【悪魔と愛犬 -11-】
 
「キースダリア様。このたびは私の浅慮から、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
スィリナは跪き、魔界の皇子に頭を下げた。焦っていたとはいえ自分らしくなく、今回の計画はあまりにも杜撰だった。己の非を認めざるを得ない。
危うくこの世で一番大切な人を失うところだった。
「今回は不問に処す。……二度目は許さないけどな」
さすがは魔王の跡を継ぐ方。
ただそこに立っているだけで威圧感がある。現在は『人の身』であらせられるから、その強大な魔力をほとんど封じられているというのに、それでもなおその存在感は薄れていない。
スィリナは再度、深々と頭を下げた。
自分の娘の部屋に魔界の嫡子が訪れていると知れば、父のガダンは大喜びするだろう。もっともその会話の内容といえば、色恋を挟む余地などなく、父が望むこととは程遠かったが。
「それにしても、なぜお分かりになったのですか? 私が、正気であると……」
演技は完璧だったはずだ。
カーシュラも兄もまったく気がつかなかった。
医者でさえも、欺いたというのに。
……どうしてこの方は、すぐに気がついたのだろう?
魔界の皇子は空を駆け、部屋の窓から訪れた。当然、非公式の訪問である。
正面から訪れようものなら、父のガダンは歓迎の宴を開き、娘を精一杯着飾らせるぐらいのことはやってのけるに違いない。
ようするに、面倒なのである。
そのため皇子は人目に触れないように、やってきたのだ。
周到に声が漏れないように部屋に巧妙な結界を張ってから、狂気を装う必要はないと皇子はおっしゃった。
皇子の前これ以上演技を続けることは無駄と悟り、スィリナはベッドから降り、膝を折った。
「お前の兄が、謀(はかりごと)が得意な性格だとは到底思えなくてな。力が弱いわけではないが、性格はバカ正直すぎるっつーか、大バカだな。しかも鈍い。それなのに他の兄弟を出し抜き、ガダン王の嫡子の座を手に入れることができたのはなぜだ?」
「お兄様は努力家ですから……」
「努力……ね。まあ確かに、それもあるかもしれないな」
「………………」
皇子は意味ありげな視線を向けてきた。
この皇子は本当になにもかも、お見通しのようだ。
スィリナは溜息をついた。隠し事をしても意味はない。余計、心象を悪くするだけだ。
「……おっしゃるとおり、お兄様は謀には向かない性格かもしれませんわ。けれど私は、そんなお兄様のまっすぐな気性を、とても愛しておりますの」
暗に兄であるバルヌスを跡継ぎにするために、陰で画策していたのは自分であると、スィリナは皇子に告げた。
女であるスィリナは、最初から跡継ぎ争いからは外れていた。敵視されることもない代わりに、スィリナに関心を寄せるものはいなかった。
兄である、バルヌスを除いて。
母はスィリナを産んですぐ亡くなった。だから母の腕に抱かれた記憶はない。スィリナに肉親の情を教えてくれたのは、兄のバルヌスだけだった。
他の兄弟は赤の他人同然だった。
父もスィリナに利用価値があると知るまでは、見向きもしなかった。
兄だけがずっと傍にいてくれた。慈しんでくれた。
だから全力で愛した。守りたいと思った。
兄が跡を継ぐことを望んだから、自分も出来る限りのことをしたかった。己の本性を知られたくなくて、兄に分からないようにと細心の注意を払いながら、罠を仕掛けて他の兄弟たちを順に引き摺り下ろした。兄を騙し嵌めようとした末の弟には、倍返しして自殺寸前まで追い詰めた。
良心の呵責など感じたことはない。
自分にとって身内と呼べるのはバルヌスだけだ。他の兄弟は、ただの『敵』だ。
兄の欲目かバルヌスは自分のことを、儚く美しい、繊細なガラス細工の彫刻のようだと評していたが、とんでもない。もし自分が兄の思うような「妹」だったら、今頃兄は罠にかけられ、命を落としていただろう。
もっとも、兄の中では「可愛い妹」でありたいがため、誤解を正す気などなかった。総てを知ったあとも兄はきっと変わらず愛情を注いでくれるだろう。しかし、自分のために手を汚した妹を想い、哀しむに違いない。
「なるほど。それで俺との結婚話をお流れにするために、芝居を打ったわけか」
「……申し訳ございません」
一を知って百を知る。
皇子は恐ろしく頭の切れる方だ。
ガダンはバルヌスに後を継がせると宣言したが、それを不満に思う兄弟は、いまだにバルヌスの命を狙っていた。バルヌスが死ねば自分にも王になれるチャンスがあると思ったのだろう。スィリナは兄を守るため、兄の傍を離れたくはなかった。
しかし本人の意思とは裏腹に、父はスィリナを皇子に嫁がせようとした。自分の勢力を強めるために。熱心に結婚を勧める父の姿に焦り、カーシュラの術にかかったふりをして、スィリナは狂人を装ったのだ。
カーシュラから手渡された飲み物の匂いを嗅いだだけで、薬が混ぜられていることは分かった。実際は飲み物に口をつけたりはしなかったが、薬を飲んだとカーシュラが信じ込むように、気絶したフリをした。カーシュラはスィリナが意識を失ったままと信じて術をかけた。だが、意識を保った状態でスィリナがカーシュラの術にかかるはずがない。カーシュラとスィリナでは、スィリナのほうが力が上だからだ。
それにしても、皇子の心のうちを知っていたら、無駄な演技などする必要はなかった。いかに父であるガダンが乗り気でも、皇子にその気がなければこの話は実現しなかっただろう。こうして言葉を交わしてみれば、皇子が一筋縄ではいかない性格だということが分かる。父のガダンが太刀打ちできる相手ではない。皇子は滅多に王宮を訪れなかったから、社交の場でも皇子と顔を合わせることはなく、今まで人となりを知る機会はなかった。情報の少なさから、見誤った。
そして今回の件で、もう一つ計算違いだったのは、兄の自分への愛情の深さだ。
カーシュラの術に嵌まり騙されていたとはいえ、兄は自分が皇子に傷つけられたと信じ、己の身分もなにもかも捨てる覚悟で皇子に刃を向けたのだ。そこまで兄を追い詰めてしまったことについて悔やむ気持ちはある。ずいぶんな稚拙な手段をとってしまったと、自分の愚かさに我ながら呆れるばかりだ。皇子の気持ち一つで、兄を失っていたかもしれない。兄の命がいかに危うい状況であったかを思うと、血の気の引く思いがした。
しかし、同時に嬉しいとも思う。兄は自分の命を顧みず、スィリナの名誉を守ろうとしてくれたのだ。兄への愛しさは一層募る。
改めて、兄を傍で支え続けたいと思った。
未来の魔王を手にかけようとしたことは、本来なら処刑されても仕方がないほどの大罪だ。だが、皇子は兄を許し、それどころか側近として取り立ててくれた。感謝の念は尽きない。
「皇子、兄へのご厚情、心から感謝します」
「いや。……あんたを敵に回したら、めんどーそうだったからな」
皇子はにっこりと笑いながら言った。
皇子の言う通り、もし皇子が兄を殺していたら、確かに自分は復讐しようとしただろう。けれど自分程度の力では、皇子に叶わないことも分かっていた。面倒とは言っても、皇子にとっては蝿を追い払う程度のことだ。
「それに、俺の無能な部下が、あんたの兄に惚れちまってな。ただでさえ行き遅れてるっつーのに、邪魔したら可哀想だろ? 二度と相手が現れないかもしれないしな」
「……惚れてる?」
「バルヌスの野郎も、まんざらじゃないみたいだしなぁ。いやぁ、良かった良かった」
「……お兄様が……?」
「おっと。大好きなお兄様を盗られて悔しいからって、俺の部下をいじめるなよ?」
「……いやですわ。いじめるだなんて……」
もちろんいじめるに決まっているじゃないですか。お兄様にふさわしくない相手なら……という言葉を、スィリナはなんとか封じ込めた。顔だけは微笑みつつも、内心は物騒なことを考えていた。
しかし皇子には心の声が聞こえていたらしい。鼻先で笑われた。
「ふふん。ところで、急に皇子の側近に抜擢されたと知ったら、周囲の人々から、相当妬まれると思わないか?」
「ええ。……確かにそうですわね……」
どこにでも他人の成功を妬む輩はいる。
自分は努力せずに、他人を引き釣り降ろすことで自分の価値が上がると信じている、愚か者が。
「いろんな姑息なヤツらが僻んで引きずり落とそうとするだろうけど、バルヌスくん、ころっとひっかかっちゃいそうだよね〜」
……確かに。兄の性格なら、簡単にひっかかる……。
スィリナは心の中で素直に認めた。
だからこそ兄の傍を離れられないと思ったのだ。
「スィリナちゃんは、バルヌスくんのことが気になるようだね? ……俺の下で働けば、バルヌスの傍に居られるうえに、お兄ちゃんの『相手』をじっくり観察できるぜ?」
「……え?」
「スカウトしてるつもりなんだけど。どう?」
「………」
「交換条件ってわけじゃないけどさぁ。お兄ちゃんには今回の真相、内緒にしておいてあげるしぃ?」
皇子は満面の笑顔で言った。
これは紛れもない脅迫であるとスィリナは気がついた。
兄には知られたくない。
だから……要求を呑むしかない。拒否権などないのだ。
「……精一杯、お仕えさせていただきます」
「よかった。アホな子ばっかだからさ。一人ぐらい腹黒い部下が欲しかったのさ。あとから正式に任命すっから、断るなよ?」
「……御意」
なにげにひどいことを言われたような気もするが、気にしないことにする。
それに兄のことが心配だったので、兄とともに仕えることができるというのなら、願ったり叶ったりだ。
この皇子に仕えるのも、面白そうだし。
「心からの忠誠を、誓います」
もともと断られるとは思っていなかったのだろう。
皇子は当たり前の顔をして頷いた。
「んじゃ。バルヌスには、妹の術は解いてやった……っていっておいてやるよ」
「ありがとうございます」
至れり尽くせり。
これで今日から狂人のふりはせずにすむし、皇子の直属として兄妹ともども仕えると知れば、父のバルヌスも満足するだろう。
「……恐れながら皇子。カーシュラのことですが……」
「なんだ? 自分を裏切り、罠にかけたカーシュラに復讐でもしたいか?」
「いえ。……彼女の身柄、私に預けてはいただけませんか?」
カーシュラは皇子に懸想し、皇子のもっとも大切な存在に手をかけようとした。そのことについて皇子がまだ腹を立てているというのなら、諦めるしかないだろう。しかしできれば、カーシュラを保護したいと思っていた。
「理由次第では考えてやらないこともない」
「……皇子の王妃となる希望を失い……実家にもいづらい状況でしょうし……。カーシュラは親友ですから」
カーシュラとスィリナの環境は似ていた。ただカーシュラにはバルヌスのような存在は傍にいなかった。カーシュラは誰にも顧みられることのなかった、孤独な子供だった。愛情を得たいと足掻き、彼女は王妃の座を射止めることで、両親に己を知らしめようとした。カーシュラは自分を現状から救ってくれるはずの皇子に憧れ、焦がれ続けてきた。そしてその強い願いは、彼女の心を少しずつ狂わせ疲労させていった。
己の娘が皇子の不興をかったと知れば、ティス王はカーシュラを王家へのご機嫌取りのためだけに、幽閉してしまいかねない。ティス王もまた、父のガダン同様、強い野望を抱く王だった。カーシュラの事情を知るだけに、一度の裏切りで彼女を見捨てる気にはなれない。まだ二人の間に大人の欲望や野望が割り込む前は、カーシュラとは本当の親友だったのだ。少しずつ周囲に流され、彼女の心は離れていってしまったけれど。
「へぇ。親友、ねぇ」
皇子は面白がるような顔で笑った。
「よかろう。しっかり手綱を握っていてくれるのなら、お前にカーシュラを身柄を預けよう」
「ありがとうございます」
スィリナはほっと息を吐いた。
また一つ、皇子へ返さなければならない恩が増えてしまったと思ったが、これから永らく仕えることになるのだ。これから恩返しする機会はいくらでもある。
「じゃ、面倒なヤツに見つかる前に、帰るとするか」
皇子は現れたときと同じぐらいの唐突さで去った。
後に残されたスィリナは、これからなにをすべきかを考える。
皇子が即位すれば、魔界の勢力図は大きく変わる。
魔界の三王と同じ……もしくはそれ以上の要職に、バルヌスとスィリナが就くことになるのだ。最初の頃は、いくつかの混乱が予想される。皇子はそれを収めろと自分に言っているのだ。今のうちから根回しをしておかなければならないだろう。スィリナはこれから自分が会う必要があると思われる面々を思い浮かべた。
……必ず期待に応えてみせますわ。私の王……。
皇子に無能であると思われたくはない。自分の価値を認めさせたい。
これから起こるべき事態に備えて、スィリナは綿密な計画を練り始めた。二度と無様な失敗などしないように。





「頼みがあるんだけど」
頼みがあると言いつつ、目の前に座っている男の態度は、それはもう到底人に頼みごとをするような態度とは思えず、世界……いや、宇宙で一番偉そうだった。ソファーにふんぞり返って行儀悪く、テーブルの上に組んだ足を乗っけていやがる。
つまり……相当機嫌が悪いということだ。
性格も根性の捻じ曲がっていて言動は破壊されていたが、一方で高校は首席で卒業し、日本で最高峰と呼ばれている難関の国立大学に余裕で合格し、イマドキの大学生のイメージを覆すかのように真面目に授業を受け勉学に打ち込み、学校の授業だけでなく日ごろから様々な資格も習得し……。意外なことにこの男、行動はすこぶる真面目だった。
親友の恋人であり、天界では四王の一人でもあるラザスダグラがまとうような華やかな気品とは異なるが、この男には常に凛とした気品があり、どこにいても周囲に埋没するということはなかった。
……あー。それはあの人とかあの子とかあいつとかにも言えることか。俺の周り、目立つヒト、多いよね〜……。
少々思考は脱線したが、とにかくこの男は性格に難アリでも、一応は優等生と呼ばれる存在なのだ。よって日ごろはテーブルの上に足を乗せることもなければ、紅茶のカップを乱暴にソーサーに置き、音を立てるなんてことは普段ならしない。
「……それが人にものを頼む態度か?」
気がすすまないが、一応、言うだけ言ってみる。
鼻先で笑われた。……やっぱり。
予想通りの反応だったけど、ムカつく。
「近々、魔界に帰ることになった」
「……え?」
目の前の男……匡の言葉に、紗那は驚いて顔を上げた。
匡の正体は知っている。リューザ=リカオ=キースダリア。魔王の後継者だ。それゆえ、いずれは本来の場所へと帰らなければならないことは分かっていた。それは父である誠司……グレス=ファディルも同じだからだ。
だが、まだ先のことだと思っていた。
もし匡が魔界に帰ったら、おそらく二度と紗那と会うことはないだろう。紗那もいずれは誠司とともに、天に帰る存在だ。魔界と天界とでは、容易に行き来することはできない。
「……あ。そ、そうなんだ・・・・・」
紗那は動揺している自分に驚いた。
しかも、どうやら自分は寂しいと思っているらしい。
……マジかよ……。俺、結構、この捻くれ者を気に入っているってか? げぇー。我ながら趣味悪いぜ……。
「寂しいか?」
分かっているくせに、わざわざ訊いてくる。
ほんとーにこいつは性格が悪い。
「べぇっつに〜っ」
強がって答えたら、笑われた。
見透かされている。どうにも分が悪い。
紗那の悔しがる顔を見て、匡は少々気分を浮上させたようだ。
「……で、頼みごとってなんだよ?」
自分のペースが完全に崩される前に、紗那は話題を引き戻した。これ以上、匡に八つ当たられるのはごめんだった。
「俺があっちに還った後、あいつを守って欲しい」
「……あいつって……」
……まさか……。
紗那はまじまじと、匡の顔を見つめてしまった。
「解放してやれといったのは、お前だろう?」
皮肉げな口調。
匡は唇を笑みの形にしていたが、けれど眼だけは冷ややかだった。
どうやら匡は、和己をあちらの世界へ連れて行く気はないらしい。
永遠の別れを覚悟しているのだ。
いったい心の中で、どのような葛藤があったのか。
……ああ、そうか。
匡は不機嫌なのではなく、落ち込んでいるのだ。ポーカーフェイスが繕えないほど、海よりも深く果てしなく。
このひねくれ者は、素直にへこんでいる顔など見せはしないが。
……分かりづらい。
幼少の頃から思い返してみても、匡がここまで己の感情を露にすることはなかった。常に口元に余裕の笑みを浮かべ、観察するような眼差しで周囲を眺めていた。匡にとってこの世界の人々は、ガラスケースに入れられたペットのようなものなのだろう。触れ合うことなどせず、ただ愛でるだけ。
だが、その匡が、和己にだけは自分に触れることを許した。
傍にあることを望んだ。
それほどの『特別』。
和己だけが、匡の中を揺り動かせる。
けれど匡は、和己を手放そうとしている。
おそらく……和己のために。
この我侭な男が。
誰よりも身勝手な男が。
自分の望みを叶えるよりも、和己の幸せを優先させている。
それほど愛しているのだ。
大切に想っているのだ。
その大切な宝を、匡は紗那に托そうとしている。それほど匡は自分のことを信頼してくれているのだと思うと、嬉しいような恐れ多いような気がする。
だが、その信頼には、応えたいと心底思う。
「……了解。頼まれてやるよ」
紗那の答えに、匡は少しだけほっとしたような息を吐いた。
その表情が珍しくて思わず凝視してしまう。
「約束する。絶対に、守るよ」
紗那が断言すると、匡は微笑んだ。
それはいつものような何か裏があるような微笑ではなく、本心からのものだった。
不覚にもその表情に、紗那は見惚れた。
そして匡がどれほどの深い愛情で和己を想っているのか分かってしまい、せつなくなった。
和己もまた、匡のことを一途に慕っていることを知っている。言葉にこそしなくても匡と違って素直な和己は、匡への想いをその目で雄弁に語る。
どうしてこれほど想い合っている二人が幸せになれないのだろう。
一緒にいられないのだろう。
けれど、和己と離れることを決めた匡の気持ちも理解できてしまい、何も言えなかった。自分に出来ることはせいぜい、匡の代わりに和己を見守ることだけだ。
「ありがとう」
匡は小さな声で、ぽつりと呟くように言った。
それは紛れもなく心からの、匡の礼の言葉だった。

 
 
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