「匡、お前、ヤってないわけ?」
台所にいる優也と和己の会話は、居間のソファーに座っている匡と紗那にも聞こえていた。 優也が和己の家に料理を教わりに行きたいと言ったとき、「一人で出歩くのは危険だから」と、ちょうど大きな仕事を終えて休日に入っていた紗那に、誠司が優也を送り届けるように頼んだのだった。 過保護のように思えるが、優也の美貌を見てしまえばそれも無理のないことだと納得できる。とにかく、目立つのだ。あの顔は。 とくに前日……いや、明け方まで誠司を受け入れ続けた優也は、今朝になってもそこはかとなく、淫蕩(いんとう)な薫りを身に纏っていた。あのままの状態でもし家の外へ出したら、性的犯罪に巻き込まれることは間違いない。 そこで紗那が護衛代わりに付き添ったのである。 本音を言えば、紗那は匡にはあまり会いたくなかったのだが、敬愛する父の頼みであり、また、自分が片想いしている優也の安全のためであるので致し方ないとここまで車を運転してきた。 「紗那。他人の寝室のことに口を出すなんて、行儀が悪いぜ?」 匡はにっこり微笑みながら言った。もちろん、台所にいる優也や和己には聞こえないほどの声の大きさである。 「……無礼の塊のようなヤツが、俺に行儀を説くんじゃねぇ……」 紗那も小さな声で返した。 お前に言われても納得できないと、紗那は匡を憮然とした表情で睨み付けた。 「なんで抱いてやらないんだ? 和己ちゃんの気持ちは、分かってんだろーが」 はたから見ていてよく分かる。 なんの見返りも求めず信じられないぐらい無欲に、匡だけを追いかける純粋でまっすぐな瞳。 ただ近くにいるだけで幸せだと言わんばかりに、匡の傍らでひっそりと微笑む可憐な華。 ……なんでこんな男がいいのかねぇ? 一応は自分の兄ではあるし、性格以外はそう悪くないとは思う。……その性格が著(いちじる)しく悪いということが問題なのだが。 匡のほうも、それなりに和己のことを気に入っていると言うことは分かる。本性丸出しで苛めまくっているという和己への態度を見れば、それは一目瞭然である。 気に入らない人間に対して匡は、透明人間のように扱う。徹底的に、無視だ。 気に入らないが立場上無視できない相手の場合、匡はこれでもかというぐらい、にこやかに丁寧な対応をする。相手が匡の悪意に気がつかないほど見事に大きな猫を背中に背負う。 だが、紗那は匡に対し、もっと分かりやすい愛情表現をしろと、声を大にして言いたい。ある意味分かりやすいと言えなくもないが、普通は好きな人間には優しくするし、好きな人間からも優しくされたいと願うはずだ。 優しくしっかりと抱き締めてあげれば、和己はもっと幸せな顔で笑えるはずだ。 ……匡よりも楽な相手は、星の数よりいるだろうに……。 和己の持つ純真な心に、惹かれる人間はけっして少なくないだろう。それが男か女かは分からないが、匡を選ぶよりは幸福は約束されるに違いない。 「抱く? なぜ? あいつは俺にとってただのペットだ。『犬』とヤったら『獣姦』になるだろーが。そーゆーのはちょっとねぇ?」 真面目な質問に不真面目な答えで返す匡に紗那は苛立った。 まったく、この男との会話は精神衛生上に悪い。 「『犬』じゃねぇだろ。人間だろーが。お前さぁ、和己ちゃんのこと、どう思っているワケ?」 紗那は半ば怒ったような口調で言った。 「……『犬』だよ。俺にとってはな。可愛いとは思っているさ。あいつは、俺の言うことに逆らわないからな。……ただし、『ペット』としてな。ただ、それだけだ」 匡は平然とした顔で、自分に想いを寄せている和己のことを、ただの『ペット』だと言い切った。恋情としての好意はまったくないと。 紗那は苛苛と、親指を噛んだ。 それではあまりにも、和己が可哀相じゃないか? 「……上から見下ろしてんじゃねぇよ。俺はお前のそーゆートコが嫌いなんだよ」 「そいつはどーも」 匡は軽く肩を竦めた。 紗那の言葉は微塵も匡の心には届いていない。そのことが、腹立たしい。 「幸せにする気がねぇんなら、さっさと手を放してやれ!」 苛立ちに任せて紗那は匡を糾弾した。 「……紗那、それ以上、余計な口出しをするなよ」 匡はにっこり微笑み、紗那の首を緩く絞めた。 「……匡?」 「うっかり、間違って、殺しちゃったら大変だろ?」 顔はこれ以上はないほど、満面の笑みを浮べている。 だが紗那には分かった。これが冗談ではなく本気だと。 「ゴメン」 紗那は謝罪の言葉を口にした。別に殺されるのが怖かったからではなく、自分の言葉が匡を傷つけたことを理解したからだった。 ……こんの、捻(ひね)くれ者がっ! 匡の言葉を額面どおりに受け取った自分がバカだった。 紗那は確信する。 匡が、久能和己という存在を、愛しく思っているということを。 ……だから、もっと分かりやすい態度で示せっつーのっ!! 「まったくお前はカワイイ妹だな。お前の潔いところは嫌いじゃないぜ」 匡は紗那の首筋から手を放した。すでに怒りの矛先を収め、匡は普段の匡に戻っていた。 紗那は少しほっとした。 いつもは自分が一方的に、匡に対して怒ることが多いのだが、たまにその立場が逆転するとぎくりとする。 本能で分かっているのだ。認めるのは癪だが、匡が自分よりも『上』の存在だと……。 「紗那、お前、誰かとセックスしたことあるか?」 「あああ?」 突然の話題転換に紗那は驚く。しかも、かなりきわどい話題だ。 これはさっきの復讐なのか? 「ないだろ」 「……まあ、ねぇ……」 答えにくい質問ではあったが紗那は答えた。匡の言うとおり、紗那は処女(バージン)だった。 だが、自分は一応はまだ成年に達していないわけだし、早い時期に経験する人もいるだろうが、自分が未経験であってもそう驚かれるほどのことではないと思う。 「お前、場合によっては、一生誰ともヤらないかもな」 「……それはひょっとして不吉な予言か?」 紗那は顔をしかめた。匡の予言は当たりそうで怖い。 外見は男にしか見えない自分は、たしかに異性の恋人を見つけることは困難だろう。あまり考えたくもないことだが、一生独り身ということも十分考えられてしまう……。 「予言なんて大げさなものじゃない。俺たちは、『人間』とは交われない。ただそれだけだ」 「…………え?」 ……『人間』とは、交われない? 紗那は匡の言葉に目をしばたかせた。 「それって、どういう……」 「『器』は『人間』であっても、俺たちは人間とは違う。『穂高匡』という個としてこの世界に存在していることは事実だが、結局、『リューザ=リカオ=キースダリア』としての本質から逃れることは出来ない」 「……」 「『人間』と俺たちは、まったく異なる生き物だ。外見がいくら同じでもな」 「って……じゃあ、和己ちゃんとはヤらないんじゃなくてヤれないってことか?」 「……だから言っただろう。俺にとってはあいつは『犬』だとな」 つまり、種族が違うから、抱けないということなのだ。 和己は『犬』だと言ってのけた言葉の裏の意味に、紗那はようやく気がつく。 紗那は思わず、匡の顔をまじまじと見つめた。 匡の顔には、少し疲れが浮かんでいるように見えた。 「……抱いたらどうなるんだ?」 「さあ? 試したヤツはいないからな。だが、おそらく……」 匡はそこで言葉を切った。 ようやく料理を作り終え、和己と優也が居間に戻ってきたからだ。 紗那は心の中で、匡の言葉を考えていた。 匡は、『人間』と自分たちは違う者であり、けっして交わることが出来ないと言った。 しかし自分たちは『人間』である母から生まれてきた。子供が生まれたということは当然、然るべきコトをしたわけで……。 ……けど、匡が嘘言っているようには思えねぇしなぁ? だったら、母親の穂高美登里と父親の天城誠司は性交渉をしていない? そうすると、自分たちの本当の父親は誰かという疑問が生じてくる。紗那と誠司の容貌は似通っていて、実の父親であることを疑ったこともなかったのだが。 ……そのうちオヤジに聞けばいいか。 紗那は心の中で結論付けた。 前世からの絆と、父親からのどれだけの愛情を注がれているのかしっかりと理解している紗那は、誠司が本当の父親ではなかったとしても、それはたいした問題とは思えなかった。 それよりも、匡と和己のことが気がかりだった。 不本意ながら。一応、匡は自分の兄弟なわけで。 むかつくヤツだしどちらかといえば嫌いだが、肉親の情がまったくないわけではないのだ。 帰り際、優也は匡にこっそりと何事かを囁いていた。和己には聞こえていなかっただろうと思うが、紗那にはしっかり聞こえた。 「匡、若いのに大変だね。今度、いい精力増進剤を見つけたら、プレゼントするからね!」 紗那は危うく噴出しそうになった。 優也は、匡が和己を抱かない本当の理由を知らないため、てっきり匡の精力減退が原因であると信じ込んでいるらしい。 匡は優也の言葉ににやりと笑った。 「気を使わせて悪いな。父さんと二人でいろいろ試してから、どれがイイのか教えてくれよ」 「うん!」 元気に返事をする優也に、「いいのか?」と紗那は内心でつっこみを入れた。ただでさえ絶倫状態の誠司なのに、さらに精力増進剤を飲ませたりしたら……。 「任せといて。ちゃんと誠司さんから感想聞いて、一番イイの勧めるから!」 忠告しようと思ったが、優也はやる気に満ちた状態だ。水を差すのも悪い気がする。……それにちょっと面白そうだし。 ……はっ! 今の俺の思考、匡化していなかったか!? ひ、人の不幸を面白そうなんて。 思いがけず自分が匡から悪い影響を受けていることに気がつき、ショックを受ける紗那だった……。 「和己、来い」 「……うん」 自分を呼ぶ匡の声に、珍しくわずかな熱が混じっている。和己は匡の望みをすぐに理解した。それはずっと、和己自身も望んでいたことだったから。 和己はベッドの縁に座っている匡の前に跪いた。そして匡のパジャマのズボンと下着をそっとずらす。中から現れた匡の雄雄しいシンボルに和己は頬を染めた。 匡がけっして、男としての機能に障害があるわけではないという証拠。 和己はそれに丁寧に舌を絡ませた。 匡に触れることを許された、至福の時間。自分の想いのすべてを込めて、和己は匡を愛撫する。主が飼い犬を褒めるように匡は和己の頭を撫でた。和己は嬉しくなって、一層張り切って指と舌を動かす。 初めてコレを命じられたとき、和己は恥ずかしくて怖くて泣いてしまった。でも……やっぱり嬉しかった。 ただの性欲処理にしか過ぎないことは知っている。そこに一片の気持ちも混じっていないことも分かってる。 それでも嬉しい。 『右手の代わり』だって別に構わない。他の人間にではなく、自分にその役目を言いつけてくれることが嬉しくてたまらない。 ……好き、です。俺はあなたが好きです……。 唾液とともに匡の体液を飲み下しながら、和己は切ない想いに胸を締め付けられていた。 ……好きです。好きです。好きです。 ……ずっとずっと、俺はあなたを愛してる……。 けっして口に出せない告白。鬱陶しいと思われたくないから。捨てられたくないから。ずっと傍にいたいから。 このままの状態でいられるなら、自分は十分すぎるほど幸せなのだ。 なんの取り柄もなく魅力のない自分が、匡の傍にいられることを許されている。なんて自分は運がいいんだろう。幸せなんだろう。 だから和己は一生懸命匡に奉仕する。自分がいることで、匡が『便利』だと感じてくれたなら嬉しいと思う。 ……好きです。あなたが好き……。 「……和己」 欲望に掠れた匡の声。この声を聞けるのも自分だけ。自分だけの特権……。 匡が和己の後頭部をやんわりと押さえつける。解放が近いのだ。 予想通り、匡が口中で弾けた。和己は匡の出したものを綺麗に飲み干す。 ついさきほどまで匡の体内にあったモノ。ただそれだけで愛しさが増す。匡にとっては、ただの排泄物にしか過ぎないモノだけど。 「そんじゃ、歯を磨いて寝るか」 匡は余韻もなにもない口調で言った。和己は素直に頷きながら、ほんの少しだけ寂しく思う。 ……キスしてくれればいいのに……。 でもこれは、あまりにも贅沢な望み。これ以上は望んではいけない……。 匡は毎晩、和己をしっかりと抱きしめて眠る。広いベッドなので男二人で寝ていても狭くはない。狭くはないけど、大好きな人に抱き締められて、心臓がどきどきしてしまって寝づらい。だからといって匡の体温を手放す気になれず、和己は匡の腕の中で文句も言わず、じっとしていた。 匡の穏やかな寝息と心臓の音を聞いているうちに、いつしか眠りに落ちていくというのが常だった。 今日も和己はゆっくりと眠りの世界へと引き込まれていった。 ……眠ったか。 闇の中で匡はゆっくりと目を開けた。本当に寝ていたわけではない。寝た振りをしていたのだ。 匡は和己の髪を、起こさないようにそっと撫でた。 ……まるで、なにかの罰を受けているようじゃないか? どれほど望んでも、自分は和己を『抱く』ことは出来ない。だからあれは精一杯の『交わり』だった。 実際に、自分と同じような存在で、人間を『抱いた』者はいない。ゆえに、具体的になにが起こるかは誰も知らない。 だがおそらく命さえも賭(と)すことになるだろう。 それほどの禁忌なのだ。異世界の者が交じり合うということは。 ……まるで、何かの罰を受けているような気分だ。 男も女もどうでもいい相手は、それこそ星の数ほど肌を重ね合わせた。 それなのに、唯一、自分から望んだ相手は、抱くことが許されていない。 匡は苦い笑いを口元に浮べた。自分以外に降りかかったことならば、十分面白いネタではあるのだが。あいにく自分のことなので、笑い飛ばすこともできやしない。 「和己、俺はいっそのこと、お前を殺してしまいたいと思うよ」 心も身体も、全てを自分のモノに出来ないのなら、いっそ殺してしまおうか。 だが、今となっては遅すぎる。 この手にかけるには情が移りすぎた。手放すことなど今更できない。 今、こうしているだけでも、自分は和己を死に導く。 見えすぎるがゆえの不幸。 ……俺はどこで間違えた? ……俺はいつ間違えた? ……最初からか? 俺はお前の呼びかけに、応じるべきではなかったのか? 何度でも悔やむ。 お前と出会ったことを。 自分の気まぐれを。 愛。 それがそんなに美しい言葉か? 恋。 それがそんなに心浮き立つことか? 愛も恋も自分にとっては、あいつを殺す呪詛の言葉。 愛さなければ良かった。 出会わなければ良かった。 例え遠く離れていても、あいつが生きていてくれるのならば、そのほうが自分にとって幸せなことに思えるから。 それなのに。 掴んだ手を、離せずにいるのだ。いつかアイツを地獄へ引き込む行為だと分かっているのに・・・・・・。 闇の中に浮かぶ、幸福の縮図。 働き者で誠実な夫。優しくしっかりものの妻。夫婦の間に生まれた二人の愛らしい子供。 笑い声に満ちた家族の団欒。 暖かで、幸せな家族。 これはあいつが手にすることが出来るはずだった、未来。 99%以上の確立で、それは決定されていた。 自分をあのとき呼ばなければ、違えることのなかった道。 自分と出会ったことで歪んだ運命。 運命はいずれ、歪を正すために動く。 『久能和己』の『排除』という形で。 それは、現時点で、最も確定された未来だった。 匡はそっと、和己の唇に自分のソレを押し付けた。触れるだけの微かな口付け。 「俺は、お前を、守りきれるのか……?」 それは『リューザ=リカオ=キースダリア』が初めて味わう、『不安』という感情だった……。 「林檎、落ちましたよ?」 「え? あっ。す、すみませんっ」 和己は両手いっぱいに荷物を抱えていた。ここのところ買い物をサボっていたから、今日は食材をいっぱい買い込む羽目になってしまった。 林檎はマンションのドアを開けようと鍵を取り出したとき、買い物袋から転げ落ちてしまったのだろう。 「はい、どうぞ」 「ありがとうございます」 和己は礼を言いながら、林檎を拾ってくれた相手に視線を向けた。 あまりにも綺麗な人だったから驚いた。 すらりとした美しい立ち姿。才気溢れる人形師が手掛けたような、完璧に整った顔。 「…………」 和己はバカみたいに口を開けて、その人を見詰めてしまった。 「? なにか?」 「綺麗だなあと思って……」 思わずといった調子で呟いた和己は、はっと我に返って自分で自分の言葉に赤面した。 「……ごめんなさい」 「ふふ。謝る必要はありませんよ。綺麗と言われるのは嬉しいものです」 美しい人は軽やかな笑い声を立てて言った。 「わたくし、先日隣に越してきた、四阿円華(しあ まどか)と申します。よろしくお願いします」 「俺……僕は、久能和己って言います」 「買い物ですか?」 「はい。つい、いっぱい買っちゃったから、重くって……」 和己は照れたような笑みを浮べた。 「越してきたばかりで、ここら辺のことはあまりよく分からないのですよ。今度、安いスーパーとか、教えて下さると嬉しいです」 「案内なら任せてください。僕、六年近くここで暮らしていますから。……わっ!」 和己は驚きの声を上げた。足元になにか妙な感触があった。慌てて下を見ると、仔猫が和己の足に懐いていた。 「うわあ。カワイイっ!」 「……ミャー……」 和己のカワイイという言葉に反応するように、仔猫は愛らしい声で鳴いた。四阿は和己の足元にいる仔猫を優しく抱き上げた。 「四阿さんが飼っていらっしゃるんですか? カワイイですね」 「一人暮らしなものですから寂しくて。ルーって言うんですよ」 「すごくカワイイです!」 和己は持っていた荷物を足元に置いて仔猫の頭を撫でた。仔猫の毛はふんわりと柔らかくていつまでも触っていたくなるような感触だった。 「どうぞ」 四阿は和己に仔猫を抱かせてくれた。和己は嬉々として仔猫を抱き締めた。 ……カワイイ。 動物好きな和己がペットを飼いたいと思ったことは一度や二度ではない。だがそのたびに、自分の立場を思い出して諦めていた。 和己だって、匡のペットのようなものなのだ。ペットがペットを飼いたいだなんて、まるで笑い話だ。だからそんな我儘、匡に言えるはずがなかった。 「ありがとうございました」 名残惜しそうな表情を浮べつつ、和己は四阿に仔猫を返した。 「……ミャア……」 飼い主の元に戻されてほっとしたのか、仔猫は甘えるような声で鳴いた。 ……いいな。カワイイな……。 「ルーちゃん、またね。……それでは四阿さん、失礼します。お魚とお肉、冷蔵庫に入れちゃわなきゃいけないので」 早く冷蔵庫に入れないと魚や肉が傷んでしまう。 仔猫に未練を残しつつ、和己は四阿に別れを告げた。 『あれがキースダリアが目をかけている存在か。間近で見ても分からぬな』 はたから見れば、仔猫がミャウミャウと鳴きながら飼い主に甘えているようにしか思えなかっただろう。 しかし実際は、仔猫は本物の仔猫などではなく、ガダン王の嫡子のバルヌスだった。 シアによって仔猫の姿に変えられ、屈辱的なことにバルヌスは、シアにペットとして飼われていた。 『どうしてあの者が、あれほどキースダリアの心を惹きつけているのか。……あの性悪な男を手玉に取れるようには思えぬが?』 仔猫の鳴き声にしか聞こえないバルヌスの言葉を、シアは正確に理解した。 「頭を撫でられて嬉しそうにしていた人のセリフではありませんね」 『……誰が嬉しそうだと? 私か? ふざけるな!』 バルヌスはシアの手の甲に爪を立てた。 シアはバルヌスを廊下に叩き付けた。 もし和己がこの場にいたら、いたいけな仔猫を虐待する美人に、さぞかし驚いたことだろう。 バルヌスはフギャッと、醜い声で悲鳴を上げた。 「……ペットの分際で、随分と生意気ですね。どうやら躾がまだ足りなかったようです……」 シアは口元だけで笑い、バルヌスを足でつついた。 『ぐっ。き、貴様……』 「私は躾に厳しい主人なんです。逆らっても無駄だということを、しっかりと体で覚えていただかないと……」 『……殺したければ殺せ』 バルヌスは反抗的な目でシアを睨んだ。 シアは興ざめな顔をして、仔猫の首を掴んで持ち上げた。 「殺してしまっては、『罰』にならないでしょ? あなたは死ぬまで私のペットとして過ごすんです」 バルヌスはシアに殺意を抱いた。しかし仔猫の姿で、しかも魔力を奪われたままでは復讐することも出来ない。バルヌスは射殺しそうなほどの憎悪をこめた目線をシアに向けた。 自分に従おうとしないペットにシアは苛ついたが、暴力を振るっても無駄なことを悟り、シアは黙ってバルヌスとともに自分の部屋に戻った。 シアの部屋は和己たちの部屋の右隣だ。つい三日前に引っ越してきた。これももちろん、シアの主人たるリューザ=リカオ=キースダリアの命令だ。 今までは「影ながら見守れ。けっしてその存在を気づかれるな」と言われていたのだが、今度は「すぐ間近で守れ。接触も許す」と命じられた。 一体、どんな心境の変化なのだろう。 それほど切羽詰っているのか。 それともまた別に考えがあるのか……。 なにかを企んでいるとしても、主人の考えなど自分ごときに見透かせるはずがないのだが。 「まあ、いい。自分はあの方の命令に従うだけだ」 どんな思惑があろうとも、関係ない。 あの方は自分の最大にして唯一の望みを叶えてくれた。その恩はいまだ返しきれていない。いや、おそらく一生かかっても、返しきれるものではないだろう。 あれが、主の気まぐれだったということは分かっている。しかしそれでも自分は救われたのだ。絶望の淵にあった魂を救ったのは主だった。そのことを自分はけっして忘れない。 主もまた、自分の忠誠を受け入れてくれた。それもまた、あの方の気まぐれだったのだろう。 「お前のような部下がいるのも、面白いかもしれないな」 あの方を動かすのは『正義』ではない。自分の『感情』だけであの方は動く。 そのことが自分にとって心地よかった。 膨大な知識と力を持ちながら、子供のように残酷で気まぐれ。傲慢で美しい魔界の皇子。誰かに仕えることなどあの方に似合わない。王になるべくして生まれた存在。 必要以上に苦労させられることも多いのだが、それでもシアは自分の主を誇りに思っていたのだった。 |