【悪魔と愛犬 -09-】
 
……どうして?
……どうしてあんな子に優しくするの!?
……許せない。
……許せないわ!
当たり前のように、あんな下賎な者を隣にはべらせておくなんて、キースダリアの気が違ったとしか思えない。
……許せない。
早く、殺さなきゃ。
だって、とても邪魔なんだもの。
目障りで仕方がないんだもの……。





「あ、あれ? 匡??」
気が付けば近くに匡の姿が見えない。いつの間にはぐれてしまったのだろう? この自分が匡を見失うなんて、ショックだ。どこにいたって、どんなに人がいたって、探し出せる自信があったのに。
必死で辺りを見渡すが、愛しい人の姿は見つからない。
「匡、どこ行っちゃったの?」
人ごみの中で泣きそうになりながら、和己は匡の存在を追い求めた。
ついさきほどまで楽しい気分だったのに、今は哀しくて寂しくて心細い。匡がそばにいないというだけで、こんなにも辛い。
……匡、どこに行っちゃったの? 俺、どうしよう……。
同じ部屋に住んでいるのだから、先に帰って待っていれば問題ないのだが。けれど和己は、せっかく一緒に買い物に来たのだから、帰るときも二人で帰りたいと思っていた。
和己は焦った。
……早く、見つけなきゃ。
匡は和己ほど熱心に、自分のことを探してはくれないだろう。
和己がはぐれたと知れば、匡はさっさと薄情にも和己を置いて、家に帰ってしまうに違いない。
……やだ。置いていかれたくないよ……。
和己は唇をきゅっと噛み締め、春の風が吹き始めた街中を、最愛のヒトを求めて彷徨ったのだった。





……ニャー……。
小さな猫を抱えた美人に、人々は視線を向けながら立ち去っていく。人形のような整いすぎた美貌の持ち主に、可愛い仔猫という組み合わせは、街を歩く無数の人々の中でも際立っていた。
言わずと知れた、シアとバルヌスだ。
『おい。キースダリアは一体、なにを考えているんだ? 自分が大切にしている存在を、オトリに使うなんて……』
「手っ取り早いし、何より、自信があったのでしょうね。自分がいる限り、けっして和己様には怪我をさせないと」
和己の安否を気遣うバルヌスに、シアは冷ややかに答えた。
『しかし、キースダリアはこの世界では力が制限されるのだぞ? もしもということがあったら……』
「ああ、もう、喧しいヒトですね。そのキースダリア様にコテンパンにやられたのはどなたでしたっけ?」
『…………』
シアのジャックナイフのような一言に、バルヌスは黙り込んだ。
しかし目にははっきりと『不満』という色が浮かんでいた。
「だいたいにして、『もしも』ということがないように、私がこうして守護についているんじゃないですか。いざとなったら自分を盾にしてでも、和己様を守ります。ご心配なく」
匡の姿を探して心細げに辺りを見回す和己から目を離さぬまま、シアはきっぱりと言い切った。
シアの一番の望みは、主の望みを叶えること。
シアにとって一番大切なことは、主の命令を果たすこと。
それ以外のことは、考える必要のないことだ。シアは自分に言い聞かせた。
バルヌスから向けられる視線を感じながら、シアはあえてそれを無視した。しかし、いくら目を背けようとも、自分の中で価値観が変わりつつあることをシアは自覚しないわけにはいかなかった。
自分の変化に恐れおののきながら、シアは思う。
……自分はどこに行きつこうとしているのだろう。
主とともに何百年も、自分の時間を止めて生きてきた。
自分の時間が再び動き始めたとき、一体なにが起こるのだろう。
一瞬、主の妹である紗那の顔が浮かんだ。
……あの方なら、答えを知っているのだろうか。
紗那の前では自分が忘れていた『優しさ』を、思い出せるような気がした。それもまた、『変化』の一つだった・・・・・・。





まず最初に、街の喧騒が止んだことに和己は不審を覚えた。
そして、自分の周囲の人々がピタリと動きを止めてしまっていることに驚いた。あたかも人形のごとく瞬き一つしない人間たちを前に、和己は怯えた。
「……えっ? な、なにコレ……」
和己は口元を両手で押さえ、カタカタと身を振るわせた。叫び声を上げたい気もしたが、我慢した。一度タガが外れたら正気を失ってしまいそうだった。
不気味なほどの静寂の中で、和己だけが動くことを許されていた。
夢、だろうか。
これは夢の世界の出来事なのだろうか。
それにしてはあまりにもリアルで、和己は体の震えを止めることができなかった。
夢であろうが現実であろうが、怖いことには変わりはない。
ふらりと足元がぐらつきバランスを崩して、和己は前に立っていた背の低い若い女性にぶつかりそうになった。だが、和己の体は若い女性をすり抜け、地面に激突してしまった。
「…………え?」
今度は和己は、おそるおそる小太り気味の中年の男性に手を伸ばしてみた。だが、やはり、触れることは出来ない。和己の手は相手の体を突き抜けてしまった。
「……あっ……ああっ……!」
これ以上、耐えられなかった。
和己の中で、必死で保っていたものが、ぷつりと切れた。
「あああああああああああ! うわああああああああああ!」
喉がかれるまで叫んだ。目からは涙をとめどなく流しながら、和己は声を上げ続けた。
しかし全ては非現実な世界の中に、跡形もなく吸い込まれていってしまう。
「うっ……。ううっ……。うっ……。ひっ……ひぃいいっ……」
和己はその場にうずくまり、しゃくりあげながら泣いた。だが、泣いても泣いても、涙は恐怖を洗い流してはくれなかった。
ゆっくりとあたりが暗闇に包まれ、街の光景が消え薄れていく。
気がつけば真っ暗な空間に、和己だけが存在していた。
和己の恐怖心はますます膨れ上がっていった。
……匡、匡、匡、匡、匡! 助けて、匡!!
心の中で、和己は必死に匡の名前を呼んだ。匡がいてくれさえすれば、自分はこの怖さから解放される。匡さえいてくれれば、自分は自分を保つことが出来る。匡がここにいてくれたなら……。
「まあったく、派手なことを仕掛けてくれるぜ」
「…………」
どこか面白がるように言い放ったその声は、和己が今、一番会いたいと願っていた人のものだった。
和己は期待を込めて、伏せていた顔を上げた。
そこにあったのは和己が望んだとおり、匡の端正な顔だった。
「すっげー顔。鼻水と涙でぐちゃぐちゃだぜ」
匡はくくくと喉の奥で笑い、ハンカチで和己の顔を拭った。
……匡だ。良かった。匡がそばにいてくれるなら、もう、安心だ……。
和己は匡の胸にすがりつき、ほっと息を吐いた。
尋常だとは思えない状況にあっても、匡の存在を感じていられるのなら和己は安心できた。
……これって、夢、なのかな?
匡の背に、羽が生えている。黒くて大きな美しい羽が。
……悪魔?
でも、怖くない。例え鬼でも悪魔でも、『匡』が『匡』である限り、和己は少しも怖くない。
……ああ、そうか。やっぱりコレは夢なんだ。だって匡の背中に、羽なんて生えていなかったもの。
これは夢だから、匡の背に羽がある。
和己は微かに笑みを浮かべ、匡にしっかりと抱きついた。
現実だったら、とても恥ずかしくてこんなに大胆な真似なんか出来ないけど。これは夢だから、許される。
匡は和己の頬を両手で包み、そしてそっと唇を重ねてきた。とても夢とは思えぬ生々しい感触に和己は照れながら、匡との口付けに酔った。
……そっか。これ、怖い夢じゃなかったんだ。だってとても幸せな気分……。
しばらくは目を覚ましたくないと和己は思った。ずっとここでこうして匡とともにいたいと和己は思った。
けれどいつか夢は覚める。
寂しくて哀しいことだけど……。
「おやすみ、和己」
……おやすみ?
匡が変なことを言っている。自分は今、眠っているのに。これは夢の中の出来事なのに。
和己はそっと瞼を下ろした。
……夢なのに、なんだか眠い。すごく、眠い……。
瞬時に和己は、深い眠りへと落ちていった。





……眠ったか。
和己の額に匡は柔らかいキスを落とし、そっと和己を地面に横たえた。
「さあて、出て来いよ。覗きなんて、悪趣味だぜ?」
声とともに、暗闇から人影が現れた。
匡の視線の先にいたのは、瞳にはっきりと憎悪の色を浮べた美女だった……。





浅黒い肌、艶やかな長い黒髪に宝石のような蒼い瞳。そして豊満な乳房にほっそりとした腰、すらりとした手足に細い首。完璧なバランスの取れた顔と体。エキゾチックな雰囲気をまとった、美しい女だ。
男なら……一部の例外を除いて……誰でも抱きたくなるような魅力を女は持っていた。甘さと毒を内包し、動作の一つ一つが自分が『女』であることを誇っている。
嫌いなタイプではなかった。だから抱いた。
ベッドの中で、彼女は確かに自分を満足させてくれた。
だが、それだけだ。
一時の肉の快楽。
自分が彼女に求めたのは、それだけだった。
彼女の中で精を吐き出した瞬間に、『キースダリア』の彼女への興味は失せた。
『キースダリア』は男も女も、一度ベッドを共にしたら、それ以降は食指が動かなくなるのが常だった。二度、抱きたいと思う存在はいなかった。
……今までは。
何度抱いても、何度抱き締めても、自分は飽きることなどないだろう。
自分が張った結界の中で、静かな眠りに就いている和己に匡はそっと視線を投げた。
自分の、唯一の、『特別』。
目の前の女はその和己に危害を加えようとした。
和己に憎しみを向ける、危険分子。
だから、容赦はしない。
匡は目に殺意を宿したまま、口元に笑みを浮べたのだった。





……とうとう、始まった。
シアは傍らに立つバルヌスに視線を向けた。
バルヌスは仔猫の姿から、元の姿へと戻されていた。魔力は奪われたままなので、非力さは人間とほとんど変わらない状態だ。だが瞳に宿る力強い光はさすがと言ったところか。
貴族の中の貴族。
誇り高き戦士の一人。
『王』に仕えるべく生まれ育ち、自身も高貴な魂を備えた存在。
本来ならば、自分などそばに近づくことなど許されない存在……。
……今回の敵は『女』だと主は言っていた。昔、自分が捨てた『女』だと……。ひょっとして……。
シアは嫌な予感がした。
やけに、符合が多すぎやしないか?
もしかしたら……今回戦わなくてはいけない相手は、バルヌスの妹なのかもしれない。
……私は、どうすればいいんだ?
どうする?
決まっている。主の命令を遂行するまでだ。
主に仕えることだけが、自分が生きる『意味』だから。
……ああ、けれどなぜ、こんなにも迷うのだろう。
罠に掛かったのがバルヌスの妹だとしたら。
主は、間違いなく、彼女を殺す。
そしてバルヌスは絶対に主を許さない。主に再び楯突き、主に殺される。
二度目はさすがに主も……バルヌスが生き続けることを許しはしないだろう。最も苦しむやり方で、バルヌスを殺すに違いない。
……胸が、痛む。
主が例えバルヌスの命を奪っても、自分の主への忠誠心が揺らぐことはないだろう。
でも、苦しい。
でも、ツライ。
……主に彼が殺されてしまったら、私は哀しい……。
大切な者を亡くすのは、もう、たくさんだ。
あんな哀しい思いを再びしたくはない。
……大切……? バルヌスが、私にとって……?
シアは自分の考えに自分で驚いた。いつのまにこれほど、バルヌスの存在が自分の心を占めるようになったのだろう。いきなり鮮やかになった自分の心に、シアは怯えすら抱いた。
体を重ねたから、心も重ねたいと願うようになったのだろうか。
……違う。そうじゃない。
最初から。
きっと最初から自分は、バルヌスに惹かれていた。
だから抱かれた。
だからバルヌスの前で体を開いた。
『練習台』だなんて、ただの言い訳。自分を憎むバルヌスが愛しいのに憎らしくて、どんな手を使ってでも欲しくて、自分を抱くことを強要した。
本当なら絶対に手に届かないヒトだったから……。
だからこそ、渇望した。
なんて浅ましい、自分の心。
バルヌスにとって、自分は『敵』。心はけっして手に入らない。せめて体だけでも欲しいだなんて、自分の愚かさとプライドの低さに眩暈がしそうだ。
あんな手を使っても、バルヌスはますます自分への憎しみを募らせるだけだというのに。
「なんだ?」
シアの視線に気がつき、バルヌスは怪訝な顔をした。
「……なんでもありません」
必死で平静を装いながら、シアは動揺していた。
……彼を、ここに連れてこなければ良かった。
どうしてバルヌスをこの場に同行させてしまったのだろう。
シアは自分で自分に問いかける。
……主の、命令だったからだ。
……しばらくは手を出さず、バルヌスと二人で成り行きを見ているようにと……。
だが、主の命令に背くことになっても、バルヌスを連れてこなければ良かった。
自分が主の行動を止められない限り、ただバルヌスの死を先延ばしにするだけだということは分かっている。
それでも自分は……。
……だが、遅い。
「なんでもないようには思えないが? 顔色が悪いぞ?」
バルヌスは微かに瞳に気遣わしげな色を浮かべ、シアの顔を覗き込んだ。
……こんなときに、そんなふうに、優しく声を掛けてくるなんて……!
「なんでも、ありません! なんでも……!」
叫んだ拍子に涙がこぼれた。慌てて取り繕う前に、バルヌスに抱き締められた。
バルヌスの温かな腕の中でシアは思った。
……今なら素直に認められる。私は……失くしたくない。
「……約束してください。絶対に、主には逆らわないと。お願いします。キースダリア様に殺されたりはしないと……!」
バルヌスは、シアの言葉に答えなかった。
ただシアを抱き締める腕の力を強くした。
シアがこれほど自分の身を心配してくれるとは思わず、バルヌスは驚いた。そして同時に嬉しく思った。
その自分の気持ちの動きから察するに、自分はシアを……愛しく想っている。
『敵』であるにもかかわらず、シアを守りたい。優しくしたい。
こんな気持ちを抱いたのは、妹以外はシアが初めてだった。
愛している、とは口には出さなかった。
代わりにバルヌスは、シアの唇に優しく唇を重ねた。
おそらく自分は、シアの気持ちには添えないだろう。
もしキースダリアが妹を殺せば、自分はキースダリアへの復讐を企てるだろう。……絶対に敵わないと知りながら。
死は、とうに覚悟している。
だがシアを置いていかなければいけないことが、バルヌスの心残りだった……。





……まったくあいつら、この状況で何をやっているんだか。「見ていろ」と言ったはずだが……?
匡は、現在進行形で自分の腹心の部下が何をやっているのか察し、そっと溜息をついた。
「色気が足りない」と叱咤されたシアは、「色気」でとうとうバルヌスを落としたわけだ。あっぱれというところか。……力ずくでと言えないこともないが。
一応、シアの主人である自分としては、褒めてやらなければなるまい。
もっとも、そう仕向けたのは自分だ。あの二人が互いに恋に落ちることは分かっていた。二人の性格も好みも、十分把握している。だから微塵も驚きはしない。
永遠に自分の気持ちに気がつかない可能性のある鈍感な部下を紗那に接触させたのも、計算のうちだった。
紗那は他人の心を解放させるのが上手い。シアに紗那がどういう影響を与えるか最初から知っていた。
……まあいいさ。
あの二人は、クライマックスに間に合ってくれさえすればいい。
「キースダリア様。お邪魔しないで下さらない? わたくし、その人間に用がありますの」
「んー。って言われても、コレ、俺のペットだし。用って言われても、ねぇ? まずは飼い主を通してもらわなきゃ」
匡はにこにこと笑いながら、『テタニディスの槍』の刃を女のほうへと突き出した。
匡の本気の殺気を感じ、女は眉をひそめた。
「……そう。仕方ありませんわね。どうしても聞き分けてくださらないのなら……少々手荒いことをさせていただきますわ」
女が宙に向かって手を一振りすると、匡の周りに突如、不気味なうなり声を発する異世界の生き物が出現した。ゴリラに似ているが、それよりも犬歯が鋭く、頭には小さな角が生えている。
見覚えのある生き物たちだ。
凶暴な性質の魔界の生物。
これだけの数をいっぺんにこちらの世界に呼び寄せ、従わせているのだから、女もそれ相応の実力者ということになる。それもそのはず、一応は魔界の大貴族の娘だ。ある程度の強い力を持っていても、不思議ではない。
……あ〜あ。ココでこんな風に大暴れされちゃ、この世界の『管理人』が、黙っていないんだけどねぇ?
これは、計算外。
予想以上にこの女はバカだったらしい。
この世界の理を、あまりにもおろそかにし過ぎた。
お陰で早く済みそうだ。『妹』か『父』が、結果的に自分の手助けに来てくれるだろう。
少々物足りない気もしないこともないが、贅沢は言うまい。
匡は自分の足元に横たわる和己を見下ろした。
……万が一ってこともあるからな。さっさとカタを付けるとするか。
冷たい顔で匡は笑った。主の心に呼応するように、『テタニディスの槍』は、蒼くまぶしい光で辺りを照らした。
「しょーがねぇな。遊んでやるか」
襲い掛かってくる敵を切り捨て、即座に次の敵に備える。倒しても倒してもキリがなく、匡はいい加減、うんざりとしていた。羽虫を追い払う感覚に近く、いくら束になったところで脅威など感じはしないが相手をするのは面倒には違いない。
……ま、あと、1分ってとこだな。
これだけ派手にやらかせば、相当目立つに違いない。世界の均衡を保つために『父』が動くことは明白だ。気がつかないほど無能な男ではない。
つくづくこの女がバカで良かった。この世界の『管理人』の存在を計算に入れないとは。
その点、バルヌスは慎重だった。周囲への影響が少なくすむように、辺りに微弱な結界を張り、『場』を違和感なく世界に溶け込ませた。
自分から見れば未熟な点は多いが、魔界においてバルヌスの実力は十指にはいるということは間違いないだろう。将来的には五指に入る実力を身に付けることは容易に想像できる。無論、魔力を奪う前の話だが。
「おやおや。予想以上にお早いお着きで」
目にも留まらぬ速さで、ざくざくと敵が切り倒されている。匡の予想よりも十五秒早く到着したようだ。
「ずいぶんと、人気者だな」
いつぞやの紗那と同じようなセリフを吐いたのは、匡の『父』でありこの世界の『管理者』でもある、天城誠司だった……。
 
 
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