▼Notes 1999.12
 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note9912.html#26
12/26 【モルグ街と森博嗣】
■これも全然タイムリーな話題じゃないのだけど、
▼e-novelに森博嗣『そして二人だけになった』の書評として佳多山大地氏の「密室における開放性」と題した文章が載っている。当該作品は読んでないため論考全体の当否は判断のしようがないけれど、ポオの「モルグ街」を引き合いに出した箇所が僕にはどうもよくわからなかった。以下に引用してしまうけれど、「モルグ街の殺人」ネタバレなのでご用心を。
事件の証人たちは、犯人であるオラン・ウータンの咆哮を母国語以外の言語だと理解する。自分ではその国の言葉を操れないが、コミュニケートの糸口は掴めていると皆が「確率的」な確信を持っているのだ。逆説的に言えば、閉ざされた場所(密室)で発せられた犯人の言葉は、実は、あらゆる言語に向けて開かれていたともいえよう。
うーん、なにせ「モルグ街」を読んだのは遥か昔なので、住人たちが「あの声はスペイン語だ」「いやドイツ語だ」なんて口々に言っていたこと自体憶えてないのだけど、それはむしろ関係の断絶を示唆した表現だったのではないだろうか。近代都市パリでは個人の関係がひどく薄まっており、それゆえすぐ近くにとんでもない異物が侵入しているのに誰も気付かない、とこんなふうに。大勢の雑多な人間が集まる都会では、隣で意味の通じない声がするのはごく日常茶飯事で、だからこの犯行と密室が成立する。この事件がもし田舎町の誰もが意思疎通可能と期待されるような舞台で起きたのなら、たぶんこうはならないわけで。なので「犯人の言葉は、実は、あらゆる言語に向けて開かれていたともいえよう」というこの文章の結論は僕にはよくわからない、というかはっきり言って牽強付会のように思えるのだった。
■ところで森博嗣といえば、実は最初の『すべてがFになる』しか読んでいない。要は僕にとってその『F』があまり面白くなかったからなのだけど、あんなベストセラーリストに載っちゃうような人気作家になるとは当時は思いもよらなかった。ちなみに『F』の個人的感想は、〈要は「天才だから」ってことだけ?〉と〈辻褄合わせにどろどろ人間関係を持ってくるのは好かない〉てなかんじだった。結局は作者の思考と相性が合うかどうかなんだろうけど。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note9912.html#25
12/25 【狂気の書】
■ジム・トンプスン『サヴェッジ・ナイト』を読んだんだけど結末がぶっとびすぎ。ついてけなかったんでちょっとレビューは書けません。というかこれについていける人は果たしているんでしょうか。『ファイト・クラブ』よりよっぽどいっちゃってるんじゃないかな。最後の展開まではかなり端正なパルプ・ノワール(でも「端正」と「パルプ」は矛盾語かしらん)みたいな印象だったのに。
■ちなみにジム・トンプスンであと読んだことあるのは河出文庫から出た『内なる殺人者』と、ミステリマガジンに最近連載してた『ポップ1280』くらい。『内なる殺人者』はむかし読んだんでよく憶えてないけど、『ポップ1280』はなかなかウィットに富んだ展開で良かった気がする。しかしどっちも要約すると田舎町で保安官が悪いことしまくって暴れる話だよな、たしか。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note9912.html#22
12/22 【東野圭吾論】
■一時期あちこちで盛り上がっていたらしい東野圭吾論にいまさらながらちょっと反応してみる。
■東野圭吾といえば僕は「本気で物語を書かない」(あるいは書けない)人なのじゃないかなという印象がある。東野の描く登場人物は、多かれ少なかれ物語上割り当てられた役柄をしぶしぶ「演じさせられている」ように映るのだ。たとえば『ある閉ざされた雪の山荘で』で若手俳優たちが「雪の山荘」に隔離された本格ミステリの登場人物を演じさせられ、『名探偵の掟』で名探偵と刑事が自分に押し付けられた役柄にメタ的な不平をこぼしまくるのは、東野のそういった気質が端的に流れ出たものじゃないだろうか。それほど極端に「演技」を前面に押し出した内容の作品でなくても、たとえば『秘密』の主人公は僕にとって生々しいというより、『シンプル・プラン』みたいなシミュレーション小説を演じさせられているようだった(それはそれで面白かったけれど)。
■だから東野圭吾の描く登場人物にはあまり感情移入できないし、印象にも残らない。読者もおそらく一度フィクションとして突き放すような読みかたをある程度強いられるのじゃないかと思う。「巧いけれど、心に響かない」というのが東野圭吾作品の印象だ。これはふつう弱点にもなってしまうのだけれど、ところが近年の東野はそれを自覚しつつ逆手に取って「書かないことによってむしろ強烈に印象づける」引き算的な手法を確立した感があると僕も思う。『白夜行』はその成果を如実に示した作品といえるだろう。
■と偉そうに書いてみたけれど、実は東野の作品群をきちんと押さえているわけでは全然ないので(なにしろデビュー作『放課後』の心証が最悪だったから最近の話題作しか読んでない)、ひどく見当違いなことを言っているかもしれない。
■最後に、以下は僕の見つけた主な関連サイト。

▼彦坂暁さんの日記(10/20)
東野の「書かないことによってむしろ強烈に印象づける」手法を近作から指摘。ほぼ同感です。

▼YES EYES SEEK(11/4〜11/6)
上記の記事を紹介。ただ「本格推理」って東野のなかでそれほど大きな幅を占めているのだろうか?というのはちょっと思った。

▼幻想を書かない作家"東野圭吾"(「ぱらでぁす・かふぇ」)
話題に出ている『探偵ガリレオ』未読のため論点がよくわからなかった。残念。

■ここに挙げたものは、実はどれも東野圭吾のあまり熱心な読者でない、といいつつ書かれたものみたいなので、あとは東野ファンの意見も聞いてみたい気もする。まあ、もう書かれていて僕が見つけてないだけなのかもしれないけど。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note9912.html#12
12/12 【届いたけど……】
■『このミステリーがすごい! 2000年版』(宝島社)を入手。ランキングに関しては結構どうでもいいのだけれども、自分の投票した作品が結局どれも20位以内に入ってしまっていたのは、なんだかちょっと悲しいような。まあ、大して読んでないのだからしょうがないか。
■正直言って出版企画としてはもうマンネリ化していて惰性でやっているようなものだと思っているので、内容はとくに期待していなかった。去年で終わった覆面座談会の代わり、茶木則雄・関口苑生・池上冬樹の座談会もやっぱりだらっとした印象。僕がとくに前のふたりの書評にはほとんど興味が湧かないせいかもしれないけど、ゲストの豊崎由美のほうが面白かった気がする(しかしあとふたりの参加者は覆面というのも、中途半端でどうかと思うが)。ちなみに皆さん大好きな心のオアシス、ご存じ「バカミス」コーナーも今回はちょいとネタ切れ気味でした。首謀者の小山正も書いているけれど、なんだか有名になりすぎたところはあるものなあ。全体に目を通して、未読のもので読まないといかんかしらと思ったのは、ジム・トンプソン『サヴェッジ・ナイト』、J・F・バーディン『悪魔に食われろ青尾蝿』、綾辻行人『どんどん橋、落ちた』(いやなんか妙に入手できなくて)、芦原すなお『月夜の晩に火事がいて』あたり。このうち翻訳の2冊はすでに入手してあるのに読んでないってのが、僕の怠惰なところ。
■海外編解説の三橋暁が書いていた、「読者から見れば、書評はふたつのタイプしかない。すなわち、気の合う書評と虫の好かない書評である」(P23)とのシンプルな書評観にはほぼ同感。結局そんなもんだよね。


 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note9912.html#11
12/11 【なぜかサッカー本】
■なんとなく借りてきた武智幸徳『サッカーという至福』(日本経済新聞社)。題名はいまいちキャッチーさが足りなくて目を引かないけれど、中身はなかなか面白く読める内容だった。著者はサッカーファンの間で評価の高い日経新聞の記者で、これはそのサッカー・エッセイ集みたいなもの。文章は適度にバランス感覚と批判精神を備え、しつこくなりすぎない程度にきちんと自分の好みを主張している。とくに独自の「喩え話」が豊かで説得力あり、ふんふんと感心させられた。ゴールシーンばかりを集めた番組が存外面白くないのは、「あれ」ばかりのヴィデオがけっこう飽きるのと同じだ、とか言い得て妙。まあこれは元ネタがありそうだけど。内容的には、動きやクロスなどきちんと技術面に鋭く焦点を当てた中田英寿論と、小野らとの比較がいちばん興味深く読めたかな。代表で中田が脇役に徹することができるようになれば最高だよなあ、とは僕もまったく同感。しかし今年の五輪予選を見るかぎりでは、それはいつの日になることやら。



 http://www.geocities.co.jp/Bookend/1079/note9912.html#05
12/5 【ミステリのトリック/物語性】
先日の文章の続きというか補足。
■ミステリの醍醐味が物語的なものをトリック(といってしまうと指す意味が狭いけれ ど、まあわかるよね)の構成要素へと還元してしまうある種の冷徹さにあることはむ ろん認めるけれども、そのミステリという装置をこんどはなんらかの「物語」を演出するために使 おうとするアプローチがなければ、結局『ハサミ男』みたいな「トリックのためのトリック」 に終わってしまうだけで、それなりにしか面白くならないんじゃないかなと個人的には考えている。 と、いうときに思い浮かべるのが、例えばアイラ・レヴィンの『死の接吻』。これは 相当にトリッキーな手法で書かれたミステリで、途中に大きなどんでん返しが用意さ れている。でもその場面を読んだときの衝撃を構成するのは、単に「おお、こんな仕掛け があったのね」という、いわばメタ次元の驚きだけではないと思う(それも大きいけ ど)。ここで犯人のクールな怖さを読者(と作中の探偵役)にまざまざと思い知らせて その人物像を印象づける展開になっているから、このどんでん返しは心底驚けるもの になっているのじゃないだろうか。つまりミステリ的ギミックを、「物語」を演出す る装置として活かすことに成功しているから。
■こういう文脈での「物語性」は、よく本格嫌いの読者が「トリックとかより物語性 だよね」と言うときの「物語性」と果たして一致するのだろうか? そのへんちょっ と僕はあまり確信を持てずにいる、というかよくわからんのです。僕は例えば『時計館の殺人』の壮大なトリックなんてすごく物語的じゃないかと思うしなあ。そもそもミステリ的手法と「物語性」とはそんなに対立するものではなくて、いま挙げた『死の接吻』の例みたいにある程度幸福な結婚を果たしてなんぼのような気がするのだった。
■黄金期の異色作家アントニイ・バークリーが、有名な『第二の銃声』序文で、トリックの競い合いでは袋小路へ行くだけだからこれからの探偵小説は「人間の謎」を描くことを目指すべきだ、と表明しているのもこれらと無縁ではないと思う。バークリーの代表作(と僕が思う)『試行錯誤(トライアル&エラー)』を読んだ人はわかると思うけれど、これはトリッキーな書きかたで「主人公がどんなやつであるか」を隠し、その真意を最後にようやく明かす構成を採っている。つまりミステリの手法を用いて、うまく主人公の物語性を演出しているのだ。バークリー言うところの「人間の謎」を描くというのはなにもリアリズム人間描写を志向しろとかではなく、そうやって物語性の演出を企むことで、ミステリという小説形式の可能性が広がるんじゃないか、という趣旨なのかなと僕は思っている。まあ、真意は知らんけど。
■要はトリックとかの技巧もいいけど、それで何を表現するかのほうに僕は興味があるということ。しかし、ちょいとイデア論に傾きすぎたかしら。