りながらも、かろうじて銛をつかむことはできた。だが、足を捕まれ高速で海中を引きずり回されては満足にそれを振るうこともできない。
精々、銛の先で鱗を数枚ひっぺがすのが精一杯だ。
それでも海神には苛立たしかったのだろう。
溺れさせるのではなく…。
シンジを殺すことに決めた。
突然泳ぐ方向を変えると、彼はある一点めがけて突き進む。水圧に顔を歪めながらも、イヤな予感に襲われてシンジは海中で目を開ける。
進行方向に黒い影が見える。黒い岩礁を形作る岩の柱の一本だ。
(まさか!?)
そうと気づいたときには何もかもが遅かった。
30ノットを超える高速で、シンジの全身は岩の柱に叩きつけられた。
フジツボや貝殻が無数にこびりついた鋸のような岩肌は、海水でふやけたシンジの全身を切り刻む。
「がはぁっ!」
視界が赤い。水が噴き出した血で赤く濁っていく。
全身を針で刺されたような鋭い痛みが駆けめぐり、自分の骨がきしむ不気味な音にシンジは身を捩る。
(負ける…もんか)
それでも離さなかった銛を、海神の肩に叩きつける。
銛の先端が半分ほど潜り込み、青黒い体液が一瞬海水に混じる。だがそれがシンジの最後の足掻きだった。
再び岩に叩きつけられ骨が折れる音を聞いたとき、彼の意識は黒い闇の奥に落ち込んでいった。
全身が焼けている。そうだ、僕は松明になったんだ。火を点けられ、熱と光を放って消えていく。
火で炙られているように熱いのに、一方で熱さの源である燃料が刻一刻と流れ出していく。
岩の上を引きずられてまた小さな傷がいくつもできる。もっとも、ここまで傷だらけになっては多少の傷など気にすることもない。
乱暴に投げ出される。
したたかに腰を打ち付け、後ろに倒れ込もうとした上半身は硬い岩にぶつかって制止した。
漠然とした意識のまま、何かの岩壁にもたれかかっていることを悟った。
そのまま崩れ落ちそうになるが、右手首を誰かがきつくつかんでいる。あまりにきつい握力に骨がきしきしと呻くが、相手は委細かまわずに右腕を万歳させるように頭上に持ち上げ、壁に押しつける。
「ぐぅあああああっ!」
「いや、いやぁぁぁぁ! やめて、やめてぇ! シンジさんに酷いことしないでぇ!」
声が聞こえた気がする。
そう言えばやたらに右腕が熱い。肉がえぐられ、骨がきしむ。血がだらだらとあふれ出す。滴った血は腕を伝わり肩を濡らし、床に滴っていく。
なぜか見えない左目を怪訝に思いながら、右目をコラして熱の源に目を向けると、掌に銛が突き刺さり、壁に張り付けにされた右腕が見えた。傷口から溢れる肉の切れ端はピンク色で、精肉市場の豚肉のようだ。
誰の腕だろう、痛そうだな…と思ったとき唐突に気が付いた。
これは僕の腕だ。
「ねぇ、お願い。何でもします。もう抵抗しませんから!
ほ、ほら。口でだって、胸でだって…ね? ああ、シンジさんに…あの人を殺すより楽しいこと、しましょう。お願いですから。
あふ、ん、んちゅ…大きい」
声の方に目を向けると、異形の海神の前に黒髪の女性が傅くようにしてうずくまっている。女性は足が動かないのか、少々不自然に足を投げ出しているのが印象的だ。気のせいか、一瞬、魚の尾鰭のようなイメージが重なって見えた。
見られていることを知っているのかいないのか、必死と言った表情で毒々しいピンク色のペニスを大きな胸に挟み、蠱惑的に舌をはわせている。
(えーと。誰だったっけ)
知ってる人の気がする。けど、思い出せない。それよりも、今はただ、眠い。
「はぁ、はぁ、はぁああ〜〜っ!
あ、ああっ! そう、そうです! そこが気持ち、良い…です。
ああ、痺れる…熱い熱いわ。お願い、もっと、もっと、突き上げて」
再び意識を取り戻したとき、耳に飛び込んできた甘ったるい声にシンジは面食らった。
(な、この声は)
直後、凄まじい激痛が全身を包んでいることを自覚した。
ほんの僅かに身じろぎしただけで固まりかけていた瘡蓋が剥がれ、肉に食い込んでいた岩の欠片がこすれあう。そしてブルブルと右腕が痙攣し、悲鳴すら噛み殺す激痛が神経を直に貫いた。
「…………っ! ぐっ!」
血と潮の臭いに目眩を感じながら、見開いた先では想像を絶する惨劇が繰り広げられているのが見えた。
「ひぃ、ひぃぃっ。奥に、奥を…あおおっ、内臓が、ずれちゃいそう、です」
マユミが…。
彼が命を賭して救おうとした女性が。
彼の見たことのないようなとろけた顔をして。
背後から海神に貫かれている。
太く愚劣なペニスがマユミの赤く充血したヴァギナを押し開く様がイヤでも目に飛び込んでくる。
ペニスが出入りするたびに、結合部からはぬめった粘液が溢れ、酔いそうな発情した女の匂いが漂ってくる。
(山岸…さん)
心が凍り付く。
最悪の事態も考えていた。だが、これは…違う。
目の前で死にかけているシンジのことも忘れて、あんな顔をしてよがっている。たわわな胸を揺らし、髪の毛を振り乱して縋り付くように海神に甘えている。
「ああ、ああ、ああ、ああああっ! イく、イきそう! また、ああ、イっちゃう!」
マユミの全身がブルブルと痙攣し、ほとんど泣いているような悲鳴が木霊する。
耳をふさぎたいと思っても、右腕は張り付けにされ、左腕は折れたのかぴくりとも動かない。
「はぁ、はぁう、あうっ!」
ほんの一瞬、桜色に頬を上気させたマユミと視線が絡み合った。
だが、マユミはすぐに目を反らすと何事もなかったかのように甘く熱い喘ぎを漏らす。シンジの存在などはじめから知らなかったように。
(ああ、そうか)
心が冷えていく。
「私の、私の、あそこが! めちゃくちゃにされてるっ」
(僕がしようとしたことは、結局、無駄だったんだ)
助けに来なくても良かったんだ。
だって、あんなに嬉しそうにしているから。
「もう、もうっ! 出して、ああっ。中に、中に出してぇ―――――っ!!」
海神に抱きしめられながら、一気にマユミは絶頂に駆け上っていく。溢れた精液は内股を伝って滴となって岩床に零れる。
ああ、いっちゃったんだな。
まるで出来の悪い映画を見てるような気分だ。心が醒めていくのを感じながら、シンジは早く意識がなくなることを願った。今度は、永遠に。
そしてシンジの願いは数分後叶えられる。(BadEnd root)
待てよ?(TrueEnd root)
3日後
消息不明になった山岸マユミ(18)を探していた巡視艇は、彼女を捜索するため警告を無視して夜の海に出ていた碇シンジ(18)の水死体を発見した。
彼は山岸マユミが行方不明になった当日、漁師Aの漁船を盗み出し捜索に出た模様。
翌日、誰も乗っていない漁船が沖合40km地点で見つかり、彼の安否が心配されていた。その遺体は損傷が激しく、海に転落したときスクリューに巻き込まれたか鮫に襲われたと見られる。
山岸マユミについては水着の切れ端らしい布地が見つかっただけだった。彼女が行方不明になる直前、鮫の目撃情報があったことから、彼女もまた鮫に襲われたと考えられる。
また、余談ながら碇シンジは使徒戦争を終結させた英雄的人物であり………。
4日後
生存は絶望的と見られ、山岸マユミの捜索は打ち切られる。
3週間後
彼女の友人達による捜索もまた打ち切られる。
12週間後
海底遺跡の見学をしていた観光客の一人が、人魚を見たと騒ぐ。その人魚は長く艶やかな黒髪を持ち、眼鏡をかけていたと…。
(待てよ)
そんなわけ、ない。あるわけがない。
だって、さっきのマユミの目は……泣いていたじゃないか。
使徒に取り憑かれたから、殺してくれと頼んだあの時のように。
世界の全てから本当に拒絶されたことを実感したあの時のように。
本当ならシンジに縋り付きたいのに、うずくまって泣き出したいくらい怖いのに。
海神の意識がシンジに向かないように必死になって、出来もしない奉仕をしてねだるような喘ぎ声を出して。
そう、声にしなくてもマユミの心の声は聞こえる。
理屈ではない。
彼と彼女はとてもよく似ているから―――だから言葉を交わさなくたってわかる。
逃げて! 海神が私に意識を向けている間に…!
あんな状態になっても、死にたいくらい惨めな姿を最も見られたくない相手に見られても、それでもシンジのことを思いやって。
何も変わってない。
マユミはマユミのままだ。優しく、臆病で、内気で本が好きな…シンジが好きな彼女のまま。
(それなのに、どうして一瞬でもあんな酷いことを考えたんだ…!)
わかってる。
楽だからだ。
そう思って生きることを放棄することが。マユミを呪って責任転嫁したまま死ぬことが。
(でもそれじゃダメなんだ)
どうしようもない自分。
「………………うおおおおおおっっ!!」
強ばった筋肉を酷使する。激痛を遙かに越えた感覚が腕どころか全身をうち砕く。
息ができずに目がくらむ。ともすればそのまま意識を失いそうだ。
だが彼は奥歯が砕けるほど食いしばったまま、立ち上がり、右腕に力を込めた。
血が抜けて蒼白になった右腕が痙攣する。
驚いた顔をして海神とマユミが自分を見ている。
大丈夫、心配しないで。と目で言いながらシンジはマユミに微笑み、海神は八つ裂きにしてやるという決意を込めた目でにらみ付ける。
「あ、ああ…腕が、そんな、ダメです。シンジさん、お願い…やめて」
マユミのお願いでも、それだけは聞くことはできない。後でいくらでも怒られるから。だから今だけは。
激痛と共に肉がえぐれ、血管が引きちぎられていく。
こんな痛みは初めて使徒と戦ったとき以来かも知れない。14使徒と戦ったときは、痛みを感じることもできなかったから。
プチプチと嫌悪を呼び起こす音が聞こえる。
海神の醜悪な顔を見て痛みを紛らわせる。
ゴリッ…骨がずれる鈍い音と共に突然腕が楽になった。
銛が抜けたのではなさそうだ。
目で確認する必要もない。つかんでいるわけでもないのに腕には銛の重みが残っている。
(なんだ。手より先に岩から抜けたのか)
あんまり深く打ち込まれていなかったのかな。と他人事みたいに考えながらシンジは口元を歪めた。
痛みを感じていないかのようにシンジは銛を引き抜く。
(やめて、お願い。シンジさん、私なんかのために…そんな、ああ)
ムッとする血の臭いに、マユミは最前までの性交の快感も嫌悪も何もかも忘れた。あるのはただ、シンジに対する複雑な感情のみ。
もうやめて欲しいと思う反面、自分のために傷ついていく姿に、彼女は酔っていた。
「………」
満身創痍だが不思議と心は静かだった。
いや、ある意味滾っている。
マユミを泣かせた。
彼の大切な人を泣かせた。
海神はたじろぎ、まだ呆然としたままだったマユミの顔が恐怖に引きつる。
血に濡れたシンジの顔は、まるで似てなかったけれどマユミには恐ろしい鬼に見えた。恐ろしいけれど、彼女を助けてくれた紫の鬼のように。
「シンジさん…寝ちゃったんですか?」
「………ああ、いや。起きてるよ。意識を失いたいけど、痛みで目が覚めるんだ」
どうやったのか過程はまるで覚えていない。
半分海水に浸かった洞窟を抜け、どうにか洞窟の外に出たときはもう昼をいくらか回った時刻になっていた。
熱いほどの日差しだが、陽光が心地よい。
疎らに草の生えた上に横たわり、お互いほとんど全裸に近い格好で二人は抱き合っている。
早く手当しないとシンジは手遅れになりそうなくらいに負傷し、血を失っていた。マユミは外傷があるわけではないがなぜか足が動かず、ほとんど身動きがとれない。
今度何かあったら確実に助からないだろう。
だが不思議と二人の心は晴れやかだった。
ほんの一瞬目を合わせるだけで、百の言葉を千回かわした以上に二人の心は通じ合う。
恋心とかそう言うものではないのだけれど、とにかく二人は奇妙に穏やかだった。凌辱の記憶も忘れたように…。
「あ…」
ふと、マユミが空を見上げる。
遅れて彼女の膝枕に頭を預けていたシンジも空を見上げた。
銀色に光る何かが飛んでくるのが見える。
「飛行機ですね」
「うん。アスカ達が…探しに来てくれたんだ」
更に水平線に目を向けると、いくつも船らしき影が見える。
アスカらしい大胆さと行動力だな、と彼は思う。
あの島の人間が当てにならないなら、多少時間がかかっても沖縄本島に行ってそっちの人間を雇う。単純明快だが実にアスカらしい。
「助かったん…ですね」
そう。助かった。
でも大変なのはこれからだ、と思う。今はシンジのことを案じて忘れているようだが、落ち着けばマユミは改めて今回のことを思い出す。その時彼女は…彼女のままでいられるのだろうか。
(…守るさ)
マユミの温もりを感じながら、シンジはゆっくりと目を閉じる。
(なにがあろうと絶対に彼女を、守る。もう、彼女を泣かせたりは…しない)
こうして悪夢のような出来事は終わりを告げた。
その後も色々なことがあったのだが、今はそれを語る時ではない。
いつか語るときもあるだろう。
その時が来るまで、今は筆を置く。
終
From:触手のある風景