「木根、ちょっと飲んでかないか?」
……きたきたきたきたきたきたーっ!!! 紗那教官の班での研修中は、亮介が司郎の指導係となっていた。今朝は見かけなかったのでほっとしていたが、昼下がりに戻ってきて司郎の指導についた。昨日の件で司郎は戸惑いがあったが、亮介は完全に仕事モードで、訓練中は教え方も丁寧で実力もり、文句なしに尊敬できる上司だ。司郎の目の前に、他の部下に指示を飛ばす亮介は、どこからどう見ても頼りがいのある上司で、自分よりも十数センチメーターほど下にある亮介の顔を眺めながら、昨日のあれは夢か幻だったのではないかと思い始めていた。 だが、訓練が終わり、二人っきりで更衣室に入ったとたん、二人の間の空気が微妙に変化したのを司郎は感じ取った。亮介の食い入るような熱い視線に、シャツのボタンを止める手が震えた。 「いえっ、あのっ、でもっ、俺、まだ給料出てないし、お金ないんで……」 「今日は奢るよ。一応、先輩だしね」 「いやっ、そのっ、申し訳ないし……」 「……………………………………俺と一緒に飲みたくないの?」 室温が下がった気がした。 「……………………………………えっ。あ、あの……………………………………」 ……こ、怖いっ!! めちゃめちゃ怖いっ!!!! 「……………………………………ご馳走になります」 逆らえるはずがなかった。 売られて行く仔牛のような気分で、司郎は亮介に連れて行かれたのだった。 亮介に案内されたお店は、料理も旨くて酒も旨かった。 「木根、よく食べるね。おいしい?」 「はい。すごくおいしいです」 金欠病のため、ここ最近は心ゆくまで食べることが出来なかったことを司郎は思い出した。今日の昼食は、社員食堂で一番安いきつねうどんだった。朝食は抜いた。昨夜の夕飯はカップラーメンだった。 司郎はよく食べよく飲んだ。 穏やかな微笑を浮かべて座っている目の前の男は、とうてい危険な人間だとは思えなかった。亮介は博識で、仕事のことはもちろん、色々なことをよく知っていて、豊富な話題は司郎を飽きさせなかった。 ……亮介さん、けっこういい人かも…………。 ……こんなにたくさん……嫌な顔もせずに奢ってくれるし……。結構、高そうな店なのに……。 ……昨日みたいなヘンなことさえしてこなきゃ、いい上司かも……。 司郎の中から警戒心はすっかり消え失せていた。 だからこそ危険だということを、司郎は分かっていなかった。 亮介の害のなさそうな容姿は、相手を油断させる。亮介はそれを熟知していて利用していた。司郎は亮介の思惑に、まんまとはまっていたのだ。 そして、地獄の朝を迎えた。 ……ここ、どこだ? 自分が見知らぬ部屋で寝ていることに気が付いた。 自分が全裸で寝ていることに気が付いた。 そして、隣に眠っている男も全裸だった。 ………………………………………………。 ……………………………………………え? 「ん……」 隣に寝ていた男が身じろぎした。 司郎は体を硬直させた。 「おはよう、司郎」 隣に眠っていた男は、亮介だった。現状を理解することを拒否し、思考を強引に停止させた司郎に亮介は軽くキスをした。触れるだけの口付けだった。 だが、十分衝撃的だった。 ……ぎゃあああああああああああああっ。 司郎は内心で絶叫した。 亮介は幸せそうに微笑んでいる。 「ふふ。司郎は前髪を下ろしてると、若く見えるね。カワイイ……」 「あっ、あのっ、瀬名副官……」 「二人っきりのときは亮介って呼んで。俺も司郎って呼ぶから。昨夜、そう決めただろう?」 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 …………………………………………昨夜? 「……………………………あの、瀬名副官」 「亮介」 「……………………………あの、亮介さん」 「なに?」 亮介はとろけるような甘い笑みを見せた。それはけっして、上司が部下に見せるような笑顔ではなかった。恋人だけに見せる顔だった。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 「昨夜……俺たち……」 亮介はぽっと頬を染めた。 司郎は顔を青くした。 「司郎、昨夜のキミは情熱的だった。……よかった」 「……………………………………………………………」 「もう無理って言っても放してくれなくて……。すごかった……」 「……………………………………………………………」 「ねぇ、もう一回、する?」 色っぽい目をして、亮介は司郎の体の上にのしかかった。亮介の手のひらが、司郎の裸の胸の上を滑る。恐ろしく淫らな手つきだ。 くすりと淫蕩(いんとう)な顔で笑い、亮介は司郎の耳たぶを甘噛みした。 司郎の背中にぞわりと悪寒が走る。 密着した肌から伝わる体温が気持ち悪くて吐き気を覚えた。いくら相手が男にしては綺麗な顔をしていても、男と裸で抱き合うことにたいする生理的嫌悪感は拭えない。 ………………………………………………ひいいいいいいいいっ。 「なんてね。名残惜しいけど、そろそろ支度しないとね」 亮介はベッドの上に司郎を残し、着替えを始めた。きびきびとした動作に思わず見とれる。 「司郎はもう少し寝ていなさい。朝食の用意が出来たら呼ぶから。着替えのシャツは、ちょっとキツイかもしれないけど俺ので我慢して。そこのテーブルの上に置いておいたよ」 「……はあ」 亮介はどうやら面倒見のいい性格らしい。三週間前に別れた絵里は、自分のために料理など作ってくれたことはなかった。母親にもここまで甲斐甲斐しく世話をされたことはなかった気がする。 「スーツはハンガーにかけておいたから、皺になってないと思う。じゃ、また後でね」 司郎の額にキスをしてから、亮介は部屋を出て行った。 「……昨夜……ヤったんだろうか……」 いくら記憶を探っても、昨夜、自分が亮介とセックスをしたかどうか思い出すことが出来ない。けれど、腰のあたりが……すっきりしているような……。 ……………………………………………………………。 ……やっぱり………………ヤったのか………………? ………………………………………………………和姦? 考えても考えても、昨夜の記憶は蘇ってこなかった。 「司郎、朝食の準備が出来たよ。起きておいで」 亮介の自分を呼ぶ声を聞き、司郎は起き上がった。気力を振り絞って服に着替え、声のした部屋に向かう。 部屋から一歩出て驚いた。てっきりマンションの一室かと思ったら、一軒家だったからだ。司郎の寝ていた部屋は二階で、食卓は一階にあった。 テーブルの上には和食が並べられている。朝から豪勢な食事に司郎は感動していた。 司郎は食べることが大好きだ。 最近は粗食だったので、夕べに引き続き立派な食事ができて嬉しかった。 司郎はいそいそと席に着いた。 「おはよう、司郎」 「おはようございます。亮介さん、家族と同居なんですか?」 他の人間の気配は感じられなかったと思いながらも司郎は尋ねた。 「え。違うよ。一人暮らし。なんで?」 亮介は驚いたように目を瞬かせた。 「一軒家だから……」 ……一軒家で一人暮らし……。俺の住むボロアパートとは大きな違いだな。 住居のレベルがそのまま男としてのレベルの違いを表しているようで、司郎は惨めな気分になった。そしてなおさら、どうして亮介が自分なんかを構うのか、不思議に感じた。 「一軒家って言っても、小さいでしょ? そもそも俺、両親から縁を切られてるしね」 「え? どうしてですか?」 「カミングアウトしたら出てけって。ゲイの息子はいらないってさ。それ以来、お互い連絡を取り合っていないんだ。さ、味噌汁が冷めるよ。早く食べなさい」 「あ。はい」 なにげなくヘビーなことを聞かされてしまった気がした。だが、亮介を傷つけることを恐れて、司郎は踏み込んで話を聞くことを躊躇った。そんな司郎の気遣いが分かったのだろう、亮介は微笑んだ。 「いただきます」 料理はおいしかった。司郎はご飯を三杯も食べてしまった。朝から満腹で幸せだった。 男とヤってしまったかもしれないという衝撃の事実を前にしても、司郎の食欲が衰えることはなかった。昨夜の食事もおいしかったし、亮介とは食の好みが合うのかもしれない。 幸せそうにご飯を食べる司郎を、亮介はそれ以上に幸せそうな顔で眺めていたのだった。 「ここ座っていいか?」 司郎と亮介が社員食堂で昼食を取っていたら、紗那教官がやって来た。 紗那教官は、どこからどう見ても美青年にしか見えない。なのに女なのである。自分に言い聞かせておかないと忘れてしまいそうだ。 『女』であると知識で分かっていても、あまりにも紗那教官が外見も中身も凛々しいので、つい勘違いをしてしまう。 今日、司郎が食べているのは、社員食堂で一番高いステーキ定食だ。もちろん亮介の奢りである。司郎は着実に亮介に餌付けされていた。 「え。紗那教官、席は他にも空いているじゃないですか。邪魔しないでください」 亮介は露骨に嫌な顔をした。 「瀬名、お前ね。それが上司に言うセリフか?」 紗那教官は苦笑いしながら亮介の隣に座った。亮介に迷惑がられようが、一向に気にしていない。 「ダメって言っても座るんなら、わざわざ聞かないでください」 「一応、礼儀で聞いてやったんだろ」 「そもそも紗那教官は、自分がこうと思ったことは絶対に曲げないし。振り回される周りのことも考えてください」 「んなことねぇよ。なっ、木根」 ……自分に相槌を求めないで欲しい。 紗那教官と亮介との間で始まった漫才のような会話を聞きながら、自分こそが邪魔者になった気がした。 「ところでお前ら、今朝、同伴出勤だったなぁ」 にやりと笑って紗那教官は言った。脱線して前置きが長かったが、おそらくこれが一番聞きたかったことなのだろう。 聞かれたくなかった司郎は、喉に肉を詰まらせて慌ててお茶を飲んだ。 「やだなあ、気付いていらっしゃったんですか?」 亮介は聞かれたかったようだ。 司郎と二人の時間を邪魔されて不機嫌そうだったが、表情を一転させ嬉しそうに笑った。 「まーな。で、どうよ?」 「何がです?」 「体の相性」 司郎は危うく、含んでいたご飯を噴出しそうになった。狼狽する司郎と違って、亮介は余裕の笑みを浮かべた。 「ご心配なく。ばっちりです。詳しくはもったいなくて教えられませんが」 ……そうか。体の相性、ばっちりなのか……。 司郎はますます落ち込んだ。このまま消えてなくなりたいと思った。 男と身体の関係を持ったと知ったら、田舎の両親と祖母と祖父と曾祖母と姉と兄と妹がなんと思うか。 ……妹は喜ぶかもしれない。あいつ、妙な本、読んでたしな……。 「ふーん。じゃ、恋人同士の二人にプレゼント。はい」 恋人同士なんかじゃない! と司郎は言いたかったが、嬉しそうに微笑む亮介の前でそんなことは言えなかった。 ……怒らせたら怖いし。 ……鬼畜らしいし。 紗那教官が二人に手渡したのは映画のチケット二枚と、細長い三十センチメーターはありそうな、綺麗にラッピングされた物体が一つ。 「? なんですか、それ?」 包装紙の中身が想像できず、司郎は首をかしげて紗那教官の顔を見上げた。 「ん? ヒ・ミ・ツ。後で二人で使ってくれ」 ……使う? なんだろう?? プレゼントの中身について考えている間に、紗那教官は立ち去ってしまった。 「なんでしょうね、それ? 開けてみてくださいよ」 「んー。ここではちょっと……」 「え? 瀬名副官は、中身がなにか分かるんですか?」 「……なんとなくね」 さすが、紗那教官と付き合いが長いだけのことはある。 司郎は感心してしまった。 「なんです? 教えてくださいよ」 「……また後で、ね」 亮介は照れたような顔で笑った。もともと亮介は童顔だが、目じりを下げるとますます若く見える。 可愛いな、と一瞬思ってしまった自分に司郎は慌てた。 ………………いけない! 毒されてるぞ、俺!? ……このまま流されてどうするっ!!?? 「せっかく映画のチケット貰ったし、今晩、どう? レイトショーには間に合うと思うし」 「あ、はい。分かりました」 ……って、今のってひょっとしてデートの誘い? いや、間違いなくデートの誘いだろう! はいって、はいって、頷いてる場合じゃないだろ! 断らなきゃダメだろ、自分―――っ!!! 「あ、でも、俺、今日は……」 「…………何? 今晩、用事でもあるの?」 亮介が目に剣呑な光を浮かべて言った。 ……ひいいいいいいいっ。こえええええええっ。 「よ、用事っていういか、俺、昨日と同じスーツだし! 今日は家に帰りたいかなあなんて! 生ごみ溜まってたし!」 司郎の言葉を聞いて、亮介はなぜか頬を染めた。 ……? 「やだなあ、司郎。映画を見に行こうって言っただけなのに……。今日も家に帰らない気だったの?」 「…………」 どうやら墓穴を掘ってしまったらしい。 「じゃあ、今日は、司郎の家にする? 嬉しいな。司郎の部屋が見られるなんて」 「……あはははははははは」 しっかりと両手で両手を握られ、司郎は引きつった笑いを浮かべたのだった。 「りょ、亮介さん……」 「何? 静かにしないと、他の人に迷惑だよ」 「でも、あの、手……」 紗那教官から貰ったチケットを役立てるために、亮介と司郎は映画館に来ていた。映画の内容は、甘ったるい恋愛映画。司郎の好みではない。だが、自分がチケット代を払ったわけでもないので別にいいかと大人しく映画を見ていたのだが、呑気にスクリーンを眺めている場合ではない事態が発生した。 ……ひぃぃぃぃっ。手、手が、手がっ!!! 平日の夜のためか、映画館は空いていた。埋まっていたのはせいぜい座席の十分の一といったところだろうか。だからといって、まったく人がいないわけでもなく、ゆえにみょーなところを触られて、みょーな声を出すわけにもいかず、司郎は焦った。 「止(や)めてくださいっ! あっ……」 必死で攻防戦を繰り返していたが、とうとう司郎は亮介の手の侵入を許してしまう。亮介の手が司郎のズボンの前をゆるめ、直に亮介に触れた。公衆の場だというのに亮介はイケナイ場所を大胆に弄(いじ)る。 「……っ……」 「すごい。司郎の、もうこんなに大きくなってる…」 ……清潔そうな顔して何さらすんじゃいっ。このセクハラヤローっ!! という罵詈雑言(ばりぞうごん)が喉元までせりあがっているが、司郎から見た瀬名亮介という人間は、すっかり『怒らせたら怖い人』というイメージが定着し……あながちそれも間違いではないのだが……そのため司郎が出来ることといえば、股間がこれ以上大きくならないように、ぐっと耐え忍ぶことだけだった。 「〜〜〜〜っ」 「感じてるね、司郎。カワイイ……」 亮介はくすくすと笑いながら、手の動きを一層激しいものにした。司郎の努力も虚しく持ち主の意思を無視して、司郎のイチモツは完全に勃(た)ち上がっていた。先端からはとろとろと、気持ち良さそうに透明な液を流している。亮介が先端の穴を爪で優しく引っ掻いた。たまらなかった。脳内が快感一色に染め上げられる。 ……でるでるでるでるでるでる〜っ!!! 「…………」 司郎は泣きそうな顔で亮介を見つめた。自分の窮地(きゅうち)を目だけで訴える。 「イきそう?」 言葉にする余裕もなく司郎は頷いた。亮介は嬉しそうな顔で笑った。そして司郎の足元に跪(ひざまず)き、口をかっぽり開けて司郎のモノを咥えた。温かい口腔で舐(なぶ)られしゃぶられ、司郎は自分の精子を亮介の口の中に逃がした。 ……また男の口の中でイってしまった…。 深い脱力感が司郎を襲った。亮介の口の中に射精するのはこれで二度目だ。いや、たった二度とは限らない。なにせ自分には昨夜の記憶がないのだ。亮介の話では、自分たちは情熱的な夜を過ごしたらしい。体の相性もばっちりだったとか。 ……やっぱ、ヤっちゃったのかな。 司郎は昨日の自分を殴りつけたいような気持ちになった。なぜ飲みに誘われたときに、断らなかったのかと。 だが今日の自分も断れていないことを考えると、たとえ昨日に戻れたとしても同じことの繰り返しだろう。司郎にできることと言えば、ため息をつくことだけだった。 ……ふっ…。これで俺もゲイの仲間入りか。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ………………………………………………。 ……いや、待てよ、木根司郎! 意識のない間にヤっちゃったかもしれないけど、けっして自分の意思ではない! まだ引き返せる!! 「司郎」 「な、なんですかっ」 「映画館、出ようか」 「じゃ、じゃあ、そろそろ俺の部屋にでも行きましょうか」 映画館を出ることに異存はない。人気のあるところでまたイタズラされるのは遠慮したい。 「うん。……部屋に行ったら、司郎ので、いっぱい気持ちヨクしてね……」 亮介はうっとりとした口調で囁いた。瞳を潤ませ頬を染める亮介を、迂闊(うかつ)にも色っぽいなどと司郎は思ってしまった。 ……ひええええええっ。やっぱ引き返せないかもーっ!!!! 「あのぉ、やっぱり、俺の部屋、止めときません? 掃除してないから汚くて……」 映画館を出てから司郎はおずおずと言った。自分の部屋に亮介を入れることが、とてつもなく恐ろしいことのように思えてきたのだ。 自分の部屋は、いわば自分のテリトリーだ。テリトリーまで踏み込まれたら、もうダメな気がする。すでにダメな予感はしているが。 「そう? じゃあ、俺の部屋にする? それともホテル?」 ……どちらもイヤです。 と、心の中で呟きつつも、実際には口に出せない司郎だった。 「あの、今日は俺、一人で家帰って部屋片付けます。それで、明日亮介さんを招待するってのはダメですか?」 たった一日執行猶予が伸びるだけだが、取り敢えずは目の前の危機を逃れようと司郎は必死だった。 「え。汚れてても俺、気にしないよ?」 「俺が気になるんです! 亮介さんを、あんな汚い部屋になんか連れて行けませんっ!!」 「大丈夫だよ、司郎。部屋が汚いからって、司郎のこと嫌いになったりしないから。掃除するなら、俺も手伝ってあげるし。二人でやればすぐに終わるよ」 「…………」 「ね」 「…………アリガトウゴザイマス」 きっともう自分は引き返せない。 諦めにも似た気持ちでそう思う司郎だった。 |