【恋ってね! 萩原編  -04-】
 
十夜が俺のバイト先の店に来た。
珍しい。
俺がバイトを始めた最初のころに、たった一度だけ様子を見に来たが、それ以来十夜はこの店に足を踏み入れていない。おそらく、この店の雰囲気に馴染めなかったのだろう。お酒も出す薄暗い雰囲気のこの店に来るのは、仕事帰りのOLやサラリーマンばかりだ。店内はあまり広くなく、二十人も入ればいっぱいになる。顧客が多く店はそこそこ繁盛しているが、今日は天気が悪いせいか客の入りが少なかった。
「十夜? どうした、珍しいな」
「ん。ちょっと。……会いたくて」
十夜は恥ずかしそうに、かすれた声で囁いた。
……会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて……。
何度も十夜の声が、頭の中でリフレインする。
ああああっ! 十夜、お前はなんて可愛いことを言うんだっ!! ほんとーに可愛くて可愛くてたまらないぜ!!!
十夜の一言で、俺は一気に上機嫌モードになった。胸の中が幸福感でいっぱいになる。
抱きしめたかったが必死で我慢する。俺は一向に構わないんだが、こんな人目のあるところで抱きついたら、十夜は嫌がるだろうしな。
……おっと。こんなへらりとした顔をしていてはいかんな。せっかく十夜が来てくれたんだ。いい所を見せないとな。
俺は接客用の顔を作って、なるべく十夜のことを意識しないように仕事に没頭した。
仕事の手が空いたときにちらりと十夜のほうを窺(うかが)った瞬間、上機嫌モードが激怒モードに切り替わる。
なんと、腹立たしいことに、叔父が十夜を口説いていたんだ!
許せん! あのエロジジイ。俺の十夜に触るんじゃねぇ!!
………………………………………………………ぶっ殺す。
他の男に傷つけられないように、大切に大切に大切に見守ってきた十夜に、手を出そうとした叔父は万死(ばんし)に値する。血縁者だろうが関係ない。なにせ俺は、愛のために母親を捨てた男だ。(ちなみに、父のことは捨ててはいない。)
肉親の血でこの手を汚そうが今更構わない。それが十夜のためだというなら。
……いや、でも、さすがに殺人はやばいか。少年院に送られたら、十夜に会えなくなっちまうもんな。
俺は手にしていた包丁を台の上に戻した。普段は理性派と呼ばれている俺だが、十夜が絡むとモラルや常識という言葉をちょっぴり忘れがちだった。
「いてっ! いてっ!! いててててっ!!!」
叔父が十夜の可憐な唇を汚す前に、俺は叔父の顔を情け容赦なくつまみあげた。そうとう痛いらしく叔父は悲鳴を上げた。
もちろん同情はしない。それどころか俺は抓る力をさらに強めた。
「……叔父さん、冗談が過ぎるぜ……」
我ながら冷ややかな声である。叔父は痛みと恐怖に顔を引き攣らせていた。
「冗談なら二度とするな。本気なら殺す。血の繋がりがあろうが容赦はしない。……叔父さん、俺をあまり怒らせないでくれ……」
「わがっだ! わがっだがらっ!!」
……ほんとに分かってるのかよー?
頬を抓りながら疑わしそうな目で見下ろすと、叔父は目に涙を浮べて信じてくれーという表情をしていた。
……今日はこの辺で勘弁してやるか。叔父さんにはいつも世話になってるしな。
ようやく俺は、肉親の情というものを思い出すことが出来た。
「大丈夫だったか、十夜?」
叔父にもう二度と十夜に手を出さないと確約させてから、俺は十夜に顔を向けた。
可哀相に。
こんなジジイにセクハラを受けて。
「あ、うん。へーき……」
十夜は小さく微笑んだ。
……ああ、ほんとーにこいつってば可愛いよな〜。
思わず指先で頬に触れると、十夜は恥らうように頬を染めて軽く目を伏せた。キスしたくなって困ってしまう。俺はほんとに十夜が好きでたまらないのだ。
「叔父さん、今日は暇みたいだし、早めに上がらせて貰うぜ。十夜に妙な手出しをされても困るしな」
こんな可愛い十夜を前にして、のんびりバイトなんかしてられるかっつーの。
……バイトしなきゃ、デート代も出ないんだけどね。
まあ、今日は特別っつーことで。どうせ今日はお客さん、少ないし。
叔父の許可を得て俺は更衣室に向かった。着替えて戻ってくると、叔父と十夜はまだ話をしていた。
……まさか叔父さん、性懲りもなく十夜を口説いてるんじゃないだろうなぁ?
俺はすぐには出て行かず、二人の会話を植木の陰に隠れてしばらく立ち聞きしていた。叔父は俺が母親から勘当されて、一人暮らししているという話を十夜にしていた。俺は一人暮らししているということを十夜に隠していたので、十夜は驚いているようだった。
俺が十夜に一人暮らししていることを隠していたのにはわけがある。
まず第一、一人暮らしをしている理由を聞かれたら困る。「男が好きだと母親に言ったら勘当されたから」なんて、言えないだろ? 十夜は責任を感じると思うし。
それに、もしその理由を誤魔化すことが出来たとしても、一人暮らしということは家に遊びに来やすいということだ。
「萩原、一緒に試験勉強をしよう!」と言われて、十夜がうちに泊まりに来たとする。俺は我慢できる自信なんかこれっぽっちもない。間違いなく犯しちまうだろう。犯して、俺は欲望を満たした後、翌朝十夜に絶交を言い渡されるのだ。
「萩原なんか、大っ嫌い!!」
……ううう。そのときの情景を思い浮かべるだけでへこむぜ。
だから俺は、十夜に一人暮らししているとは言えなかった。
二人の会話が丁度良く切れたところで俺はそ知らぬ顔をして十夜に声をかけた。
「すまん、十夜。待たせたな」
「ううん。……ごめんね。俺、結局、萩原の仕事の邪魔しちゃったね」
十夜は申し訳なさそうな顔をした。こういう気遣いが出来るヤツだから、俺は十夜と一緒にいて気持ちがイイのだ。
俺は安心させるように十夜に微笑みかけた。
「謝るな。悪いのは俺の節操のない叔父で、お前じゃない」
俺の言葉に十夜はほっとしたように笑った。
外に出ると、小雨がぱらぱらと降っていた。店に戻って傘を借りてくるかどうか悩んでいると、十夜が腕にしがみついてきた。
俺は驚いた。
俺から触れることはあっても、十夜から触れてこられるのは初めてだからだ。
「寒いから……」
十夜は言い訳するように小さな声で呟いた。恥ずかしがる姿が可愛い。
腕から伝わる体温にどきどきする。
………………………………………………幸せだ。
「萩原、一人暮らしなんだって? 俺、知らなかった。今度遊びに行ってもいい?」
俺が一人暮らししてるって知ったら、お前は遊びに来たがると思ったよ。けどな、それってかなり危険なんだぜ?
「来てもいいが……。そのときはそれ相応の覚悟をして来いよ?」
遊びに来ていきなり犯されたんじゃあ十夜もびっくりすると思うので、俺は一応、忠告することにした。
そりゃチャンスだって思わないこともないけど、やっぱいきなりヤっちゃって、十夜に嫌われたら厳しいよ。本音はヤりたくてたまんないんだけどさ。
「覚悟?」
十夜はきょとんとした顔をした。
……お前ね。気付けよ。その鈍いところが超カワイイんだけどな。
「惚れた相手と二人っきりで、狼に化けないでいる自信はない」
「あ……」
ここまで言って、ようやく十夜は覚悟の意味を悟ったらしい。顔を赤くして俯いてしまった。でもまだ、十夜は俺の腕にしがみついたままだ。その顔に嫌悪の色は浮かんでいない。
……ひょっとして、イケるかもしれない。
十夜だって男だし、この年齢だ。セックスに興味もあるだろう。それに叔父から俺が勘当されたという話を聞いて、多少は同情してくれているはずだ。好奇心に同情票を上乗せして、もしかしてOKしてくれるかもしれない。
俺は頭の中ですばやく計算し、思い切って十夜を誘ってみた。
「……クリスマスイブに、泊まりに来てくれないか?」
さりげなくを装いたかったが、俺の声はみっともなく裏返っていた。
……恥ずかしい。あー。くそー。俺って情けない。
ちっともスマートでない自分に、俺は内心で舌打ちをした。十夜は俺の言葉に赤い顔をして黙り込んでしまった。
……これは……はずしたか?
「無理ならいいんだ。気にしないでくれ」
俺は慌てて言った。
あまりしつこくして十夜に嫌われ、えっちさせて貰うどころか、別れ話を持ち出されたらたまらない。一度は十夜に振られかけた俺はかなり慎重になっていた。
「……無理、じゃない。俺、泊まりに行くから……」
十夜は顔を赤くしたまま震える声で言った。
「本気か? 十夜」
……信じられない。
十夜、お前、泊まりに来ることの意味、分かってるのか? ……分かってるんだよな。顔、真っ赤だし。っつーことは、マジでえっちOKなわけで……。
………………………………………………………………………。
……………………………………………………すんげぇ嬉しい。
俺はしみじみ、喜びを噛み締めた。
早速家に帰ってカレンダーに花丸をつける。
12月24日。
運命の日だ。
俺はその日を指折り数えて待った。一日が終わるごとにカレンダーにバツを付ける。11月が終わり、11月のカレンダーをべりべりと破り捨てながら、俺はへらりと笑ってしまった。
……ふっふっふ。とうとう12月になったぜ。
毎日のように自慰行為をしていたが、このごろは控え気味だ。週に二日、火曜日と金曜日だけと決めていた。なぜなら今から出しすぎて、いざというときに役に立たなかったら困るからだ。しっかりと溜めておいて十夜とめくるめく快楽の一時を過ごしたい。
「さあて、今日は火曜日だしな」
俺はベッドの上で胡坐をかき、いそいそと下着の中から立ち上がりかけた性器を取り出す。そして十夜の艶っぽい姿を思い描き、右手を激しく動かし始める。
十夜のほっそりとした首筋とか、薄い胸板とか、華奢な手足とか。クリスマスイブにはもう、触りたい放題なのだ。
「ああんっ……。賢司……焦らしちゃイヤ……。早くシテ……」
もちろんだ、十夜。すぐに入れてやるぞ。俺だってずっとお前の中に入りたかったんだ。
十夜は立ったまま、俺を素直に受け入れた。背後から十夜を強く抱きしめ、俺は自分の欲望で十夜を貫く。
「ああっ……賢司……」
俺の腕の中で十夜は腰をくねらせ、自分から俺に結合部分を擦り付けてくる。
「十夜、好きだぜ。十夜……!」
十夜の中に入れているつもりで俺はきつく自分のモノを扱いた。
あともう少しでイクというとき、携帯電話が鳴り始めた。
……どきいいいいいっ!!!!!
やらしい妄想をしていた俺は、電話の音にかなりびびった。誰からの電話か確認すると、十夜だった。どうやら家からかけているらしい。
……大丈夫。大丈夫だ、俺! 電話なんだから、俺の格好なんざ向こうには分からない!
俺は心を落ち着かせてから電話に出た。大きくなった俺のムスコはひょっこり下着から顔を出したているが許して欲しい。
「……どうした、十夜?」
「うん、あの、その、数学の宿題でちょっと分からないところがあって……」
十夜からの電話。
…………………………………………嬉しい。
しかし、たしかに数学の宿題は出ていたが、あれって十夜が悩むほどの問題か?
そりゃ数学だけは俺のほうが得意だが、十夜だって学年で10位に入るぐらいの数学の点数は取っていたはずだ。中間試験では十夜は総合で2位だった。俺は文系科目が足を引っ張って総合順位は真ん中ぐらいだった。
つまり頭の出来は、十夜のほうが俺よりもはるかにいい。大学は出来れば十夜と同じところに行きたいので、そろそろ必死こいて受験勉強せねばと俺は思っていた。
「どこが分からなかった? お前が俺に勉強のこと聞くなんて珍しいよな」
「………………ごめん。ほんとはちょっと声が聞きたかっただけ。萩原、今、なにしてるかなーって思って」
…………………………………………!!!!!
声が聞きたかっただって? 声が聞きたかっただって!? 十夜、お前はなんて可愛いことを言うんだ。この間の「会いたかった」もかなり嬉しかったけどな。
しかし、何をしていたか聞かれるとツライな……。「お前をおかずにしていた」とは口が裂けても言えん…………。
「………………ちょうど数学の宿題を終えたところだ」
「あ。そうなんだ。じゃあ、もうちょっと話してても平気かな?」
おお。当たり前だ。
お前の声なら、俺はいつまでだって聞いていたいぞ。
だが10分ぐらいしてから俺は話を切り上げた。だって、携帯電話の通話料って、高くつくだろ? 一人暮らしをしている俺は携帯電話しか契約していない。だから必然的に、十夜が俺に電話をしようとすれば携帯へってことになるが、長電話をして親から怒られたら可哀相だからな。「あんたのせいで、電話代が高いわよっ」とかな。
それにしても十夜は声だけでもカワイイな……。話し方もカワイイし……。
耳に残っている十夜の声にどっぷり浸りながら、俺は右手を動かした。今度は電話が鳴ることもなく、無事に俺は頂上まで到達したのだった。



十夜からえっちOKの言葉を貰った俺は、まさに天にも昇る気持ちだった。十夜の前では必死で顔を引き締めていたが、油断すると顔がへらりと緩んで困った。
ようやく十夜を誰にも遠慮することなくこの腕に抱けるのだ。俺は嬉しくてたまらなかった。
……まさか本物の十夜とヤれる日が来るとは……。
俺はしみじみと幸せをかみ締めていた。
だが、俺の幸せな気分を粉々に打ち砕くような事件が起きた。
偶然拾った、十夜が落とした生徒手帳。挟まれていた写真を気になってつい見てしまったのだが、見なければ良かったと俺は後悔した。
大切そうに十夜が持っていたのは、学園祭のときの武藤の写真だった。赤頭巾ちゃんの格好をした武藤はどこからどう見ても完璧な美少女で、カメラに向かって輝くばかりの笑顔を見せていた。
…………………………………………。
………………イッタイナンダコレハ?
俺の頭は一瞬真っ白になる。
……なんでコレを十夜は持ち歩いているんだ?
大切そうに、武藤の写真を持ち歩いている理由。
…………………………………………まさか、十夜はまだ、武藤のことが好きなのか?
好き、なのだろう。
それ以外の理由など考えられない。
「…………………………………………」
ショックを受けた俺は、無言で拾った生徒手帳を十夜の机の上に置いておいた。だが十夜が武藤の写真を持ち歩いていたという事実が消えるはずもなく、俺は天国から地獄に一気に突き落とされた。
……十夜、抱かれてもいいと思ってくれたのは、俺のことを少しでも好きになってくれたからじゃなかったのか?
……俺を傷つけると思ったから? だから俺の誘いを断れなかった?
……お前はまだ武藤のことを想っているのか?
切り裂かれるような胸の痛みに耐えながら、俺は武藤に対して殺意を抱いた。
……あのガキ………………ぶっ殺しておくんだった。
このとき俺の頭の中からは、もともとは武藤の誤解が原因で十夜と恋人になれたとか、武藤がかつて自分に片想いしていたという事実はすっかり吹っ飛んでいた。
……武藤………………………………………………殺。
とりあえず武藤のことは、機会があったら二・三発ぶん殴っておくことにして……問題は、これからどう十夜と付き合っていくかだ。
十夜の心が自分にないとはっきり分かっているのに、このまま十夜を抱いてしまっていいものだろうか? 好きでもない男に抱かれるという苦痛を、十夜に味合わせていいものなのだろうか?
俺は悩んだ。
俺は今度こそ十夜を解放してやるべきなんじゃないか?
だが、どうやって? どうやったら俺は十夜を諦めることが出来る?
やっと手に入ったと思った愛しい者を、俺は手放すことが出来るのか?
……無理だ。
少なくとも、俺から別れを告げることなんて出来ない。
ずっと想い続けて、やっと俺のものになったと思った。
好きで好きで好きで、気が狂うほど愛しくて、他には何もいらないと思っていた。
十夜と別れる? イヤだ。絶対に、イヤだ。
……やはり抱いちまおうか? 体からまずは手に入れちまおうか? 十夜は……きっと傷つくだろう。だが、他の男にみすみす取られるぐらいなら……。
理性の声は止めろと言っている。お前は大切な者をその手で壊してしまう気なのかと。
だがもう、どうでもよかった。十夜が他の男の腕の中で幸せになるぐらいなら、十夜を壊してしまいたかった。
十夜の心がいまだ武藤に捕らわれていると知り、俺は半ば自棄になっていた。十夜に別れを告げられたときに目覚めかけた獣が、再び俺の中で目を覚まし始めた。
「十夜、話がある」
俺は下心を見抜かれないように気をつけながら十夜に話しかけた。考え事をしていたのか、十夜は驚いた顔で俺を見上げた。
……考え事って、まさか俺と別れる算段でもしてるんじゃねぇだろうな? 十夜には悪いと思わなくもないが、俺はどんな手を使っても、お前とは別れないからな。
俺は心の中だけで呟いた。
「今日、放課後、暇か?」
暇かと聞きつつ、実は今日、俺はバイトが入っていた。しかし今日は勝手に休ませて貰うことにしよう。今はそれどころではないのだ。
「えと、どうする? 喫茶店にでも行く?」
……いやいやまさか。喫茶店で強姦はまずいだろ?
「いや。……俺の部屋でいいか?」
「え?」
十夜は驚いた顔をした。そりゃそうだろうな。つい先日、俺の部屋に来るイコール俺とヤることとはっきり言ったばかりだ。十夜が警戒するのも無理はない。
「おかしな真似は誓ってしない。信用してくれ」
俺はさらりと嘘をついた。本当は思いっきりおかしなことをする気満々だった。自分の目的遂行のためなら、十夜に嘘をつくことなど御茶の子さいさいである。
少々予定していた日付より早いが、俺は今日、十夜のバックバージンを頂くつもりだった。想像でしか知らないが、おそらく清楚で可憐かと思われる十夜の花園に俺は思いっきり醜い欲望の証を突き立て、めちゃめちゃのぐちゃぐちゃにしてやろうと企んでいた。俺の赤黒いグロテスクな性器が十夜の清純な体を貫くさまは、さぞかし愉しい光景だろう。俺的に。
「あ。……うん」
一度は頷いた十夜だったが、すぐに首を勢いよく横に振って、今日、俺の部屋に来られないと言った。
……もしや……俺の下心がバレた? 顔には出していないつもりだが、体の中に目いっぱい詰まっている欲望の渦が、表層にも滲み出てしまったのだろうか?
俺は内心でぎくりとした。
「ごめん、忘れてたけど、俺、今日は用があったんだった!」
「そうか……。分かった」
「ほんとごめん。じゃあねまたね!!」
十夜は俺から脱兎のごとく逃げ出した。
そして翌日、恐れていたとおり、俺は十夜から別れを告げられた。
「萩原、別れよう。今から俺たちはただのクラスメートだ」
覚悟をしていたとはいえ、十夜から二度目の別れを切り出され、俺は血の気が引く思いをした。頭がぐらぐらする。その場に立っていられることが不思議だった。
悩みぬいて出した結論なのだろう。
気分が悪いと十夜は朝から保健室にいたが、赤い目を見れば、十夜が放課後まで泣き続けていたのは明らかだった。これは十夜が泣きながら真剣に考えた結果なのだ。
泣き濡れた瞳が儚げで可哀相で俺はすぐさま十夜を抱きしめたかったが、たった今その資格を失ったかと思うと胸が苦しかった。
クラスメートに戻ろうと言われてしまった。俺はもう十夜の恋人ではないのだ。
十夜の表情からは、簡単に意見を覆す気がないことが見て取れた。
「……分かった」
俺は十夜の言葉を素直に聞き入れた……フリをした。
今の十夜に何を言っても無駄だ。
だから俺は一時退却することにした。
「十夜、すまなかったな……」
こんなジコチューな男につき合わせて。
そしてすまない。
俺はこれっぽっちもお前と別れる気なんてないんだ。
……今日のところは退いてやる。だが、このままですむと思うなよ?
内心で悪役のようなセリフを呟き、俺は十夜を置いて保健室から立ち去ったのだった。

 
 
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