「あの方は楽しみながら鮮やかに、私の報復を手伝ってくださいました」
100倍の苦しみを。 その言葉に偽りはなかった。 夢の中でやつらは女になった。そして100人の男たちに千の晩、犯され続けた。 正気を失うことは許されなかった。死よりも勝る苦しみにやつらは苛まれ続けた。 悪魔は笑いながら苦しみのたうちまわるやつらを見ていた。 シアは氷のような瞳でやつらを見下ろしていた。どれほどやつらが苦しもうとも、妹は返ってこない。憎しみはなお募った。 悪魔はやつらの夢の中を覗かせてくれた。女性器に何本もの牡の証を捻じ込まれ、恐怖に引き攣るやつらの顔に、ほんの少しだけ溜飲が下がる思いがした。精液と血で汚れ、ぼろぼろになって泣き叫ぶ姿を見るのは痛快だった。吐き気がするほど醜悪な光景ではあったが、やつらにはお似合いだ。 だが、まだだ。 もっと苦しめ。 この程度では心の平安は訪れない。 憎しみの炎はおさまらない。 ……だが、果たしていつになったら私の心は安らげるのだろう? ……あの子は返ってこないのに。 ……もう二度とあの子には会うことは出来ないのに。 「へぇ。お前、人以外の者になりかけているな。……それほどまでに憎いのか?」 悪魔はシアの顎に手をかけ、顔を覗き込むようにして言った。シアの双眸と悪魔のそれとかぶつかり合う。悪魔の深い闇を湛えた瞳に吸い込まれそうで、シアは軽い目眩を覚えた。 「なかなか珍しい現象だ。このままいくと、お前、人間ではいられなくなるぜ」 「……人間では、いられなくなる……?」 悪魔の言葉の意味が分からず、シアはぼんやりと悪魔の顔を見返した。 「ああ。不老不死に近い存在になりつつある。『憎しみ』がお前の性質に影響を与えたようだ」 「…………」 「普通ならばあり得ないことだけどな。どうやら俺の傍にいすぎたようだな」 奇跡か。 呪いか。 憎しみによって変えられていく『自分』。 満月が天の頂に昇ったころ、崖の上から遠くの街の灯を眺めながら、仕方がないとシアは思う。 あの街の灯の中に、やつらが点したものがあるのだと考えるだけで腸が煮えくり返る。すべてを燃やし、破壊し尽くしたくなってくる。 例え人間としての自分を失うことになっても、自分はこの憎悪を忘れることなどできはしないのだ。 憎い。 憎くてたまらない。 ……妹を殺したやつらが憎い。 ……そして……妹を守れなかった、自分が憎い。 千年先まで自分は自分の愚かさを憎む。 妹への愛情が強ければ強いほど、恐怖の中で、たった一人で妹を死なせてしまった自分が許せない。 ……あの子は心の中で、何度私に救いを求めたのだろう? ……あの子は男たちに陵辱されながら、何度私の名を呼んだのだろう? ……どうして私は、あの子の声を聞かなかったのだろう? ……恐怖に震えるあの子の心は、間違いなく私を求めていたのに。私を必要としていたのに。 ……それなのにたった一人で逝かせてしまった。絶望的なほどの恐怖と孤独の中で……。 あの子の辛さを思うだけで涙が溢れて止まらない。 愛していたのに、あんな死なせ方をさせてしまうなんて。 自分自身よりも愛していたのに。 代われるものなら代わってやりたかった。 あれが妹の運命だと思うよりは、自分の身に降りかかった出来事であったほうが千倍も一万倍もマシだった。 もう一度、あの子に会いたい。 この腕に抱きしめたい。 二度とは叶わない、虚しい願いなのだけど……。 最後の仕上げだといい、悪魔はやつらの身体に呪文を刻みつけた。 ゆっくりと、内部から朽ち落ちていく黒魔法。 「どうする? ここでやめておけば、お前はまだ戻れるぜ」 まだ、人に返れると悪魔は言った。 人として生き、人として死ねると悪魔は言った。 ……それになんの意味がある? あの子はもういないのに。 「ひぃぃ……こ、殺してくれぇ……」 「許してくれ……」 腐臭を当たりに漂わせながら、原形を留めず醜い肉塊になり果てたやつらはシアの足元に縋りついた。 無論、シアには許す気も助けてやる気もない。やつらが命を失った瞬間、シアは完全に人とは違うものに成り果てる。 不死の身体を手にいれ、あの子のいない世界で永遠にも近い時間を生き続ける。 それが、シアが自身に課した罰だった。 「究極のバカだな。自分から地獄を選ぶとはな」 悪魔は侮蔑の表情を浮べて笑った。 腹は立たない。 自分の愚かさはよく分かっている。 闇は完全にシアの心を覆い尽くした。そしてシアは、人以外の存在となった。 「楽しませてくれたお礼だ。魔界に行くなら就職先まで世話してやるよ」 その身体では、人間の世界では生きられまいと悪魔は言った。 「出来ることなら、私はあなたに仕えたいと思います」 それは自然と出てきた言葉だった。 この悪魔に出会わなければ、自分はやつらに復讐することさえ叶わなかったかもしれない。 少なくとも、一介の人間であった自分には、あれほど完璧なまでにやつらに復讐することは不可能だっただろうから。 ……やつらに妹と同じ苦しみを。 本当の望みは叶わなくとも、悪魔は十分に自分の願いを叶えてくれた。 十分すぎるぐらいだ。 自分は確かに、この悪魔に感謝していた。 どうせこれからの長い年月を、どう過ごすのか予定はまだ決まっていないのだ。 返しきれないほどの恩を受けた。 これからの時間を、恩に報いるために使うのも悪くないとシアは思った。 「……お前さあ、すっげぇ物好きだな。この俺に仕えたい? 頭おかしいんじゃねぇの?」 バカにしたような表情で悪魔は笑った。だが、シアは真顔で悪魔の顔をまっすぐ見返した。 「あなたは私の願いを叶えてくれました。今度は私があなたの願いを叶えるために動きます」 「……ふん。俺の願いを、ね……。なんの力も持たないひ弱な存在が、ずいぶんと大きな口を叩く……」 悪魔は目を細め、シアに冷たい視線を向けた。 シアの言葉に悪魔は機嫌を損ねたようだった。 どうやら悪魔はずいぶんと気まぐれな性格をしているらしい。自分の手助けをしてくれたのも、けっして親切からではなかったのだろう。だが、そうであっても、悪魔に忠誠を誓おうというシアの決心が揺らぐことはなかった。 大切なのは、シアの願いをこの悪魔が叶えてくれたということなのだ。 「足手纏いは必要ない」 悪魔は酷薄な笑みを浮かべ、空中から剣を一振り取り出した。ぼんやりと青い光を放つその剣は人間が持ちえるものではないのだろう。この世界においては異質な物体。柄(つか)に豪奢(ごうしゃ)な彫刻が施された美しい剣にシアは見とれた。 すると、悪魔はその剣をシアの首筋に突きつけてきた。 「目障りだ。去れ」 本気なのだろう。 命令に背けば、悪魔は本気でシアの喉元に剣を突き立てる気なのだろう。 それでもシアには、この場から立ち去る気はなかった。 不老不死に近い身体だと悪魔は言った。ならば死ぬことはないに違いない。 シアは刃が自分の喉を貫くのにも関わらず、悪魔に二歩近づいた。激痛がシアの身体を襲う。だが、シアは悪魔から目を逸らさなかった。 シアの喉元から溢れた血が足元を濡らした。 「……お前は、間違いなくバカだ」 呆れたように呟き、悪魔はゆっくりとシアの身体から刃を引き抜いた。 「ぐぅ……。げふっ……」 シアはその場で跪き咳き込んだ。咳をするたびに血を吐いた。 「お前のような部下がいるのも、面白いかもしれないな」 「……」 喉元を手で押さえ、シアは悪魔の顔を見上げた。声帯に損傷を受けたらしく声出すことは出来なかった。 「俺の名はリューザ=リカオ=キースダリア。魔界の女王キアセルカの嫡子、いずれは魔界を継ぐ者だ。……この俺に仕えられることをせいぜい光栄に思うんだな」 ……心からの忠誠を、リューザ=リカオ=キースダリア様に誓います。 心の中で呟き、シアは地面に額を擦りつけた。 この日からリューザ=リカオ=キースダリアはシアの主となったのだった。 どうして? 何を間違えたって言うの? いつもの帰り道をいつもの時間に、いつもと同じように歩いていただけなのに……! 「イヤ! ヤメテ!」 助けを求めて叫んだら頬を殴られた。容赦ない男の力で殴られ、一瞬、意識が飛びそうになる。 後ろにいた男に口を塞がれ、前にいた男に服を破られる。 ……ヤメテヤメテヤメテ! ……コワイコワイコワイ! ……ダレカタスケテ! オネガイワタシヲタスケテ! 自力では逃げられない。女の力で、男二人の力に叶うはずがない。 ……イヤ! イヤ! 恐怖のあまり、目から涙が零れる。 男たちは自分を犯そうとしている。 もしかしたら、殺されてしまうかもしれない。 ……イヤ! タスケテ! ダレカタスケテ!! 何度も何度も心の中で叫び続ける。 半ば絶望しながら、助けを心の中で求め続ける。 すぐそばで聞こえる、男たちの欲望に満ちた荒々しい呼吸音。乱暴に自分の乳房を掴む男の手に、吐き気がこみ上げてくる。 自分は今、ケダモノたちに喰われようとする、哀れな生贄だった。 「やめろ。その女性を放しなさい」 ……誰? 闇の中で、凛とした声が響いた。 ……男? 女? 誰? 誰なの? 助かったの? 闖入者に男たちは慌てた。 「……なんだ。女か」 「なんだ? ねぇちゃん、仲間に入れて欲しいのか?」 ……女? ……女の人なの? 男たちは自分だけではなく、彼女まで犯す気だ。新たな被害者が一人増えただけなのだ。 再び絶望が心を包んでいく。 どうして? どうしてこんなことになっちゃったの? 何度問いかけても満足できる答えは見つからない。 再び深い絶望と恐怖が、心を包んでいったのだった……。 ……醜いな。 二人がかりで女を押さえつけ、自分たちの欲望のままに犯そうとしていた男たちに、シアは冷たい目を向けた。 「やめろ」と忠告はしたものの、男たちにやめる気配はない。それどころかシアをも欲望の餌食にしようとしている。 ……許しがたいな。 シアは口元に酷薄な笑みを浮べた。 許しがたい。 だから、罰を受けてもらわねば。 男たちはまだ気がついていない。 今、自分の目の前にいる存在が、死神だということを……。 ……ドゴッ。 ……バギッ。 人間の男二人など、当然、シアの敵ではない。 男たちは口から血を流し、うめき声をあげて地面に転がっている。 「もう、大丈夫ですよ」 恐怖で震える女性に、シアは出来る限り優しい声を作って話しかけた。 「あ……ああ……」 女性はカタカタと体を震わせていた。恐怖で声が満足に出せないようだった。 ……可愛そうに。 シアは女性に、自分が着ていた上着を着せ掛け、体を支えて立ち上がるのを手伝った。 「あ、ありがとう、ございます……」 小さな掠れた声で礼を言う女性に、シアは柔らかな笑みを浮べた。 女性を大通りに連れて行きタクシーに乗せてから、シアは男たちのもとに戻った。 これ以上、女性に怖い思いをさせるのが忍びなく、女性の前での暴力を控えたが、あの程度で済ませてやるはずがない。 女性を連れ込んだ雑木林の中で、男たちよろよろと立ち上がりかけたところだった。 シアは冷ややかに笑った。 一撃で男たちを殺すのは簡単だ。 だが……楽には殺してやらない。 じわじわと痛めつけ、恐怖と絶望の中で殺してやる。 苦しみながら地獄に堕ちてゆけ。 すぐには殺さないように気をつけながら、シハは男たちに刃を振るった。 ……そろそろ、楽にしてさしあげましょうか。 血みどろになり、顔もほとんど原型をとどめていない男たちを、シアは冷然とした目で見下ろした。 ……お前たちなど、生きていく価値もない。 こいつらは『人』ではない。ただの『ケダモノ』だ。 だから命を奪ったところで、自分の心が痛むことはない。 シアは頚動脈に刃を当てた。 「そこまでにしときな」 「!」 突然、声を掛けられシアは驚いた。人の気配は感じなかった。この自分が、ここまで接近されて気がつかないとは。 ただの人間であるはずがない。 ……何者!? 「気持ちは分からないでもないけどさ。でも、そこまでにしときな。もう十分だと思うぜ」 「……あなたは一体……」 シアは振り返って声の主を確かめた。 叡智を宿した瞳に、凛々しい顔立ち。静謐(せいひつ)な雰囲気を身に纏った美しい青年がそこには立っていた。 「俺? 不肖の兄がお世話になってますっつったら分かってくれる?」 「……兄?」 シアは青年に、不審の目を向けた。 「穂高匡は俺の三つ子の兄貴。で、俺は妹の紗那」 …………………………………。 …………………………………。 …………………………………。 ………………………………妹? 失礼にもシアは、青年……いや、主の妹である人物を、マジマジと見詰めてしまった。 「疑う気持ちも分かるけどな。一応、戸籍上は『女』」 紗那は苦笑した。 「……す、すみません……」 シアは恐縮して頭を下げた。 紗那はシアの無礼を笑って許した。 「で、ソレなんだけど」 ソレ、と言いながら、紗那は足で二つの物体を順番につついた。 男たちを殺そうとして、止められたことをシアは思い出した。 「……なぜ、止めるのです?」 「んー。止めようかどうか迷ったんだけどさ。多分、止めたほうがいい気がして」 「どうして、ですか?」 シアは不満を隠さず尋ねた。 紗那とシアでは、紗那のほうが腕が上だろう。もし紗那が前に立ちふさがるのなら、自分は目的を遂行できない。 ……どうして、庇う? こんなヤツらを……! 「言っとくけど、止めるのはこいつらのためじゃなくて、シアちゃんのためだから」 「……私?」 シアは困惑した。 「そ。あのさ、シアちゃん、自分が『優しい』ってことを自覚したほうがいいと思うよ」 「……優しい?」 ……平気で敵を切り刻める自分が? ……なんの感慨もなく、他人を傷つけられる自分が? シアは驚いた顔で紗那を見詰めた。 「そう。優しい。だから人を傷つければ自分も傷つく。……傷つきすぎて痛みに鈍感になってるみたいだけどな」 「……私は優しくなんかありません」 シアの答えに、紗那は笑った。 「シアちゃん、可愛いな」 「……可愛い……」 『優しい』に続き、『可愛い』などという自分には不似合いな形容詞を使われ、シアは唖然とした。 ……一体、この人は、何を考えてるんだ? 突拍子のない言動は、さすが主の『妹』とでも言うべきだろうか……。 「ま、こいつらのことはコレでカンベンしといてやってよ」 紗那は明るく笑い、男たちの股間をじっくりと足で踏んだ。 「踏み潰しといたから! 多分、一生使い物にならないからさ!」 晴々とした表情で、紗那はシアに告げたのだった。 ……ピンポーン……。 主の命令に従うのが僕の役目である。 だから、不満はない。 不満はないが、ずい分と長閑(のどか)な『命令』だと思いながら、シアは呼び鈴を押した。 「…………」 三分ほど待って、ドアが勢い良く開かれた。 「お待たせ! お。シアちゃんじゃん。どおったの?」 先日、顔を合わせたばかりの主の『妹』は、シアを見てにっこりと笑った。生命力溢れる明るい笑みになんとなく気圧されながら、シアはおずおずと持っていた箱を差し出した。 これこそが主から言いつけられた『用』だった。 「? ケーキ?」 紗那はケーキの箱を受け取り、不思議そうな顔をした。 「主が、奢ると約束していたからとおっしゃいまして……」 「ああ、この前、ね。結局、奢られ損ねちまったからな。……どれ。賞味期限は……今日か。あの日のケーキかと思って一瞬びびったぜ。あいつならやり兼ねないからなー。けど、買い直してくれたわけね」 「……はあ」 「あ。シアちゃん、今から時間ある?」 「は?」 「茶でもしてけよ。シアちゃんが持ってきたケーキ、一緒に食おうぜ」 シアは辞退しようとした。 ケーキを買って天城家に持っていくことが指令であって、自分はその指令をたった今果たした。 ゆえにここに長居する必要はなく、このまま主の元に戻ってもいいわけで……。 しかし、何故か強引に誘ってくる紗那を断りきれない。自分は何をやっているのだろうと思いつつ、天城家の居間に通されソファーに座り、紅茶を飲みながらケーキを食べている。 「あの……お召し上がりにならないのですか?」 紗那はシアの正面に座り、フォークを使ってケーキを食べているシアを、にこにこと眺めている。 一緒に食べようと誘ったのは紗那なのに、紗那の前にはケーキの皿は置かれていない。 「ん? 甘いもの、あんまり得意じゃねぇんだ。優也は大好きだけどな」 「……はあ」 ……分からない。 一体何を考えて、自分などを誘ったのだろう。 主の考えていることも理解しがたいが、紗那の考えていることも自分には分かりかねる。 兄妹揃って、あらゆる意味で『深い』。共にいると手のひらの上で踊らされているような感覚を覚える。それはけして嫌なものではなかったが。 さすがに兄妹だけあって、この二人には似たところがある。 「美味しいか?」 「あ、はい。美味しいです」 「それは良かった」 シアの言葉に、紗那はまた笑った。 ……不思議だ。 どうして紗那は、これほど自分に優しく微笑みかけてくれるのだろう。どうしてそれほどまで優しい瞳で見詰めてくれるのだろう。どうして優しい声で語りかけてくれるのだろう。 ……私は憎悪で形作られた、醜い人形なのに……。 「シアちゃん、キレイだよね。すっげぇ目の保養」 「……は?」 「キレイだし性格は素直だし優しいし、あいつもいい部下持ったよな〜。マジであいつにゃもったいないと思うぜ」 「…………」 『キレイ』? 『素直』? 『優しい』? ……この人は、私のどこを見て言っているのだろう? 容姿について言えば、それなりに整っているという自覚がないわけでもない。だが自分よりも美しい姿形をした紗那にそう言われるのも複雑な気分である。 性格については『素直』『優しい』などとは見当違いとしか言いようがない。 でも……。 ……嬉しい。 紗那に褒められ、シアは戸惑いつつも、嬉しいと感じている自分に気がついた。なんだか胸の辺りが暖かい。紗那といると心が安らぐ。 癒される、という気がした。 シアは自分の心の中にある、硬く閉ざされたドアがわずかに開いていくのを感じていた。 そして、命令の本当の目的が、ケーキを届けることではないことを理解した。妹の紗那と接触さえることで起こる変化を、主は知っていたに違いない。 主の優しさは分かりにくい。だからこそ、自分だけは分かっていようと思う。 ……私は、あの方が、唯一部下と認めた存在なのだから。 「ニャー……」 バルヌスはベランダで一鳴きした。 昨夜も「しばらくは私の『練習』に付き合っていただきます」とシアから元の姿に戻されたが、また仔猫へと変身させられていた。 腸が煮えくり返る思いを味合わされ、いずれシアに復讐することを願っているバルヌスだが、魔力を奪われている状況では逆らうすべもなかった。 「あ。ルーちゃん。遊びに来たの?」 ガラスの向こうに見えるバルヌスに気がつき、和己はにこっと笑った。そしてベランダへのドアを開き、バルヌスを部屋の中へと招き入れた。 「やっぱ仔猫、可愛いな〜」 和己はバルヌスを抱き上げ頬擦りした。 魔界の貴族の嫡子にする態度としては和己のそれは無礼以外のなにものでもないのだが、バルヌスはなぜか腹が立たなかった。 乗せられた和己の膝の上や、頭を撫でる手の感触が気持ちよくて、バルヌスは大人しくしていた。 初めはどうしてこの程度の人間があれほどキースダリアの心を惹き付けているのだろうと不思議だったが、今でははっきりと理解できる。 和己は、とても暖かいのだ。 バルヌスがベランダを伝って和己の元を訪れるのは珍しいことではなかった。キースダリアがいない時間帯を見計らって、バルヌスは和己に会いに来ていた。 最初は好奇心だった。キースダリアがあれほど執着する人間は、どれほどのものだろうかと。しかし今ではそんなことは関係なしに、和己の暖かい手を求めてバルヌスはここにやって来ていた。 バルヌスは和己を殺そうとした。 キースダリアを苦しめるために、和己をこの世から消し去ろうとした。 だが、今は無理だ。バルヌスは少なからず和己に好意を抱いてしまった。和己の優しさに触れ、その慈悲深さに心が癒された。 キースダリアが和己を大切にする理由が、よく分かった。 「ニャア」 バルヌスは鳴いた。和己は、嬉しそうに笑った。 もう自分にはこの人間は殺せないとバルヌスは思った。 |