他人からは、「置物のように無表情だ」と評されることが多い。
よって、一目で見破れる人間は少ないが、表に現れていなくても、誠司はいささか落ち込んでいた。 ……我ながら、昨夜の行動は最低だった……。 あちらの世界に戻る。 それはこちらの世界での家族、友人、知人達全員との別れを意味する。ゆえにそれを知った優也が哀しむのは当然のことだ。 それなのに妻がわずかでも他に関心を移すことに苛立ち、乱暴に抱いた。 ことが済んだ後、しなやかで柔軟で逞しい少年の心を持つ妻は、「こーゆープレイもたまには新鮮でイイかも」と笑って許してくれたが、自分の弱さが自分で許せない。 ……妻は情が深いからな……。そこもまた、妻の可愛いところではあるが……。 最初から覚悟を決めていた誠司ですら、娘の恵那や部下達との別れは堪える。 誠司の子供達は三つ子だが、そのうちの一人……恵那だけが、普通の人間だった。正確には彼女たちは、この世界での誠司の父親にあたる人物と、その愛人であった美登里との間に出来た子供だ。血縁で考えると誠司とは兄弟ということになる。 しかし誠司は、自分の子供として愛情を注いできた。 ……あの出会いを仕組んだのは……あの男なりの配慮というわけか……? 誠司の娘である恵那と、優也の父である徹也は、誠司と優也が知り合う前に出会っていた。紗那は疑っていたが、仕向けたのは誠司ではない。それほどまで強い『先を見る力』がグレス=ファディルにあれば、もっと早くユリナの魂を捕まえることが出来たはずだ。 だからといって、偶然であるはずがない。『干渉』があったことは、疑うべくもない。 恵那と徹也は七年前に結婚し、二人の子供を授かっていた。 歳の離れた夫の深い愛情に守られ、幸せそうに微笑む娘。 他者が入り込む隙間などないほどの、完璧な幸福な家族。 一抹の寂しさを覚えると同時に、安堵する。 自分がこの世界から去った後、一時は哀しむかもしれないが、恵那にはそれを癒す存在があるのだ。 ……ここまでの道筋を描いたのは……おそらく、あの人だ……。 自分のエゴのために、母親から平気で子を取り上げるあの男が、これほどの気遣いができるわけがない。ゆえに、ここまでの道筋を考え実行したのは、あの人だ。 あの男の妻にして、唯一、あの男と対抗しうるだけの力を持つ者。 グレス=ファディルとユリナがこの時代にこの世界を去ることを知り、その際に心が痛まないようにと、出来る限りの配慮をしたのだろう。 肉親と引き裂かれる痛みを知っているあの人だからこそ、憂い、悩み、罪悪感を抱きつつ、最善と思える方法を考えたのだろう。 ……あの男の奥方とは思えぬほどの、お人よしぶりだな。いや、だからこそ、あの男の全てを受け入れ、愛することが出来るのかもしれない……。 そして、お人よしのあの人がいたからこそ、自分は今、この地位にある。 あの人に出会わなければ、とうの昔に誰からも顧みられることなく、自分の魂は朽ちていたはずだ。紛れもなくあの人は、恩人だ。 その恩人の子であり、己の最愛の妻でもある存在を昨夜どのように扱ったかを思い出し、誠司は重い溜息をついた。 絶対に手離せないと思っているくせに、何度でも迷う。己の闇と未熟さに向き合うたび、果たして『ユリナ』に相応しい男なのかと、自らの資質を疑う。 自分以外の誰かが夫だったなら、『ユリナ』はもっと幸福になれたのかもしれない。 だからといって、身を引く気になどなれるはずがない。あの男ほどではなくても、十分自分も身勝手だ。 今日は雲ひとつ浮かんでいない快晴で、一面ガラス張りになっているビルの最上階から外を眺めると、人工物にあたり反射した日の光が、きらきらと輝いている様が見える。 だが外の明るさと裏腹に、気持ちは曇ったままだ。 自己嫌悪。 誠司は再び溜息をついた。 「考え事中にすまない。頼まれていた書類が仕上がったのだが……」 「……奨」 声に驚き振り向くと、友人の奨が立っていた。 何度かノックをしたものの、返事がないので不在だと判断し、とりあえず書類だけでも置いて帰ろうとしたらしい。 「どうした? 珍しく、覇気がない。疲れているのか?」 「…………自分の至らなさに、我ながら腹がたってな。落ち込んでいた」 「なんだ、誠司でも、落ち込むことがあるんだな」 誠司の言葉に、奨は興味を引かれたようだった。 面白がるような表情をしつつ、奨は品を保って小さく笑った。 相変わらず優雅で美しい男だ。美しいとは、容姿のことだけではない。 あの男のどこをそれほど敬えるのかは謎だが、一途に父を慕い、ひたむきに恋人の心を求める。いくらでも、卑怯な手を使って恋人を手に入れる方法があるのに、恋人を信じ待ち続ける、誇り高さと純粋さ。かつての己の所業を悔やみ、己の罪を受け入れ、二度と同じ過ちを犯すまいとする、潔さと潔癖さ。 なるほど、あの男が気に入るのも頷ける。 強大な力を持ちながらも驕らず、自らの役目を果たそうと生真面目に課題に向かうところは、母親にそっくりだ。あの男の最愛の妻に。 「たまには、な。時間があるなら休憩をしていかないか? 茶の一杯ぐらいは付き合ってくれ」 「ではお言葉に甘えて」 誠司の誘いに応じて、奨は向かいのソファーに座った。『茶の一杯』といいつつ、誠司が部屋に備え付けられている小さな冷蔵庫から取り出してきたのは、よく冷えたワインだった。 誠司が好んで飲むのは焼酎だが、奨はワインが一番気に入っているようだ。たまたま得意先から上物のワインを贈られ、とりあえず冷蔵庫に保管しておいたことを思い出したのだ。 奨は苦笑しながら、誠司からグラスを受け取った。二人とも酒は弱くないが、奨がざるだとしたら、誠司は枠だった。酔うことはほとんどないが、稀に精神的に落ち込んでいると、少々酔いがまわることもある。例えば、今日のような日に。 「誠司、私は貴方に、お礼を言うべきかな?」 「何のことだ?」 「零からデートに誘われた」 「……そうか。それはよかった」 ……零は、一歩を踏み出せたわけだ。 誠司は安堵した。 常ならばしないおせっかいだが状況が状況なだけに、早々に二人の間にある問題が解決できればと願っていた。もっと時間があれば、手出しは不要だっただろう。誠司は奨のことも零のことも信頼している。 だが来るべき時のために、少しでも憂いを減らしたい。 「天城紗那があちらの世界に戻ってから半年経つが、そろそろ、か?」 奨の言葉に、誠司は頷いた。 ……やはり気がついていたか。 頭の回転が速く、察しがいい。有能な男だ。 天主の座を継いだあかつきには、彼の補佐は不可欠だと改めて確信する。 「ああ、そろそろ、だな。あの男の望むように動くのは癪だが、仕方ない。それがユリナを妻に迎えられる条件だったからな。キースダリアは5年前にあちらの世界に戻り、跡を継ぐ準備を始めている。あの男が焦れるのも無理はない」 「もうすぐ役目から解放されるのだから、父上はさぞ、喜んでいらっしゃるだろう。責務を引き継がなければならぬ身としては、気楽ではいられないだろうが」 「まったくだ」 奨の言葉に誠司は頷いた。 古い世界のことや、世界のあり方については、すでに奨に話していた。 現在は天主の座にあり、ラザスダグラたちの父親でもあるあの男が、同時に魔界を統べるキアセルカ王の夫であること。 かつて世界は一つだったが、世界を存続させるために世界を三つに分け、夫婦だったアルザールとキアセルカはそれ以来、別々の世界で暮らさざるを得なくなったこと。 再び二人で共に過ごすため、アルザールもキアセルカも己以外の適任者に、自分が支配する世界を任せたがっていたこと。 そして、グレス=ファディルが、アルザールとキアセルカに出会ったときのこと。当時すでに長子であるキースダリアは独立していて、両親と行動を共にしていなかった。「息子と夫の折り合いが悪くて……」と、一つの世界を司る女王は、妻であり母である己の未熟さに落ち込み、溜息をついていたのが印象的だった。全世界の中で最強の女性が持つ悩み事が、世間一般的な女性が持つ悩み事と変わりがないことに驚かされる。あの男と長男との仲が改善されたという話は聞かないから、おそらく彼女は今も同じ悩みを持ち続けているのだろう。 世界の理について、キースダリアほど詳しく理解できているわけではない。それでも知りうるすべてのことを奨に話した。 いや、話したというより、いくつかの事象や状況からほぼ正解に近い解答を導き出していた彼に、補足説明するだけでよかった。 残念ながら、アルザールに比べると、グレス=ファディルは力不足だ。だがその不足分は、補う方法を考えればいいだけのことだ。己の弱点が分かっているということは、それは武器にもなり得るのだ。 アルザールは己が完璧であるが故に、誰かに頼るということを知らない。一方、それに対してグレス=ファディルは、自分に何が欠けているかを知っているからこそ、他人の力を借りるということをいとわない。 幸い、優秀な人材は手に入れた。ラザスダグラだけでなく、養い子のデュアン=デュランも力を貸してくれるだろう。グレス=ファディルに足りないものを、彼らが埋めてくれる。世代交代直後の混乱も、最小限に抑えられるに違いないと誠司は確信していた。 「頼りにしている」 誠司の意を察した奨は、心得たとばかりに穏やかに微笑んだ。 それは、あちらの世界にいた頃には、けして見ることの出来ない笑みだった。 誠司と奨の間に生まれた絆もまた、『干渉』の結果なのだろう。だがそれでも構わない。『干渉』はたんなるきっかけに過ぎないのだから。 「う〜っ……。昨日は、失敗した……」 昨晩の激しいセックスのせいで痛む腰を抑えつつ、優也はベッドに倒れこんだ。そして昨夜の夫とのやり取りを思い出し、落ち込んだ。 あちらの世界に戻れば、今まで優也を育ててくれた父の徹也とは二度と会えなくなる。大切な友人たちにも。 だが優也はすでにたった一人を選んでいるのだから、揺らぎを見せてはいけなかった。 優也の揺らぎが誠司を不安定にさせた。 「俺のばか。あの人を傷つけるなんて……」 子供の優維は食事の後、気持ち良さそうに眠っている。だから優也は思う存分、落ち込むことが出来た。 紗那がいなくなり、紗那に懐いていた優維がぐずらないかと心配したが、むしろ以前より手がかからないぐらいだった。 ……手がかからないというか…寝てばっか、だよね……。 食事の時間を除いては、優維は寝ていることが多かった。あまりにも大人しく寝続けているので、心配になって森屋女医に診察してもらったら、健康状態には問題ないとのことだった。彼女の医師としての力量は、誠司のお墨付きだ。彼女が問題ないと判断したのなら、99.99%の確立で、優維はまったくの健康体だと考えていいだろう。診断結果を告げる森屋女医の、冷静で揺らぎない瞳に優也は安心した。 元来、「男」である優也が出産した、特殊な生まれの子供だ。何があってもおかしくないと、生まれる前は不安で仕方なかった。ゆえに通常の子供と比べて睡眠時間が長いことぐらいのことは、大目に見るべきなのだ。 「……でも……すげぇ……良かったカモ……」 夫との激しい情事を思い出し、優也は頬を染めて熱い息を吐いた。 以前は、誠司が垣間見せる深い『闇』が怖かった。 深淵を覗き込むのが恐ろしくて、目を逸らし続けてきた。彼が許してくれていることに甘え、彼の全てを受け入れようとしなかった。 けれど寄り添い過ごしていくうちに、自然と少しずつ、それが当たり前だと感じられるようになっていった。触れ合っただけ、抱き合った分だけ、愛情は深くなり強固で、ゆるぎないものへと変わっていった。いつの間にか、彼が隠したいと願う心の奥の暗い部分さえ、それも紛れもなく誠司の一部だからと、受け入れられるようになっていった。 飢えるように夫の愛情を求めたときもあった。だが今は、以前のような焦りにも似た気持ちで、夫を求めることはなかった。ただ豊かな愛だけを感じることが出来た。 「……だから、かな。だから、このタイミングで、なのかな」 優也と誠司の間に確かな愛情が育まれたことを確信し、アルザールはグレス=ファディルに跡を継がせる準備を進めようと思い立ったのではないだろうか。たった一人で世界を支えることは、容易ではない。だからこそ、グレス=ファディルを支えることができるようにユリナが成長するまで、待っていたのかもしれない。ユリナだけでなくグレス=ファディルと、グレス=ファディルを囲む人々との絆もまた、必要不可欠な要素だったのだろう。アルザールに父としての尊敬の念を抱きつつも、友情や愛情さえも世界を支える礎にしようとする冷徹さには恐れを抱く。 「……あちらの世界に戻る前に、お父さんに、会いに行かないと……」 そして父だけでなく、この世界で知り合った大切な人たちと会わなければと優也は思った。 心が、残らないように。 優也は別れのときを思い、少しだけ泣いた。 哀しくないわけがない。辛くないわけがない。 けれどもう、決めたから。 すでにたった一人を選んでしまっているから。 泣くのは今日で最後だと、優也は零れる涙を手の甲で拭いながら、今日だけは自分に泣くことを許した。 ……さて、現場を見に来たものの、証拠はナシ、と。当然か。ま。予想通りだけどな。 紗那はグレス=ファディルの体が保管されていた、石畳の部屋へ現場検証に来ていた。 だが当然ながら、なんの痕跡もない。 『器』の周りに張られていた結界も、綺麗サッパリ跡形もなく消されている。 ……ここまでなんの気配も残ってないっつーのも、見事だよな。 結界を力づくで破ると、何かしらの痕跡が残る。それすら残っていないということは、結界の構造を理解し、「破る」というより「解いた」ということなのだろう。 グレス=ファディルの器を守っていたシロモノだから、当然、結界はチャチなものではない。犯人は相当の術士ということになる。 「どうよ? ユラは、なにか気づいたことでもあるか?」 おそらく“相当な術士”のうちの一人であろう同行者に紗那は聞いてみた。紗那の期待に応えられないことを申し訳なく思ったのか、ユラは少し哀しい顔をして首を横に振った。 気にするなという代わりに、紗那はユラの頭を優しく撫でた。 エリファリドに視線を送るが、肩をすくめて、首を横に振られた。 「んー。まあ一応、手分けして周辺調べてみますか」 犯人がこれほど鮮やかに結界を解除できるほどの腕前を持っているのなら、城内を見回ったところで証拠などでてこないということは紗那もエリファリド達も分かっていた。それに、すでにグレス=ファディルの部下であるウジンたちによって、城内とその周辺は徹底的に調査されているはずだ。 だが、万が一ということもあるので、エリファリドたちも紗那の意見に同意した。 紗那とユラが城の外回りを担当し、エリファリドたちは城を3つのエリアに区分し調査することになった。 ……懐かしいなあ。 中庭に出るために最短ルートで城内を歩きつつ、紗那は懐かしい生まれ育った場所を見回した。呑気に懐かしんでいる状況ではないと知りつつも、郷愁の想いを抑えきることは難しい。 グレス=ファディルに拾われたあの日から、この城は自分の『家』になった。この場所で、グレス=ファディルの役に立てる者になることを目標に、日夜、勉学や術と剣技、その他もろもろの修行に励んだ。 勉学はともかく、デュアン=デュランは昔、剣技が苦手だった。剣技の講師から匙(さじ)を投げられ、武人ではなく文官に進もうと諦めかけたときもあった。 だが、やはり、グレス=ファディルのような強い男になりたいという夢を捨てることが出来なかった。それなのに、どれほど、人一番練習しても上達しなくて、悔しくて情けなくて、泣いたこともあった。 ……あのときも俺、泣いてたよな。いやもうホント、弱かったよな。身も心も……。 「ふえっ……。ひっく……ひぃっく……」 グレス=ファディルから贈られた剣を前にして、デュアン=デュランは一人で泣いていた。あれはまだ城に来て二年も経っていないときのことで、あのとき自分は子供といっても差し支えのない年齢だった。 ……どうしよう。これじゃ、あの方のお役に立つことなんて出来ない……。 城の近くにある森の奥の湖は、デュアン=デュランの避難場所だった。泣きたいときは、いつもここに来て泣いていた。今日は剣技の講師にはっきりと、「向いていない」と言われてしまった。そのことがショックで悔しくて哀しくて涙が出た。 剣を握るには、自分は優しすぎるのだそうだ。 自分は優しいのではない。単に臆病なだけだ。 そのことが自分で分かるだけになおさら哀しかった。 ……せっかくあの方は、剣までプレゼントして下さったのに。 グレス=ファディルも引き取った子供を気に掛けてくれていたが、なにぶん政務で忙しく、顔を合わせない日が続くことも少なくなかった。もし自分があの方の役に立てるような男になれば、もっとあの方の傍にいられる。今よりもずっと近くにいられる。 そのことを強く望み、強い男になれなかった。 けれど現実を顧みれば理想とは程遠く、そんな自分が、あの頃は大嫌いだった。 情けなくて、泣けて、泣けば泣くほど、弱い自分が腹立たしかった。 「うっ……くっ……ううっ……」 俯(うつむ)いてめそめそと泣き続けていたら、突然誰かに頭を撫でられた。驚いて顔を上げると、グレス=ファディルが傍らに跪いていた。 「うっ、うっ、ぐ、グレス=ファディル様……」 あの方は何も言わなかった。ただ黙って泣き止むまで、自分のことを抱きしめ続けてくれた。みっともなく泣き続ける自分が情けなかったけど、忙しいあの方が、自分のために今ここでこうして傍にいてくれることが嬉しくて仕方なかった。 ようやく泣き止んで、城までの道のりを、二人で手をつないで歩いた。グレス=ファディルと帰る場所が同じであることに幸せを感じた。 なにも言わなくても、あの方はなにもかもを承知していたのだろう。翌日から暇を見つけては、自分の剣の相手をしてくれるようになった。無理をさせているようで申し訳なかったけど、やっぱり嬉しかった。 「俺ってさあ、あの頃からあの方に、めろめろだったんだよね」 「あの方??」 紗那の独り言にユラが反応した。 「あの方って?」 「ん? んー。この城の主であり四王の一人であらせられるグレス=ファディル様。俺の、唯一の主さ」 「……紗那はその人のこと、好きなの?」 「ああ。好きだよ」 「……どれぐらい好きなの?」 「んー。ものすごく、かな。愛しているし、憧れている。俺が全身全霊をかけて守りたいと思っている人だ。まあ実際は、あの方のほうがぜんぜん強くて、守るっつーのもおこがましいんだけどな」 好き、なんて言葉じゃ生ぬるい気がする。 全てだ。 あの方は自分の全てだ。 あの方の一番が他にあることは知っている。そのことに自分は昔、醜い嫉妬と苛立ちを覚えた。 あの方の最愛の者の名は、天界においては『ユリナ』姫、人間界においては『美樹原優也』であった。 ユリナを憎んだ。 美樹原優也を愛した。 デュアン=デュランであった頃のことを忘れていた自分は、その二つの感情に、引き裂かれそうになった。 だが、その苦しみを自分は乗り越えた。 あの方の愛情が、自分の上にも確かに注がれていることを確認したから。 一番ではないけれど。 それでも、あの方の心のほんの片隅にでも、自分の居場所があるのならそれで十分なのだ。 一滴でも愛を注いでくれるのなら、それだけで満たされた。 「……ユラ?」 紗那は驚いた。ユラが声を殺してしくしく泣いていたからだ。 「どうした? 気分でも悪いのかよ?」 ユラは何も言わず、首を振った。ただ黙って泣き続けるので紗那は困った。無表情だと思っていた子供は、徐々に紗那の前で豊かな感情を表し始めた。 ユラが泣き出した原因も分からず、困ったなと思って歩いていたら、中庭に出た。噴水のある、よく整備された美しい庭だ。 紗那は地べたに座り、ユラを膝の上に抱きかかえた。背後から伝わる紗那の体温に安心したのか、ユラは泣き止み紗那にもたれかかった。 紗那も子供の体温に心地よさを感じながら、昔のことを回想した。 ときおりこの庭で昼寝を楽しんだ。16歳の頃、いつものように草の絨毯の上に寝転がっていたら、目覚めたときに隣にグレス=ファディルが横に寝ていたことがあって、あのときは心底びびった。まさか四王の一人が、外でごろ寝するなんて思いもしなかったからだ。 ……! ぐ、グレス=ファディル様……。ど、どうしてこんなところに……! デュアン=デュランは硬直し、グレス=ファディルの寝顔を恐々と見ていた。日ごろ、政務に追われているせいか疲れているようで、グレス=ファディルはぐっすり眠っていて起きる気配がない。 ……起こしたほうがいいのか? そろそろ日が暮れて寒くなってきた。こんなところで寝ていたら体に悪い。だが、気持ちよさそうに眠っていらっしゃるし……。 グレス=ファディルが目を覚ますまで、デュアン=デュランはえんえんと悩み続けた。 ……部屋に戻って、なにかかける布のようなものを持ってくるとか? それとも起こしたほうが親切なのか?? 判断に迷っている間にグレス=ファディルが目を開けた。 「……グレス=ファディル様……」 「なるほど。ここは気持ちがいいな。絶好の昼寝の場所だ」 「あ、あの、その……」 何と言ったらいいのか分からず慌てていたら、グレス=ファディルはふわりと笑った。めったに笑わない人なだけに、貴重な笑顔にデュアン=デュランは顔を赤くした。 こんなふうに忙しいこの方を独占していていいのだろうかという戸惑いと、二人きりでこの空間に一緒にいられることの優越感。 グレス=ファディルはにっこり笑い、寝た姿勢のままデュアン=デュランの頬を撫でた。 「大きくなったな」 「…………っ!!」 何故だか胸が詰まって、涙が溢れた。 子供でもないのに泣く自分が恥ずかしくて、デュアン=デュランは慌てて涙を拭った。 湖の畔でしゃがんでぐずぐずと泣き続けた、子供のときから成長したはずなのに。かっこ悪い。 「あのときもあの人は、何も言わなかったな……」 ……寡黙だけど暖かくて寛大なあの方は、俺を自分の子供として慈しんでくれていたんだよな。 なのに自分は、グレス=ファディルを親として愛するにはあまりにも恐れ多くて、『配下』としてしかグレス=ファディルを慕うことが出来なかった。それがグレス=ファディルの想いを裏切るものだとは露知らず。 誰よりも近づきたいと願っていたのに、線を引いていたのはデュアン=デュランのほうだった。グレス=ファディルはいつだって、受け入れる場所を用意して待っていてくれたのに。 「あの人はさあ、ずっと俺の『親』だったんだよね」 きっと人間界に落ちなければ、自分はそのことにずっと気がつかなかった。 記憶をなくした自分は、思う存分、グレス=ファディル……人間界では『天城誠司』と名乗っていたが……に甘えることが出来た。 自分を抱き上げる力強い腕。 自分を見守る温かな眼差し。 何も覚えていなかったがゆえに、なんのしがらみもなく『父』と呼べた。 「……親?」 ユラは不思議そうな顔で紗那を見上げた。瞳はまだ濡れたままだ。 「そ。親。俺さあ、ファザコンなの。究極の」 紗那は晴れやかな顔で笑いながら言った。 「……『あの人』は紗那の『親』なの……?」 「そう。親」 ユラはほっとした顔で微かに笑った。そして紗那にぎゅっと抱きついてきた。 「お。どうした? 機嫌直ったか?」 ユラはこくりと頷き、幸せそうな顔で紗那に懐いている。 「そういえばさあ、ユラ。お前の父ちゃんと母ちゃんはどこにいんだよ?」 「…………っ!」 ユラはぎくりとした顔をした。 無言で首をふるふると横に振った。 どうやら聞いてはいけなかったらしい。 紗那はユラを追い詰める気はなかったので、すぐに自分がした質問を取り消した。 「あー。わりぃ。聞いちゃいけなかったみたいだな」 「…………」 ユラは申し訳なさそうな不安そうな表情で、紗那の顔を見上げた。 「んな顔する必要はねぇよ。言いたくないことの一つや二つ、あるだろ? 俺は別に気にしちゃいねぇよ」 紗那がにっと笑って言うと、ユラもつられたように笑った。 「うし。ユラちゃんも機嫌直ったみたいだし、手がかりを捜すかな」 時間があればゆっくりここで昼寝でもしたいところだが、あいにく今はそんな暇はない。紗那はユラと連れ立って、引き続き割り当てられた区域を探索した。 グレス=ファディルの城は四王の城であるにもかかわらず、あまり広くない。『城』というぐらいだからそれなりに広くはあるが、これがもしイーリカやラザスダグラの城だったら一通り巡るのにも三日か四日はかかりそうだが、グレス=ファディルの城は一日もあれば十分まわれてしまう。しかも今回は手分けして探しているので、さほど時間はかからないだろう。紗那は丁寧にかつ迅速に調査を続けた。 |