【恋ってね! 十夜編  -03-】
 
「十夜? どうした、珍しいな」
バイト先に訪れた俺の姿を見て、萩原は驚いた顔をした。そりゃそうだろうな。俺が萩原のバイト先に来たのは、たったの一度だけ。萩原がバイトを始めたころ、好奇心で見物に来たんだ。それ以来は、仕事の邪魔しちゃ悪いかなって思って、遠慮してたんだ。
でも、まあ、今日は特別ってことで……。
「ん。ちょっと。……会いたくて」
他の人に聞かれないように、こっそりと囁いた。萩原はその言葉を聞いて、満面の笑みを浮かべた。
――ひゃ〜。恥ずかしい。そんなに露骨に嬉しそうな顔、するなよな! お前は『帝王』なんだからさあ……。
俺は恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じた。
「すまん、バイトが終わるまであと二時間かかるんだが……」
「気にしないでいいよ。萩原が働いてるとこ、大人しく座って見てるからさ」
俺は隅のほうの席にそっと座った。カウンターの中にいるマスターに向かって、俺はぺこりと小さく頭を下げた。
萩原は、二十人も客が入れば一杯になるぐらい小さなショットバーで働いている。すっごくお洒落で大人っぽい雰囲気の店だ。
でも俺は、こういうお店って苦手かな。さりげなく置かれているアンティークの灰皿とか、素敵だと思うけどね。なんか落ち着かないんだ。うーん。俺もまだまだ子供ってことかな?
え? お酒を出すような店に、未成年がバイトなんかしていいかって?
普通はダメなんだろうね。でもここ、実は萩原の母方の叔父さんの店。萩原のお母さんの弟さんって言ってたかな。
萩原って、父親似なのかも。マスターとは血縁者のはずなのに、ぜんぜん似ていない。マスターには悪いけど、萩原のほうがはるかにイイ男。マスターも不細工ってわけじゃなくて、萩原の血縁者だけあって整った顔立ちではあるんだけど、男らしさではだんぜん萩原が上っ!
萩原は店の制服を着ている。その服がまた、渋くて大人っぽくて似合うんだ。
――そういや、萩原って俺の『カレシ』なんだよね……。
萩原の形よい指先を見ながら、俺は不思議な気持ちになった。
――客観的に見て、これ以上ってのはいないぐらいのイイ男なんだけど。どうして俺なんかをそんなに好きかなあ? そうか。萩原、お前の唯一の欠点は、趣味の悪さだな。あ。いかん。自分で自分の言葉にちょっと傷ついてしまった……。
武藤には似合いの二人だと言われたけれど、本当かなぁ……。
「よく来てくれたね。これ、サービス」
マスターがにっこり笑って、コーヒーを一杯、目の前に置いてくれた。俺は礼を言って受け取り、さっそくカップに口をつけた。
いい香り。
インスタントとはワケが違う。味も最高。
「すごくおいしいです」
カウンターに戻るかと思ったら、マスターは俺のすぐ隣の席に座り込んだ。お客さん、三人しかいないけど、だからってこんなとこで油売ってていいのかな?
ちらりと萩原のほうに視線を向けると、萩原は如才なく接客していた。考えてみれば、一年のときからこの仕事続けてるんだもんな。かなり手馴れたものだ。だからマスターも、安心してこんなところで休んでいられるんだろうな。
それにしても……働いている姿って、いつもより何故かカッコ良く見える。しっかりしていて、凛々しく見える。普段だって、そりゃ、カッコ良い男だけど。
「十夜くん、久しぶりだね。一年ぶりかな?」
「あ、はい。そうです。よく覚えていらっしゃいましたね。俺がここに来たの、一度だけで、けっこう前だし」
 ぽーっと萩原の働く姿に見入っていたことを気が疲れたかと、俺は内心慌てつつ、マスターに笑顔で答えた。
接客業だと、人の顔を覚えるのが得意になるのだろうか。一年以上前に一度顔を見せただけなのに、マスターは俺の名前と顔を忘れていないようだった。
「そりゃ、十夜くんみたいなキレイな子、なかなか忘れられないよ」
「……キレイ?」
武藤にも言われたけど、俺ってキレイ?
毎朝、鏡見てるけど、自分の顔をキレイだって思ったことなんかないぞ。男にしては線の細い顔だなあって思うけど。
「前もキレイだったけど、ますますキレイになったね。……どう? お小遣い上げるから、オジサンとどこか遊びに行かない?」
「……は?」
冗談、だとは思うけど。でもこの肩になにげな〜く掛けられた手はなんだろう??
うーん。なんか肩に圧力かかってるし……。ひょっとして、これは抱き寄せられているというやつだろうか。……なんか頬に息がかかってるんですけど……。顔、近すぎじゃない? 萩原の叔父さんって、スキンシップが好きな人なのかなあ……。しかしこの距離は不自然じゃありませんか???
……どうしよう。
肩にあった手は、いつの間にか腰に回されていた。
「ほんとにキレイだなぁ。ねぇ、マジで、どう? 十夜くん、すっげぇ俺の好みなんだけど……」
などと言いながら、萩原の叔父さんはゆっくりと俺の腰を撫でさすった。
……ぞぞぞぞぞっ。
――うえーんっ。これってセクハラ! セクハラっ!!! 手つきがめちゃめちゃやらしいんですけど!!!!
「あ、あの……」
 ようやくおかしいと気がついた俺は、萩原の叔父さんから離れようとするけど、予想以上に強い力に抱き寄せられて、叔父さんの手から逃れることが出来なかった。
「キスしていい? ねぇ、ホテル行こうか。俺、上手いし」
――ホテルって? 上手いって!?
「あの、あの……」
俺がもたもたしているうちに、萩原の叔父さんの顔が、だんだんと近づいてきた。
――ひいいいいっ! きっ、きっ、きっ、キスされるぅぅぅぅっ!!!
しかし触れる寸前、俺の唇は萩原の手によって守られた。
――ふえええんっ、萩原、怖かったよぅっ。
「いてっ! いてっ!! いててててっ!!!」
叔父さんは力いっぱい萩原に頬を抓られ、悲鳴を上げた。
「……叔父さん、冗談が過ぎるぜ……」
萩原は顔になんの表情も浮かべず、眼に冷ややかな光を宿して叔父さんを見下ろしていた。もちろん、頬を抓る力は緩めないままだ。
――こ、こえええええっ! さすが帝王、もんのすげぇ迫力!! ……叔父さん、殺されなきゃいいけど……。セクハラされたのはヤだったけど、でも命までとっちゃうのはちょっと……。
「いでーっ。やべでぐれー」
相当痛いらしい。叔父さんの目にはうっすらと涙が滲んでいた。
「冗談なら二度とするな。本気なら殺す。血の繋がりがあろうが容赦はしない。……叔父さん、俺をあまり怒らせないでくれ……」
 萩原、あくまでも無表情。けど淡々と言い放ったセリフは本気だってことがよく伝わってくる。漂う暴力的な雰囲気は怖かったけど、でも、俺じゃ絶対こんな風に相手をビビらせるなんてことできないだろうし。……ちょっと、カッコイイかも……。獰猛な野生の獣みたいな萩原の迫力に気圧されながら、同時に俺は魅せられていた。同じ男として、憧れずにはいられない。
「わがっだ! わがっだがらっ!!」
――あーうー……。
叔父さん、泣いてる泣いてる。やっぱりめちゃくちゃ痛いんだよなー。思わず同情。でも庇わないけど。あはははは〜。
「いでででで。くそぅ、賢司、力いっぱい抓りやがって……。こりゃ、青痣になるぞ」
「……それだけのことをしたという、自覚がないようだな……」
「い、いやっ。自覚、あります! 十夜くんに、もうちょっかいかけたりしません!」
――萩原の叔父さん……。自分の甥っ子相手に、その低姿勢はナニ?
気持ちは分からないでもないけど。
だって萩原、怖すぎ。
「大丈夫だったか、十夜?」
萩原は、叔父さん相手とはうって変わって、俺には優しい眼差しを向けた。
思わずドキっ。
着ている服のせいかなあ。この場所のせいかなあ? 髪型もきっちりヘアクリームでまとめてるし。学校での萩原より、大人の男ってカンジがする。滴るような男の色気があるってゆーか。
「あ、うん。へーき……」
「そうか。よかった」
ほっとしたように萩原は笑った。
――どきん。
俺は自分の心臓が強く脈打つのを感じた。
う。な、なんで? 萩原に対してなぜだか俺は、緊張していた。頬に触れる萩原の指先に、どきどきしている。
「叔父さん、今日は暇みたいだし、早めに上がらせて貰うぜ。十夜に妙な手出しをされても困るしな」
萩原が棘を含んだ言葉で言うと、叔父さんは軽く肩をすくめた。萩原に抓られた頬は不自然に赤くなっている。
「はいはい。分かったよ。あとは俺一人でなんとかなりそうだしね」
「それじゃ、すぐに着替えてくるから待ってろ」
「うん」
控え室に向かう萩原の背中を、思わず俺は縋るような目で追いかけてしまった。
――萩原、早く帰ってきてね。
取り残されたようでちょっと心細い。
「まいったなあ。十夜ちゃん、賢司の恋人だったのか。知ってたら最初っから手を出したりしないのにさ」
「こ、恋人って……」
ここでYESって言っていいものなのかな? だって一応男同士だし。叔父さんにばれたら、きっと萩原の両親にも伝わっちゃうよね。
「いいよ、隠さないでも。どうせさっきの賢司のあの態度で丸わかりだし。姉さんもとっくに、賢司が好きなのは男の子だって知ってるし」
「え? どうして……」
「賢司は真面目な子だからね。あの子が一年のときかな。自分が好きな相手は男だって姉さんに告白してさ。で、姉さん怒っちゃって。今、賢司、勘当中なんだよね」
「勘当中……?」
――し、知らなかった……。
俺って親友とか言いつつ、萩原のこと、あんまりよく分かっていなかったんだ。
「今思えば、好きな相手って十夜くんのことだったんだね。義兄が必死で姉さんを宥めたけど、我が姉ながら昔から性格のきっつい女でね。賢司は賢司で頑固だし」
「はあ……」
初めて知る萩原の事情に、俺はただ戸惑うばかりだ。
「仕方ないから、賢司は今家を出て一人暮らしをしている。家賃と学費は義兄が出してるけど、生活費は自分で稼いでるんだ。賢司がよく手伝ってくれてるから、こっちは助かってるけどね」
「そうなんですか……」
それで萩原は一年のときからバイトで忙しかったんだ。
叔父さんから聞かされた話に俺は考え込んでしまった。
俺も同性の武藤が好きだったけど、親に告白する気になんてならなかった。だってさ、恋人同士になれたんならともかく、片想いの段階でだよ?
なんでかな。
なんでだろう。
どうして萩原は親にカミングアウトする気になったんだろう。
内緒にしておけばいいじゃん。そうすれば誰も傷つかない。親と争うこともない。
――ううん。誰も傷つかないって言うのは嘘だ。
萩原はきっと傷つく。萩原は自分を偽ることを良しとしない男だ。
「よほど十夜くんのことが好きなんだろうね。親に告白だなんて、そうとうの覚悟がないと出来ないよ。俺も高校時代に好きな相手は同性だったけど、親にバレないように必死だったもん」
「…………」
「十夜ちゃん、賢司のこと、大切にしてあげてよ。あの子は強い子だけど、滅多に弱音をはかない分、叔父さんとしては心配なんだよね」
「はい。大切にします」
俺は叔父さんの目を見てきっぱり言い切った。
俺はもう、萩原の想いから逃れることは出来ないだろう。
一度は逃げようとしたけど無理だって分かった。萩原がどれほどの覚悟で俺を想っているのか、ことあるごとに思い知らされる。……その想いに俺も応えたい。
予感がした。
遠くない未来、俺はきっと萩原に捉まるだろう。
いや、もうすでに、捉まりかけているのかもしれない。
けれど俺はもう、そのことを不快だとは思わなかった。
「すまん、十夜。待たせたな」
「ううん。……ごめんね。俺、結局、萩原の仕事の邪魔しちゃったね」
「謝るな。悪いのは俺の節操のない叔父で、お前じゃない」
「二人とも、いちゃつくならお店の外でしてくれる? 寄り道しないで気をつけて帰るんだよ」
 俺たちのやりとりを聞いていた叔父さんは、苦笑しながら言った。
「あ、はい。ご馳走さまでした。コーヒーおいしかったです」
「またな、叔父さん」
店を出ると、小雨がぱらぱらと降っていた。前後に人がいないことを確認してから、俺は萩原の腕にしがみついた。萩原は驚いた顔をした。
「寒いから……」
俺は頬を火照らせ、言い訳の言葉を呟いた。本当はなんだかとても、もっと萩原に近づきたい気分だったからだ。萩原の親のこととか、俺は全然知らなかった。きっと萩原は、俺が原因で家を出たことを、俺に言えずにいたのだろう。
もっと、萩原のことが知りたかった。
しがみつく俺を見下ろし、萩原は照れたように笑った。
「萩原、一人暮らしなんだって? 俺、知らなかった。今度遊びに行ってもいい?」
「来てもいいが……。そのときはそれ相応の覚悟をして来いよ?」
「覚悟?」
「惚れた相手と二人っきりで、狼に化けないでいる自信はない」
「あ……」
萩原の家を訪れたときが、俺が萩原に抱かれるってことだよね。
俺はそのときのことを想像して顔を真っ赤にした。
萩原の唇が俺の唇に重なる。
萩原の指が俺の体に触れる。
具体的な想像をしても、以前ほどの嫌悪はなかった。
「……クリスマスイブに、泊まりに来てくれないか?」
萩原は、囁くような小さな声で言った。
――えっと……それってつまり……。
俺は萩原の顔をじっと見つめてしまった。
萩原の顔も、俺と同様、赤かった。
――どうしよう。俺、萩原に抱かれちゃうんだ……。
「無理ならいいんだ。気にしないでくれ」
俺が迷っている間に、萩原は自分の提案を取り下げた。そして、悲しい顔で微笑んだ。
――うー。萩原、そんな顔しちゃイヤだ。俺、萩原の嬉しそうな顔を見たいよ。
「……無理、じゃない。俺、泊まりに行くから……」
「本気か? 十夜」
半信半疑の萩原に、俺は力強く頷いて見せた。萩原は俺が望んだとおりの笑顔を見せてくれた。
クリスマスイブまであと約一月。
そのときに俺は、正真正銘、萩原の恋人になるんだ……。
まだ迷いがないわけじゃない。萩原との関係を進めていくことに、不安がないわけじゃない。
でも俺は萩原が喜ぶなら、どんなことでもしてあげたいと、心からそう思った。




――このごろ、萩原のようすが変だ。
なにがどう変だとは具体的には言い辛いのだけど、なんか、よそよそしくなった気がする。
――『約束の日』まで二週間きってるから、それで、とか?
でもそれならもっと、違う反応をすると思う。最近の萩原の態度はどっちかといえばマイナスの感情から来る態度のような……。目が合えば以前は嬉しそうににっこり笑ってくれたのに、今はさりげな〜く視線を逸らされる。
思い返してみれば、話しかけるのは俺のほうからばっかりで、萩原から話しかけてくるのは用があるときだけ。
週末も恋人同士になってから毎週会っていたのに、二回連続で約束をキャンセルされたし。
――もしかして、俺に、飽きた、とか……?
うっわー。それってすんごくあり得そう! 元々、なんで萩原ほどの男が、あれほど俺のことを想ってくれているのか分からなかったし。約束の日が近づいて、具体的に男同士でヤることを考えてイヤになったとか? それとも、なかなかエッチさせてくれない恋人なんか、いらなくなっちゃったとか??
俺ってばあれだけ萩原に尽くさせといて、付き合ってから半年近く経つのにちゅー一回しかさせてないし。それに、一度はこっちから別れようって切り出してるし……。それで、気持ち、冷めちゃったとか……。
――そしたらどうなるんだ? 俺と萩原が別れたらどうなるんだ??
キスはしたけどまだ、その、最後まではヤってないし。恋人関係じゃなくなったら、またもとの親友に戻るのかな?
――どうしよう。そんなの、イヤだ……。
胸が、痛くなった。
とても哀しい気持ちになった。
最初はただの親友に戻ることを望んでいたのに、今はそれがイヤでたまらなかった。
俺は自分の心の変化に戸惑う。
――なんで? 友達同士に戻れていいじゃん。それなのになんでこんなに胸が痛い……?
俺と萩原が別れて、萩原とは友人に戻って、そのうち萩原には可愛い恋人が出来て。
――自分はそれを望んでいたんじゃなかったっけ?
俺にくれた深い愛情を、他の人間に惜しげなく注ぐ萩原の姿を想像して胸が軋んだ。自分以外の人間に、あんな優しい微笑を向けて欲しくないと思ってしまう。
仕方ない、と思う。
俺は萩原に何も与えなかった。
「好き」というたったの一言さえ俺は口にしなかった。
萩原の気持ちが俺から離れていくのは、無理のないことだと思う。
思う……けど、苦しくて苦しくて泣きたくなった。
我儘な自分が心の奥底で強く叫ぶ。萩原の特別でいたい。萩原の一番の存在でありたいって。
「どうしよう。俺……。今更気づくなんて……」
俺はなんて間抜けなんだろう。
萩原の気持ちが離れ始めて、やっと自分の気持ちに気がつくなんて……。
萩原に始めて告白されたとき、自分の心は他の人間にあった。俺はすぐには気持ちを切り替えることが出来ず、萩原と付き合いながらも後輩の武藤に片想いし続けていた。
その間、萩原を裏切っているようで苦しくて、別れようって俺は萩原に告げた。これ以上、萩原のことを騙し続けることは俺には出来ないと思った。
本当はそこで終わるはずだった。萩原に恋していない自分が、萩原の隣にい続けることなど出来るはずがなかった。
――なのに、萩原が泣くから。
あれほど強くてカッコイイ男が、プライドも何もかもを投げ捨て自分にすがりつくから、突き放せなくなった。
その情熱に、心が揺れた。
俺はあのとき唇を奪われながら、本当は心も奪われていたんだ。
それなのに鈍い俺は気がつかなくて。
萩原があれほど想ってくれているから、俺も想いを返してあげなきゃいけないって……そんな傲慢なことを思っていた。
萩原の愛情が永遠に続くものだと思い込んでいた。
――俺はバカだ。今頃気づくなんて。
武藤、俺は頭なんてこれっぽっちも良くないぞ。とんでもない大バカヤローだ。自分でも泣きたくなっちゃうほどのノータリンだ。
どうしてもっと早く気づかなかったんだ。
どうしてもっと早く萩原のことが好きだって伝えなかったんだろう。
萩原のことを失ってしまうよりも早く……。
きっと萩原は、与えるばかりの虚しい恋に疲れてしまったんだ。疲れ果てて俺への恋心は枯れてしまったんだ。
萩原を責めることは出来ない。
追い詰めたのは俺だ。
俺が悪いんだ。
俺がバカだった。
萩原が俺を見捨てるのも仕方がないんだ。
「十夜、話がある」
「あ……」
久しぶりに声を掛けられ顔を上げると、真剣な表情を浮かべた萩原の顔があった。話の内容は聞かないでも分かる気がした。
別れ話だ。
聞きたくないと思った。
「今日、放課後、暇か?」
「……うん」
忙しいと嘘をついてしまいたかった。逃げてしまいたかった。
だけど、そんなことをしても意味がないことは分かっている。
だから俺は頷いた。
「えと、どうする? 喫茶店にでも行く?」
「いや。……俺の部屋でいいか?」
「え?」
俺は驚いて萩原の顔を見上げた。
「おかしな真似は誓ってしない。信用してくれ」
「あ。……うん」
萩原は俺の驚いた理由を勘違いしたようだ。だが俺はその勘違いを正す気力もなくあいまいに頷いた。
俺が初めて萩原の部屋を訪れるのは、俺が初めて萩原に抱かれる日のはずだった。
萩原とだけじゃなく、性的な経験が皆無の俺は上手く振舞えるのか心配だった。親友だった男と肉体的に交わることに迷いもあった。二人の関係がどう変わるのか見当もつかず、臆病な俺は内心怯えていた。
でも、それだけじゃなく、期待する自分も確かにいたんだ。萩原がどうやって俺を抱くのか、どうやって俺を求めるのか、知りたいと思う自分もいた。
なのに、そんな思いもすべて無駄になった。萩原が自分を部屋に招いた理由は明白だ。男同士の別れ話なんて、他人に聞かせるわけにはいかない。だから萩原は俺を部屋に招いてくれたのだろう。
学校でも二人きりになれない場所がないわけじゃない。例えば、屋上とか。だが、時期的に屋上は寒すぎる。萩原は寒くても平気だろうけど、寒がりの俺には北風がビュービュー吹きまくった屋上で話し合うなんて絶対に耐えられない。教室も人がいなくなるまで残っていたら、屋上よりはマシでも寒いことには違いない。そんな俺を萩原は気遣ってくれたわけだ。
――ばかっ。別れる相手に優しくなんかするなよ!
二人の関係を深めるために訪れるはずだった部屋に、別れ話をされるために行かなきゃいけないなんて。……イヤ過ぎる!!
「やっぱダメ! 今日はダメっ!!」
――ああ。やっぱり俺は卑怯者〜。
こんなことしても意味ないのに! 逃げたって問題は解決しないのに!!
でもイヤだもん。イヤなんだもん! 別れたくないんだもん!! だって俺、萩原が好きだって気がついちゃったんだもん!!!
「ごめん、忘れてたけど、俺、今日は用があったんだった!」
「そうか……。分かった」
「ほんとごめん。じゃあねまたね!!」
――…………………………………………………………………。
――…………………………………………………………………。
――………………………………俺って……とことん男らしくないよね。
自分に都合の悪い話を聞きたくないがために、俺はさっさと萩原の前から逃げ出した。自分の中の道徳心が、「そんな卑怯なことではいかんっ!」と叫んでいるが、知らないもんね。卑怯者と呼びたきゃ呼んでいいもん。
俺まだ十七歳だし。そんなに分別よく生きてられないよ。
「う〜。萩原のバカバカっ。そりゃ俺が悪いんだろうけど……。でも、でも、俺を振ろうとするなんてひどいっ!」
自分のことに夢中になっていた俺は、目の前から人がやって来ていたことに気がつかなかった。向こうも俺と同様、他のことに気をとられていたのか、正面衝突してしまう。
「すみません。大丈夫でしたか?」
「俺のほうこそぼんやりしてて……って、あれ? 武藤?」
「え? 宮城先輩? 先輩も今から帰るとこなんですか? だったら、駅まで……み、宮城先輩?」
武藤は俺の顔を見て驚いた顔をした。武藤が驚くのも無理はない。武藤の顔を見た瞬間、俺は思わず涙を零していた。
「どうしたんですか、先輩!?」
「ううう。武藤、俺、萩原に振られるかもしれない……」
情けないことに俺は、後輩の武藤に泣きついていた。誰かにこの苦しい胸のうちを打ち明けたくって仕方なかった。
――俺ってひょっとして、男としてのプライドゼロ?
面倒見のいい性格の武藤は、泣いている俺のことを放っておくことなんて出来なかったようだ。武藤は俺の頭を優しく撫でてくれた。まったく、どっちが先輩だか分かりゃしない。
「喫茶店、行きましょうか。相談に乗りますよ」
俺は泣きながら、武藤の言葉に小さく頷いたのだった。


「で、振られるかもしれないって、どういうことですか?」
俺が落ち着くのを待ってから、武藤は切り出した。本当によく出来た後輩だ。俺が一時でも惚れただけのことはある。
「……最近、萩原の態度が冷たい気がして……。今日、話があるって言われて、多分それ、別れ話だったと思うんだけど、俺、逃げてきちゃった……」
泣かないように平常心を取り戻そうとするが、うまくいかない。声は完全に涙声だった。
――恥ずかしい。
「あの、言い辛いかもしれませんけど、アッチのほうはどうです?」
「……アッチ?」
アッチって、ドッチ?
武藤が何を言いたいのか分からず、俺は首をかしげた。本気で分からない様子の俺を見て、武藤は溜息をついた。
「セックスですよ」
「セっ…………!!」
可愛い武藤の口から出てきた不似合いな卑猥な言葉に、俺は顔を熱くした。きっと今鏡を見たら、真っ赤になっているに違いない。
「どうです? ちゃんと、その、最近、しました? そのときの様子は?」
「し、し、し、し、し、し、してない! 俺は、萩原とは、一回もしてない!!」
俺の答えを聞いて、口をあんぐりあけ、武藤は信じられないという顔をした。俺は勢いよく首を振り、萩原とそういった行為がなかったことを主張した。
「先輩たち……付き合って、半年近く経ちますよね?」
「うん……」
「しかもその間、夏休み、挟んでましたよね。……なんでしてないんです?」
「な、な、なんでって……」
何度かそういう雰囲気になったことはあった。だがその度に、俺は誤魔化し逃げてきた。萩原はそんな俺を、優しく笑って許してくれてた。
「そ、その、俺がなかなか決心つかなくて……。でも、クリスマス・イブに……約束していて……」
「……萩原先輩って、本当に宮城先輩のこと大切にしているんですね」
武藤はしみじみとした声でつぶやいた。
「男同士の関係って、けっこう即物的なところがあるでしょう? それなのに付き合ってから半年も経つのに手を出さないなんて、萩原先輩ってスゴイ忍耐力。俺、マジで尊敬しちゃいます」
「男同士の関係って言われても、俺が付き合ったことがあるのって萩原だけだからよく分からないよ……」
男を好きになったのは武藤と合わせて二人目だけど、実際に俺が付き合ったことがあるのは萩原だけだ。男同士の関係がどうだと言われても、ピンと来ない。
「ううーん。俺も今のカレシ以外とは、付き合ったことありませんけど」
「ええっ!? 武藤、付き合っているヤツがいるの???」
俺は自分の悩み事も忘れて盛大に驚きの声をあげた。カレシってことは、武藤の付き合っている相手ってのも、男なんだよねぇ?
――すごく、驚いたけど……。でも、心強いかも……。
男同士で付き合ってるやつなんて、当然ながら少数派だ。身近に自分と同じ立場の人間がいると知って、俺は嬉しくなった。俺は武藤に対する親近感を強めた。
もとから俺と萩原とのことを知っている武藤に相談事をすることは多かったけど、これからはもっと相談しやすくなるなと思った。
「え。いつから? 俺、知らなかった。いつから付き合ってるの?」
「先輩たちと同じぐらいの時期です。……実は俺、萩原先輩に振られてヤケになってて。で、そのころちょうど、俺、あいつに襲われて……。俺たち体から入った関係なんです。先輩、軽蔑します?」
武藤は不安そうな顔をした。俺は武藤を安心させるように、口元に笑みを浮かべた。
「軽蔑なんて、しないよ。きっかけは別になんだっていいと思うよ。今が幸せならさ」
「宮城先輩ならそう言ってくれると思っていましたけど……。でも、俺、安心しました」
武藤は目にうっすらと涙を浮かべ、ほっとしたように笑った。
武藤は本当に可愛い。思わず襲ってしまった武藤のカレシの気持ちがよく分かる。
「って、俺が安心している場合じゃないですね。今は宮城先輩の悩み事を解決するのが先ですね」
もともと話を脱線させたのは俺だが、武藤は強引に、本題に話を引き戻した。
「でも俺の考えでは、宮城先輩、悩むだけ無駄だと思いますけど。萩原先輩が心変わりだなんて、絶対にありえないですよ」
「……そう、かなあ……」
武藤は自信満々に断言したけど、俺は素直に頷けなかった。
だってさ、前から萩原はイイ男だと思っていたけどさ、惚れた欲目で見ると、さらに数倍イイ男に思えてさ。で、そんな萩原に好きになってもらえるほどの価値が自分にあるかといえば……。ない! って俺は断言できるぞ。こんなこと断言したくもないけどさ……。
「宮城先輩と萩原先輩は俺の理想のカップルなんです。俺が萩原先輩への思いをすっぱり断ち切って、新しい恋を始めることが出来たのって、本当に先輩たちがお似合いの二人だったからだと思うんです。だからもっと自信持ってくださいよ。萩原先輩は宮城先輩のこと、めちゃめちゃ愛してますって」
「うん、でも……」
「萩原先輩の態度が冷たい気がするって話ですけど、ほんとにただの気のせいじゃないですか?」
「え。でも……」
「そんなに不安なら、クリスマス・イブになんて悠長なこと言ってないで、萩原先輩としちゃったらどうですか?」
「えっ!? えええっ???」
武藤の大胆な意見に、俺は顔を赤くした。
しちゃったらって……えっちのことだよねぇ? む、武藤ってば、可愛い顔して言うことスゴイ。
「アレってさ、肉体的に気持ちイイってのもあるんですけど……。精神的にも満たされますね。快楽を高めあう共同作業の中で相手との繋がりが強くなるって言うか……」
「そ、そうなんだ……」
むむむ。経験者の意見は重みがあるな。
学年的には俺のほうが先輩だけど、アッチのほうじゃ、武藤のほうが先輩なんだよね。
「……あの、さあ。アレってやっぱ、そんなに気持ちイイものなの?」
俺は頬を染めながら、武藤に小さな声でこっそり尋ねた。俺だってお年頃の男の子。そーゆー話に興味あるんだよね。
「サイコーですよ。この世にこんな気持ちがイイことがあるんだーって、すっげぇ俺、感動しましたもん」
「そうなんだ……」
さんざん萩原とのえっちを避けてきた俺だが、ゲンキンにも気持ちがイイと武藤に恍惚とした表情で言われ、俺もイタしたくなってしまった。
そっか。男同士でもちゃんと気持ちよくなれるんだ……。
俺はちょっとだけ心が軽くなった。
そんなに気持ちイイんなら、俺、萩原のこと、誘惑しちゃおうかな? 俺の勘違いじゃなくてほんとに萩原の心が俺から離れかけていても、えっちして気持ちよかったら、萩原のやつも別れようなんて思わなくなるかもしれない。
――体で繋ぎ止めるってズルイ?
――ずるくても、いいんだ。どうせ俺、卑怯者だしさ。萩原が俺の傍にいてくれるならそれでいいんだ……。
と、色仕掛けで萩原を落とす決心をした俺は、アッチのほうでは先輩である武藤にいろいろと教えを請おうと思った。
だって、さ。俺ってば丸っきりの初心者なんだもん。経験のほうはもうどうしようもないけど、せめて知識ぐらいは身に付けておかないとね!
「えっと、あのさあ。……初めてのときって、どうだった……」
「初めてのときですか? うーん。あれってほとんど強姦みたいなものだったしなあ……」
あ。そうか。さっき武藤、「襲われて」って言ってたもんね。悪いこと聞いちゃったかな? 今は恋人同士として付き合ってるって言っても、やっぱり無理やりヤられちゃったのって、いい思い出とは言えないもん。
俺は自分の無神経さを反省した。
「しかも、俺もあいつも初心者だったし。でも……あ、俺とあいつが初めてやっちゃったのって体育館倉庫なんですけど……校内だってのに、すげぇサカっちゃって。結局、三回連続でやっちゃって」
「へ、へー。そうなんだ……。三回……」
「下品な話なんですけど、そーゆー無茶やったから、ケツの穴切れちゃって。終わったときは血まみれでもう大変でしたよ」
「うう……。痛そう……。そんなんでよくその相手と付き合える気になったね」
血に弱い俺は、話を聞いているだけで気分が悪くなりそうだった。
――うえ〜ん。やっぱり初めてって痛いんだっ!
でもさ、お尻の穴が切れちゃったりって……。強姦だからだよね? 萩原はもっと優しく俺のこと抱いてくれるよね!!!!!!?
――………………………………………………………………。
――……ううーん。色仕掛けしようと思ったけど、やっぱりやめよう……。だって痛いのやだし……。
へたれな俺は、すでに根性が萎えかけていた。
「俺も、そう思いますよ。でもあいつ、よっぽど俺に惚れてたみたいで。俺も一途さにほだされたって言うか。じゃ、ま、いっかなって思ってあいつとセックスして。始めは体だけって感じだったんですけど……いつの間にか、はまってましたね」
――そっかぁ。武藤も俺と同じで、相手の熱心さにオとされたんだね。血まみれになっちゃうほどの痛〜い初体験しといて、「ま、いっかな」でまた抱かれちゃうなんて、武藤って勇気あるって言うかなんと言うか……。相手の男がよーっぽど熱心だったんだろうね。
俺だったらそんな痛い思いしたら、もうぜぇったい抱かれたくないって思うよ。
武藤は最初こそ痛い思いをしたものの、今では気持イイ思いをさせて貰ってるみたいだけどさ。でもその最初の痛いがやなんだよ〜。
「あ。もうこんな時間。そろそろ行きましょうか?」
武藤の言葉に自分の腕時計に視線を落とすと、現在の時刻はなんと夜の9時。
驚き。
俺と武藤、そんなに話しこんでたんだ。
うわ。外、真っ暗だよ。
「武藤、今日はありがとね、相談に乗ってくれて。話し聞いてもらえてなんかすっきりした」
具体的な解決案ってのは結局なかったけど、でも、一人で鬱々と悩んでいるより、武藤に悩みを打ち明けることが出来てよかったと思った。武藤に話を聞いてもらう前は世界の終わりを迎えるような気分だったけど、それに比べればだいぶマシになった。やはり相談できる相手がいるのといないのとではぜんぜん状況は違う。
武藤に悩み事を聞いてもらうの、これで何度目になるのかな? 武藤みたいな良い後輩がいて、本当に良かった。
「俺、奢るから」
俺はにっこり笑って、武藤の手から伝票を奪い取った。
「え。ダメですよ、先輩。この前も奢ってもらったし……。せめてワリカンにして下さい」
「だーめ。いっとくけどこれ、相談料だから。お願い、俺に奢らせて? そしたら、次も気兼ねなく相談できるだろ?」
相談料なんて払わなくても、武藤は相談に乗ってくれるよい子だって知ってるけどね。でも、これ、せめてもの俺の感謝の気持ち。
ここは大人しく受け取ってよね?
「……ああ、もう。宮城先輩には敵わないなあ……。ご馳走様でした」
武藤は苦笑しながら、俺にぺこりと頭を下げた。武藤は俺に奢られることを、ようやく納得してくれたのだった。

 
 
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