【友情と愛情について -01-】
 
「このままあの方の傍にいることなんて……できない……」
あの方の妻に選ばれて、有頂天だった私。
妻にと望んでくれたのだから、きっとあの方も自分を同じように想ってくれていると、単純にもそう信じ込んだ。
あの方の立場を考えればこの結婚が政略的なものであることなど、簡単に気が付くことができたのに。恋に目がくらんだ自分は、そのことに思い至らなかった。愚かで、子供で、あの方に不釣合いな私……。
「あの方に愛されない私なんて……いらない……。いらないの……」



失意の中で、少女は自分の存在をこの世から消し去った。
けれどそれは『罪』。そして『罪』は償うもの。
少女の魂は傷つきながら、別の世界へと飛ばされていった。
こことは異なる遠い世界で、己の犯した過ちを正すために……。



***********



「愛人の美樹原優也だ。面倒を見てやってくれ」
「……はあぁ?」
天城紗那(あまぎしゃな)は己の父、天城誠司(あまぎせいじ)の発した言葉を瞬時に理解することが出来なかった。思わずマジマジと父親の顔を見てしまう。
話の内容的にすぐに理解しろというのは無理な話だろう。
なにせ『父』というぐらいだから誠司は男なわけで。
そして『愛人』として連れられてきたのは『少年』なわけで。
『少女』だったらまだ納得も。……いや、それもまずいか。誠司の歳は30代半ば。立派な中年オヤジである。
……冗談、だよな……?
「誰が、誰の愛人だって?」
半信半疑で紗那は尋ねた。
常識と照らし合わせて考えれば、冗談ととるべきだろう。だが、この父親のやることは分からない。自分が生まれてから十八年の付き合いになるはずだが、未だに父の行動を予測することなど到底できない紗那だった。
「こいつが、俺の愛人だ」
誠司は煙草を吹かしながらあっさりと言った。まるで今日の天気の話でもしているかのような、話の内容の非常識さにそぐわない口調である。
そしてその左手はしっかりと『愛人』の肩を抱いている。
「…………」
……マジか、ギャグか。
紗那は悩んだ。この父の性格なら、どちらもアリのような気がする。
飄々とした誠司の表情からは、その言葉か真実であるのかただの冗談のつもりなのか読み取れない。
それは、天城家の玄関先での出来事であった。
ときは夕方。太陽が半ば沈みかけた時分のことである。美しい夕暮れの空を、カラスがそしらぬ顔して通り過ぎて行く。
呼び鈴の音を聞いて仕事で疲れているであろう父を出迎えるため、紗那は玄関へと足を運んだ。お帰りなさいと言いかけたとき、父の隣に美しい少年の姿を発見したのだった。
こいつと指さされた繊細な顔立ちの美少年は、頬を染めて俯いた。歳はおそらく紗那と同じぐらい。
……少年の様子から見て、ひょっとしてマジか? 自分の子供と同い年ぐらいのコを、たぶらかしちゃっていいのかねぇ……?
「あー……。可愛いとは思うけどさ。俺には、男に見えるんだけど?」
あなたがホモだったなんて初めて知りましたよおとーさん、という気持ちを込めて言ってみる。一応は。
「じゃあ、そうなんだろうな」
誠司はくくくと喉の奥で笑いながら言った。目には面白がるような光を宿している。
……やはり冗談なのか?
紗那の動揺ぶりを楽しんでいるフシがある。己の父親ながら、誠司は一筋縄ではいかない性格をしているのだ。
「……ふーん」
紗那はもう一度、少年の顔を凝視した。バサバサの長い睫に色素の薄い綺麗な瞳。透けるような白い肌と、ぽっちゃりとした桜色の唇。じっと見られているのが恥ずかしいのか、目元を赤く染めているが、その風情がまたなんとも色っぽい。風になびいてさらさらと揺れる髪の毛は、絹糸のようで触れてみたいと思わせる。さぞかし触り心地が良いのだろう。
……こんだけ綺麗だったら、ま、しょうがねぇか。
とりあえず現時点で、紗那は『マジ』であると判断をくだす。それだけの説得力が少年の美貌にはあった。
性別に関して誠司本人がこだわっていないのだから、別にいいかと紗那は思った。おそろしく大雑把な性格の紗那は、父親の恋人が男だろうがへちまだろうが、どうでもいいかと思い始めていた。天城家は、自主性を重んじる家族なのである。父は紗那の行動に余計な口を挟まないし、それは紗那も同様だ。無責任な放任ではなく、互いを尊重し、信頼し合っているのだ。
それに、紗那の母親と父親が離婚してから既に八年以上経っている。そろそろ父親にも新しい伴侶が出来る頃だと覚悟はしていた。さすがの紗那も、この展開は読めなかったが……。
……オヤジめ、やってくれるぜ。
紗那は苦笑した。
「悪いが、急用が入ってすぐに仕事場に戻らなければならない。後のことは頼んだぞ」
まるっきり慌てていない落ち着いた声で、誠司は急いでいると紗那に告げた。誠司の仕事柄、「すぐ」戻らなければならないのなら、本当に時間がないのだろう。
紗那は父の愛人の面倒を見ることを了承した。
「彼の部屋どうすんの? 親父と同じ部屋でいいの?」
突然、父親の愛人である少年を連れてこられるという異常事態に、すでに順応しつつある紗那であった。こうでなければこの父親とは一緒に住めない。いちいち驚いていたらキリないし。
「ああ。苛めるなよ」
「いじめねーよ。ちゃんと面倒見てやっから、心配すんな。頑張って稼いでこいよ」
紗那は手をひらひらと振り、気軽に父の愛人の面倒を引き受けた。
「俺が帰ってくるまでいい子で待っていろよ」
去り際、誠司は少年の頬に軽くキスをしながら囁いた。自分の子供の目の前であるというのに誠司は遠慮しない。紗那もとりたて気にしなかった。一番動揺していたのは少年である。誠司の唇が触れた瞬間、少年の顔は見事に真っ赤になった。
……うーん。純情だねぇ。こーんなオヤジの毒牙にかかっちゃっていいのかねぇ。
父と少年のラブシーンを、紗那は冷静に観察していた。
紗那の父は当年36歳のはずだが、とてもそうは見えない。5つ6つは若く見える。
すらりとした長身に、贅肉一つついていない鍛え抜かれた肉体。シルエットだけでも十二分にカッコイイ男だが、顔立ちも端整だ。クールな性格に相応しく、クールな面相をしている。黒々とした瞳は妙な迫力があり、じっと見つめられると大抵の悪人は、自分の悪事をついべらべらとしゃべってしまう。
紗那も、その誠司とよく似た風貌をしていると言われる。身長は紗那のほうが低い。また、髪型は誠司が短髪であるのにたいし、紗那は腰まで髪を伸ばしてそれを後ろで一つにくくっている。顔の作りも紗那の方が甘めである。それでも二人で歩いていると兄弟に思われるのはしょっちゅうだったし、紗那がもっと年を取れば、誠司に瓜二つになると言われている。
少年は立ち去る誠司の後姿を、心細げな様子で見つめている。置いていかれるのが不安なのだろう。
……ビジュアル的に、お似合いな二人だよな。
紗那は美意識をおおいに満足させ、深く頷いた。
儚げな美貌の少年と凛々しく逞しい大人の男。
悪くない。
誠司が去り、後に残るは紗那と少年の二人のみだ。常識を持ち合わせている少年は、誠司から『愛人』であると堂々と紹介され、気まずい思いを抱いているらしい。『愛人』が本宅に乗り込んでいるんだからフツーは気まずいか。もっとも誠司は現在独身なので、愛人というより恋人なのではなかろうか。
少年は困ったなぁという顔をして、紗那を見上げた。
美少年にそんな頼りない顔をされると、思わずぎゅっと抱き締めて、「大丈夫。俺が守ってあげるから」ぐらいのことは言ってあげたくなってしまう。
紗那はその誘惑をぐっと堪えた。少年はなんといっても、父親の愛人である。泥沼の家庭内三角関係愛憎劇はご遠慮したい。
「よう、愛人。俺は天城紗那だ。取り敢えず中にはいんな。部屋に案内するぜ」
「愛人なんて呼ぶな。優也でいい」
紗那の呼び方が気に入らなかったようで、優也はむっとした顔をした。
意志の強い少年の瞳に、紗那は内心驚いた。外見どおり繊細で気弱な性格をしていると思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。
「オッケー。じゃあ、俺のことは紗那って呼んで。これからよろしくなっ」
紗那は強引に、優也の手を取り握手した。見かけどおりの従順すぎる美少年より、ちょっと気が強くてイキがいいほうが紗那の好みだ。紗那は優也のことが気に入った。どうせ一緒に住むのなら、外見も中身も自分好みの相手のほうがいい。
面白くなりそうだと、父と子の二人暮しに突如割り込んできた少年を、紗那は快く迎え入れたのだった。



まさか誠司に息子がいるとは思わなかったので、優也は驚いた。誠司の持つ雰囲気から、てっきり一人暮らしだと思っていた。子持ちだったとは。
誘われるがまま、のこのこと誠司についてきてしまったことをわずかばかり後悔したが、紗那がにっこりと微笑んでくれたので、優也は少し安心した。どうやらこの家の息子は、優也を歓迎してくれているらしかった。
自分の父親がいきなり『愛人』だといって『男』を連れてきたのだ。普通はもっと動揺すると思う。憎まれてもおかしくない立場だ。
それを考えると、この家の息子はものすごく寛大というか大雑把というか、度量が大きいとでもいうべきだろうか。
父親の奇行にとまどっている様子がまるでない。
「ここが飯を作って食うところ。夕飯の支度すんでいるから、あとで一緒に食おうぜ。んで、ここが居間。そこがトイレ。バスルームと洗面所」
紗那はずんずんと奥に進みながら、手際よく部屋を案内していった。優也が来るまでは紗那と誠司は二人で暮らしていたようだが、二人暮しのわりに家は広い。もっとも優也の家も、父と息子の二人暮しであったのにもかかわらず、この家よりも数倍は大きかった。優也の父は祖父から引き継いだ弁護士事務所を経営していて、事務所には常時十数人の弁護士を抱え、その世界ではかなり高名な大手事務所らしい。直接父から聞いたわけではなかったが、某政党から立候補してみないかという誘いもあった とか。興味がないと、あっさり父は断ったらしいが。
旧家らしく優也の家は立派な和風造りの家で、基本的には和室な部屋が多いが、優也の部屋だけは中学校のときに父にねだり、洋風にしてもらった。平屋ではあったが台所、食事をとる部屋のほかに父の寝室、書斎、客間と部屋の数はとにかく多かった。つまりそれだけ土地も広かった。
そのだだっぴろい家に、たった一人父を残してきてしまったことに、優也は今更ながら罪悪感を抱いた。一応、部屋に手紙を残してきたものの、一人息子が家出をしたと知ったらショックを受けるに違いない。
……俺がそんなに心配することもないか。お父さんにはあの人がいるんだから……。
すぐに優也は、自分が家出しようと思ったきっかけを思い出し、むっとした。
大人気ないことをしているという自覚はあったが、後には引けないと優也は思った。せっかく家を出たのだ。自分の気持に踏切りを付けるまで、家には帰るまいと決意を固めた。
「次、二階な。階段、滑りやすいから気をつけろよ」
「あ、ああ……」
もの思いに耽っていた優也は、慌てて紗那の後を追った。
「俺の部屋に、親父の部屋。優也は親父の愛人だから、親父と同じ部屋な」
あっけらかんと笑いながら、紗那は奥の部屋の扉を勢いよく開いた。
よく考えてみれば、紗那と自分が同じような立場であることに優也は気が付いた。
父と息子の二人暮しのところにやって来た闖入者。自分は驚き受け入れられず、家を飛び出してきてしまった。それに比べて紗那はあっさりと順応し、愛想よく優也に接している。誠司のことをわずかも詰ったりもしなかった。愛人と言って父親が連れてきたのが、自分と同い年ぐらいの、しかも男だというのに、ちっとも動じた様子がない。
優也を愛人だと言った誠司の言葉を、信じていないという可能性もある。自分も実は信じていない。誠司の、極めて分かりにくい冗談だと思っている。しかしこの紗那なら、冗談だろうが本気だろうが、誠司が連れてきた人間ならにっこり笑って受け入れるのだろう。
紗那と比較して、自分はなんと幼稚なのだろう。優也は自分の情けなさに泣きそうになる。
つまり自分は、親から独立していない未熟な子供なのだ。人ごみを歩くときに父親とはぐれるのが嫌で、しっかりと父の手にしがみついていた幼い頃の自分から、ちっとも成長していないのだ。
自分のダメさ加減に優也は落ち込んだ。
家から突発的に出てきてしまったという行動が、自分が如何に愚かな子供であるかを証明している。だが、ひょっとしてこれはチャンスかもしれない。親元から離れた場所なら、自分の中の独立心とやらを育てることが出来るかもしれない。
優也は自分の将来性に期待することにした。


「親父の部屋にはバスルームが付いてるんだぜ。便利だろ?」
紗那は意味深な笑みを浮かべて言った。優也には最初その笑みの意味が分からず、不思議に思いながら曖昧(あいまい)に頷いた。
優也の部屋にもユニットバスが備え付けられていたが、広いお風呂に入るのが好きな優也は、あまり使うことはなかった。この家にも1階には、一般家庭としてはやや広めのお風呂があり、部屋に備え付けられたバスルームをわざわざ使うことはないだろうと、正直、紗那の言う便利さは分からなかった。よく見れば誇りもうっすら積もっていて、実際、使われていないようだし。
「ご覧の通り、我が家は新築の一軒家で防音はしっかりしてる。親父の部屋と俺の部屋とは離れているから、音が聞こえにくい。だから安心していいぜ?」
「……なにが……?」
困惑した表情で、優也は紗那を見上げた。優也よりも紗那の方が、わずかに目線が高い。
「やだなあ。声に決まってんだろうが」
「声って、なんの……?」
優也には紗那の言わんとしていることが理解できなかった。紗那は焦れた表情で、優也の肩を力強く叩いた。
「か〜っ! いい加減、カマトトぶるなよっ」
「え?」
「えっちのときの声に決まってるじゃん。超ハードプレイでベッド壊れそうなほど頑張っちゃってもOKよん」
そこまで言われて、やっと優也にも意味が通じた。瞬時に、優也の頬が朱に染まる。
「お、俺はそんな……」
「あ〜。別に、隠さなくっていいって。愛人と男が二人きりで部屋にいて、やることっつったら決まってるもんなっ。いいって、いいって! 精一杯そのぴちぴちした肉体で、中年親父を慰めてやってくれよ!」
紗那は明るく笑いながら、優也の背中をばんばん叩いた。
優也はなにも言えず、赤面したまま俯いた。
頼むから、そういう恥ずかしいことを言わないで欲しい……。
男どころか女とも今まで付き合ったことのない優也は、こういったことに免疫がなかった。
……た、確かに、本当の『愛人』ならそういうことするんだろうけど。
……で、でも、あれはきっと冗談で……。中年つってもあの人すげぇかっこよかったから、わざわざ俺みたいなガキ、相手にする必要ないだろうし……。
それに、初めて声を掛けられたとき、誠司はすごく優しそうな眼をして自分を見ていた。下心がありそうな、いやらしい感じはしなかった。
「荷物、そこら辺に置いて下にいこうぜ。夕飯にしよう」
「うっ、うん…」
先に紗那は、さっさと下に降りてしまった。一人部屋に取り残された優也は、深々と溜息をついた。荷物といっても小さな旅行鞄一個分しかない。家出にしては、かなりの軽装である。所持金もほとんどない。思いついたのが昨日で家を出たのが今日だ。まったく考えなしに家を出てきた。公園のベンチに座ってこれからの行動を考えあぐねていたとき、誠司に声を掛けられたのだった。
「家出か?」
人が前に立っていたことに気が付かなかったので優也は驚いた。顔を上げて男の姿を見て、再び驚いた。暗い色のスーツをビシリと着こなした男は、優也の好きなハードボイルド小説の主人公のようにかっこよかったのだ。男の放つ、強烈な男の色気に圧倒された。穏やかなのに危うい。職業が殺し屋だと言われても、優也は納得しただろう。
女顔で体格も貧弱な優也は、男らしい容姿に憧れている。目の前の男はまさに優也の理想の姿をしていた。
「家出か?」
「あ、はい」
再度問われ、男に見とれていた優也はうっかり正直に返事をしてしまった。
……し、しまったぁっ。俺のばかっ!!
常識的な大人なら、未成年が家出してきたと聞けば放っておかないだろう。警察に連れて行かれて優也の家出はジ・エンドだ。優也は慌てふためくが、杞憂だった。誠司には優也のことを警察に知らせる気はないようだった。
「衣食住を提供してやろう」
「え?」
「代わりに……」
男は腰を折り、ぴたりと優也に目線の高さを合わせた。息がかかるほど間近になった男の顔に、優也はどきりとする。近くで見ても文句なしに凛々しくてハンサムだ。
誠司は優也を見つめながら、小さく笑って一言。
「俺の愛人になれ」
……はい?
優也は耳を疑った。
……愛人って、愛人って、愛人……だよなぁ?
しかし、愛人という淫靡(いんび)な言葉の響きのわりに、男の目は穏やかで優しく、いやらしさをまったく感じさせない。
死んだ母親譲りの美貌のせいで、同じ男からも性の対象として見られることがあった。共学の学校だったのにもかかわらず、上級生の男子生徒に告白されたこともある。恥ずかしながら貞操の危機を覚えたこともないわけではない。下心のある男の視線には敏感なほうだ。
……いっくら俺がビショーネンだからって、こんだけいい男だったら女にも不自由してないだろうし。
「……もしかしておじさん、ホモ? それかバイ?」
「どちらも違う」
男は声も渋くてかっこよかった。おじさんと呼ぶのが申し訳ないぐらいだ。気を抜けば、いつのまにか男に見惚れている自分に気が付く。
つくづくカッコいい男である。
……ホモでもバイでもないのに愛人? つまり、家出少年を気まぐれで保護しようっていう物好きってとこかな。
優也は自分の都合のいいように結論付ける。
家には帰りたくないし。
行くあてなんかないし。
衣食住を提供してくれるという男の言葉は魅力的だ。
「お世話になります」
少しためらったのち、優也は深々と頭を下げたのだった。



「冗談だと、思うけど……」
ふと、頬に触れた誠司の唇の感触を思い出してしまった。耳元で待っていろと囁かれたとき、腰の力が抜けそうになった。タバコとコロンの香りが混じった彼の匂いにくらりとした。胸がどきどきする。なんだか顔が熱い。
「しっかりしろ、俺っ! 何をその気になっているんだ!」
声に出した自分のセリフに優也はさらに慌てた。
「うわぁっ。その気って何だ俺っ。どんな気だっ!」
愛人なんて、妙なことを誠司が言うからいけないのだ。ほっぺにちゅーしたり、容姿が一分の隙がないほどかっこよかったり、声も文句なしにかっこよかったりするからいけないのだ。これがそこらへんに転がっているごくふつーのオジサンだったら、こんなふうに妙に意識したりはしなかっただろう。誠司はちょっと類を見ないほどのイイ男だった。
つまりはアレだ。自分にないものを持っている、大人の男への憧れというヤツだ。誠司は、自分がこうなりたいと思い描いたそのままの姿をしていた。
優也は可愛いと言われたことはあっても、カッコイイと言われたことは皆無だった。自分の顔は嫌いじゃない。この容姿のお陰で損をしたことより得をしたことのほうが多い。優也自身、自分の容姿の威力を知った上で、幾度か利用してきたこともあった。男も女も大抵の相手は、優也がにっこり微笑めば言いなりになった。
それでも男に生まれたからには、脆弱さの欠片(かけら)もない誠司に羨望の念を抱かずにはいられない。
紗那も誠司によく似て男前だが、体が完成されていないためか華奢な印象を受ける。誠司が獰猛な獅子なら、紗那はしなやかな黒猫といったところか。紗那には誠司ほどの物騒さはない。
表情が怖いとか態度が乱雑ということはないのだが、誠司にはあなどりがたい雰囲気がある。満腹で寝そべっている肉食獣。今は安全だが常に安全という保証はない。空腹になれば容赦なく獲物を追い詰め、その鋭い牙で噛み砕くのだろう。そんな印象があった。
「おーい。早く下に降りて来いよ。メシの用意できたぞ」
紗那はノックのあとドアから顔を半分だけのぞかせていった。
「わかった。すぐ行く」
階下から紗那の言葉どおり、食べ物の匂いがただよってくる。それに反応して優也の腹がぐぅっと鳴った。
……そういえば昼、パンぐらいしか食わなかったんだよな……。
空腹を満たすべく、優也は紗那とともに部屋を後にした。
 
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