「約束、したでしょう? 覚えていらっしゃいますか?」
夫はにこにこと嬉しそうに、私の髪を優しく透きながら、耳元で囁いた。 豪奢な銀色の髪に澄んだ青い瞳。出会ってから長い年月が経つのに、夫の美貌は衰えていない。それどころか、さらに磨きを増しているような気がしてならない。 それに比べて私はといえば、黒に近い赤い髪に、金粉をまぶしたような朱の瞳。珍しい色彩ではあるが、顔立ちはいたって平凡だ。体格はいくら食べても肉がつかず、標準より痩せていて胸も豊 かとはいえず、少年のような体つきだ。お世辞にでも、女性としての魅力のある体とは言い難い。 まるで月とスッポンのようだと思い、自分の考えに自分で傷ついた。 「私があなたの願いを叶えたあかつきには……ずっと傍にいてくださると」 「ああ。もちろん、覚えている。その……私だって、もっとお前と一緒にいたいと……思ってる」 真実に混ざった、ほんの少しの嘘。 私は若干の罪悪感を抱きつつ、夫の背に腕を回して抱きついた。 一緒にいたいのは本当。 誰よりも美しくて傲慢で身勝手で、そして誰よりも私を愛してくれた人。 だから私には彼が必要で、私もまた、彼を愛したのだ。 けれど……一体、いつまで? いつまで彼は……私を好きでいてくれるのだろう……。 長い時間を共に過ごせば、いずれ彼は飽きてしまうのではないだろうか。 私という存在に。 彼の愛情は信じている。 けれどいつまで彼の気持ちを惹き付けていられるのか……とどのつまり、私は自分に自信がないのだ。 何千年、何万年もの時を過ごしたのに進歩がない。 王だと崇められたところで、所詮、この程度の存在なのだ。 「世界が一つだった頃と同じように、またあなたと共にいられるかと思うと、嬉しくて仕方ない」 夫はうっとりとした表情で、私の頬にキスを落とした。 「……うん。私も、嬉しいよ」 「正直言って、子供なんて、迷惑な存在だと思っていました。あなたの関心を奪う者は、我が子であっても許せない。だが、役に立ってくれるのなら、少しは多目にみなければなりませんね」 母親であれば、子を気に掛けるのは当たり前のこと。 夫はそれさえも許せないという。 呆れるばかりの独占欲だ。 父親としての愛情は、極めて希薄だ。 「あなたとの血のつながりを感じれば、可愛く思えるのですが……。長男のように、あなたと欠片ほどにも似たところがないと、この世に存在することすら許しがたい」 「……長男は、私の後を継ぐことになっているのだから……。困るよ?」 「ええ、分かっています。忌々しいことにアレはバカじゃない。狡猾に立ち回り、王の座を継ぐことで、自らの立場を確固たるものにした。おかげで手を出せないのだから、本当に腹立たしい。でもアレのお陰で貴方が解放されるのだから、黙認します」 そのくだんの長男は、淡い色彩の兄弟たちと違って、彼のまとう闇色は私に近かったが、子供たちの中で最も夫に性格が似ていた。 同属嫌悪。 それに加えて、種族違いの枠を超え強引に“人”である妃を手に入れた長男への、嫉妬もあるかもしれない。 長男の花嫁は従順な性格だから、彼は己の望むとおり愛しい者を豪奢な檻に閉じ込め、思う存分愛でることができた。 ……私は、身勝手だからなぁ……。 世界が三つに割れたとき、夫は私と共に、一部のよき人々だけを救い、新たな世界を築くことを願った。 だが、私は、全てが救われることを願った。 他者を犠牲にして築いた世界で、自分が幸せになれるとは、どうしても思えなかったのだ。 私がその選択をすることで、二人が共にいられなくなるということは、よく分かっていた。 それゆえに夫は強固に反対し、それでも私は譲らなかった。 最終的に、夫は私の願いを叶えた。 私のほうがより身勝手で頑固だったからだ。 「……愛しい貴方の願いだ。叶えましょう。貴方はとても優しい人だ。多くの生き物の命が失われることになれば、貴方は心を痛めてしまうのでしょう。貴方の笑顔を曇らせることなど、私にはできません」 私に激甘な夫は大きな溜息をつきつつ、私の意志を尊重してくれた。 夫は三つに割れた世界のうちの一つを、自らを楔とすることで安定させ、存続させた。 もう一つの世界は、私が軸となった。 そして最後の一つ……もっとも小さき世界は、もともとあった無人の惑星にその存在を重ねることで、存在を確立させた。 互いに世界を背負うが故に、覚悟していた通り、滅多に会って触れ合うことはできなかった。稀に三つの世界のバランスが釣り合ったときにだけ、二人は再会することが出来た。 その際に孕んだ子供は、「私だって傍にいられないのに、ずるい」という理由で、夫の住む世界へと引き取られた。世界が一つだったころに生まれ、他の兄弟より遥かに長い時間を生きた長男のみが、夫とそりが悪いということもあって私の世界で生きることになった。 夫に寂しい思いをさせているのは私だから、子を引き取りたいなどと我儘はいえなかったが、子と離れ離れで生きなければならないことは辛かった。 「私のほうは、まだ少々引き継ぎに時間が掛かってしまいそうですが……子供たちのおかげで、ようやく私たちの役目も終わりますね。これからはのんびりと、二人きりで蜜月を楽しみましょう」 「ああ。……だが、お前の世界を継ぐのは、私たちの子供ではないのだろう?」 「ええ。子供たちには、世界を支える補佐をさせようかと」 「どうしてだ? いや、別にお前の選択に異を唱える気はないんだが……。お前は次男がお気に入りだっただろう? 力だってあの子と遜色ない。どうしてあの子を選んだんだ?」 夫は長男とは仲が悪かったが、次男は子供たちの中でも一番可愛がっていたし、次男も夫を慕っているようだった。逆に、夫が跡継ぎと選んだあの子のことは、夫はあまり快く思っていなかったはずだ。それも私のせいなのだが……。 「お気に入りだからこそ、ですよ。世界を背負うなんて面倒なことさせたら、可愛そうじゃないですか」 夫は輝かしい笑顔を浮かべながら、言い切った。 たしかによほどの権力欲でもなければ、世界を継がされることなど面倒極まりないことだ。 「そ、そうか……」 ……じゃあ実の息子を自分の跡継ぎに選んだ私は……この男より鬼畜だということか……? ……いやいやいや。そもそもこちらが人材不足はこの男が子供をみんな連れて行ってしまったことが原因なわけで。 ……長男だって嫌がってなかったし。世界を継ぐだけの力がアレには備わっていたし。 ぐるぐる悩んでいたら、夫に押し倒された。 ここはどこの世界にも属さない空間。夫が二人の逢瀬のために造り出した。 こんな器用な力の使い方が出来るのは、夫と長男、そしてもしかしたら次男もできるかもしれない。力の強さというより、技術の問題なのだ。自分には到底、無理だ。 「ふふ。相変わらず、可愛らしい人だ。会えない間、ずっと、あなたをこんな風に抱きしめたかった……」 「う。そ、そうか……」 夫婦なので、夫の行動は咎められるものではない。 久々だし。 他人にほとんど興味を持たない夫が、浮気して欲望を解消していたなんてこと、ないだろうし。 けれど、ぜんぜん膨らんでいない胸なんぞ触っても楽しいんだろうか、とか。 夫の完璧な体型に見惚れてしまったり、とか。 ……とにかく恥ずかしい……。 照れる。ものすごく。 夫はあっさりと私の体から布を剥ぎ取った。 いつの間にか二人とも、体を覆うものはなくなっていた。強く抱きしめられて、久々の夫の肌の感触に、どきどきした。 「あ、あ、あ、あのっ」 「何を焦っているんですか。私たちは、夫婦ですよ? 本当に可愛い人だ。いつまでも慎み深くて、初々しい……」 愛しくてたまらないという表情でうっとりと呟き、夫は私の唇に唇で触れた。 だんだん深くなっていくキスに慌てる。 「うっ。お、おいっ」 ……うううううっ。うわーっ! …………………………………………………………………………どがっ!!!! 「……………………」 「……………………」 夫は呆然と私を見ている。尻餅をついた格好で。 それはそうだろう。 久しぶりの夫婦の交わりの最中で、妻に蹴り飛ばされたのだから。 私も自分の咄嗟の行動に動揺し、しばらく夫と無言で見詰め合ってしまった。 そして自分がしでかしたことが理解できると、血の気が引く思いがした。 「いやっ! い、い、今のは違うんだ! べ、別に、お前が嫌だったとか……そういうことじゃなくて……っ!!」 恥ずかしくて恥ずかしくて、恥ずかしさが頂点に達しただけだ。 それで、つい咄嗟に……足が出てしまった。 手じゃなくて、足。 どういうことだ私は、どんだけ女力が足りていないんだ……。 「ごめんっ……」 さすがに私に甘い夫も、怒るに違いない。 『離婚の危機』という言葉が頭を巡り、私はうろたえていた。 だが予想に反し、夫はしばらく無言だったが、その後、大爆笑した。 「えっとぉ……?」 打ち所が悪かったのかと、私は本気で心配した。 夫は裸のまま、苦しそうに腹を押さえ、床の上をのたうちまわって笑い続けた。 まぬけな姿な筈だが、美形は得だ。 無邪気に笑い続ける姿も、ちょっと可愛いかも、なんて思ってしまう。 「くくくくくっ……。これだから、あなたは素敵だ……。足蹴にされたのは、初めてですよ」 「え、えへへへへ……」 つられて愛想笑いをしながら、そりゃそーだろうと思った。 これだけ美しい男に迫られて、拒む女がいるとは思えない。 女どころか、男だってイケるだろう。 そりゃ、私以外の人間にはぜんぜん優しくないし酷いことも平気でするし、性格はいい方ではないだろう。だがその欠点を補ってあまりある美貌の持ち主なのだ。私の夫は。 「すみません、私も性急過ぎました。久しぶりだったので……。添い寝ぐらいは許していただけますか?」 「う、うん……」 最終的に、添い寝だけではすまないことは分かっているけど、私は頷いた。 私だって夫のことは愛しているし、触れ合いたいとずっと思っていた。 ただ意識しすぎて、心臓はどきどきしてるし、上手く振舞えないだけだ。 子供たちが世界を継いだあかつきには、二人きりの生活が始まるかと思うと、緊張で息が詰まりそうだ。 「愛してます」 夫はにっこり微笑み、私を優しく抱きしめた。 「私も……愛してる」 照れくさかったが、さきほど愛情を疑われても仕方ない行動をとったばかりだったので、心を込めて私も夫を抱きしめた。 ……少しは……可愛げあるトコ、見せないとな……。 夫に呆れられないように、もうちょっと素直になろうと私は反省したのだった。 ここは、どこだ? 目覚めた瞬間、見慣れぬ風景に疑問を抱いた。 まず目に飛び込んできたのは鮮烈な青空。そして青々とした木々と、手を伸ばせばすぐに届く位置に、美しい水を湛えた大きな湖。 「おいおいおい。……ここって、外?」 ……昨夜は、確かに自分のベッドの中で眠りに付いたはずだけど??? ……なんで目が覚めたら湖のほとりに自分は寝っ転がっているんだ???? ハテナマークがぐるぐる回っている。 夢だろうかと頬を抓るが、痛いので現実のようだ。 「……っつーか、ここ、どこ? マジで」 どこ、と言いつつ、なんとなく、薄々、ありがたくもないことに、ここがどこだか分かる気がして顔が奇妙に引きつる。 できれば自分のこの予測が、はずれていてくれると大変嬉しい。 「うん、いや、でも、まさか、なあ?」 まさかまさかまさか。 だが、そのまさかということを、嬉しくもなんともないことに、はっきりきっぱり決定付ける声が聞こえた。 「やっと目が覚めたか、グレス=ファディルの養い子」 腹立たしいぐらいに麗しい声は過去に数度聞いたことがある。 ただし、あのときは天城紗那(あまぎしゃな)ではなく、デュアン=デュランとしてだったが……。 「やっぱりアンタか……」 にっこり笑って自分の顔を見下ろしている男を見て、紗那は脱力した。 腰よりも長い、輝く銀の髪。冷たくて美しい青い双眸。繊細でありながら華麗であり、まさに完璧としかいいようのない美貌。 ……知ってるぞ。俺は、こいつを。 天界一の強さと美しさを持ち、天界一の根性の悪さを誇る男。 そして天界一の権力者。 ものすごく、不吉な予感がする。 いや、予感と言うよりほとんど確信。 「天界の主が、一体俺に何の用なんだよ!?」 上体を起こし、紗那は叫ぶ。 ……一体どうしてなぜなにゆえに、天主であるアルザールは自分をこの世界に招いたんだ? 出来れば聞きたくもなかった。どうせ禄でもない用事に決まっているのだ。 直接接触したことは過去数えるほどだが、父である誠司……グレス=ファディルから、さんざん天主の破壊された性格については教えられていた。 すなわち、『触るな危険』。 もともと言葉が少ないということもあるだろうけど、誠司から人の悪口を聞いたことはほとんどない。その例外中の例外が、誠司が天主について語るときだ。 天界では「天主はグレス=ファディルを特別気に入っている。それゆえ、自分の息子のラザスダグラではなく、グレス=ファディルを跡継ぎに選んだ」…ということになっているが、事実はどうやら違うらしい。 ……係わり合いになりたくねーけど……。 自分が招かれた理由について、聞きたくないが聞かないわけにもいかず、紗那は尋ねた。 「ふふん。いい質問だな。デュアン=デュラン」 紗那の質問に意を得たりとばかり、天主はニヤリと笑った。 「……今は、紗那だよ」 紗那は自分の手をじっと見つめながら言った。 肌の色と手の形で、自分の肉体が『天城紗那』としてのものだということを悟る。人間界にいた自分を人間としての肉体ごとこちらの世界に転送するのは並大抵の仕事ではない。それを軽々とやってのけるアルザールは、確かに天界一の実力者である。 天界にいた頃、自分はデュアン=デュランと名乗っていた。姿かたちも今とは大きく異なり、金の髪に朱の瞳と、豪奢で目立つ顔立ちをしていた。今の姿もそれなりに人目を引く姿であるが、『デュアン=デュラン』を太陽と例えるなら、『天城紗那』は月といったところだ。 「グレス=ファディルの『器』が盗まれた」 「……はい?」 天主はあたかも天気の話をするかのような、なんでもないような口調で告げたが、その言葉の内容の重大さに、紗那の頭は一瞬、真っ白になった。 ……えーと……。あっさり言われたけど……。 ……それって、もしや……。やばくない? グレス=ファディルの魂は、今は『人』の中にあり、人間界においては紗那の父親として……天城誠司(あまぎせいじ)と名乗って生活している。 デュアン=デュランに比べ、グレス=ファディルが人間界で過ごした時間は長い。デュアン=デュランはほんの二十数年といったところだが、グレス=ファディルは自分の妻を探して二千年以上も人間界を彷徨っていた。 グレス=ファディルが人間界に降りる前に、その『器』は天界にあるグレス=ファディルの城の奥に保管した。『器』の周囲には厳重に結界を張り巡らしてあったはずだ。 グレス=ファディルは天界で第二位の力を持つ高位の神で、『器』にも……たとえ魂の抜けた殻の状態であっても力が宿っている。もし悪意ある者の手に渡れば悪用されかねないと、警備も慎重に行っていた。 天城紗那として人間界に降りる前は、デュアン=デュランが警備の長を務めていたのだった。 「それって、大変なことじゃありませんか???」 ……だって、グレス=ファディル様の『器』だよ?? ちなみに優也の前世であるユリナの『器』も、同じくグレス=ファディルの城に保管されているが、グレス=ファディルの『器』ほど強固な結界は張られていない。当時はディアン=デュランはユリナに良い感情を抱いていなかったから、それにたいして疑問を感じたことはなかった。だが、今にして思えば「夫婦なんだから、一緒に保管してやったほうがいいんじゃねーの」とか考えたりもする。 「そう。めちゃめちゃ大変なこと」 ちっとも大変じゃなさそうに呑気に笑いながらアルザールは言った。 「えーっと……。それで、なんで、『俺』なんです?」 天主の意図が読めない。 なにゆえにその大事に、『紗那』がわざわざ呼ばれたのか。 デュアン=デュランならいざ知らず、人間の『紗那』にできることなど限られている。 「グレス=ファディルは現在人間界で新婚真っ最中だし、ラザスダグラは必死に口説いている最中だし、わざわざ呼び戻すのも、可愛そうだろ?」 可愛そうって……。絶対、嘘だ。 この男がそれほど慈悲深い性格なら、あそこまでグレス=ファディルが、悪し様に罵ったりしないだろう。 嘘つきヤローの考えることなんか、理解できねぇと思いつつ、紗那はむなしい会話を続けた。少しでも多くの情報を手に入れるために。 「俺だったらいいってか? まぁ確かに、離れ離れになって寂しがってくれる恋人もいませんけど? 天界って人手不足なわけ?」 「四王のうち、二王までが人間界にいっちゃってるからねぇ。人手不足もいいとこ」 「あっそ。つまり、俺は盗まれたグレス=ファディルの『器』を取り戻せばいいんだな? OK」 「あっさり承知するね」 ……っつーか、承知しなかったらなにするか分からないでしょうアンタ。 それになんといっても……。 「そりゃーね。あの方の、ためですよ? 動かないわけないじゃないですか。それ見越して、あんたも俺を呼んだんだろ?」 この男の手のひらで踊るのは、はっきり言って不愉快だ。 天主が本気になれば、簡単に問題は解決するだろう。 だがそれでは、この天主様は面白くないというわけだ。 ゲームの駒としてこの男は紗那を選んだ。 不本意ではあるが、現時点では、便利な駒として動いてやるしかない。 「ご名答〜」 アルザールは紗那にグレス=ファディルの『器』が盗まれたときの状況を説明した。 紗那は厄介ごとに巻き込まれていくことを、諦めの気持ちで受け入れた。 |