翌朝登校すると、見知らぬ顔の下級生が教室の入り口付近に立っていた。
なんで顔も知らないのに一年生だってすぐに分かったかというと、上履きの色が赤かったから。ちなみに二年生は緑で三年生は青。 一年生が二年生の教室に何の用かと、俺は興味を引かれた。 ――朝っぱらからどうしたんだろう? 俺は思わずその一年生の姿を観察してしまった。 彼は美少年の範囲内に入る可愛い顔立ちをしていた。ややつり気味の目が彼の印象をきついものにしているが、それも彼の魅力の一つに思えた。 ――ひゃー。武藤と張るぐらい可愛い子だな……。 と、ついじっくり眺めていたら、その一年生と目が合った。 「ブス」 最初、それが自分に対して言われたセリフだと気がつかなかった。だが辺りを見回しても自分とその下級生以外はその場にいない。ということは、俺に向けられた言葉なわけで……。 「…………え?」 ――……ブスって言われた気がするけど……。 ――………………………………????? なにゆえに見たこともない一年生から悪意ある言葉を投げられなければいけないのか。俺は怒るよりもまず途方に暮れた。 「あ、あの……?」 「あいつは美人だって言ってたけど、たいしたことないじゃん」 ――…………………………………………………………………………むか。 一年生の生意気な言葉と態度に、温厚な性格な俺もさすがにちょっとむかついた。 ――『ブス』だってぇ!? 初対面でなんでそんなこと言われなきゃなんないのさ! 前言撤回。 ――武藤のほうが、百倍も千倍も可愛いぞっ!! 俺はそのむかつく一年生を無視して教室に入ろうとした。 ところが。 ――………………っ!!!!!!!!!! 「うわあっ!!!」 俺は悲鳴をあげながら、勢いよく廊下にキスしてしまった。どうやら足を引っ掛けられたらしい。 どんくさい俺は下級生の足を避けることが出来なかった。 「あのねぇ! キミ、どういうつもり??」 「うるせえっ!」 怒っているのは俺なのに、逆に怒鳴りつけられてしまった。理不尽だ。 いつまでも見下ろされているのもシャクなので、俺は痛みに顔を顰めながら立ち上がった。転ばされたときに鼻を思いっきり打ってしまった。くっそー。痛いじゃないか! 「俺は、あんたなんか認めない!」 下級生は俺の顔を鋭い眼で睨み付けた。 どうして顔も知らない相手から、これほど嫌われなきゃいけないんだ? 俺も思いっきり不機嫌な顔をして、下級生を睨み返した。俺たちはしばらく睨み合っていた。 「別に、キミに認められなくても俺は構わないけど?」 大人気なく言い返すと、下級生はぽろりと涙を流した。俺はぎょっとした。怒っていたことも忘れておろおろしてしまった。 「俺のほうが、あんたよりあいつのこと好きなんだから!」 「…………え?」 「俺はもうあいつに、数え切れないほど、何度も抱かれたんだから。あんたが入り込む余地なんて、もうないんだからな!!」 「………………………………え?」 ――……ひょっとして、あいつって、萩原のこと? ――……………………………………………。 ――……………………………………………。 ――……………………………………………。 ――……………………………………………。 ――……………………………………………ショック。 下級生は泣きながら去って行ったが、それに構う余裕は俺にはなかった。「何度も抱かれた」と下級生は言っていた。 萩原が最近、態度がおかしかった理由が分かった。 ――浮気、してたんだ。 ショックすぎて、頭がうまく働かない。 「……しろ。宮城、どうしたんだ?」 気がつけば、クラスメートの春日(かすが)が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。 「……俺、気分悪い……。保健室、行ってくるから……」 一緒に付いて行ってやろうかという春日の親切な申し出を断り、俺は保健室へと向かった。本当に気分が悪かったわけではないが、今すぐ萩原の顔を見る勇気が俺にはなかった。 「風邪気味なのかしら? 顔色が悪いわね。鼻の先が赤くなってるわ。……あら? 頬に少し傷が付いてるわね。転んじゃったの? きれいな顔が台無し。消毒しておきましょうね」 咄嗟に指の先で頬に触れた。少しだけ濡れてる感触がした。血だ。気づかなかった。例の一年生に足を引っ掛けられたときに負った傷なのだろう。どうりで鼻以外に頬もヒリヒリしていたはずだ。 先生は丁寧に手当てをしてくれた。 「それじゃあ、気分がよくなるまでベッドに寝ていなさい。担任には私のほうから報告しておくわ」 「…………はい」 保健室の先生に言われたとおり、俺はベッドに大人しく横たわった。毛布にくるまりながらさっきの下級生のことを考えていた。 ――俺よりも、萩原のことが好きだって言ってたな。 ――俺だって、萩原のことが好きなのに……。 ――萩原に抱かれたって言ってた……。すげぇショック……。死んじゃいたいぐらいショック……。浮気してたんだ。だから最近、萩原の態度がおかしかったんだ……。 萩原はどういうふうに、あの下級生を抱いたのだろう。想像しかけて気分が悪くなる。俺は一度も萩原に抱かれたことがない。なのに萩原は、俺以外の人間を、何度も……数え切れないほど抱いたんだ。 男同士の関係は即物的だと言った武藤の言葉を思い出す。ちっともやらせてやんなかった俺より、あの下級生のほうが萩原も好きになったんだ。 えっちどころか、俺は萩原に好きだとさえ言っていない。萩原はきっと不安だったはずだ。そこにあの一年生が現れて、好きだと告白されて……。 萩原があの下級生に心を動かされるのは仕方ないと思った。 男の子だったけど、すごく、可愛い子だった。 あんな子に真剣に迫られたら……ぐらつく気持ちも、分からないわけじゃない。 俺はもっと早く、萩原のことを好きだということに気がつかなければいけなかった。 「ふぇっ……。うっ……ひっく……」 萩原が他の人間を選んだという事実が哀しくて、俺は涙を零した。 哀しくて哀しくて胸が苦しかった。 時間を戻せるならもう一度やり直したかった。 萩原が他の人間を抱く前に、抱かれればよかった。痛い思いをしても、抱かれればよかった。どんなに痛いと言ったって、どうせこの胸の痛みほどではないのだから。 抱かれればよかった。 萩原の心が俺から離れていってしまう前に。 抱かれればよかった。 萩原を失ってしまう前に。 どんなに後悔してもし足りない。俺は涙を流し続けた。 好き。 萩原、好き。 あの一年生に負けないぐらい、愛してる。 ――こんなに好きなのに、俺、萩原に振られちゃうんだ……。 この部屋には先生がいる。泣いていることを気づかれたくない。 それでも涙を止めることができなくて、声を押し殺して俺は泣き続けた。 「十夜、気分はどうだ?」 一時限目の授業が終わったところで、萩原は俺のようすを見に来てくれた。萩原は優しい。もう俺のことなんて好きじゃないくせに……。 「…………」 返事は出来なかった。だって、声を出したら泣いていることがばれてしまう。 俺は狸寝入りを決め込んだ。 「……寝ているのか?」 ――そう。寝ているの! だからほっといて!! 俺は内心で絶叫した。 「……十夜……」 萩原は優しい声で俺の名を囁き、俺の頭を撫でてくれた。萩原はひょっとしてまだ、俺のことを好きでいてくれているのかもしれない。俺は萩原の優しい手つきに希望を見出した。 だが、萩原の呟きを聞いてそれは易々と打ち砕かれた。 「……十夜。俺はお前に別れようと言うべきなんだろうな……」 ――…………………………………………………………! 死んだ。 心が、死んだ。 たった今、萩原に殺された。 俺の予想通り、萩原は俺と別れる気だったんだ。分かっていたことだったけど本人の口から聞かされて、俺の心はざっくりと傷ついた。 立ち直れない。 もう、完全に、俺たちはダメになっちゃったんだ。 ――武藤、俺、振られちゃったよ……。 ドアの閉まる音で萩原が出て行ったことを確認してから、堪えていた涙を零した。涙が止まらなかった。止める気もなかった。 失恋するのは二度目だ。だが一度目の失恋より、はるかに辛くて苦しかった。 萩原に振られた後、武藤は新しい恋を見つけた。 俺も萩原のことを忘れて、また新しい恋を始めることができるんだろうか? そんな日は……永遠に来ない気がした。 ――ずっと俺、こんな哀しい気持ちのまま生きていかなきゃいけないのかな……。 絶望が心を包む。 どうやってこれから生きていけばいいのだろうか。今まで当たり前に出来てきたことを当たり前に出来る自信がない。 「……別れたくないよぉ……」 萩原を失わないためならなんだってするのに。 だが、どうすれば萩原を失わないですむのか俺には分からない。 どうやってもどう努力してもこの世にはどうしようもないことがあるのだと、俺は自分の無力さとともにそのことを実感していたのだった。 萩原は休み時間のたびに俺の様子を見に来てくれた。俺はそのたびに寝たフリをして、萩原が立ち去るのを待った。 優しい、優しい、萩原。 今まで自分がどれほど萩原の優しさに甘えてきたかを思い出し、俺はせつない気持ちになった。 萩原の優しさを受けるべき相手は、俺ではないのだ。 萩原があの微笑を向けるべき相手は、もう、俺ではないのだ。 また涙が零れた。 涙腺が壊れたかと思うぐらいたくさん泣いたのに、まだ涙は溢れ続ける。 ――別れてあげなきゃ、いけないよね。 別れたくなんかないけれど、自分のせいで萩原が幸せになれないよりもマシだから。 だから……別れようって、俺から言おう。 俺から別れを切り出すのは俺の狡さでもある。 本当は萩原が俺を振るんだけど、形だけでも俺から振ったことにしておいたほうが、俺のプライドは傷つかない。自分から言い出したほうが、萩原から「別れよう」と言われるよりも、きっと自分の心は傷つかない。 ――ああ、そうか……。俺がこの期に及んで自分の保身を考えるようなずるいヤツだから……萩原に呆れられちゃったんだ……。 俺よりも自分のほうが萩原を好きだと言い切ったあの一年生なら、こんな打算的なことは考えない。まっすぐ、自分が傷つくことも厭わずに、萩原の腕の中に飛び込むに違いない。 ――萩原が俺よりあの子のこと選ぶの、当然だよね……。 俺がいつの間にか、武藤より萩原を愛し始めていたように。萩原も俺より、真摯に自分の気持ちをぶつけてきたあの子に、より心を動かされたに違いない。 放課後、萩原が保健室に来たとき、俺はもう狸寝入りはしなかった。俺の顔を見て萩原は驚いた顔をした。 「十夜、泣いていたのか? それに、その頬の傷……」 「萩原、別れよう。今から俺たちはただのクラスメートだ」 萩原の言葉をさえぎり、俺は別れの言葉を口にした。 別れを切り出すのは二度目だ。 あのときとは、気持も事情もまったく違っていたけれど。 「……分かった」 あのときのように、萩原は俺に泣いて縋り付いては来なかった。あのときとは気持が変わっていたのは俺だけではなかったのだ。 心のどこかで俺は萩原が「否」というのを期待していた。だが、萩原はあっさりと、俺の別れようという言葉を受け入れた。 「十夜、すまなかったな……」 謝って欲しいわけじゃない。 そんな言葉が欲しかったわけじゃなかった。 でも、俺はもう知っている。萩原がもう二度と、俺の望む言葉をくれることはないのだと。 萩原は疲れた顔で溜息を付き、保健室から出て行った。萩原の背中を見ながら、哀しみの刃が胸を貫くのを俺は感じていた。 哀しすぎてもう涙は出なかった。 自分から別れを切り出したことを、俺はすでに後悔していた。そのときが来たときどんなに深い傷を負おうとも、ぎりぎりまで傍にいればよかった。萩原が別れを言い出すまで知らない振りをしていればよかった。 分かっていたつもりで俺は分かっていなかった。 萩原の恋人でなくなることが、こんなにも辛いことだったなんて……。 憂鬱だ。 めちゃめちゃ憂鬱だ。 ――なんで俺、萩原と同じクラスなのかなあ……。 一年から二年にあがるさいに萩原と同じクラスになれたことを狂喜したことも忘れ、俺は深々と溜息を付いた。 だってさぁ。大失恋した相手と毎日顔を合わせなきゃいけないんだぜ? きっついよぉ。ものすごく、キツイっ! いっそ転校しちゃいたい。でも「失恋したから学校変えたい」なんて情けないこと、親に言えるはずもないし……。 二年から三年にあがるときは、クラス替え、ないんだよね。しかも俺、今気が付いたけど、クラスに親しい友達って萩原以外にいないし。 ――うわっ! 俺ってば友達少ないっ!! ――つーか、萩原とあんなことになっちゃった今、俺ってば友達ゼロっ!!! ひーっ。……今日お昼ごはん、誰と食べよう。ご飯って、一人で食べると味気ないんだよね。 ううーん、困った困った……。 授業で「二人一組で」って言われたときも迷いなく萩原と組んでたんだけど……これから俺、誰と組めばいいわけっ!? ぐおおおおおっ。考えれば考えるほど、困ったことばっかりだぞ。 俺ってこんなに萩原に依存してたんだなあ。しみじみ実感。 けれど、今日から萩原は俺の隣にいないわけで……。 ――ずずーん。 ますます落ち込んでしまった。やば。涙でそう。 でもこんなところで涙を流すの目立って恥ずかしいからぐっと我慢した。 俺はおそるおそる自分の教室を覗き込んだ。 ほっ。萩原、まだ来てないみたい。 俺はいそいそと自分の席に着いた。 ――あれ? 萩原の席に荷物がある。もう学校には来てるんだ。そうだよね。萩原、いつも俺より早く学校に来てるもんね。 ――でも、どこに行ったんだろう? もしや俺の顔を見たくなくてどっか行っちゃったのかな。そ、それってあり得そうな気がする。萩原にとっても俺は別れた相手なわけで、顔見るのも鬱陶しいって思っても無理ないよね……。 ――ずずずずずーん。 俺は自分の思考にますます落ち込んでしまった。 うえーんっ。耐えられない。あ。やだ。涙出てきた。教室のど真ん中だってのに、まずいっ。 俺は泣き顔を見られないように慌てて顔を伏せた。 ――萩原が帰ってくるまでに泣き止まないと。ますます鬱陶しいヤツだって思われちゃうよ……。 俺が一生懸命自分を立て直していると、春日が慌てたようすで教室に飛び込んで来た。 「み、み、み、宮城っ! 大変、止めて! やばいっ! マジでやばいっ!!」 なんだよ、春日。俺がじんわりと失恋の哀しみを噛み締めているときに。しかも日本語壊れてるし。 「俺、つい、答えちゃったんだよ! 萩原に! だってあいつ、こええんだもんっ!!」 「答えたって、なにを?」 「昨日、お前に絡んできた一年生がいただろ? 俺、そいつの名前、教えちゃったんだよ!!」 「???」 一年生の名前を教えたことがどうして大変なんだよ。 春日、お前は知らないだろうけどなぁ、あの一年生は萩原の新しいハニーなんだぞ。名前なんて、当然知ってるはずだしさ。 「俺も、止めようとは思ったんだよ! だって殺人はやばいだろ!? でも俺、止めきれなかったよ。だってもし止めたら、俺のほうが殺されそうだったんだもんっ!!」 はっはっは。春日、なにバカなこと言ってるんだ? 殺人とか殺されそうとか。ちっとも何が言いたいんだか、俺には伝わってこないぞ?? 「春日、落ち着いて話せよ。言ってること、意味不明だぞ?」 「これが落ち着いていられるかっ! 頼む、宮城。萩原を止めてくれ! でないと、あの一年生、殺されちゃうよーっ!!」 「まっさかあ。萩原がそんなことするはずないじゃん」 「するんだよっ! 萩原、ぶっ殺してやるって言ってて、めちゃめちゃ怖いんだよー!!」 春日は半泣きで俺に縋り付いてきた。 あーもー。あの子は萩原の新しい恋人なの! 春日、お前、かんっぺきに何か勘違いしてるだろ? 第一、萩原は優しい男だぞ。暴力なんて振るうはずないじゃん。 「萩原がどうしてその一年生をぶっ殺さなきゃいけないわけ? 春日、なんか誤解してるんじゃないの?」 「誤解してねぇっ! いいから早く来てくれ!」 焦れた春日は強引に俺を教室から連れ出した。 ちょっとちょっと! そんなに強く引っ張ったら、腕が痛いよ! 「いや、もう、まいったよ。あいつすげぇ怒っちゃってさ。なんつーか俺、猛獣の檻に放り込まれたような気分を味わっちゃったね」 「うっそだあ。なんで萩原が怒るんだよ?」 「……宮城、今日ほどお前の天然を恨めしく思ったことはないぜ」 ……春日、さりげなく失礼なヤツ。 「萩原が怒った理由なんて、お前のこと以外、ないだろ!?」 ――………………………………………………………………俺? 「なんで?」 「なんで? なんでだと!? そのお綺麗な顔に絆創膏はっ付けて、萩原が怒らねぇわけねぇだろっ!!」 叱られてしまった。 「えー。俺が顔怪我してると、なんで萩原が怒るんだよぅ」 「……宮城、お前、ほんとーに天然だな……。萩原が可哀想になってきたぜ」 「だからどうして?」 「だーっ!! だーかーらーっ! お前が顔怪我したのって、あの一年生に絡まれたせいだろ? だから萩原は怒ったの! あの一年生を半殺しにする気なの!!」 「そんなの変だもん。萩原はそんなことで怒らないよ。わけわかんない」 そもそも、俺と萩原は昨日別れちゃったから、今では恋人同士じゃなくなっちゃったし。友達……といってよいかも、微妙だし……。 「わかんねぇのはお前のズレた思考だよっ! お前、あの萩原にあれほど愛されてて、何が不満なんだよ!!!」 もう。だから違うんだってばー。 確かに昔は、俺、萩原に愛されていました。でも今は違うの。俺は萩原の元恋人。あの一年生は萩原の現恋人。だから萩原があの一年生を半殺しなんてあり得ないんだってば。 「ねぇ春日。授業始まっちゃうよー? 先生来ちゃうよー?」 「だからんな場合じゃないんだよ! いいからお前、しばらく黙ってろよ!! こっちまで頭がおかしくなってくる」 ――春日、めちゃめちゃシツレイ。 まあいいや。これで春日の気が済むなら付き合ってやるか。 あー、でも、一年生の教室行って、あの子と萩原が一緒に仲良く並んでたらやだなー。ただでさえ落ち込んでるのに、さらに落ち込み具合二百%増量ってカンジ。やっぱ引き帰しちゃおっかなー……。 などとうだうだ考えていたら一年生の教室に着いてしまった。 「春日ぁ、萩原いないじゃん」 教室にはあの一年生の姿も萩原の姿もなかった。 「え。あれれ? でも確かに……」 春日は首をかしげ、きょろきょろと辺りを見回している。 あ。ここ、武藤のクラスじゃん。せっかくここまで来たし、挨拶しとこっかなー。えーと。……あれ? いないみたい。もうすぐ朝のHR、始まっちゃうのに……。 「宮城先輩っ。萩原先輩が武藤くんと東雲(しののめ)くんを連れてっちゃいました〜」 困った顔で訴えてきたのは図書委員の氷室さんだ。 そういえば氷室さん、武藤と同じクラスだったんだよね。図書委員は一クラスに二人ずついるんだよね。 「東雲?」 聞き覚えのない名前。 誰? 「例の一年生だよ。東雲飛鳥(しののめあすか)」 春日がすぐに教えてくれた。 ああ、そうなんだ。あの子、東雲飛鳥って言うんだ。 俺は恋敵の名前を初めて知った。 「萩原先輩、すごく怒ってるみたいでした〜」 「えーと。三人がどこに行ったか、氷室さん、分かる?」 「多分、屋上にいると思いますけど……」 「分かった。どうもありがとう」 ――……………………………………うううううーん。ものすごく謎。 萩原が怒っているのも謎だし武藤と例の一年生……東雲飛鳥を連れ出して屋上に向かったのも謎。 ――なんでー???? 「つーわけで宮城。俺は義務を果たしたから教室に戻る。後は任せた」 止める間もなく春日は颯爽と去っていた。俺は首をかしげながら、一応は屋上に向かうことにした。 氷室さんの言っていたとおり、三人は屋上にいた。険悪な雰囲気に出て行くのも躊躇われ、俺はしばらく物陰から三人の様子を観察することにした。 ――ほ、ほんとに萩原怒ってるよ……。こ、怖いっ。遠目で見てても怖いぞ〜。 思い返せば、俺って萩原の怒った顔ってほとんど見たことないんだよね。思い出せるのは俺に向ける、優しい蕩けるような顔だけ……。俺ってそうとう萩原に甘やかされていたんだ。 ――でも、怒った顔もワイルドでカッコイイ……。 ……うっとり……。 って、何考えてるんだ俺! そんな場合じゃないだろっ!! 「武藤、どけ。邪魔をするな」 怒りを孕んだ低く渋い声。 ――萩原ってば……声もカッコイイ……。 ……うっとり……。 って、そんな場合じゃないんだってば、俺! 現状を理解しないとね、現状を!! 「申し訳ありませんが、邪魔させていただきます」 気負うでもなく武藤は静かな眼をして萩原の前に立ちふさがった。武藤の堂々とした姿に俺は思わず尊敬の眼差しを向けてしまった。 ――すっごーい。武藤ってば、あの怒りモードの萩原を前にして、よくもまあ堂々と渡り合ってるなあ。武藤、顔は超カワイイのに、性格は凛々しいんだよねー。 「……武藤、お前は無関係だと思うが?」 「いえ、まったく関係がないわけでは。こいつが暴走したのは、俺にも少しばかり責任があります」 武藤は背後に東雲くんを庇いながら言った。美少年二人が寄り添っているようすはなんとも華がある。 武藤は仔犬系の愛らしさで、東雲くんは仔猫系の愛らしさ。身長は武藤のほうがやや高いけど、二人ともほっそりとした体つきだ。 小動物が二匹じゃれあっているようで、緊迫した場面だというのにちょっと気持ちが和んでしまった。 ちなみに萩原は狼とか黒豹とか猛獣系だな。 ――そういえば武藤って、萩原のことが好きだったんだよね……。 武藤と東雲くんって、ずいぶん仲がいいみたい。やっぱ気が合うと、好きな人間の好みも一緒なのかな? もっとも、武藤は今はもう、別に恋人がいるみたいだけど。 武藤の恋人ならきっとイイ男だろうね。そりゃ萩原ほどじゃないだろうけどさ! 最初は強姦だって言ってたし、かなり強引な人みたい。武藤は「体から入った関係」なんて卑下してたけど、でも、武藤のカレシはきっとものすごく武藤のことが好きで……。武藤も、その気持ちに応えてあげたいって思ったんだろうな。 武藤って人情に厚いってゆーか、面倒見いいとこあるから。必死で縋り付いてくる相手を突き放せなかったんじゃないかな。 ――武藤は、いいな。きっと恋人とラブラブなんだろうな。 ううん、羨んじゃダメ! 武藤が幸せなのは武藤の努力によるものなんだから。そして今俺が萩原に振られて不幸せなのは、俺がバカでアホだったからだ。 だから、武藤を羨ましがる資格なんて、俺にはない。 「ほら、東雲。ちゃんと反省しなよ? 萩原先輩が怒るのも当然なんだから」 「なんだよ、武藤。俺は別に悪くねーよっ!」 東雲くんは強気な口調で強気な言葉を口にした。しかし萩原のことは怖いらしく、武藤の背中にしっかり張り付いたままだ。 ――ううーん。なんか……おかしくないか? あの子、萩原の恋人なんだよねぇ? なのに、なんであんなに怖がっているのかなぁ??? ってゆーか、どうして萩原、あんなに怒ってるのかな????? ――謎。 「あ、バカ。なんでそうお前はバカなわけ? 宮城先輩のあの綺麗な顔に傷を作っておいて、少しも反省してないなんてサイアク」 武藤、キッツー……。 あのカワイイ顔で言われるとなおさら衝撃。 「んだよっ! サイアクはお前だろ! だいたいにして武藤があんなブスと浮気するのが悪いんだろっ!! ばーか、ばーかっ!!!」 東雲くんは武藤の言葉に怒ったようだが、顔を赤くして目に涙を溜めていたらカワイイだけで迫力はない。 ――……って、ちょっと待てよ。………………………………………………………浮気? あれれ?? 「萩原先輩、やっぱりこいつ、二・三発殴っちゃってください。もう俺、止めません」 武藤は冷ややかに言い捨て、東雲くんを萩原の前に突き出した。 「んだよ! 武藤のアホンダラっ。恋人の俺が殴られてもいいって言うのかよ!!」 ――………………………………………………………恋人? 「そりゃまあ、仕方ないんじゃないの? 俺はたんに宮城先輩の相談に乗っていただけなのに、勝手に誤解して勝手に宮城先輩に絡んで、宮城先輩の天使の美貌に傷をつけたのは誰だ?」 「なんだよっ! 俺は騙されねぇぞ!! あんなに綺麗な人と一緒にいて気持ちがまったくぐらつかなかったとは言わせねぇぞ!!!」 「まーねぇ。宮城先輩みたいに綺麗で優しくて頭のいい恋人がいたらサイコーだろうね」 「うわあああああんっ! や、や、やっぱりそうなんだっ!! 俺のこと、捨てる気なんだあっ!!」 東雲くんは大声で泣きながら、その場に蹲(うずくま)った。 ――あの、これって、なんか痴話喧嘩っぽくない?? ひょ、ひょっとして、武藤の恋人って……。でも……。え……? 「く、く、くそうっ。今までさんざん俺の体、弄びやがって!」 「弄ぶだなんて人聞きの悪い。そもそも最初に人を強姦しようとしたのはお前だろ?」 「んだよ! あんとき逆に俺のこと強姦したの、お前じゃん! 人の手首をネクタイで縛って、俺、初めてだったのにバコバコやりやがって!! おかげであの後、トイレに行くのがめちゃめちゃ辛かったんだぞー!!!」 ――武藤があの顔でバコバコ……。かなり……驚きだ……。……っつーか……ショック……。 ――いや、別に、いいんだけどさ……。でも、武藤、抱くほうなんだ……。 俺が驚き覚めやらぬ間も、二人の過激な痴話喧嘩はまだまだ続いていた。 「お前の場合、自業自得。それにその後、性懲りもなく俺に「抱いて」って迫ってきたの誰だよ」 「俺だよ! しょうがないだろ、俺、お前のこと好きなんだもん! 体だけでも欲しかったんだもん!!」 東雲くんは泣きながら叫んだ。なんかもう、必死って感じで、どれだけ武藤のことを深く想っているのか伝わってきた。 「お前、普段はうるさいしガキだし頭悪いけど、えっちんときはカワイイもんな」 「うっ……ひっく……。じゃ、じゃあ、体だけでもいいから……そ、傍においてよ……宮城先輩と付き合っててもいいから……愛人でいいから……」 「お前って、ほんとバカ」 武藤は東雲くんを呆れたような顔で見下ろした。でも、その目は愛情に満ちていて、武藤がどれだけ東雲くんを大切に思っているのか分かった。 「東雲、最初は性欲満たしたくて、お前と付き合い始めたってのは否定しないよ。あのころ俺さ、ここにいる萩原先輩に振られてけっこうヤケになってたし。でも今はちゃんと東雲のこと好きだよ。快楽のためだけにお前とセックスしてるわけじゃない。……信じろよ」 「ふえええええんっ。武藤ぅ……」 東雲くんは座り込んで、まだぼろぼろと泣き続けている。武藤は東雲くんを包み込むように優しく抱いた。そして舌先で東雲くんの涙をそっと拭う。 完全に二人の世界。 見ているほうはとっても恥ずかしい。 萩原も俺と同じだったみたい。 「……武藤、貸しにしておく」 「ありがとうございます」 二人のラブラブパワーの前に、萩原も怒りの矛先を失ったようだ。 ――東雲くんのこと……俺の勘違いだって分かったし……俺のためにあれだけ怒ってくれるんなら……萩原ってひょっとして、俺のこと、まだ好き……? ――…………………………………………………………………………ってことは。 ――俺から萩原を振っちゃったってこと!!!!!????? ――ぎゃああああっ。やだやだだめだめ。俺、萩原のこと好きだし。それってそれってそれって間違い! 失敗なのっ!! 俺は内心で慌てふためいた。萩原が俺に内緒で東雲くんと抱き合っていると思ったからこそ、俺は別れようと萩原に言ったわけで。でも東雲くんは武藤の恋人だってことを知って、完全な俺の勘違いだってことが分かった。そしたら俺が身を引くなんて構図は成立しないわけで……。 ――うわっ。ま、ま、ま、まずいっ。俺、萩原が好きなのに、なんで俺が萩原を振らなきゃいけないわけ??? 最悪すぎる。やだやだやだやだ。別れないですむなら別れたくなんかないもん!! 頭より先に体が動いた。屋上から立ち去ろうと、こちらに向かってくる萩原のもとに俺は全力で駆け寄った。萩原は驚いた顔をしていた。俺は萩原の驚きを無視してその体にしっかりとしがみ付いた。 鼻を埋めた萩原の首筋からは、萩原の汗の匂いがほんのりとした。萩原の体臭を嗅ぎながら、俺は体の芯がゆっくりと熱くなっていくのを感じていた。 それは俺が、初めて萩原に対して、生々しい欲望を持った瞬間だった。 「十夜……」 「抱いて。……好き」 俺の言葉に、萩原は信じられないという顔をした。 だが、俺がゆっくりと萩原の唇に唇で触れてから顔を離すと、萩原は泣きそうな顔で微笑んだのだった。 |