……誠司さんの、ウソつき! ちっとも大丈夫じゃないし! あんのクソったれのエロジジイ――――!!!
優也は心の中で盛大に誠司を罵った。責任の大半は自分にあると知りつつも、八つ当たりせずにはいられなかった。 唇を噛みしめ泣きそうになりながら、優也は何度も残された手紙を読んだ。たった一行しか書かれていないそっけない手紙は、すぐに読み終わってしまったが。 『家を出ます。紗那』 ……俺の、せいだ……。 優也はどん底まで落ち込んだ。平気そうな顔をしていたから、大丈夫なのだと安心していた。だが、自分の父親が愛人を……しかも男を……連れてきて、まっとうな神経を持った人間なら平気でいられるはずがないのだ。 「紗那、ごめん……。俺、紗那のこと、傷つけちゃったんだ……」 考えてみれば、紗那と自分の歳はたった一つしか変わらないのだ。それなのに自分は紗那に甘えすぎていた。紗那は自分にいろいろとよくしてくれたが、自分は紗那のために一体なにをしてあげただろう? 優也は日が落ちても電気をつけず、闇の中で呆然と座り込んでいた。今日中に終わらせてしまおうと思っていた宿題があったが、とても教科書を開いて勉強をする気にはなれなかった。 ……どうしよう……どうしよう……。誠司さん、早く帰ってきて……。 この家の主の帰宅を、優也は切実に望んだ。さんざん誠司に文句を垂れたものの、やはり優也が頼りにできるのは誠司しかいなかった。 頭が混乱してなにも考えられない。 ようやく深夜に誠司が帰宅すると、優也は紗那からの手紙を握り締めながら誠司にすがりついた。 「誠司さん、どうしよう!」 「優也、まだ着替えてなかったのか? 制服姿の優也も可愛くてそそるものがあるが……」 「そんなアホなこと言ってる場合じゃないよ! 紗那が家出しちゃったよ―――!!!」 「そうか」 誠司は冷静な態度で頷いた。 「そうかって、それだけぇ? 自分の娘が家を出たって言うのに、心配じゃないわけ!?」 「ああ」 「なに!? 誠司さんてば、超酷くない!? 信じらんない。そんな冷たい人だとは思わなかった!!」 「……優也、冷静になれ」 「冷静!? 紗那がいなくなっちゃったのに、なんで冷静でいられるわけ?? 俺、もう、誠司さんがなに考えてるんだか分からないよ!!!」 「……優也」 「今日から誠司さんとは絶交だから!!!」 「……絶交って……。お前は小学生か?」 「うるさいなあ!! とにかく、この件が解決するまであんたと口きかないからな!! バカヤロ―――――!!!!」 深夜だというのに、優也の絶叫が辺りに響いた。 二人の口喧嘩は珍しいことではなかった。……正確に言えば喧嘩というより、誠司のやや非常識な言動と行動に優也が一方的に腹を立てるというものではあるが……。 だが、なんだかんだ言って互いにべた惚れな二人はすぐに仲直りしてしまう。優也が「絶交だ」と叫んだところで、せいぜいその誓いが守れて一時間程度といったところだった。 しかし今回は長引いていた。 紗那いなくなってからもう一週間経つが、同じ屋根の下に住んでいるにもかかわらず、優也は誠司を無視し続けたのだった。 廊下を歩いていたら、突然襟首を掴まれた。 「紗那、昼飯でもどうだ?」 「オヤジ……」 振り向くと、相変わらず表情に乏しい顔をした己の父親が立っていた。 誠司に声をかけられて紗那は驚いた。 誠司と紗那が親子だということは所員全員が知っている。だがそれでも公私混同を避けるためか、誠司が所内で紗那に個人的に声をかけることはあまりなかった。まして昼食に誘われるなど、入社して四年目になるのに初めてのことだった。 「……オヤジがこんな人目のある食堂に俺を誘うなんて、すげぇ珍しいじゃん。優也が来てから、帰宅時間を知らせる伝書鳩代わりに使われることは多かったけどさ……」 「俺は自慢の娘と、いつでも昼食をともにしたいと思っているぞ。だが、お前はあまり目立ちたくはないのだろう?」 誠司はなにもかもを見透かしたような笑みを浮かべて言った。 「…………まあな」 たしかに誠司の言う通りだった。所長の誠司と一緒にいると、否応もなく人目をひく。誠司が気にならなくても微妙な立場にいる紗那としては極力目立つ行動は取りたくない。 所長の七光り……と陰口を囁かれる機会は極力少なくしたいのだ。 「で、それでもあえて俺に声かけたのは、なんの用さ?」 「家出をした娘を心配して……とは思わないのか?」 「思わないな。行方不明ってんならいざ知らず、俺の仕事のスケジュール、オヤジ、全部把握してんだろ。わざわざ心配する必要がどこにあんだよ」 「まったくだな」 カレーを口に運びながら誠司は鷹揚に頷いた。 紗那に全幅の信頼を寄せる誠司が、たかだか一週間家を出たぐらいで心配するはずがない。 ……ということは、優也になんか言われたのかな……。 「……なあ、優也は元気?」 紗那は気になっていたことを口にした。自分が家を出ても、誠司はまったく気にはしないだろう。だが優也は、おそらく自分が家を出てきたことで、なにかしら責任を感じているはずだ。遠く離れてみればただ愛しさだけがあって、正直この一週間、紗那は優也に会えなくて寂しいと感じていた。いつの間にか自分の中の優也の存在が、ここまで大きくなったのだろう。 「惚れたか?」 「……ひょっとしたら。でも、わかんない」 「わからない?」 「可愛いと思うんだけど、ときどきすげぇ憎ったらしく思える。この間はマジで殺意抱いた」 「どんなときだ?」 一瞬、紗那は口ごもる。だが誠司の静かな目に促されて口を開いた。 「この前、偶然、見ちってさ。オヤジと優也が……ヤってるとこ……。そんでなんか無性に腹が立って……」 「そうか」 実の娘に濡れ場を見られたというのに、誠司は微塵も動揺を見せなかった。恐ろしい男だ。一体どんな精神構造をしているのだろう。紗那は箸を握り締めて悔しげに呻いた。 「ああ、くそっ。オヤジはどうしていつもそんな超然としていられるんだよ! 俺なんか、もう、内心めちゃめちゃなのによーっ!!」 「一応、悪いとは思っている。お前にはいつも迷惑をかけているからな」 「迷惑? かけられた覚えなんかないけど。俺のほうこそずっとオヤジには甘えっぱなしで……」 「お前は昔から手のかからない子供だった。さして甘えられた記憶もないが」 誠司は優しく笑い、紗那の頭をくしゃりと撫でた。誠司の慈しむような眼差しを前に、不思議と泣きたくなってしまう。 ……この瞳に映るのが、自分だけだったらよかったのに。 ……この方の信頼を裏切るぐらいなら、自分は……。 「……あれ?」 なんだろう。 この感情は。 これは天城紗那が持ち得る感情なのだろうか? ……自分は、この方のものだと思っていたのに。この方は……あっさりと自分を捨てたのだ。 「……なんだよ、これ……」 自分の内側から聞こえる声に、恐ろしくなった紗那は目の前の誠司に縋るような視線を向けた。 助けて。 救いを求めたいのに声が凍りついてでない。 耳鳴りがする。 世界が……遠くなる。 ……どうして、どうして、どうして? ……あの女のせいだ。あの女のためにこの方は……。 嫌悪。嫉妬。憎悪。殺意。どす黒い感情が胸の中で渦巻いている。 だが紗那の中で一番大きかった感情は哀しみだ。 「紗那、大丈夫か」 気が付けばすぐ目の前に誠司の顔があった。目に気遣うような光を浮かべ、紗那の顔を覗き込んでいる。 肩に置かれた誠司の暖かな手に安心しながら、紗那は意識を失ったのだった。 『誠司さんは紗那を連れ戻してください。さようなら。優也』 学校から帰ってからすぐ、優也は自分の荷物をまとめ始めた。 「うっ……ううっ……えっ……うぇっ……」 優也はぽろぽろと涙を流しながら、部屋から自分の物を探し出し、鞄の中に詰め込んだ。部屋の中から優也の物が減るたびに、本当に誠司と離れなければならないのだと実感して優也はますます悲しくなった。 「うううっ……。誠司さん……誠司さん…………」 誠司と暮らしたこの家から出て行かなければいけないことが、死ぬほど苦しくて辛くて泣けた。 だが、紗那が家を出てしまった今、優也だけがこの家にとどまるわけにはいかない。誠司の腕の中で、のうのうと守られているわけにはいかない。この家にはもともと誠司と紗那が親子二人で仲良く暮らしていた。そこに優也が乱入し、親子の生活を壊してしまったのだ。 優也は紗那が好きだった。優しくて強くて。心の中に寂しさを抱えながら、寂しさゆえに他人に縋ろうとしない誇り高さに憧れた。自分を呼ぶ、優しい響きを持った声に安堵した。 誠司への想いの形とは異なるけれど、たしかに優也は、紗那に愛情を感じていた。もし誠司がいなかったら恋していたかもしれないほどに、優也は紗那を愛しいと思っていた。三人での生活は、とても楽しかった。 なのに、優也は、紗那を傷つけてしまった。紗那を生まれ育った家から追い出してしまった。ずっと誠司と紗那とともに暮らしていきたいと願っていたのに。優也は知らない間に紗那を追い詰めてしまった。 優也は自分が許せなかった。 「ごめん……ね、紗那……。俺……でてくから……。紗那を傷つけたくなんかなかったんだ……」 大きな荷物を抱えながら、泣きながら歩く少年の姿は否応なしに目立った。しかし優也には、周囲を気にしている余裕などなかった。胸が痛い。切り裂かれそうだ。 誠司と会えなくなることが辛い。 大好きな紗那を傷つけてしまったことが、苦しくてたまらない。 目的なく歩いてきたつもりだった。だが気が付けば、優也は誠司と出会ったあの公園へと辿り着いていた。 「……このベンチに座ってたら、誠司さんが声をかけてきたんだよな……」 優也は恋人と初めて出会ったときのことを思い出した。もう三ヶ月近く前のことだ。 「家出か?」 今でも耳の奥に、あのときの誠司の声が残っている。突然声をかけられて驚いて。声の主があまりにもカッコよかったので、さらに優也は驚いた。 一目惚れだった。 愛人になれと言われ、初めはその言葉は冗談かと思った。だが誠司は本気だった。嬉しかった。いつの間にか優也は、誠司のことを深く愛してしまっていたから。恋人として扱われ、天にも昇る気持ちだった。目眩(めまい)がするほど幸福だった。 「……最後に、抱いてもらえば良かったな……」 紗那が家を出た日に誠司と口論して以来、誠司とは口をきいていない。娘が家出をしたというのに、のほほんとした誠司の態度に腹が立った。けれどそれ以上に、口を開いたら泣いてしまいそうだったから、優也はわざと誠司を無視した。なかなか決心が付かずにいたけれど、紗那が家を出たのが自分のせいなら、自分こそが家を出るべきだと優也は思っていたのだ。 だから、あれは、予行練習だった。誠司がいなくても生きていけるように、優也は心構えをしていた。誠司がいないように振舞うことで、誠司から離れる準備をしていた。 それがうまくいったとは言い難いけど。誠司としゃべらず紗那もいなくて、優也はこの一週間、ずっと寂しかった。 「……でも、仕方ないじゃん。紗那が家出たの、俺のせいなんだから……」 誠司に愛された体を優也は自分の腕でしっかりと抱き締めた。もう二度と会えなくても、自分は絶対に誠司のことを忘れない。遠く離れることになっても、ずっと誠司を想い続ける……。 優也は自分が置いてきたものを惜しんで、ぐずぐずと泣き続けたのだった。 ……ここは、どこだ……? ……ここは、医務室だ。自分は食堂であのまま気を失ったのだ……。 「紗那、目が覚めたか?」 オヤジ、と言いかけて紗那は言葉を止める。この方は、そんな呼び方が許されるような身分のお方ではないのだ。 天上を治める四人の王の一人。天の主の片腕的存在であり、いずれは天帝の位を継ぐ偉大なる神。 尊き身分でありながら心優しきこのお方は、魔物に襲われた力弱き小さな神々を救うため、辺境の地を訪れたのだ。魔物たちは狡猾であり獰猛で、結局、命が助かったのは自分一人だけだった。 「すまん。もっと早くに私がこの地にたどり着いていれば、そなたの親や兄弟も救うことができたのに……」 この方は自分の家族を救えなかったことに責を感じて、自分を城まで連れ帰ったのだ。 あのときからこの方は、自分のすべてになった。自分にはすでに帰る家も親も兄弟もいない。魔物たちによって奪われた。 だから、自分には何もなかったから、これからの自分の生はこの方のためだけに使おうと思っていた。自分の全身全霊をかけて、この方に仕えようと思った。 この方に救われた命をこの方のために役立てることが、自分の望みであり誇りだった。 なのに……。 「……して……どうして、です……。どうして私をお見捨てになったのです……」 紗那は『天城紗那』として存在する前の自分ついて、なにもかもを思い出していた。 『天城誠司』が、自分が唯一、忠誠を誓った相手だということを。地へと下った自分の王を追って、自分もまた地上へと辿り着いたことを。 「どうしてなのです……。グレス=ファディル様……」 自分のことを見捨てていったと、王を責めるのはお門違いだということは分かっている。自分が勝手にこの方の背中を追っていただけだ。 それでも裏切られた気がした。突然、何も言わず、自分の敬愛する王が自分の目の前から消えてしまったことに自分は傷ついた。 この方にとって自分の存在など、その程度に過ぎないのだと……。 「私は、いつも言葉が足りない。……私はそなたを傷つけてしまったのだな」 懐かしい王の言葉。『天城誠司』ではなく『グレス=ファディル王』としての言葉に、紗那は涙を零した。 自分からこの方を奪った、あの女が憎かった。 自分より後に知り合ったくせに、この方の寵愛を受けるあの女が妬ましかった。 だが、もう、どうでもいい。 こうして自分は、この方に再び出会えたのだから。 |