深宴 7話
著者.ナーグル
マユミが目を覚ました時、すぐには自分がどこにいるのかわからなかった。湿った空気はどんよりと生暖かく、呼吸するたびに喉と肺にまとわりついてくる。知人である相田…えっと、相田ケンスケならこんな事を言うだろう、『痰を煮詰めたらこんな感じだね』と。 正直、こんな混乱してる時に思い出したくない名前と顔なのだが、少なくともそれがかえって彼女の意識の覚醒を促したようだ。 「う、うう、ここは。わたし、どうしたの」 一体何があったのか、しばし混乱した頭のまま思考する。 どうしてこんな所にいるのかしら。 物事を思い出すのは得意だ。記憶の梯子を登って反芻するように思い出していく。たしか、仕事上のつき合いからネルフ主催のパーティに招かれた。仕事でネルフ資本の出版社と懇意にしているわけだが、だからといってあまり出たいわけではなかった。セクハラまがいに手を握ってくる元担当氏を筆頭にあまり良い印象がないのだ。そう言えば、あの担当の人は1年前急に蒸発したとか、そんな話を…。 気が乗らない一番の理由は、本来なら一般人である自分が出席なんて出来るはずのないパーティーなのだってこと。場違いここに極まれり。 そんなに裕福な暮らしをしているわけではないから、衣服などもそんなに高価な物を着られるわけではないのだけれど、彼女らしいセンスで選んだ黒一色のサテン製フォーマルドレスを身に纏い、せめて自分を招待してきれた人が恥を掻かないようにと、精一杯のおめかしをした。 長く艶やかな黒髪は、アップにしたり、その他結い直すことも考えはしたが結局、いつもどおり丁寧に梳っただけ。綾波レイほどではないが、和紙のように白い肌。少々野暮ったいが眼鏡をコンタクトにかえることはしなかった。だって、目に異物を入れるのが怖いから…ということらしいが。 彼女自身はあまり好ましく思ってはいない、世の男性諸氏の目を殊更に集める豊かな胸。内から張りつめるようにツンとした胸肉は、ただだらしなく脂肪がたまっているのではなく、たっぷりと瑞々しさが詰まっている。着痩せする彼女だが、見る者が見れば素晴らしいボディラインをしていることは一目瞭然だ。 その犯罪的なバストラインが目立たないように、柔らかなフロントドレープが胸元を飾り、そしてドレスに包まれていない色白の肩をシフォン素材のフリルで飾り隠す。 肌の露出を下品にならない程度に控える一方、バック(背中)は大きくV字に開き、そこを編み上げの紐で結んでいる。 あとは勿論、見えないところをも色々気を遣った。 そして望むと望まないとに関わらず、彼女は夜会に出席した多くの男達を間違いなく虜にしていた。 彼女は自分が思うほどに地味な花ではないのだ。 しかし、彼女は自分が場違いな所にいると感じていたし、遂に気づくことはなかったけれど、夜会では彼女は注目を集める美女の一角だった。周囲をそれとなく旧友が守ってくれなかったら、男性の誘いに疎く、流されやすい彼女はそうと気づかず、とんでもない状況に巻き込まれていたかも知れない。 旧友達…中学の時、特に仲の良かった同級生達。高校進学に伴い、それぞれバラバラになってしまったけど、それ以後も定期的に連絡を取り合っている。いや、正確に言えばマユミは自分から連絡を取ることはなかったので、誰かからの連絡待ちだったから、レイやマナ達のつきあいの深さに比べれば、微々たる関係だったけれど。 とにかく、直に合うのは随分と久しぶりだったから、実際に出会った時にはみんなはしゃいで語り合って旧交を温め合った。 その一方で期待していたもう一つの出会いが成されなかったことで落胆した。 彼女同様、やけになったアスカ達と一緒にパーティを途中で抜け出し、気心の知れた者同士で居酒屋のハシゴをして、タクシーが捕まらなかったので、じゃあ地下鉄に乗ろうと決めて、閉じこめられて…。 「みんな…」 急速に意識が覚醒した。何もかも思い出した。 友のこと、終電後の地下鉄のこと、乗り込んできた悪夢から生まれた怪物達のこと、怪物達が飛びかかった酔漢と彼の悲鳴、遠くなる意識と肺に絡む甘い血の臭い…。 慌てて立ち上がり、その瞬間肩と足にに走った激痛に苦痛部位を押さえてマユミは呻いた。肩はズキズキと定期的に鈍く疼き、足首は動かしたり触ったりすると鋭くいたんだ。そういえば、どこか高いところから投げ落とされたような気がする。 だが、その痛みは彼女の意識を曇らせていた澱みを洗い流す。 まだ体はだるくて力が入らないが、少なくとも今の状況に意識を巡らせるだけの力は取り戻せた。 「体中痛い。肩と、右足首。うう、痛い…。指先に何か…なんだかざらざらしてる」 肩をゆっくりと撫でさすっていると、徐々に痛みが引いていくのを感じる。捻ったり折ったりしたのではなく、ただ単にどこかに勢いよくぶつけた事による打ち身なのだろう。おそらく、このまま無理をさせなければ一両日中に痛みと熱は引くはずだ。一方で肩よりも深刻なのは足首だ。 「はぅっ、く、痛っ」 ゆっくりと地面に手をつき、上体を起こすがそれだけで噛みつかれたような痛みが走る。 最悪の事態を想像し、震えながら素手で豆腐を扱うみたいに手で足首をさすった。血が出ているような様子はない。かびくさい空気を軽く吸い込むと、痛みを堪えて強く握ってみる。 「い、痛い…」 痛みに顔をしかめる。少々緊張しているが折れてはいない。しかし、この痛みでは歩くことは出来ても、走ったり勢いよくジャンプしたりすることは、苦痛に弱いマユミには無理だろう。きちんと消毒し、その上で冷やすのではなく、暖めて固定しなくては、ねんざが癖になる可能性がある。 「ひねっちゃった、かしら」 口で言うまでもなく間違いなく。 独り言を言う癖を直さなくちゃ、とは思うのだけれど看護婦だった時の、いや学生だった頃からの癖は早々直せるはずがない。 確認するように呟きつつ、どうにかこうにか立ち上がる。立ち上がると、パラパラと音を立てて髪や衣服に付いた砂がこぼれ落ちた。 あとの処理の面倒さから憂鬱になりながらマユミは髪に指で梳る。艶やかで癖のない長い黒髪に、目の細かい砂がこびりついているのがわかった。少し乱暴に何度も髪とドレスを手で払い、あらかたこそぎ落とすことは出来たが、全部落とすには指で丁寧に揉み出すようにして洗わないといけないだろう。 ざらざら細かい砂がこびりつくのはそれだけでイライラする。髪は女の命なのだから。 「お風呂、入りたい…」 風呂に入れる機会が今後、来るのだろうか…。なんだったらドラム缶にたまった雨水でも良いが、しかし、そんなものであっても、もう機会は来ないような気がする。ネガティブな思考の彼女はそう思う。 「他のみんなは…」 確認しなくてもわかる。誰もいない。 それがわかっているから、ゆっくりと上目遣いで周囲を睥睨するが、やはり彼女の見知った人影は周囲には見あたらない。それどころか、周囲の光景自体彼女の見知った物ではなかった。 意識のある時、最後に見た知っている光景は地下鉄電車の車内だった。無機的で飾り気のない機能性のみを追求した車内は暖かみがなかったが、それでも今いる場所に比べれば南国のビーチだ。 (昔の綾波さんの部屋、こんなだったのかしら…?) 頭上に随分と薄汚れた裸電球が数個吊されて弱々しい明かりを落としているから、なんとか確認することは出来る。地面には砂浜から取ってきたような細かい砂が一面に敷き詰められており、白い砂だから明かりを反射し、思いの外周囲は明るい。 (電球があるから、ここは、どこかの建物の中なのかしら?) 暗闇に目が慣れるのを待ってから、じっと目をこらして周囲を見回す。 最初は何も見えなかったが、ふと周囲が壁に囲まれていることに気がついた。いや、よくよく見れば彼女のいる場所は塹壕よろしく、周囲から掘り下げられている場所らしい。ただ垂直な板が存在しているのではなく、ほりさげられた岩が極端なオーバハングとなって立ちふさがっていた。 柔らかい砂地に足を取られながらよろよろと壁際までたどり着き、そこで囚われ姫は途方に暮れた。 (これじゃあ、とても登れないわ) 最寄りの箇所で最も低い部分でもおよそ2.5メートルは高さがある。柔らかい砂地は飛び上がるには不向きであり、身長が165cmそこそこのマユミではとても手がかりまで飛びつけるとは思えない。それでなくとも運動神経が鈍いのだから。 そもそも飛びつけたとしても解決にはならない。穿たれた岩塊が、乱杭歯となって触れる物皆傷つけようと待ちかまえている。無理に上ろうとすれば、彼女のたわわに実った果実は無惨にこそぎ落とされる。 (こんなに胸が大きくなければ良かったのに) もっとも、胸が小さければ登れたかというと、そんなことはなく、運動神経が鈍い彼女には登れなかっただろう。 どこか他の場所から登れないか途方に暮れながらマユミは周囲を見渡した。ジャガイモのような歪な楕円形をした陥没は、食虫植物ウツボカズラ同然だ。飛ぶ羽のないマユミにではどこからも登れそうには見えない。来るなら来てみろ、噛みつくから。マユミの目にはそう言ってるように見えた。 (せめてなにか踏み台に出来るような物でもあれば…) 今頃になってマユミは周囲を見渡してみる。明かりが弱く、10メートルそこそこの距離までしか視界が通らないが、砂の上にはぽつんぽつんと砂以外の物が散逸している。黒々とした子供の頭ほどもあるコンクリート片、元がなんの物であるか絶対に知りたいとも思わない大腿骨らしい骨。異臭を放ち、蠅さえも寄りつかないぼろ布。 助けになりそうな物は何もない。いや、マユミの視界の端で何かが動いた。 息をすることも忘れ、弾かれたようにマユミは『それ』を見つめた。マユミの脳内でグルグルと混乱が渦を巻く。 「あ、ううぅぅ〜」 呻いている。絶え絶えにだが確かに呻いていた。 その呻きの響きは、獣や自然現象などのそれとは明らかに異なり、マユミの知っている生物の響きと同じ。すなわち、人が苦しみから出す呻きと同じだ。 おかしいわけでもないのに、マユミは半分笑いながら駆け寄っていた。たぶん、実際に半分狂っていたのだろう。泣き笑いに顔を歪めている。 相手がどういう状況なのか確認することもなく、弾かれるようにその側に膝をつき、そして「うげっ」とらしくない声を出した。 鏡を見たらきっと自己嫌悪に陥るあからさまな嫌悪に満ちた目が、呻き声の主を見つめる。しかし、彼女がそんな汚い物を見るよう目をするのも無理はない。鉄の心臓を持つ剛胆な人間であっても、それを見て正気でいられるかどうか…。 呻き声の主は30前後の女性だった。 日光の元でちゃんとした格好をすれば、おそらく美人と呼んで差し支えない容貌をしている。 だが今は薄汚れボロボロに擦り切れた服の残骸を身に纏って、砂の上に仰向けに寝転がっている。日光に当たらない生活がかなり長かったのか透けるように白い肌に張りもなく、涙と血、そして正体不明の粘液の跡で汚れている。緩くウェーブを帯びていたらしい髪に至っては垢と油で固まり、竜の吐き出す悪臭の巣だ。 そしてなによりマユミの目をひいてはなさないのは、先端を白い母乳で塗らした両乳房と、大きく膨れあがった白い腹部だ。臍穴は大きく引き延ばされ、横腹は昆虫の体節のような引きつった傷が無数に走る。女が臨月に達していることは一目瞭然だ。自身に出産の経験はないが、とある大学病院で看護婦を生業としていて職業柄多くの妊婦を見知っているマユミには見当がついた。 じわり、とマユミの両目に涙がにじむ。 (酷い、酷すぎるわ。こんな、赤ちゃんがいる人まで) 恐らく、自分たちと同様に地下鉄で、あるいは他の場所で怪物に捕まり、ここまで連れてこられたのだろう。しかし攫われる前までは、この人はきっと生まれてくる子供の希望と喜びに満ちあふれていたに違いない。 幸せを一方的に、理不尽に無理矢理奪い去っていく。そんな行為をマユミは強く嫌悪している。 こんなことになって、その無念さはいかばかりか。 女がひゅうひゅうとかすれ声を漏らす。 「あう、ううぅ。だれ、か」 ひび割れ、滲みでた血の痕がこびりつく灰色の唇は緩く開き、喉に絡むか細い吐息に混じって嘆願が漏れる。 助けを求められたことで反射的に、嫌悪も何もかも忘れてマユミはやせ細り骨張った女の腕を掴んだ。刹那、思ってもいなかった他人からの接触に、名も知れない女は強くきつく握り返してくる。ざらついた皮膚の感触と痛いほどの握力にマユミは悲鳴をあげかけるが、かろうじて飲み込んだ。 「た、助けに、来ましたから。大丈夫、です。もう、大丈夫」 嘘だ。自分でもここまで白々しいと思う嘘はそうそう無い。でも、そうだとしても彼女は苦しんでいる人間を掘っておくことなんて出来はしない。手を握ることしかできなくても、人の温もりは安心感を与えるのだから。嘘でもそう言わざるを得なかった。 「ああ。神さ、ま」 細い腕は一瞬震え、それから激甚の歓喜と共に、死んでも放さないと言わんばかりに握りかえしてくる。 「ああ、助けて、助け…て。殺してぇ」 「助かります。助かりますから、だから、しっかり、して下さい!」 「うう、うう、助け、助けて。お願いだから、死なせてぇ」 女性はただ助けて、殺してと繰り返すばかり。 その時、ふとマユミは違和感を覚えた。女性の呟く助けを求める声、そのニュアンスというかイントネーションが奇妙なのだ。腹の隅に何かもやもやとした物が引っ掛かっているこの感覚。何かがおかしい。 「た、たすけ、だずげっ」 女の喉がごろごろと音を立てる。 水風船のように膨らんだ腹部が、大きく、道化師の寸劇よろしく大仰なほどに波打った。 「ま、まさか」 「うぎ、ぐうっ! いやだ、助けて! もうなの!? いやよ、やめてやめてやめて! う、う、産みたく、ないっ!」 ぶびゅり 絶叫の直後、閉ざすことが出来なくなって久しい女の股間から、耳障りな音を立てて腐汁の羊水が噴き出た。薄暗い明かりの下で真っ黒な羊水が砂に染みを作る。 破水だ…そうマユミが悟る間も与えず、さらに事態は進展した。女の背筋が大きく仰け反り、もはや何も見えなくなった白濁の瞳が虚空を睨む。 「やめて、暴れないで! ひ、ぐ! ぎゃあああああ――――っ!!」 悲鳴というより断末魔だ。 そして通常の出産では、決してこんな音は出ない。 ぶちぶちぐちぐち。 恍惚と恐怖のカンタータ。 一生忘れることの出来ない音を立てて女性の女陰から臓腑諸共に小さな腕が這いずり出た。 指が三本で大きな水かきがあるそれは人間のそれとは明らかに違う。どちらかというとカエルの腕に近い。そんなことを考えているとさらにもう一本の腕が出てくる。続いて母胎の状態を斟酌することなく、腕の間から血と羊水を潤滑剤に、瞼のない赤い目をした赤子の頭がまろび出た。 『お、おおお、ぎゃおおおぉぉぉ』 みちみちと骨が震える音を立てて女性の女陰が裂けた。残酷な現実と共に腹部の裂け目から、生ゴミの袋をぶちまけたように血と正体不明のゼリー状の物質がこぼれ落ちた。濃密な糞尿の臭いにマユミは目眩を覚える。 意識を圧倒する洪水のような悪臭と血液に反射的にマユミの腰が浮かぶが、痙攣する女の腕はマユミの腕を放さない。やせ細ったその腕のどこにこんな力が眠っていたのか。嫌でも最前列で呪われた出産ショーを視聴せざるを得ないのだ。 握りしめられた腕が痛い。骨が折れそうだ。 「あ、ああ、ねぇ、お願い、はなし、痛いっ」 最初の予想が全く違っていたことをマユミはようやく悟っていた。そして、自分が不用意に悪鬼の罠に足を踏み入れていたことにも。女性は愛の結晶を身籠もり、そしてさらわれたのではなかったのだ。ここで、何者かとも知れないなにかの子を身籠もってしまったのだ。 こういう状況を、先人はなんと言っていただろう。 ああ、そうだ。 他人事みたいにマユミは思う。飛んで火に入る夏の虫、と。 『ぎゃおおおぅ』 「ひぃぃぃっ。あ、あああっ」 産声とはかくも禍々しくなるものだろうか。 『ぐううぅぅぅ』 砂を掻き、全力で赤子は体を引っ張り出した。 親の補助はおろか、逆に喰ってしまいそうな行動は、人間の子供と言うより、野生生物のそれが近い。実際、ケダモノの方がより近いのだろう。 意に染まぬ凌辱の末、獣の子を宿し、苦痛の中で産み落とした女は筋肉の筋を浮き上がらせてぶるりと大きく震え、そしてそれっきり動かなくなった。彼女の苦痛に満ちた死よ、幸いなるかな。 (しん、じゃったの? また、私の目の前で、人、が) 赤子という蓋がなくなり、塞ぐ物のなくなった女の亀裂から粘つく体液の混合物がドロドロと流れ落ちた。白い砂に赤黒い染みがゆっくりと広がっていく。 「ふーっ、ふーっ、はっ、はっ、はぁ」 よたよたと四つん這いで這いずる赤子から目を離すことも出来ず、マユミは肩で息をする。 彼女は、生き物が好きだ。そんな彼女が欠片も好意を抱けないこの生き物。全身露わになった赤子は、やはり人間ではなかった。 よじれた背骨からは背びれのような突起が生え、背中を突き破ってノコギリ歯のような状態だ。 手は前述したとおりカエルそっくりで胴体とほぼ同じ長さがある。 一方で足は犬か猫など四足歩行の哺乳類のそれによく似ている。すねの部分が短く、代わりに踵と爪先の間隔がとても長い。剥き出しになった心臓がどきどきと大きく脈打っていた。 なにより特徴的なのはその頭部だ。申し訳程度に頭頂部には産毛が生えており、ぎょろぎょろと忙しなく動く眼球は真っ赤で、小さな黒目ならぬ緑目が左右違いで辺りをねめつけている。鼻はなく、代わりに粘土にヘラでつけたような細い切れ目がある。何より特徴的なのは口だろう。 ぽたぽたと涎を溢し、楕円形に開いたままの口には下顎と言える物がなかった。もごもごと歯抜けの老人のように動かし、薄黄色い涎とも体液とも付かない物を溢している。点でバラバラ、ランダムに生えた鋭く尖った半透明の歯は肉食魚だ。 なにより嫌悪を催すのは、生まれたての赤子なのに、この怪物は衣服を身に纏っていることだ。 臍の緒と胎盤、そして母の内臓からなるトーガを。 『ぎゃうぅぅ』 「ひぃっ!」 怪物の赤子が振り返った瞬間、マユミは呼吸も鼓動求めて硬直した。 生まれたばかりだというのに赤子はよろよろと上体を起こし、ついには後ろ足、もとい足だけで立ち上がった。そのまま地面を踏みしめ、1歩、2歩と歩みを進める。 (逃げなきゃ、逃げないと) 気づかれる前に逃げないと。生まれたばかりでも、この怪物は恐ろしい。きっと私より強い。 本能はそう告げているが、マユミの体は反応しようとしない。蛇に睨まれた蛙のようにすっかりと飲み込まれていた。 下着はおろかドレスまでぐっしょりと恐怖の汗で濡れている。豊かな胸の谷間に喉を鳴らせるほどに汗の玉を浮かばせ、カチカチと歯がなっていた。 『おお、ぎゃおおおおああぁぁぁ』 ゆっくりと怪物赤子は振り返る。その瞳はじっとマユミを見つめている。逃げないといけないのに、でも恐怖で体は動かない。狩る者から見たら、マユミは非常に手頃な獲物と言えるだろう。 怪物はマユミの目を見据えたままよたよたと歩き、母親だった物体にのりあげ、乗り越え、ふと動きを止めた。マユミと、眼前の蒼白色の乳房を見つめる。 (見比べてる? そんな、まさか、うそ、そんなことしませんよね) マユミの背筋の窪みを冷たい汗がまた伝い落ちた。 怪物はしばしの逡巡のあと ――― マユミと母親とどっちが良いか ――― 躊躇うことなく母の乳房にむしゃぶりついた。じゅうじゅうと何かを啜り出す異音が響く。 血を吸っている…。 実際は血を吸っているのではなく、普通の赤子がするように母乳を吸おうとしていたのだが、悲しいかな既に死んだ女の体から乳が出るはずもなかった。もっとも、相手のことを思いやらない強烈な吸飲と生えている牙の所為で、女が生きていたとしても母乳よりも血の方が多く吸い出されていただろう。 ただ赤子には死人の血の味よりも母乳の方が好みの味だったことは間違いない。 戦慄の悪鬼の子には甚だ不本意だったのだろう、死肉を啜っていたのはほんの数十秒にも満たない時間で、いつの間にか赤子の目はマユミをじっと見つめていた。じっと、瞬きをしない目でマユミの大きな胸を見つめている。まるでそっちこそが本当の母親の乳房だと言わんばかりに、欲望と飢えに満ちた目で。 「いや」 『だぁぁ…だぁ、だぁ。ばぶ。ぶー。う、うう〜』 血塗られた口から悪魔の甘え声が聞こえる。 マユミは逃げない。体が動かない。 ゆっくりと赤子はマユミに近寄る。濡れた手が伝線したストッキングに包まれたマユミの膝に掛かり、そのおぞましき感触に美女が震えた瞬間。 赤子の体は横殴りに吹き飛んでいた。ぐちゃり、ぶちゅ、と肉が潰れ骨が砕ける嫌な音が響いた。 そしてマユミの腕にとても嫌な感触が伝わる。 『ぎゃおぅ!』 「ひ、ひぃああああ〜〜〜〜〜っ! いや、いやぁいやぁぁ!」 マユミの腕にはいつの間にか握り拳大の石が握りしめられていた。ヒカリやマヤほどではないが、過分に潔癖症のマユミだ。汚物で汚されるという身体的な嫌悪は恐怖から来る硬直すらも打ち破ったのだろう。無意識に左腕は地面をまさぐり、砂に埋もれていた石を探り当て、それを躊躇することなく叩きつけていた。 「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ。ば、化け物!」 震えながら立ち上がるマユミ。足の痛みは忘れていた。 両手でしっかりと石を抱えると、大きく頭上に振りかぶった。足下では憎悪と怒りで顔を歪めた怪物の落とし子が恨みがましく女を睨んでいる。 「いやぁぁぁ! あああっ! 死ね! 死んじゃえ! 来ないで、触らないで、関わらないでっ! 私に近寄らないでよぉー!」 絶叫と共に石は振り下ろされた。 スローモーションでその頭部がゆっくりとへしゃげ、ブギッという鈍い音を立てて頭蓋骨が外れた。頭部の一部が極端に膨れあがり、水風船が割れるように内側の圧力で引き裂かれた。傷口からたっぷりとシェイクされた脳漿と血の混合物が噴き出した。 『おぎゃおおおおぉおぉぉぉおおおっっ!』 鼻から上が叩きつぶされてもなお、赤子の口は動いていた。そして精一杯に幼き喉を奮わせ、仲間達に自分が殺されることを、絶叫で伝えていた。その絶叫は二打目で文字通り叩きつぶされる。中枢神経が潰される衝撃に手足が痙攣した。 だがマユミの腕は止まらない。 2回、3回、4回、5回…。何度も何度も腕が振り下ろされる。 狂気に濁った目。 いつしかマユミは笑い出していた。既にアスファルトにへばりついたカエルよりも真っ平らになった赤子の体を、何度も何度も叩きつぶしながら。手も足も、ドレスも何もかもが血に染まる。 「あはははは、ははははは、はははははははははははははははははははは」 化け物め、死んでしまえ。わたしを苦しめる化け物はみんなみんな死んでしまえ。消えろ消えろきえちまえ! 怪物め、雄め、男め。 「マユミっ!」 「いっ、ひぃぃ――――っ!?」 恐怖の息吹で満たされていた所で唐突に肩をつかまれ、マユミは両手を振り回して暴れた。相手が何かを確認する余裕も何もない。無我夢中で背後の人物につかみかかり、盲目的な一打をその頭部にぶつけようと手足を振り回す。 「このっ、馬鹿! 落ち着きなさいよ!」 しかし背後の人物は素晴らしい身のこなしでマユミの攻撃をいなしてかわし、逆に芸術的な体さばきでマユミの体を空中で一回転させていた。 「はうっ!」 受け身も取れずに背中から叩きつけられ、肺の中の空気を吐き出させられてさすがにマユミも動きを止めた。眼鏡もはじき飛ばされ、どこか遠くに落ちた音が聞こえた。もうダメだ。 (もう、いや、イヤぁ) 殺される。食べられる。 怪物の親が来たのだ。結局、こうなる運命だったのだ。かつてシンジに助けられたのは、今日、この日に別の怪物に喰われるためだったのだ。そんな人生。誰かに喰われ、踏まれてそんなのばっかり。 脳裏に一瞬ひらめいたのは、彼女が世界で一番愛している…でもマユミのことを愛しているが一番ではない男の顔。 「シンジ、さん…」 「こんな時に男の名前を呟くなんて、結構余裕あるのねあんた」 しかし、予想に反してマユミに届いたのは肉に食らいつく牙の感触ではなく、心底呆れ返った聞き慣れた女の声だった。呆れ返った苦虫を噛みつぶした。もう二度と聞けないと思っていた、懐かしくて、頼りがいのある友達の…声。 「アスカ、さん」 涙と眼鏡がないことで歪んだ視界に、ほら、とぶっきらぼうに言いながらアスカが手を差し伸べている姿が映っている。 泣きながらマユミは血に染まった手を伸ばした。一瞬の躊躇の後、アスカは手を握りしめる。 「さあ、急いで逃げるわよ」 「アスカさん、あうう、わたし、わたし…。こ、殺し、ちゃった。殺しちゃいました。赤ちゃん、赤ちゃんを…。 か、かっ、ひっ、ひぃっ。わ、わたっ」 「しっかりしなさい! あれは人間なんかじゃないわ!」 悪魔の落とし子の残骸と母の亡骸を複雑な表情で見つめながら、アスカは数回マユミの頬に平手打ちをする。アナログな手段だが、効果はあった。マユミの瞳に焦点が戻り、危険な状態だったしゃっくりは勢いをゆるめる。 「うう、ううう。はぅ、うええぇ…えぇぇ」 アスカの胸に顔を埋めてマユミはシクシクとしゃくりあげる。返答や慰めの言葉代わりにマユミを抱きしめるとアスカは囁いた。 「ごめん。でも、急いでここを離れないと。私たちも、あの人の二の舞だから」 「ふっ、ふっ、うううっ。助け、られなかった。わたし、看護婦、だったのに」 「わかってる。でも、お願い。今だけは、私の言うことを聞いて。急いでここを離れるの」 「…わかり、ました」 地下鉄の通路の先に、こんな得体の知れない空間があるなんて…。 アスカの先導に従い、ガレキの街を彷徨いながらマユミは途方に暮れた。所々にある線香花火のようにわびしい照明が周囲を照らしていなければ、きっと絶望に飲み込まれている。 それにしても…。ふとマユミは思う。 (アスカさんはこんな状況になっても諦めたり、絶望に座り込んで泣きじゃくるなんて事もなくて、本当に強くて頼りがいのある人だわ) 自分とは大違い。 錆びた鉄板の上に立ち、周囲を見渡して警戒するアスカの後ろ姿から目を離すことが出来ない。 自分が男だったら、彼女に惚れたかも。実際、中学生時代は男子だけでなく女子からもラブレターを貰った経験があったそうだし。 しかし、アスカは数十分前にレイが凌辱される光景を、性的興奮を覚えつつ敢えて見続けたと言うことを知ったら、果たしてマユミは同じ事を思うことができるだろうか。 とにかく、風の吹いている方向に行こうというアスカの提案に従い風の吹いてくる方向に2人は進む。足をねんざしているマユミはただでさえ遅れがちだが、それでも刻一刻と迫る追っ手の気配は感じられるのか、泣き言一つ言わずにアスカに着いていく。 天井からの照り返しのおかげで、かろうじて完全な暗闇ではない。 背後では松明か何からしいゆらめく光源の光が、かすかに天井を照らしているのが見える。確かめる気もないが、恐らくそれがアスカが捕まっていたという広場の明かりなのだろう。 そしてゆらゆらと揺らめく頼り無い光が、無数に、蜘蛛の子を散らすように光源の周囲で蠢いている。あれが、怪物達の追っ手だ。 今頃、マユミの殺した怪物を見つけて余計に騒ぎ立てているかも知れない。 あの人食いらしい怪物達でも、赤子が殺されたら怒り狂ったりするものなのだろうか。 「ここは、昔噂になった地下の封印空間なのかも知れないわね」 「封印空間…」 唐突な問いかけにマユミはふと足を止め、首をかしげる。その噂はマユミも知っていた。 噂というより都市伝説の元になった事件が起こった時、マユミは第三新東京市でない所に住んでいたが、それでも事件はニュースとなって伝わってきていた。 「たしか、大規模陥没事故が起こったんですよね」 「ええ、そうよ」 西暦2017年。 第三新東京市の一角、どちらかと言えば郊外に位置する区画が突然、数平方キロメートルにわたり崩れ落ちたのだ。使徒との戦いの跡が、5年経っても生々しく残っている区画は一瞬で裏返った。大地は攪拌され、コンクリートの牙が構造物をたたき壊して最大30メートル以上の深さに落下した。 おざなりな原因調査の結果、使徒とエヴァの戦いが地表とジオフロントを隔てる装甲板に損傷を与え、それが遂に限界に達したと発表があった。 しかし、実際の被害はもっともっと大きく、陥没穴の中には犠牲者の血で池が出来たとさえ噂された。地表はスラムというより廃墟だったため、表向き被害は数十人だったが、実際は住むところを失ったり、地方で職を失った人間達が流れ込んで違法な貧民街と成りはてていたのだ。 更にやっかいだったことに調査や補修工事を行ったのはネルフに関係する会社であったため、事が大事になるのを恐れた当時の行政府は全てをもみ消した。 ネルフは作業員に箝口令を引き、口の堅い業者を破格の値段で雇って被害部分を土砂でうめ ――― それさえも適当で ――― 上から金属の装甲板で覆い、改めて土で覆って住宅地にしてしまった。 事故時の生き残り、更には一時的に無法地帯に逃げ込んだつもりだった犯罪者達は闇の中に閉じこめられた。 …今も地下には空洞が残っており、生き残った人間達が怪物デロと化して彷徨っている。 時折、地上に通じる穴を伝ってはいだしてきた怪物は、女をさらってまた地下に帰って行く。彼らは慢性的な女不足で、地上の人間の女を利用しないと繁殖できないのだ。 たわいのない、都市伝説…。 「地下世界の住民、モールピープル、地底人、チャド…。都市伝説のはずなのに」 「そうね。女子学生の噂でしかないと思っていたあの話が、本当だなんてね。…だとしたら、あの噂も本当なのかも知れないわね」 「あの噂?」 「そう、あの噂。 …調査をなおざりにすませ、大事故を起こした土建会社の社長なんだけど、こいつはとある宗教の開祖の孫なのよ。で、こいつ自身は宗教団体を引き継いだりはしなくて、普通に暮らしていたそうなんだけど、事故の保証だの訴訟だので大金が必要になった時、資金援助をその宗教団体がしてくれたの。ここまでは本当の本当」 そう言えば、その宗教は天使が地上に降りてきて信徒達を救いの園に連れて行く、とかいうキリスト教系の終末思想に取り憑かれていたと聞いた。 なるほど、確かに使徒と呼ばれた生物兵器は彼らのちっぽけな心を満たす救い主に写るはずだ。 (だとしたら、私やレイはその使徒と戦った悪魔の使いってワケよね) アスカの呟きが徐々に小さくなる。 もっと早くに思い出すべきだった記憶がチクチクと心臓を引っかき回す。そうだ、どこかで見た覚えがあると思ったが、あの教祖を名乗る男は、かつて新聞やテレビをにぎわせた土建会社社長の顔によく似ている。本人か、あるいはその血縁なのかも知れない。 「そ、それから、どうなったんですか?」 「資金援助の代わりに、条件が宗教団体から提示されたんだそうよ。詳しくは部外者である私にはわからないけど、確か、その土建会社に信者の大半を就職させること」 「就職、ですか」 「実際は就職と言うより乗っ取りに近いものだったそうだけど。そしてね、唐突にそいつらは姿を消したらしいわ」 籠もった空気で息が詰まったのか鼻声でアスカは続ける。 「噂だと、信徒達は軒並み、地下に開いた空洞に移り住んだんだって。勿論、危険だから全て立ち入り禁止になっているのよ。だけど工事関係者だからお構いなしに入っていって、そして帰ってこなかった。 教団関係者以外の作業員達の噂に、シールドする寸前の空洞で蠢く影を見たとか、人目につかないように、立ち入り禁止の柵乗り越えて何人も空洞に入っていったとか。そんな噂があったそうよ」 「あの怪物は、その人たちなんでしょうか?」 「わからないけど、可能性はゼロじゃないと思う」 アスカは肩をすくめて記憶を遡る。 地下鉄内で見た怪物、女達を抱いていた怪物、レイを凌辱した怪物犬、そしてマユミが原形も留めないほどに叩きつぶした怪物の赤子。 生まれつきあんな異常な怪物が生まれるとは思えない。進化、退化、変異にはすべからく理由があるはずなのだ。地底生活に適応してあんな姿になるわけがない。そもそも、連中は強い光は苦手なようだが、かといって夜目が利くとかそう言うわけではなさそうだ。地底生活に適応した存在がそんな風になるわけがない。 元は人間なのだろうとは思うけれど、それにしても何をどうすればあんな姿にねじ曲がるのだろうか。そう言えば、教祖はあの犬に妙な液体を飲ませていた。どこかで見た感じのする奇妙な液体…。 (あれは、確か。確か、どこかで) そうだ。脳裏で稲妻がひらめくと同時に、アスカは思いだした。 2年前に唐突に流行し、問題を引き起こした麻薬があった。 女性が服用した場合は強烈なエクスタシー系のドラッグでしかないが、男性が服用した場合は極端な中毒性、幻覚性のみならず、長期にわたって接種すると知能の低下、さらには成長ホルモンの分泌バランスが崩れ、肉体の肥大や変形などを引き起こす悪魔の薬。まさに魔薬だと揶揄された恐るべきドラッグ。 この薬の中毒者が引き起こした様々な事件があり、事態を重く見た日本政府は戦自さえも投入して事態の収拾に乗り出した。売人に対する即時射殺すら許可し、さらに変異した人間の姿をノーカット放送など徹底的な啓蒙を行った…。 「そう、たしか、天使の…」 マユミに聞かせるのは少々戸惑う単語。 「天使の精液(スペルマ)ってドラッグ」 販売網は叩きつぶされた。さらに恐ろしい後遺症や副作用が大々的に公開された。 だが、結局供給元も製造法も成分も不明だった。 それをあっさりと、たくさんの人間と予算を使って政府のみならずネルフも探し回ったというのに、思わぬ形で薬の出元を知ってしまうとは。 そういえば、麻薬が流行りだしたのは地下鉄が開通した頃だった。 しかし、スペルマによる変形は末端の肥大、骨の異常などで、あんな風に目が赤くくなったり肌が白くなったりはしなかったはずなのだが…。第一、体の変異はホルモンなどの分泌異常により引き起こされる物で、遺伝子に極端な影響は出ないはず。 「あの、アスカさん?」 不安げにマユミがアスカに問いかける。 予想通りマユミが頬を赤らめていた。今更処女でもあるまいに、カマトトぶってるんじゃない。 弱々しいマユミの様子に、アスカはチクリと心が疼くのを感じた。頼られるのは嫌いじゃない。だが何でもかんでも聞いてばかり、頼ってばかりで自分で解決しようとしない相手は大嫌いだ。そう、昔のシンジを思い出させる。 もっと空元気でも良いから明るく喋ることが出来ないのか。イライラする。 「なんでもない。行きましょう」 それ以上何も言わず、再び無言でアスカは歩き始めた。 とにかく、地上への出口が見つからなくとも、線路にまでたどり着くことが出来れば、あとは線路を伝って地上まで戻ることも出来るはずだ。 勿論、怪物達も馬鹿ではあるまい。いや、怪物達は馬鹿かも知れないが、あの教祖はそこまで抜けていないだろう。 きっと怪物達に網を張らせている。だから今は猟犬じみた追跡をしていないのかも知れない。 (でも、なんとかなるわ) アスカは肩越しに背後のマユミを振り返る。 ふぅふぅ言いながらマユミが足を引きずっている。風の吹く方に向かって歩いていたら、いつの間にか上り坂になっているのだが、一言も泣き言を言わないのはあっぱれだ。 さすが、不幸慣れしているだけある。 (そう、頼りにしてるわよ、マユミ) あの怪物達は力は強いが動きは遅い。それに馬鹿だ。いざとなれば目先に囮を放り出せば、アスカのことを忘れて真っ先に囮に飛びかかるに違いない。 勿論、そんなことにならないに越したことはない。だが、その一方でアスカの体は内側から疼くのだ。 レイがされたのと同じように、マユミが凌辱される姿を見てみたい。そんなどす黒く濁った灼熱の欲求で。 「ほら、マユミ。手を貸して。ここ、段差があるわよ」 「は、はい。お世話をおかけします…」 闇の中で蹲っていたそれは、弾かれるように立ち上がらせた。 すぐ近くを誰かが通り過ぎていく。 若く、健康な雌だ。 それはにまりと笑った。 馬鹿騒ぎに参加することにも、教祖を名乗る男の話にも興味はなかった。いや、興味ないと言うより頭の奥底で何かが囁くのだ。あれが話してるのは適当な嘘っぱちだと。 そもそも言葉をそいつは理解できなかった。出来なくなって久しい…はずだ。 それは異端児だ。怪物達の中でも更につまはじきにされているのけ者。 だが、そんな風に隅っこにいるからこそ、時としてこういう幸運に巡り会うこともある。 躊躇うことなくそれはつれ合いを放り捨てた。散々に凌辱され続けた、先月15歳になったばかりの女子中学生だったものは、潰れたカエルのような呻きだけ漏らして抗議すらしない。 愛着がないではなかったが、それでもボロボロにすり減った女より、目の前の汁気に溢れた獲物の方が大事だ。いずれにしても、この娘はあと数時間と生きてはいられまい。何度も弄ばれ、そして神の妻に幾度となく選ばれたのだから。 欠けた鉛筆以下の存在なんてもうどうでも良い。それよりも生きた女だ。 コソリとも音を立てずにそれは後を追い始めた。 気づかれないように、静かに、でも素早く。 ヌメヌメとした視線の主が後を付けているなんて夢にも思わず…。 足を痛めているマユミには歩くだけでも重労働だ。一歩ごとにきりきりと筋はひきつり骨が軋む。 しかし、だからといって周囲に人食いの怪物達がうろついている状況では、辛いとか痛いとか泣き言を言うわけにはいかない。そんなことをしたら、アスカは軽く文句を言う。そして手助けしてくれる。 足手まといになるのはともかく、嫌われたり、見捨てられたりするのは耐えられない。 だからアスカに遅れまいと痛みを我慢した。無理に無理を重ねた足首は痛々しく腫れ、ハイヒールの靴を履き続けるのはそれだけで拷問じみた痛みを与えている。 (大丈夫、だもん。我慢できるわ。これくらい、見捨てられることに比べたら、なんてこと、ない…) しかし我慢が出来るから問題がないというわけにはいかず、ようやく斜面を登り終えた時、マユミはすっかりとくたびれ果てていた。 盛装用のハイヒールを履いていたのはアスカも同じだが、怪我をしていないし、はやばやと歩きにくさを考えて踵を折るなどしていたから、さほどの苦労はない。 (…結局最後まで泣き言を言わなかったわね) 辛いとかきついとか休憩しようなど足手まといの言葉をもらす瞬間を心待ちにして身構えていたのだが、内心拍子抜けしたアスカだった。いや、ハッキリ言えばがっかりした。それもまた、随分失礼な話ではあるが。 それにしても…自分がこんな事を考えるだなんて、とアスカは不安を覚える。いくらなんでも、マユミが泣き言を言わなかったことに、その為彼女に皮肉の一つも言えなかったことに不満を感じるとは思ってもいなかった。 (違う、そうじゃないでしょ。どうしてこんなことを考えるのよ!) マユミは中学の時もいじめと言うほどではなかったが意地悪されたりして、よくシンジ達に助けられていた可哀想な子だったのだ。英雄を目指すアスカが害するのではなく守るべき対象のはずなのに。 それなのにどうして? (私、余裕がなくなってる? ここに連れてこられてから、まるで、エヴァに乗っていた時みたいな気持ちになってる) 認めたくない。 昨日まで真善美とは自分にこそ相応しい言葉だと思っていたのに。 マユミの狂乱していた姿を見つけた時、最初に驚愕ではなく、落胆だった。マユミが凌辱される姿を想像し、それをリアルに見てみたいと思った。 マユミだけではない。その時を思い出すことを意図的に避けながらも、瞼を閉じればフルカラーであの光景が、息を止めると喘ぎが峻烈な響きとなって蘇る。 身体が熱を持つのを押さえきれない。 実際の道徳の世界は大部分が悪意と嫉妬から成り立っている。 誰かに、喩えシンジに追究されても決して認めはしない。レイの凌辱される姿に下着をドロドロに湿らせてしまい、かつてシンジに抱かれた時よりも興奮したことを。 悪意は誰しにもある。 しかし、だとしても異常だ。どうしてマユミを怒鳴れなかったことにこんなに苛立ちを覚えるのだろう。 (そうよ、なんで私がマユミのことでこんなに悩まないといけないのよ) マユミなんて、自分やレイに比べれば学もないし顔も地味だ。いや、単に自分が美しすぎるだけかも知れないが…。それに運動神経もさほどではなく、気は利いても内気な性格が災いをしている。元同級生だったからという理由でもなければ、シンジに近づくことだってできるはずがない。 シンジの側にいる女達…。 元ネルフヨーロッパの支社長であり、現スーパーモデルでありウィンブルドンで優勝し…世界で最も魅力的な独身女性とされた自分。欧州各国の王族、ギリシアの海運王やアメリカのホテル王との噂を立てられたことは両手の指でも足りないほど。 リツコの薫陶を受けた科学者であるだけでなくネルフ日本本社社長、つまりはシンジの秘書であるレイ。ネルフの広報の顔として、内外にその美貌と才知はつとに知られている。 日本人初の女性F1ドライバーであるマナ。初GP制覇時、表彰台でとある男性(勿論、シンジだ)への愛を叫んだことはF1に興味のない人間にも有名だ。その相手が誰なのか、長らくゴシップ紙は様々な憶測をかき立てた。 実業家として有名であるだけでなく次期ノーベル文学賞候補として名前の挙がっているマリィ。 シンジ争奪戦から脱落したとは言え、名門貴族であるラングレー家の血を受け継ぐ、現代の姫であり相当な資産家でもある義姉。何があったのか昨年、30も年上の実業家と結婚したが、たぶん、彼女はまだシンジを諦めきってはいない。何年もあって無いが、きっとそうだとわかっている。 画期的な新世代OSを開発した世界有数企業社長令嬢であるヒカリ。 etc.etc. 1ダース以上いるとも言われるシンジの恋人たちの中で、マユミはほぼ唯一の庶民だろう。学や才があるわけでも、家柄や何かのコネがあるわけでも、資産があるわけでもない。苦学生の元看護婦で、いまは絵本作家…の卵だ。それも孵るかどうかわからない。 たまたま企業狙いのテロで大怪我をしたシンジの担当看護婦にならなければ、ただの元同級生以上の物にはならなかったはずなのに。なのにどうしてシンジは…。 中学の時、もっと仲良くしていればこんな風に見下しはしなかっただろう。戦友とも言えるレイやマナならまだ納得できなくもない。互いに認め合っている。だが、マユミは美女かも知れないがシンジに相応しくない。彼女がシンジの友達のままだったらこんなに苦しまなくても良かったのに。 レイやマナはそうでもないだろうが、なまじプライドが高いアスカは、自分がマユミと同列だとシンジに面と向かって言われたみたいで、正直我慢ならないと思うこともあるのだ。野放図な怒りはこんな状況にもかかわらず、マユミに対する敵愾心を呼び起こす。 (どこに惹かれたって言うのかしら? ただの元同級生以上の感情を、どうしてマユミに…) ちらりと視線を向けると、マユミは顔も上げる気力もないのか、俯き、肩で息をしている。すでに足はひきずっていた。 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。 ぞくり、となぜか背筋が震えた。どこかアノ時の喘ぎに似たマユミの呼吸にアスカは興奮を覚える。 (ああもう! マユミといると変な気分になる) 困らせたい、泣き顔を見たい、守りたい、感謝されたい。 この奇妙な感情をシンジも感じたのだろうか。だからマユミと関係を持ったのだろうか。 確かにマユミは奇妙な気配を持っている。普段は目立たず、時折見せるふとした仕草で男女ともに引きつける。いやまったく、よくよく見れば見るほど不思議な女性だ。 いや認めよう。マユミは確かに魅力的な女性だと。「あの」シンジに愛されるほどに。 だがそうだとしても、このアンビバレンツな感情は異常だとアスカは思う。アスカの心のあちこちに醜い肉芽が芽生えている。そう、レイの凌辱される姿を見た時から、何もかもが変わってしまっている。あの凌辱劇が網膜を通り、心に錆びた楔を打ち込んだのだ。 エヴァの操縦で一番になれなかったとか、あからさまにレイやシンジと比較されたとか、加持に相手にされなかったこととか、そんなこととは比べものにならない。 ずっとずっと気づかなかった、そんな感情があったなんて知りたくなかった。 (違う違う違う! 私はサディストなんかじゃない! そんな馬鹿なこと無いわ!) 「っく。おかしくなりそうだわ」 「…どうか、したんですか?」 「なんでもないわよ!」 「ひっ…。す、すみません」 頭を振ってアスカは意識を切り替える。 マユミの脅えた顔に僅かに溜飲を下げ、同時にマユミに当たってどうするんだと自らを叱咤する。 (落ち着く、落ち着くのよ。今、何をするべきか…) 少し気分を落ち着けて溜息を吐き、視線をこらして前方を見つめる。少し離れたところに、僅かにかしいだビルの残骸が見える。この地下世界には弱々しい電球や蛍光灯がおよそ100メートル間隔で設置されている。弱々しい明かりであるためほとんど見えなかったが、かろうじてそれがビジネスホテルかなにかの残骸だろう事は見当がついた。 それだけではない。 かすかに感じるのは肺をくすぐる湿った臭い。それもちょっとやそっとの量ではない。大量の水の臭いだ。 アスカは急に体に力が戻った気がする。 飲むことは出来なくとも、顔や手を洗うことも出来るだろう。少なくともこのイライラを多少は解消することもできるに違いない。 (そうよ。顔だけでも洗って、気持ちを落ち着ければ。さっきみたいなのは、何かの、間違い…) 脳裏にレイの痴態が蘇るが、それを必死になってアスカは打ち消した。 そう、私がそんな醜い感情を持つだなんて何かの間違いに決まってる。あれは一時の気の迷いなのだから。慚愧の念と共に気の迷いは捨ててしまおう。 努めて明るい口調でアスカは言う。 「マユミ、アレ見える? ホテルの残骸か何かみたいだけど、とりあえずあそこまで言って、ちょっと休憩しましょう」 「は、はい」 晴れ晴れとした物ではなかったが、休憩という言葉にマユミの顔が僅かに喜ぶ。 マユミの笑顔を守って、守って、精一杯守って…。そして…。 足を痛めたマユミを伴い、どうにかホテル前にたどり着いた時は15分ほど経過していた。暗闇の中、整地されていないデコボコ道を進むのだからそれくらいかかってもおかしくはない。しかし2度ほど嫌味を言われたマユミはすっかりと萎縮してしまい、ちらりちらりと上目遣いでアスカの方を盗み見ている。 「凄い有様ね」 ヒンヤリと冷たい土の上に、その12階建てのビルは傾き建っていた。 崩れた看板には『第三新東京エクセレントホテル』と書かれていて、元々は中堅規模のビジネスホテルだったことを教えてくれた。陥没前は高地に立てられていたからか、来る途中で幾つか見かけた平屋の建物みたいに土砂に埋もれてはいない。少々傾いてはいるが、土台はしっかりとしており、急に倒壊することはなさそうだ。 窓ガラスはほぼ全てが割れ、壁も一部崩れて色々こぼれ落ちて地面に残骸を広げてはいるため、少々気をつける必要があるだろう。足下に気をつけながら、アスカはホテルの入り口に近づく。空虚な入り口の奥から、冷たく湿った空気が流れ出てくる。 「…だれか住んでたのかしら?」 「あの怪物とか、でしょうか?」 「違う、いや、そうかもね。あの怪物達が元人だったと仮定して、そんなすぐにあんな姿になったワケじゃないでしょう。ホームレスとかそんな連中が一時使っていたのかも知れないわ」 ホテルの前の広場に、中から引きずり出してきた物らしいベッドがぽつんと置いてあり、永遠の夜の暗闇の元で空虚な臭いを放っている。その隣にはタイルの残骸が張り付いたままのバスタブが数個転がっていた。かつては多くの泊まり客を慰撫したダブルベッドとバスタブは、今や凋落しうっすらと積もった埃を乗せるだけになって久しい。 「うん、風が吹いているからあんまり埃たまってなみたい」 アスカはそう呟くと、手ではたく…と、勢いよく舞い散りそうだからカビ染みのついたベッドマットを勢いよく裏返した。タイミングが味噌だ。あとは注意深く埃が収まるまで距離と時間をおく。あまり変わりはないだろうが、これならなんとか咳き込まずに使えそうだ。 スプリングがギシギシと軋むほど勢いよくベッドマットの端に腰を下ろすと、ぽんぽん、と叩いてマユミを誘う。そうこの感じだとアスカは何度も心の中で呟いた。いつもどおり、奥手なマユミの姉貴分として振るまうのだ。 「よし、と。マユミ、座んなさいよ」 「はい」 いそいそと腰掛けるマユミ。彼女は意図したわけではないだろうけれど、ふと、肩が触れあうほど近くに座ったマユミの体温に、アスカは胸がドキリと高鳴る。まだ安全な場所に逃げ出せたワケじゃない。だからこんなことを考える余裕もないはず。 (ちょっと、本気で私どうしちゃったのよ?) 電車の中で恋人同士がするように、マユミが肩により掛かってくる。 高鳴る鼓動に戦慄きながらアスカは体を震わせてマユミに視線を向け、刹那目を見開いた。意図せず、豊満なマユミの胸の谷間を覗き込んでいた。 ドレープで隠されているが、きつく密着した谷間の筋までくっきりと目に見える。そして意識して初めてマユミから濃厚な汗の匂いを感じた。 (私より、おおき…違う。ああ、そういえば地下鉄の事件があった時から、捕まってた時少し意識を失っていただけでほとんど寝てないんだ) 頭がフラフラするのはきっとその所為。緊張が解けたのか軽く寝息のような物を立て始めているマユミはどこまでも無防備だ。心を許すまでは預かった猫並みにうち解けないが、一度彼女が信頼するに樽と思った相手には家族同然に信頼する。 良い度胸をしている、と戸惑いながらもアスカは感心した。もし隣にいるのが女性のアスカではなく、情欲に溺れた男だったらたちまち裸に剥かれて望まぬ痴態を晒すことになっているだろうに。男はみんな狼だ。 (無防備な顔。私のこと信頼しきってる。こんな子だから、シンジはマユミのことを愛したのかしら) そう言えば、あの日からずっと、シンジは走り続けていた。止まることも失敗することも許されない綱渡りのような生活を10年続けてきた。マユミのように、ただ側にいてくれるだけで心が落ち着く娘に惹かれることもあるかも知れない。 一方でアスカはマユミを前にすると心の中の男性的な部分が先鋭化することを自覚する。シンジに似ているから、似すぎているから、シンジが女の子になって自分が男になったような倒錯した気持ちで満たされる。だからいじめたくなるし、守りたくもなる。 シンジはマユミを抱く時、どんな風に抱くのだろう。自分を抱く時のように荒々しく、それでいて執拗な愛撫で抱くのだろうか…。それとも、この瑞々しくも豊満な胸を、溶けたチョコよりも甘い愛撫で可愛がったのかもしれない。そうだ、シンジは何回マユミを抱いたのだろう。18の時に初体験を終えた自分より多いとは思いたくないが…。 「んんっ…。あ、アスカ、さん」 ふと気がついた時、マユミの肩に手を回していた。シンジが自分を抱いた時と同じように、少し強引に。 急に肩を掴まれたことで、半分眠りかけていたマユミはビクリと子犬みたいに体を震わせた。戸惑いながら瞬きを繰り返しながらアスカの顔を見つめた。眼鏡の下で困惑した黒い瞳が揺れる。 「わたし寝ちゃって…。あの、どうしたんですか?」 「どうもしないわ。そうね、敢えて言うなら、あなたがいてくれて良かった。そう思ってる」 返事の代わりにマユミは不思議そうに何度も瞬きをする。 「やけくそになって、あいつらの中に鉄パイプ片手に乗り込んでいったかも知れない。考えるのもイヤになって、力任せに解決しようって。まったく、我ながらスマートじゃない。本当は、私こんな性格なのよ。 気が短くて、極限状況になると投げやりに事を済ませようとする。でもあんたがいたから、パニックになって叫んでたあなたを見つけたから」 「そんな、私なんて、助けられたままで迷惑かけてばっかりで」 「あんたがいたから、私より弱いマユミがいたから、だから突っ走ることが出来なかった…」 抱き寄せるどさくさに、どれほどのものかとアスカはマユミの乳房を軽く下から二の腕部分で押し上げてみた。ブラジャーをしていてなおどっしりとした重みと張りが伝わってくる。そしてその下で細くくびれたウェスト。大して運動なんてしてないはずなのにどうしてこうも見事にスタイルを維持できるのか。愛撫の感触に明らかに反応してビクリとすくむなど、感度良好極まる。 そんなマユミだから、あの怪物達に凌辱されたときには、どんなにか心躍る姿を見せてくれるだろう…。 ガサリ 突然、すぐ近くで聞こえた物音に弾かれたように2人は振り返った。 心も体も真っ赤に染めていた熱は消散してしまい、かわって冷たくなった汗で全てが凍り付く。 「な…なによこれ」 「え、え、どうして」 2人の目の前にいたのは、真っ赤な目をランランと輝かせた怪物の一団…ではなく、小刻みに震える哀れな様相の山羊だった。どうしてこんな所に山羊が、いやどちらにしても良いタイミングだ。アスカも、勿論マユミも正直そう思う。いくら心細くなり、吊り橋効果そのままに奇妙な興奮状態になっていたとしても、あのまま場の雰囲気に流されたままでいたら…。 誤魔化すようにマユミは山羊に向かって手を伸ばす。 「この山羊さん、どこから…」 自分たち以外の、真っ当な生き物の存在は癒し、とでも言うのだろうか。2人の心に奇妙な余裕を取り戻させてくれる。 おいでおいでと手招きをするマユミだが、脅えた様子の山羊はそれ以上近寄ろうとしない。諦めきれずに身を乗り出すマユミを制しながら、アスカはホッと体の力を抜いた。 「たぶん、あいつらが放牧してたんでしょう」 一瞬、農夫の格好をして牧畜作業をしている怪物達の姿を思い浮かべた。笑うに笑えない冗談だ。 やっぱり私はユーモア感覚が欠如したドイツ人の血を引いているんだと自覚するアスカだった。偏見だが。 しかしながら、放牧という視点は間違ってはいない。時として虐待用の玩具として、時として小腹が空いた時の食料として山羊やいくつかの家畜がこの地下世界に放たれている。誰が想像するだろう。自分たちの足の下に怪物達の王国があることを。 「可哀想…。なんとかできないのかしら」 マユミは涙ぐみながら呟いた。事実やせ細った山羊は全身の毛が所々抜け落ち、至る所に噛み痕らしい瘡蓋があって正視に耐えない。 「無理よ。少なくとも今はどうしようもないわ。今は、この山羊より、私たち自身を助けて欲しいくらいなのよ。わかってるでしょマユミ」 「それは、その通りです。でも、何も出来ないなんて」 なおも諦めきれなかったのかマユミが立ち上がろうとした時、ビクリと耳を立てると山羊は跳ねるように暗闇の奥へと姿を消していった。かすかに石を踏みしめる音が聞こえたが、それもすぐに聞こえなくなった。 「行っちゃいました…」 「そうね。さて、マユミ」 マユミにフランクな笑みを向けると、アスカはベッドから降りて立ち上がった。なまじ中途半端に休んで所為で太股が痛むが、これくらいなら許容範囲だ。口元を吊り上げ、ふんと鼻で笑う。そして金色の髪をすくいあげ、両手でうなじから先端まで勢いよく梳って整えた。 拍子抜けしたマユミに顔を見せないようにすると、アスカは無言で山羊の消えた方に足を進めた。 「…この辺りから急に空気が湿っぽくなってるでしょ。たぶん、近くに結構大きな水源があるのよ。あの山羊を見て確信したわ。探してくるから」 「一人で大丈夫ですか?」 「一人の方が大丈夫なくらいよ。心配しないですぐ戻るわ」 あの山羊は本当に良いタイミングで現れてくれた。とアスカは本気で感謝する。なぜって、あのままだとマユミを本当に押し倒してしまったかも知れないから。そうなればマユミはアスカに対して拭いがたい不信を抱くだろう。そうなれば、いざというときアスカより自分自身を選ぶ可能性もある。 それでは困る。このような状況下で味方同士の協力に溝が出来るのは大問題だ。 そんな事にならないに越したことはない。 探すほどのことなく、水場は簡単に見つかった。廃墟から10メートルほど離れた所に直径3メートルほどある深遠の窪みがあり、そこに黒々とした水がたまっていた。よくよく見れば銃弾爆撃の跡みたいに、幾つも小規模なクレーターがある。いずれも満々と水を湛えており、溢れた水は細い筋なって低地の方に流れ落ちていた。 「毒じゃなさそうだけど、生水のむのはまずいわよね」 先程の山羊が無心に水を飲んでいる。背後からの明かりでさんざめく波紋が生まれて消えるのが見える。見上げると、時折天井付近からキラリと光る物が落ちてくるのが見えた。 (天井から…。たぶん、シールドの隙間から染み込んできた雨水が滴ってきてるんだわ) 手抜き工事もここに極まれり、だ。いずれはこの手抜き部分から崩れ落ちるかも知れない。それは恐らく10年か20年後。 だが、当面アスカ達にとってこれは思わぬ恩寵だと言える。 (まあ、生水だから飲むわけにはいかないけど、体を拭くくらいには使えそうね) 少し探しただけでボロボロになった鍋とバケツが見つかり、さらにホテルのリネン室を探るとまだ包装から出されてもいないシーツとハンドタオルが大量に見つかった。略奪の対象にはなったが、それはあくまで食料などが対象であって、タオルなどは違っていたらしい。 不幸中の幸いだとアスカは思う。 「これで顔を洗えますね」 アスカが汲んできた水を無邪気に喜ぶマユミに対し、アスカは黙って肩をすくめた。マユミの言いたいことが、聞く前からわかってしまった。 「風呂は無理だけど、髪を濡らすくらいは出来るんじゃない」 「…良いんですか?」 顔や髪にこびりついた怪物の赤子の返り血はさぞや気持ちが悪いだろう。どんな病原菌を持っているかもわからない。 「最初からそのつもりだったくせに。見張ってて上げるわよ」 「…すみません」 「早くすませてね。とりあえず、交替で見張りながら休みましょう」 ちらりと横目で遠くの光を見つめた。怪物達はなにを考えているのか、その動きは緩慢で、今のところアスカ達の方へ近寄ろうとする気配すらない。出口を押さえればいいと考えているのか、それとも、あの怪物達自身この暗闇世界の全てを知っている訳じゃないから、躊躇をしているのだろうか。 (そういえば…) レイやマナ達は今どうしているだろう。 汚らしいベッドでも、今の2人にとっては天蓋付きの高級ベッドにも勝る。横に腰掛けたアスカが見守る中、マユミがビクビクと小さく瞼を痙攣させながら眠っている。手足を縮め、背中を丸めて胎児のような姿勢だ。無理もない、睡眠不足で疲労した体を酷使して歩きづめだったのだから。 (もうちょっと、休ませて上げた方が良さそうね。ん?) じっと寝顔を見ていたアスカだが、唐突に呼吸を止めて周囲の物音に耳を澄ませた。 時折水が落ちる音と、微かに風が吹く音、マユミの寝息しか聞こえない。 (気のせいかしら) なにか足音みたいな音が聞こえたような気がした。暗がりに目をこらしてみたが、何も見えない。一瞬、何か動いたような気がしたけれど、先程の山羊かもしれない。 疑心暗鬼に陥っているのかも知れない。来るはずの怪物が来ないというのも、それはそれでストレスを覚える物だ。 (連中、本気でここまでこないつもり? やる気がないのか、それとも何か別に考えがあるのかも) 体感時間で30分、マユミが眠ってからそれくらい経つが、怪物達が近くに寄ってきた気配はない。怪物が近寄る様子もないことを心配するのは、それはそれで胡乱なことだ。 (ちょっとくらいなら、大丈夫かしら?) 探せば、もしかしたらまだ食べられる缶詰かなにかが見つかるかも知れない。まあ既に荒らされた跡があるので望み薄だが、少なくとも燃やす物くらいは見つかるだろう。そして火が周囲から見えないように注意深く燃やせば、水を煮て多少は飲料水を作ることも出来る。 (あそこからここまで、明かりがある状態で走っても5分以上はかかるわね。ましてや暗闇でまともな地面じゃないから、実際はもっと時間がかかるはず) いざとなれば逃げる余裕もあるし、幸いここら辺一帯は隠れる廃墟も一杯だ。そうと決めたらアスカの行動は早い。 寝入っているマユミを一瞥すると、音を立てないように注意深く、ホテルの中に入っていった。そのことがどんな結果を生むことになるか、予想だにせず。 アスカがホテルに入っていった直後、『それ』は嬉々として隠れ場所から這いだした。今の今まで、鉄の忍耐で待ち続けた甲斐があったという物だ。なんど欲望のままに飛び出そうと思ったことか。しかしそんなことをすれば、今頃自分は切り裂かれ、腐敗した体液を撒き散らして萎んでいた。 2人の後を付けていったはいいが明らかにアスカは自分より強いことはすぐわかった。素手の時に不意を打てば何とかなったかも知れないが、今のアスカは「それ」が大嫌いな鉄の棒を手に油断無く周囲を睥睨していた。これでは千が万でも可能性はなかった。 正直、諦めかけていたが、いまアスカは姿を消した。 いつ戻ってくるかもわからないが、この気を逃すことは出来ない。武器を持ったアスカにはかなわなくても、相手がマユミならこの食べ物よりも手中にするのは容易い。 『はぁぁぁ…ん、まぁ…』 口を開け、それまでしゃぶっていた山羊の頭を吐き出した。水飴のような唾液に包まれた頭蓋骨がこぼれ落ち、断末魔でやせ細った体は痙攣した。血と肉と皮をたっぷりと味わい、腹を満たした直後は性欲は収まるはずなのに、今はかえって猛々しい。 飢えている。とにかく飢えている。 『じゅ、は、は、は』 勢いよく立ち上がらせると『それ』は音を立ててマユミの方に這い進んだ。鉛色の皮膜の向こうに、ベッドに横たわる無防備なマユミの寝顔が見える。獲物が…いや、新妻が寝ていてますます好都合。 もうほとんど記憶の地平の向こうに消え果てた知識がコツリコツリとノックする。 眠り姫 眠り姫は王子様の凌辱で目を覚ますのだ。 初出2006/06/27 改訂2006/06/30
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