「げえ。匡、なんでいんだよ……」
家に帰ったとたん、匡の姿が目に入って紗那は嫌な気分になった。紗那は匡が苦手だ。 匡は気に入った人間ほど苛めたがるという悪癖がある。有難くもなく迷惑なことに、紗那は匡に気に入られていた。そのせいで紗那は小さいころから匡に苛められ続けていたのだ。諸事情により匡が予定より早く一人暮らしを始めたときは、心の中で拍手喝采した。 その匡が同じ部屋で同じ空気を吸っている。 ……むかつく。 「ご挨拶だな、紗那。自分の実家に戻ってきちゃあ、おかしいっつーのかよ? ああ? お兄様に向かって、たいした口の利き方だなあ?」 匡は意地悪そうな笑みを浮かべて、紗那の長い髪を乱暴に引っ張った。 「ってーな、やめろっ! ガキみたいな真似するんじゃねぇ!!」 「ふふん、どっちがガキだ? 紗那、お前は昔から俺のことが苦手だったよなぁ。その理由、俺は知ってるんだぜ? ファザコン女」 「……理由って……。お前の根性が捻じ曲がっているせいだろーが」 「それだけじゃないだろ? 紗那ちゃんは、大切なおとーちゃまを盗られるのがイヤだったんでちゅよねー」 「赤ちゃん言葉でしゃべんじゃねぇよっ、気色悪いっ!!」 「図星を指されたからって逆ギレすんなよ」 「…………」 旗色が悪くて紗那は黙り込んだ。 匡の言うとおり、紗那は子供のころ匡に嫉妬していた。父親を盗られるのではないかと怯えていた。 昔を振り返ってみると、誠司の子供は自分と匡と恵那の三人だが、その中でもっとも可愛がられていたのは自分だったと思う。恵那は母親に懐き、紗那は父親に懐いた。 そして匡は、子供のころから精神的に自立した、激しく可愛げのない子供だった。周囲を見下し王様のように傲慢に振舞う。それが匡にとっては自然なことだった。 誠司は唯一、匡が対等と認めている相手だ。 そしておそらく誠司のほうでも。 誠司と匡の特殊な繋がりに、紗那は焼け付くような嫉妬を覚えた。 「紗那、そんなにイイ顔するなよ。俺を喜ばせるだけだぜ?」 匡のなにもかもを見通しているような目にむかついた。殴ろうと思って突き出した拳はあっさりとかわされる。 怒り倍増。 「あー。紗那さん、お久しぶりですー」 「紗那、おかえりなさい」 台所から和己と優也がひょっこり顔を覗かせた。可愛い顔立ちの和己と繊細で美しい容貌を持つ優也が並ぶと、場が一気に華やかになる。 「今日は和己さんに料理を教わってたんだ。紗那、期待してて。夕飯おいしく作れたよ」 優也は嬉しそうににっこり微笑んだ。花のような笑顔にたっぷり見惚れる。 「……ふうううう〜ん」 ……………………………………………………………………しまったあ!! 匡の前で、うかつに自分の弱点を見せた自分を、紗那は責めた。 和己と優也は和気あいあいと再び台所に戻っていった。紗那はまたもや匡と居間に二人きりに残された。 「俺、分かっちゃったぜ」 「…………………………なにがだよ」 「紗那ちゃんの、片想いの相手」 「…………………………………………」 「かっわいそー」 これっぽっちも可哀想と思っていない表情と口調で匡は言った。 「…………………………………………るせーよ」 「父親の恋人にラブだなんて、連ドラの脇役みたいなことしてんじゃねぇよ」 そして匡は失礼なことに盛大にげらげらと笑い始めた。目に涙を溜め腹を抱え、身を捩って笑っている。 「ひーっ。お前、やっぱりナイスなキャラだわ。俺を楽しませてくれるぜ」 むっかーっ!!!!! すっげぇむかつくんですけど? 「俺は、お前なんか喜ばせたきゃねぇんだよっ!!」 「あっはっは。ファザコンの失恋女の分際で、ずいぶんと元気がいいな。それぐらいやる気がなけりゃ、不毛な片想いなんて続けてらんねぇだろうがな」 匡は人の怒りを煽るのが上手い。紗那の怒りは最高潮に達していた。 「コロス」 低い声で一言呟くと、紗那は匡に蹴りを入れた。紙一重でよけられる。 「……おい。今の当たってたらマジで死にそうだぜ」 さすがの匡も、紗那の鋭い蹴りに冷や汗を流した。 匡も誠司の息子だけあって、そこそこ強い。しかし紗那はプロである。まともに戦えば、匡よりも紗那のほうがきっと強いのだろう。 一発ぐらいは思いっきり殴ってやりたいと、紗那は本格的に身構えた。 そこに誠司が帰ってきた。 「兄弟げんかか?」 「……まあね。おかえりなさい、オヤジ」 仕方ない。一発ぐらいはやつの頬にめり込ませてやりたかったが。 だが、仕事で疲れて帰ってきている父を、さらに疲れさせるのもどうかと思う。 紗那はしぶしぶと矛先(ほこさき)を収(おさ)めたのだった。 「お父様には弱いねぇ、紗那」 誠司の手前、拳を引っ込めた紗那を見て、匡はにやりと笑った。そして次の瞬間、匡はとんでもないことを口にした。 「おかえりなさい、父さん。今日からしばらく世話になるぜ」 「ああ。……すまんな、匡」 「げ。ちょっと待て。しばらく世話になるってどーゆーことだよ?」 聞き捨てならないセリフを聞いた気がする。紗那は慌てて誠司の顔を振り仰いだ。 「紗那、朗報だ。お兄様が、とーぶんこの家に滞在してくれるんだよーん」 「それは朗報じゃねぇだろ。俺にとっては凶報だっ!!」 紗那は吼(ほ)えた。 毎日毎日この男と顔を合わせていたら自分の胃がもたない。紗那は目の前が真っ暗になった気がした。幼少時代、匡に虐(いじ)められ続けた苦い思い出が蘇ってくる。 母親からは疎(うと)まれ兄からは粗雑な扱いを受け、紗那はあまり幸せな子供ではなかった。父親の誠司は仕事で家を空けていたことが多かったので頼りにならなかったのだ。 だが、あのときはまだ三つ子の姉の恵那がいたから良かった。紗那が匡に嫌がらせをされていると、恵那はころころと笑いながら、匡を窘(たしな)めてくれた。 しかしその恵那も今は人妻だ。自分を助けに来てくれる余裕などないだろう。 ……あー。そういや、恵那って優也の義理の母親っつーことになるんだよなー。 恵那の結婚相手は、なんと優也の実の父親だった。なんたる運命のいたずらか、それとも悪魔の采配か。おかげで優也の父親は、自分の息子に手を出した不届き者を罵(ののし)れないでいた。その不届き者は、なにせ自分の奥方の父親だったのだから……。 「おい、なにぼさっとしてんだよ。ただでさえ締りのない顔が、ますますだらしなくなってるぜ。バカの見本ってカンジ?」 「父親似のこのハンサムな顔に、てめぇ、何文句つける気だよっ!」 「せっかく父親から優秀な遺伝子を貰ったのにな。本人の性格が三枚目だから、それがツラにも滲み出てんだろ」 「俺は紗那は、キレイでカッコ良くて素敵だと思うけど? 匡こそ、性格の悪さが顔に滲み出ちゃってるね。カワイソーに」 思いがけず、紗那の加勢をしたのは優也だった。どうやら優也も、匡にはあまり好印象を持っていないらしい。それも無理のないことだが。 「おかえりなさい、誠司さん。今日は早かったんだね」 「ああ。優也の顔が早く見たくてな」 「……ウレシイ……」 優也は右手を自分の頬にあて、ぽっと頬を染めて俯いた。誠司は自分の息子と娘の目の前であるにもかかわらず、優也の唇に自分の唇を軽く重ねた。 「やだ。誠司さんたら、みんな見てるのに……」 ますます優也は顔を赤くした。誠司も優也も完全に二人の世界に突入していた。 「可愛いよ、優也。……食事の前に、お前が食べたい」 「え。だ、ダメだよ。夕飯食べてから。ね?」 「優也、お前が欲しくて気が狂いそうなんだ。俺を救ってくれ」 「え。で、でも……」 口では抵抗を示しつつも、優也の体はずるずると誠司に引きずられていく。結局のところ優也も誠司にメロメロなわけで、真剣に口説かれて、いつまでも逆らえるはずがないのだ。 「ありゃー。あの二人、当分帰ってこねぇな。俺らだけで先にメシ食っとくか」 匡は呆れたような顔をして、軽く肩をすくめた。 「……」 「あれ? 優也さんたちどうしたの?? もう夕飯の準備できたよ???」 「ああ、いいの、いいの。あいつらはほっといて」 「……」 「え? ほっとくって?? だって、ご飯だよ? きっとお腹空いてるよ? 俺、二人を呼んでくるよ?」 「なに、お前。他人がヤってるとこ見たいワケ? 和己ちゃんたら、カワイイ顔してだいたーん」 「……」 「え? やってるってナニを?」 「セックス。今頃は父さんのご立派なイチモツで、優也チャンはアンアン啼かされちゃっていることでしょう」 「……」 「えーっ。俺、覗き見なんかしないもんっ」 「ふ。無理すんなよ。本当は他人がえっちしてるとこ見たいんだよな〜。和己はさぁ」 「……」 「無理なんかしてないもんっ! ……あれ? 紗那さん、どうしたの? 具合でも悪いんですか??」 ずっと黙りこくっている紗那の顔を、和己は心配そうに覗き込んだ。匡は仕方ないやつとでもいうように、珍しく邪気のない小さな笑いを浮かべ、紗那の髪をくしゃりと撫でた。 「お前ね、こんなことで落ち込んでどーするよ? 分かってて続けてんだろ」 「……るせーよ」 「ばかなやつ」 セリフとは裏腹に、匡の手つきは優しかった。 「匡……」 「あ?」 「優しいお前はブキミだからヤメロ……」 「だってこれ、嫌がらせだし」 匡はにっこり笑って紗那を優しく抱擁した。そのとたん、紗那の全身に鳥肌が立った。 「ああっ! 匡、ひどいっ。俺も匡にぎゅっとして欲しいのに! 紗那さんばっかりずるいっ!!」 泣きそうな顔をして和己は言った。紗那には理解できないことだが、和己は匡のことを一途に慕っていた。どつかれても苛められても、和己は匡の後を追うことをやめようとはしなかった。 「ばかだな、和己。お前を抱きしめても、お前は喜ぶだけだろう? ほら、見ろよ。こいつの俺に抱きつかれたときの嫌そうな顔。ふふ。思わずうっとりしてしまうぜ……」 「……離せ、変態。ぶん殴るぞ」 紗那の剣呑な声に、匡はようやく手を離した。 「そういや、紗那。お前に惚れている著しく趣味の悪い男は元気か?」 「……零なら元気だ。それに、匡に惚れている和己さんほど悪趣味じゃない」 「違いない」 自分の性格の悪さを自覚している匡は、のどの奥でくくくと笑った。 「ええっ!? どうして俺が匡のことが好きだって分かっちゃったんです?? 俺、隠していたつもりだったのに!!」 和己は真っ赤な顔をして叫んだ。 紗那は脱力した。どこらへんがどう自分の気持ちを隠していたのか謎である。仔犬のように全力で匡にじゃれる和己の姿は、誰の目にも明らかに「俺、匡のことが大好きなんですっ!!」と主張しているようにしか見えなかった。 「バカな子ほどカワイイってマジだよな」 匡が紗那にだけ聞こえるほどの小さな声でぼそりと言った。失礼にも頷きそうになってしまった紗那だった。 何年ぶり。 いや、何十年ぶりの『外』だろう。 しかし久々に見る『外』の様子も、自分にはなんの感慨ももたらさなかった。 主に腰を抱かれながら、静かに光溢れる豪奢な廊下を歩いた。すれ違う人々が、ちらちらと自分と主の様子を伺っている。鬱陶しい視線だ。 目的地に着く前から、自分はすでにうんざりしていた。早くあの美しい鳥籠のような部屋に戻りたかった。あそこには、自分を脅かすものは何もいない。主と自分だけの閉鎖された世界。 自分にとって、あの場所は楽園だった。他を望んだことは、ただの一度もなかった。自分は死ぬまであの部屋にいるのだろうと、当たり前のことのように思っていた。 「あの。さきほどから、見られている気がします。私の姿は、どこかおかしいのですか?」 「お前が美しいから、みなが注目するのだ。気にする必要はない」 主は耳元に唇を寄せ、愉しそうに囁いた。城を出てから主はずっと上機嫌だ。それだけでも『外』に連れ出された甲斐があったのかもしれない。 「今日は天界中の剣士が腕を競う日なのだ。力を使わず、純粋に剣の技だけで勝負する」 「剣の技?」 「そうだ。今日は準決勝と決勝のみが行われる。残ったのは四王の一人、冥の国を治めるグレス=ファディル。その養い子であり片腕的存在のデュアン=デュラン。私の妹であり同じく四王の立場にあるイーリカ姫。そして我が偉大なる父、アルザール」 「……アルザール様もご参加なさっているのですか?」 驚いた。まさか天界において、最高権力を持つ男が、自ら剣を持って参加していようとは。 「ああ。父上は退屈するのが大嫌いでな。天界中を巻き込んでの暇潰しというわけだ。付き合わされるほうはいい迷惑だな」 「ラザスダグラ様は、ご参加なさらないのですか?」 「……私は、剣技はあまり得意ではないのだ」 主は苦い笑いを見せた。機嫌を損ねたのかと怯えたが、どうやらそうでもないらしく、安心した。主は依然、上機嫌のままだ。 主の体に甘えるように体を擦り付けると、主は優しく頭を撫でてくれた。 「四王の一人である私には、特別席が用意されている。華麗なる技をたっぷり堪能させていただこうではないか」 「……はい」 大きな円形の建物の中に入ると、中央に正方形方の台が置かれているのが見えた。これからちょうど試合が行われるところだったのだろう。台の上には二人の男女が対峙(たいじ)していた。 男も女も、性別が異なることを抜かせばよく似た容姿をしていた。 銀色の髪に青い双眸、夢のように美しい姿。しかし、男の美貌に比べれば、女のそれは、良く出来たイミテーションにしか過ぎない。 二人の容貌が良く似ているがゆえに、男の美しさがより際立って見えた。 「あの二人は……?」 「妹のイーリカと、父のアルザールだ。妹は女だてらに、昔から剣術の指南を熱心に受けていてな。父上ともなんどか手合わせしていたが、一度も勝てたためしがない。ほら、今回も……」 勝負は一瞬だった。たった剣の一振りだけで、決着はついてしまった。 何が起こったのか、正確に理解することはできない。だが、イーリカの手にあった剣が、いつの間にか場外まで弾き飛ばされていた。 「イーリカ、腕を上げたな」 「嫌味ですか、父上?」 余裕の笑みを湛える父に、イーリカは柳眉を逆立てて見せた。ほんんの数秒で負けてしまったことが、イーリカには悔しくてたまらないらしい。 「次こそは、負けません」 「精進するが良い。強敵は、私だけではないからな」 アルザールは悔しがる娘に向かって、にっこりと笑って見せた。ただ笑っただけなのに、誰もが圧倒されるような迫力のある笑みだった。 なんという存在感だろう。これが……天主。天を治める男なのだ。 「父上は……相変わらずだな」 主はなんの感情もこもっていない口調で言った。 隣に座る主の顔を、思わず振り仰いだ。 冷ややかで端正な横顔。 自分の主であるラザスダグラが天主の息子だということに、不思議な気持ちになった。 ……いずれラザスダグラ様が、天主の位を継ぐのだろうか……? そのとき私は、ラザスダグラ様のお傍にいられるのだろうか? 自分の将来に対して初めて不安を抱いた瞬間だった。 そして天の主は堂々とした足取りで、次の試合のためにその場を立ち去ったのだった。 「んっ……もう、ダメぇ……。そんなにしちゃヤぁっ……」 誠司の体の下で、優也は泣きながら身悶えた。空腹時のセックスはとっても辛い。まさに精も根も搾り取られ、優也はぼろぼろだった。 「もうダメ。ほんとにダメ。……ごめん、誠司さん、許して〜」 優也は情けない声を上げた。誠司はしぶしぶと、優也から体を離した。 「うー。疲れた〜。死ぬー。誠司さん、俺、お風呂入りたい! お風呂まで連れてって」 優也は力いっぱい恋人に甘え、お姫様抱っこしてもらって、部屋に備え付けられているお風呂場まで連れて行ってもらった。 「優也は甘えんぼうだな」 「えへへ。だって疲れちゃったんだもーん」 すっかり甘えモードの優也は、誠司に全身を洗わせ、さらにパジャマまで着せ掛けてもらっていた。パジャマはもちろん誠司とおそろいである。誠司が紺色で、優也はピンク色だ。相変わらず新婚パワー炸裂な二人である。 「あのね、今日の夕飯、すっごく頑張ったんだよ。和己さんに料理教えてもらったの。匡がしばらく滞在するのはヤだけど、和己さんと一緒なのはウレシイな」 「ずいぶんと仲良くなったんだな。……妬けるな」 「あんっ。こらこら、誠司さん。そのえっちな手はナニ? 続きはご飯食べてから! 俺、お腹空いちゃったよぅ」 「そうか。お腹空いちゃったか?」 「空いちゃった! だって誠司さん帰ってきたらご飯にしようって思ってたのに、誠司さんたら……」 先ほどの情事を思い出し、優也はぽっと頬を赤く染めた。 「すまん。あまりにも優也が可愛くてな……。誘惑に抗いきれなかった」 「誠司さん……」 部屋を出て行く前に、二人はたっぷりと口付けを交わした。 砂糖菓子の軽く三倍以上は甘い二人なのだった……。 「でさ、例の仕事、俺と零の二人で任務に就いて欲しいってオヤジがさ……って、おい、聞いてる?」 「あ、ああ。……何だって?」 「聞いてなかったんだな……」 「すまん……」 零は殊勝(しゅしょう)な態度で紗那に謝った。いつになく覇気のない友人の姿に、紗那は困った顔でぽりぽりと頭をかいた。 「……あのさあ、零。どうしちまったわけ? なんかあったのかよ? めちゃめちゃらしくねぇぜ」 「悪い。……仕事はちゃんとやるから……」 「俺が心配してるのは仕事のことじゃねぇよ。バカ零。お前はくだらねぇことには口が回るくせに、肝心なことには口を割らないからな」 「……お前の俺に対する人物評価ってそんなんか?」 「そんなんだよ!」 紗那に断言されて、零は苦笑した。 綺麗で優しくて、自分のことを恋人にしたいなどという、恐ろしく趣味の悪い友人の顔を紗那は探るような目で見つめた。 零は出会った当初から、本当に辛いときほど口を噤(つぐ)むというところがあった。自分には「俺に頼れ」などと言うくせに、零が紗那に寄りかかることはあまりない。紗那のほうではそうとう零に甘えていると思うのだが、零は大変なときでも誰にも頼らず一人で我慢してしまう。それは不公平だと紗那は思う。 ……零も、さ。もうちっと俺を頼ってくれりゃいいのにさ。 零が自分を頼らないのは、自分が零を信頼しているほど、零は自分のことを信頼してくれていないからかもしれない。そう思い、紗那は寂しく思った。 ことあるごとに零は、「自分が惚れた女に弱み見せられねぇよ」と言っているが、それだけではない気がするのだ。 「……そろそろ四年になるんだな」 「あ?」 「俺と零が出会ってからさ。初めて引き合わされたとき、お人形さんみたいにキレイな子供が自分の教官になるって知らされて、かなりびっくりしたぜ」 「なに? 紗那、お前、あれでびっくりした態度だったのか?」 当時のことを思い出したのか、零はくすくすと笑った。 口を開けば三枚目だが、客観的に見て零は華やかな容貌を持つ美しい男だ。零ならば女も男もその気になればよりどりみどりだろうに、なにゆえこれほど自分に執着するのかと紗那は首を傾げた。 「俺も驚いていたぜ。所長にはそっくりだし態度はやけに生意気だし」 「たしかに生意気だったかもな」 紗那は決まり悪い顔をした。 「あの頃は俺も若かったんだよ」 当時のことは思い出したくもない。あの頃は誠司以外の人間は信じられず、かなりぎすぎすしていた時期だった。零と出会って、零という友人を得て、自分は初めて他人を信じてもいいということを知ったのだった。 「……あの頃はって、今も若いだろ」 零は呆れた顔をした。 「今も若いけど、さ。昔に比べりゃ分別ついたってことよ」 「それは言える。立派な被り物の猫を手に入れただけって気もするけどな」 「ばーか。それこそ処世術ってやつよ」 仕事の話から大きくはずれ、二人はバカ話に興じ始めた。二人が出会ってから現在に至るまでの話を延々と語り合っていた。 思った以上に自分と零が、同じ時間を共有してきたことに紗那は驚いた。過去に引き戻されて懐かしい思いを抱いている間に、零の悩み事の原因を聞きだすことを紗那はすっかり忘れてしまった。 はぐらかされたと気づいたのは、零と紗那とが別れてからだった……。 |