【悪魔と愛犬 -01-】
 
「どんな願いでも叶えてやろう。貴様は一体、何を望む?」
美しい悪魔は傲然(ごうぜん)とした笑みを口元に浮かべ、誘惑の言葉を口にした。
少年は、少し困った顔で小首をかしげた。
「どんな、願いでも……?」
「ああ。富を望むか?」
少年は首を横に振った。
「名声を望むか?」
少年は再び首を横に振った。
「では、お前はなにを望む? 強い望みがあるからこそ、俺を呼び寄せたのだろう?」
少年の『声』を聞き、悪魔は少年のもとを訪れた。
誰か助けて。
哀しくて、切なげな、『声』。
ちょっとした好奇心だ。暇つぶし、とも言うかも知れない。
気まぐれに悪魔は、声の主(あるじ)の願いを聞き届けようと問いかけた。
「……本当に、なんでも叶えてくれるの?」
「ああ。もちろんだ。この俺に出来ぬことなど何もない。なにせ俺は、いずれは魔界を継ぐ身、魔王の嫡子だ。そんじゃそこらの悪魔とはまるっきりレベルが違う。お前が願えば地球さえも滅ぼしてみせるぞ」
悪魔はにたりと笑って言った。
悪魔の力は強大で、この世の出来事で彼の思いどおりにならないことなど何一つとしてなかった。少年がどんな願いを口にしようが、瞬時にそれを実現してみせる自信があった。
「じゃあ、傍にいて」
「……」
少年の願い事は悪魔の意表をついた。
悪魔は一瞬、絶句した。
人を唆(そそのか)すことが大好きで、饒舌な悪魔にしては極めて珍しいことだった。
「なんでも願いを叶えてくれるんでしょ?」
「まあな。だが……それが本当の願いか? 悪魔を傍に置くことの意味を、お前は分かって言っているのか?」
「……だって寂しいのはイヤ。……だから、お願い。俺が死ぬまで一人にしないで。ずっと俺の傍にいて……」
「…………」
黙り込んだ悪魔に、少年は不安そうな顔をした。
「やっぱり……ダメ? そうだよね。俺なんかに、一生付き合ってくれるなんて、無理だよね……」
一番の望みが叶わないことを悟って、少年はぽろぽろと涙を流した。
少年の心に再び重い絶望が圧し掛かってくる。
「ばーか。俺様に無理なんてことはねぇよ。人間の寿命なんざ、俺から見たらささやかな時間だしな」
悪魔は尊大な口調で言った。
その程度の願いさえも叶える力がないなどと、勘違いされても困るのだ。威信にかけて。
「じゃあ……」
少年は泣き濡れた瞳のまま、期待を込めて悪魔の顔を見上げた。悪魔は深々とため息をついた。
「あのなあ、俺は、悪魔なの。ま、人間が考えてるより、悪さするわけじゃないけどな。だが俺といて幸せになれないのは確かだ。考え直したほうがいいんじゃねぇの?」
他人を不幸にすることはあっても、幸せにすることはない。
それは悪魔が魔族に所属しているからというより、悪魔自身の生まれ持った性格によるところが大きい。
悪魔の母親であり魔王であるキアセルカ女王は、非常に慈悲深い性格をしていた。悪魔とは血の繋がりがあることが信じられないほどに。
人の泣き顔や困った顔が大好きで、人を陥れることになんの良心の呵責を感じない悪魔は、極悪な性格をしている。
それは本人も自覚していた。
だからこそ少年の願いを叶えることを躊躇った。
つまり、少年の幸せを願う程度に、悪魔は少年を気に入っていたのだ。
「そんなこと、ないです。一人きりよりずっといい……。お願いです。傍にいてください」
少年は真摯な目をして、再び願いを口にした。
悪魔はしばらく無言で考え込んでいたが、やがて口角を吊り上げにっと笑った。
「よかろう。貴様の望み、叶えてやる。悪魔の中の悪魔。次代の魔界を担う者、リューザ=リカオ=キースダリアの名に懸けてな」
そして、契約は成立した。
それは破られることのない約束だった……。




誰にでも、一生忘れることの出来ない思い出というのは存在すると思う。例えば、初めて誰かに告白したときのこととか。大学に合格したときのこととか。恋人に振られたときのこととか。
いつもは心の隅のほうにあって、ときどきふと思い出し……ああそういえば、昔、あんなこともあったな……と懐かしむような一日。
久能和己(くのかずみ)にとって、それはたった一人の肉親に別れを告げた日のことだった。懐かしいと思うには、哀しすぎる思い出ではあるけれど。
自分が世界で独りきりになってしまったことを自覚した、母親の葬式の日。あの日は朝からしとしとと雨が降っていて、和已の気持をより哀しくさせた。今でこそ落ち着いた気持ちで思い出すことができるけど、あのときは哀しくて哀しくてしようがなかった。
和已は父親の顔を知らない。詳しい事情は母に訊かなかったし、母もなにも言わなかった。母はとても美しい人で……控えめで、優しく、賢い女性だった。
和已は母親が大好きで、父親がいなくても少しも不幸ではなかった。だからあえて父について尋ねようとはしなかった。
興味がなかったわけではないが、不用意な言葉で母を傷付けてしまわないか心配で、和己は母の前では父親のことなど関心がないふうを装った。
和己は母の手一つで育てられてきた。母だけが和己にとって唯一の肉親だった。
その母も死に、和已は途方に暮れていた。まだ義務教育も終えていない和已が、たった一人で生きていくには世間は厳しすぎる。和已はまだ十二歳。学年でいえば中学一年生だった。
親戚はいるのかも知れないが、和己は会ったことがない。もしかしたら母は家出してきたのかも知れない。自分の恋を貫くために。和已をこの世に生み出すために……。
和已が母の死を哀しみつつも、明日への不安に怯えていたとき、救いの手は差し伸べられた。
「お前、俺の犬になりな」
降ってきた燐とした声に、和己は顔を上げた。
目の前に立っていたのは美しい造形の少年だった。宝石のような黒い瞳に和己は見とれた。
その少年の名を和己は知っていた。
穂高匡(ほだかたすく)。話をしたことはほとんどないが、和己の憧れのクラスメートだ。
和己は一度、匡に助けられたことがあった。母子家庭であることを原因に、いじめられそうになったときのことだ。
もっとも父親がいないということはきっかけにすぎず、多分に和巳の気の弱い性格が彼らにつけこまれた一番の理由だとは思うが。
「へぇぇぇぇ。俺も親が離婚してさぁ、ハハオヤしか家にいないんだよね。俺のことも苛めてみる?」
和己を囲んでいた五人の少年たちに向かい、匡はにっこり微笑みながら言った。まさか邪魔をされるとは思っていなかった彼らは、驚いた顔をした。
「んだよ、穂高。こんなオカマヤローを庇うのかよ?」
「庇うっつーか、低俗なバカどもが目障りってカンジ。お前ら公害。いい加減にしてくれる?」
馬鹿にしたような表情をして馬鹿にしたような口調で、匡は和己の周囲にいた少年たちを侮辱した。
「……穂高、俺らを怒らせる気かよ」
「怒らせるのも何も、迷惑してるのは俺なんだけど。言ったろ? お前らは公害だってね」
和己ほどでもないが、匡も華奢な体つきをしている。このままでは和己の代わりに匡が殴られてしまう。苛めっ子たちはみな、和己や匡よりも大きな体格をしていた。
「とくにお前、絶望的にバカだね」
一番背の高い少年を匡は指差しぴしゃりと言った。
「愛情表現、もうちっと考えたら?」
匡の言葉に、何故か少年は顔を真っ赤にした。そして忌々しげに舌打ちすると、和己を一瞥してから去っていった。
「あ、ありがとう……」
和己がどもりながら礼を言うと、匡はふふんと鼻で笑った。
「俺がもし今、お前のこと庇わなかったらどうなったと思う?」
「どうって……」
「ま、在学中はあいつらのパシリ決定だよな。一度でも甘い顔見せれば付け上がるようなやつらだ」
「…………うん」
「それだけならともかく、お前の場合は可愛いから、やつらの公衆便所にされること間違いなしだな」
「公衆便所?」
意味が分からず和己は首を傾げた。
「性欲処理の道具。卒業までにこの可愛いお口に、何十本ものきったねーちんちんを咥えさせられるだろうな」
匡はにやりと笑い、和己の唇を親指でなぞりながら言った。匡の言葉よりも和己はなぜか匡の指の動きが気になった。
……気持ちイイ。もっと撫でて欲しいな……。
匡の指が離れていったとき、和己は寂しさと物足りなさを感じた。
「口だけじゃなく、ケツの穴にも突っ込まれるだろうな。ボスのオンナになって守ってもらうって手もあるけど、お前、要領悪そうだもんな。ケツ便所決定」
喉の奥で匡はくくくと笑った。
「…………」
頭の回転があまりいいほうではない自分は、匡の言葉を半分も理解できなかった。でも、匡に可愛いと言ってもらえたことは、男のくせに嬉しいと思ってしまった。
目をぱちぱちさせて匡の顔を見上げると、匡はまた笑った。
「ま、せいぜい後ろに気をつけるんだな」
後ろに気をつけろといわれて思わず後ろを振り向くと、匡は腹を抱えて爆笑していた。
「あの……?」
「お前、面白いな」
匡は笑いながら立ち去っていった。和己はもっと話したかったと未練がましく匡の背を眼で追いかけたが、匡が振り返ることはなかった。
この日以来、和己にとって匡は特別な人間になった。
同じクラスだ。話しかけるきっかけはいくらでもある。
だが、内気な和己は、なかなか自分から話しかける勇気を持てなかった。匡のほうからも話しかけてはこなかった。話をしたいのに出来なくて、和己は寂しかった。
和己は匡の存在に焦がれ、いつも目で匡の動きを追っていた。彼は一人でいることが多かった。しかしそれを苦痛に感じているようすは微塵もなかった。彼は孤独を完全に支配していた。
美しい孤高の人。
……好き。
恋心はすぐに自覚した。
自覚したらますます話せなくなった。
せめて自分が女だったら、この気持ちに後ろめたさなど感じなかっただろう。だが、自分は匡と同じ男だ。同性の相手に想われて、匡が喜ぶとは思えない。きっと、迷惑にしかならないのだ。この想いは。……いや、迷惑にすらならないかもしれない。
匡は、自分が気に入らない相手はキレイにいないものとしてしまうから。もし自分の気持ちに気付かれて、「いないもの」にされてしまうことが怖かった。
だからずっと、黙って見ていた。自分の想いに気が付かれないように……。
友達も数人出来た。あれから苛めっ子たちが絡んでくることもない。和己は平和な学校生活を送っていた。それでも心は彼の一挙一動にかき乱されていた。和己の恋心は枯れる気配もなく、ひっそりと咲き続けた。
そして今、その匡が、和己の目の前にいる。
匡は傘も差さず雨に濡れながら、母の死に涙を流す和已にむかって言った。
「どうせ、行くところないんだろ? お前、カワイイからな。俺が飼ってやるよ」
非常識なセリフを匡はさらりと口にした。
「お前、今日から俺のペットな。イイコにしてたらずっと傍にいてやるよ。お前が寂しいなんて思わないようにな」
匡はいつもの傲慢な口調で言い放った。
どう考えても親の死を哀しんでいる人間に対する言葉ではない。普通であれば「ご愁傷様でした」と悔やみの言葉を述べるところだろう。
しかし和已はその言葉を受け入れた。その言葉を発したのが、他でもない、穂高匡だったから。
それから中学卒業まで和己は匡と共に暮らした。
今も一緒に暮らしている。今のところ、匡は傍にいるといった言葉を忠実に守り続けてくれている。憧れていた相手との同居生活は、和己にとって夢のように幸せな日々だった。





「いってらっしゃい」
「おう。行って来るぜ」
和已は玄関まで、自分の飼い主の匡を見送った。
いつもの日課である。これは匡の知らないことだが、和已は玄関へ匡を見送ってすぐ、ベランダへ向かう。マンションの出入り口から出てくる匡の姿を見るためにだ。
匡はいつも和己の視線に気がつかない。振り向くことなくそのまま大学に行ってしまう。それでも和已は毎日ベランダから遠ざかる背中を、その姿が完全に消えるまで見送っていた。
「あ〜あ。いっちゃった…」
和已は寂しそうに呟く。
出来ることなら、四六時中ずっと一緒にいたい。同じ中学に通っていた頃が懐かしい。あの頃は学校でも家でも匡の傍にいられて和己は幸せだった。今だって、十分すぎるぐらい幸せではあるけれど。
匡は出会った頃、すでに親元を離れて一人で暮らしていた。そこに和己が転がり込んだのだ。
母親が死ぬまでは母と二人で。母が死んでからは匡と二人きりで和己は生活していた。「飼ってやる」といった言葉どおり、匡は和己が従順な犬である限り、世間の荒波から和己を守ってくれていた。
近くに置いて貰えるのは匡が好きな相手を見付けるまでと分かっている。だから尚更、出来る限り匡の傍にいたいと思う。
和已は知っていた。匡が自分を拾ったことは、単なる同情に過ぎないと。
もしくは気まぐれ。こっちのほうが、可能性は大きいかも。
一人暮らしに潤いを。
退屈しのぎにペットを一匹。
きっと、そんなところに違いない。中学一年生のころからの長い付き合いだ。匡の気性はよく分かっている。
我が儘で意地悪。退屈が大嫌いで、面白いことが大好き。負けず嫌いで天の邪鬼。傲慢で自信家の皮肉屋。けれど、和已の、誰よりも愛しい人。
「捨てられたら、死んでやる……」
和已はずっと前からそう決めていた。
捨てられたら、死んでやる。
匡は自分の世界そのものだから。匡がいなくなれば、世界は瓦解する。崩壊した世界に、自分は存在していられないから。
匡に捨てられることを考えるだけで、和已の心を恐怖が占める。
捨てられたら、死んでやる。
そう思うことで和已はその恐怖と戦うことが出来た。かろうじて、心の平安を保つことが出来た。
死は安らぎだ。
匡のいない世界で生きることは、苦痛以外の何ものでもないから。
別に死にたい訳じゃない。ただ……死より辛いことは、世の中には確かにある。和已にとっては、匡を失うことがそれだった。
「……うう……。いかん、思考が暗くなってしまった……。さっさと洗濯して、出掛けよう……」
和已は身を翻し、ベランダから室内に戻った。
掃除、洗濯を午前中に終えてから、バイトに出掛けるのがいつものスケジュールだ。洗濯は三日に一回程度だが、掃除は毎日している。常に居心地の良い空間を、匡のために作っておきたいから。
匡が自分に与えてくれるものと比べたら、自分が匡にしてあげられることはあまり多くない。だからどんな些細なことでも匡の役に立てるのなら、和己は嬉しいと思っていた。





「そろそろ解放してやったらどうだ」
匡はこの世界においては妹である女の言葉に肩をすくめた。
妹の名を、天城紗那(あまぎしゃな)という。両親が離婚したため、兄妹(きょうだい)であっても二人の苗字は違う。ファザコンの傾向のある妹は、迷わず父親の姓を名乗ることを選んだ。
自分が母方の姓を選んだことには深い意味はない。どちらかといえば父に付いていったほうが正しい選択であることは分かっていた。目の前にいる妹も、この世界での自分の父も、厳密な意味では人間ではない。自分と同じような存在なのだ。
だからこそあえて匡は母に付いていくことを選んだ。正しい道が見えていたら、その逆を行きたがる傾向が匡にはあった。
「解放? 勘違いしてないか? 契約に縛られているのは俺のほうだぜ」
匡が馬鹿にしたような口調で言うと、単純な妹は簡単に表情を改めむっとした顔をした。妹とは言っても、紗那の外見は青年にしか見えない。それもとびきりハンサムな青年だ。父親似の凛々しい顔立ちをしていた。背も自分より、やや高いぐらいだ。自分も平均以上の身長ではあるのだが。
おかげさまで、二人でいるときに逆ナンパされることも珍しくなかった。
「な〜にが契約に縛られてる、だ。次代の魔王、リューザ=リカオ=キースダリアを、人間が契約で縛れるものか」
紗那は不機嫌そうな顔で匡を睨みつけながら言った。人のいい妹は、和己の身の上を本気で心配しているようだった。妹は昔から、面倒見のいいところがあった。自分とは大違いである。
紗那の和己へのおせっかいを、鬱陶しいとは思わない。むしろまっとうなものだと思う。今はよくてもこのまま自分とともにいれば、和己は不幸になることは確実だ。自分の性質が和己の幸福を妨げることを、匡はよく分かっていた。紗那の言うとおり、和己を解放してやるべきだ。しょせん、自分は人とは相容(あいい)れない存在なのだ。
「しゃーなーちゃん。お節介している暇があったら、自分のダーリンもしくはハニーを見つけなさいね。不毛な片想いしてないでさ」
にっこり笑いながら放った匡の嫌味に、紗那は憮然とした顔で黙り込んだ。
紗那は父親の恋人に恋をしていた。
父の恋人もまた純粋には人とは言えない。
父親の天城誠司(あまぎせいじ)、その恋人である美樹原優也(みきはらゆうや)、そして妹の紗那の正体は、人間からは『天使』もしくは『神』と呼ばれる自分とは逆の属性を持つ存在だった。
だからと言って、彼らと『悪魔』の仲が悪いかといえばそうでもない。互いに互いの存在が必要であることは分かっている。天界と魔界は表裏一体。どちらが欠けても世界は崩壊する。
紗那が自分を目の敵にするのは、たんなる相性の問題である。匡のほうでは紗那のことは気に入っていた。だが、匡には気に入った人間ほど意地悪をしたくなるという困った癖があった。それゆえ、幼少時に紗那を苛め抜いた結果、紗那は匡の顔を見ただけで拒否反応を起こすようになってしまった。
……あいつはどんなに苛めても、俺を慕うことを止めないけどな。
手放せない、と匡は思う。
紗那の言うことは正しい。だが、従う気になどなれない。
アレは自分の大事なペットなのだ。
「ところで紗那ちゃん、そんなくっだらねぇことを言うため、わざわざ俺を呼び出したの?」
「くっっっっだらねぇことだとは思わねぇけど、それだけじゃないのは確かだ。オヤジから預かってきたものがある」
A4サイズの封筒を匡は紗那から受け取った。手にしてみるとずっしりと重く厚さもかなりあった。その場で中を確認して匡はにんまりと笑った。
……さすが『グレス=ファディル』だな。
父親の誠司は、匡とは対等であり両極の位置にいる。匡が次代の魔界を担うものであるとすれば、誠司はいずれ天界を担う存在だった。誠司の天界での名を『グレス=ファディル』と言う。現在、天主の位にあるアルザールにその実力と才を見込まれ、跡継ぎに指名されたのだ。
「あの……お二人ですか?」
「私たちと一緒にカラオケでも行きません?」
先ほどから紗那と匡のようすをちらちらと伺っていた女子大生二人組みが、笑顔で誘いをかけてきた。
二人ともかなりハイレベルな女である。誘って断られたことなどないのだろう。自信に満ちた表情で匡たちを見下ろしている。
匡は彼女たちに負けないぐらいの笑顔を浮べて言った。
「すみません、僕たちゲイなんです。女性には興味ありません」
「ぶ〜〜〜っ! げほ〜〜っ!!!」
紗那は匡の言葉にお茶を喉に詰まらせた。
女性二人は呆然とした顔をしている。
「〜〜〜た〜〜す〜〜く〜〜」
苦しそうに咳き込み紗那は目に涙を溜めながら、鋭い眼で匡を睨んだ。
「や、やだぁ、冗談なんでショ?」
「そ、そうよ。私たちをからかってるのね?」
女子大生は逞しかった。顔を引き攣らせながらも無理やり笑顔を浮べて見せた。しかしそんな努力も匡が無残に打ち砕く。
「いや、マジ」
匡は紗那の顎を掴んで引き寄せ、そして……。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
紗那の全身にびっしりと鳥肌が立つ。女子大生二人は無言で立ち去る。
店内に居る人間全員が、紗那と匡の行動に注目していた。
「たったったっ匡、てめぇっ!!!!」
紗那は頬を抑えて怒鳴った。
「ふっ……。照れ屋だな、紗那。頬にキスしただけだぜ?」
「俺は照れてるんじゃねぇっ!!!! おぞましいことすんなっ!!!!!」
「お前、煩(うるさ)いよ。店中の注目を浴びてるぜ?」
「……誰が煩くさせているんだ」
紗那は恨みがましい目を匡に向けた。匡は鼻先で笑い、伝票を手に立ち上がった。
「お兄様が奢ってやるよ。お使いの礼だ。父さんによろしくな」
「匡、オヤジから受け取ったのってなんだったんだ?」
「ヒ・ミ・ツ。お兄様にちゅー出来たら教えてやるぜ?」
匡は自分の頬を指差しながら言った。紗那は顔を歪ませた。
「ぜってぇヤだ。……オヤジに聞くからいい」
紗那の不愉快そうな顔を、匡は楽しい気持ちで見守った。本当にこの妹はからかいがいがある。
「それじゃあ、またな」
テーブルに紗那を残し、匡は一人で先に店を出た。
店内にいたので気が付かなかったが、外はいつの間にか雨が降り出していた。
雨に濡れるのは嫌いではない。
匡は悠然とした足取りで、雨の街を歩いた。
……あいつが、待ってるな……。
従順なペットの顔を思い浮かべる。なぜああまで自分に懐いているのか謎だ。好かれるようなことをした記憶はない。
「犬は飼い主を選べないからな。仕方ないか」
なんて可哀相な“ペット”。
あのとき自分を呼ばなければ。
あのとき自分と出会わなければ。
幸せな人生を手にすることも出来たのに……。
 
 
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