【悪魔と愛犬 -02-】
 
ゆっくりと廻る毒。
じんわりと体内を汚し、気がつけば致死量に達している。
爪の先までアナタという存在に染められ、自分はアナタのためだけに存在する“犬”になる。
それを悔やんだことなどないけれど。
ただアナタにとって、自分が無意味な現象であることを、哀しく思う……。





家に戻ると予想に反して和己の姿はなかった。普段はこの時間であれば和己は確実に家にいるはずだ。
あれは従順な愛犬。和己は必要以上に自分の傍から離れることを厭(いと)う。
それが今日はまだ自分の傍に帰ってきていない。
匡は瞬時にその理由を悟る。
「やれやれ。学習能力のないバカどもには困ったものだな。おかげで夕飯の時間が遅れちまうじゃねぇか」
余裕のある口ぶりと裏腹に、匡は内心焦っていた。
雑魚どもの気配を探るにも集中力を要するとは。それほどまでにこの世界では力の制約を受けるのだ。魔界においては呼吸をするように簡単に出来ることが、こちらでは多大な労力を使う。まるで、手足を鎖で繋がれ目隠しをされているような気分である。
体が重く、感覚が遠い。
もどかしさを感じるとともに、自分がこちらの世界に落とされた理由がよく分かる。
「力を磨け」
と母であるキアセルカは自分に命じた。
磨けといわれても、魔界にあってはリューザ=リカオ=キースダリアに並ぶ力を持つものは、母を除いては皆無である。
これでは切磋琢磨しようとも不可能だ。母に仕える三人の王も、貴族と呼ばれる悪魔どもも、リューザ=リカオ=キースダリアと張り合えるだけの実力は持っていなかった。やつらは弱いくせに吼える駄犬に過ぎない。
だからこそ母は、自分とグレス=ファディルを引き合わせたかったのだろう。天界の跡継ぎと魔界を継ぐ者との対面は、それなりに意義のあることと考えたに違いない。
あながちそれは外れていなかった。
次代の天主であるグレス=ファディルは、この世界の自分の『父』でもある。
グレス=ファディルを『父』に選んだ理由は、自分を倒せば己が魔王になれると勘違いしているバカどもから幼少時の自分を守るためだ。
赤子のころは、さすがに器が弱すぎて魔力を使うことが出来ない。この世界に生まれたばかりの頃を狙われれば、ひとたまりもなかっただろう。あれほど心細い思いをしたのは初めてのことだった。ある意味、貴重な体験でもあった。
そのころ『父』がいなかったら自分の魂は粉々に砕かれていただろう。
リューザ=リカオ=キースダリアはそれを『借り』だと認識していた。しかし、グレス=ファディルは『貸し』だとは思っていなかった。
「息子を守るのは、当たり前だと思うが?」
グレス=ファディルとしてではなく、『天城誠司』として軽々と言ってのけた。
面白い男だ。
自分が何者であるか承知しているはずなのに、息子として自分に愛情を注ごうとする。おかげで自分にも、『天城匡』……今では『穂高匡』だが……としての意識が芽生えた。
リューザ=リカオ=キースダリアとしての思考と『匡』としての思考は常に同時にある。
息子としての自分は、父親にそれなりの『情』を持っている。
リューザ=リカオ=キースダリアとしての自分は、グレス=ファディルの実力を認めている。
ともに暮らしたことさえあるのだ。グレス=ファディルの力量はつぶさに観察させて貰った。
技では自分が勝る。
潜在的な力ではあちらが勝っている。
総合的な力量を比較すると、自分に一日の長があるというところか。リューザ=リカオ=キースダリアはグレス=ファディルの倍近くを生きていた。その間に溜め込んだ知識も膨大だ。伊達に長生きはしていない。
その知識を駆使し、自分は自分と和己の身を守ってきた。力がセーブされた状況であっても知恵を頼りに危機をくぐり抜けてきた。
自分が狙われる理由は一つだ。
この機会に自分を倒して己こそが次代の魔王になりたいという、愚か者どもの暴挙の結果。
和己が狙われる理由は二つだ。
自分を攻撃するさいに和己を人質にするため。
もしくは、己の娘を自分の妃に据えることにより覇権を伸ばそうとしていた貴族どもが、自分の隣にいる和己の存在を邪魔に思って。
いずれにせよ力の制限を受けているとはいえ真っ向から自分に挑もうという者は少なく、自分よりも和己が狙われることが多かった。
魔界の主が誰にでも務まるものならば、希望する者にその座をすぐさまくれてやる。だがそうではないので厄介だ。否応なしに、自分はやつらの相手をしなければならない。
自分のモノに、手出しされることを許す気は、自分にない。
これも母の狙いというなら、見事自分はそれに嵌って武者修行の日々というわけだ。
「さあて、ペットを迎えに行ってやるか。飼い主の務めだからな」
和己には『守護』をつけてある。狙われていると分かっているのに、無防備なままにするほど自分は愚かではない。
アレは己の命に代えてでも、役目を果たすことだろう。「和己を守れ」という命令に殉じることに、微塵の躊躇いも抱かないに違いない。
だが、簡単に死なれても困る。こちらの持ちカードは少ないのだ。
せいぜい有効に使わねば。
「……愚か者どもに思い知らせてやるとするか」
リューザ=リカオ=キースダリアの所有物に危害を加えようとすることが、どんな結果を招くのか。
いっそ殺して欲しいと思うほどの、重い罰を与えるとしよう。
生きながら肉をそぎ落とし、痛覚だけはそのままで、万の年を過ごさせてやろう。
悲鳴を上げて、泣き叫ぶがいい。
見せしめとなることで、罪を贖(あがな)わせてやろう。
血にまみれた愚者の姿を思い浮かべ、匡は冷たい笑みを見せた。
冷酷で残虐な魔界の皇子(みこ)。
それもまた紛れもなく、リューザ=リカオ=キースダリアの一面なのだった……。





「この方への手出しは控えてもらおうか。私が主に叱られてしまうからな」
自分たちの獲物に手をかけようとした途端、現れた存在に魔物たちはざわめきたった。
絹糸のような黒髪に、熱のない銀の瞳。肉の薄い華奢な肢体に人形のごとく整った顔。
男とも女とも判断つきかねる麗人は、明らかに人間ではない。
その者を取り囲み、魔物たちは囁きを交わす。
……何者だ……?
……人、ではない……。
……しかし、われわれ魔族とも違う……。
「お前は、何者だ?」
いまだかつて、このような気配を持つ生き物に出会ったことはない。
魔界にあっても人間界にあっても、同じモノはいなかった。
この未知の生き物は、何故(なにゆえ)に我らの邪魔をするのか? 狙った獲物……リューザ=リカオ=キースダリアを倒すための切り札は、この者の張った結界に守られ指一本触れることさえ不可能だ。
つまり目的を果たすためには、この者を倒す必要がある。
もし、自分たちの前に立ちふさがり続けるというのならば。
「私は、シア。リューザ=リカオ=キースダリア様に仕える者。あの方の命により、そなたたちの邪魔をさせて貰おう」
「……シア? その名は聞いたことがあるぞ」
シアは死亜。
死に似た者。
生きてはいない者。
かつては人であった者。
そして魔界の王子の忠実な僕(しもべ)……。
「生と死の狭間で生きる半端者が、我らの邪魔をするのか?」
「我らの邪魔が出来るのか?」
「ソレを素直に我々に渡せ。言うことを聞けば命ぐらいは助けてやろうぞ?」
魔物たちの言葉にシアは薄い笑みを浮べた。
ゆらりとシアの体から、殺気が立ち昇るのを魔物たちは感じ取った。
「あいにくお前たちより、私にとっては主のほうがよほど怖い」
シアは優雅な仕草で宙に向かって腕を振り上げた。手のひらに青白い光が集まり、光は青銀の槍となってシアの手の中に納まった。
その槍の切っ先を、シアは魔物たちに向けた。
槍の放つ光に気圧され、魔物たちは数歩下がる。シアを囲んでいた輪が広がる。
「……その槍は……」
「……貴様、それを扱えるのか……」
シアが手にしているのは、かつてリューザ=リカオ=キースダリアが所有していた『テタニディスの槍』。触れるだけで魂を粉々に砕く、強力な破壊力を秘めた武器。
誰にでも扱えるわけではない。
持ち主の力量が劣れば、敵を滅ぼす代わりに槍は自分の所有者を死に導く。槍は常に探している。最強の主を。自分の力を最大に引き出せる存在を。
「……お前が、新しい主なのか……?」
「……槍はお前を選んだのか……?」
前の主……リューザ=リカオ=キースダリアが生きているというのに?
「まさか」
シアは冷たく笑った。
「これはあの方からお借りしただけだ。槍は認めたのだ。私をキースダリア様の命を果たす存在として。自分と同じモノであると。……それゆえ、私に力を貸してくれるのだ」
そして、一方的な虐殺が始まった。
数え切れぬほどひしめきあっていた魔物たちは、次々と葬られていく。誰もがシアに、傷一つ付けることさえできない。
何の感情も浮べぬ表情のまま容赦なくシアは槍を振るう。深い緑色の海が出来上がる。魔物たちの流した血だ。
最後の一匹は自分の魂の消滅を感じながら、薄れていく意識の中で思う。
そんなばかな。
こうも易々と不完全な存在に倒されるとは……。





ほんの数分で、あたりにはシアと結界の中で眠る守護すべき者以外はいなくなった。
だが、シアには分かっている。これで終わりではないのだと。隠れている敵こそが問題だ。今自分が倒した魔物どもは、微弱な魔力しか持っていなかった。あの魔物たちをけしかけた張本人こそ、厄介なのだ。
主から借り受けた『テタニディスの槍』と自分の力を足したとしても、敵うかどうか分からない。あれだけの数の魔物たちを操れるということは、少なくとも中級以上の力は持っているはずだ。
だからと言って、引くつもりなど当然ない。己の命などささやかなものだ。主の期待を裏切ることに比べたら。
殺気を感じて振り向く。すぐ間近に刃が迫っていた。
「くっ……」
避け損ねて頬がざっくりと切れた。傷が熱い。だが、シアはそれを無視して身構える。
「リューザ=リカオ=キースダリアの『犬』か。どけと言ってもどかぬのだろうな。その美貌、殺すには惜しいが……」
現れたのは、褐色の肌をした逞しい男型の魔物。手には大きな刃を構えている。
「いかにも、私は、リューザ=リカオ=キースダリア様の『忠犬』」
あの方こそが、己の無二の主。
全てを捧げると誓った相手。
「だから、あの方の『宝』は、絶対に守る!」
シアは槍を振り下ろす。あっさりと刃で止められる。押し返され、シアの体は無様に地に倒れ伏す。敵に攻撃される前に、シアはすばやく身を起こす。
やはり……強い。
シアは目の前の魔物が自分より強いことを確認する。焦りはない。焦っても意味はない。ただ、現状を冷静に分析し、自分の不利を有利に変えるために頭をめぐらす。
どうする?
どうやれば勝てる?
勝率は低い。ほとんど0にちかい確立だ。
だが、諦めるわけにはいかない。
どのみち、気配に気が付いた主がここへと向かっているはずだ。自分は主が到着するまで時間を稼げばいい。その程度のことが出来なければ、あの方の部下である資格などない。
「お名前を、お伺いしてもよろしいですか?」
丁重な口調でシアは訊ねた。本当に相手の名が知りたかったわけではない。これも時間稼ぎの手段だ。相手が本気になれば、自分の命など一瞬で消える。
「何故、私の名を知りたい?」
「自分を殺す相手の名ぐらい、知っておきたいと思いまして。どうやらあなたは、私よりはるかに強い力をお持ちのようだ」
「ふっ……。下賎な者の分際で、私に名を尋ねるか? まあよい。私は魔王に仕える三王の一人、ガダン王の長子であるバルヌスだ」
シアは息を飲んだ。
まさか、そんな大物が出てこようとは……。
「……私を殺した後、この方をどうするつもりですか? バルヌス殿、あなたが望むのは魔王の座ですか? それとも……」
「私の望みはささやかだ。リューザ=リカオ=キースダリアの苦しむ顔を見ること、ただ一つ。そこの者に、リューザ=リカオ=キースダリアは随分と執着しているようだからな。その者が八つ裂きにされればさすがにリューザ=リカオ=キースダリアも顔色を変えるだろう。……妹を侮辱した償いを受けてもらう」
「……妹……」
今はともかく、かつて魔界にいた頃、リューザ=リカオ=キースダリアの素行があまりよろしくなかったことは、シアもうすうす感づいていた。
とくに女性関係は……いや、どうやら相手は女性に限らず……なかなか華やかだったらしい。
大抵の者は自分には扱いきれない相手であることを悟り自ら立ち去るが、まれに己が将来、魔界の妃になることを夢見る者もいる。バルヌスの妹も、そういった者たちの一人なのだろう。
バルヌスの身分がガダン王嫡子であることを考えれば、その妹もそれなりの高貴な身分だということになり、妃の座を望むこともあながち過ぎた願いとも言えないが。
シアはバルヌスに聞こえないようにそっとため息をつく。
あの方のことだ。その『妹』とやらを振るときに、一体どんな辛らつな言葉を吐いたのか。そのときの光景が簡単に想像できてしまい、シアは目眩を感じた。
自分の命を賭(と)してまで、リューザ=リカオ=キースダリアに楯突こうというバルヌスの怒りは相当なものだ。
次代の魔王というだけでも敵対される要素は十分あるのに、あの方の良いとは言い難い性格が、無駄に敵を増やしていると思うのはけっしてシアの気のせいではないだろう。
「さあ、満足したか? 私に殺される覚悟はついたか?」
「随分と親切に聞いてくださるのですね。私の意志など関係なく、私の命を奪うことなど容易いことでしょう?」
「私は美人には親切なんだ」
「美人だと認めていただき光栄です。……でしたら、その『美人』の体を、味わってみたいと思いませんか?」
シアは艶やかな笑みを浮べて見せた。そして惜しげもなく身に付けていた衣服を地に落とし、一糸纏わぬ姿になる。
シアの体を見てバルヌスは驚いた顔をした。驚きの理由は分かる。シアは両性具有体だった。人間であった頃は一つの性に定まっていたが、リューザ=リカオ=キースダリアの部下となってからは、男でもあり女でもある存在になった。
豊かとは言えないが膨らんだ胸に、股間に付いている男性器。体の線は男にしては柔らかく、女にしては固すぎる。
アンバランスがゆえの美しさ。
シアは自分の魅力を十分承知していた。
シアはしなやかな腕をバルヌスの太い首に巻きつけ、媚びた目で見上げた。
「殺す前に、どうか私を天国に連れて行ってください。あなたが……欲しい」
濡れた声で囁く。
だが、シアの色仕掛けにバルヌスは乗ってこなかった。
気がついていたのだ。シアの魂胆に。
「悪いが、私は毒入りの果物を食(しょく)す気はない」
バルヌスは冷ややかに笑った。そして、シアの腹に指をめり込ませた。
「うっ……ぐぅっ……」
「ほう。すでに人ではないくせに、そなたの血は赤いのか」
バルヌスは指でシアの胴体を貫通させ、そして一気に引き抜いた。
「…………っ!!!」
シアの口から声にならない悲鳴が漏れる。辺りに鮮血が飛び散る。壊れた人形のようにシアは地面に崩れ落ちた。
「あまり苦しませては可哀相だ。そなたの美しさに免じてすぐに殺してやろう」
バルヌスはシアの細い首に刃を押し当てた。
シアはこれまでかと観念する。
だが、もう、いいのだ。
なぜなら自分は確かに感じている。
すぐ傍にある主の気配を……。





「ぐおぅっ!!!!」
シアを手にかけようとした瞬間、バルヌスは見えない力で吹っ飛ばされた。
「ガダンの不肖の息子の分際で俺様のモノを傷つけるとは、マジでアホとしかいいようがねぇよな」
ふてぶてしい表情に、侮蔑するような口調。
バルヌスの主への憎悪は間違いなく深まっただろう。
シアは力の入らない体を諦め、寝転がったまま二人の様子を観察していた。
血はすでに止まったが、肉の再生にはしばらく時間がかかりそうだ。バルヌスから受けた傷はけっして浅くはない。
「貴様っ! リューザ=リカオ=キースダリア!!」
「なるほどね。あんた、シスコンだったもんね。けど、いっとくけど、抱いて欲しいっつーから仕方なく、ボランティア精神で抱いてやっただけだぜ? 一度俺と寝ただけで、恋人気取りっつーとこが図々しいよなぁ」
図々しいなんてことを、この主にだけは言われたくないだろうとシアは思った。シアの内心に気がついたらしく、リューザ=リカオ=キースダリアはシアの頭を足で蹴った。
「お前もアホな子だね。色気ないのに色仕掛けって、成功するわけないじゃん? もっと違う技、磨いてきなさいね」
「……はい」
……と、言うことは、リューザ=リカオ=キースダリアはすでにシアがバルヌスを誘惑しようとしていたときにはこの場に到着していたわけで……。
だったらもう少し早く登場してくれれば自分はこんなに大きな傷を負うこともなかったのにとシアは思った。
「ふん。痛い目に合わなきゃやる気になんねぇだろ? 自分がいかに弱いか再確認したところで明日から修行しな。とりあえず俺はこのシスコンヘンタイバカに自分のバカさ加減を思い知らせてやるしぃ?」
「……リューザ=リカオ=キースダリア……殺す……!!!」
「殺す、ねぇ。ま、妹があの程度なら、兄もこの程度だよな。うちの妹も大概アホだけど。あんたんとこの妹はねぇ、ありゃあヤバイって。すげぇインラン。あの女、俺に跨って思いっきり腰振っちゃってさ。声もでかいししつこいし、めちゃめちゃ興ざめって感じ? あそこはガバガバだしねぇ? 色情狂なんじゃねぇの? やっぱさぁ、純真な若者である俺としては、恥じらいのある女性が好みっつーかぁ」
「貴様っ! それ以上、妹を愚弄する気なら……!」
「へぇ……。する気なら、何……?」
王者の気配を身に纏(まと)わせ、リューザ=リカオ=キースダリアは冷たく笑った。
そこに立っているだけで、畏怖の念を抱かずにははいられない。
自分に向けられた殺気ではないと知りつつ、シアは身が凍る思いがした。
主の毒舌には問題ありだと思うが、あの暴力的なトークが終わったときこそ本当に恐ろしいのである。
「リューザ=リカオ=キースダリアに楯突いたことの意味を、知るがいい」
魔界の皇子は『テタニディスの槍』を己の手に呼び寄せた。真の主の手の中で、『テタニディスの槍』は嬉しそうに打ち震えた……。
 
 
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