【悪魔と愛犬 -08-】
 
「匡、あのね、最近、お隣で飼っている猫が、よく遊びに来るんだよ〜」
和己はにこにこ笑いながら、ソファーに座って新聞を読んでいる匡に話しかけた。
口は動いていても、和己の手は休むことなく動いている。和己は今、匡のためにコーヒーを淹れている最中だった。
もちろんインスタントなどではなく、それどころか豆で購入して淹れる寸前に挽くというように、惜しみなく手間をかけている。しかも、好きな人においしいコーヒーを飲んで貰いたいという一心で、とうとう和己は匡好みのオリジナルブレンドまで作成してしまった。
お陰で匡には「お前の淹れるコーヒーが一番おいしい」と言って貰えたのだから、和己の努力は無駄にはならなかった。
台所には料理好きの和己のために、一通り料理器具が揃えられている。家族用のマンションなので、調理スペースも申し分のない広さだ。
ここは、和己が、匡に食事や飲み物を用意するための大切な場所。
だから和己は掃除を怠らない。台所はいつでもぴかぴかだ。和己と暮らし始めて以来、匡が台所を使うことはほとんどない。台所での仕事を信頼して任せてくれているのだと思うとちょっと嬉しい。便利に使われているだけって思わなくもないけど、それでも、いい。どんな理由でもいい。匡の役に立てるのなら嬉しい。匡のそばにいられるのなら嬉しい……。
「はい、匡。コーヒー」
コーヒーを淹れ終えた和己は、テーブルの上に静かにコーヒーカップを置いた。匡は礼も言わず、コーヒーを口に含んだ。
「……で、猫が、遊びに来てるって?」
新聞に夢中で、話しかけたものの匡が自分の話をまともに聞いてくれているなんて思わなかったから、和己は喜んだ。にっこり笑って、隣で飼っている猫がいかに可愛いか、和己は熱心に話し始めた。
「でね。最初はすっごく警戒してて、部屋に入ってきても近づいてこなかったんだけどね。昨日は膝の上に乗って眠ってくれたんだよ〜」
「……へえ。膝の上で、ね」
「頭も大人しく撫でられてくれてね。毛がふかふかで、すんごく気持ちイイの〜」
「……へー。良かったね。おめでとー」
「うん! それでね、……匡?」
夢中になって話していた和己は、ようやく匡の機嫌があまりよろしくないことに気がついた。
……え? どうして?
自分が煩くしてしまったせいだろうか? 匡はいつもと同じようにうっすらと口元に笑みを浮べているけれど……。でも、和己には分かった。醸し出すオーラが匡の心情を表していて、なにやら匡は「かなり不機嫌」らしい。
和己にコーヒーを淹れるように頼んだときには機嫌は普通だったから、やはりなにか自分が匡を怒らせるようなことでも言ってしまったのかと和己は不安になった。
だが、いくら思い浮かべても、自分が発した言葉に匡を不機嫌にさせるような要素があったとは思えない。
……なんで? なんで怒ってるの?
……俺のこと……嫌いになったから?
ふと頭を過ぎった考えに、和己は心の臓を冷たくする。手足が震え、眩暈がする。思わず涙を零しそうになり、和己は慌てた。
「ふ……。お前、なんて顔してんの?」
匡は和己の頬を右手で撫で、バカにするような笑みを浮べた。
……良かった。いつもの……匡だ。
自分の頬に当てられた匡の手のぬくもりに、和己はほっと息を吐いた。
「和己」
わずかに熱のはらんだ声で、匡は和己を引き寄せる。もちろん逆らう気などなく、和己は誘われるまま匡の腕の中に納まった。匡の体温に陶然とし、和己は幸せな気持ちで目を閉じる。
……ああ、好きだな……。俺、このヒトが、好きだな……。
胸がきゅーっと締め付けられて、自然と目に涙が滲んできた。
「なんて顔してんの?」
匡は和己の顔を覗き込み、くすりと笑った。
そこには揶揄するような色はなく、今までで一番優しい微笑に見えた。
……好き。匡、好き。
自分の中に、これほどの勇気があったなんて驚きだ。『勇気』というより、『誘われた』という感じではあるけれど。
気がつけば和己は、匡の唇に自分のそれを重ねていた。触れた瞬間、和己ははっと我に返り、慌てて匡から離れようとした。だが、匡は素早く和己の腕を掴み、自分から離れることを許さなかった。空いているほうの手で和己の後頭部を押さえ、今度は匡から和己に触れてきた。
最初は、軽く。
次第に、深く。
「んんっ……」
口中に押し入ってきた熱い塊に、和己は目を見開く。
匡の、舌だ。
匡は和己の舌を絡めとり、呼吸を奪い、丹念に口付けを施した。
「あっ……うんっ……」
キスの合間に、自分の声だとは信じられないほどの甘い声が漏れる。でも、それを恥ずかしいと思う余裕なんてない。情熱的な行為に流される。
ようやく唇を解放されたとき、和己は自力で立っていられなかった。初めてのキスに体は蕩け、待ち望んだキスに心は喜び打ち震える。
「うっ……ううっ……」
嬉しくて嬉しくて、我慢できずに泣いてしまった。
「ほんとにお前は可愛いヤツだよ」
匡は和己を見下ろしながら、囁くような声で言った。
和己は泣き濡れた瞳で匡の顔を見上げた。
どきりとした。
匡のこんな表情、和己は初めて見る。
キスの名残で官能的に濡れた唇を拭わぬまま、匡は哀しそうな表情を浮べていた。
……匡?
一瞬後に匡の顔から、すっかりその表情は消え失せていた。
……気のせい、だったのかな……?
和己がごしごしと手の甲で涙を拭っていると、匡に後頭部をどつかれた。痛くはなかったが、和己はバランスを崩して前に倒れこんだ。
「俺、風呂に入りたいんですけど。準備してきてくんない?」
いつもと同じ尊大な口調で匡は和己に命じた。
……やっぱり、さっきのは気のせいだったんだ。匡は俺と違って強いもの。だから、あんな顔、するはずがないんだ……。
「う、うんっ! ごめん、すぐ支度してくるから!」
和己は慌てて立ち上がり、入浴の準備を整え始めた。





「匡、この前はごっそーさん」
ケーキの礼を言う紗那に、匡は軽く肩をすくめて見せた。
紗那と匡が待ち合わせた場所は、カントリー調の内装をした可愛い雰囲気の喫茶店だ。ケーキがおいしいらしく、店内は甘いお菓子を幸せそうに頬張る女子高生や女子大生で一杯だ。
明らかに自分たちは、この店の中において浮いている存在だと紗那は思った。
だが、紗那も匡もそれほど繊細な性格はしていないので、いたたまれないというほどではない。ただ少し、違和感があるというだけのことで。
紗那よりも先に着いていた匡はすでに飲み物を注文し終え、優雅に紅茶を飲んでいた。匡は紅茶よりもコーヒーのほうが好きだったはずだが、あまり外ではコーヒーを飲まない。その理由を聞いたところ、「和己が淹れたコーヒーより確実にまずいから」だそうだ。
和己は料理が得意で、コーヒーが淹れるのが上手くてもさほど意外でもなく納得できる話ではあるのだが、のろけられているような気持ちになるのは何故だろう。
「……で、ケーキの礼を言うだけのために、紗那ちゃんはお兄様を呼び出したのかな?」
匡は嫌味っぽい口調で言った。顔に浮かんだ皮肉げな笑みはいつも通りだが、目にははっきりと剣呑な色が浮かんでいて紗那はびびった。
……うひゃー。お兄様ってば、不機嫌さMAX!
不機嫌の原因は、間違いなく和己にあるのだろう。具体的に何があったかは、紗那には想像もつかないが。
「あー。えーっと、ケーキっつーか、ケーキを持ってきてくれた美人ちゃんについてのお話ってカンジ?」
匡はバカにしたような視線を紗那に向けた。
……めちゃめちゃムカツク。
果たして、一度でいいから力いっぱい匡を殴りたいと思ってしまうのは、自分が辛抱の足らない人間だからだろうか。
……いや、違う。コイツの性格が果てしなく捻じ曲がっているせいだ。
紗那は自問自答した。
「先日は、俺の部下もお世話になったそうで。ありがとよ」
感謝の心が含まれているとはとても思えない態度で匡は言った。コノヤローと思いつつ、紗那は別にたいしたことはしていないと答えた。
「……でさ、匡、一体お前、何を企んでいるわけ?」
「ナニってナニが?」
分かっているくせにわざわざとぼけるところが、匡ゆえんだ。
……ホントにムカツク。
「シアちゃんと俺を接触させたのは、偶然じゃないだろ? 何も知らされずに踊ってやるのもいいかと思ったけど、ちと、気になってさ」
つまり紗那はシアに対して多分に好意を持ったわけで。そうすると、これから匡がシアをどう扱う気なのかがすごく気になるわけで。
……自分でも、おせっかいだとは思うけどよ。すげぇ、気になるんだよな。
キレイで脆いくせに、自分では少しもそのことに気がついていない。傷だらけになっている自分の心を顧みず、ただ前へと突き進む。
痛々しくて、美しくて、見惚れる。
……ああ、そうか。シアちゃんはちょっとアイツに似てるのか。
自分が誰よりも信頼している友人に、シアはほんの少し似ていた。純粋で繊細で優しい友人は、常に心の片隅に寂しさを住まわせていた。自分ではそれを癒せないことが分かっていたからもどかしかった。
だが、最近では恋人に熱烈に愛を注がれて、哀しみを感じている暇もないようだが……。
友人の幸せを喜びつつ、先を越されたようで寂しい気もしている紗那だった。
「差し出がましいようだけどさ。幸せにしてやってよ。俺はいくらでもお前に利用されてやっからよ」
「お前、ホントおせっかいだな。人の心配ばかりしてると禿げるぞ?」
匡は無表情な顔で紗那の髪をくしゃくしゃと掻き乱した。
「だーっ! 止めんかっ!!」
紗那が激しく抵抗すると、匡はつまらなさそうな顔で紗那を解放した。
「まあったく。にーちゃんは、なんだってんな不機嫌なんだよ!? 悩み事ぐらい聞いてやるから、八つ当たりすんじゃねぇっ!!」
「けっ。ばーか。誰がてめぇなんかに相談するかっつーの」
テーブルの下で、匡は紗那の足をがしがしと蹴った。
……お前は小学生かっ!!??
ダメだ。ただでさえ扱いにくい男が、ますます手におえない状態になっている。
紗那は今日、匡を呼び出したことを心の底から後悔していた。
しかし、匡にとっては良かったかもしれない。ここでこうして鬱憤を晴らしているのだから、多少は心も軽くなるというものだろう。だからと言って、匡が自分に感謝してくれるはずなどないのだが。
……つくづく厄介な男だぜ……。
だが、もっと厄介なのは、こんなヤツでも一応はアニキだと思っちゃってる自分自身だと紗那は思ったのだった。





「は……あんっ……! あっ! ああっ……!」
……私は一体、何をやっているんだ?
バルヌスは心の中で幾度となく呟いた。
「ああんっ……。あっ……んっ……」
色っぽい声を響かせ、自分の体の上で蠢く白い艶かしい体を見詰めながら、バルヌスは現状に強く疑問を抱いた。
自分には拒否権はなく、屈辱的ではあるが命じられれば従う他ないのだが……。
気持ちのほうでは限りなく納得しかねるのに、肉の快楽は抗いがたく、バルヌスはやけくそ気味に荒々しくシアの体を下から突き上げた。
「はっ! あんっ! あ―――っ!!!」
シアは限界まで背を反らし、切なげに身を振るわせながらイった。
その瞬間、キツく締められ、バルヌスもシアの中で達した。
……私は一体、何をしているんだ?
脱力したシアの体を抱きとめながら、バルヌスは疲労の溜息をついた。
シアの美しさにはバルヌスも価値を見出している。
『練習』の成果のおかげか色香も加わり、シアは美貌によりいっそう磨きをかけている。
外見についてだけ言えば、ベッドを共にする相手として申し分ない。
だが……。
「最近、手を抜いていませんか?」
情事の後、シャワーを浴び終えたシアは、不機嫌そうな顔で文句をつけた。裸のままベッドに寝そべっていたバルヌスは、面倒になって眠っているフリをしようとした。
しかし容赦なくシアに頭を殴られ、バルヌスはしぶしぶ目を開けた。
「初めの頃と比べると、熱意がかけているように思えるのですが?」
……熱意?
そんなものなど最初から一欠けらもない。ただ、セックスが下手などと馬鹿にされたくなかったというだけのことで。
しかし数え切れぬほど体を重ね、シアのベッドでのテクニックもバルヌスさえ舌を巻くほどになってきた。シアの『色気を付ける』という目的は十分に達せられたのだから、そろそろこのお役目から解放してもらいたいとバルヌスは思う。
「……そういえば最近、よくお隣に遊びに行っているようですね」
シアはバルヌスの隣に滑り込み、まるで恋人に甘えるようにバルヌスの体にしなだれかかりながら言った。バルヌスもシアの背中に手を回し、抱き寄せた。優しくする義理はないのだが、シアの妹の話しを聞いて以来、バルヌスはシアを冷たく突き放せないでいた。
「あまり、和己様に近づかないほうがいいですよ。下手すれば主に殺されますから」
「…………ああ」
シアの言葉に頷きつつ、明日もまた自分は和己に会いに行ってしまうだろうという予感があった。一人(一匹)で部屋の中にいるのは退屈だし、キースダリアやシアと違って無害な和己は、気の許せる相手だった。
「……もしかして……」
生真面目な顔で、シアはバルヌスの顔を覗き込んだ。まじまじと見詰められ、バルヌスは困惑した。
「……なんだ?」
「いえ。別に」
シアはバルヌスから離れ、ぷいっと背を向けて寝の体勢に入ってしまった。
「一体、何が言いたいんだ?」
「…………」
シアからの返事はない。まだ眠ってはいないようだ。答える気がないのだろう。
バルヌスは諦めて、自分も眠ろうとした。
「言っておきますが、どうなっても私は知りませんからね」
シアは拗ねたような口調で言った。バルヌスが和己の元を訪れることが気に食わないようだ。それがキースダリアのお気に入りに手を出すなという以上の意味があるように思えるのは、バルヌスの気のせいだろうか。
……嫉妬……している…とか……?
まさか。
自分はシアの主の敵であり、好かれる理由などない。
自分もシアを好きになる理由などない。
…………多分。
だが、拗ねたように背を向けるシアが・・・・・・可愛いと思ってしまうのは何故だろう。
憎いだけの相手だったはずなのに。
単なる『練習』のためだと知りつつも、手や舌を使って自分を悦ばせようとする健気な姿に、胸がきゅーっと締め付けられるような気持ちになるのは何故だろう……。
「…………」
深く考えるのが面倒になり、バルヌスも目を閉じたのだった。




「あのね、ベッドカバーを作ってみたいんだけど、布を買うのに付き合ってくれる?」
匡と一緒のお出かけに、和己は朝から浮かれていた。こうして二人で買い物に出かけるなんて、久しぶりな気がする。
大学の授業が忙しいらしく、匡は滅多に家にいない。土日は授業はないはずだけど、セミナーなどに出席しているらしく、出かけてしまうことが多い。出かけない休日は大抵本を読んだりレポートを書いていている。そんなとき和己は、匡の邪魔をしないように静かにしている。真剣な眼差しでページをめくる匡の横顔を眺めるのは和己の密かな楽しみだった。
匡はかなりの勉強家で努力家だ。
頭の悪い自分と違って、もともと優秀な頭脳を持っているのにそれにさらに磨きをかけているのだから、スゴイとしか言いようがない。
つくづく匡は、和己には手の届かない存在なのだと思う。
この前は気まぐれでキスしてもらって、とても幸せだった。匡にとってはたいした意味なんてないんだろうけど、別に、いい。
自分にとっては大切な想い出で、唇に触れた匡の唇の感触を何度も回想し、にまにましていることがしょっちゅうあった。傍から見ていたら、さぞかし不気味だっただろう。幸い、見ていたのは、隣に住んでいる猫だけだったけど。
「ね。ね。匡、どれがいい? どの色が好き??」
「あー? 別に、どれでも」
まったく興味がない素振りでどれでも、と言いつつ、和己が匡の趣味に沿わないものを選べば、延々と罵られることは簡単に予想できてしまう。
「……う、うん。選ぶからちょっと待ってて……」
和己は真剣な顔で布を選び始めた。匡に悪趣味だとバカにされたくない。匡に、喜んで貰いたい。
不必要なものなどなく殺風景で、それでいてどこか暖かいあの部屋には、どんな色のベッドカバーが似合うだろうか? 匡に似合うのは、どの色だろう。
悩みに悩んだ末、和己が選んだのは薄い青色の布。空の色より深くて落ち着いていて、冷たそうで優しくて。
……匡のイメージって、こんな感じ。
「ええっと、匡、コレ、どう?」
綿100%の厚地の布を、和己は匡の顔色を伺いながら見せてみた。
匡はやっぱりつまらなさそうな顔をしていたけど、良くやったとばかりに和己の頭を軽く2回叩いた。
どうやら、匡もこの色は気に入ったようだ。
……ついでに枕カバーとクッションカバーも作ろうかな?
当初の予定より多めに布を買って、和己達は手芸店を後にした。




次に向かったのは紳士服売り場だ。
てっきり和己は、匡は自分自身の服を選んでいるとばかり思っていた。だが、それにしても普段着ている服とは趣味がかけ離れていると首を傾げていたら、実は匡は和己の服を選んでいたのだった。
匡が和己にと差し出してきたのは、値札についた0の数が信じられないほど多いズボンとシャツ。試着しろと言われたものの、和己はその場で凍り付いてしまった。
……試着とか言われても、困るよ〜。
「え。た、匡っ。こ、コレ、高いよ。も、もっと安いのでいいよ〜」
和己は匡の腕に縋りつき、周囲に聞こえないように気を付けながら、小さな声で泣きそうな顔で文句を言った。
……だってだってだってだって。こんな高い服、買って貰うわけにはいかないよ!
匡だったらともかく、自分にはこんなに高級な服は似合わないと和己は思った。分不相応というものだ。
「かーずーみーちゃん。なにお前。俺のやることに逆らうわけ?」
匡はにっこり笑いつつ、それでいて不機嫌という難度の高い技をやってのけ、和己をさっくり追い詰めた。
「え? さ、逆らうなんて……。そ、そうじゃなくて、悪いかなって……。だってだって……」
……俺にはもったいなさ過ぎる〜っ。
和己はパニック状態だった。
強固に断ったら匡を怒らせてしまいそうだし。
だからといって、買ってもらうのも気がひけるし。
一応はバイトをしているものの、時給が低い上にあまり長い時間働いていないため、和己の一ヶ月の給料はそれほど多くない。だから趣味と実益を兼ねて、安く布を仕入れて服は自分で作っている。
この服の代金で一体何枚の服が作れるのかを考えると、和己は眩暈がしそうだった。
「去年、プレゼントしたコートもここの店のだぜ。和己、デザインも布質もいいって喜んでたじゃん」
「ええっ!? こ、こ、こ、コート、ここで買ったやつだったの!!??」
そりゃ、コートだし!
プレゼントだと無造作に渡されたときも、高いんだろうなとは思った。
思った、けど、でも、考えが甘かった!
これほど高級なお店で買ったコートなら、和己が想像していた金額の軽く10倍はするだろう。
……ひいいいんっ。知らなかったよ〜。
……ど、どーりでデザインも着心地もいいはずだよ〜。
初めて知る事実に和己は衝撃を受けた。
「んじゃ、買っちまうからな」
試着しようとしない和己に焦れて、匡は店員にカードとともに服を手渡してしまった。
……ああああああああああっ!
和己は心の中で絶叫した。
だが遅い。
店員の手によって服は丁重に包装され、その場で匡にプレゼントとして手渡されてしまったのだった。





……さあて。そろそろひっかかって来そうだな……。
和己を買い物に誘ったのは、和己を喜ばせることだけが目的ではない。結果的に自分の言動や行動で一喜一憂する和己の姿を見るのは悪くない気分どころかかなり楽しかったが、それはただのおまけに過ぎない。ここ最近、匡たちに付きまとっている『敵』をおびき出すため、匡はわざと和己を外へと連れ出したのだ。
『敵』の予想はついている。昔自分が捨てた女だ。
自分の和己に対する振舞いを、けっして心穏やかには見ていられなかったはずだ。匡は『見せ付ける』ことできっちりしっかり相手を刺激してやった。
執念深い女だと匡は嘲笑を浮べた。こちら風な言い方をすれば、『ストーカー』というヤツか。一欠けらの愛も与えた記憶はないのに魔界から遠路はるばる自分を追ってくるとは、ご苦労なことだと言いたくなる。健気過ぎていっそ笑えるほどだ。
……和己を殺せば、俺から愛されるとでも思っているのか?
……俺に選ばれるとでも思っているのか?
だとしたら滑稽なことだ。和己に殺意を抱いた時点で、許されざる存在になったというのに。
最初に種をまいたのは自分かもしれない。しかし、相手が勝手に芽を出させて育ててしまったのは、自分の咎ではない。いい迷惑だと匡は冷たい心で思った。
……さて。どうやって引き裂いてやろうか?
たった一度、肉体を愛しただけで、全てを愛されたと勘違いした愚かな女に、どんな罰をくれてやろう。自分がなによりも愛しいと思っている者に敵意を向けているのだから、やはり、それ相応の処遇をしてやらねば。
これが八つ当たりだという自覚はあるが、止める気はない。不機嫌な自分の前に立ちふさがろうとするほうが悪い。
匡は身勝手な結論をつけ、ストレス解消の方法を算段し始めた。
今回の件に関しては、原因を作ったのは自分だというのに、少しも反省する気などない匡だった。
 
 
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