【友情と愛情について -02-】
 
「いただきます」
手を合わせておじぎをしてから、優也は用意してもらった夕食に手をつけた。ビーフシチューとパンにサラダと、ばりばりの洋食メニューだ。優也の家ではほとんど和食なので、久々に洋食が食べられてちょっと嬉しい。
通いのお手伝いさんが作ってくれる食事はバランスが取れていて味もよいのだが、六十歳近い女性が作る料理らしく、煮物などが中心でなんだかものたりない。父親の口には合っているようだけど、高校生の優也はたまに無性に脂っぽいものを食べたくなる。父親に連れられて食事に行くときは、必ずハンバーグやステーキなどカロリーの高いものを注文していた。
「おいしかった」
あっという間に食べてしまった。
紗那が作った食事は、とてもとてもおいしかった。空腹は最高のスパイスというけれど、それだけじゃなく実際に料理が上手なのだと思う。
自分と同い年ぐらいなのにと思うと、すごいなぁとしみじみ思う。
優也は玉子焼きすら作ったことがない。
紗那は優也の食べっぷりに目を丸くしていた。
「……うっわー。大食いな美少年って、なんか迫力あるよな……。おかわり食うか?」
「うん。食う」
優也は遠慮しなかった。紗那の申し出に嬉々として頷く。
まだまだ物足りない。
外見とそぐわない食欲だとよく驚かれるが、高校男子としては普通の量だと思う。……多分。
あっけに取られる紗那を尻目に優也はシチューに舌鼓を打つ。一杯目は空腹のあまりガツガツと食べてしまったが、二杯目はじっくりと味わいながら片付けていった。
「すごくおいしい」
「ああ。そうみたいだな。見事な食べっぷりだ。そこまでおいしそうに食べてもらえると、作った甲斐があったぜ」
「紗那は料理上手いんだな」
優也は感心した。
「単なるシチューだぜ? カレーと同じぐらい簡単」
「……俺、カレー作れない……」
カレーと同じぐらい簡単といわれても、優也にはどのようにカレーを作るのか想像すらできず、とても困難なことのように思える。
台所に立ったことなんてほとんどなかったし。
「……うそ、だろ……?」
紗那に真面目に驚かれ、優也は恥ずかしくなって俯いた。自分と同い年ぐらいの紗那がこんな立派な料理を作れるのに、りんごの皮を剥くことすら出来ない己が情けなかったのだ。
「生まれてから料理って、作ったこと無いんだ……。調理実習とかも、女子に任せてたし……」
けれど、男子高校生で料理をまるっきり作れないのは、けっして自分だけじゃないと思う。男子のみならず、女子高校生でも料理がからっきしダメなコもけっこういるし。年齢のワリに、紗那がしっかりし過ぎているのではないだろうか……と、優也は内心で自己弁護をしてみる。
「それは……生きてくの、不便じゃないか? 料理、教えてやろうか?」
「ほんとか!? ありがとう!」
優也はにっこり笑って礼を言った。優也だって、嫌いで料理をやらなかったわけじゃないのだ。単に、機会がなかったというだけで。それにいつまでもこの家にお世話になるわけにはいかないだろうし、自活するには料理が作れるか否かは重要だ。紗那が教えてくれるというのなら、ぜひぜひその好意に甘えたい。これも自立の第一歩だ。
現在の優也の立場といえば、しがいない居候の身だし。せめて家事ぐらいは手伝わないとと、殊勝(しゅしょう)な気持ちもないわけではなかったし。一石二鳥というものだ。
「料理以外はできんのか?」
「えっ!」
「掃除とか、洗濯とか……」
「……」
優也はばつが悪い顔をして紗那の顔を見つめた。
そういえば家事には料理だけでなく、掃除や洗濯というものがあった。掃除ぐらいなら……なんとかなると思う。多分。掃除機の使い方ぐらいは、いくら世間知らずの優也でも分かっているし。
ただ洗濯については、あの『洗濯機』というものを、どのように使用したらよいのかさっぱり見当がつかない。洗濯後のシャツなどのしわを伸ばすために『アイロン掛け』という作業をしなければならないと思うのだが、なんだか難しそうだし……。
紗那は表情で全てを察してくれたようだ。
「俺が嫁に行くまで、しっかり仕込んでやるよ」
「うん」
頷いてから優也は違和感を覚えた。
「……嫁?」
紗那の場合は『婿』だろう。冗談ならば笑うところだが、冗談にも聞こえなかった。紗那には男の恋人がいて、女役だから嫁なのか? などと深読みしてみたものの、事実はさらに衝撃的だった。
「あ。お前、勘違いしているだろう」
「え?」
「俺、女」
「……」
優也は絶句した。驚きのあまりあんぐりと口を開け、まじまじと紗那の顔を見てしまった。女らしさの欠片(かけら)もないというよりむしろ、紗那は男らしくて凛々しくかっこいい。その紗那の性別が女だとは、まさに青天の霹靂である。騙されているのかと思ったが、紗那の表情から優也は本当のことであることを悟った。
「初対面だと、たいていの人間は間違えるんだよな」
慣れているのか、紗那は諦めたような口調で言った。間違えない人間などいないのではないかと優也は思った。
「子供の頃はともかく、最近じゃあ、かっこいいって言われることはあっても可愛いって言われることないしな」
「俺は可愛いって言われることはあっても、かっこいいって言われることはないぜ」
優也は紗那に親近感を覚えた。
優也と紗那は顔を見合わせ、深々と溜息をついたのだった。



紗那は早速、優也に『家事』を教えてくれた。まず手始めとして、汚れた食器を片付ける方法を伝授して貰った。
「優也、それ、洗剤つけすぎ」
「ごっ、ごめんっ」
我ながら危なっかしい手付きだった。さぞかし歯痒いだろうに、紗那は辛抱強く見守り指導してくれる。寛大で面倒見のいい性格なのだ。世の中にはこんな人間もいる。優也は紗那の優しさにほろりとした。人見知りをする優也には珍しく、すでに紗那に馴染みつつあった。
紗那の性別が女と知った後も、紗那が極めて『男らしい』性格をしているということには変わりはないと優也は思っていた。『男らしい』というのは、男として求められる性格の条件をすべてクリアしているというか。気性がさっぱりしていて頼り甲斐があって、しっかりしていて強いということだ。
動作の一つ一つ、言動の一つ一つが、ほんのわずかも女を感じさせないが、それも紗那らしくて好ましいと優也は思った。
「あのさ、紗那は反対しないわけ?」
食器洗いも終盤にさしかかり、優也もなんとか皿洗いのコツを掴めてきた頃、口を開いた。
さきほどから気になっていたことを、聞いてみようと思った。
「何が?」
「だから、普通、自分の父親が、『愛人』なんてものを家に連れてきたら、もっと違う反応をするんじゃないかと……」
「そもそも、いきなり『愛人』なんてものを家に連れてくること事態、普通じゃないと思うぞ。『普通』って言われてもな〜」
「それもそうだけど……」
しかし少なくとも、一緒に仲良く夕飯を食べて、一緒に仲良く後片付けなどしないはずだ。
「オヤジとは、お互い干渉し合わないことにしてるのさ。恋愛についても同様。愛ある放任主義っちゅー感じかな」
「ふぅん。まあ、どーせ愛人なんつっても誠司さんの冗談だと思うけど」
「そうなのか?」
「うん。俺、家出してきたんだけど、衝動的に出てきちゃったんでお金もたいして持ってなくってさ。公園で途方にくれてたら拾われたの」
「へぇ。オヤジ、なんつってた?」
「衣食住を提供してやるから、愛人になれ、だってさ。変わった人だよな」
自分の父を変人扱いされても、紗那は怒るどころかしみじみ同意した。
「確かにうちのオヤジは変わっているよな。娘の俺でさえ得体知れねぇって思うもん」
「だよなー」
出会ったばかりの自分はともかく、実の娘でさえこれなのだ。
だからこそ思ってしまう。その本心が知りたいと。誠司が心の中に何を持っているのかと、優也は興味を引かれていた。その瞳の奥に、どんな想いがあるのか知りたいと思った。キレイな大人の男に、もっと近づきたいと思った。
……って、もっと近づきたいってなんだよー、俺っ!
……た、た、たんに、相手はマレに見る変人だからなっ! それで興味をもっただけだいっ!!
怪しい方向に流れていきそうな自分の思考に優也は自分で突っ込みをいれた。
お茶でも飲もうと紗那が居間へと誘ってくれたので、優也は大人しく後についていった。とりあえず、自分の気持ちに蓋をして……。
紗那と優也は居間のソファーに並んで座り、いろんな話をした。紗那の方が優也よりも一つ年上で、十八歳だということが分かった。家出の理由が父親の再婚だということも話した。甘ったれたガキだとバカにすることもなく、紗那はちゃんと耳を傾けて、優也の話を聞いてくれた。
「ほんとうなら、父親の幸せを喜んであげなきゃいけないんだよね。でもなんか……いろんなこと考えてぐちゃぐちゃになっちゃって……」
「気持の整理つくまで、いくらでもいてくれたってうちは構わねぇけどよ。電話だけしとけよ。心配するだろうからさ」
「……うん」
差し出された子機を優也は素直に受け取った。紗那の目の前で電話をかけるが、出たのは留守電だった。家政婦さんは帰っている時間だし、父は残業でもしているのだろう。かえって優也はほっとした。気持の整理がついたら家に帰るということと、心配しなくても大丈夫だということと、また連絡するということを留守電に吹き込む。ちょうど春休みなので学校はしばらくない。お言葉に甘えて自分が満足するまで紗那と誠司のお世話になろうと優也は思った。
「どうもありがとう」
にっこり笑って礼を言い、紗那に子機を返した。
紗那の配慮が嬉しかった。
「……オヤジのやつ、案外マジかもな」
優也の顔をじっと見ながら、紗那はぼそりと呟いた。
「え? な、なんで……?」
「んー。優也は顔も抜群に綺麗で可愛いんだけどさぁ、それ以上に性格が素直で柔軟だし、可愛いんだよな」
「……そう?」
「そう。例えばさ、俺が女だって知ると、大抵の人間は最初は驚いて、その次は言葉づかいや態度を『もっと女らしくしろ』とか説教垂れやがんの。ほっとけっつーの」
「え。似合ってるのに、無理に変えるなんて変じゃん」
男っぽい言葉づかいや態度は、紗那の凛々しい容貌や性格によく馴染んでいた。今時の女子高生が、汚い言葉づかいで話すのとは意味が違う。紗那にはそれが一番相応しい言葉だから、その言葉で話すことを選んでいるのだ。
「だろ? でも、優也みたいに思ってくれるのってあんまいないわけよ。髪伸ばしても女にゃ見えねぇんだから、諦めてくれればいいのに……」
最後のほうは、紗那は独り言のように呟いた。それは誰か特定の相手に対して言っているようにも聞こえた。
「……紗那?」
「とにかくそんなわけで、覚悟しといたほうがいいぜ」
「何を?」
「ロスト・バージン」
紗那の言葉に優也は顔を真っ赤にさせた。
「バ・バ・バ・バージンっ! 俺、男だけどっ!!」
「今更なに言っちゃってんのさ。あのオヤジが性別なんか気にするはずないじゃんっ!」
優也の慌てようを見ながら、紗那はけらけら笑いながら言った。
……い、いや、でも、変な人だったけど、さすがに性別ぐらいは気にするかもだしっ!
……ロスト・バージンっ!! 男にバージンってなんだよっ! べ、べ、べ、別に俺、そんなつもりないしっ!
……って、なに顔を赤くしてんの俺っ! ここは青ざめるとこだろーっ!?
優也は混乱した。誠司が冗談じゃなくて真剣かもしれないと知って、気持ち悪いと思わず嬉しいとか思っちゃうのってなんかヤバイと優也は思った。
「……それとも、俺に乗り換えるか……?」
唆(そそのか)すような笑みを浮かべて、紗那は優也の顎を持ち上げ至近距離で囁いた。自分ツッコミに忙しかった優也は、紗那の接近をあっさり許してしまった。いつの間にか近く迫った端正な顔に、優也はどきりとする。軽く目を伏せた紗那の顔には、中性的な色気が漂っていた。思わずぽーっと見とれていると、だんだんと紗那との距離が短くなっていく。
……え? ええ??
優也はけして鈍くさいほうではなかったが、紗那の予想外の行動についていけないでいた。
気が付けば、あと数センチで紗那の唇が優也のそれに触れようとしていた。唇に吐息を感じたが硬直して優也は逃げることも出来ない。
……うわーっっ。
「主人の留守中に浮気とは感心しないな」
……こ、この声は……。
「おっかえんなっさーいっ」
紗那はくるりと誠司のほうを振り返り、明るい声で言った。優也と違って焦った様子は微塵(みじん)もない。おそらく最初から、誠司が帰ってきていることを知っていて、紗那は優也をからかったのだ。
「あ……」
紗那が一方的に迫ってきただけで疚(やま)しいところはないつもりだが、際(きわ)どいシーンを見られて優也は心臓をばくばくさせた。顔を赤くしたままで、困惑した表情で優也は誠司の顔を見上げた。
優也の視線に気付き、誠司は目を細めて笑った。優しい視線に優也は落ち着かない気分になる。紗那は父親に優也の隣を譲って、向かい側のソファーに腰掛けた。誠司は当たり前のように、紗那の空けた場所に座った。
「寂しくなかったか?」
頭をくしゃりと撫でられる。くすりと笑い、誠司は優也の頬に唇で触れた。
ますます優也の胸の動悸は激しくなる。
キスされただけでも恥ずかしいのに、誠司は無言で自分の左の頬を差し出してきた。つまり、おかえしのキスをしろということだ。
……ひ〜〜〜っ。
優也は心の中で絶叫した。
……なんかなんか、おかしくねぇ? フツー、36歳中年男が保護した家で少年のほっぺにちゅーっておかしくねぇ?
……愛人ってマジ? だったらこれって、当たり前なわけ? やっぱ俺もほっぺにちゅーを返してあげるべきっ!?
問題なのは、それを嫌じゃないと思っていることだ。ただ恥ずかしいというだけで。
救いを求めるように紗那に視線を向けると、にやにやと笑いながら面白そうに見ている。
……ひどいよ、紗那っ。いいやつだけど、いいやつだけど……意地悪だっ。さっきから俺の反応を見て、楽しんでる……。
優也は涙目で紗那を睨んでから、上目遣いで誠司を見た。誠司の促すような視線に覚悟を決め、優也はそうっと誠司に近づいた。恥ずかしくて目を開けていられず、ぎゅっときつく目を瞑って誠司の頬に唇を押し付けた。
その途端、よく出来ましたとでも言うように、誠司の胸に抱き締められる。
……ぎゃぁぁぁぁ。
誠司と抱き合っているのは不快ではない。けれどひじょーに恥ずかしい。
「邪魔すんのも悪いし、俺、部屋にいくわ」
「ああ」
……うわぁぁ。見捨てないでぇぇぇっ。
優也の心の声は届かない。父親の恋路に協力すべく、娘は自室に戻っていった。



「紗那に苛められなかったか?」
耳朶に触れるか触れないかの距離で、優也を甘やかすような声で誠司が囁く。体がビリリと痺れて、腰のあたりに覚えのあるあやしい感覚が生まれる。犯罪的に官能的な声だ。
逃げなきゃヤバイっ! と理性の声は叫んでいるが、カラダはもう、誠司の声に骨抜きにされていた。
……この声だけで犯罪だよ〜っ。なんかっ、下半身がっ、ちょっとヤバイんですけど〜っ!!
「は、はい。苛められませんでした」
顔を赤くし目に涙をため、緊張のあまり思わず敬語で答える。
「優也」
「はいぃっ?」
「キスしていいか?」
唇を親指の腹でなぞられながら、尋ねられる。優也は一瞬頭が真っ白になる。そして、パニックを起こした。
……ひぇぇぇぇぇっ。本気だっ。本気で愛人なんだぁっっ。
……キ、キ、キ、キスって! 手が早くないか? 会ったばかりなのに、展開早過ぎじゃないかっ!? このエロ中年っ!
優也の沈黙を肯定と受け取ったのか、誠司の顔がゆっくりと降りてくる。
「だ、だめぇっ!」
流されそうになる直前で、優也は思いとどまった。ぎりぎりのところで優也は誠司の唇を、自分の手の平で塞いだ。誠司が問うような眼差しを優也に向ける。手の平で触れた誠司の唇の感触に、優也はどきどきする。
「俺、ファーストキスは夕暮れの海で波の音を聞きながらするって決めてるのっ!」
ファーストキスに夢ぐらいあるのだ。ただし、その相手はあくまでも可愛い女の子ではあったが……。
優也の言葉を聞いて、誠司は思案するような顔をした。
「残念ながら、この時間帯では夕日は難しいな。太陽はとっくに沈んでいる。優也、夜景の綺麗な海辺の公園にまけといてくれないか? 波の音なら聞こえるぞ」
「へ?」
優也は思わずまじまじと、誠司の顔を見上げてしまった。思いがけず真剣な瞳にぶつかりどきりとする。綺麗な目だ。綺麗な男だ。子持ちのやもめ男とは思えない。
誠司がかつて結婚していたことがあるという事実に今更ながら気がつき、そのことを優也は不快に感じた。つい最近、似たような感情を抱いたことがあった。父の再婚相手にたいして覚えた感情だった。けれど、それよりもはるかに苦しくて辛くて、なんだかせつない。
……俺、嫉妬している……?
かつてこの男を夫にしていた顔も知らない相手に対して、優也は苛立ちを覚えていた。
……し、し、嫉妬って……。誠司さんとは今日出会ったばかりだし……。なんで俺……。
答えはもう一つしかなかったが、優也は認めたくなかった。
一度認めたら、間違いなく引き返せない……。
「優也」
怖い。逃げ出したい。
なのに……抗えない。
そんな優しい声音で名を呼ばれたら、もうダメだ……。
優也は一瞬躊躇(ためら)った後、こくりと小さく頷いた。
出会ったばかりなのに。
それなのにこんな気持ちになってしまう自分が、優也は信じられなかった……。
 
TOP  前頁 次頁