We Need to Talk About the Family:Groundbreaking

Original text:引き気味


『 サラブレッドな生まれのアスカさん、ホームコメディの日々 』


 豆腐とわかめ、油揚げ。具にしっかりと火を通した後は弱火に落とし、鍋に味噌を入れるのを一旦待つ。
 それは夫と息子、どちらかが顔を洗いに出て来てからの方が良いだろう。
 味噌汁の準備もあらかた済ませ、ユイは一度耳を澄ますと、にんまり――口元を緩めた。
「……今朝は手短に切り上げたわね」
 キッチンでの残りの作業は自分たち夫婦と息子の分と、三人分の弁当の用意。あとどれくらい掛かるかが分かりやすいように、準備だけ出来ているおかずの材料を、別にテーブルに出しておいて。
 そうして洗濯機の置いてある脱衣所まで移動し、汚れ物でいっぱいになったバスケットを持ち上げる。
 手際よく洗濯槽に投入し、洗剤を加えて後はスイッチを入れるだけにした丁度のあたり、
「おはようございます、おばさま」
「おはよう、アスカちゃん」
 息子の部屋から響いていた騒々しいやり取りと、住み慣れた我が家なればこそキッチンからでも聞き取れる、その入り口の引き戸が開け閉めされた気配。そこからのタイミング。
 見計らった通りにダイニングまで顔を出しに来た制服スカート姿の少女に、ユイは今度は清々しい朝にふさわしい笑顔を浮かべてみせて、挨拶を返したのだった。

「毎朝悪いわねぇ」
「そんな。放ったらかして遅刻させるのも……ええと、幼馴染としては薄情かなって思いますし」
 彼女は近くに住む古くからの友人の一人娘であり、家族ぐるみの長い付き合いもあって、同い年の息子とは姉弟じみた関係を築いていた。
 日独ハーフの美女として常に噂される存在だった母親の血を受け継いで、サファイア色のぱっちりとした綺麗な目に、欧風の美貌。そして中学生にして既に日本人離れしたプロポーションの将来性ときたら、没個性を地で行く制服姿であっても押し隠せないほどに際立っている。
 その上で学業優秀。しかもスポーツ万能。どこに出しても恥ずかしくない優等生ぶり。
 幼い頃からその成長を見守ってきたユイからしてみれば、一応は他所の家の子供であったとしても誇らしいと思うほど立派な成長を遂げた、評判の美少女だ。
 なのに、
「――シンジったら」
 思わず出てしまうのが、そのため息。
「アスカちゃんが折角呼びに来てくれてるのに、まだ時間が掛かりそうなのよね?」
 片や、叩き起こされでもしなければ毎朝毎朝寝坊しそうな勢いでだらしない、そんな風に育ってしまった我が子。
 母親の贔屓目からでも、彼女とでは精々がボーイフレンド未満の不釣り合いさだろう。
 それなのにもう何年も健気に、わざわざせっせと起こしに来てくれていた。
「一応、起きてはくれましたし。鞄の中身も多分……用意はしてたみたいですから」
 母親としてはただただ申し訳なかったやら、正直勿体無いんじゃないかと思っていたやら。
 あの子はもっと、こんな可愛い子に世話を焼いて貰っているありがたさというものを噛み締めるべきだし、危機感を持っていて然るべきだったのだ。
「いつも助かってるわ。ありがとう、アスカちゃん」
 礼の言葉はユイの心からのものだった。
「……その、おばさまが朝は忙しいのも知ってますし。ずっと続けててもう日課とか習慣みたいなもので、いつも通りを変えちゃうのも却って落ち着かないっていうか――」
 少女は焦ったように目を逸らし、以前からと変わらない内容で理由を並べてみせた。
 娘も同然の少女の、素直になれないその性格はとっくに承知の上。
 その上で、ユイからしてみればまだまだ十四の、ほんの子供でしかない女の子。この何度くり返したかも分からないやり取りに近ごろ混ざる、決まりの悪さ、後ろめたさじみた素振りは見当違いではあるまい。
 確信があった。
 息子への世話焼きぶりに話が及ぶといつも過剰に否定してみせていた――それとは違う。
 最近のこれは、違うのだ。
 今更の間柄で必要も無い筈なのに、言い訳のように取り繕う口調に態度。テーブルの上を確かめてから時計を気にした、目の動き。そこに看破してのけてこそ、母親業十四年の経験値だと言える。
 女としてならもっと長いキャリア差だ。
「今は慌てて着替え中、後は大急ぎで朝ごはん食べさせて、かしら。まだ掛かるだろうし、アスカちゃんはコーヒーでも飲んでる?」
 それにどうやら、今日使う教科書の準備は手伝って貰えなかったらしいから、それなりにもたついていることだろう。細かいところでも時間稼ぎをしているわけだ。
 素知らぬ顔で話を続けつつ、ユイはわざと水を向けてやった。
「あの人、ベランダでタバコ吸ってるのよ。朝は私が忙しくしてる分、目を盗むのに丁度いいと思ってるのね。若い頃からなの」
 目覚ましにだったらコーヒーの方がよっぽど体に良いのにと、こぼしてみせてから、
「ついでにあの人の分も持って行ってくれると助かるわ」
「――おじさまに?」
「タバコのこと、わたしが愚痴ってたの伝えておいてくれるかしら。そろそろお小言かもとでも思い切り脅かしてあげて頂戴。きっと面白いわ」
 ユイはクスクスと笑って片目をつぶり、茶目っ気たっぷりに唆してみせた。
 カタギに見えないぐらいまであるあの強面。それが分かり易くうろたえてみせるから。
 そう言って。


◆ ◆ ◆


 用意の出来た二人分のコーヒーカップを左右の手でそれぞれちょんと摘んで、少女はダイニングを出ていった。
 カップを摘んだ残りの指を使って、こぼさないようにそろそろと引き戸を閉じていった横顔。中身を傾け過ぎないことに集中していたそこに、もっと彼女が幼かった頃の面影を思い出してしまう。
 微笑ましいと感じてしまうのだ。
 加えてならば、夫のところにも持って行ってと、言わば都合の良い理由をこちらで用意してあげたのにも気付かず、途端に目を輝かせていたのが明々白々で――手も足も伸びて、胸も一人前に膨らんできた今の十四歳のアスカの、そんなところにも。
「ちょっとわざとらしかった気もするけれど」
 んー、とユイは首を傾げ、頬に手を当てる。
「でも、余計なことに気が回るぐらいなら、最初からあんなに浮かれたりはしないわよね。可愛らしいったらないんだから」
 そして、何歳になっても若々しい碇家の人妻は、音を立てて洗濯機が動き始めた脱衣所の中で、エプロンからスマートフォンを取り出したのだった。

「キョウコ? 今は大丈夫かしら?」
 すぐに通話が繋がったその相手は、他ならぬアスカの母親。
「え? 最優先事項だから電話の前で待機してた? いやだ、全裸で――って、今のあなたが言うと冗談になってないわよ。鼻息が荒いの、聞こえてきすぎだと思うんだけど」
 ミーム化した定型表現にすぎないが、あながち冗談に収まっていなくても驚きはないかなとさえ思ってしまう。
 学生時代以来の親友の、電話口からだけでも伝わってくる興奮ぶりはそれほどだったし。それほどに、待っていたとまず彼女が捲し立ててきた内容が酷かったのだ。
 ユイは軽く仰け反っていた。
「――ええぇ? 下着を、着けてなかった? 着けずにそのまま家を出てったって……勝負下着とかですらなくて、スカートの下も? あの子もずいぶん一足飛びにと言うか、大胆なのね……」
 少し前に碇家に向かった自分の娘は、鏡の前で下着のコーディネイトに随分悩んでいた様子だったが、結局は何も着けないままを決心して、そのまま素肌に直接制服を着込んで出掛けていった。あれこれ着けては試すのに貴重な朝の時間を費やし、何を想像してか一人で身をくねらせ煩悶していたのだ――と、微に入り細を穿ってで聞かせてくる。
「ゆっくり時間掛けてられない前提でって、そりゃそうでしょうけど。合理性で考えるところかしら。悩み過ぎで時間切れになって、変な方向に思い切っちゃったんじゃ。……え? がっついてるだけ? ちょっと、娘に対して言う言葉じゃないわよ、それ」
 音声だけの彼女は向こうで今きっと間違いなく、いやらしく貌を緩ませきった、人前に晒せない類の残念美人に成り果てている筈だ。
「そういえばなんだか顔が赤いままだったし、落ち着きの悪そうにしていたあれはそういうことだったの……」
 しかし疑う訳ではないが、それが本当なら先程のユイが素直な意味でも微笑ましさを感じていたアスカの姿も、随分と台無しになってくるというべきか。
 悪趣味さを自覚する部分でもって、その意味で“微笑ましい”と受け取っていた側面こそが妥当な見方だったことになる。
「……ああ、そういうことね。とてもじゃないけど落ち着いてなんかいられない気分だったから、余計に手元も覚束ないというか、注意していないとこぼしちゃいそうになっていたわけね」
 ともすれば手が震えだしそうなくらいになっていたのだなと。そう合点がいったユイは、親友の見立ての方が正しかったと認めて、あらためて愉快な気分になったのだった。
「オーケイ、分かったわ。さすが母親ね、よく見てるわ。……それにしても貴女、随分と具体的に把握してるみたいだけど、まさかずっと覗いていたの? 自分の支度もしないで、娘の部屋を?」
 ユイと同じで大学の研究職にある彼女も、能力そのものは実に優秀なのにと。
 しかしそうやって肩を竦めるように言ってみせれば、何を他人事みたいにと向こうこそが呆れて返してくる。
 普段よりも少しトーンが高く聞こえる電話越しの声が、笑ってユイを促すのだ。
 ――だからこそ、連絡が来るのを待っていた。可愛い我が子の、首尾や如何に?
 そうあけすけに聞いてくるこの母親が、実に酷い。
「ええ、ええ、察しの通りよ」
 ユイも負けず劣らずの酷い笑顔をにんまりと浮かべ、趣味の合う親友に向かって報告したのだった。
「お宅のがっついてる娘さんときたら、ムッツリ顔してその実手ぐすね引いてるうちの旦那のところに、ほいほいと今朝も今し方、自分から飛び込んで行ったところ」
 声を潜めながら脱衣所から出て、そうっとリビングとの間の引き戸に隙間を作ってみる。
「――うん、ベランダに出たままね。こっちから見える範囲に居ないから……」
 灰皿が置いてあるのは、直接リビングに面した場所、真正面に置かれたガーデンテーブルの上。
 つまりユイの夫もアスカもそこに居ないのなら、部屋の中から視線の届かない死角へと、二人して移動したことになる。

「と、良いところだけど……。ちょっと待っててね、キョウコ」
 どたどたと焦って廊下をやって来る足音が聞こえていたのだ。
 通話状態をそのままで、するっとポケットにスマートフォンを戻し、澄まし顔でキッチンまで引き返す。
「母さん、おはよう!」
「おはよう、シンジ。もうちょっと落ち着いて支度できるように早起きしたらどうなの?」
 ばたつきながら急ぎ足に入ってきた息子が、そのまま洗面台へとダイニングを横切っていく。
「母さんお弁当の方で手一杯だから、パンは自分で焼きなさいね……!」
 少し頬を膨らませた風にして大きな声で言うのが、小細工の見せ所である。
 間違いなく、ベランダの方にも聞こえたことだろう。
 そして身支度と朝食のことで頭がいっぱいになっている息子ときたら、先にダイニングに向かった筈の幼馴染の姿が見えないことを、気にもしていないのだ。
 父親も同じくで、ダイニングテーブルの定位置に着いてはいない。そこで新聞を読んでいないのなら、ああそうか、ベランダでタバコ吸ってるんだなと。幼馴染の少女も居ないのなら、そっちの方かなと。
 まるっきり日常風景として慣れきってしまっていて、何の疑問も浮かんでこないのだろう。
「それはそうよねぇ」
 それは間違いなく、長く続いていたユイの一家の、引いては碇シンジにとっての日常だったのだから。
「こんなことになっても悲しむより怒るより面白がっちゃって。後押しするみたいにあれこれお膳立てして、わくわくしてる。そんな私達の方が、おかしいんでしょうし」
 キツめの調子で脅すように息子に言っておいて、そのくせ弁当の準備を進めるでもなくリビングに移動したユイは、スマートフォンに何か表示させている風を装い、同意を求めるのだった。
「でも、努めて出来るだけ客観的に――公平に見てみても、あの子に対してだけなら100%のギルティって言うより、半分半分ぐらいよね? 危機感無かったのが悪いんだし、あそこまで健気にして貰ってちゃんと報いてあげないのも悪いんだし」
 私だけの責任じゃないわよねと、とぼけてみせる。
 直接耳に当てていないことで幾らか聞き取り辛くはなっている友人の声が、そこはちゃんと茶番に応じてやって、返すのである。
 曰く、娘の母親としては不憫でもあったし、一理あるわねと。
 曰く、自分の悪友がすっかり夢中になって、学生結婚するまで行ってしまった相手だから無理も無いのかもしれない。きっとフェロモン的な何かを出してるのだ、そのせいに違いないと。
 曰く、寧ろ息子さんに対して申し訳ないぐらいの気持ちもある、こうなっては母親の自分が代わって罪滅ぼしをするしかない――。
「それよ」
 指でも鳴らしそうに機嫌良く、ユイは深く頷いた。
「もちろん私にだって罪悪感はあるんだから。ひどいお母さんでごめんねシンジ、って」
 幼馴染の女の子が道ならぬ熱情に溺れていくのを止めてあげることが出来なくて、ごめんなさい。私も悲しいの。シンジが辛い思いをしたのだって、よく分かるわ――。
 様々な方面で能力を発揮してきた才女でもあるユイが、情感たっぷりで空々しく嘆いてみせたそれ。通話越しに聞いているだけで、まざまざと目に浮かんできたのだろう。長年の友がそこは流石、一言で切ってみせる。
「えぇ? 私に役者の才能は無い? だから無理? あの子のことは貴女に任せろですって? えぇぇ〜!?」

 振り返って引き戸越しにダイニングの様子を窺ってみると、息子がトースターでパンを焼き始めたらしい物音が聞こえていた。
 味噌汁を仕上げてやらねばならない頃合いだ。
 反対方向をまた振り返ってみれば、朝陽が差し込むガラス戸の向こうで、押し殺した艶めかしい呻きが上がりだしたとも聞こえる、そんな錯覚かもしれない微かな気配があった。
「続きはまた後でになるわね。切らないままマイク感度全開でここに置いていくから、面白いものが聞こえたら教えて頂戴ね」
 不服そうに何事か訴えてくるそれを、ソファーにさりげなくクッションの影になる形で残して。
 キッチンに戻ろうとしたユイは、そこでふと気付いたように独りごちてみせた。
「アスカちゃんの意気込み、少し真似させて貰うのも――悪くなさそうよね」
 短く考える間に唇に添えられていた白魚のような指が、胸元に下りる。
 内側から柔らかくブラウスが押し上げられているそこで、好んで選んでいる薄桃色をした生地を留めるボタンを、上から一つ、二つ。
 ぷつぷつと指先で外したのを、首を俯けさせて真上から覗き込む。
 女として油断していたわけではないが、とことん選びぬいた挙げ句にノーブラでと暴挙に打って出たアスカの気持ちも、分からないでもない。そういうため息がこぼれた。
(……質素なデザインは、つまりは別の側面として清楚なデザインでもあるというのも、事実には違いないのだし)
 この先の課題ねと諦めて、ユイはキッチンに戻ることにしたのだった。
(気付いた時のあの子の反応の方が楽しみだわ)
 うっかりしていたのだろう。それぐらいの解釈がぎりぎり成り立つところまで無防備にした、母親の胸の谷間である。
 近くの位置まで来れば簡単にブラウスとの隙間を覗き込めてしまえるぐらいで、薄衣越しのバストの形がおおよそまで見て取れるだろうと確かめてある。
 家族として水着姿ぐらいは何度か見ているわけだが、水着と下着とでは意味が同じではあるまい。
 なにしろ年頃なのだから。
 中学二年という季節を迎えた、思春期の男の子なのだから。
 その時、ユイの息子は思い知らずにはいられないのだ。母親とはつまり、一番身近な異性であることを。
 幼馴染の少女よりももっと身近で、もっと包容力に溢れた――魅力的な女性であることを。
 すぐ手に届くそこに、いつだって居ることを。
「私を責めたりはしないわよね、アスカちゃん」
 ダイニングとの間の引き戸に手を掛けたところで、ユイは夫と少女が二人で居るのだろうあたりを肩越しに見やった。
「わたしも、貴女を責めたりなんかしないのだし」
 笑いかけるように、そう呟いたのだった。





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