【悪魔と愛犬 -15-】
 
「…………?」
ぼんやりと目を開けると、今度はベッドの上ではなく、湯の中にいた。
「あ……おふろ……?」
「お前ね、体力なさすぎ。俺、一回しかイってないぜ? 一人だけ満足して気ぃ失いやがって」
「あっ。えっ。ご、ごめんなさいっ」
匡の不満げな言葉に、和己は完全に目を覚ました。
高級旅館の大浴場のように広い湯船の中で、和己は匡に背後から抱きしめられていた。匡は愛しくてたまらないとでもいうように、和己の頬にキスをした。
「ま、カワイイから許すけど。初心者だしな」
匡は今まで見たことがないほど上機嫌だった。匡の機嫌がよいのが自分と結ばれたからだとしたら……とても嬉しい。
大好きな人に抱きしめられて、信じられないほど幸せだ。
「あんっ」
乳首を指でこりこりと弄られ、思わず声が漏れた。
自分のものとは思えない甘ったるい声に、和己は口を押さえて頬を染めた。
匡は恥らう和己の姿に満足げに笑い、右手で胸の突起を刺激しつつ、左手で和己の後ろに触れ、そして長く形のよい指を躊躇いもなく突き入れた。
さきほどまで匡の大きなモノを咥えていたソコは柔らかく解れ、なんなく匡の指を受け入れた。
「はぅっんっ……」
正確に感じるところをつつかれて、和己は腰を揺らしてしまった。お湯の中で和己のアレも、ピンと立ち上がって天を仰いでいる。匡に開発された体は快感を覚え、もっと大きなモノが欲しいと貪欲に穴をひくつかせた。たった一度、男を受け入れただけなのに、和己は匡が欲しくてたまらなかった。再び熱い欲望で貫かれたい。
「へぇ。まだまだイけそうだな」
「あっ……こ、こんなとこで……だ、誰か、きたら……」
匡の行為を拒む気はなくても、ここで続けるのにはためらいがあった。和己は泣きそうな顔で匡を見上げた。
「誰もこねぇよ。俺の私室だし?」
「…………え?」
…………??
最初聞いたとき、和己は意味がよく飲み込めず、首を傾げてしまった。
…………私室?
……………………。
……………………!
「し、私室っ!?」
「そ。私室。王城の中だから、あんまり広くないけどな。ここより別宅のほうが広いぜ?」
「べ、別宅っ!!??」
……………………っ!!!
……なんだかとても怖いことを聞いた気がするっ!
「……………………匡って………………何者…………なの?」
和己はおそるおそる尋ねた。
聞くのが怖いけど、聞かずにはいられなかった。
「あー。俺ぇ? 皇子様、みたいなぁ?」
「お、皇子様っ」
和己は半泣きになった。
身分が不釣合いだとか分不相応だとか、そんな言葉が頭をぐるぐると回る。
「将来は、王様、みたいなぁ?」
「王様っ!!」
匡の手の中で刺激を加えられていた和己のモノは、すっかり柔らかくなってしまった。丁寧に擦られても反応せず、うなだれたままだ。
それだけ匡の言葉は衝撃だった。
「玉の輿ってやつだね? 良かったなぁ、和己。恋人が皇子様だなんて、乙女の夢だよな?」
和己の心中なんて、分かりすぎるほど分かっているくせに、匡はにやにやと笑いながら言った。
和己は気が遠くなりそうだった。
……皇子だなんて、聞いてないよ……。
初めて知らされた恐るべき事実に、和己の目に涙が浮かんだ。
「おやおや、そんな顔をして。お姫様はご不満ですか?」
匡は意地悪な口調で言いながら、和己の頬を軽くつねった。
どうやら和己の反応が、お気に召さなかったらしい。けれど、「わぁー。皇子様だなんてステキー」なんてことが言えるほど、和己の度胸は据わっていない。
明かされた匡の身分にただ戸惑うばかりだ。
「俺に抱かれたことを後悔してる? シンデレラになりたくないってか?」
「後悔することなんて、絶対、ない!」
和己は瞬時に言い返した。
思いがけず強い口調になってしまい、和己は自分で驚いた。
匡も驚いた顔で和己を見つめている。
……匡は、知らないから。
どれほどこの腕に抱かれたかったか。
どれほどその指先で、唇で、触れてもらいたかったか。
どれほど傍にいたかったか。
どれほど匡のことを愛しているのか。
「俺は、匡の傍にいられるなら、匡が何者でも構わない。後悔なんて、絶対にしないから」
匡は驚き、そして和己を強く抱きしめ、爆笑した。
「お前、ほんとイイわ。惚れ直した」
「えっ」
惚れ直したと言う匡の言葉に、和己は顔を赤くした。
……惚れ直したって言われた……。
……どうしよう。すごく嬉しい……。
「カワイイ奴め」
和己を向き合った格好で匡の上に座らせ、匡は和己の唇を何度も啄ばんだ。後ろに匡の昂ぶりがあたっているのを感じ、和己のモノもつられて固く張り詰めていく。匡は和己の中心に指を絡めながら、ゆっくりと貫いていった。和己は自分の体重で、ずぶずぶと沈みこみ、奥まで匡を受け入れた。
「ああっ……!」
ぎっちりと匡を銜え込み、すごい圧迫感で苦しかったが、それよりも満たされているという気持ちが大きかった。
匡が和己の腰をつかんでゆらゆらと揺らし、探るように匡に中を掻き回されると、違和感は薄れていった。そして、好きな人に抱かれているという事実だけで、和己はイってしまいそうになる。
匡は和己のようすを観察していて、和己が強く反応を示した箇所を、先端で執拗に刺激した。
「あんっ……あっ……ああっ……」
2回目だから余裕があるのか、和己をさんざん喘がせながら、匡は果てようとはしなかった。
「ああっ……もう、ダメぇ……」
感じすぎて、加えて湯の中での行為にのぼせてしまい、くったりとした和己は匡の首に腕を回し縋りついた。
そろそろ湯から出るかと匡が言ってすぐ、二人はベッドの上にいた。瞬間移動したらしい。
しかもご丁寧に、体も髪も乾かされていた。
「うわぁっ……」
和己はびっくりして匡に抱きついた。
そんな和己のようすにくすくすと笑いながら、匡は体勢を変え、和己を押し倒した。和己の足を自分の肩にかけ、腰を掴んで前後に動き始める。
「あっ……あっ……」
匡が動くたびに声が漏れた。甘ったるい自分の声が恥ずかしかったけど、抑えようとは思わなかった。匡に全身で、抱かれて嬉しいということを伝えたかった。
「イイ……よぉ……もう……」
「何度でもイけよ。たっぷり愛してやるよ」
イイ処を擦られ和己は先端からとめどなく、とろりとした液を漏らし続けた。後ろは幾度も大量の精を注がれたためぐしょぐしょに濡れ、卑猥に弛み、赤く熟れた内部を晒している。
昨日までは純潔だったソコは、すっかり男を受け入れて喜ぶ淫靡な性器と成り果てていた。
それを恥ずかしいとは思っても、嫌だとは思わなかった。
淫らな体は、匡が作り変えたものだから。
今度は気を失っても匡は手加減せず、動き続けた。イれられたまま意識を飛ばし、目を覚ましたときは別の体位で挿入され、思いっきり奥を突かれていた。
「あんっ……あっ……ああっ……!」
和己はけして覚えのよい生徒ではなかったけど、繰り返し抱かれ、骨の髄まで匡を悦ばせる方法を教え込まれた。
匡は厳しくて容赦なく、そして熱心な教師だった。
「俺の上に乗れよ」
「あっ……や、ヤダ……っ」
匡の上に無理やり跨がされ、自分で腰を動かし匡をイかせなければ和己もイかせてやらないと脅された。逞しい胸に手をつき、腰を振りながら、あまりのいやらしさに気が遠くなりそうだった。けれど自分の体で匡が気持ちよくなれるのなら、それはとても嬉しいことだ。腰がだるくなるまで動き続け、ようやく和己の中で匡の熱い欲望がはじけるのを感じたときには、和己はすっかり疲れてしまって脱力して匡にもたれかかった。
「ま、初めてにしちゃ、上出来」
匡は笑いながら和己のこめかみにキスをした。優しく髪の毛を梳いてくれるから、心地よくて和己はうっとりと目を閉じた。
……いっぱい、えっちしちゃった……。
何度も執拗に求められて体はくたくたなのに、幸せで幸せで、思わず顔が弛む。精液や汗でベトベトで、その感触は不快でもあったけど、同時に匡に抱かれた確かな証のようにも思えて、体を清めるのがもったいないなどと思ってしまう。いつまでもこのままというわけにはいかないけれど。
「けど、お前、体力つけろよ? バテるの早過ぎ」
「うん……。つける……」
「有酸素運動しろよ?」
「ゆうさんそ? うんどう?」
「そ。マラソンとか縄跳びとか、長くゆっくりやるような運動な」
「うん。……分かった」
眠そうな声で返事をし、従順に頷く和己の頭を匡は撫でた。
「キースダリア様。キアセルカ女王陛下がお呼びです」
控えめなノックの音の後に、扉の外から匡を呼ぶ声がした。匡は一瞬、面倒そうな顔をしたが、溜息を一つついてから、ゆっくりと起き上がった。そして和己を軽々と抱き上げ、しっかりした足取りで部屋の奥にあるだだっぴろい浴室へと向かった。さっき、一緒に入ったお風呂だということに気がつく。部屋と繋がっているとは思わなかったので、『私室』だと匡から確かに言われていたものの、和己はまた驚いた。
身分の違いとかそういったもろもろの問題を思い出し落ち込みかけたが、考えないことにした。なにがあろうが匡から離れて生きていくことなどできないのだから。一緒にいられるのならば、その他の事はたいした問題ではないのだ。
匡に抱かれたことで、和己にはささやかながらも、自信のようなものが芽生えてきた。自分が思っていたよりも、匡に愛されているのだという確信。それは和己の自惚れや勘違いではないはずだ。
今度は浴槽には入らず、指一本動かすのも億劫な和己をたっぷりと甘やかし、匡は和己の体を丁寧に隅々まで洗った。中を掻き回され、奥まで洗われたのは恥ずかしかったけど、和己は匡にしがみつき、大人しく従った。優しい指先から愛されていることが実感できて、嬉しかった。匡から示される愛情に気がつくたび、心が満たされる。それが最も『幸せ』だと思える瞬間だった。和己は本当に匡のことが大好きなのだ。その匡が自分を宝物のように扱ってくれるなんて、嬉しすぎておかしくなってしまいそうだ。今までにない二人の間に漂う甘い空気は、気恥ずかしくもあったけど。
匡は自分の身支度はさっさと済ませ、また抱き上げて和己をベッドに横たえた。体を洗っている間に、シーツは取り替えられていた。誰が取り替えたのだろうかと思うと、羞恥で顔が赤くなる。取り替える前のシーツは、二人の放った精液やらなんやらで、ものすごいことになっていた。自分で洗濯するつもりだったのに…………ショックだ。
「じゃ、ちょっと出かけてくるから」
「え……」
一人で置いていかれるのが不安で、和己は匡の顔を見上げた。
「たまには真面目に『仕事』もしないとな。奥さんは体力温存しながら、『夫』の帰りを待ってなさいネ」
……奥さん……。
……『夫』。
ただの言葉遊びだと知りながら、『奥さん』と言われて和己は舞い上がってしまった。
匡の『恋人』とか『奥さん』とか。絶対になれるはずがないと最初から諦めていて、なりたいと考えることすら、おこがましいと思っていたぐらいだったから。
自分には、けして手にいれることのできない人だと思っていたから……。
「匡、大好き。……早く帰ってこないかな……」
和己は目を閉じた。体は疲れていたが、目が冴えていてなかなか寝付けなかった。匡と直前までしていたことを思い返し、和己は頬を緩めた。なんだかもう……すごく、幸せすぎて、夢みたいだ。頬をつねり、その痛みで夢でないことを知り、思わずへらへらと笑ってしまった。
……スゴイ。この体で……匡に抱かれたんだ……。
匡に愛されたこの体が、愛しくて、誇らしい。
もっと綺麗だったら。
もっと可愛かったら。
もっと賢かったら。
匡に振り向いてもらえるんじゃないかって、今までずっと劣等感を持ち続けていたけれど。
匡が、このままの自分を、愛してくれたから。匡の想いを信じられるまで、何度も何度も、和己を求めてくれたから。
だから、もう、和己が劣等感に苛まれることはないだろう。
大切な人が好きになってくれた、大切な自分なのだから。



「キースダリア様……。あの……差し出がましい口をきくようですが……よろしいのでしょうか?」
「なんだ?」
「……正妃であらせられるお方です。しかるべき部屋をご用意したほうがよろしいのではないかと……」
「いらない、いらない。アイツはあの部屋でいーの。あの部屋で、俺の帰りだけ、大人しく待ってればいーの」
処理中の書類から、顔も上げずにキースダリアはあっさりと、シアの意見を却下した。
「はぁ……」
しかし、あれでは、囚人のようではないかとシアは思った。
和己に与えられた部屋は、もともとは大罪を犯した貴人を幽閉するためのものだった。さすがにそのまま使えないので手を加え、設備は整っているし、つくりは悪くないものの、部屋は高い塔の最上部にあり、著しく外との接触は隔てられていてた。人が訪れることはほとんどない。そして、和己があの部屋から出ることも滅多になかった。
和己が『人』でなくなってから、あちらの歳月で言えば100年が過ぎた。引継ぎを済ませてキースダリアが『皇子』から『王』になったのが、10年前のことだ。
この100年の間、和己が部屋から出たのはほんの数回。
キアセルカ女王に挨拶をしに行ったとき。キースダリアと和己本人の結婚の儀。そして、キースダリアの即位の儀。
あとは公式の場で、王妃の出席が求められたときぐらいだ。しかも、そのさいもキースダリアは和己をさっさと自室に引き上げさせていたし、ほとんどの行事は「妃の体調不良」という理由でキースダリアだけの出席で済ませていた。シアとバルヌスの結婚の儀のときですら、ほんの短い間、キースダリアの隣の席にいただけで、気がつけばいなくなっていた。
おかげで王妃は「病弱」とか「王に疎んじられている」とか、正解とは言えない噂が飛び交っている。
しかしシアは、キースダリアが和己を表に出さそうとしない本当の理由を知っている。まず一つは、和己の安全のため。元々はただの人間なので、和己は魔力がなかった。
即位したばかりで完全には宮廷を掌握しきれていないため、キースダリアは政敵に狙われることを危惧していた。母であるキアセルカは、退位したとはいえその力は衰えていない。キースダリア自身も、母親譲りの強い魔力を宿し、その力の使い方を誰よりも知り尽くしていた。そうすると必然的に、敵は一番の弱点である和己を狙うようになる。そのためキースダリアは徹底的に和己から危険を排除するため、「極力露出を避ける」という方法をとった。部屋に強固な結界を張り、和己を守っていた。
権力を求める野心家たちは、キースダリアを害して自らが王になろうとするもののほか、王妃を殺してから自分の娘を近づけて、あわよくば王と親戚関係になろうとするものなど、その思惑はさまざまだ。だが、いずれの場合も、まずは和己の存在に目をつけ利用しようとすることは間違いない。
そしてもう一つの理由が、和己を自分以外の者と接触させないため。シアやバルヌスが和己に近づくことさえ、不快なのだそうだ。わずかも和己の関心が自分以外の者に移ることを、キースダリアは許さなかった。
あれほど誰にも、なんににも執着しなかったのに、和己に対してだけはすさまじいほどの独占欲を見せる。
ずいぶんな変わりようだ。
「シア、今日はもう、急いで処理しなければならない書類はなかったな?」
「あ、はい。……続きは明日で、問題ないかと……」
シアはスケジュールを確認し、決済待ちの書類に軽く目を通しながら答えた。
「そ。じゃあ、続きは明日ってことで」
キースダリアは心なしか嬉しそうに、机の上を片付け始めた。その姿を眺めながら、新婚家庭の夫のようだとシアは思った。過去の己の主の所業を知るがゆえに、このようなキースダリアの姿に、シアは100年経っても違和感を拭えない。
真面目に働き、浮気一つしない。まさかキースダリアがここまで『良き夫』になれるなんて、到底想像できはしなかったし、しようとすら思わなかった。
「結婚して扶養家族もできたことだし、真面目に働かないとな」と嘯き、その言葉に偽りなく王としての責務を果たそうとするキースダリアの行動は、意外の一言に尽きる。
自由気ままに生きてきたのに、キースダリアは和己のために、玉座に縛られることを受け入れたのだ。
あちらの世界から戻ってすぐ、キースダリアはキアセルカより王として必要な知識を吸収し始めた。今まで好き勝手過ごしてきた時間を埋め合わせるように、キースダリアは地道な努力を重ね、力をつけ、自分の地位を確立していった。
二人が晴れて夫婦になった後も忙しく過ごし、和己の待つ部屋に戻るのも10日に一度程度で、残りは偵察に回っているか、政務室に泊まりこみ業務をこなすことも少なくなかった。
そしてそれは、王位に就いてからも続いている。人々から寄せられる要望に目を通し、山のような事案の一つ一つ細部まで読みこなし、迅速に決断を下し決済、否決済に割り振っていく。ときには的確なアドバイスを加え、事案を提案した本人に戻すこともあった。その場合、大抵は、キースダリアの多岐に渡る分野への造詣の深さに感動し、羨望の念を抱くようになるのだ。こちらの世界に戻ったばかりのころは、キアセルカの息子と言うだけで王位を継ぐ権利を易々と得たキースダリアに、敵意を向けるものも多かった。王城に寄ることもほとんどなく、国の行事に積極的に参加せず、他者との交流の持つことのなかった得体の知れない皇子に、王座は任せられないと。
だが、キースダリアは自らの能力を示すことで、支持者を増やしていった。人望という点ではいまだキアセルカが勝るが、政治的手腕はキースダリアが上とみる者も少なくない。
キアセルカからも「お蔭様で、安心して引退できる」とお墨付きを得ている。自国の民に愛情を惜しみなく注いできたキアセルカが、王位を任せられると断じたのだ。それに間違いはないだろう。
ただし剣の腕前はまだ合格点とはいかないようで、忙しい合間を縫い、キアセルカの指導を受け、体術を学んでいるようだった。
「備えあれば、憂いなしってな」
「グレス=ファディル様に適わなかったことが、悔しかったのですか?」
すぐに笑顔で殴られた。
図星だったらしい。
シアは目に涙を浮かべ、殴られた頭を抑えながら、失言を悔やんだ。
あちらの世界では、力が著しく制限された。そのため、常ならばしなくて良い苦労をさせられた。そのさい、自分より遥かに武に秀で、やすやすと敵をねじ伏せたグレス=ファディルに何度も助けられ、複雑な気持ちだったのだろう。
「じゃあな。シア」
「おやすみなさいませ」
軽快な足取りでキースダリアが部屋を出たすぐ後、バルヌスが顔を出した。
「おい……。今日のキースダリア様は、本当に機嫌が良いのか? 上機嫌に見えたのだが……」
「ええ、大丈夫です。今日は本当に機嫌が良いです。仕事が一段落ついて、久々に和己様の部屋に寄ることができるので」
「……そうか」
バルヌスはほっとしたように息を吐いた。
今ではキースダリアの右腕としての地位を確実にしているバルヌスだが、いまだにキースダリアの『裏の表情』を察する域にまでは達していないようだ。それも無理はないことで、キースダリアのポーカーフェイスは完璧だ。キースダリアが微笑んでいれば、誰もがそれを「機嫌が良い」と判断した。
しかし、付き合いが長いためか、シアはキースダリアの感情を理解することができた。
キースダリアは、顔は笑っていても、「究極に不機嫌」であることが多々あるのだ。
「シア、今日はもういいのか?」
「ええ。少々、明日のための準備が残っていますが。すぐに終わらせます」
「そうか」
シアの言葉に、バルヌスは心底嬉しそうな笑顔を見せた。
キースダリアの秘書同然のシアは、キースダリアが忙しいと、必然的にシアの仕事量も増える。そのため、バルヌスとゆっくり話すのも久しぶりだった。
「シア」
誘うように名を呼ばれ、素直にバルヌスの傍に近づくと、ぎゅっと抱きしめられた。シアも愛しい人の背に手を回し、しっかりと抱き返した。
逞しい腕に抱かれていると、自然と安心感と幸福感が湧き上がってくる。
変わったのは、キースダリアだけではない。
かつて、己の命よりも大切な存在を失った。
妹は無残にその命を散らされ、妹をたった一人で逝かせたことを、ずっと悔やんできた。
その損失の痛みは癒えることなく、おそらく死ぬまで、この傷を抱えていくことになるのだろう。それでも、その傷ごと包み込み、愛してくれる人がいるのだから、自分は幸福だ。
キアセルカから体術の指南をバルヌスもキースダリアとともに受けていた。上流階級らしく強い魔力を身に備えていたバルヌスは、己の才能に奢れることなく、地道に自分の才を磨き続けた。そしてその努力は、キースダリアの側近という地位を手に入れても続けていた。
「絶対にお前より先に死なないから、心配するな。今よりも強くなってやる」と真剣な顔で告げるバルヌスに、シアは少しだけ泣いてしまった。嬉しくて。
バルヌスはシアの傷を理解し、守ろうとしてくれている。
自分のために、さらに強くなろうとする男が、愛しくてたまらない。
「愛しています」
「ああ。俺も、シアを、愛している」
バルヌスは目に優しい光を湛え、シアの唇に唇を重ねた。
シアは目を閉じて、その甘い感触を受け止めたのだった。
 
 
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