【プロンプター -02-】
 
「オヤジ……。ひょっとして疲れてねぇ?」
会社の廊下ですれ違った誠司に、紗那は驚いた顔で声をかけた。
同じ職場ではあるが、誠司と紗那は帰宅時間も違うし出社時間も異なる。優也が来てからは二人ともなるべく家に帰ろうと努力しているが、その前まではもともと家で会うより職場で顔を合わせることのほうが多かった。
紗那は昨夜、仕事で家に戻らなかったので、誠司と顔を合わせるのは一日半ぶりだ。
「分かるか? 顔には出ていないと思うが?」
「俺にしか分からないぐらいだと思うけど、なんか足元がビミョーにふらついてるぜ」
「そうか」
「なあ。何があったんだよ?」
紗那は心配そうに尋ねた。どんなハードスケジュールでも平気な顔でこなす父が、ほんのわずかではあるが疲労を滲ませている。あの『天城誠司』が疲れるなどとは晴天の霹靂(へきれき)である。幼い頃からの記憶を探っても、誠司が疲れたようすを見せたことは今までただの一度もなかった。少なくとも紗那の前では。誠司のタフさは人間離れしている。それが今は……。
どんな異常事態なのかと紗那はびびった。
「今朝まで優也をたっぷり可愛がっていたら、眠る暇がなくてな」
誠司は口元に、いやらしい笑みを浮かべて言った。優也との激しい情交を思い返しているのは明らかだった。
「…………あっそう」
優也に片想いしている紗那は、訊くんじゃなかったと後悔した。無駄にのろけられてしまったような気がする。
それにしても、体力無尽蔵の誠司をここまでの状態に追い込むとは、優也も侮れない。まさに『精力を搾り取った』ようである。
……ちっ。一瞬下世話な想像をしちまったぜ……。
「昨夜だけでなく、ここ一週間、毎晩優也が求めてきてな。嬉しいが心配だ。優也は体力がないからな」
「……そりゃオヤジに比べれば、誰だって体力がないよ」
「とりあえず今日は学校を休ませた」
「休ませたって……。あいつ、受験生だろ? いいのかよ?」
紗那は呆れた顔をした。
「とくに希望がなければうちの会社に就職させるつもりだ。そうすれば受験勉強など考えずにすむ」
「それってめちゃめちゃ強引じゃねぇか?」
自主性を重んじる父親のらしくない行動に、紗那は眉をひそめた。いくら誠司が優也にべた惚れだからと言って、そこまでするのはやり過ぎだと紗那は思った。公私混同もいいところだ。
いくら、誠司が経営している会社であり、縁故入社など容易にできたとしても、『社長が自分の恋人を、手元においておきたいがために入社させた』では、他の社員に示しがつかない。
周囲の風当たりがキツければ、優也だって嫌な思いをするだろう。それが分からない誠司ではないと思うのだが……。
「自分でも笑ってしまうぐらい余裕がない。追い続けている間はただ必死だったが、いざ手に入れてしまうと今度は失うのが恐ろしい」
誠司は自嘲的な笑みを浮かべて言った。
こんな表情を誠司にさせることができるのは、優也だけだろう。
仕事ではどんなトラブルであっても、表情一つ変えずいつでも冷静に適確に処理してみせる男が。今はたった一人の人間に、ここまで翻弄されている。感情を揺り動かされている。
「もう二度と失敗はしない。あれを失わないためには、俺はどんなことでもするぞ」
鬼気迫る父の言葉に紗那は戦慄した。
しかし、同時に安堵もした。
恋人と一緒に暮らし、毎日のように抱き合っていても、誠司はけして安心していない。現状に胡坐をかかず、貪欲に優也という存在を求め続けている。
……そう、だよな。これぐらいじゃなきゃ、俺も納得いかねぇよ。
叶わない恋でも仕方ないと思う。優也の相手は、あの天城誠司なのだから……。




……どうしよう。もう、ダメかもしれない……。
朝まで誠司が抱いてくれたお陰で、悪夢を見ないで優也はぐっすり眠れた。夢に捕まらないために、優也は毎晩誠司を求めた。誠司にたっぷり愛されてから眠ると、不思議とあの夢を見ないですんだ。
だが、安眠を手に入れた後にくるのは自己嫌悪だ。
……きっと誠司さん、呆れてる。なんて淫乱なコなんだろうって……。
……こんなに毎晩ヤってたら、そのうち誠司さんは俺の体に飽きる。
……飽きて、俺、捨てられちゃう……。
「ひぃっく……。うっ……ううっ……」
誠司に言われたとおり、今日は学校を休んだ。だが、行けばよかった。一人でいると、暗いことばかり考えてしまう。
自分はもっと前向きな人間だったはずだ。まったくイヤになる。
あの夢を見始めてからだ。呪いのように優也に絡みつく哀しみ。胸に残る深い哀しみが、優也から気力を萎えさせる。
それでも負けるものかと、優也は泣きながら思う。
優也は一度、誠司の腕の中から逃げ出した。だが、誠司と離れていたあいだ、いかに自分が誠司を愛しているのか自覚させられた。思い知らされた。
どんなに辛くても、自分は誠司とともにいる。誠司が優也をいらないという日まで、恋人として誠司の横にいる。
誠司の傍にいると誓った。その誓いを自分は絶対に破らない。誠司と離れて暮らすこと以上に、辛いことなどないのだから。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫。誠司さんは、まだ俺のことを愛してる……」
優也は繰り返し呟き、必死で自分を励ました。それは孤独な戦いだった。優也だけが、己の負けそうになる気持ちを叱咤することができた。誠司との幸せのために、優也は戦いを放棄するわけにはいかないのだ。
……俺は、負けない……。
優也は少年の目をして決意を固める。夢の中の少女は戦うことを知らなかった。だが優也は知っている。
それは優也と少女との、大きな違いだった……。





「こんのっ! 今日はまた、ずいぶんと大勢で遊びに来てくれちゃったじゃねぇかっ!」
紗那はざっくりと間近に迫った敵を切り捨てた。
今日の相手は『異世界からのお客サン』だ。どうしたわけか、最近はこの手の依頼が多い。ちなみに依頼主は日本政府だ。日本政府からだけでなく、各国の政府機関からも頻繁に依頼が入る。誠司は海外にもいくつか支部を持っていた。
全世界の人々には極秘にしているが、たまに異世界から人間を食べたり、この世界を侵略するためにやってくる迷惑な生き物がいる。それらは見つけ次第、事情の知らない人々に知られないうちに始末されていた。もしなにがあったか感づかれたら、世界中が大パニックになってしまうだろう。
『守り屋』である紗那たちは、要人のボディーガードなどという極々一般的な仕事もする。政府筋だけでなく大企業からの依頼も場合によっては引き受ける。いわゆる「表の仕事」というやつだ。
だが、実は『守り屋』の本当の存在意義は、やつらの相手をすることにある。
グレス=ファディルがこちらの世界にくる前に、アルザールから仕事を命じられた。王の位を捨てて去ろうとするグレス=ファディルに、王としての務めが果たせないのなら、代わりの仕事をして貰おうとアルザールはのたまったそうだ。
そしてこれが『仕事』である。
異世界からの侵入者を排除し、人界のバランスを保てというのが『仕事』の内容だ。
つまり天城誠司は『人』でありながら、人界の『管理者』という身分を担(にな)っている。
島流しと言っても過言ではないほどの、左遷、である。こんな辺境の界の『管理者』など、王位に比べれば塵のようなものである。紗那の前世であるデュアンが、歯軋りをする気持ちもよく分かる。
しかし、当の本人は身分には頓着(とんちゃく)していないようだ。
グレス=ファディルは身分よりもなによりも、妻のユリアが大切だったから。彼女を追うために、グレス=ファディルは王位を捨てたのだ。そしてその甲斐があり、誠司はユリアの魂を抱く『美樹原優也』を手に入れた。目的を果たしたのだから、いずれは天界に戻るのだろうか。誠司が現状に満足していても、アルザールが放っておかないだろう。グレス=ファディルはアルザールのお気に入りだった。それは今でも変わっていない……と思う。
天界を支配するあの方の考えは、正直、よく分からない。四王の一人であったグレス=ファディルならともかく、ディアンが天主と話す機会など皆無だった。しかし、グレス=ファディルいわく、『他に類を見ないほどの性格の悪さで変人』らしい。皆が平伏するアルザールに対し、そのような評価を下せるのはグレス=ファディルぐらいなものだろう。
グレス=ファディルは立場的には臣下だったが、天界で唯一、アルザールと対等に渡り合っていた。そんなグレス=ファディルをアルザールは、特別目を掛けていたようだった。
紗那が一匹切り伏せる間に、誠司は軽々と三匹を倒していた。
相変わらずの鮮やかな手並みに、紗那は憧憬と嫉妬がないまぜになった視線を誠司に向けた。
「……しかも使ってる武器、今日初めてらしいし……。やってらんねぇ……」
自分の父との実力差に、紗那は悔しさともどかしさを覚えた。
紗那が使っている武器は、いつもの『気』で作り出している剣だ。一方、誠司が持っている武器は黒い鞭だ。今日、初めて使うのだそうだ。
鞭自体は普通の鞭だ。だが誠司はそれに、自分の気を流して使っている。そうでなければ敵を倒せない
誠司は紗那と違って、普段からいろいろな種類の武器を試している。自分の腕に、誠司はけっして慢心しない。慣れてきた頃に新しい武器を使うことで、気を引き締めているのだろう。どのような状況にも、対応できるための訓練でもあるかもしれない。戦いが始まれば瞬時にその場の状況を読み取り、自分の有利な方向へと流れを引き寄せるのが、一流の戦士というものだ。
デュアンはグレス=ファディルに敵わないのは当然のことだと思っていた。自分よりも優れた技量のグレス=ファディルに心酔していた。デュアンもそれなりの腕を持ち、努力家ではあったがグレス=ファディルを超えようという野望は持っていなかった。その欲の薄さがデュアンの腕の上達を阻んでいた。
しかし、紗那は違う。いつか父親の誠司を超えたいと思っていた。
今は誠司の実力の足元にも及ばないけど。けれど紗那は、その夢を諦める気はなかった。
「ひぃぃぃぃ……」
「木根、しっかり前を向いて! 『気』を込めて、引き金を引け。額を狙うんだ!」
「『気』ってなんですか。額ってどこですか。ってゆーか、あれ、なんですか???」
異世界からの来訪者を前に、パニクっているのが木根司郎だ。木根を叱咤激励しているのが、紗那の腹心の部下の瀬名亮介である。
瀬名は木根のことが好きらしい。好みのタイプなのだそうだ。瀬名は女よりも同性の男のほうが好きという性癖を持っていた。今まで好きになる相手はノーマルな相手ばかりで、瀬名は幸せな恋というものを知らなかった。今度こそうまくいって欲しいと、紗那は二人の中を応援していた。……木根がはたして応援されたがっていたかどうかは謎だが……。
「落ち着け、木根! やり方はすでに身についているはずだぞ!」
さすが紗那の副官を務める瀬名だ。相手が自分の想人だというのに微塵も甘さを含まず、厳しく指導している。
その他の『客』は誠司と紗那で倒してしまったので、紗那はじっくり木根と瀬名のようすを観察していた。これは訓練の一環でもあるので、下手に自分が手を出すわけにはいかない。だが、いざというときには、もちろん助太刀するつもりだった。
木根は怯えながら、震える手で引き金を引いた。はずれ。弾は大きく逸れて、敵の後方へと飛んでいった。
「あの男、入社してからまだ三ヶ月目だったな。なかなか見所がある」
「だろ? 俺の副官の瀬名が、公私共に面倒見てっからな」
入社してしばらくは、『人』相手の仕事だ。よほど熟練したものでないと『気』を操ることが出来ないので、『客』を相手にすることができない。社員の中には、退社するまで裏の仕事を知らない者もいる。容易にばらしていい情報ではないので、裏の顔を知ることが出来るのは、やつらの相手ができる人材のみだ。
木根はその実力を見込まれ、その人材として選ばれた。入社三ヶ月目で選ばれるとは異例の早さである。
「1回目でこんだけできりゃ、上等だよな……」
裏の仕事を任せる人物は厳選している。心身ともに強い人間だけが選ばれる。しかし異界のものを相手にしているという恐怖と嫌悪感で、1回目の仕事はみなまったくの役立たずだ。敵に背を向け逃げ出す者も珍しくない。瀬名も最初のときは逃げることさえできず、力なくその場に座り込んで、迫り来る敵をただ呆然と見ていた。
だが木根は、自分の中の恐怖と戦い、相手に牙を向けることが出来た。あいにくその牙は、相手にかすりもしなかったが。
「もういい、瀬名。そこまでだ」
やりすぎるとトラウマにもなりかねない。紗那は頃合を計って瀬名に声をかけた。
「はい」
瀬名は軽く頷き、懐からナイフを取り出し素早く投げた。狙いはずさず、相手の急所を見事に貫いた。
目の前の敵が瀬名の手によって倒れたことを知り、木根は安心しながらも、不服そうな顔をした。結局、最後に瀬名の力に頼ってしまったことが悔しかったのだろう。
……木根は、もっと強くなるな……。
悔しいという気持ちがあるのなら、絶対に上に登れる。
自分の弱さを知った木根が、その弱さとどのように戦っていくのか、紗那は楽しみにしていた。
「紗那、部下は直帰させていいぞ。悪いが、お前はもう少し付き合ってくれ」
「了解、オヤジ。おおい、木根も瀬名もご苦労だったな。二人とも直帰していいぞ」
木根はもの言いたげな顔で紗那を見つめた。紗那は軽く微笑んでみせた。
「木根、1回目にしては上出来だった。……心配しなくても、どうせすぐにまた次が来る。今日はもうゆっくり休め」
紗那の言葉に、木根は、一応は納得したようだ。
「……ではお言葉に甘えまして、自分はこのまま家に帰らせていただきます。失礼致します」
木根と瀬名は綺麗な礼をしてから去っていった。



「……って、こんなもんでいいか?」
二人の気配が完全に遠ざかったことを確認してから紗那は言った。
「ああ。あの二人も弱いわけではないが、いかんせん相手が強すぎる」
「まーね。俺も自分の部下たちに、無駄な怪我をさせたくないしね」
「さあて、お二方、姿を見せていただこうか。……引きずり出しても良いのだが?」
誠司は物騒な笑みを見せて言った。紗那は心の中で敵に同情する。この天城誠司に敵意を向けるとは。
さきほどから紗那は、二つの気配と敵意に気が付いていた。木根と瀬名が気付かないほどの絶妙な気の強さで、自分たちの存在を誇示している。自在に気を操ることが出来る敵二人は、かなりの手練れの者なのだろう。
「戦いぶりをたっぷり見学させていただいた。見事なお手並み。人の身にやつしても、さすがはアルザール様の誉れ高きグレス=ファディル王といったところか」
「我らの主がお望みだ。グレス=ファディルとその養い子、お二人ともここで死んでいただこう」
誠司の言葉を聞いて現れたのは、二人の美女。おそらく双子なのだろう。二人ともそっくりな容貌だ。銀の長い髪に銀の瞳と、幻想的な姿をしている。
身に付けているのはごく普通のジーンズとTシャツだが、はっきり言って似合わない。
……こいつら『デュアン』と同じ世界から来たらしいな。
「こいつらオヤジの知り合い?」
油断なく目の前の敵に意識を集中しながら、紗那は素早く囁いた。
「顔を見るのは初めてだが、噂なら聞いたことがあるぞ」
「どんな?」
「アルザールの一番目の姫イーリカは、銀の美しい二つの刃を所有していると……」
「ってことは、黒幕はイーリカ姫ってことか? なんだって俺らを殺そうとするわけ?」
「さてな」
誠司は肩をすくめて見せた。本当に狙われる理由を知らないのか知っていてとぼけているのか、紗那には判断が付かなかった。
「紗那、一人まかせていいか?」
「あ? いいけど?」
「優也のことが心配だ。腹心の部下二人を使って俺たちを足止めしている間に、イーリカ姫は優也を狙う気だ。俺は一人を倒したら、すぐに自宅に戻る」
「……了解」
イーリカ姫にとって優也……あちらの世界での名はユリナ……は妹姫のはずだ。それが何故、自分の妹に危害を加えようとするのか。
ひょっとしたら、グレス=ファディルの妻であるユリナを人質として使う気なのかも知れない。自分の妻を盾にされれば、グレス=ファディルは膝を折ると考えたのだろうか。
アルザールの直系の姫が、グレス=ファディルをこの機会に殺そうと考えても不思議はない。現在は、自ら望んでこの地に落ちたグレス=ファディルだが、アルザールは跡継ぎとしてのグレス=ファディルの存在を諦めてはいないだろう。
……優也を取られたら、急所を握られたも同然だよな。こりゃとっとと倒さねぇとやべぇな。
優也を助けるためなら、誠司はなんでもする。間違いなく。
イーリカ姫の目の付け所は悪くない。
「紗那、生け捕りにしろ。殺すなよ」
「なにっ!? さりげなく難しいこと言うなよな!」
殺すより生かして捕まえるほうが難しい。しかも相手は普段相手にしているやつらよりも数段上の実力者たちだ。
「お前にならできる」
紗那の実力を、微塵も疑ってない言葉。
そう言われれば、やるしかない。
誠司が動いた。それに合わせて紗那も動く。
右側の女に誠司が攻撃を仕掛けた。女相手でも誠司は容赦しない。鋭く鞭を振るって女を追い詰める。
当たり前だ。
誠司にとって一番大切なのは優也だ。優也を傷つける者は、女である前にただの敵だ。
誠司と戦っている女を手助けしようと、もう一方の女が動いた。それを紗那が阻む。女の剣を、紗那は自分の剣で受け止めた。
「おっと。あんたの相手は俺だぜ?」
これで一対一の構図が出来上がった。あとは自分の仕事を果たすだけだ。
「あんた名は?」
「……こんなときに、なにを言っている」
女は不快そうに顔を歪め、紗那の剣を振り払った。
「美人を見ると、名前を聞かずにはいられないのさ。俺の今の名は紗那だ」
「……エノアだ」
紗那に名乗られ、女は不承不承自分の名前を口にした。礼儀正しい女だ。主の躾がいいのだろう。
「美人は好きだけど、手加減はしないぜ」
「望むところ!」
久々の強敵の出現にわくわくしながら、紗那は剣を構え直したのだった。



「……あ。もう夕方……」
泣きながら、また寝入ってしまった。優也は目を擦りながら上半身を起こした。泣き過ぎたせいか、頭が痛い。
「よく眠っていたな。起こすのが忍びなかったぞ」
「…………!」
いつの間にか、ベッドの縁に女が腰掛けていた。美しい銀糸の髪に青い双眸。人間離れした美貌だ。
……誰……?
自分と誠司との寝室にどうして見知らぬ女がいるのか理解できず、優也は驚き不安になった。女は優也を安心させるように、柔らかな笑みを浮かべた。
「この世界ではずいぶんと可愛らしい少年の姿をしているな。もっとも、そなたは昔から可愛かったが……」
女はにっこり笑って優也の頭を愛(いとお)しそうに撫でた。
絶対に自分は、この女に会ったことがないはずだ。なのに女は、自分のことを知っているようだった。
「あなた、誰……?」
「おや。私のことを忘れてしまったのか? 哀しいねぇ。私は二千年もの間、片時もお前のことを忘れたことなどなかったのに」
哀しいと言いながら、女はくすくすと笑って優也を抱き締めた。女の体は柔らかかったがひんやりとしていて、優也は違和感を覚えた。
女の容貌も、耳に届く音楽的な声も、美しすぎて非現実的だった。
「まったく、あのタヌキジジイには腹が立つ。私はてっきり、そなたが冥の国で幸せに暮らしていると思っておったぞ。グレス=ファディルとともにな」
「……グレス……ファディル……」
……だめだ! これ以上は聞いてはいけない!
……もう遅いわ。聞いてしまった。思い出してしまった。
……いやだ、やめて! 頭が痛い!
……愛しくて残酷な私の王。忘れられるはずがないのよ。何年、時が経とうとも……。
「いやだ!」
優也は女の体を突き飛ばした。女は優也から離れ、立ち上がって優也を見下ろした。顔には面白がるような表情を浮かべている。
「苦しいのかい? 可愛そうに。私とともに来るがいい。そうすれば楽になれる」
女は柔らかい声で優也を唆(そそのか)した。
「私が誰か教えてやろう。私の名はイーリカ。そなたの姉じゃ。会いたかったぞ、ユリナ」
「…………俺は、そんな名前なんかじゃない……」
反論する優也の声は弱弱しい。頭の奥からじんわりと、閉じ込めていた記憶が滲み出してくる。
……忘れていたかった。
……思い出したくはなかった。
……あの方に……愛されなかった記憶など……。
「ふふ。強情なことよ。そんなそなたも可愛いがな」
イーリカはもう一度、優也の体を抱き締めた。優也はその腕の中から、自力では逃れることが出来なかった……。
 
 
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