「俺への嫌がらせは止んだけど……。翔太は大丈夫なの??」
幼馴染の東雲飛鳥は、可愛い顔に不安げな表情を浮かべながら俺の顔を覗き込んできた。昔から飛鳥は可愛い顔立ちをしていたが、恋人に日々愛情を注がれているせいか艶やかさも身につけ始め、見慣れた顔だがそれでも色っぽい目つきにどきりとして、俺はさりげなく顔を遠ざけた。 ……さて。飛鳥の問いになんと答えるべきか……。 俺は悩んだ。 ことの発端は、二年生の中でも最も高い人気を誇る草壁駿が、飛鳥に横恋慕したことだった。 草壁から飛鳥は誘いを受けたが、すでに恋人のいる飛鳥はそれをあっさり無下にした。その結果、飛鳥は草壁のファンから嫌がらせを受ける羽目になってしまった。 そして、飛鳥の恋人である『腹黒王子』武藤渚に相談し、俺が囮になって攻撃の矛先を変えることを企んだのは一月前のことだった。 武藤は顔の美しさとは裏腹に性格はこの上なく悪いが、飛鳥のことは真剣に想っているようで、大切な恋人への嫌がらせに激怒した武藤はすぐに犯人を見つけ出してしまった。 ……確かにあいつは、優秀な男だよ。性格はすげぇ悪いけどな……。 犯人は単独犯ではなく一年生の十数人のグループで、一人では大それたことは出来なくても、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というノリでついやってしまったのだろう。 なにぶん、まだ一年生なので犯行がバレたあとは大人しく反省し、中にはぐずぐずと泣きながら謝る一年生の姿もあった。 性格は難アリでもファンの多い『王子』武藤渚と、憧れの先輩である草壁駿の二人がかりで叱られて、彼らのやったことは卑怯で許せないと思っていたが、傍から見ていてだんだんと可愛そうになってしまった。 最終的には怒り冷めやらぬ武藤を、俺と草壁の二人で宥め、事態を収拾したのだった。 「……翔太?」 思わず黙り込んだ俺に、飛鳥はますます心配そうな顔をした。 「あ、ああ。……だ、大丈夫、だ……」 しどろもどろになりながら、俺はなんとか答えた。飛鳥は疑わしそうな顔をしていたが、詳しい説明もしないくせに「大丈夫」だと言い張る俺に、飛鳥もしぶしぶ納得してみせた。 ……いや、別に、疚しいことはないし。別に飛鳥に言ってもいんだけど……。 犯人が見つかったからには、俺が草壁の恋人のフリをして、草壁と行動を共にする必要はなくなった。だが、草壁に「先輩と一緒にいるのは楽しいので、これからも同じように遊びに行ったりとかしたいです。迷惑ですか?」と生真面目な顔で言われ、「別に構わない」と答えてしまった。 実際、草壁と過ごす時間は楽しかった。こっちが年上だからっていうのもあるんだろうけど、すげぇ気を使ってくれるし、優しくて素直で本当にいいヤツだし。自分の意見をはっきり持っているのに、他人の意見を柔軟に受け入れることができるだけの器があり、協調性があるし。趣味も合うし、一緒にいて気が楽だし。 新しい友達ができたってカンジで、俺も草壁とはもっといろんな話をしてみたいと思っていた。 ゆえに現状としては「犯人探しのために仕方なく」ではなく、「互いに望んだ結果」一緒にいるわけだけど、俺はそのことを飛鳥に伝えられなかった。 なにも草壁は、恋人同士として付き合おうっていっているワケじゃない。気の合う友人として今までどおり過ごしたいっていうだけだ。けれど、それでも飛鳥に言うのが躊躇われたのは、草壁が飛鳥に失恋したという経緯があるからだ。飛鳥はもうなにも気にしていないかもしれないが……いや、飛鳥はもともと武藤さえいれば他のことにはあまり興味を持たない。草壁が飛鳥を想っていたことなど、すでに忘れている可能性も高い。 その様子を、目の当たりにするのが嫌なのだ。飛鳥が草壁を、なんでもない存在として軽んじる姿を見たくない。だってそれじゃ、飛鳥に惚れていた草壁の立場がないじゃないか。 ……でも、飛鳥はワガママだしさぁ。草壁はイイヤツだから、かえって良かったと思うけどな……。 飛鳥と武藤のバカップルぶりを見せ付けられ、改めて自分の恋が実らなかったことを実感した草壁は、しばらく落ち込んでいた。だが、草壁ほどの男なら、これから先、いくらでも素晴らしい相手にめぐり合えるだろう。早く立ち直って可愛い恋人をつくり、幸せになって欲しい。 飛鳥は容姿は文句なしに愛らしいとは思うが、性格は子供だしワガママだ。もちろん悪いところだけじゃなく、優しいところもあるし素直だし裏表ないし、バカな子ほど可愛いという心境で俺ともう一人の幼馴染の井ヶ田夕貴(いがたゆうき)は飛鳥とつるんできた。けれど人見知りの激しい飛鳥は気位の高い猫のようで、はっきり言って、飛鳥は友達が少ない。俺と夕貴と数名を除けば、他の同級生から親しげに話しかけられることは、実はあまりない。だからといって嫌われているというわけではなく、『深窓の姫君』には近寄りがたいといったところだろうか。 俺にとっては幼馴染の飛鳥は可愛い弟のような存在だけど、癇癪持ち出し、ときとしてめんどくさい存在でもある。 『ワガママ姫』の飛鳥を操れるのは、あの『氷の王子』武藤渚ぐらいなものだ。 ……昔に比べれば、飛鳥も、まぁ、武藤のおかげで大人になったよな……。 いろんな意味で。 「草壁、お前だったら、もっといい相手がいくらでもいるって! 男の俺からみても、お前、すげぇカッコイイし優しいし!」 ……と、内心で思いつつ、それを口にするのもかえって蒸し返して傷つけてしまいそうで、極力、草壁といるときは楽しい話題を選ぶようにしていた。 もっともそれほど気を使わなくても、趣味というか価値観が合うようで、自然と草壁との会話は弾んだが。 今日も草壁は部活だが、図書館で勉強しながら草壁の部活が終わるのを待ち、二人で旨いと評判のラーメン屋に寄ることになっていた。 といってもおそらく真野の部活の後輩たちも行きたがるだろうから、二人きりってわけでもないけど。きっかけは『憧れの先輩』とともに、部活後寄り道しようとする俺を、下級生が羨ましい目で見ていたので声をかけたことだった。だってさ、草壁は校内のスター的存在だぜ? 俺だけが独占するのも悪いし。 もともと二人でちょっとお茶でも……って予定だったけど、もの言いたげな瞳(しかも複数)でじぃっとこっちを眺めているから、つい誘っちまった。 「お前らも来る?」 「えっ……」 唐突に誘われ、最初、下級生たちは戸惑った顔をした。 驚いた顔をすると、ますます幼いよな。つい最近まで、中学生だったもんな。 俺は部活に入っていないから、下級生と接する機会は少ない。3年生だから今更だけど、文化部でもいいから入っときゃ良かったかな。後輩って可愛い。 「つっても、ちょっとファーストフードに寄る程度だけど。あ、言っとくけど、奢りじゃねぇからな。お前らの分までご馳走したら、俺、破産する」 「え……でも……」 明らかに行きたいという顔をしているのに、下級生たちは返事を躊躇い、ちらちらと草壁の表情を伺っている。草壁が優しく微笑みながら「飲み物ぐらいだったら、奢ってあげられると思うよ」と言うと、下級生たちはようやく素直に俺たちの後をついてきた。憧れの君と同席するのは恐れ多いが、誘われれば断れるはずもないファン心理というやつだろうか。 ……さすが草壁。下級生の面倒見もいいよな。 どこかの性悪王子様とは大違いな対応だ。本当に飛鳥は趣味が悪い。 俺、草壁、一年生の女子二人、男子三人の計七人で席に着いたが、でしゃばるわけでもなく草壁がさりげなく気を遣って絶妙なフォローをするので、下級生たちも十分憧れの先輩とのひと時を楽しめたようで、はしゃぎながら帰っていった。 彼女たちは翌日、友人に自慢しまくったようで、「あの子達だけずるいっ!」という話になり、それ以来、俺と草壁が寄り道するときは、順番に下級生を連れて行くことになってしまった。草壁と後輩たちとの会話は自然と部活についてのことが多く、「むしろ俺のほうが邪魔じゃねーの?」と思うこともあり、何気なく聞いてみたら「真野先輩は、俺と一緒にいるのはつまらないですね……」と寂しそうな顔で言われてしまった。 「んなわけねぇじゃん」 「真野先輩は俺と二人きりになるのが嫌で、俺の後輩を誘ったんでしょう?」 思いがけないことを言われ、俺は驚いてしまった。そんなことは微塵も考えたことがなかった。後輩たちを勝手に誘って草壁を不快にさせたのなら、申し訳ないと思った。草壁が俺のことばかりかまけていて、草壁と後輩との間に少しでも溝が出来たら嫌だとお節介なことも考えたが、草壁を傷つけてしまったのなら本末転倒だ。 「ちげーよ。勝手に誘ったのは悪かったけど、『大好きな先輩』を独り占めするのに罪悪感があったっつーか。余計なお世話だろうけど、俺とつるんでばかりじゃ部活内でもお前の立場も悪くなるかもしんねぇしとか思ったんだよ。第一、お前のことがイヤだったら、週末の約束も毎回断ってるよ」 「本当ですか?」 「あったりまえっ! この前だって、飛鳥の誘いを断ってっ……」 咄嗟に口から飛び出た飛鳥の名前に、俺は慌てて口をつぐんだ。気にし過ぎかもしれないが、草壁はきっとまだ、飛鳥の名前を聞くのは辛いと思ったからだ。 だが予想に反し、草壁は心底嬉しそうな顔をした。 「東雲先輩の約束を蹴ってまで、俺との約束を優先してくれたんですね」 「ああ、まぁ……」 「嬉しいです」 草壁は感極まったように、俺の身体を強く抱きしめた。 ……おいおいっ。この抱擁には、深い意味なんてないんだろうな!? 傍から見たら絶対にこの体勢は怪しい。人気のない閑静な住宅街とはいえ、ここ、公道だし。 いつもどおり、草壁が部活を終えるまで待っていたからもう夜だし。夏休み直前の夏真っ只中で、今日の気温もめちゃめちゃ暑いし。汗だくだし。 街灯の明かりの下、道端で抱き合う男子高校生……。しかも片方は長身で超イケメン。 目立つって……。 恋人同士のフリをしていた頃の癖が抜けないようで、草壁は毎回、俺の家まで送ってくれる。なのでここはもう、俺んちのすぐ傍だ。今、知り合いに会ったらかなりヤバイ。 俺は焦った。 「おいっ」 「独り占めしてくれてもいいのに」 「……え」 草壁は名残惜しそうに、俺の身体を離した。 そして嬉しそうに微笑み、俺に頬に右の手のひらで触れた。 ……あー。えーと……。 ……おかしいってこの体勢おかしいってっ。 おかしいと思いながら、俺は自分からは動けないでいた。相手の出方を伺って、草壁の目を見つめた。しばらく見詰め合ってから、草壁は口を開いた。 「真野先輩、もう俺が部活終わるの、待っていなくていいですよ」 「……はあぁ?」 「あ、でも、たまには一緒に帰りたいですけど。先輩、受験生なのに、俺が心配だから付き合ってくれてたんでしょ? 今まですみませんでした。先輩のお陰で、元気になりましたから。ありがとうございました」 「う、そ、そうか……」 ……俺が気を使ってたの、見透かされていた……。 という羞恥と。 ……待たなくていいって、お前こそ俺に飽きたんじゃねぇの……? という疑惑と。 ……確かに草壁の言うとおり、無理ないレベルの私立大を受ける予定とはいえ、さすがにそろそろ受験勉強しないとやべぇかも。 という焦りと。 ……ところで、頬にあてられたこの手はなんだ? 顔近すぎるんじゃねぇの? まるでチューされそうな体勢じゃん……。 という疑問とか。 いろいろなことがぐるぐる頭の中を回って、聞きたいことはあるのに、言葉が上手く出てこなかった。 俺の表情を読み取った草壁は、くすりと笑って俺に触れていた手を、ようやくそっと離した。離れていく感触を寂しいと思ったが、その感情の理由を知るのが怖くて、俺は草壁から視線を逸らした。 「真野先輩が優しい人だと分かっているから、同情につけ込みたくありません」 「は?」 「それに、真野先輩の……好きな人の邪魔になりたくないから、真野先輩の受験が終わるまで待つつもりです」 「う?」 「でも、真野先輩は優しくて魅力的な人だから……他の誰かにとられる前に、立候補させてください」 「え。あの、立候補って……」 「俺は真野先輩の恋人になりたい。少しは望みはありますか?」 「い、いや、だって……」 ……なんか俺……。 ……草壁に告白されているような気がするんだけど……。 ……けど、でも、そんなはずは……。 なんだか頬が熱い。 俺、ひょっとして、照れてる……? 「う。だって俺、別に、か、可愛くねーし。だってお前……飛鳥みたいな感じのが……好き……なんだろ……?」 脳裏に飛鳥の少女のような美貌を思い浮かべ、草壁が俺を好きだと言うのはなにかの間違いだという気持ちと、草壁はこんなことで嘘をつくようなヤツじゃないという草壁への信頼の気持ちが混ざり合い、混乱した。 「東雲先輩のことは、一年の頃から好きでした。武藤先輩を一途に想っている姿に惹かれていました。でも、武藤先輩も東雲先輩のことを想ってるって分かって、完璧に失恋してすげぇ落ち込んでたのに、今は平気になりました。真野先輩を好きになったからです」 「そ、それは……。お前、勘違いしてるんだよ。その……落ち込んでたとき……俺がたまたま……傍にいたから……」 「気の多い男だと、俺の気持ちを疑われても仕方ないとは思っています。でも、真野先輩と恋人のフリをし始めてからも、他校男女合わせて13名の方に告白していただきましたが、気持ちは揺るぎませんでしたので、俺は自分の気持ちに自信があります」 「う。じゅ、13人……」 ……恋人のフリをし始めてからって……二ヶ月弱の話じゃねーか。なんつーモテ具合だよ……。 草壁の話が嘘ではないことは分かる。草壁ほど全てを兼ね備えた人間が、もてないわけがないのだ。 だからこそ疑問が浮かぶ。 ……なんで、俺? バカップルどもが日ごろさんざん見せ付けてくれるから、男同士の恋愛についてタブー意識はあまりない。だから気持ち悪いとかそういうことは思わなかったし、俺が生理的な嫌悪感を抱いていないことに、草壁もきっと気がついていたことだろう。 他の男なら絶対イヤだけど、抱きつかれたときの草壁の汗の匂いさえ、俺は不快と思わなかった。 けれど疑問だけは渦巻く。 ……どうして、俺? 「今度は、告白する間もなく失恋して、後悔なんてしたくないんです。結論は急ぎません。今日のところは、俺の気持ちを分かっていただけたことで、満足します」 「…………」 「それでは真野先輩、また明日」 「お、おう……。またな……」 言いたいことを言ったせいか、草壁は晴れ晴れとした表情で帰っていった。 だが、残された俺は……。 「……なんで……俺……?」 草壁からの突然の告白に動揺し、俺はその場にへたりこんだ。 情けない話だが、足に力が入らない。 ……草壁は……あいつは、いい加減な気持ちで……あんなことを言うやつじゃない。 草壁は本気なのだろう。 だって穏やかに微笑みながらも、指先が、震えていた。 「……そうか。あいつは趣味が悪いんだ」 自分の言葉に自分で落ち込む。だが、そうとしか思えない。 明日からどんな顔で草壁と離せばいいのかと、俺は途方にくれたのだった。 「真野先輩、お昼行きましょうか」 「う。く、草壁……」 「早く行かないと、席、無くなっちゃいますよ?」 「あ、ああ……」 昨日のことを、俺はさんざん悩んで寝不足だというのに、草壁はいつも通り爽やかだ。 俺だけが緊張している。 だが、昼食を食べながら話をしているうちに、徐々に俺の緊張もほぐれてきた。 もともと草壁とは話が合うのだ。話に夢中になって、昨日の出来事はすっかり意識の外に追いやられていた。 けれどふとした瞬間にかち合う視線に、草壁の本気を悟る。 ……なんでそんな……優しい眼で見るんだよ。 昨夜の告白を思い出し、俺の頬は自然と熱くなった。緊張のあまり、昼食のうどんが咽喉を通らない。 「〜〜〜〜〜っ」 そして緊張のあまり、手が滑って箸を落としてしまった。 「うわっ……やべっ……」 慌てて拾おうとするが、その前に通りすがりの親切な人が拾ってくれた。 「はい、どうぞ」 「ありがとう」 箸を受け取り、礼を言いながら顔をあげると、この世の中で「俺的嫌なやつランキング」の上位に入る武藤がいた。礼を言って「損した」ぐらいの気持ちにさせられる。それぐらい俺は武藤が苦手だった。 「……ふぅん。随分と仲良くなったんだね」 含みのある言葉と笑顔に俺は苛っとしたが、草壁は武藤の言葉ににっこりと微笑んだ。 「はい! 仲良くさせていただいております」 邪気のない笑顔でにこにこと素直な返事をされて、武藤は毒気を抜かれたようだった。呆れたような、少し困ったような顔で小さく溜息を吐いた。 「……そう。良かったね」 「はい。良かったです。ありがとうございます!」 ……すげぇ草壁! あの腹黒王子が気圧されている!! 計算高い武藤にとって、100%善意でできている草壁みたいなタイプは苦手のようだ。 これは新発見だ。校内で人気の一位、二位を争う二人がつるんでいるから、否応なく学食中の生徒の視線を集めてしまっているが、俺は別の意味で二人に注目していた。 ……ふっ……。いつも人のことを見下している武藤が、草壁に翻弄されているのを見るのはいい気分だぜ! 二人の会話のペースは、完全に草壁が握っていた。 ……天然ってすげぇよな〜。 俺がにやにやしながら眺めていると、俺の視線に気がつき武藤は冷ややかな視線を向けてきた。さすが氷の王子様。視線だけで、ひんやりと空気の温度が下がった気がする。 王子様は冷ややかな眼差しのまま紙袋を差し出してきたが、一瞬、なにかの嫌がらせかと疑って、俺は受け取らずにまじまじとそれを眺めてしまった。 「古典の問題集、探してたんでしょ? 俺もこれ使ってるけど、解説、分かりやすいよ。問題数もやる気を失わせない程度で丁度いいし。とりあえず解いてみて、足りないようだったら他の問題集にチャレンジしたら?」 「……あ。さんきゅー」 中身の説明を聞き、ようやく俺は武藤から紙袋を受け取った。 そーいや飛鳥の前で、古典がヤバイって愚痴った気がする。現国はそれなりに好きなんだけど、古典ってのは意味わかんねぇし、苦手だ。 飛鳥が俺の言葉を覚えていて武藤に話したことも意外だったし、武藤がわざわざ俺のために、問題集を持ってきてくれたことが心底意外だった。 飛鳥の親友を自負する俺を、武藤は目の仇にしていて、邪険な態度を取られることは日常茶飯事。それが当たり前になっているから、親切にしてもらってこんなことをいうのもアレだけど……気色わりぃ……。 「でも武藤、お前、理系じゃなかったっけ。なんで古典の問題集に詳しいんだよ?」 「国立狙いだから古典も必要なんだよ。それにもともと国語は得意だから、センター試験の得点源にしようと思って。勉強する科目数が多くて気が滅入るよ……。自分で決めたことだから、仕方ないけどね」 さすがの王子様も、受験のプレッシャーには相当やられているようだ。俺の前で武藤がこんな弱音を吐くのは本当に珍しい。おそらく武藤のことだから、俺と違ってレベルの高い大学を目指しているのだろう。なにせ学年で5位以下に転落したことのない秀才だ。一年生の頃は同じクラスだったが、武藤は予習も復習も毎回欠かさずしていた。天才肌ではなく、こつこつと真面目に勉強し、成績上位をキープしていた努力家だった。気に食わない男だが、2年生のときは図書委員長としての務めを果たし、勉強も手を抜かず、道場に通い続けて身体を鍛え、ストイックに己の能力を高めようとする姿勢には毎度感心させられる。俺には到底真似できない。 俺は学校では、中の下程度の成績だ。大学も無理せず自分の学力に合った、しかも入試科目数の少ない私立を受験する予定でいる。 うちの高校は一応進学校で、県内では有数の学力の高さを誇っていた。ゆえに中の下レベルの俺でも、世間一般的にはそれなりのレベルの大学を狙えるのだ。幸いなことに経済的には恵まれているので、親も納得して学費を払ってくれるだろう。 「問題集、いくらだった?」 「いや、飛鳥の代わりに……囮になってくれたお礼だから、お金はいらないよ」 「え」 驚いた。気にしているとは思わなかった。 思わずまじまじと見つめると、武藤は居心地が悪そうな顔で目を逸らした。 ……えーっと……。 ……ひょっとして……武藤、照れてる、とか……? 案外、そんなに悪いやつじゃないのかもしれない。 少しだけ親切にされて、単純にも俺は武藤への評価を少しだけ上げた。 「じゃあ、もう戻るから」 「わざわざ悪いな」 「いや、飲み物買うついでだし」 武藤が手にしているのは子供が好んで飲むような甘い乳酸菌飲料と、ブラックのコーヒー缶だった。一本は飛鳥用なのだろう。なんだかんだ言いつつ、武藤は飛鳥のことを可愛がっている。飛鳥は本当に武藤のことが好きだから、一方的な片想いでなくて良かったと思った。大切な幼馴染が幸せなら俺も満足だ。 なんとなく武藤の後姿を見守ってから姿勢を戻すと、草壁がなぜかしょんぼりしていた。 ……なんなんだ? 「……草壁?」 「来年は真野先輩、卒業しちゃってるんですよね……。こんなふうに、お昼を一緒にとれなくなるなんて、寂しいです」 「ばぁか。卒業までまだ半年以上あるじゃねぇか。それに俺、実家から通える大学選ぶつもりだから、休みの日は今までどおり会えるし。つっても、今度はお前が受験だから、受験勉強に支障が出ないようにだけど」 俺の言葉に草壁は嬉しそうに顔をほころばせた。 喜んでいる草壁の姿にほっとするとともに、俺は自分のセリフを反芻した。 ……俺、高校卒業してからも、当たり前のようにこいつと会う気だよ……。 「なんで、俺?」という疑問は未だに残る。 草壁が俺のどこを気に入ったのか、皆目見当がつかない。 だが、俺が草壁に惹かれる理由なら、くさるほどあるのだ。 草壁からの告白にすんなりと「OK」を出せないのは、自分が草壁に釣り合うとは到底思えないからだ。隣に並ぶ自信がない。情けないことに、草壁との距離を縮めることに、俺は気後れしていた。 だからといって、「NO」という答えを選べるはずがない。 俺は草壁を傷つけたくはないのだ。哀しそうな顔を見たくない。 ……とりあえず、受験が終わるまでは……猶予期間ってわけか。 受験が終わるまで、草壁が同じ気持ちでいてくれているとは限らない。俺への気持ちが誤りであったと気がつくかもしれない。 でももし本当に、待っていてくれるのなら。 俺は草壁を拒むことなどできないだろう。 ……いつ頃から……好きだったんだろう。 最初は雲の上の存在だと思っていたから、恋愛の対象としては見ていなかった。 けれど一緒に過ごしているうちに、徐々に惹かれていった。 ……俺がこいつのことを好きになるのは、仕方ねぇよな。 なにせ相手は『無敵な騎士(ナイト)』の称号を持つ人気者だ。 ……好きになっても……当然だよな。 往生際悪く想いを打ち明ける日を先延ばしにしながら、自分の気持ちを誤魔化せないことに観念し、俺は小さく溜息をついた。 「真野先輩、夏休みは勉強で忙しいと思いますけど、気分転換したいときとか、会っていただけますか?」 「まあ、たまには俺も息抜きぐらいするしな」 偉そうな態度で返事をしつつ、実際のところ優位に立っているのはきっと俺ではないと思ったのだった。 それから半年後。 合格発表の日、俺は自分の受験番号が張り出されていることを確認し、親よりも先に草壁に電話をした。 きっと待っていてくれたのだろう。ワンコールも鳴らないうちに、草壁は電話に出た。 俺は挨拶もせず、真っ先に結果を口にした。 「受かった」 『おめでとうございます!!』 「俺、お前のこと好きだから」 いつまでも言われっぱなしってのも俺の流儀じゃない。月とすっぽんとか身分違いとか、ぐちぐち考えるのももう飽きた。 好きなものは好きなんだ。 こうなったら開き直って、突っ走れるだけ突っ走る。 俺なんてたいした人間じゃないけど、あいつのことは信じられる。 照れくさくて、俺は言いたいことを言うとさっさと電話を切ってしまった。 すぐに掛け直してくるかと思ったが、携帯電話は沈黙したままで、俺は拍子抜けした。このままここに突っ立っているのも寒いし、携帯電話をポケットにしまい、マフラーを口元までひっぱり上げてから駅に向かった。だが突然、校門を出たところで何者かに後ろから圧し掛かられた。 ……な、な、な、なんだっ!!?? 「真野先輩! あの、俺……」 どうやら草壁は俺のことを心配して、大学の近くで待っていたらしい。草壁は言葉にならないようで、ただ強く俺を抱きしめた。俺だって普通の体格なのに、草壁の腕にすっぽりと入ってしまう。部活で鍛えた身体は逞しくて、安心してしがみつけた。 通行人の視線が気にならなくもなかったが、気にしないことにする。 俺も草壁も、それどころではなかった。 草壁は何度か深呼吸してから、震える声で囁いた。 「俺、真野先輩のことが大好きです」 「うん、俺も」 ……やっと……答えることが出来た……。 俺の声も震えていた。 心臓もどきどきしていた。 二人とも泣き笑いの表情でもう一度強く抱き合ってから、手を繋ぎ道を歩いた。 長かった半年間だった。互いに想っているのに、触れ合うことの出来ない時間だった。 それでも俺にとっては必要な時間だった。 少しだけ泣けてきて、俺は繋いでいないほうの手でそっと目元を拭った。 草壁の手の温もり感じながら、この日、ようやく二人の関係が恋人同士に変わったことを、俺は実感したのだった。 完 |