「次はグレス=ファディルとデュアン=デュランとの戦いだ。デュアン=デュランはもともと辺境の地の出身なのだが、幼少の頃に両親のいないデュアン=デュランを引き取り、グレス=ファディルが自らの手で育てたらしい」
「…………」 主の言葉に、自分は無言で赤い顔をして俯いた。主の手が柔らかな生地の上から自分の太ももを撫で擦ったからだ。主の手によって調教された自分の体は、ちょっとしたことにも容易(たやす)く反応する。主はすぐに自分の変化に気がついた。 「お前が閨(ねや)での術(すべ)を学んでいる間に、デュアン=デュランは剣術を学び学問を修めていたわけだ。同じ養い子の立場にありながら、随分な違いだな」 主は冷ややかな顔で笑いながら、慣れた手つきで股間のものを弄び始めた。すぐにそれは先端からとろとろと蜜を流し始める。 「ふっ……。本当にお前は淫乱だな。そんなに男が欲しいか? こんな場所だというのに、もうここをこんなにして……。男を悦ばせるしか能のない男娼が。恥ずかしいとは思わないのか?」 恥ずかしいとは思わなかった。自分はそれ以外の生き方は知らない。誰からも教えてもらわなかった。主に奉仕することだけが自分の存在意義だった。何の疑問もなく自分はそのことを受け入れていた。……あの人の瞳を覗くまでは。 「ラザスダグラ様……」 自分でも分かる。 今、鏡を見たら、自分はさぞかし淫らな顔をしているのだろう。主の言うとおり、自分はどうしようもない淫乱なのだ。 性懲りもなく男を誘う養い子の姿を見て、主はより一層、蔑(さげす)みの色を濃くした。 「ここに……欲しいのか? さんざん昨夜も入れてやったはずだが?」 主の指が、後ろの窪みをなぞる。背筋にぞくりと震えが走った。たまらない。我慢できなかった。 この個室には主と自分以外誰もいない。世話をするための召使は、主が追い払ってしまった。観客はすべて試合に夢中だ。わざわざこの部屋を覗き込むような人間はいないだろう。 自分は体の渇きを癒すために、大胆に主に体を擦り付けた。 「欲しい、です。お願いです。お願い……」 「お前の頭の中には男に抱かれることしかないのか?」 主は冷笑を口に浮かべた。それでも望むものはすぐに与えてくれた。ゆっくりと背後から貫かれる。後孔に主の逞しいものを埋(うず)められ、ようやく体が満たされた。主の上に腰掛け、後ろから抱きかかえられるような体勢だ。自分の体重がかかり、最奥まで牡が到達している。口から甘いため息が漏れた。 しかし主は中に収めただけで、なかなか動こうとはしなかった。 焦れて自分から腰を動かそうとしたとき、主が面白がるような口調で言った。 「見られているぞ」 「…………え?」 主に促されて顔を前に向ける。……そして、あの人と目が合った。 剣を携(たずさ)えたあの人は、何故か対戦相手でなくこちらに顔を向けていた。 「あ……」 光を受けてきらきらと輝く金の髪に、朱金の瞳。きつく結ばれた唇が意志の強さを表しているかのようだ。グレス=ファディルの養い子であるデュアン=デュランだということは後で知った。そのときはただ、あの人を取り巻く清廉な空気に圧倒された。 ……見られている。私が、男に抱かれているところを。浅ましく男を咥えているところを……。 そのとき、腹の底からこみ上げてくる感情があった。それは生まれて初めて感じる強い羞恥だった。男に抱かれて悦ぶ自分を、生まれて初めて恥じた瞬間だった。 咄嗟に主から身を離そうとするが、主の逞しい腕にそれを阻まれる。 いたたまれない。 あの人の視線が突き刺さる。 ……いやだ。いやだ……。このまま消えてしまいたい……。こんな場所で、こんな風に男に抱かれている自分を、どう思っただろう……? 自分の心配する心とは裏腹に、あの人の目には何の感情も浮かんでいなかった。すぐに視線ははずされた。見られていることが耐え難いほど恥ずかしかったくせに、あの人の視線が外れると、今度は哀しくなった。あの人にとって自分は、見る価値もない人間なのだ。 他の誰に覗かれても見られても、自分はここまで強い感情は抱かなかっただろう。あの人だったからこそ、こんなにも自分の心は揺さぶられた。 自分の世界には今まで主しかいなかった。主以外の人間がどう思おうが、自分には関係のないことだった。 それなのに、唐突に、あの人は自分の中に飛び込んできた。突然目の前に現れたあの人は、たった一瞬で自分の心を奪っていってしまった。 「……あっ……イヤ……イヤです……」 下から激しく突き上げられる。いつもなら悦んで受け入れる行為を今は厭(いと)わしく感じ、解放して欲しくて手足を激しく動かし暴れた。 視界の隅にあの人の姿を捉えながら、他の男に抱かれたくはなかった。だが、非力な自分の抵抗など主はやすやすと封じてしまう。 「あ……ああっ……!」 願いは聞き届けられず、一度達した後も主は出ていかなかった。続けて何度も自分の体を貪(むさぼ)る。あの人が自分を見ているかどうかなど、確認する勇気はなかった。固く目を閉じたまま、行為が終わるのを待った。溢れる涙を止めることができなかった。惨めだった。非力な自分が恨めしかった。 ……死にたい。死んでしまいたい……。 ……どうして私は、自分だけのものではないのだろう? その日、勝敗の行方を自分が知ることはなかった。 気がつけば寝台の上に寝かされていた。どうやら気を失うまで責め立てられたらしい。 ……気絶するまで……あの人のいる空間で……私は犯され続けたんだ。 絶望が体を包んでいくのを感じた。 綺麗な綺麗な鳥籠。 ここに留まることを疑問に感じたことはなかった。 ここには自分を傷つけるものなどなにもなく、自分にとっては楽園だった。 自分と主だけで世界は完結していた。それに不満を抱いたことなどなかった。 ……あの人に会わなければよかった。あの人の目を覗かなければよかった。 たった一瞬。だが、永遠にも思えた一瞬だった。 あの人がいない。ただそれだけで、ここは牢獄に変わってしまった。 ……主に、抱かれたくない。他の男になど触れられたくない! しかしその願いが叶えられるはずもなかった。 主はこの先飽きるまで、何度でも自分を抱くだろう。 ……死んでしまいたい。でも、死にたくない。もう一度あの人に会いたい……。どうしてこんなにも惹かれるのだろう? どうしてこんなに、あの人を愛しいと思うのだろう……。 それからが地獄だった。 愛する男がいるのに他の男に抱かれ続ける。 何度も悔やんだ。 どうしてあの人に出会ってしまったのだろう。 出会わなければ、こんなにも苦しい思いなど抱かなかった。 昔、自分は人形だった。 人形だった頃、自分は何も感じなかった。 自分は何も考えなかった。 主にどんな辱めを受けても心が傷つくことなどなかった。 繰り返し悔やむ。 どうして出会ってしまったのだろう。 あの人に出会わなければ、自分は何も知らず、いまだ幸せでいられたのに……。 「匡がこの家にしばらく滞在するのって、俺を守るため? 誠司さんに頼まれたから?」 以前、イーリカに優也を狙われ、肝を冷やした誠司はボディーガードとして匡を呼び寄せたのだろう。自分の手で守りたいと思っていても、誠司には仕事がある。『天城誠司』としての仕事と『グレス=ファディル』としての仕事。 仕事柄、誠司は仕事で家を留守にしていることが多い。その間、誠司の代わりに優也の護衛に匡は就いたのだ。 認めるのは悔しいが、優也は誠司の弱点だ。いくら誠司が強くても、優也を人質にされればひとたまりもない。 「まーね。鋭いじゃん」 読んでいた新聞から顔を上げ、匡は小ばかにしたような顔で笑った。普通人間の笑顔を言うのは心を和ませる効果があるのに匡の笑顔はどうしてこうも人の神経を逆撫でするのかと思いながら、優也は匡の向かいのソファーに座った。 「鋭いって、それ以外ないじゃん? ……どうもありがとう」 不本意ながら自分のせいで迷惑を掛けているのは確かなので、優也は一応、匡に礼を言った。 「別に、気にしないでいいぜ。丸っきりお前のためだけってわけじゃないしな」 「誠司さんのため?」 「それも、ある」 それも、ということは、他にもあるわけだ。 「……和己さんのため……?」 なんの根拠も、どんな因果関係が絡んでいるかも分からなかったが、匡が誰かのために動くとしたら、一番可能性が高いのは、和己のためという気がした。 「まーね。やっぱお前、鋭いよ」 匡は喉の奥でくくくとおかしそうに笑った。 「なあ、優也。お前、『ユリナ』だった記憶、どれぐらい残ってるか?」 「え? えと、あんまり……。強い感情とか人間関係ぐらいは覚えてるけど、細かい出来事とかは覚えてないんだよね。遠い夢の出来事みたいで……。そーいえば俺って昔、『ユリナ』として存在してたんだなーって。不思議な感じ……」 急な質問に驚きながら、優也は真面目に考えて答えた。 「紗那も多分、同じだろうな。天界での記憶はあまりないはずだ。『天城紗那』としての意識が優先されるからな」 「……ふうん?」 「だが、俺と父さんは違う。『穂高匡』と『天城誠司』の意識が普段は前面に出ているが、『リューザ=リカオ=キースダリア』と『グレス=ファディル』の意識も鮮明に残っている」 「それって……『世界を継ぐ者』、だから?」 紗那と自分と、匡と誠司との違いを考えて優也は言った。 「そうだ。もし俺が俺の継ぐべき世界のことを忘れてしまったら、それは世界の崩壊の危機に通じる。だから特別、世界の中心に立つ者には記憶の保持が許されている。それは同時に、けっして自分の立場から逃れることが出来ないという証拠に他ならない」 「うーん。なんとなく分かった気がする……」 優也は眉間に皺を寄せた。匡の話を一生懸命、頭の中で整理しているのだ。 これはいい機会なのかもしれない。誠司は自分から説明をしてくれるタイプじゃないし、なにより誠司と二人きりだと……お恥ずかしながら、そういう込み合った事情の話をするよりえっちに流れ込んでしまうことが多い。 せっかく匡が話す気になってくれているのだし、ここで情報を得ておくことは悪くないと優也は思った。 「お前、思ったより頭悪くないな」 匡は満足そうににやりと笑った。 「で、記憶が残ってるとどーゆーことになるわけ?」 「大きな違いとしては、『力』が使えることだな。人の器である限り、使える力の大きさは制御される。だが、俺も父さんも自分の中に『力』があることを知っている。使い方もよく分かっている。力を使う『技術』はしっかり残っているからな。紗那は少しは使えるみたいだが、ま、あいつの場合、努力と根性でなんとか力を引き出してるって感じだな。普通の人間にちょっと毛が生えた程度だ」 「あー。そーいえば、俺はぜんぜん『ユリナ』の持っていた力、使えないや……」 ユリナは攻撃する力はほとんどなかったが、代わりに治癒能力に長けていた。しかし、優也にはその力は欠片(かけら)もない。 「だから父さんは俺をお前の守護に付けた。普段は俺も和己を守るのに手を貸してもらっているからな。恩返しというわけだ」 「ちょっと待って。俺が狙われるのは分かるよ。でも、なんで和己さんが?」 「魔界の王子である俺がただの『人間』を選んだ。大事(おおごと)だろ?」 「……分かった気がする」 優也も今はただの人間だが、その正体はれっきとした身分の姫君だ。なにせ現・天主の娘。文句をいう者などいるはずがない。しかし和己は違う。身分違いだと騒ぎ立てるやつらもいるのだろう。 「ねぇ、違うと思うけど、一応気になってるから聞いとく。匡が誠司さんの息子として生まれたのって、偶然じゃないよね?」 「もちろん、偶然じゃない」 ……やっぱり。 自分の予想が当たっていたことを知って、優也はすっきりした気持ちになった。 「もともと『天城誠司』の子供として生まれる予定だったのは恵那一人だ。母体が妊娠中にまず『デュアン』が『グレス=ファディル』を追ってやって来た。で、その様子を見ていた『リューザ=リカオ=キースダリア』……つまり俺だな。おもしろそーだったから、『天城誠司』の息子として生まれちゃおうって思ったわけ。ちなみに、お前の実家がここから遠くないってのも偶然じゃないぜ?」 「え。そうなの??」 「そ。惹かれるんだよ。記憶がなくてもな」 「……むむむ。なんかいろいろ新事実発覚。誠司さんと匡が、同時期にこの世界にいるのは偶然?」 「もちろん違う。簡単に言えば、世界のバランスを崩さないため。他にもいろいろと事情はあるが……タイムアップだ。和己が帰ってきた」 和己が帰ってきた気配がなかったので優也は首を傾げたが、十秒後に玄関を開ける音がした。 「ただいまー。お買い物行ってきたよー」 「おう。ご苦労だったな」 横柄な態度で匡は和己を迎えた。 ……ふぅーん。態度は悪いけど……匡も和己さんのこと、愛しちゃってるわけだ……。 優也はちょっとだけ匡のことを見直したのだった。 ……なんかあったのかよ、か……。 紗那が自分のことを心配してくれているのは分かっている。だが、言えるはずがない。自分が惚れている女に打ち明けられるはずがない。毎晩のように……男に抱かれる夢を見ているなんて。 零は足早に家への道を辿った。小奇麗なワンルームマンションに零は一人で住んでいる。入社当初、誠司が零のために用意してくれた部屋だ。零をスカウトしたとき、「衣食住は保障する」と言った誠司の言葉に偽りはなかった。零がお世話になりますと頭を下げたその日のうちに、この部屋を誠司は見つけ出して来てくれた。 最初は社宅だと信じていたが、誠司が自分のお金で零のためにこの部屋を購入してくれたことが後から発覚した。その分のお金を返そうとしたが、誠司は頑として受け取らなかった。 ……所長ってば大雑把でたまに行動に脈絡ないけど、基本的にいい人なんだよな……。 自分を拾い上げてくれた誠司に、零は内心で感謝した。 「……?」 零は自分の家のドアの前に、誰か立っていることに気がついた。背の高い男だ。廊下は薄暗く、男の顔までははっきりとは見えない。 ……誰だ……? 嫌な、予感がした。 足を一歩踏み出し男に近づくたびに、零は予感が的中しつつあることを悟った。 ……まさか、あの男は……。 心臓の音がうるさいぐらいに大きく聞こえる。 耳鳴りがして、現実の世界が遠く感じる。 悪夢が……現実になろうとしている。 ……イヤだ。逃げたい! しかし、零が身を翻して逃げ出す前に、男が零の腕を捕らえた。 「久しぶりだな。元気だったか?」 夢の中の男は夢で見たとおりに、冷たい顔で笑って見せた。気分が悪くなる。零は吐き気を感じ、冷たい汗を流した。 「……腕を、放せ。俺はあんたなんか知らない」 ……嘘だ。俺はこの男を知っている。ずっと昔から知っている……。 「おやおや。ずいぶんと忠誠心が乏しい飼い犬だな。ご主人様の顔を忘れるとは」 「うるさい! 放せ!!」 零は男の腕を振り払おうと暴れた。だが男はやすやすと零の抵抗を押さえつけた。恐怖が零の心に絡みつき、どうしようもなく足が震えた。 「しばらく見ないうちに、生意気な口を利くようになったな。昔はあんなに従順だったのに」 「黙れ!!」 「自由時間は終わりだ。戻って来い。私の小鳥」 「黙れと言っている! 俺は、違う! 俺は……」 男は冷笑し、零の頬を強く殴った。 「口答えするな。お前が誰のものだかはっきり思い出させてやろう」 「俺はあんたのものなんかじゃない!」 ……俺は誰かのものじゃない。 ……私は主のもの。 ……違う。俺は…… ……私は主に逆らえない。 男に反発したい気持ちと服従したい気持ちが胸のうちでせめぎあう。 ……苦しい……。助けてくれ……。 「おい、おっさん。零を放せ。こいつのキレイな顔は、俺も気に入ってるんだ。勝手に殴るんじゃねぇよ」 「紗那……」 男に腕を捉まれたまま振り返ると、最愛の女がそこにいた。いつもにも増して凛々しい顔で、紗那は男を睨み付けていた。 ……ダメだ、紗那。逃げろ……!! 男がどれほど強いか自分はよく知っている。紗那は強い。だが、それでもこの男には叶わない。長い間、自分の上に君臨し続けたこの男には……。 「お前、グレス=ファディルの養い子か。面白い……」 男は愉しそうに笑った。零は自分の血の気が引く音を聞いた気がした。 「紗那、だめだ。逃げろ!」 「ばかやろうっ! 自分の大切な親友を置いて逃げれるわけねぇだろ! この男が危険だっつーのは分かってんだよ!!」 紗那の足もまた、自分と同様、恐怖で震えていることに零は気がついた。 紗那は強い。それゆえに、相手の強さもまた推し量れるのだ。 だからこそ理解したのだろう。自分よりも遥かに目の前の男は強いのだと。 それでも紗那は逃げない。 自分を守るためにこの場に残り続けようとする。 ……紗那、お前は俺のことを、本当に大切にしてくれているんだよな。 それで、十分だと思った。 自分のために、好きな女を危険な目に合わすことなど出来ない。 「……お許しを……。この愚かな僕(しもべ)をお許しください……」 零は夢の中での自分と同じように、頭を低く下げて男の足の甲に接吻した。 「自分の立場を忘れ……生意気を申しました。お許しください……」 「零……!」 背後で紗那が驚きの声を上げた。紗那の前で惨めな姿をさらすことに、躊躇いがないわけではない。だが、紗那が傷つけられることを思えば、こんなことはたいしたことではない。 「やっと自分が何者か、思い出したか」 男は冷たい声で言い捨て、加減せずに零の体を蹴り上げた。零の体は壁に思い切り叩きつけられた。 「零!」 友人を傷つけられて怒った紗那は、男にくってかかろうとした。それを、かろうじて立ち上がった零が止めた。紗那を背後に庇うようにして、零は男の前に立った。 「リイン、どけ。グレス=ファディルの養い子は、どうやら遊んで欲しいらしい」 「お止めください、ラザスダグラ様」 零は媚びた表情を作って、男の首に自分の腕を回した。紗那の視線を意識しつつ、零は男の唇に自分の唇を重ねた。好きな人間の前で他の人間と抱き合うことは苦痛だった。だが、他に紗那を助けるための方法が見つからなかった。 自分がリインであったときの記憶を思い出しながら、零は男を誘うように、深い口付けをしながら体を擦り付けた。 「それよりも、早く、私を抱いてください。久しぶりにあなたを体の奥に欲しい……」 ……頼む、紗那。もう行ってくれ。俺のこんな姿を見ないでくれ……! 心で血を流しながら、零は必死で演技を続けた。 「私の体がどれほど淫らか、ご存知でございましょう? お願いです。体の奥が疼いて辛い……」 「……健気なことだな……」 男は低く小さな声で囁き、つまらなさそうな顔をした。 「まあいい。デュアン=デュラン、リインに免じて許してやる。去れ」 「去れって……」 紗那の文句を言う声が、唐突に途切れる。振り向くと紗那の姿は掻き消すようにいなくなっていた。 「紗那は……!」 「邪魔をされないように移動させただけだ。危害は一切加えていない」 「そう……ですか」 零は安堵の溜息を吐いた。紗那が無事ならそれでいい。自分はどうなっても構わないのだ。 「さあ、久々にお前の体で愉しませて貰おうか。抱いて貰いたくて、たまらなかったのだろう?」 「……はい」 ……紗那のためなら我慢できる。どんな不本意なことでも……! 零は自分の部屋のドアを開けた。 好きでもない男に抱かれるために……。 零はあの男のことをラザスダグラと呼んだ。 そして男は零をリインと呼んだ。 リイン。その名前は聞いたことがある。ラザスダグラの寵姫(ちょうき)の名だ。 ラザスダグラが特別に可愛がっている側室のことは、天界でも話題になっていた。四王の一人でもあるラザスダグラが、幼い頃から手塩にかけて育てた美しい"華"。 誰もその姿を見たことはないが、だからこそ、ラザスダグラ王の心を捉えたのはどれほどの者なのかみなが興味を持っていた。それはデュアンも例外ではなかった。 あの頃自分は、忠誠を誓った主、グレス=ファディルの役に立ちたいと、自分を磨くことに必死だった。剣術を学び学問を修め、グレス=ファディルの養い子という立場に恥じないように努力した。 美しい妙齢な女性を見れば胸がかすかに疼いたが、色事にうつつを抜かしている間があったらもっと鍛錬を積みたかった。 それでも、人並みに好奇心がないわけではなく、たびたび話題にあがる相手の顔を、機会があれば見てみたいと思っていた。 「アルザール様が主催する剣術大会に、ラザスダグラ様がご自慢の寵姫を連れて観戦なさるらしい」 という噂が流れた。グレス=ファディルともども、アルザールにより半ば強制的に参加させられるデュアンは、ひょっとしたらラザスダグラの寵姫の顔を見ることが出来るかもしれないと、内心楽しみにしていた。 ラザスダグラとその寵姫は、準決勝と決勝が行われる最終日にだけ会場に現れた。残念ながら、選手が控えている場所からでは二人の様子を伺うことが出来ない。デュアンは好奇心に負け、グレス=ファディルと打ち合う前に、 こっそり二人の様子を盗み見た。 観客席や選手が控えている席からは覗けなくても、試合場からは見ることができた。向こう側から試合を観戦しやすくなっているということは、その逆もしかりだ。 噂の寵姫はラザスダグラの逞しい腕の中にしっかりと抱かれていた。思いがけず目が合った。妖艶な美しい瞳。上気した頬が艶めいている。王が観戦するための場所は個室のようになっていて、他の観客室からは覗けないようになっている。ほとんど密室の部屋で、二人が何をしていたかは明白だった。 ……なるほど、ね。ラザスダグラ様が夢中になる気持ちが分からないでもない。 性別が男であっても、彼ほど美しければ、抱きたいと思うのも無理はない。 好奇心を満足させたデュアンは、ラザスダグラの寵姫から目を逸らした。そして今からすべきことを思い出した。 相手は自分が誰よりも敬愛するグレス=ファディルだ。勝てるとは思わない。グレス=ファディルは強い。グレス=ファディル以上に強い男を……天主であるアルザールは別として……デュアンは知らない。近づきたいとは思う。だが、超えられるはずがないと思っている。 それでも惨めな試合をして、グレス=ファディルを失望させたくはなかった。だから、デュアンは前方のグレス=ファディルに向かって、集中して剣を構えた。すでに頭の中からはラザスダグラの寵姫の存在は消えていた。 そしてそれきり、思い出すことはなかった。 案の定、準決勝ではデュアンが負けた。始まってすぐ、剣を喉元に突きつけられた。実力の差を見せ付けられて、悔しかったが誇らしかった。 ……さすがグレス=ファディル様。私が仕えるべき方だ……。 デュアンはグレス=ファディルへの尊敬の念を強めた。 決勝戦は激戦だった。アルザールとグレス=ファディルとの戦いだ。技は互角だった。どちらが勝ってもおかしくなかった。だが、デュアンはグレス=ファディルに勝って欲しかった。例え負けたとしても、デュアンの忠誠心が揺らぐはずがない。負けても恥ずかしい試合ではない。 それでもデュアンは、グレス=ファディルに勝って欲しいと思っていた。グレス=ファディルはデュアンのすべてだ。グレス=ファディルが敗北するところなど見たくはなかった。 試合はかろうじて、グレス=ファディルが勝った。デュアンは狂喜した。さすがは私の王だ。誰にも負けるはずがないのだと。 「お前のために勝った」 とグレス=ファディルは事も無げに言った。 「え?」 「勝って欲しいと、願っただろう? だから私は勝ったのだ」 「グレス=ファディル様……」 感激して目に涙が滲んだ。尊敬する主にこれほど気にかけてもらえるとは。強烈な幸福感がデュアンを包んだ。 デュアンの心はグレス=ファディルという存在で目一杯占められていた。あの日、グレス=ファディルによって命を助けられてから、デュアンの世界はグレス=ファディルを中心に周っていた。グレス=ファディルに救われた命だ。グレス=ファディルのために使いたいと思っていた。 デュアンの心に、リインという存在が根付く余裕は、すでにどこにもなかったのだった。 |